歴史検証シリーズ『Why』Ⅰ

「家康はなぜ、将来の拠点として何もない江戸を選んだのか?」 ▼

 実は当初、徳川家康は江戸に居城を構えるつもりはありませんでした。周知の通り、家康に江戸を拠点とするよう命じたのは豊臣秀吉でした。秀吉は天下人となっても、最大のライバルとして警戒していたのが家康の存在で、その家康を京・大坂からできるだけ遠ざけるための策略だったともみられています。

家康は入府後の江戸開発の青写真を描いたうえで決断
 ただ、家康のこの国替え、秀吉に全面的に屈服して受け容れたというより、天下獲りの野望を胸に秘め、入府後の江戸開発の青写真を描いたうえで決断したのではないかとの見方があります。というのは、1590年(天正19年)小田原攻めの最中、すでに家康は家臣を江戸に派遣し、詳細な実地調査をさせていたといいます。
 家康の伝記『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』(1740年)によると、1590年(天正19年)7月5日の小田原城陥落に先立って、家康は5月に秀吉から関東への転封(てんぽう)の打診を受けていたといいます。そして6月には、拠点を江戸とすることを約束していたと記されています。

ゼロからの町づくりに家臣たちはこぞって不満もらす
 しかし、この転封に対し、家康の家臣たちは大きな不満をもらしました。駿府や小田原に比べ、より京から離れた辺境の地へ国替えになるのですから当然でしょう。だが、家康は家臣たちをなだめ、北条氏滅亡後、東海5カ国を治めていた家康は、関東7カ国(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野・下野の一部)への国替えに素直に応じました。そして、自らの居城を江戸に置くことになります。
 とはいえ、歴史と文化があり、ある程度発展をみせていた小田原や鎌倉を拠点とすることと比べると、江戸入府は格段にマイナスからのスタートだったことは確かです。辺境の、東国のさびれた農村・江戸での、ゼロからの町づくりは、次代の覇権を目指す戦国武将にとって大きなハンディだったといえます。

朝廷、豊臣政権の影響を受けにくく発展の可能性秘めた江戸に賭ける
 だが逆に言えば、これは朝廷や豊臣政権の影響を受けにくい新たな土地で、自由に町づくりができるというメリットにもつながります。江戸の背後に広がる広大な関東平野も、発展の可能性を秘めた魅力的なものでした。

江戸は「海運の拠点、交通の要衝地」を認識していた家康
 また、意外に知られていないことですが、江戸は昔から海運の拠点となっていたのです。江戸は西から運ばれてきた物資が荷揚げされる海の玄関口でした。家康が入る以前は、北関東と南関東の対立があまりに激しく世情が不安定だったため、江戸で政権を樹立するほどの武将が現われなかったのです。
 ところが、2度にわたる朝鮮出兵などで豊臣政権が疲弊していく中で、家康は着々と関東で力を蓄え、周知の通り天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)で大勝利を収めます。その結果、天下をほぼ手中に収めた家康にとって、海運の拠点、交通の要衝としての江戸は、非常に大きなメリットであり、江戸に拠点を構えた家康の思惑が理解できるのです。

「家康はなぜ、大々的な天下普請で築城と修築、河川の改修を行ったか?」 ▼

 徳川家康が「天下普請」で、盛んに城郭の修築や河川の改修工事を行ったのは、ずばり大坂の豊臣秀頼、そして各地の豊臣恩顧の外様大名の力をじわじわと削いでいくためでした。

天下普請の狙いは豊臣恩顧の大名の金と労力使い、力を削ぐこと
 江戸幕府が諸大名に命じて行わせた「天下普請」とは、この工事にかかる費用(労務費・交通費・宿泊費)は原則として命じられた諸大名が負担しなければならない公共工事でした。
 そこで、国内における徳川家の磐石な体制を築くため、敵対する可能性のある勢力に、できるだけ多くの工事=天下普請を行わせることで、金と労力を使わせて弱体化を図ること。「天下普請」の狙いは、まさにこの点にあったのです。

豊臣家の経済力&権威を警戒し続けた家康
 では、豊臣家の力とはどれほどのものだったのでしょうか。「関ヶ原の戦い」の敗戦後、所領が激減し、一大名に過ぎなくなった秀頼ですが、その遺産は推定値で現在の1000億円とも2000億円ともいわれる莫大な”経済力”がありました。また、その家柄からくる権威も侮れませんでした。豊臣姓は秀吉が関白に就くにあたり、朝廷から勅許を得て使用が認められた家格で、秀頼は時の朝廷との関係も強かったのです。豊臣家の経済力&権威が再び西国大名の武力と結び付き、徳川に刃向かってくるかも知れないという不安は、家康の脳裏に染み付いていたのでしょう。

関ヶ原直後から西国の外様大名監視と朝廷対策の拠点の築城開始
 家康は関ヶ原の戦い(1600年)が終わるや、秀頼や西国の外様大名たちを監視するための拠点を築き始めます。膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)の築城と、伏見城(京都市伏見区)の改修です。
 また、朝廷対策の拠点として二条城(京都市中京区)の築城も開始します。娘婿にあたる池田輝政には居城の姫路城(兵庫県姫路市)の修築を、藤堂高虎には今治城(愛媛県今治市)の築城と甘崎(あまざき)城(愛媛県今治市)の修築を命じ、瀬戸内の海上路に砦を築くことで、中国・四国の外様大名の監視にあたらせました。10数名の大名に命じ、彦根城(滋賀県彦根市)の築城も行っています。

征夷大将軍の宣下受け、名実ともに武家のトップに
 1603年(慶長8年)2月、家康は念願叶って征夷大将軍の宣下(せんげ)を伏見城で受けます。将軍職に就いたということは、豊臣家の臣下という立場から脱し、自ら武家のトップとして全国の大名と主従の関係を持ち、主君となることを意味しました。徳川の世の到来でした。

連日3万人以上の人夫が動員された江戸城の改修
 江戸城の改修も「天下普請」の一環でした。家康の将軍宣下の翌月、天下普請による江戸の町の拡張・整備工事がスタートします。これらの工事には13組に分けられた70家の大名が参加。各大名は知行1000石当たり1人の人夫を出すように命じられました。毎日3万以上の人員が現場に動員されたであろう大公共工事でした。
 築城される江戸城の規模は、秀頼の居城・大坂城をはるかに凌ぐものでした。この助役を命じられた外様大名たちに、徳川将軍家の威光を示す効果も大いにあったことでしょう。

福島正則、加藤清正、前田利常ら親豊臣派大名を根こそぎ動員
 1610年(慶長15年)、名古屋城の築城を命じられたのは、前年に篠山城の普請を終えたばかりの福島正則を含む西国大名20家、加藤清正をはじめとする九州大名11家、そして加賀の前田利常らでした。豊臣と関係の深い大名は根こそぎ動員させられているのです。しかも、その普請は大坂方が江戸に攻めてきた場合に備えた防衛の要を築くというものでした。

”一石三鳥”の天下普請で外様大名の牙を抜く
 豊臣恩顧の大名の力を使ってその力を削ぎながら、徳川家の防衛と豊臣家を封じ込める拠点を築き、その過程で将軍家の威光をも認識させるというわけです。まさに”一石二鳥”、いや”一石三鳥”の妙案です。こうして家康の天下普請戦略の前に、多くの外様大名はその牙を抜かれていったのです。

「外様大名の加賀藩がなぜ、百万石もの体制を長く保持できたか?」 ▼

 江戸時代、全国で多くの藩が改易や、藩の取り潰しを経験した中、これはかなり稀有なケースといえますが、加賀藩・前田家は、遂に百万石を超える家禄を幕末まで維持し、生き抜きました。

幕藩体制確立に向け、横行した大名の改易
 実は、江戸幕府による大名統制は厳しく、家康・秀忠・家光の徳川三代を通じて幕藩体制の確立に成功するのですが、この過程で多くの大名が改易となっています。福島正則49万石、小早川秀秋50万石、最上義俊57万石、松平忠輝75万石、松平忠直68万石、松平忠吉52万石、加藤忠広52万石、徳川忠長55万石、本多正純15万石といった具合です。大名が改易(領地没収)となる主な理由は、跡継ぎ断絶、武家諸法度違反、乱行でした。
 大名の改易があまりに多く、これによって主君を失った武士たち(家臣)=牢人が激増、新たな社会問題に直面することになりました。そのため、四代将軍・家綱の治世下で、それまで禁止されていた「末期(まつご)養子の禁」が緩和されたほどです。こうした文治政策を推進したのが、家光の弟で将軍を補佐した会津藩主の保科正之らでした。文治政策への転換でした。

忍耐強く将軍家とつかず離れずの関係を維持した前田家=加賀藩
 このように大名の改易が横行した中、無傷で徳川260年余を過ごすことができたのは、前田家が代々、ポリシーとする、将軍家とつかず離れずの関係を忍耐強く保持したからに他なりません。これを実践することは、実は生易しいことではありません。なぜなら、当時、諸大名は幕府の意を迎えるために、学問・芸能や宗教行事、日常の作法に至るまで、徳川家へ右へ倣(なら)えしていました。でなければ、いつ幕閣の機嫌を損じて改易の憂き目に遭うかも知れないと怖れたのです。

太閤治世下では「徳川とは同輩」意識、半面、恭順の意
 ところが前田家は、「加賀には加賀の伝統がある」として、徳川将軍家に倣う風がなかったのです。それは、もともと徳川と前田は、太閤・秀吉治世下の武将という点では同輩で、家のしきたりはそれぞれの伝統によるべきもの-との意識が強かったからです。それが自然で無理がない-と。
 とはいえ、権力者=徳川将軍家と、つかず離れずの関係を保持するには、藩主は自分自身を抑え込み、感情のコントロールを図り、将軍家に恭順の意を表するという姿勢が必要です。したがって、こうした姿勢を維持し続けるには格段の苦労があったに違いありません。

「お家第一…母を棄てなさい」と戒めた利家の正室・松子
 加賀藩の藩祖・前田利家の正室・松子にこんなエピソードがあります。利家没後、徳川家康はいつかは前田家を潰そうと謀り、二代藩主・利長に「謀反の動きあり」の噂を流して揺さぶりをかけます。そんなとき、母の松子は自らすすんで人質として江戸に赴き、両家の安全に寄与しようと努めます。
 その際、思い悩む息子・利長に「武士はお家第一、(徳川将軍家から、投げかけられる揺さぶり・謀りごとに対し)思い迷うことがあれば、母を棄てなさい!」ときっぱり言い切ったといわれています。松子は、利長ら子供や家臣たちが、自分の身を気づかって家を棄てることを強く戒めたわけです。

将軍家に嫌われず、媚びず、独自の伝統文化を維持
 こんな松子の精神が代々、藩主に継承され、前田家の独自の伝統文化は維持しつつ、権力者=徳川将軍家に嫌われず、媚びず、つかず離れず、という何とも難しい、微妙なバランス感覚が求められる藩運営に努めたのです。
 つまり幕府から無理難題持ちかけられても、耐え忍んで家を存続させ、文化の面で徳川を凌ごうと期するものがあったようです。家が滅びてしまったら、文化も何もないわけですから。

万全の防衛体制を敷き、文化にうつつを抜かす振りを貫く
 そのために前田家は万全の防衛体制を敷き、それをひた隠しにし、その隠れ蓑として表看板に文化政策を華々しく掲げていたのです。「非武装」では、藩の意思は決して貫けないことを理解していたのです。
 その軍備が少しでも漏れたら大変な騒動になるので徹底的に隠し、前田
は幕府に臣従して、文化にうつつを抜かしている振りを貫いたのです。幕府は絶えず隠密を放ってそれを探りますが、証拠がつかめません。しかし何となく薄気味悪いものを感じて、うかつには手出しできず、江戸時代は経過してしまいます。
 見てきたとおり、前田家は危機感もなく、お人好しにのんびりと文化を楽しんでいたのではないのです。三代藩主・利常の時代、五代藩主・綱紀の時代はとくに華やかな文化が花開いた印象があります。しかし、実は表と裏があったのです。表面上、そう見えるということは、前田家歴代藩主が、それだけ演技が上手だったということでしょう。
 その結果、加賀藩前田家は他には例のない、無傷のまま幕末まで百万石を超える家禄を保持できたのです。見事というしかありません。