歴史に学ぶ 歴史検証『If』
「歴史に『I f 』はない」。よくいわれる言葉です。が、その「I f」があったら、その後の歴史は大きく変わっていたのではないか-というケースは決して少なくありません。いや、かなり多いといった方が的を射ているかも知れません。そんなケースをこれから一つひとつ見ていきたいと思います。
『If』①「石田三成があれだけ武功派に嫌われていなかったら」?▼
豊臣政権下では「武功派」と「文治派」の争いが生まれていました。むろん、秀吉がまだ健在だったころのことです。直接の争いは、秀吉の朝鮮出兵時に起こりました。朝鮮に渡った諸大名の監察を行うために、石田三成が派遣されました。

三成の軽率な報告が招いた、その後の歴史をを左右した”禍根”
このとき福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤清正たちは心を合わせて戦闘に従っていましたが、ある日、小康を得、たまたま碁か将棋を打っていました。その光景を、監察に来た三成が目撃、秀吉に報告しました。秀吉は怒って、諸将に引き揚げを命じたのです。このことが遺恨として残りました。前線で苦労していた諸将は、たまたま三成がやってきたときに将棋を打っていただけで、長い間のわずかな安らぎに過ぎない。それを三成は誇大に報告した-と一致して三成を恨んだのです。

「三成憎し」なければ、東軍・西軍の勢力図は大きく変わっていた
石田三成は近江(滋賀県)出身の文治派です。武功派の大名は三成を「算盤勘定と悪知恵だけで出世した奴」と軽蔑していました。ですから、三成とのこれほどの対立がなければ、これらの大名も果たして初めから徳川家康に味方したかどうか、全く分かりません。
関ヶ原の合戦で、豊臣恩顧の大名で、ひたすら「三成憎し」の思いから徳川家康に味方した人物は相当多かったのです。福島正則や加藤清正ら有力大名がそうでした。ですから、三成がそこまで武功派に嫌われていなかったら、東軍・西軍の勢力図は相当変わってしまい、様子見をしていた西軍の大名たちの戦への臨み方をも含め、勝敗の行方も分からなかったのです
『If 』②「豊臣秀頼が関ヶ原の合戦場に立っていたら」?▼
豊臣政権下の武功派大名の、豊臣秀頼の父・秀吉に対する恩は極めて深いものがありました。そのため秀吉が亡くなった後も、これら武功派大名が秀吉の妻、北政所(ねね)のもとへ相談に出向く者も少なくなかったのです。

豊臣家滅亡は関ヶ原の戦いで秀吉恩顧の大名を味方にできなかったためそれだけに、豊臣秀頼が大坂城から出て来て関ヶ原の合戦場に立っていたら、これらの大名はくるりと向きを変えて、秀頼のもとに駆け付けたのではないでしょうか。福島正則、加藤清正、黒田長政などはとくにそうです。そんな、秀吉恩顧の大名たちをつなぎとめ、味方にできなかったことが、豊臣家の敗北、そして滅亡に追い込まれていくのです。
黒田長政は、小さいときに織田信長の人質となりました。父・黒田如水の行動が曖昧だったため、怒った信長が秀吉に「人質を殺せ」と命じたことがありました。が、秀吉は「そうします」といいながら、そうしなかったのです。長政の命を助けたわけです。したがって、長政にすれば豊臣秀吉は命の恩人なのです。

秀頼が戦場に赴かなかったことが、敵方の豊臣恩顧の大名を助けたその意味では、秀頼が大坂城から出なかったことは、この合戦の勝敗を決めた上で大きな役割を果たしたといえるでしょう。徳川家康にとっては実に幸運でした。周知の通り、小早川秀秋の裏切りもありましたが、それだけではありません。むしろ、この秀頼不出場の方が、影響が大きかったといえるのではないでしょうか。彼らは戦場で、敵方に恩ある太閤の遺児・秀頼の姿を見たら、とても討伐に向かえなかったことでしょう。

最後まで豊臣恩顧の大名を信用しなかった家康
それだけに、家康もこの豊臣系大名たちが、自分の味方をしても心の底からは信じませんでした。「何かあれば、彼らは必ず裏切る」と警戒していたといわれています。とくに福島正則や加藤清正に対してはその思いを深めていました。が、どうしたわけか加藤清正は、大坂の陣の前に急死しています。「徳川家康に毒饅頭を食わされた」という噂がとんだほど、彼の死に方は不自然でした。

関ヶ原の功績で120万石の大封得た福島正則は秀忠の代に改易に
福島正則は関ヶ原の合戦の功績で、毛利氏の拠点だった広島城を与えられ、120万石もの大封を得ました。ところが、家康が亡くなり、秀忠の代になって改易されてしまいました。徳川政権が安定したいま、警戒しながら大封を与えておく必要がない。「もう御用済み」というわけだ。不満があるならいつでも相手になるぞ-と威嚇されているにも等しい対応でした。
そして福島正則は辛うじて家名を残され、信州(長野県)川中島でわずかな俸禄をもらう存在にまでおとしめられてしまったのです。正則も、自分がここまで徳川将軍家に警戒され、信用されていないのだということを思い知ったことでしょう。
『If 』③「蒲生氏郷が会津へ移封していなかったら」?▼
あまり知られていないことですが、天下人になった豊臣秀吉が最も恐れていたのが蒲生氏郷(がもううじさと)です。なぜなら氏郷は織田信長子飼いの直臣だったからです。

信長のもとで子飼いの直臣として育った氏郷 氏郷は近江国(滋賀県)日野城主だった蒲生賢秀(かたひで)の息子です。賢秀は地方豪族にしては先見の明があり、それまで佐々木源氏系の六角氏に仕えていましたが、これからは織田信長の時代になると見抜き、そこで密かに使いを出し、従属を誓いました。 信長にはそういう豪族がたくさんいたので、すべて人質を取っていました。賢秀も息子の氏郷を岐阜城に人質に出しました。岐阜城には当時100人余りの同じような少年がいたといいます。しかし、信長はその中から氏郷に目を向けていました。というのは、氏郷が非常に賢く、今日風に表現すれば“経営感覚”を持っていたからです。

楽市・楽座での”規制緩和”など信長の都市経営を学んだ氏郷 信長は、今後の大名はすべて領国経営に算盤勘定をいれなければいけないと考えていました。また、岐阜の城下町で展開した楽市・楽座で、単に呼び集めた商工業者の負担減だけではなく、今でいう“規制緩和”を積極的に
行いました。撰銭令の発布、道路を整備し物流ルートを設定したほか、関所や船番所の撤廃なども行いました。
こうした信長の新しい都市経営に、蒲生氏郷少年は目を向け、同時に信長の理念を自分のものとして体得していきました。そこで信長は人質の中でも氏郷は非常に期待できると考え、自分の娘を氏郷の嫁にしました。したがって、蒲生氏郷は信長の婿なのです。

信長の娘婿・氏郷を警戒し、会津に移封した天下人・秀吉
豊臣秀吉は巧妙な政略によって天下人の座を占めましたが、内心では若いながら人使いがうまく、人望もあるこの氏郷を恐れていました。そこで、秀吉は「伊達政宗は油断できない。これを抑えられるのはあなただけだ」とうまい名目を付け、思い切って氏郷を会津に移封しました。近畿・東海地区から何とか、危険な氏郷を遠ざけ、伊達政宗を抑える駒として使う“一石二鳥”の妙案だったのです。

会津移封で天下取りを断念した氏郷
この異動命令を受けた氏郷は、秀吉の巧みな意図をくみ取り、会津で大禄を得たにもかかわらず、「会津に行ったのでは、もはや天下の座は得られない。それが悲しい」と家臣に語り、さめざめと涙を流したと伝えられています。このことからも分かるとおり、一般にはほとんど知られていないことですが、実は氏郷にも天下取りの野望があったということです。
氏郷が近畿もしくは東海地区にとどまっていたら、“信長の婿”の立場を最大限に活かし、天下人はともかく、豊臣政権から徳川政権へ移行する過程で、少なくとも後世に残る様々な影響力を行使していたのではないでしょうか。

利休の死後、千家の息子を匿った秀郷
千利休の不慮の死の後、千家の息子たちはそれぞれ諸国に散っていきました。その一人を匿ったのが蒲生氏郷でした。秀吉は当然そのことを知っていました。現在、会津若松市にはこの千家の息子の匿われた家が、歴史的遺産として保存されています。

氏郷急死に、秀吉による毒殺説も
氏郷のこういう行為を秀吉は気に入りません。秀吉にすれば、氏郷はいぜんとして信長公の婿という誇りを持ち、自分(秀吉)に心から臣従していない。対抗心を持ち続けていると受け取ります。やがて、氏郷は京都に呼び戻され、そして急死するのです。世間では「蒲生氏郷は秀吉に毒殺された」と噂されました。
『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」?▼
足利尊氏が幕府を鎌倉に置いていたら、足利氏による幕府政治も随分、様相の異なったものになっていたでしょう。

南朝勢力の帰趨を大きく左右した幕府設置場所
まず後醍醐天皇率いる吉野の南朝勢力が勢いを盛り返していたのは間違いないところです。楠木正成や新田義貞など後醍醐天皇の軍事勢力がそれまでとは違った攻勢にでることも十分考えられます。それに伴って、南朝方に付く勢力も出てきていたはずです。
ただ、それには、天皇親政のスローガン一点張りではなく、武家に対する論功行賞も約束する姿勢を打ち出すことが必要だったでしょうが。
九州で勢力を挽回した尊氏は1336年(建武3年、延元元年)4月、上洛行動を開始し、5月、楠木正成を大将とする建武政府軍を湊川の戦いで破り、6月には再び入京に成功。そして、重要なのはこのとき、尊氏が光明天皇を擁立した点です。一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も「自分こそが正統の天皇である」と主張したため、ここに北朝と南朝の二つが並立する60年にわたる南北朝の争乱が始まることになったのです。

尊氏は「鎌倉」か「京都」か、幕府開設場所を諮問
尊氏は1338年(暦応元年、延元3年)8月に待望の征夷大将軍に任命されました。将軍になれば、当然、幕府をどこに置くかという問題が、にわかにクローズアップされることになりました。候補として挙げられたのは鎌倉と京都です。源頼朝以来の武家政権の伝統から考えると、鎌倉ということになるでしょう。それが、京都に決められたのはどうしてなのでしょう。
この問題を考えていくうえでヒントになるのが、1336年11月7日に制定された「建武式目」です。これは全文17カ条からなる尊氏による成文化した施政方針というべきものですが、その冒頭に、幕府をそれまで通り鎌倉に置いた方がいいか、他所(京都)に置いた方がいいか諮問した一文があります。
尊氏関係者の間でも意見が分かれていたことが分かります。上層武士たちの多くは、鎌倉にそれぞれの屋敷を持っていたため鎌倉に幕府を置くことを主張したでしょう。尊氏の弟・直義(ただよし)は「建武の新政」のときも鎌倉の守りについていたので、鎌倉を主張したのではないでしょうか。

南朝勢力を牽制するため尊氏が「京都」に決断
ところが、鎌倉主流と思われた情勢の中で、尊氏本人は鎌倉より京都の方がよいと考えていたようです。一つは軍事的に、幕府を鎌倉に置くと、吉野にいる南朝勢力が勢いを盛り返してくる可能性があるためです。吉野の動きを牽制するためには、幕府は京都に置かなければならないという論法です。
そしていま一つは政治的な理由で、「国家行政権を握るには、国家の中央に位置する必要がある」という考え方です。鎌倉にいて朝廷をリモートコントロールするのは大変です。それで京都に幕府を置いて直接的にコントロールしようとしたのではないでしょうか。

鎌倉に幕府を置いていたら南朝の御所奪還の動きは強くなっていた
もし、尊氏が周囲の意見に押されて鎌倉に幕府を置いていたら、後醍醐天皇の配下の者たちが暗躍し、その京・御所奪還への動きは活発になっていたでしょう。後醍醐天皇はかなり自己中心的な人物だったという印象は強いのですが、よくいえば「強烈な個性でぐいぐい引っ張って行った」ということです。賢明な判断に基づいて京都に幕府を置いた尊氏が京にいたにもかかわらず、後醍醐天皇はあれだけ粘り強く戦い続けたのですから。
『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」?▼
蘇我入鹿は周知の通り、皇極女帝の時代、「乙巳(いっし)の変」で暗殺され、それが大化の改新の口火となります。そして、蘇我本宗家が滅びます。
しかし、もしここで蘇我入鹿が殺害されず、この難を逃れていたら、彼は最終的に大王位の禅譲を受けていたかも知れません。

学識者で大陸の情勢にも明るかった入鹿
蘇我入鹿は開明的な人物で、学識も備えていました。遣隋使として中国に渡り、隋・唐と24年間にわたって留学していた僧・旻(みん)は帰国後、学問所、講堂を開いています。その講堂に入鹿も中大兄皇子、中臣鎌足も通っています。その僧・旻が「わが講堂に入る者で、宗我(蘇我)大郎(=そがのたいろう)より優れた者はいない」と伝えています。

入鹿は禅譲制で大王位に就くことを考えていた?
通説では、入鹿は大王になることまでは考えていなかったといわれているのですが、彼は相当な学識者で大陸の政治情勢や文化に明るい人物でした。
ですから、蘇我本宗家の権勢を永続させるためにも、大王位に就くことを考えたはずです。
入鹿が狙いとしたその方法が、中国帰りの学問僧たちによってもたらされた禅譲制という制度です。入鹿は、祖父・蘇我馬子の娘が舒明天皇の妃になって産んだ古人(ふるひと)大兄皇子を大王にして、その大王から位を禅譲させるという方法を考えていたようです。実はこれは、隋・唐で行われた方法なのです。

いくつもある、入鹿が大王位を意識していた傍証
蘇我入鹿が大王位を意識していた傍証は実はいくつもあるのです。『日本書紀』によると、入鹿の父・蝦夷が葛城の高宮で、中国の天子にのみ許される「八?(やつら)の舞い」を行ったり、今来(いまき)に双墓をつくって、これを「大陵・小陵」と呼ばせ、大きい方を自分の、小さい方を息子の入鹿の墓と定めたとも書かれています。
それから、645年には甘橿(あまかし)丘に巨大な屋形を建て、蝦夷の家を「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、子供たちを王子(みこ)と呼ばせています。これらはすべて入鹿の発案で、彼が父の蝦夷を説得して行ったことなのです。中国では禅譲の前に権力者が皇帝と同じようなことをするのです。

最大の豪族の家に生まれたエリートの弱さが、野望を未達に終わらせた
ここまで準備しながら、入鹿の野望はなぜ成就しなかったのでしょうか。それは入鹿が最大の豪族の家柄に生まれたエリートで、人間の苦界を見ないで育った点にあるのではないでしょうか。「乙巳の変」の主導者の一人、中臣鎌足などは地を這うようにして育ち、そこからのし上がってきた人物です。そんな鎌足に比べると、やはり入鹿には性格の甘さが感じられます。入鹿の野望(=大王位)を真っ先に見抜いたのは恐らくこの鎌足でしょう。