姫路城3年半ぶり雄姿「大修理」終え囲い外れる

姫路城3年半ぶり雄姿「大修理」終え囲い外れる

 世界遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守最上層が、改装工事のための囲いが外され、約3年半ぶりに姿を現した。別名「白鷺城」とも呼ばれる白い外壁が、生まれ変わった美しい姿を見せた。市によると、2009年10月から「平成の大修理」に着工し、13年11月に終了。現在は囲いを解体する作業を進めている。8月ごろには大天守全体がほぼ見えるようになる見通し。内部の公開は15年3月27日から。

石川県白山市でワニに似た爬虫類の化石発見

石川県白山市でワニに似た爬虫類の化石発見

 石川県白山市教育委員会は4月24日、白亜紀前期にあたる約1億3000万年前の市内の地層から、ワニのような姿をした爬虫類「ネオコリストデラ類」の口先部分の化石3点が見つかったと発表した。調査団によると、ネオコリストデラ類の化石の発見は国内初で、世界では7例目。2002年と10年に、石川や岐阜など4県にまたがる「手取層群」と呼ばれる地層で発掘した。3つの化石は上顎や下顎に当たる部分で、長さ18~50㍉、幅約10㍉、厚さ5~20㍉。歯並びの特徴などから体長1~2㍍のネオコリストデラ類と考えられるという。

シェークスピア生誕450年 英の故郷で祝賀祭

シェークスピア生誕450年 英の故郷で祝賀祭

 英国の劇作家、ウィリアム・シェークスピアが4月23日、生誕450周年を迎えた。故郷のストラトフォード・アポン・エイボンでは同日夜、祝賀の花火が打ち上げられ、週末には町を挙げて祝賀祭が盛大に開かれる。「ハムレット」「マクベス」など数々の名作を残したシェークスピアは1564年生まれ。正確な日は不明だが、伝統的に洗礼の数日前にあたる4月23日が誕生日とされる。

 

知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

 修理事業関係者によると、約100年ぶりに大規模修理されている浄土宗総本山知恩院(京都市東山区)の国宝「御影堂」の内陣天井を飾る天蓋が、彫金技術などから、御影堂が再建された寛永年間(1624~44年)の製作と判明した。天蓋は本体が約3㍍四方、高さ約1.5㍍。木製で、メッキと彫金が施された銅板で装飾されている。

 銅版に施された文様の繊細さや、文様の間に細かな円を浮き立たせる技術「七魚子(ななこ)」の精緻さ、再建時の作とされる厨子(ずし)「宮殿」の金工とも様式が似ていることから、寛永年間の製作と特定した。御影堂は1604年に建立、焼失を経て、39年に再建された。

鳳凰堂の翼廊の屋根飾り「露盤宝珠」も平安期の製作か

鳳凰堂の翼廊の屋根飾り「露盤宝珠」も平安期の製作か

 京都府宇治市の世界遺産、平等院は4月19日、国宝の鳳凰堂左右にある翼廊の屋根飾り「露盤宝珠(ろばんほうじゅ)」が平安時代に作られた可能性があるとの調査結果を発表した。平等院によると、露盤宝珠は翼廊の屋根に、それぞれ取り付けられ、重さは140㌔と150㌔。高さはいずれも105㌢で、6つの部材からなり、大部分が青銅製。

 平成の修理のため2013年11月に取り外され、蛍光エックス線で成分調査したところ、銀とアンモニアの割合が平安時代の作とされる鳳凰像と共通していたことから、露盤宝珠の製作も同時期だった可能性があるという。

東日本大震災の被災旧家から戊辰戦争の文書見つかる

東日本大震災の被災旧家から戊辰戦争の文書見つかる

 戊辰戦争(1868~69年)の際、仙台藩の村人が旧幕府勢力に宿や食料を提供したと記した文書が、東日本大震災の津波で浸水した宮城県石巻市長面地区の旧家から見つかったことが4月17日、分かった。解読した宮城学院女子大の平川新学長は、地域の村々が戊辰戦争にどう関わっていたのかを示す貴重な史料-と話している。

 文書は仙台藩にあった尾崎浜(現石巻市)の代表者が残していた。子孫が住んでいた旧家は津波で1階が浸水したが、文書は神棚に保管されていて無事だった。表紙に「徳川様御人数旅宿御賄諸事入料並金代請払手控帳」とあり、1868年の記録だった。明治新政府への降伏を決めた仙台藩と交渉するため、尾崎浜にきた旧幕府勢力に、村人が宿や食料を提供したとみられ、米のほか、サケや豆腐、酒などが記されていた。

暗殺直前の龍馬直筆の手紙の草稿見つかる

暗殺直前の龍馬直筆の手紙の草稿見つかる
 高知県立坂本龍馬記念館(高知市)によると、幕末に坂本龍馬が暗殺される直前に、土佐藩の重臣、後藤象二郎へ宛てた直筆の手紙の草稿が見つかったことが4月7日、分かった。同館の学芸員ら龍馬研究者が筆跡から直筆と判断した。大政奉還後の新政府の財政担当者として推薦した越前・福井藩士、三岡八郎(後の由利公正)に会ったことを報告する内容で、日付がないことから草稿とみられる。
 同館によると、龍馬は慶応3年(1867年)10月24~11月5日の旅行で福井藩士の三岡八郎を訪ね、意見交換し、財政能力の確かさを確認。わずか10日後の11月15日、京都で暗殺された。由利公正と名を改めた三岡は、明治天皇が新政府の基本姿勢を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画したことで知られている。

 

教育勅語の原本を50年ぶり確認 傷み激しく修復へ

教育勅語の原本を50年ぶり確認 傷み激しく修復へ
 文部科学省は4月8日、明治天皇が1890年に発布し、戦前の道徳教育の根本理念とされた「教育勅語」の原本を約50年ぶりに確認したと発表した。歴史的価値がある公文書として明治時代などの他の公文書と共に、近く国立公文書館(東京都千代田区)に移管する。傷みが激しいため修復され、公開される見通し。原本は4㌻の冊子。旧文部省で保管していたが、1923年の関東大震災で庁舎が全焼し、金庫内にあった原本も全体が黒く変色した。
 教育勅語の正式名は「教育ニ関スル勅語」で、父母への孝行や夫婦の和など12の徳目を記している。各地の小学校などに謄本がくばられ、その後の軍国主義教育に使われた。1948年に衆参両院が「排除」「失効」を決議した。

西殿塚古墳に石積み方形壇 大王墓の解明の手掛かりに

西殿塚古墳に石積み方形壇 大王墓の解明の手掛かりに
 宮内庁によると、卑弥呼の後継者、台与(壱与とも)の墓説があり、宮内庁が陵墓として管理する奈良県天理市の西殿塚古墳(3世紀後半~4世紀初め、前方後円墳)の前方部頂上に巨大な石積みの方形壇が築かれていたことが4月8日、分かった。2012年に盗掘され宮内庁書陵部が調べていた。書陵部によると、西殿塚古墳前方部の方形壇は一辺22㍍、高さ2.2㍍。中央部が東西2㍍、南北1㍍にわたって盗掘され、墳丘を覆う葺き石と似たこぶし大から人頭大の石が大量に見つかった。さらに下にも石が続いており、壇全体が石積みだった可能性が高いという。
 西殿塚古墳は全長230㍍。宮内庁は6世紀の継体天皇の皇后、手白香皇女の墓に指定しているが、研究者の間では箸墓古墳の次に造られた大王墓と推測されている。

与謝野晶子の未発表短歌か 親交の画家の屏風から発見

与謝野晶子の未発表短歌か 親交の画家の屏風から発見
 歌人、与謝野晶子の未発表とみられる直筆の短歌1首が、親交があった岡山県出身の画家、徳永仁臣の孫が所蔵する屏風から見つかった。岡山県立美術館から調査を依頼された就実短大の加藤美奈子准教授が明らかにした。短歌は屏風に貼られた短冊に書かれ、「車して神通川の大橋を昨日今日こえさてのちはいつ」と記されている。移り住んだ富山県で入院していた徳永を、1933年に与謝野鉄幹、晶子夫妻が見舞ったときの様子を詠んだものとみられる。
 屏風には与謝野夫妻が徳永に贈った短歌10首の色紙や短冊が貼られていたが、この1首は晶子の全集などに掲載されておらず、未発表の可能性が高いという。

狩野山楽のふすま絵「四季耕作図」が大覚寺に帰郷

狩野山楽のふすま絵「四季耕作図」が大覚寺に帰郷
 桃山~江戸時代初期に活躍した絵師・狩野山楽の作とされるふすま絵「四季耕作図」(米ミネアポリス美術館所蔵)のデジタル複製が4月3日、京都市右京区の大覚寺に奉納され、報道陣に公開された。田植えや稲刈りなど農耕の風景が、繊細な筆遣いで四季ごとに4面ずつ計16面(1面縦約78~177㌢、横約84~92㌢)描かれている。
 NPO法人京都文化協会によると、四季耕作図は元々、大覚寺が所蔵しており、1755年に寺外の絵師に譲られた。その後、経緯は不明だが海を渡り、1980年ミネアポリス美術館が購入。複製ながら約260年ぶりに「帰郷」した。キヤノンと京都文化協会が「文化財未来継承プロジェクト」の一環として作製した。高精細デジタルカメラで撮影し、特殊な和紙に印刷、京都の職人がつくったふすまに仕上げた。

2013年度「天空の城」竹田城跡に50万人で過去最高に

2013年度「天空の城」竹田城跡に50万人で過去最高に
 兵庫県朝来市によると、「天空の城」として知られる国史跡・竹田城跡(兵庫県朝来市)を2013年度に訪れた観光客が、過去最高の50万7589人に上ったことが分かった。前年度は23万7638人で、入場者数は2倍以上となった。竹田城跡の入場者は05年度に約1万2000人を記録して以降、ほぼ増加を続けている。06年に「日本100名城」に選ばれたことで注目され、近年は映画のロケ地になったことや、雲海に包まれる姿がメディアで取り上げられ、爆発的な人気となった。

イタリアでゴーギャンの作品 44年ぶりに発見

イタリアでゴーギャンの作品 44年ぶりに発見
 英国放送協会(BBC)などによると、イタリア警察は4月2日、フランスの画家ゴーギャンとボナールの絵画を約44年ぶりにシチリア島で発見したと発表した。工場従業員が台所に約40年間、飾っていた。少なくとも計1060万ユーロ(約15億円)の価値があるという。
 絵画は1970年にロンドンの収集家の自宅から盗まれ、イタリアの列車内に放置された75年に行われた国鉄の落し物の競売で、イタリア自動車メーカーの従業員が当時、現在の貨幣価値で23ユーロ(約3000円)相当の金額で落札したという。絵画は従業員が退職してシチリア島に持ち出すまでは、イタリア北部トリノの自宅に掛けられていた。息子が他のゴーギャン作品に似ていることに気付き、専門家に相談。警察が盗品と確認した
 静物を描いたゴーギャンの絵画は1000万~3000万ユーロの価値があると推定されている。

「氷点」執筆の舞台裏 三浦綾子さんの夫が日記公開へ

「氷点」執筆の舞台裏 三浦綾子さんの夫が日記公開へ
 作家の三浦綾子さん(1921~99年)が代表作「氷点」を執筆する様子を、夫の光世さん(89)が記録した日記が4月下旬から、北海道旭川市にある三浦綾子記念文学館で初めて公開される。日記の一部は4月21日付発売の三浦綾子さんのエッセー集「ごめんなさいといえる」(小学館)にも収録される。氷点の題名を光世さんが発案し、綾子さんが「素晴らしい題です。さすがはあなたです」と褒めるエピソードや、綾子さんが風邪を押して執筆に取り組む様子が温かい視線で綴られている。

 

「天空の城」竹田城跡の石垣修復 現代の名工が指揮

「天空の城」竹田城跡の石垣修復 現代の名工が指揮
 雲海に包まれる姿が「天空の城」と人気の国史跡・竹田城跡(兵庫県朝来市)で石垣の修復がほぼ終了した。現場で指揮を執ったのは「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる戦国時代から続く石工集団の流れを受け継ぎ、「現代の名工」のも選ばれた粟田純司さん(73)だ。穴太衆は比叡山延暦寺の門前町、大津市坂本付近に住んでいた石工集団で、織田信長の安土城をはじめ全国の城郭の工事に携わったとされる。
 粟田さんはこの石工集団の技術を代々受け継ぐ家に生まれ、石積みの技術者で人間国宝だった父、万喜三さんから技を継承した。穴太衆積みは各地に残る城跡の8割以上に使われ、「築石(つみいし)」と呼ばれる表面に見える大きな石の裏側に、直径5㌢前後の「栗石(ぐりいし)」を敷き詰める。これによって、堅固な城郭ができ上がるというわけだ。

「天正遣欧少年使節」伊東マンショの肖像画発見

「天正遣欧少年使節」伊東マンショの肖像画発見
 九州のキリシタン大名が16世紀後半にローマに派遣した「天正遣欧少年使節」を務めた伊東マンショのものとみられる肖像画が、イタリアで見つかった。調査にあたった北部ミラノのトリブルツィオ財団の担当者がこのほど、財団の学術誌に論文を発表した。肖像画は北部在住の同財団関係者が所有。絵の裏面には「Mansio」などと記されている。調査や鑑定の結果、1585年にマンショら遣欧使節が北部ベネチアを訪れた際、ルネサンス期のイタリア画家ティントレットの息子、ドメニコ・ティントレットが描いたものと判断した。
 肖像画のマンショは着物姿ではなく、スペイン風の衣装を着用している。天正遣欧使節は伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの少年4人で、日本でのキリスト教布教の支援を得るために派遣された。85年3月、当時のローマ法王グレゴリウス13世に謁見し、90年に帰国した。

ダチョウ似の新種の恐竜の化石 米6600万年前

ダチョウ似の新種の恐竜の化石 米6600万年前
 米カーネギー自然史博物館などの研究チームは3月20日、米中西部の約6600万年前(白亜紀末期)の地層から、ダチョウをひと回り大きくしたサイズの恐竜の化石が見つかり、新属新種に分類したと米科学誌プロスワンに発表した。化石はノースダコタ、サウスダコタ両州で計3体分見つかった。体長は3.5㍍、体重は200~300㌔あったと推定される。頭の上部が薄い円盤状になっており、異性などにアピールする飾りだった可能性がある。前脚には大きな鋭い爪があり、尾が長い。骨格化石しか見つかっていないが、近縁種には羽毛があることから、羽毛が生えていたとみられる。これまで中国やモンゴルで化石が見つかっている「オビラプトル」類に近いという。
 ダチョウのような飛べない鳥に似た姿だったとみられ、学名は古代メソポタミア神話の怪鳥「アンズー」にちなんで「アンズー・ワイリエイ」と名付けられた。

建仁寺の「蘭渓道隆坐像」の像内から鎌倉時代の彫刻

建仁寺の「蘭渓道隆坐像」の像内から鎌倉時代の彫刻
 東京国立博物館によると、京都市東山区の建仁寺塔頭(たっちゅう)の西来院が所蔵する江戸時代前期の彫刻「蘭渓道隆坐像」の像内から、鎌倉時代に作られたと推定される古い蘭渓道隆像の頭部の一部が見つかったことが分かった。同館によると、造像当初から建仁寺にあった可能性が高いとみられる。建仁寺は応仁の乱などで何度も火災に遭い、鎌倉時代から同寺にある彫刻は失われたと考えられていたという。
 今回見つかった頭部は頬がそげ、口角が上がっている顔の特徴が、蘭渓道隆の存命中に描かれた肖像画などに似ており、同館は鎌倉時代に作られた頭部と推定した。西来院の像は、同館で3月25日から開かれる特別展「栄西と建仁寺」で展示。頭部は像内にあり、取り出せないため写真パネルで紹介する。
 蘭渓道隆は南宋出身の渡来僧。神奈川県鎌倉市の建長寺の開山で、後に建仁寺の住職を務めた。建仁寺は、日本に臨済宗を広めた栄西が1202年に開いた京都最古の禅寺。

「東寺百合文書」記憶遺産に推薦 政府15年登録目指す

「東寺百合文書」記憶遺産に推薦 政府15年登録目指す
 政府は2015年の記憶遺産登録を目指し、京都市の東寺に伝わる国宝「東寺百合文書」の推薦書をユネスコに提出したことを明らかにした。東寺百合文書は、奈良から江戸時代にかけての約2万5000点に及ぶ寺院運営に関する古文書で、各時代の状況を伝える貴重な資料。足利義満の直筆や織田信長の「天下布武」の印が入った文書などを含む。1997年に国宝に指定された。

京都府南部11カ寺が「京都南山城古寺の会」立ち上げ

京都府南部11カ寺が「京都南山城古寺の会」立ち上げ
 京都の中心部と奈良の二大観光地の影に隠れがちな京都府南部の11カ寺が3月25日、仏像や建造物などを共同でPRするため「京都南山城(みなみやましろ)古寺の会」を立ち上げた。浄瑠璃寺、酬恩庵(一休寺)、海住山寺、観音寺、蟹満寺(かにまんじ)など6~13世紀に創建された古刹で構成。浄瑠璃寺の九体阿弥陀如来坐像など、約40件の国宝・重要文化財を抱えている。

高松塚壁画,古墳に戻さず 石室復元を事実上断念

高松塚壁画,古墳に戻さず 石室復元を事実上断念
 文化庁は3月27日、奈良県明日香村の高松塚古墳(国特別史跡)の壁画保存問題で、国宝の極彩色壁画について、2017年度までかかる見通しの修理が終了した後も、当分の間は墳丘に戻さず、古墳の外で保存・公開するとの方針を決めた。保存する場所や方法などは、4月以降に検討する。
 壁画は07年に石室を解体して搬出し、古墳近くで修理中。同庁は従来、かびなどの影響を受けない環境を確保して現地に戻す方針だったが、現在の科学技術では困難と判断。復元を事実上断念することになったもの。ただ、遺跡の現地保存の原則は堅持する考えを強調している。

没後450年 三好長慶の座像建立へ 脱「悪役」イメージ

没後450年 三好長慶の座像建立へ 脱「悪役」イメージ
 大阪府堺市のまちづくり団体「堺・ちくちく会」は戦国武将、三好長慶(1522~64年)の初の座像建立計画を進めている。没後450年にあたる今年7月にゆかりの南宗寺(堺市堺区)に建てたい意向だ。
 三好長慶は織田信長に先立ち、戦国時代に京都と大阪、四国東部の9カ国(阿波、讃岐、淡路、摂津、和泉、河内、丹波、山城、大和)を支配。一時は足利将軍家を京都から追放し、約15年間、実質的に中央政権を担った武将だ。連歌にも堪能で品格のあった人物だが、将軍を一時追放したことに加え、長慶の没後、後を継いだ三好一族らが、十三代将軍・足利義輝を殺害したことで、”下克上”の代表格とされ、「悪役」イメージがある。このため、堺・ちくちく会では、少しずつ長慶の悪役イメージを変えていきたいとしている。
 だが、没後450年を迎え長慶が統治した大阪(堺市、高槻市)、四国東部(徳島県)などで彼の事績、功績や人物像の見直し機運が高まっている。一般に戦国時代から既成秩序の破壊、否定などの面で織田信長がその代表と目されているが、実は信長に先んじて先見性のあったのが長慶と捉える見方が、いま大きく浮上している。
 長慶が初めて足利将軍家を擁立せずに、自分の力で京都、すなわち首都を支配。天皇も足利将軍家を通さず、長慶と相談し元号を変えている。堺の掌握にみられる都市・流通政策の重視やキリスト教の保護、茶の湯を含めて、信長が推進したことの原型を長慶がやっているのだ。

一茶が妻を気遣う手紙など新資料を公開 記念館

一茶が妻を気遣う手紙など新資料を公開 記念館
 長野県信濃町にある一茶記念館は3月19日、小林一茶(1763~1827年)が妻きくに宛てた手紙と俳句など計44点の新資料が貼られた折り本を報道陣に公開した。手紙は病弱な妻の体調を気遣い、具合が悪くなったときに備えて、自分の出先の連絡先を伝えている。一茶が江戸から故郷に戻り、信濃町を拠点に活動していた1817年か1820年のいずれかに書かれたとみられる。俳句の弟子を訪ねて回っていた一茶が長野市の善光寺から、信濃町柏原の自宅にいる妻に送った。
 折り本「柏原雅集」は信濃町の問屋、中村利貞が明治時代に作成し、新たに見つかった9句を含む俳句や、知人と詠んだ連歌が書かれた和紙を厚紙18㌻に貼り付けてある。見つかった資料は、一茶が33~65歳の作品で、年齢の変化による筆跡の変遷も分かる。

太宰治の中3の日記に未公表の創作メモ見つかる

太宰治の中3の日記に未公表の創作メモ見つかる
 日本近代文学館(東京都目黒区)は3月19日、同館が所蔵する太宰治(1909~48年)の旧制青森中学時代の日記に、全集に収録されていない計18㌻にわたる未公表の記述があることが分かったと発表した。中には創作メモとみられる記載もあるという。未公表の記述は、太宰が旧制青森中学3年だった1926年の正月から1カ月だけ書いた日記に残されていた。
 書かれていたのは、子供ができた「二十七八才」の男が父親と交わす「親の慈愛」についての短い会話や、「或るイゴな人があつた」という書き出しで始まる「イゴイスト」と題された数行の創作など。

瀬戸内海国立公園指定から80周年で記念式典

瀬戸内海国立公園指定から80周年で記念式典
 瀬戸内海国立公園の指定から80周年を迎えた80周年を迎えた3月16日、高松市の屋島や岡山県倉敷市の鷲羽山などで記念式典が開かれ、関係者らが瀬戸内海の魅力をアピールした。同公園は1934年に九州の雲仙や霧島とともに、国内で初の国立公園指定を受けた。式典後、応募者らがこれら景勝地をウォーキングし、様々な場所からの眺望を改めて楽しんだ。

福井で世界最古の鳥の卵殻化石 1億2000万年前

福井で世界最古の鳥の卵殻化石 1億2000万年前
 福井県立大恐竜学研究所は3月18日までに、同県勝山市の恐竜化石発掘現場で見つかった卵殻化石が、鳥類として世界最古となる約1億2000万年前(白亜紀前期)のものだと確認した。鳥類の卵殻化石は欧州やカナダで見つかった約8000万年前のものが世界最古とされていたが、今回見つかったのが約1億2000万年前の地層だったため最古と分かったという。化石は長さ、幅とも最大約3㍉、厚さ約0.4㍉。一部しか見つかっていないため、卵全体の大きさは分からず、鳥の種類なども不明という。

土偶「仮面の女神」を国宝に 文化審議会が答申

土偶「仮面の女神」を国宝に 文化審議会が答申
 文化審議会は3月18日、長野県茅野市で出土し、逆三角形のお面を被ったような姿と丸みを帯びた下半身から「仮面の女神」と呼ばれている縄文時代の土偶を、国宝に指定するよう下村博文文部科学相に答申した。また、浄土宗総本山、知恩院(京都市)にある徳川家康、秀忠の木像など美術工芸品50件を重要文化財にすることも求めた。近く答申通り指定され、美術工芸品の重要文化財は1万573件(うち国宝872件)となる。国宝指定を求めた土偶は高さ34㌢で、2000年に縄文時代のものとしては珍しくほぼ完全な形で出土した。

山車祭りを無形文化遺産に ユネスコに一括提案へ

山車祭りを無形文化遺産に ユネスコに一括提案へ
 文化庁は3月13日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産の候補として、山車や屋台が街を巡る全国18府県32件の祭りを一括提案すると発表した。2015年の政府間委員会で登録を目指す。「京都祇園祭の山鉾行事」(京都)などすでに無形文化遺産に登録されている2件と、「博多祇園山笠行事」(福岡)など30件で構成。近く政府として正式決定し、3月末までにユネスコに申請する。提案名は「山・鉾・屋台行事」。 

関東大震災の地震計の記録紙をウィーンで発見

関東大震災の地震計の記録紙をウィーンで発見
 1923年に発生した関東大震災を、世界にいち早く知らせたとされるウィーンのオーストリア気象庁に、当時の地震計の記録紙が残っていることが3月10日、分かった。内閣府の資料によると、関東大震災は23年9月1日午前11時58分に発生。地震の規模はマグニチュード(M)7.9と推定され、約10万5000人が死亡した。
 オーストリア気象庁には、地震発生から約12分後(オーストリア時間同日午前4時10分すぎ)に地震の初期微動(P波)が到達して地震計の針が揺れ始め、その後主要動のS波も記録されるなど、振幅の大きな波形が続いている。同気象庁は2011年3月11日の東日本大震災でも、地震発生から約12分後に地震波を観測している。

幕末につくられた「武者すごろく」の版木見つかる

幕末につくられた「武者すごろく」の版木見つかる
 江戸時代末期に仙台でつくられたとみられるすごろくの版木が見つかった。武者22人が並ぶ「武者すごろく」と、東海道を旅する「道中名所すごろく」を1枚の版木の表と裏に彫っている。保存状態は良く、鮮明に紙を刷り出すことができるという。版木は山桜でつくられ、縦29㌢、横46㌢、厚さ2.5㌢。「仙台国分寺十九軒 菅原屋安兵衛」と幕末の出版業者の名が刻まれている。

隕石衝突で硫酸の海 白亜紀末の生物絶滅に新説

隕石衝突で硫酸の海 白亜紀末の生物絶滅に新説
 千葉工業大学の大野宗祐上席研究員らは、白亜紀末の6500万年前に恐竜など生物の約6割が絶滅したのは巨大隕石の衝突で硫酸の海が生じたためとする新説をまとめた。衝突後の地球岩石を使って再現した実験で突き止めた。地球規模で起きた大絶滅をうまく説明できるという。英科学誌ネイチャー・ジオサイエンス(電子版)に3月10日発表する。
 白亜紀末、恐竜や空を飛ぶ翼竜など陸上の多くの生物だけでなく、海の大型爬虫類やアンモナイト、プランクトンの多くが死に絶えた。直径約10㌔㍍の隕石が今のメキシコのユカタン半島に衝突し、巻き上がった土やほこりが地球を襲って太陽光を遮り、寒冷化したためとする説が有力視されている。
 研究チームは大阪大学の施設を使い、隕石に見立てた金属片をレーザーで秒速20㌔㍍に加速してユカタン半島と同じ硫黄の多い成分でできた岩板にぶつけた。衝突の衝撃で高温になった岩板から多くの成分が蒸発。そのガスを調べたところ、大部分が硫酸だった。硫酸ガスは地球を覆い、酸性雨となってあらゆる場所に降り注いだ。衝突後1~3年は海の浅い部分が硫酸まみれになってプランクトンが死滅。食物連鎖が崩れたことが大型生物の絶滅につながったとみている。

「磐余池」の堤はL字形に屈曲 日本書紀ゆかりの遺跡

「磐余池」の堤はL字形に屈曲 日本書紀ゆかりの遺跡
 奈良県橿原市教育委員会は3月7日、日本書紀などに登場する「磐余池(いわれいけ)」との見方が強い同市のダム式ため池跡、東池尻・池之内遺跡(6世紀)で、水をためるために築いた堤の一部が、L字形に曲がっていたと発表した。同市教委は「堤の外に何かの施設があり、それをよけて堤を曲げた可能性もある」とみている。磐余池については、日本書紀などに聖徳太子の父、用明天皇らが近辺に宮殿を置いたなどの記録がある。

古墳時代の機織り姿 栃木で埴輪2体出土 全国初

古墳時代の機織り姿 栃木で埴輪2体出土 全国初
 栃木県下野市教育委員会は3月5日、同市国分寺の6世紀後半の甲塚(かぶとづか)古墳で、機(はた)織りをしている女性の埴輪2体が見つかったと発表した。機織り姿の埴輪の出土は全国初。埴輪は弥生-古墳時代後期に一般的だった古いタイプの原始機(げんしばた)と、結城紬の機織り機の原型とされる台を使うタイプの地機(じばた)の2種類。
 原始機の埴輪は全長約45㌢、幅約30㌢、高さ約54㌢で、女性の両腕の一部が残っていた。地機は布を織る女性の姿も復元され、合わせると高さ約69㌢。2体とも赤、白、灰、黒の4色に彩色されていた。同市教委は、古墳時代の機織り機の構造が分かり、当時の技術水準や織物の歴史を知る手掛かりになるとしている。甲塚古墳は全長約80㍍で、前方部が短い帆立て貝形前方後円墳。

平城宮跡で称徳天皇朝賀の旗ざおの柱穴見つかる

平城宮跡で称徳天皇朝賀の旗ざおの柱穴見つかる
 奈良文化財研究所は3月6日、奈良市の平城宮跡にあり、奈良時代後半に称徳天皇の宮殿だった西宮から、元日朝賀などの国家儀式で使われた旗ざお「〇巾に童〇旗(どうき)」を立てたとみられる7つの柱穴が2列見つかったと発表した。歴史書「続日本紀」によると、西宮では称徳天皇が765年に元日朝賀を、法王の弓削道鏡が769年1月に拝賀を受けている。西宮は奈良時代前半に大極殿があった場所で、復元された大極殿の南側約50㍍で出土。同研究所は「奈良時代後半の国家儀式の様相を明らかにする成果」としている。

滋賀県・水口岡山城の石垣に豊臣・徳川の抗争の跡

滋賀県・水口岡山城の石垣に豊臣・徳川の抗争の跡
 滋賀県甲賀市教育委員会は3月5日、豊臣秀吉の命令で築かれた水口岡山城(甲賀市)の石垣の城下町から見える側を、徳川幕府が徹底的に破壊していたと発表した。同市教委では、豊臣支配の終わりを世間に示す狙いがあったとしている。
 城は丘の上にあり、石垣の高さは8~9㍍と推定。城下町があった南側の発掘現場からは、長さ1㍍を超す石材が出土。威容を示すため意図的に巨石が使われたとみられる。一方、城の北側の石垣は一部が残っていた。水口岡山城は秀吉の重臣が1585年に築城。関ヶ原の戦いで当時の城主が西軍についたため攻められて開城。その後、幕府直轄地となり破壊された。

秀吉が築いた大坂城の石垣 30年ぶり再発掘し公開

秀吉が築いた大坂城の石垣 30年ぶり再発掘し公開
 大阪市教育委員会は3月4日、豊臣秀吉が築いた最初の大坂城を市民に見てもらおうと、1984年に大阪城(大阪市)の地下約7㍍で発見された石垣を30年ぶりに報道陣に公開した。一般公開は7~9日。秀吉の大坂城1615年の大阪夏の陣で炎上、徳川家が再建した。徳川期の石垣は加工された石が主体だが、秀吉のころは自然石を組み合わせた「野面積み」と呼ばれる技法で建てられていた。

歌麿の幻の大作「深川の雪」66年ぶりに見つかる

歌麿の幻の大作「深川の雪」66年ぶりに見つかる
 江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿の晩年の肉筆画で、1948年から所在不明になっていた「深川の雪」が66年ぶりに見つかったと、神奈川県箱根町の岡田美術館が3月2日、発表した。4月4日から6月30日まで同館で公開される。
同館によると、「深川の雪」は「品川の月」「吉原の花」(いずれも米国の美術館所蔵)とともに、歌麿が描いた「雪月花」3部作の一つとして知られている。
 「深川の雪」は歌麿の晩年にあたる1801~04年ごろに描かれたとされ、縦約2㍍、横約3.4㍍の大作。絵の保存状態は良く、東京・深川の料亭で、遊女ら27人が雪見をしたり、火鉢を囲んだりする様子が色鮮やかに描かれている。

「東寺百合文書」国宝の画像を3/3からネットで公開へ

「東寺百合文書」国宝の画像を3/3からネットで公開へ
 国宝「東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)」を所蔵する京都府立総合資料館(京都市)は3月3日以降、約2万5000通に及ぶ全文書の精密なデジタル画像(約8万カット)をインターネットの特設ホームページ(http://hyakugo.kyoto.jp/)で順次公開する。後醍醐天皇、足利義満の直筆文書、織田信長の「天下布武」印が入った文書から庶民の声を書き留めたものまで、奈良時代から江戸初期の約1000年にわたる歴史の息遣いがネットで体感できる。
 「百合文書」は京都市の東寺(教王護国寺)に伝わる史料群。3月中にも国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に推薦される予定。

奈良に春呼ぶ東大寺二月堂で炎の舞”おたいまつ”

奈良に春呼ぶ東大寺二月堂で炎の舞”おたいまつ”
 古都・奈良に春を呼ぶ東大寺二月堂(奈良市)の伝統法会「修二会(しゅにえ)」(お水取り)が3月1日、本行入りした。長さ約6㍍の”おたいまつ”が舞台に現れると、夜空を焦がす炎と舞い落ちる火の粉がつくる勇壮な光景に、参拝者らは思わず大きな歓声を上げた。
  奈良時代から続く法会は今年で1263回目。練行衆と呼ばれる11人の僧が二月堂に籠もり、3月15日未明の満行まで本尊の十一面観音の前で罪を悔い改め、五穀豊穣などを祈る。おたいまつは、夜の勤行のため練行衆の足元を照らす明かり。14日まで毎晩続く。

7世紀前半と判明 難波宮跡で出土の柱を新手法で測定

7世紀前半と判明 難波宮跡で出土の柱を新手法で測定
 大阪府文化財センターは2月24日、大阪市の国史跡、難波宮跡近くで出土した柱材を、年輪のセルロース(繊維素)を分析する年代測定の新たな手法で調べたところ、7世紀前半のものと分かったと発表した。この手法は従来の年輪年代法と違い、すべての樹種に応用できるという。出土遺物の調査に応用したのは初めてで、考古学の進展につながると期待される。
 この手法はセルロースに含まれる酸素同位体、酸素16と酸素18の比が夏季の降雨量によって毎年異なる点に着目。年輪ごとに同位体の比率を測り、変動パターンを解析して「物差し」を作成し、出土した木材に当てはめて年代を測定する。開発した総合地球環境学研究所の中塚武教授によると、弥生時代から現代までの「物差し」を作成済みという。

 

初代大坂城の「豊臣石垣」公開施設の完成予想図公表

初代大坂城の「豊臣石垣」公開施設の完成予想図公表
 大阪市経済戦略局は2月21日、豊臣秀吉が築いた初代大坂城の「豊臣石垣」公開施設の完成予想図を公表した。公開施設は地上1階地下1階で、地下7㍍の地中に眠る石垣を展示。初代大坂城の映像も投射し、当時の様子を再現する。大坂夏の陣から400年の2015年に工事に着手し、16年中の完成を目指す。
 初代大坂城は大坂夏の陣で炎上。石垣部分は徳川二代将軍秀忠が「徳川の大坂城」を築城する際、盛り土で埋められたが、1984年に水道工事で偶然発見された。昨年から本格的な遺構調査実施していた。

天武・持統天皇陵を考古学者ら15研究者団体が調査

天武・持統天皇陵を考古学者ら15研究者団体が調査
 宮内庁が天武・持統両天皇の合葬陵として管理する奈良県明日香村の野口王墓古墳(のぐちおうのはかこふん、7世紀後半)を2月21日午後、日本考古学、歴史学の15の研究者団体が立ち入り調査し、墳丘の形状や地表に露出している石材などを観察した。調査には研究者16人が参加。同庁職員に案内されて約1時間半かけて古墳の最下段を回った。
 同古墳は7世紀の天皇陵特有とされる八角形墳。被葬者は両天皇で間違いないとみる研究者が多い。宮内庁は昨年、墳丘を5段構造とする詳細な復元案や、かつての発掘で見つかった石敷きの写真などを公表している。

「俳句・俳諧と芭蕉の世界」世界無形文化遺産登録目指す

「俳句・俳諧と芭蕉の世界」世界無形文化遺産登録目指す
 三重県伊賀市の岡本栄市長は2月14日、同市生まれの俳聖・松尾芭蕉(1644~94年)が芸術性を高めた俳句や俳諧などについて、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界無形文化遺産の登録を目指す方針を表明した。松尾芭蕉生誕370年の今年、文学や精神世界を含めた「俳句・俳諧と芭蕉の世界」として申請の準備に入る。「奥の細道サミット」の全国36の自治体や学術団体に協力を呼び掛ける。

沖縄サキタリ洞遺跡で国内初の旧石器時代の貝器出土

沖縄サキタリ洞遺跡で国内初の旧石器時代の貝器出土
 沖縄県立博物館・美術館(那覇市)は2月15日、同県南城市のサキタリ洞遺跡で約2万年前の地層から国内初となる旧石器時代の貝器(貝の製品)の破片と人骨が出土したと発表した。見つかった貝器は道具や装身具。石器が出土しない沖縄では、日本本土と異なり貝を道具に利用していたことが判明した。
 出土した貝の破片は39点。道具と判明したのは二枚貝のマルスダレガイ科20点、クジャク貝の計23点で、サイズはいずれも2~4㌢程度。装飾品は細長い筒状をしたツノガイ類の破片2点、サイズは1~1.5㌢。ひもを通すビーズ状の装飾品とみられる。残りの破片は用途不明という。

鹿児島・白亜紀後期の地層から大型草食竜の歯の化石

鹿児島・白亜紀後期の地層から大型草食竜の歯の化石
 鹿児島県薩摩川内市教育委員会は2月14日、下甑島(しもこしきじま)の鹿島地区で約8000万年前の白亜紀後期の地層から、大型草食恐竜「竜脚類」の歯の化石1本が見つかったと発表した。白亜紀後期の化石は福島、岩手、熊本各県に続き国内4例目という。縦17㍉、幅5㍉、厚さ5㍉で細長い円柱形。下顎の歯とみられ、葉を噛み切る際に擦られてできたV字状の磨耗面が先端にあり、竜脚類と判断した。全長は10㍍以上と推定される。モンゴルのゴビ砂漠で見つかったネメグトサウルスに近いという。
 竜脚類は長い首と尾を持ち、4本足での歩行が特徴。首と尾を伸ばし帆船のように風を受けて歩いていたと想像される。ジュラ紀後期(約1億5000年前)の温暖な気候に適応して大型化し、最も大きな種は体長35㍍、重さ40㌧。ただ歯はまばらで、葉を噛み切ることに向かず、歯が発達した他の草食恐竜との生存競争に敗れ衰退したとされている。

奈良の東大寺など7寺社で早春の大茶会「珠光茶会」

奈良の東大寺など7寺社で早春の大茶会「珠光茶会」
 奈良市で2月12日、東大寺や春日大社など7寺社を舞台に、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家と遠州流が5日間にわたり茶席を開く大茶会「珠光茶会」が始まった。わび茶の創始者とされる室町時代の茶人、村田珠光の出身地であり、寺社を中心に茶の湯の文化が息づく古都・奈良でオフシーズンの新たな観光行事にしようと市などが主催する初の試み。7寺社のチケットはすでに完売している。

岩倉具視の暗号表、将軍・慶喜の直筆哀訴状など発見

岩倉具視の暗号表、将軍・慶喜の直筆哀訴状など発見
 江戸-明治の本草漢学塾「山本読書室」跡(京都市下京区)の土蔵に、右大臣・岩倉具視が使った暗号表や、最後の徳川十五代将軍・慶喜が官軍に江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状など重要文化財級を含む数万点の史料が、秘蔵されていたことが2月2日、分かった。京都外大の松田清教授(日本洋学史)が約2年半調査、目録を刊行した。重文級は少なくとも数百点で、ほかに菅原道真直筆の可能性が指摘される9世紀の写経もあり、新史実の解明が期待できる一大史料群として注目されそうだ。
 暗号表は紙製で、大小2枚の円盤の周りにそれぞれカタカナが書いてある。直径約10㌢の小さい方の円盤を回して文字を変換するしくみ。東京の岩倉が大阪の大久保利通らと電報や暗号表など最新技術を駆使して交わした秘密通信文61通もあった。慶喜の哀訴状は、時代が江戸から明治へ移った1868年、江戸攻撃が8日後に迫った3月7日に官軍に届けられた。当時、回覧のため筆写されていたが、直筆は初めて。山本読書室は本草学(博物学)の西日本の拠点で、医学や儒学なども教えていた。

「山本読書室」跡から約150年前の最古の日本語新聞も

「山本読書室」跡から約150年前の最古の日本語新聞も
 京都市下京区の本草漢学塾「山本読書室」跡から見つかった新史料の中に、日本語の新聞としては最古の日付とみられる「文久二(1862)年正月元日」と印刷したものがあることが2月3日、分かった。オランダ語で「新聞の写し」というタイトルで、松田清教授が京都外大の紀要にも発表した。
 従来、日本語初の新聞は、江戸幕府の洋学研究機関・蕃所調所(ばんしょしらべしょ)がオランダ語新聞を翻訳し、「文久二年正月」に発行した「官板バタヒヤ新聞」とされていたが、日付が不明だった。今回は日付があることから、日本人が記事を執筆、編集した新聞としては最古とみられる、当時の新聞の形態や記事の内容など、新聞の変遷をうかがう上での貴重な史料となりそうだ。タイトルの右側には、発行日付と場所もオランダ語で「1862年1月1日、ミヤコ(京都)で」と記されていた。
 松田教授は、ロビンソン漂流記の翻訳者として知られる膳所藩(大津市)の蘭学者、黒田麹蘆(1827~92年)が戯名を使い京都で発行したと結論付けた。

 

伊達政宗と戦っていた家臣宛て直江兼続の直筆書状発見

伊達政宗と戦っていた家臣宛て直江兼続の直筆書状発見
 山形大は2月4日、上杉景勝に仕えた直江兼続(1560~1619年)が、関ヶ原の戦い(1600年)を前に、会津地方で伊達政宗軍と戦っていた上杉家の家臣に宛てた書状が見つかったと発表した。写本はあったが、兼続直筆の現物が見つかったのは初めて。書状は山形市内の個人宅に所蔵、山形大の松尾剛次教授(日本中世史)が花押や筆跡から現物であると鑑定した。上杉家の家臣4人に宛てたもので、日付は慶長5年(1600年)7月27日。徳川家康による景勝征伐に合わせて、伊達政宗が旧領地の会津地方を奪還しようと攻撃を強めていた時期にあたる。 
 戦国武将らしい力強い筆致で、伊達軍との戦いで善戦する家臣の頑張りを褒めながら、政宗の動向を知らせるよう指示するなど、知将とうたわれた兼続の一面をうかがわせている。

大津の新知恩院で手のひらサイズの快慶作?の涅槃像

大津の新知恩院で手のひらサイズの快慶作?の涅槃像
 大津市歴史博物館は2月1日、同市の新知恩院で、鎌倉時代の仏師・快慶の作とみられる小型の「木造釈迦涅槃(ねはん)像」(長さ12.8㌢)が見つかったと発表した。同志社大の井上一稔教授(仏教美術史)は、僧が個人的に毎日拝むために作らせたものとみている。同館によると、耳のひだの形や螺髪(らほつ)の配列などに快慶の特徴があった。釈迦の体から発する光を表現するために、目や額に使われることが多い水晶が胸にあるのも珍しいという。