姫路城3年半ぶり雄姿「大修理」終え囲い外れる
世界遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守最上層が、改装工事のための囲いが外され、約3年半ぶりに姿を現した。別名「白鷺城」とも呼ばれる白い外壁が、生まれ変わった美しい姿を見せた。市によると、2009年10月から「平成の大修理」に着工し、13年11月に終了。現在は囲いを解体する作業を進めている。8月ごろには大天守全体がほぼ見えるようになる見通し。内部の公開は15年3月27日から。
知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定
修理事業関係者によると、約100年ぶりに大規模修理されている浄土宗総本山知恩院(京都市東山区)の国宝「御影堂」の内陣天井を飾る天蓋が、彫金技術などから、御影堂が再建された寛永年間(1624~44年)の製作と判明した。天蓋は本体が約3㍍四方、高さ約1.5㍍。木製で、メッキと彫金が施された銅板で装飾されている。
銅版に施された文様の繊細さや、文様の間に細かな円を浮き立たせる技術「七魚子(ななこ)」の精緻さ、再建時の作とされる厨子(ずし)「宮殿」の金工とも様式が似ていることから、寛永年間の製作と特定した。御影堂は1604年に建立、焼失を経て、39年に再建された。
東日本大震災の被災旧家から戊辰戦争の文書見つかる
戊辰戦争(1868~69年)の際、仙台藩の村人が旧幕府勢力に宿や食料を提供したと記した文書が、東日本大震災の津波で浸水した宮城県石巻市長面地区の旧家から見つかったことが4月17日、分かった。解読した宮城学院女子大の平川新学長は、地域の村々が戊辰戦争にどう関わっていたのかを示す貴重な史料-と話している。
文書は仙台藩にあった尾崎浜(現石巻市)の代表者が残していた。子孫が住んでいた旧家は津波で1階が浸水したが、文書は神棚に保管されていて無事だった。表紙に「徳川様御人数旅宿御賄諸事入料並金代請払手控帳」とあり、1868年の記録だった。明治新政府への降伏を決めた仙台藩と交渉するため、尾崎浜にきた旧幕府勢力に、村人が宿や食料を提供したとみられ、米のほか、サケや豆腐、酒などが記されていた。
暗殺直前の龍馬直筆の手紙の草稿見つかる
高知県立坂本龍馬記念館(高知市)によると、幕末に坂本龍馬が暗殺される直前に、土佐藩の重臣、後藤象二郎へ宛てた直筆の手紙の草稿が見つかったことが4月7日、分かった。同館の学芸員ら龍馬研究者が筆跡から直筆と判断した。大政奉還後の新政府の財政担当者として推薦した越前・福井藩士、三岡八郎(後の由利公正)に会ったことを報告する内容で、日付がないことから草稿とみられる。
同館によると、龍馬は慶応3年(1867年)10月24~11月5日の旅行で福井藩士の三岡八郎を訪ね、意見交換し、財政能力の確かさを確認。わずか10日後の11月15日、京都で暗殺された。由利公正と名を改めた三岡は、明治天皇が新政府の基本姿勢を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画したことで知られている。
教育勅語の原本を50年ぶり確認 傷み激しく修復へ
文部科学省は4月8日、明治天皇が1890年に発布し、戦前の道徳教育の根本理念とされた「教育勅語」の原本を約50年ぶりに確認したと発表した。歴史的価値がある公文書として明治時代などの他の公文書と共に、近く国立公文書館(東京都千代田区)に移管する。傷みが激しいため修復され、公開される見通し。原本は4㌻の冊子。旧文部省で保管していたが、1923年の関東大震災で庁舎が全焼し、金庫内にあった原本も全体が黒く変色した。
教育勅語の正式名は「教育ニ関スル勅語」で、父母への孝行や夫婦の和など12の徳目を記している。各地の小学校などに謄本がくばられ、その後の軍国主義教育に使われた。1948年に衆参両院が「排除」「失効」を決議した。
西殿塚古墳に石積み方形壇 大王墓の解明の手掛かりに
宮内庁によると、卑弥呼の後継者、台与(壱与とも)の墓説があり、宮内庁が陵墓として管理する奈良県天理市の西殿塚古墳(3世紀後半~4世紀初め、前方後円墳)の前方部頂上に巨大な石積みの方形壇が築かれていたことが4月8日、分かった。2012年に盗掘され宮内庁書陵部が調べていた。書陵部によると、西殿塚古墳前方部の方形壇は一辺22㍍、高さ2.2㍍。中央部が東西2㍍、南北1㍍にわたって盗掘され、墳丘を覆う葺き石と似たこぶし大から人頭大の石が大量に見つかった。さらに下にも石が続いており、壇全体が石積みだった可能性が高いという。
西殿塚古墳は全長230㍍。宮内庁は6世紀の継体天皇の皇后、手白香皇女の墓に指定しているが、研究者の間では箸墓古墳の次に造られた大王墓と推測されている。
与謝野晶子の未発表短歌か 親交の画家の屏風から発見
歌人、与謝野晶子の未発表とみられる直筆の短歌1首が、親交があった岡山県出身の画家、徳永仁臣の孫が所蔵する屏風から見つかった。岡山県立美術館から調査を依頼された就実短大の加藤美奈子准教授が明らかにした。短歌は屏風に貼られた短冊に書かれ、「車して神通川の大橋を昨日今日こえさてのちはいつ」と記されている。移り住んだ富山県で入院していた徳永を、1933年に与謝野鉄幹、晶子夫妻が見舞ったときの様子を詠んだものとみられる。
屏風には与謝野夫妻が徳永に贈った短歌10首の色紙や短冊が貼られていたが、この1首は晶子の全集などに掲載されておらず、未発表の可能性が高いという。
狩野山楽のふすま絵「四季耕作図」が大覚寺に帰郷
桃山~江戸時代初期に活躍した絵師・狩野山楽の作とされるふすま絵「四季耕作図」(米ミネアポリス美術館所蔵)のデジタル複製が4月3日、京都市右京区の大覚寺に奉納され、報道陣に公開された。田植えや稲刈りなど農耕の風景が、繊細な筆遣いで四季ごとに4面ずつ計16面(1面縦約78~177㌢、横約84~92㌢)描かれている。
NPO法人京都文化協会によると、四季耕作図は元々、大覚寺が所蔵しており、1755年に寺外の絵師に譲られた。その後、経緯は不明だが海を渡り、1980年ミネアポリス美術館が購入。複製ながら約260年ぶりに「帰郷」した。キヤノンと京都文化協会が「文化財未来継承プロジェクト」の一環として作製した。高精細デジタルカメラで撮影し、特殊な和紙に印刷、京都の職人がつくったふすまに仕上げた。
イタリアでゴーギャンの作品 44年ぶりに発見
英国放送協会(BBC)などによると、イタリア警察は4月2日、フランスの画家ゴーギャンとボナールの絵画を約44年ぶりにシチリア島で発見したと発表した。工場従業員が台所に約40年間、飾っていた。少なくとも計1060万ユーロ(約15億円)の価値があるという。
絵画は1970年にロンドンの収集家の自宅から盗まれ、イタリアの列車内に放置された75年に行われた国鉄の落し物の競売で、イタリア自動車メーカーの従業員が当時、現在の貨幣価値で23ユーロ(約3000円)相当の金額で落札したという。絵画は従業員が退職してシチリア島に持ち出すまでは、イタリア北部トリノの自宅に掛けられていた。息子が他のゴーギャン作品に似ていることに気付き、専門家に相談。警察が盗品と確認した
静物を描いたゴーギャンの絵画は1000万~3000万ユーロの価値があると推定されている。
「天空の城」竹田城跡の石垣修復 現代の名工が指揮
雲海に包まれる姿が「天空の城」と人気の国史跡・竹田城跡(兵庫県朝来市)で石垣の修復がほぼ終了した。現場で指揮を執ったのは「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる戦国時代から続く石工集団の流れを受け継ぎ、「現代の名工」のも選ばれた粟田純司さん(73)だ。穴太衆は比叡山延暦寺の門前町、大津市坂本付近に住んでいた石工集団で、織田信長の安土城をはじめ全国の城郭の工事に携わったとされる。
粟田さんはこの石工集団の技術を代々受け継ぐ家に生まれ、石積みの技術者で人間国宝だった父、万喜三さんから技を継承した。穴太衆積みは各地に残る城跡の8割以上に使われ、「築石(つみいし)」と呼ばれる表面に見える大きな石の裏側に、直径5㌢前後の「栗石(ぐりいし)」を敷き詰める。これによって、堅固な城郭ができ上がるというわけだ。
「天正遣欧少年使節」伊東マンショの肖像画発見
九州のキリシタン大名が16世紀後半にローマに派遣した「天正遣欧少年使節」を務めた伊東マンショのものとみられる肖像画が、イタリアで見つかった。調査にあたった北部ミラノのトリブルツィオ財団の担当者がこのほど、財団の学術誌に論文を発表した。肖像画は北部在住の同財団関係者が所有。絵の裏面には「Mansio」などと記されている。調査や鑑定の結果、1585年にマンショら遣欧使節が北部ベネチアを訪れた際、ルネサンス期のイタリア画家ティントレットの息子、ドメニコ・ティントレットが描いたものと判断した。
肖像画のマンショは着物姿ではなく、スペイン風の衣装を着用している。天正遣欧使節は伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの少年4人で、日本でのキリスト教布教の支援を得るために派遣された。85年3月、当時のローマ法王グレゴリウス13世に謁見し、90年に帰国した。
ダチョウ似の新種の恐竜の化石 米6600万年前
米カーネギー自然史博物館などの研究チームは3月20日、米中西部の約6600万年前(白亜紀末期)の地層から、ダチョウをひと回り大きくしたサイズの恐竜の化石が見つかり、新属新種に分類したと米科学誌プロスワンに発表した。化石はノースダコタ、サウスダコタ両州で計3体分見つかった。体長は3.5㍍、体重は200~300㌔あったと推定される。頭の上部が薄い円盤状になっており、異性などにアピールする飾りだった可能性がある。前脚には大きな鋭い爪があり、尾が長い。骨格化石しか見つかっていないが、近縁種には羽毛があることから、羽毛が生えていたとみられる。これまで中国やモンゴルで化石が見つかっている「オビラプトル」類に近いという。
ダチョウのような飛べない鳥に似た姿だったとみられ、学名は古代メソポタミア神話の怪鳥「アンズー」にちなんで「アンズー・ワイリエイ」と名付けられた。
建仁寺の「蘭渓道隆坐像」の像内から鎌倉時代の彫刻
東京国立博物館によると、京都市東山区の建仁寺塔頭(たっちゅう)の西来院が所蔵する江戸時代前期の彫刻「蘭渓道隆坐像」の像内から、鎌倉時代に作られたと推定される古い蘭渓道隆像の頭部の一部が見つかったことが分かった。同館によると、造像当初から建仁寺にあった可能性が高いとみられる。建仁寺は応仁の乱などで何度も火災に遭い、鎌倉時代から同寺にある彫刻は失われたと考えられていたという。
今回見つかった頭部は頬がそげ、口角が上がっている顔の特徴が、蘭渓道隆の存命中に描かれた肖像画などに似ており、同館は鎌倉時代に作られた頭部と推定した。西来院の像は、同館で3月25日から開かれる特別展「栄西と建仁寺」で展示。頭部は像内にあり、取り出せないため写真パネルで紹介する。
蘭渓道隆は南宋出身の渡来僧。神奈川県鎌倉市の建長寺の開山で、後に建仁寺の住職を務めた。建仁寺は、日本に臨済宗を広めた栄西が1202年に開いた京都最古の禅寺。
没後450年 三好長慶の座像建立へ 脱「悪役」イメージ
大阪府堺市のまちづくり団体「堺・ちくちく会」は戦国武将、三好長慶(1522~64年)の初の座像建立計画を進めている。没後450年にあたる今年7月にゆかりの南宗寺(堺市堺区)に建てたい意向だ。
三好長慶は織田信長に先立ち、戦国時代に京都と大阪、四国東部の9カ国(阿波、讃岐、淡路、摂津、和泉、河内、丹波、山城、大和)を支配。一時は足利将軍家を京都から追放し、約15年間、実質的に中央政権を担った武将だ。連歌にも堪能で品格のあった人物だが、将軍を一時追放したことに加え、長慶の没後、後を継いだ三好一族らが、十三代将軍・足利義輝を殺害したことで、”下克上”の代表格とされ、「悪役」イメージがある。このため、堺・ちくちく会では、少しずつ長慶の悪役イメージを変えていきたいとしている。
だが、没後450年を迎え長慶が統治した大阪(堺市、高槻市)、四国東部(徳島県)などで彼の事績、功績や人物像の見直し機運が高まっている。一般に戦国時代から既成秩序の破壊、否定などの面で織田信長がその代表と目されているが、実は信長に先んじて先見性のあったのが長慶と捉える見方が、いま大きく浮上している。
長慶が初めて足利将軍家を擁立せずに、自分の力で京都、すなわち首都を支配。天皇も足利将軍家を通さず、長慶と相談し元号を変えている。堺の掌握にみられる都市・流通政策の重視やキリスト教の保護、茶の湯を含めて、信長が推進したことの原型を長慶がやっているのだ。
一茶が妻を気遣う手紙など新資料を公開 記念館
長野県信濃町にある一茶記念館は3月19日、小林一茶(1763~1827年)が妻きくに宛てた手紙と俳句など計44点の新資料が貼られた折り本を報道陣に公開した。手紙は病弱な妻の体調を気遣い、具合が悪くなったときに備えて、自分の出先の連絡先を伝えている。一茶が江戸から故郷に戻り、信濃町を拠点に活動していた1817年か1820年のいずれかに書かれたとみられる。俳句の弟子を訪ねて回っていた一茶が長野市の善光寺から、信濃町柏原の自宅にいる妻に送った。
折り本「柏原雅集」は信濃町の問屋、中村利貞が明治時代に作成し、新たに見つかった9句を含む俳句や、知人と詠んだ連歌が書かれた和紙を厚紙18㌻に貼り付けてある。見つかった資料は、一茶が33~65歳の作品で、年齢の変化による筆跡の変遷も分かる。
関東大震災の地震計の記録紙をウィーンで発見
1923年に発生した関東大震災を、世界にいち早く知らせたとされるウィーンのオーストリア気象庁に、当時の地震計の記録紙が残っていることが3月10日、分かった。内閣府の資料によると、関東大震災は23年9月1日午前11時58分に発生。地震の規模はマグニチュード(M)7.9と推定され、約10万5000人が死亡した。
オーストリア気象庁には、地震発生から約12分後(オーストリア時間同日午前4時10分すぎ)に地震の初期微動(P波)が到達して地震計の針が揺れ始め、その後主要動のS波も記録されるなど、振幅の大きな波形が続いている。同気象庁は2011年3月11日の東日本大震災でも、地震発生から約12分後に地震波を観測している。
隕石衝突で硫酸の海 白亜紀末の生物絶滅に新説
千葉工業大学の大野宗祐上席研究員らは、白亜紀末の6500万年前に恐竜など生物の約6割が絶滅したのは巨大隕石の衝突で硫酸の海が生じたためとする新説をまとめた。衝突後の地球岩石を使って再現した実験で突き止めた。地球規模で起きた大絶滅をうまく説明できるという。英科学誌ネイチャー・ジオサイエンス(電子版)に3月10日発表する。
白亜紀末、恐竜や空を飛ぶ翼竜など陸上の多くの生物だけでなく、海の大型爬虫類やアンモナイト、プランクトンの多くが死に絶えた。直径約10㌔㍍の隕石が今のメキシコのユカタン半島に衝突し、巻き上がった土やほこりが地球を襲って太陽光を遮り、寒冷化したためとする説が有力視されている。
研究チームは大阪大学の施設を使い、隕石に見立てた金属片をレーザーで秒速20㌔㍍に加速してユカタン半島と同じ硫黄の多い成分でできた岩板にぶつけた。衝突の衝撃で高温になった岩板から多くの成分が蒸発。そのガスを調べたところ、大部分が硫酸だった。硫酸ガスは地球を覆い、酸性雨となってあらゆる場所に降り注いだ。衝突後1~3年は海の浅い部分が硫酸まみれになってプランクトンが死滅。食物連鎖が崩れたことが大型生物の絶滅につながったとみている。
古墳時代の機織り姿 栃木で埴輪2体出土 全国初
栃木県下野市教育委員会は3月5日、同市国分寺の6世紀後半の甲塚(かぶとづか)古墳で、機(はた)織りをしている女性の埴輪2体が見つかったと発表した。機織り姿の埴輪の出土は全国初。埴輪は弥生-古墳時代後期に一般的だった古いタイプの原始機(げんしばた)と、結城紬の機織り機の原型とされる台を使うタイプの地機(じばた)の2種類。
原始機の埴輪は全長約45㌢、幅約30㌢、高さ約54㌢で、女性の両腕の一部が残っていた。地機は布を織る女性の姿も復元され、合わせると高さ約69㌢。2体とも赤、白、灰、黒の4色に彩色されていた。同市教委は、古墳時代の機織り機の構造が分かり、当時の技術水準や織物の歴史を知る手掛かりになるとしている。甲塚古墳は全長約80㍍で、前方部が短い帆立て貝形前方後円墳。
歌麿の幻の大作「深川の雪」66年ぶりに見つかる
江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿の晩年の肉筆画で、1948年から所在不明になっていた「深川の雪」が66年ぶりに見つかったと、神奈川県箱根町の岡田美術館が3月2日、発表した。4月4日から6月30日まで同館で公開される。
同館によると、「深川の雪」は「品川の月」「吉原の花」(いずれも米国の美術館所蔵)とともに、歌麿が描いた「雪月花」3部作の一つとして知られている。
「深川の雪」は歌麿の晩年にあたる1801~04年ごろに描かれたとされ、縦約2㍍、横約3.4㍍の大作。絵の保存状態は良く、東京・深川の料亭で、遊女ら27人が雪見をしたり、火鉢を囲んだりする様子が色鮮やかに描かれている。
「東寺百合文書」国宝の画像を3/3からネットで公開へ
国宝「東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)」を所蔵する京都府立総合資料館(京都市)は3月3日以降、約2万5000通に及ぶ全文書の精密なデジタル画像(約8万カット)をインターネットの特設ホームページ(http://hyakugo.kyoto.jp/)で順次公開する。後醍醐天皇、足利義満の直筆文書、織田信長の「天下布武」印が入った文書から庶民の声を書き留めたものまで、奈良時代から江戸初期の約1000年にわたる歴史の息遣いがネットで体感できる。
「百合文書」は京都市の東寺(教王護国寺)に伝わる史料群。3月中にも国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に推薦される予定。
7世紀前半と判明 難波宮跡で出土の柱を新手法で測定
大阪府文化財センターは2月24日、大阪市の国史跡、難波宮跡近くで出土した柱材を、年輪のセルロース(繊維素)を分析する年代測定の新たな手法で調べたところ、7世紀前半のものと分かったと発表した。この手法は従来の年輪年代法と違い、すべての樹種に応用できるという。出土遺物の調査に応用したのは初めてで、考古学の進展につながると期待される。
この手法はセルロースに含まれる酸素同位体、酸素16と酸素18の比が夏季の降雨量によって毎年異なる点に着目。年輪ごとに同位体の比率を測り、変動パターンを解析して「物差し」を作成し、出土した木材に当てはめて年代を測定する。開発した総合地球環境学研究所の中塚武教授によると、弥生時代から現代までの「物差し」を作成済みという。
鹿児島・白亜紀後期の地層から大型草食竜の歯の化石
鹿児島県薩摩川内市教育委員会は2月14日、下甑島(しもこしきじま)の鹿島地区で約8000万年前の白亜紀後期の地層から、大型草食恐竜「竜脚類」の歯の化石1本が見つかったと発表した。白亜紀後期の化石は福島、岩手、熊本各県に続き国内4例目という。縦17㍉、幅5㍉、厚さ5㍉で細長い円柱形。下顎の歯とみられ、葉を噛み切る際に擦られてできたV字状の磨耗面が先端にあり、竜脚類と判断した。全長は10㍍以上と推定される。モンゴルのゴビ砂漠で見つかったネメグトサウルスに近いという。
竜脚類は長い首と尾を持ち、4本足での歩行が特徴。首と尾を伸ばし帆船のように風を受けて歩いていたと想像される。ジュラ紀後期(約1億5000年前)の温暖な気候に適応して大型化し、最も大きな種は体長35㍍、重さ40㌧。ただ歯はまばらで、葉を噛み切ることに向かず、歯が発達した他の草食恐竜との生存競争に敗れ衰退したとされている。
岩倉具視の暗号表、将軍・慶喜の直筆哀訴状など発見
江戸-明治の本草漢学塾「山本読書室」跡(京都市下京区)の土蔵に、右大臣・岩倉具視が使った暗号表や、最後の徳川十五代将軍・慶喜が官軍に江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状など重要文化財級を含む数万点の史料が、秘蔵されていたことが2月2日、分かった。京都外大の松田清教授(日本洋学史)が約2年半調査、目録を刊行した。重文級は少なくとも数百点で、ほかに菅原道真直筆の可能性が指摘される9世紀の写経もあり、新史実の解明が期待できる一大史料群として注目されそうだ。
暗号表は紙製で、大小2枚の円盤の周りにそれぞれカタカナが書いてある。直径約10㌢の小さい方の円盤を回して文字を変換するしくみ。東京の岩倉が大阪の大久保利通らと電報や暗号表など最新技術を駆使して交わした秘密通信文61通もあった。慶喜の哀訴状は、時代が江戸から明治へ移った1868年、江戸攻撃が8日後に迫った3月7日に官軍に届けられた。当時、回覧のため筆写されていたが、直筆は初めて。山本読書室は本草学(博物学)の西日本の拠点で、医学や儒学なども教えていた。
「山本読書室」跡から約150年前の最古の日本語新聞も
京都市下京区の本草漢学塾「山本読書室」跡から見つかった新史料の中に、日本語の新聞としては最古の日付とみられる「文久二(1862)年正月元日」と印刷したものがあることが2月3日、分かった。オランダ語で「新聞の写し」というタイトルで、松田清教授が京都外大の紀要にも発表した。
従来、日本語初の新聞は、江戸幕府の洋学研究機関・蕃所調所(ばんしょしらべしょ)がオランダ語新聞を翻訳し、「文久二年正月」に発行した「官板バタヒヤ新聞」とされていたが、日付が不明だった。今回は日付があることから、日本人が記事を執筆、編集した新聞としては最古とみられる、当時の新聞の形態や記事の内容など、新聞の変遷をうかがう上での貴重な史料となりそうだ。タイトルの右側には、発行日付と場所もオランダ語で「1862年1月1日、ミヤコ(京都)で」と記されていた。
松田教授は、ロビンソン漂流記の翻訳者として知られる膳所藩(大津市)の蘭学者、黒田麹蘆(1827~92年)が戯名を使い京都で発行したと結論付けた。
伊達政宗と戦っていた家臣宛て直江兼続の直筆書状発見
山形大は2月4日、上杉景勝に仕えた直江兼続(1560~1619年)が、関ヶ原の戦い(1600年)を前に、会津地方で伊達政宗軍と戦っていた上杉家の家臣に宛てた書状が見つかったと発表した。写本はあったが、兼続直筆の現物が見つかったのは初めて。書状は山形市内の個人宅に所蔵、山形大の松尾剛次教授(日本中世史)が花押や筆跡から現物であると鑑定した。上杉家の家臣4人に宛てたもので、日付は慶長5年(1600年)7月27日。徳川家康による景勝征伐に合わせて、伊達政宗が旧領地の会津地方を奪還しようと攻撃を強めていた時期にあたる。
戦国武将らしい力強い筆致で、伊達軍との戦いで善戦する家臣の頑張りを褒めながら、政宗の動向を知らせるよう指示するなど、知将とうたわれた兼続の一面をうかがわせている。