最古級平仮名は古今和歌集の「幾世しも…」新説発表

最古級平仮名は古今和歌集の「幾世しも…」新説発表

仏教大学の南條佳代講師は9月22日までに、日本の最古級平仮名は最初の勅撰和歌集『古今和歌集』にある「幾世しも」の歌とする新説を、同大学の紀要に発表した。最古級平仮名は、平安京にあった貴族、藤原良相邸宅跡(京都市中京区)で2011年に出土した土器片(9世紀後半)に記されていた文字という。この土器片には約40字書かれているが、意味がよく分かっていなかった。当時、文字の練習に和歌を書いたとみられ、初期平仮名の姿を知る有力な史料になりそうだ。

南條講師が分析したのは、土師器(はじき)に記された平仮名。これまでの京都市埋蔵文化財研究所の記者会見資料などでは、中心部の文字は「いくよしみすらキれ

「雑賀衆・沙也可」を和歌山市の観光振興につなげたい

「雑賀衆・沙也可」を和歌山市の観光振興につなげたい

紀州の異能の”鉄砲集団”として日本史(戦国時代)にその名を残す「雑賀衆(さいかしゅう)」。戦国時代、現在の和歌山市を拠点に勢力を張り、天下取りを目指していた織田信長軍らを相手に戦功を立てた。後に豊臣秀吉に滅ぼされたが、地元では頭領の雑賀孫市(まごいち)は今も市民に親しまれ、春と秋にはまちおこしの祭りが開かれている。この孫市の長男、孫市郎の足跡をたどり、和歌山市の有志らが観光振興につなげようと計画している。

それは、この孫市郎が秀吉の朝鮮出兵に鉄砲頭として従ったものの、投降し、そのまま居着いたとする説がある。韓国では「沙也可(さやか)」と呼ばれていた。子孫と呼ばれる人たちが多く住む韓国・大邱(テグ)には2012年、沙也可の足跡や日韓の文化を紹介する韓日友好館がオープン、2階には「和歌山コーナー」も設けられた。

「雑賀衆・沙也可で街おこしの会」の辻健会長によると、沙也可が日本を語った文献は残っておらず、あくまでも説の一つにとどまる。しかし、辻さんはこれを和歌山市の観光振興につなげ、行く行くは当地での日韓首脳会談開催を夢見る。雑賀衆のルーツと末裔に友好促進の願いを託している。

豊臣秀長の郡山城の天守は5階 礎石群見つかる

豊臣秀長の郡山城の天守は5階?  礎石群見つかる

奈良県大和郡山市教育委員会は9月12日、豊臣秀吉の弟、秀長が城主だった郡山城(奈良県大和郡山市)の跡で、天守を支えた礎石群(16世紀末)が見つかったと発表した。店主は礎石の配置などから1階は南北約18㍍、東西約15㍍の5階建て程度に復元できるという。金箔が一部に残る瓦も、城内から初めて出土した。

豊臣政権期の築城で様相が明らかな城は少なく、同市文化財係でも城郭構造や築城技術の発展を考えるうえで重要–としている。郡山城の天守に関する史料はほとんどなく、築造年代も不明で、天守の存在を疑う説もあった。今回出土した瓦の形や製作技法、天守台上面に再建や修復の痕跡がないことから秀長らが居城とした16世紀末の築造と判断した。

西本願寺の文書に残る土方歳三ら新選組の日常・実像

西本願寺の文書に残る土方歳三ら新選組の日常・実像

浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)に残された幕末の文書から、新選組は西本願寺に駐屯した当時の様子を示す記録が見つかった。本願寺史料研究所が9月2日発表した。

新選組が駐屯を始めた直後、寺に多額の借金を願い出たり、隊士の待遇改善を副長の土方歳三自らが寺側に直談判したりするなど、組織維持に苦心したさまが浮かび上がる。研究所が当時の日記やメモ書きを精査。新選組に関する記述が14カ所で見つかった。

新選組は1865年(元治2年)3月、壬生寺周辺から西本願寺の北集会所に移り、2年余り駐屯。記録には駐屯を始めた11カ月後の3月2日に「金五百両也」「新選組ヨリ拝借願ニ付、今日御貸下ニ相成候事」との記述があり、寺が200両、残りを商人から工面していた。

平城京「光と灯りのアートフェスタ」天平の世を幻想的に

 

平城京「光と灯りのアートフェスタ」天平の世を幻想的に

奈良市の平城宮跡で、「平城京天平祭☆夏2014」が8月29日始まった。「光と灯りのアートフェスタ」をコンセプトに午後6時半~9時、かつての宮廷を幻想的に彩る。31日まで行われる。入場無料。広場をカップ入りのろうそく約1万個で照らす「燈花会」や電飾付き衣装を着て練り歩く「天平行列」のほか、朱雀門に極彩色のアートを投影するなど趣向を凝らす。

シルクロード沿いのアジアや中東の各国料理を屋台で販売する。会場は奈良時代、政治や国際交流の舞台として輝いた一帯。夏の最後の思い出に、歴史のロマンに暫し、浸ってみるのも一考か。

 

平城京跡で2度の大地震による液状化現象の痕跡

平城京跡で2度の大地震による液状化現象の痕跡

 奈良文化財研究所(奈良市)は8月22日、本庁舎建て替えに伴う発掘調査で、奈良時代以降に起きた2度の大地震による液状化現象の痕跡が見つかったと発表した。現場は平城京跡で平城宮の西側に隣接する一条南大路。大地震の詳細な発生時期は特定できていないが、痕跡は「震度5以上」の強い揺れがあったことを示しているという。

 特定された地層から1度目は8世紀以降、2度目は14世紀以降の地震と推測される。今後は、地層の堆積時期を検証し、地震発生時期の特定を目指す。

伊能忠敬の北海道図に新事実「間宮林蔵が測量」

伊能忠敬の北海道図に新事実「間宮林蔵が測量」

 江戸時代後期に伊能忠敬(1745~1818年)測量隊が作製した蝦夷地(現 北海道)国の完成版が、探検家・間宮林蔵(1780~1844年)が測量したデータを基に作られた可能性が高いことが8月18日、伊能忠敬研究会と関連団体「InoPediaをつくる会」の調査で分かった。

 伊能は1800年に道南の松前から東海岸の厚岸あたりまでを測量、第1次測量図を作製したが、没するまで道内の他地域は未踏だった。このため、北海道全体を詳細に描いた完成版は、伊能の測量と弟子で同地を長期間調査した間宮の測量を合わせて作製したと考えられてきた。

 しかし今回、国立公文書館・内閣文庫の第1次測量図と最終版の北海道図をコンピューターで重ね合わせたところ、双方の測量線がほぼ全域にわたってずれていることが分かった。このため、両会は間宮が、伊能が測量した地域を測量し直して完成版を作製したと結論付けた。

異例の和製ピラミッドに興奮、奈良・都塚古墳で説明会

異例の和製ピラミッドに興奮、奈良・都塚古墳で説明会

 古代の大豪族、蘇我氏の礎をつくった蘇我稲目(570年没)の墓との見方が出ている奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)で8月16日、市民向けの説明会が合った。午前中に考古学ファンら約1200人が詰めかけ、田んぼのあぜ道に長い列をつくった。

   都塚古墳は、同村教育委員会と関西大考古学研究室が調査し、墳丘が階段状に石積みされた、日本では例のないピラミッド型と判明。一辺約40㍍と当時の天皇陵にも匹敵する大型方噴だったことも分かった。

  この古墳の被葬者として蘇我稲目が有力視されるのは、子の蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(7世紀前半)が、この都塚古墳からわずか約400㍍しか離れていない地にあるからだ。この一帯は当時、蘇我氏のいわば本拠地だったとされる。

漱石が病気の妻を思いやる心情を子規に吐露

漱石が病気の妻を思いやる心情を子規に吐露

 夏目漱石が親友で俳人の正岡子規に宛てた書簡が東京都内の古書店で見つかった。1897年(明治30年)8月23日付で俳句が9句書かれており、そのうち2句が未発表だった。漱石が病気の妻を思いやる心情を綴った珍しい句で、専門家は「極めて貴重な資料だ」としている。

 漱石は当時、熊本の第五高等学校の教授。書簡の日付の前夜に東京・根岸の子規庵で句会があり、夏休みで帰京していた漱石も参加していた。書簡の俳句は鎌倉が題材で、句会から一夜明けて新作を子規に届けたとみられる。

 未発表の句は「愚妻病気 心元(こころもと)なき故本日又鎌倉に赴く」という前書きに続き「京に二日また鎌倉の秋を憶(おも)ふ」。前年に結婚した妻鏡子は体調を崩し、この夏を鎌倉で療養しており、妻を思いながら東京から鎌倉に向かう心情を詠んでいる。

 未発表のもう一句は「円覚寺にて」の前書きがついて「禅寺や只秋立つと聞くからに」。円覚寺は後の長編「門」に登場する。子規はこの年、5月に病状が悪化。漱石は俳句を送ることで子規を慰めていたのではないか。

 

江戸期 大和川治水に尽力した中甚兵衛を漫画に

江戸期 大和川治水に尽力した中甚兵衛を漫画に

 江戸時代に大和川の治水に尽力した中甚兵衛(1639~1730年)の偉業を広く伝えようと、幸田栄長(えいちょう)さん(69)ら東大阪市の有志たちが、その生涯を描いた漫画『中甚兵衛物語』を制作した。

 中甚兵衛は河内郡今米村(現 東大阪市)の出身。柏原市辺りから北上し東大阪市などを通って淀川に合流していた旧大和川を、堺市方向へ西に流れる現在の流路に付け替えるよう、半世紀にわたって幕府に要望し1704年に実現させた。

 旧大和川は、周辺の土地より川底が高い“天井川”となっていたため、当時農民たちは度重なる洪水に苦しめられていた。しかし、この付け替え工事の結果、水害が激減した府東部では綿花栽培が栄え「河内木綿」に代表される、後の織物産業の発達につながったとされる。

京都五山送り火 点火5分間隔に 51年ぶり変更

京都五山送り火 点火5分間隔に 51年ぶり変更

 毎年8月16日に行われる恒例行事「京都五山送り火」の点火時間が今年51年ぶりに変更される。「妙法」と「船形」の送り火がそれぞれ5分早まり、5カ所の点火時間がすべて5分間隔で並ぶ。点火時刻は「大文字」午後8時、「妙法」同5分、「船形」同10分、「左大文字」同15分、「鳥居形」同20分。

仏にすがった貴族の遺構 平安京跡で「持仏堂」

仏にすがった貴族の遺構  平安京跡で「持仏堂」

 京都市埋蔵文化財研究所は8月14日、京都市南区の平安京跡から、平安時代末期(12世紀末)の貴族邸宅の持仏堂とみられる遺構を確認したと発表した。平安京跡で遺構が確認されたのは2例目。

 平安京左京九条二坊十六町跡(南区西九条北ノ内町)で見つかった持仏堂の遺構は、南北約9.2㍍、東西約8.3㍍のほぼ正方形。遺構の中央東側部分の地表を掘り、こぶし大の河原石をびっしり敷き詰め地盤を強化していた。仏像そのものは見つかっていないが、同研究所では地盤を強化して重量のある仏像を安置する基壇とした可能性が高いとみている。

 末法思想が流布していた当時、極楽往生を願った貴族の間で邸宅内に、阿弥陀仏を安置する持仏堂を建てることが流行した。このことは文献上でも少なくとも数十件単位で確認できるという。

被葬者は蘇我稲目か 都塚古墳は大型方噴ピラミッド型

被葬者は蘇我稲目か 都塚古墳は大型方噴ピラミッド型

 奈良県明日香村教育委員会と関西大考古学研究室は8月13日、明日香村の都塚古墳(6世紀後半ごろ)が、墳丘を5段以上の階段状に築いたピラミッド形の大型方噴と分かったと発表した。国内の同時期の方墳で階段状墳丘が確認されたのは初めて。一辺の長さが40㍍を超え、直後に築かれた方墳大王(天皇)陵に迫る規模であることも明らかになった。

 当時のトップクラスの権力者が、前方後円墳に代わる新形式として取り入れたとみられる。そのため、蘇我氏の権勢の礎を築いた蘇我稲目(そがのいなめ、?~570年)らが被葬者の候補に挙がっている。

 都塚古墳があるのは蘇我稲目の子、馬子(?~626年)が被葬者として有力視されている石舞台古墳(7世紀前半、一辺約50㍍の方噴)の南東約400㍍。尾根の先端の傾斜地に築かれている。1967年に関西大考古学研究室が調査し、巨石を使った横穴式石室の中に凝灰岩製の家形石棺が安置されていたことが分かったが、墳丘の形や規模は不明だった。

 今回、当時としては異例のピラミッド形の大型方噴が確認されたことで、古墳時代から飛鳥時代への過渡期の権力構造を知る手掛かりになるとみられる。

丹波竜の化石は新種 学名「タンバティタニス…」

丹波竜の化石は新種 学名「タンバティタニス…」
 兵庫県立人と自然の博物館は8月12日、2006年に兵庫県丹波市の白亜紀前期の地層(約1億1000万年前)で見つかった竜脚類の恐竜「丹波竜」の化石が新属新種と認められ、学名も「タンバティタニス・アミキティアエ」と命名したと発表した。・
 8月12日付のニュージーランドの国際学術誌「ズータクサ」の電子版に論文が掲載された。国内発見の新属新種の恐竜は5例目。

水無瀬離宮の建物跡見つかる 大阪府島本町

水無瀬離宮の建物跡見つかる  大阪府島本町

 大阪府島本町教育委員会は8月6日、同町内の製薬会社の研究施設予定地(島本町桜井)から、13世紀~13世紀前半(鎌倉時代)の建物跡が見つかり、当時の最高権力者だった後鳥羽上皇(1180~1239年)が造営したとされる「水無瀬(みなせ)離宮」の一部と考えられると発表した。

 水無瀬離宮の遺構が見つかったのは2009年12月に次いで2カ所目。最初に発見された遺構に近い高台で、同町教委は「過去の文献に記された、洪水による離宮の高台移転を裏付ける貴重な史料」としている。

世界遺産登録10周年 和歌山で9月から観光事業

世界遺産登録10周年 和歌山で9月から観光事業

「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録10周年を機に、和歌山県や同県内市町村、JR西日本などは8月4日、9月14日から12月13日まで大型観光事業「和歌山デスティネーションキャンペーン(わかやまDC)」を実施すると発表した。テーマは「和(なごみ)」。期間中、県内で150以上のイベントを開催する。スタンプラリーや、高野山、熊野本宮大社、熊野那智大社などでのコンサート、秘宝の特別公開などがある。国内の世界遺産登録地域の関係者が集まる観光地サミットも開かれる。

富岡製糸場に4カ月で34万人 年間最多を更新

富岡製糸場に4カ月で34万人 年間最多を更新

 世界文化遺産に登録された富岡製糸場(群馬県富岡市)の来場者数が7月21日、4月以降で約34万人となり、昨年度を4カ月足らずで超え、過去最多を更新したことが分かった。富岡製糸場によると、2013年4月~14年3月の来場者数は過去最多の約31万4500人。

 来場者数の急増はボランティアの解説員によるガイドが不足する事態を招いている。5月に新たに7人がデビューしたが、来場者数の伸びに追いつかない状況が続いている。

沖縄・石垣島で旧石器時代の人骨が大量出土

沖縄・石垣島で旧石器時代の人骨が大量出土
 沖縄県・石垣島(石垣市)で後期旧石器時代(3万5000~1万数千年前)の人骨が多く見つかっており、考古学者や、人類学者の注目を集めている。約2万年前の骨に残されたDNAやたんぱく質の分析から沖縄に来た人類の由来を探る試みが始まり、専門家からは「宝のような遺跡」との声も挙がっている。
 石垣島東岸から約1㌔の新石垣空港敷地内にある白保竿根田原(しらほさねたばる)洞穴遺跡。沖縄県立埋蔵文化財センターが2010年度から進める調査などで、旧石器人骨を中心とする十数~20体分の人骨約800点が出土した。骨は保存状態が良く、大学や研究機関がたんぱく質やDNAの抽出を試みた。
 これらの人々はどこからやってきたのか。国立科学博物館のチームが母から子に受け継がれ祖先をたどることができるミトコンドリアDNAを分析。東南アジアに見られる「B4e」や沖縄の人に多く、本土でも一部見られる「M7a」など3種類のDNAタイプを確認した。調査や分析は本年度も継続される。

大船鉾 勇姿150年ぶり 祇園祭で曳き初め

大船鉾 勇姿150年ぶり 祇園祭で曳き初め

 京都の祇園祭で、7月24日の後祭(あとまつり)の山鉾巡行でトリを務める大船鉾の曳き初めが7月20日行われた。大船鉾は幕末に焼失。今年150年ぶりに復活する。そのお披露目会と試し引きが行われたもので、江戸時代の装飾品を付けた勇姿を一目見ようと、多くの見物客が進路を埋めたため、曳き初めのコースを短縮するほどだった。鉾は全長約7.5㍍、幅約3.25㍍、高さ6㍍を超える。

太閤検地より古い「指出検地」の記録見つかる

太閤検地より古い「指出検地」の記録見つかる

 兵庫県たつの市立竜野歴史文化資料館は7月16日、豊臣秀吉が行った「太閤検地」よりも古い「指出見地」(1585年)の記録が市内で見つかったと公開した。秀吉が指出検地を行ったことは知られていたが、記録が見つかったのは初めて。

 後の太閤検地が実際に土地を測量したのに対し、指出検地では測量せずに大名からの申請をそのまま追認、領地として与えていたことが分かり、秀吉の土地支配や、領地を与えた手続きを知る史料となるという。

 史料は「淡路二郡指出帳」で、縦約27㌢、横約20㌢。淡路島の津名と三原の2郡の記録。秀吉の直筆部分、朱印もあった。                  

奈良飛鳥京・福岡粕屋町で飛鳥時代の新たな発見

奈良飛鳥京・福岡粕屋町で飛鳥時代の新たな発見
 奈良県立橿原考古学研究所は7月14日、国内最古の本格的庭園・飛鳥京跡苑池(えんち、奈良県明日香村、7世紀後半)で、敷地を囲った塀跡が見つかったと発表した。塀跡は南池を見下ろす高台にあり、7つの柱穴が南北約15㍍にわたり並んでいた。過去の調査で発券された北池付近の塀の柱穴と一直線につながった。苑池は斉明天皇や天武天皇の宮殿に附属した施設と考えられている。
 福岡県粕屋町教育委員会は7月14日、町内の粕屋官ガ遺跡群阿恵(あえ)遺跡で、7世紀後半の飛鳥時代の役所、粕屋評(かすやのこおり)とみられる建物跡が見つかったと発表した。税として集めた穀物を保存する倉庫群の遺構とセットで出土し、全国でも珍しい発見という。
 町教委によると、建物跡は縦42.0㍍、横4.2㍍の掘っ立て柱建物など5棟で、中庭をかこむようなコの字形の配置から地方行政単位の評の役所とみられる。大宝律令(701年)で施行された郡に相当する。穀物を保存する倉庫跡は6棟が出土。最大で縦7.0㍍、横8.5㍍で、役所跡の東130㍍から発見。穀物の重みを考慮し、床を多数の柱で支える構造となっている。

日中戦争憂う与謝野晶子の未発表の歌 都内で見つかる

日中戦争憂う与謝野晶子の未発表の歌 都内で見つかる

 歌人、与謝野晶子(1878~1942年)の未発表歌が、東京都内で見つかった。日中戦争が激化していく状況を憂う想いが詠み込まれている。歌は「秋風やいくさ初まり港なるただの船さへ見て悲しけれ」。毛筆で扇子に書かれている。

 この歌が詠まれた当日は、日中戦争が上海にまで拡大、衝突の号外があった。そうした世相を背景に、晶子は民間の客船や商船までが徴用される事態を予見し、「悲しけれ」と詠んだとみられる。

翼6㍍ 史上最大の鳥 米で2000万年前の化石

翼6㍍ 史上最大の鳥 米で2000万年前の化石

 米ブルース博物館(コネチカット州)は7月8日、米サウスカロライナ州で発掘された二千数百万年前の鳥類の化石が、飛べる鳥としては史上最大となる翼を持っていたことが判明したと発表した。翼を広げると端から端までの長さが6~7㍍になり、現在最大であるアホウドリの一種と比べ約2倍の大きさ。恐竜が絶滅した後の2800万~2500万年前に生息した巨大な海鳥とみられていたが、体が大きすぎて飛べるかどうか疑問視されていた。

秀吉が使った陣羽織を修復 18年ぶりに一般公開

秀吉が使った陣羽織を修復 18年ぶりに一般公開

 京都市の高台寺(東山区)は、豊臣秀吉が使ったと伝わる「鳥獣文様綴織陣羽織」(重要文化財)の、約2年2カ月にわたる修復を終え7月9日、報道陣にお披露目した。

 陣羽織は身丈約99㌢、肩幅60㌢。16世紀、当時のイランの宮廷工房で制作され、日本に渡った綴れ織を裁断し、武将が具足の上からまとう陣羽織に仕立てたとみられるという。獅子やクジャクなど様々な動物が描かれており、傷みが目立っていたことから、修復に入っていた。高台寺掌美術館で7月20日~8月3日、18年ぶりに一般公開する。

川端康成が学生時代、婚約者に宛てた恋文見つかる

川端康成が学生時代、婚約者に宛てた恋文見つかる

 ノーベル文学賞授賞作家、川端康成(1899~1972年)が学生時代、婚約者の伊藤初代に宛てた未公開の手紙が7月8日までに、神奈川県鎌倉市の川端邸で見つかった。遠く離れて、岐阜市に住む恋人への熱い思いを訴える哀切に満ちた内容。恋愛、孤独・死をテーマにした川端文学の出発点を示す資料として、専門家も注目する。16日に岡山県立美術館で公開される。

 今回発見された手紙は計11通。10通は伊藤初代から川端宛て。1通は川端が1921年秋、22歳のときに書いたものの、投函されなかったもの。川端は「毎日毎日心配で心配で、ぢつとして居られない」「恋しくつて恋しくつて、早く会わないと僕は何も手につかない」などと、会えないもどかしさを、ストレートに吐露している。恋人の初代は当時、川端と出会った東京・本郷のカフェを辞め、岐阜市の寺院に養女として預けられていた。

 2人の恋はその後、初代が「ある非常」という理由で結婚を断る手紙を送り、破局した。川端はこの失恋を題材に「非常」などの初期小説を発表。代表作「伊豆の踊り子」も影響を受けたとされる。

 

京都で室町時代に流通の銅銭約4万枚入ったつぼ

京都で室町時代に流通の銅銭約4万枚入ったつぼ

 発掘調査会社イビソク(岐阜県大垣市)などは7月8日、京都市下京区貞安前之町で、15世紀(室町時代)に流通した銅銭約4万枚が入ったつぼが見つかったと発表した。銭は唐の「開元通宝」や明の「永楽通宝」など約50種類。400万円相当という。文献によると、出土場所には河原で染色などをしていた職能集団の屋敷があった。備前焼のつぼは高さ66㌢、幅53㌢。銭がつぼに納められたままの状態で見つかるのは珍しいという。

 

長崎市の8100万年前の地層からよろい竜の化石

長崎市の8100万年前の地層からよろい竜の化石

 福井県立恐竜博物館(同県勝山市)と長崎市教育委員会の共同研究チームは7月7日、長崎市にある約8100万年前の白亜紀後期の地層から、よろい竜の歯の化石1つと、肉食恐竜の歯の化石2つを発見したと発表した。よろい竜の化石が見つかるのは、長崎県で初めて。

 よろい竜は4本足で歩き、背部から尾にかけて骨の装甲を持つ草食恐竜で、白亜紀の北半球を中心に栄えた。恐竜博物館によると、国内ではこれまで、足跡を含めて北海道、富山県、兵庫県、熊本県の計4カ所で化石が見つかっている。

 よろい竜の歯は幅約10㍉、高さ約9㍉の薄くて幅広い形。植物を食べるため前後に突起がある。歯だけで全体の大きさや種類まで絞り込むのは難しいという。肉食恐竜の歯は幅約7㍉、高さ約14㍉と、幅約5.5㍉、高さ約7㍉。     

不明の重要文化財27都府県・109件に 文化庁調査

不明の重要文化財27都府県・109件に 文化庁調査

 文化庁は7月4日、国の重要文化財指定を受けた美術工芸品のうち、国宝の刀剣1件を含む27都府県の109件が所在不明になっているとの調査結果を発表した。指定美術工芸品の全国調査は初めて。

 109件のうち59件は工芸品で、刀剣が52件と大部分を占めた。仏像など彫刻は不明17件のうち、14件が盗難によるものだった。所在不明の重要文化財の9割以上が個人または社寺の所有だった。

 109件のうち35件は、2013年11月の緊急調査で所在が不明だったが、今回の調査で新たに74件の重要文化財の所在が分からないことが判明した。

谷崎潤一郎 戦時中「細雪」掲載中止の不安詠んだ俳句

谷崎潤一郎 戦時中「細雪」掲載中止の不安詠んだ俳句

 作家の谷崎潤一郎(1886~1965年)が太平洋戦争中に代表作となった、小説「細雪」の雑誌掲載を中止され、不安な心境を詠んだ俳句の書かれたはがきが見つかった。谷崎の俳句は珍しく、奈良市の帝塚山大で7月8日から始まる展示「谷崎潤一郎・耽美の世界~肉筆と稀〇本を中心に~」で初めて公開される。

 はがきは親しい人に宛てたもので、「提灯にさはりて消ゆる春の雪」などと2つの俳句が書かれていた。俳句は1944年ごろ詠まれ、戦時中の暗い世相をちょうちんになぞらえて、「細雪」を「春の雪」で表したとみられる。

 細雪は旧家の4姉妹をめぐる物語。43年に雑誌「中央公論」で掲載が始まると、優美な世界が「時局をわきまえない」との理由で掲載中止となった。しかし、谷崎は密かに執筆を続け、翌年、自費で上巻約200冊をつくり、親しい人に配った。はがきは本の引換券として使われたとみられる。

平城京遷都で埋め立てた旧秋篠川の跡見つかる

平城京遷都で埋め立てた旧秋篠川の跡見つかる

 奈良文化財研究所は7月4日、平城京遷都(710年)に伴う造営工事で、奈良市の秋篠川の流路を現在の位置に付け替えるために埋め立てた旧流路が見つかったと発表した。埋め立てた際、地盤や盛り土を補強するため、樹木の枝を敷き詰める古代の土木技術「敷棄工法」が使われていた。同研究所は「平城京の造営に伴う土木工事の実態が分かる重要な調査結果」としている。

 調査では北西から南東へ流れる旧流路跡(幅28㍍以上、長さ55㍍分)と厚さ最大1.2㍍の黒色土層を確認。土層からは7世紀末~8世紀初めの土器破片や瓦片が出土した。旧流路を埋め立てた際の造成土とみられる。

      

没後110年記念イベント、ギリシャに小泉八雲資料館 

没後110年記念イベント、ギリシャに小泉八雲資料館 

 『耳なし芳一』などの「怪談」などの作品で知られる明治の作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の没後110年記念イベントが7月4日、生誕地のギリシャ・レフカダ島で始まった。

 島内の文化センターには八雲の作品や写真を展示した資料館もオープン。八雲の原稿や妻セツへの手紙、写真など展示品の一部は松江市や熊本市など八雲のゆかりの地からも寄贈された。ひ孫の小泉凡さん(島根県松江市在住)らが出席し、式典が執り行われた。イベントは7月7日まで。

 松江市出身の俳優、佐野史郎さんやギタリストの山本恭司さんによる朗読会や熊本県の清和文楽の公演などが行われる。   

平安前期の「悲田院」「施薬院」の名記した木簡出土

平安前期の「悲田院」「施薬院」の名記した木簡出土

 京都市埋蔵文化財研究所は7月2日、「悲田院(ひでんいん)」「施薬院(せやくいん)」の名を記した平安時代前期(9世紀)の木簡が京都市内で出土したと発表した。悲田院、施薬院は貧しい人々の救済施設で、出土したのは死亡した収容者の氏名などを記した報告書や、全国から送付された薬の原料の荷札などで、施薬院関連の木簡がまとまって出土したのは初めて。活動の実態を示す貴重な史料という。

 木簡が見つかったのはJR京都駅の約200㍍南で、平安京の東南隅にあたる地点。記録によると、周辺に施薬院の御倉(倉庫)や高級貴族の別宅があったとされている。出土した木簡は17点。うち1点は弘仁6年(815年)3月10日の日付が入った報告書で、死亡した収容者2人の氏名や年齢、裏面に施薬院の田畑を耕すために雇っていた4人が死亡したことが記してあった。

 「武蔵(東京都や埼玉県など)」「讃岐(香川県)」などの地名と、薬の材料として用いられていた「蜀椒(しょくしょう=サンショウ)」「猪脂」などと記した荷札も出土。悲田院から施薬院への上申文書とみられる木簡もあった。

 

850万年以上前に生息した世界最古のマイルカの化石

850万年以上前に生息した世界最古のマイルカの化石

 早稲田大や秋田大などの研究チームは7月2日、北海道新十津川町で発見されたイルカの頭骨の化石を再調査した結果、少なくとも850万年前の世界最古のマイルカ科の化石であることが分かったと発表した。これまではイタリアで発見された530万年前の化石が最古とされていた。

 この化石は1961年以前に発見され、77年のマイルカ科スジイルカ属として記録されたが、骨の形などから疑問が持たれていた。同チームは文献調査で化石があった地層の年代が850万~1300万年前であることを確認。クリーニング作業をやり直して骨の形を調べ、他のイルカの骨の特徴と比較したところ、マイルカの中でも既存の分類に当てはまらず、最も古いことが分かった。

    チームはこのイルカの学名を「(新十津川町周辺を示す)樺戸地域から産出した暁のイルカ」という意味の「エオデルフィス・カバテンシス」と名付けた。現代ではバンドウイルカやシャチなどがマイルカ科に含まれる。          

北海道むかわ町で新種のアンモナイトの化石

北海道むかわ町で新種のアンモナイトの化石

 北海道むかわ町の穂別地域で、白亜紀末約7200万年前の地層から化石で発見されたアンモナイトが新種と分かり、7月1日付の学会誌に発表された。穂別は北海道の中でも多くの化石が見つかることで知られ、新種のアンモナイトが確認されたのは今回で25種目。化石は直径約6㌢、厚さ約2㌢。

 アンモナイトは約6600万年前、恐竜とともに絶滅しており、今回の種はその直前に存在していたことになる。当時の海洋環境を解明する手掛かりにもなりそうだ。発表したのは国立科学博物館(東京)の重田康成研究主幹と町立穂別博物館の西村智弘学芸員。

前祭(7/17)・後祭(7/24) 今年から変わる祇園祭

前祭(7/17)・後祭(7/24) 今年から変わる祇園祭

 日本三大祭の一つで、京都の夏を彩る祇園祭が今年大きく様変わりする。ハイライトの「山鉾巡行」が49年ぶりに前(さき)祭(7/17)、後(あと)祭(7/24)に分離。これに伴い、宵山も2回ある。前祭は23基、後祭は10基のそれぞれ山鉾が巡行する。また、後祭では150年ぶりに「大船(おおふな)鉾」が復興する。

 幕末まで後祭の巡行の最後を飾っていたのが、古代神話に登場する神功皇后などをご神体として祀る大船鉾。室町時代に造られたとされるが、蛤御門の変(1864年)で大部分が焼けた。ところが2009年9月、大船鉾を含む「京都祇園祭の山鉾行事」がユネスコの無形文化遺産に登録され、復興の機運が高まった。

 大船鉾再興には1億円を超える資金が必要だったが、町衆の祭りだけに大企業にはあえて協力を求めず、地元の実業家や全国の有志から約1000件の寄付を集め、他の山鉾町などの支援も加わり、今回復興が実現した。          

大阪・藤井寺市の林遺跡で釣鐘の鋳造跡

大阪・藤井寺市の林遺跡で釣鐘の鋳造跡

 大阪府藤井寺市教育委員会は6月27日、同市の林遺跡で大小2基の釣鐘の鋳造跡が見つかったと発表した。出土した土器や瓦の年代から7世紀末から8世紀前半(飛鳥~奈良時代)に使われていたとみられる。

  大きい釣鐘の遺構は長辺3.5㍍、短辺3㍍の穴が掘られ、底には平瓦が並べられていた。同市教委によると、近くに7世紀後半に創建された拝志廃寺があったことから、同寺で使う鐘がつくられていた可能性があるという。

大仏次郎の生原稿発見 当時の編集者宅で

大仏次郎の生原稿発見 当時の編集者宅で

 小説『鞍馬天狗』などの作品で知られる作家の大仏次郎(1897~1973年)が59年に執筆したノンフィクション「パナマ事件」の生原稿や手紙が当時の編集者、秋山範義さん(故人)宅で見つかり、6月25日までに大仏の養女、野尻政子さん(85)=神奈川県鎌倉市=に返却された。

 野尻さんは24日、それらを大仏次郎記念館(横浜市)に寄贈。同館で近く公開される見通し。返却されたのは、週刊誌「朝日ジャーナル」創刊時に掲載され、後に単行本化された『パナマ事件』全27回分の生原稿。このほか、風間完さん(1919~2003年)の挿絵、ノンフィクション『パリ燃ゆ』の粗筋が書かれた生原稿、その取材のために赴いたパリからの手紙なども見つかり、寄贈された

富岡製糸場 世界遺産登録が正式決定 産業遺産で初

富岡製糸場 世界遺産登録が正式決定 産業遺産で初

 カタール・ドーハで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第38回世界遺産委員会は6月21日、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)の世界文化遺産への登録を正式決定した。委員会は遺産群について「国際的な技術交流を示す貴重な存在だ」と高く評価した。日本の世界遺産登録は18件目で、近代の「産業遺産」としては初めて。

 富岡製糸場と絹産業遺産群は富岡製糸場(群馬県富岡市)、近代養蚕農家の原型「田島弥兵旧宅」(伊勢崎市)、養蚕教育機関「高山社跡」(藤岡市)、蚕の卵の貯蔵施設「荒船風穴」(下仁田町)の計4資産で構成する。

    1872年に官営で操業開始。1893年に三井家、1902年に原合名会社、1939年に片倉工業へと経営は移り変わったが、施設はほぼ原型のまま引き継がれた。そして、1987年に操業停止した片倉工業は2005年に富岡市に寄贈するまでの18年間、「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げて、年間1億円をかけ維持管理に努めた。

          

軍艦島を国史跡に 世界遺産登録目指し保全枠組み

軍艦島を国史跡に 世界遺産登録目指し保全枠組み

 文化審議会は6月20日、端島(通称・軍艦島)や高島を含む幕末から昭和期の炭鉱跡で構成する「高島炭鉱跡」(長崎市)など9件を史跡に指定するよう下村博文文部科学相に答申した。端島などは「明治日本の産業革命遺産」の一部として、政府が2015年の世界文化遺産登録を目指しており、保全の枠組みが整う。また、45万年前のワニ類の化石「マチカネワニ化石」(大阪府豊中市)など6件を登録記念物とするよう求めた。近く答申通り告示され、史跡は1733件、登録記念物は88件となる。

与謝野晶子の未発表短歌 愛知の飲食店で発見

与謝野晶子の未発表短歌 愛知の飲食店で発見

 歌人の与謝野晶子(1878~1942年)の直筆で、全集などにも載っていない未発表の短歌2首が、愛知県津島市の飲食店で見つかっていたことが6月16日、分かった。津島市立図書館によると、未発表作は「くれなゐの牡丹咲く日は大空も地に従えるここちこそすれ」と、「春の夜の波も月ある大空もともに銀糸の織れるところは(あるいは「ところぞ」)」。いずれも晶子の署名がある。

    飲食店「まのや」で直筆の短歌5首が書かれた短冊が入った箱が見つかり、図書館に鑑定依頼があった。図書館や、晶子の生地、堺市にある堺市立文化館与謝野晶子文芸館が、筆跡鑑定や文献調査などを行い直筆と判明。うち2首が歌集や雑誌に掲載されていないことが確認された。

    晶子は1935年10月、津島高等女学校(現県立津島高)の創立20周年記念式典で講演するため津島市を訪問。「まのや」で食事をした際に書かれたという。箱の中には、歌人柳原白蓮の短冊もはいっていたが、別の機会に白蓮が名古屋市を訪れた際に詠んだとみられる。

白色鮮やかな新生「白鷺城」改修の囲い撤去

白色鮮やかな新生「白鷺城」改修の囲い撤去

 兵庫県姫路市の世界遺産・姫路城で、大天守を覆っていた改修作業用の囲いが6月14日までに、ほぼ撤去され、鮮やかな白色に塗り直された「白鷺城」が再び姿を現した。改修は2009年10月にスタート。囲いは10年12月に完成して大天守が見えなくなっていた。屋根の修理としっくいの塗り替えが終わり、囲いの撤去が進められていた。今後は石垣に残る囲いや基礎の撤去し、2015年3月27日から内部公開される。           

函館港で新島襄渡米150周年式典 不変の建学精神

函館港で新島襄渡米150周年式典 不変の建学精神

 同志社大学の創立者として知られる新島襄が北海道函館市から米国に渡って150周年になるのを記念した式典が6月14日、函館港で開かれた。新島は1864年6月14日、現在はその記念碑が立つ岸壁から米国船に密航して渡米。米国で天文学や物理学を学んで帰国後、京都に同志社英学校(現在の同志社大学)を設立した。

 式典では学校法人同志社の水谷誠理事長が「新島の建学の精神は変わらず生き続けている」旨、あいさつ。参加した130人は、海外渡航禁止を破ってでも米国で学ぼうとした進取の志を、改めてしのんだ。

東寺百合文書、シベリア抑留資料を記憶遺産候補に

東寺百合文書、シベリア抑留資料を記憶遺産候補に

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の国内委員会は6月12日、重要な歴史文書などの保存を目的とする記憶遺産の登録候補として、国宝「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」と、戦後のシベリア抑留と引き揚げに関する資料の2件を決定した。6月中にユネスコに通知、登録の可否2015年夏ごろに決まる見通し。東寺百合文書は京都市南区の東寺に伝わる約2万5000点の古文書。1997年に国宝に指定された。シベリア抑留に関する資料は抑留体験記や抑留者が描いた絵画など570点で、舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)に収蔵されている。舞鶴市が申請していた。

 

京都府などが「琳派400年記念祭委員会」を設立

京都府などが「琳派400年記念祭委員会」を設立

 京都府、京都市、公益財団法人京都文化交流コンベンションビューローなどは6月2日、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始したとされる琳派の魅力を発信するため、「琳派400年記念祭委員会」を設立した。

 2015年は光悦が徳川家康から京都市北区鷹ヶ峰の地を拝領してから400年にあたる。京都の美術館や博物館で展覧会などを開く。琳派のデザインを生かした工芸品の展示やファッション展を企画し、食品などの開発にも協力する。

 同委員会の代表を務める村田准純一・同コンベンションビューロー理事長は「文化的な価値を世界に伝えていく」と語っている。琳派は江戸時代に発展した絵画などの流派で、大胆な構図や金や銀を使った装飾的な画風が特徴。代表的な作品として宗達の「風神雷神図」などが知られている。

奈良・大淀町で横帯分割型文様の銅鐸見つかる

奈良・大淀町で横帯分割型文様の銅鐸見つかる

 奈良県・大淀町の民家に所蔵されていた弥生時代中期ごろの銅鐸(どうたく)が、瀬戸内東部で出土例が多い「横帯分割型」であることが桜井市纏向学研究センターの調査で分かった。横帯分割型は、斜めの格子文様と渦巻き文様が上下セットで横帯として配置されている。神戸市の「生駒出土袈裟襷(たすき)文銅鐸」など、これまでに和歌山や岡山、香川など瀬戸内東部で約10例出土しているが、奈良で見つかるのは初めて。           

興福寺 300年ぶりに再建中の中金堂上棟式

興福寺 300年ぶりに再建中の中金堂上棟式

 世界遺産に登録されている興福寺(奈良市)で5月24日、約300年ぶりに再建中の中金堂の上棟式が行われた。信徒総代や宗教関係者ら約650人が完成に向けて工事の節目を祝った。2018年に落慶法要の予定。中金堂は710年の造営以来、戦火や落雷などで7回焼失。1717年に焼けた後は小規模な仮堂でしのいできたが、文献や絵画、発掘調査などを基に、創建当時の構造をほぼ忠実に復元する。

明治9年撮影の最古の箸墓古墳の写真保存

明治9年撮影の最古の箸墓古墳の写真保存

 宮内庁書陵部によると、卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中ごろ~後半)など同県の天皇陵や皇族墓計44カ所を1876年(明治9年)に撮影した写真と原板が宮内庁に保存されていることが5月18日、分かった。日本で最古の古墳写真という。明治政府が奈良県に依頼し、官民合同の奈良博覧会社が撮影した。目的は不明。写真は計59枚あり、「大和御陵写真帖」と題するアルバムにまとめられていた。

   最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳は、特異な4段構造の墳丘や後円部頂上に築かれた巨大な円壇(直径45㍍、高さ5㍍)が写っていた。箸墓古墳は明治20年代に植樹されて樹木が密集しているが、撮影当時は木が少なく、墳丘本来の姿を鮮明に捉えた唯一の写真。謎の多い大王墓の構造を知る資料になるとみられる。退色が進んだため、書陵部が2011年度に原板のガラス湿板をデジタル化、画像を復元した。早ければ2015年にも宮内公文書館で一般に公開する。

 

「宝永」級地震は7000年で16回発生していた

「宝永」級地震は7000年で16回発生していた

 高知大の岡村真特任教授のチームは5月26日、東海、東南海、南海地震の3連動で起きたとされる宝永地震(1707年、推定マグニチュード8.6)に匹敵する巨大地震が、過去7000年の間に少なくとも16回起きていたことを示す津波堆積物を高知県土佐市の池で確認したと発表した。

 岡村氏らは南海トラフ付近での巨大地震や津波の発生間隔を研究するため、2006年から土佐市の蟹ヶ池で地層を調査し、2013年1月には過去六千数百年で少なくとも15回の巨大地震による津波痕跡を確認したと発表。その後も調査を続け、7000年前の地層に当たる池底約8.5㍍の深さまで到達。6500年前ごろにも津波を伴う地震があったことが分かった。

約55㌔の「弘法大師の道」復活 高野山開山1200年

約55㌔の「弘法大師の道」復活 高野山開山1200年

 奈良県と吉野山・金峯山寺、高野山・金剛峰寺などが、青年時代の空海が両山の間を歩いたとされる道のりの調査を終え、「弘法大師の道」として復活させた。ルートは約55㌔で、ほとんどが険しい登山道。弟子がまとめた詩文集などから当時の地理を踏まえてルートを推定した。関係機関でつくる実行委員会が5月28日から開山修業として実際に歩くという。2015年は空海が高野山を開いて1200年、大きな節目の年を迎える。    

鳥獣戯画全巻 33年ぶり今秋展示公開 修理完了

鳥獣戯画全巻 33年ぶり今秋展示公開 修理完了

 京都国立博物館は、京都市の高山寺に伝わる国宝絵巻「鳥獣人物戯画」(甲乙丙丁の4巻)の修理完成を記念し、5月27日までに修理過程の成果を紹介する展覧会「国宝 鳥獣戯画と高山寺」を今秋開くと発表した。同博物館が4巻を同時に展示するのは、1981年以来、33年ぶり。同展の会期は10月7日から11月24日まで。

 今回の修理の過程で、鎌倉時代の作とされる丙巻が全4巻の中で唯一、人物画と動物画が並んでいた謎が解明。もとは1枚だった和紙の表と裏に描かれていたものを剥がし、つなぎ合わせて一つの絵巻物に仕立てたことなどが判明していた。