奈良・若草山で春呼ぶ山焼き 古都の夜空を焦がす
古都・奈良の恒例行事、若草山(奈良市)の山焼きが1月24日夜にあり、ふもとの奈良公園などに集まった観光客ら約19万人が山肌に広がる炎に見入っていた。山焼きに先立ち、約600発の花火が打ち上げられた後、山肌に散らばった地域の消防団員約300人がラッパの合図に合わせて一斉に着火。炎は煙を上げて広がり約33㌶を焼いた。
横穴墓から5~6世紀の大量副葬品 宮崎・えびの市
宮崎えびの市教育委員会は1月19日、同市島内の「島内地下式横穴墓群」(5~6世紀ごろ)で、装飾された朝鮮半島製の「銀装円頭大刀」など武器、武具を中心とした大量の副葬品を納めた有力者の墓が見つかったと発表した。未盗掘で、繊維や革が多数残存するなどほぼ完全な状態で見つかっており、同市教委は極めて珍しい例としている。
墓は道路工事に伴う調査で2014年10月に見つかり、内部を調査していた。副葬品とともに男女とみられる2体の人骨が見つかった「玄室」は奥行き約2.25㍍、幅約3.1㍍、高さ94㌢、墓群約160墓の中で最大級で、大和政権からの甲冑が含まれ、朝鮮半島とも直接交流のあった有力首長の墓とみられている。
舒明天皇陵か蘇我蝦夷墓説 奈良・明日香村に巨大石溝
奈良県立橿原考古学研究所は1月15日、明日香村川原の丘陵地にある小山田遺跡で、様々な石で固めた巨大な溝(掘割)が見つかったと発表した。これまで全く知られていなかった遺構で、同研究所は7世紀中ごろに築かれた一辺50㍍以上の大型方墳の濠(ほり)とみている。古墳とすれば飛鳥時代(7世紀)最大級で、舒明(じょめい)天皇ら天皇(大王)陵や、天皇に並ぶ権力を振るった蘇我蝦夷(そがのえみし)の墓の可能性が指摘されている。
溝は2014年11月からの県立明日香養護学校の建て替え工事に伴う調査で見つかった。ほぼ東西方向に約48㍍が確認された。幅は最上部が約7㍍、底面が約3.9㍍。深さは残っている部分で約1㍍あった。北側の法(のり)面には40㌢大の石英閃緑(せんりょく)岩(花こう岩)がびっしりと張ら付けられ、底面には15~30㌢大の石英閃緑岩が敷き詰められていた。南側の法面は一辺数十㌢の方形に加工した板石(厚さ5~10㌢)が積まれていた。一番下に緑がかった結晶片岩が2段に、その上に赤みがかった室生(むろう)安山岩が階段状に8段積み上げられていた。溝を造成した時の土の中から6世紀後半の土器類、溝が埋没した時の流入土から7世紀後半の土器が出土。板石積みに用いられた石の種類からも7世紀中ごろの築造とみられるという。
一帯は飛鳥時代の古墳の集中地域。古墳とすれば、蘇我馬子の墓とする説が有力な石舞台古墳(明日香村、一辺約50㍍の方墳)を上回り、推古天皇陵とされる飛鳥時代最大の山田高塚古墳(大阪府太子町、長辺61㍍)にも匹敵する。現場は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)、藤原鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼした「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)の舞台とされる伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡から西約1㌔。
大坂の陣400年「城塞」テーマに2/7 菜の花忌シンポジウム
「第19回菜の花忌シンポジウム」(司馬遼太郎記念財団主催)が2月7日午後2時、大阪市中央区のNHK大阪ホールで開かれる。テーマは「乱世から乱世へ—-『城塞』から考える」。2014年から15年にかけては、「大坂の陣400年」。司馬が大坂の冬の陣・夏の陣を描いた小説『城塞』を軸に、戦国時代の大坂城を巡る様相、乱世における人間模様など様々な観点から意見を交わす。
司馬遼太郎賞・フェローシップ贈賞式(記念スピーチは、作家の伊集院静さん)に続くシンポジウムのパネリストは、建築家の安藤忠雄さん、作家、伊東潤さん、静岡文化芸術大学教授・磯田道史さん、女優の杏さん。司会は文化外国語専門学校校長で元NHKアナウンサー、古屋和雄さん。
藤原宮 瓦最大産地の窯跡 奈良県高取町で発見
奈良県高取町教育委員会は12月18日、藤原宮(694~710年同県橿原市)の瓦を焼いた7世紀末の窯跡が、同町市尾で見つかったと発表した。周辺は藤原宮で使われた瓦の最大産地とみられていたが、窯跡の発見は初めて。燃焼室など窯の構成部分がすべて良好な状態で残り、天皇が執務する大極殿に使う軒丸瓦(のきまるがわら、直径約20㌢、厚さ約5㌢)も出土した。
窯跡は丘陵の西側斜面に造られ、全長6㍍、幅1.3㍍。粘土のブロックを棒状の道具で突き固めながら積んで窯を築き、木を燃やす燃焼室、瓦を焼く燃成室、煙が抜ける煙道をすべて確認できた。傾斜は約15度と緩く、「登り窯」から後世の「平窯」への過渡期とみられる。窯の中からは軒丸瓦や丸瓦、窯を使い終えた後の儀式で供えたらしい馬の下あごの骨も出土した。網伸也・近畿大教授は「7世紀後半に滅亡した百済からきた工人が伝えたのだろう。日本最初の都城を造った国家の意気込みを感じさせる」と話している。
京都・岡崎の尊勝寺で最大級の九体阿弥陀堂跡を確認
発掘調査会社のイビソク関西支店(京都市伏見区)は12月18日、左京区岡崎の発掘調査で、平安後期に建立された六勝寺の一つ「尊勝寺」の九体阿弥陀堂(くたいあみだどう)跡の南端を確認したと発表した。廂(ひさし)と孫廂を含めた建物の全長は約65㍍と判明、九体阿弥陀堂としては最大級という。南北に長い建物の南部分で、複数の柱穴跡を確認した。建物の南端を示す柱穴跡もあり、これまでの調査で判明している北限部分に照らして、廂を含めた柱間は17間、建物自体の柱間は13間と分かった。南端の柱穴は直径1.5~2㍍と大きく根固め石が敷き詰められていた。礎石は見つからなかった。
尊勝寺は法勝寺をはじめとして岡崎地区に建てられた六カ寺の一つ。九体阿弥陀堂は堀河天皇の発願で1105年に建立。9体の阿弥陀如来像と四天王像を安置したとされる。
藤原宮の東方官衙地区で発見の建物跡は楼閣・大型倉庫
奈良文化財研究所は12月11日、奈良県橿原市の藤原宮(694~710年)跡で大極殿の東側にあった官庁街「東方官衙(かんが)地区」で2年前に一部が見つかった礎石を据えた建物の跡について「全容が判明し、柱の配置から楼閣や大型倉庫などだったとみられる」と発表した。礎石建物は寺院など格式の高い施設に用いられた構造。藤原宮では大極殿などの中枢施設や門のほかはなかったという。
発掘の結果、規模が南北約8㍍、東西約11㍍と分かった。その西に南北約7㍍、東西約12㍍以上の大型の掘っ立て柱の建物跡も新たに発見。2棟とも大極殿の真東に位置し、中心軸が大極殿とほぼ一致しており、藤原宮の造営当初から計画的に配置されたとみている。平城宮、平安宮には類例がなく特殊な性格を持つ建物だったとみられる。
9000年超前の人骨 沖縄の洞穴遺跡から出土
沖縄県立博物館・美術館(那覇市)は12月11日、同県南城市のサキタリ洞遺跡で、9000年前より古い地層から頭や上半身の大部分が残る人骨が見つかったと発表した。人骨を覆うように複数の石が合ったことなどから、博物館は洞穴を墓として埋葬された可能性があるとしている。国内では愛媛県久万高原町の上黒岩岩遺跡など縄文時代早期の9000~8000年前の埋葬人骨が見つかっている。今回の人骨が埋葬と確認されれば国内最古級になる可能性がある。見つかった人骨は後期旧石器時代(3万5000~1万数千年前)の可能性もあるという。成人とみられ、仰向けの姿で頭や両手、胴体といった上半身の大部分が残っており、直径30㌢大の石が4個、頭や胸、腹などの上で見つかった。
竹久夢二直筆の原稿・手紙20点 東京都内で見つかる
画家で詩人の竹久夢二(1884~1934年)の手紙やはがき、直筆原稿が計20点が東京都内で見つかり、竹久夢二美術館(東京)と菅茶山記念館(広島県福山市)が12月6日発表した。編集者として交流のあった童謡詩人、葛原しげるの孫、真さん(66)が東京都小金井市の実家で発見した。直筆作品がこれだけまとまって見つかるのは珍しい。8点は1912、13年に夢二がしげるに宛てた手紙やはがきで、12点は童話など直筆原稿だった。今回見つかった資料は12月7日から2015年2月22日まで菅茶山記念館で展示される。
手紙やはがきは、夢二の作品が世評で評価される以前のもので、夢二の作品に容赦のない、出版社の要求に対する不満や批判など、胸の内を編集者にぶちまけている。例えば、挿絵の描き方について「単純な線で、複雑な内容を表現するのと、空疎な観察を、統一のない粗雑な線でごたごた、所謂こまかく描くのとは別のことです」と主張。夢二自身は、自然を細かく見たうえで、あえて印象的に単純な線で描いたのに、出版社からは写実的な絵を求められて、納得できない夢二が担当編集者に伝えてほしいと、葛原に訴えている。
簡素な恭仁京・朝堂院南門 短期間での造営を裏付け
奈良時代に聖武天皇が造営した恭仁宮(くにきゅう、京都府木津川市)の朝堂院の南門は、掘っ立て柱を使った簡素な門だったことが12月3日、分かった。奈良時代の宮殿は、礎石の上に柱を据える工法が主体。ところが、南門跡は幅約15 ㍍のうち開閉部が約6㍍と当時では大規模だが、礎石の上に柱を据える工法は取られていなかった。聖武天皇が短期間に遷都を繰り返し、その一つが恭仁京だけに、京都府教育委員会では「短期間で建てられたことが裏付けられた」としている。恭仁京は740年、平城京から遷都したが、4年後に廃都となった。モデルとした平城京は何度も建て替えられており、府教委は平城京の初期の姿を研究するうえで貴重な発見だとしている。
文豪・漱石が読者の学生に宛てた未公開書簡発見
夏目漱石(1867~1916年)が面識のない学生に宛てた未公開書簡が発見され、文豪が晩年を過ごした東京都新宿区に寄託された。学生が自作を読み込んでくれたのを喜ぶ内容で、「あなたが私の作物から一種の感化をそれがあなたの処世上もしくは思想上役に立ってゐるなら甚だ嬉しい」「あなたの手紙を読んで多大の愉快を感じた」、そして「私の出来る事なら何でも云って御寄(およこ)しなさい」と結ばれており、漱石の優しさがにじみ出ている。
書簡の消印は1909(明治42)年12月10日付で、東京高等師範学校(現筑波大)学生、荒木秀一宛て。この時期の漱石は「それから」を書き終えて疲弊し、勤務する朝日新聞で文芸欄を開始するなど多忙を極めていた。
解体修理中の
解体修理中の薬師寺東塔で「版築層」の基壇見つかる
薬師寺などは12月2日、解体修理中の薬師寺東塔(奈良市、国宝)で、土台部分にあたる基壇が見つかったと発表した。この基壇に、バウムクーヘンのように何層にも土を突き固めたとみられる「版築層」を確認した。基壇は東西12.7㍍、南北12.4㍍、高さは1.1㍍以上。版築層の厚さは各層2.5~6㌢と非常に薄く、発掘した奈良県文化財研究所と奈良県立橿原考古学研究所は「丁寧に細かく突き固めていたので、現在まで保たれていたのではないか」と話している。東塔は薬師寺が平城京へ移された奈良時代から現在まで伝わる唯一の建築とされ、基壇の本格的な発掘は今回が初めて。
谷崎の恋愛模様示す288通の書簡など遺族が保管
文豪、谷崎潤一郎(1886~1965年)と、妻松子やその妹重子らの間で交わされた未公開の書簡計288通を遺族が保管していたことが11月25日分かった。谷崎が松子との結婚に際し「忠僕として御奉公(ごほうこう)申上(もうしあげ)主従の分を守り候(そうろう)」などと綴った「誓約」の手紙も含まれる。女性崇拝をモチーフにした谷崎作品と、密接に結びついた恋愛模様を伝える貴重な資料だ。
松子や重子は、代表作「細雪」に登場する4姉妹のモデルとされる。書簡は谷崎が書いたものが180通、松子が95通、重子が13通で、谷崎が松子と出会った27年から谷崎晩年の63年までの36年間に交わされた。
南方熊楠の自画像発見 奈良県五條市の旧家で
生態学や民俗学の先駆者として知られる博物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす、1867~1941年)の自画像を描いたはがきが、奈良県五條市近内町の旧家「藤岡家住宅」(国登録有形文化財)で見つかった。熊楠が1921年11月に元官僚で当主の藤岡長和に宛てたもの。自画像は上目遣いの迫力ある表情で、縦じまの黒いどてらをまとって紺の帯を締めた姿。右手に巾着を持ち、左手を差し出している。
「おや方が おや方那(な)くて 暮の秋」「原首相殺され 嚢中偶(のうちゅうたまたま)空ときたので」とあり、4日前に発生した、官僚の親方である原敬首相暗殺事件に触れる一方、財布が空になったと伝える。ちゃめっ気で描いたと考えられる、熊楠らしいはがき–と専門家はみている。専門家によると、熊楠は自画像をいくつか描いているが、こうした写実的な描写は珍しいという。
紀元前2世紀「有柄式銅剣」の鋳型片 福岡で初出土
福岡県春日市教育委員会は11月12日、同市須玖南の須玖タカウタ遺跡で、握り手のある「有柄式銅剣」の鋳型片が出土したと発表した。弥生時代中期前半(紀元前2世紀中ごろ)の朝鮮半島系のものとみられる。有柄式銅剣の出土例は佐賀県・吉野ケ里遺跡など国内3カ所であるが、鋳型の出土は朝鮮半島も含めて初めて。
同遺跡の近くには「奴国の王都」と推定される須玖遺跡群の中核、須玖岡本遺跡がある。今回見つかったのは剣の柄の部分の石製鋳型のの一部(長さ13.2㌢、幅2.2㌢)。黒く変色した部分があり、実際に鋳造した可能性が高いとみられる。また、青銅器を量産できる日本最古の土製鋳型も大量に出土した。同市教委は、奴国の高度な生産技術を示す貴重な発掘成果だとしている。
清水寺で15世紀「応仁の乱」で焼失「轟門」礎石確認
京都府教育委員会は11月11日、清水寺(京都市東山区)の重要文化財「轟(とどろき)門」の解体修理に伴う発掘調査で、15世紀中ごろの礎石が見つかったと発表した。現在の轟門は1633年の建立。今回南半分の地中を調査したところ、それより古い遺構が四つの時期にわたって確認された。このうち15世紀のい遺構で見つかった礎石1個は幅約50㌢、奥行き約40㌢、高さ約25㌢。礎石と同時代の土に焼けた跡があることから、門は応仁・文明の乱で焼失したとみられる。その前後の年代の地層でも、礎石を据えた穴の遺構や瓦の一部が見つかり、江戸初期までの約200年間に少しずつ位置をずらして、頻繁に建て替えられたことも分かった。門の変遷を裏付ける史料となりそうだ。
平安期の東北の英雄アテルイらに思い馳せ、記念の法要
平安時代の蝦夷の英雄、アテルイとモレの顕彰碑が建立されて20年を記念する法要が11月8日、碑が建つ京都市東山区の清水寺で営まれた。二人にゆかりのある岩手県と福島県の関係者や、関西在住の東北出身者ら約150人が集い、1200年前の歴史に思いを馳せた。
アテルイとモレは当時の東北地方の指導者で、平安時代、桓武天皇の御世、朝廷から派遣された征夷大将軍・坂上田村麻呂らと数次にわたり激闘を繰り広げた。勝利した田村麻呂は二人を連れて都に凱旋し、朝廷に二人の助命を嘆願したが、許されず、処刑されたと伝わる。関西在住の岩手県出身者が、田村麻呂ゆかりの清水寺に二人の碑を建てさせてもらえるよう持ち掛け、平安遷都1200年に合わせて1994年に実現した。
古墳壊し敷地造成、藤原宮・大極殿院建設の痕跡
奈良文化財研究所は11月6日、694年に造営された藤原宮跡(奈良県橿原市)の発掘調査でで、天皇が即位などの重要儀式を行う地区「大極殿院」から、古墳を囲んでいた周溝の跡や埴輪片が見つかったと発表した。当初あった古墳を壊し、敷地を造成したとみられる。大極殿院は東西約120㍍、南北約170㍍の区画で、中心に大極殿があり、内庭を挟んで南側に南門があった。石敷きの内庭の下の地層から古墳の周溝が見つかった。
周溝は幅約1.5~2㍍の弧状の溝で、形状などから古墳は直径約12~15㍍の円墳とみられる。円筒埴輪の一部や土器などが出土し、周辺から耳環や管玉など古墳の副葬品らしい遺物も見つかった。墳丘を削って平らにし、宮を造営したらしい。藤原宮跡ではこれまで、大極殿院の南側でも別の古墳の周溝の一部が見つかっている。たとえ古墳を壊すことになったとしても、大和三山に囲まれた景勝の地に宮を造営することが大切だったものとみられる。
平城京天平祭2014~花と古のフェスティバル~ 11/1~
奈良市・平城宮跡で11月1~9日、「平城京天平祭2014~花と古のフェスティバル~」が開催される。期間中、大極殿・広場、朝堂院で花絵巻、花桟敷、竹の四神(朱雀、青龍、白虎、玄武)、風車が奏でる黄龍の風、、巨大木琴などが常設展示されるほか、平城宮跡周遊謎解きイベントが行われる。
また、土・日・祝日には朱雀門などで衛士 隊、広場では古代行事「万葉蹴鞠(けまり)」がそれぞれ再現される。天平時代の衣装を身に着けたり、蹴鞠の体験コーナーもある。東院庭園では雅楽と舞で表現する「よみがえる古都の宴」と題した、天平時代の宴が再現される。このほか、土・日・祝日には地元の名店など奈良のおいしいが集まった飲食物販&ものづくり体験コーナーが設けられる。
大阪城 豊臣時代の本丸と内堀 現代の技術で921億円
ゼネコン大手、大林組が1983年、豊臣時代の本丸と内堀を現代の技術で再現したらいくらかかるのか、極めて興味深い試算をしている。これによると、土木工事は、土の掘削など50億円、石積み480億円、その他付帯工事30億円、建築工事は、天守閣40億円、表御殿53億円、奥御殿54億円、その他(櫓、門、塀など)73億円。建築工事は計221億円。土木を含めた総工費は781億円となる。1983年に比べ消費者物価は18%上昇しているので、その分を修正すると921億円となる。
ただ、これはあくまでも本丸の工事代。豊臣時代の大阪城は、その外側に二の丸、惣構があった。見積もりでは石垣にとくに金がかかっている。より大きな外堀の工事を含む総事業費となると、かなり膨らむはずだ。
両界曼荼羅図 東寺・灌頂院で10/31から初の一般公開
真言宗の最重要儀式「後七日御修法(ごしちにちしほ)」の本尊として使われる重要文化財・両界曼荼羅(まんだら)図(元禄本)が10月31日から、東寺・灌頂院(かんじょういん)(京都市南区)で初めて一般公開される。これに先立ち24日に報道陣に公開され、暗い堂内に色鮮やかな仏の姿が浮かび上がった。
両界曼荼羅図は胎蔵界、金剛界の2幅(各約4㍍四方)あり、公開されるのは空海が唐から持ち帰った原本を1693年(元禄6年)に書き写したもの。後七日御修法は平安時代、国家の安泰を祈るため空海が宮中で営んだのが始まりとされている。一時の中断を経て現在も毎年1月8~14日に灌頂院で営まれる。
卑弥呼の箸墓古墳にそっくり 京都府向日市・五塚原古墳
京都府向日市の前方後円墳・五塚原(いつかはら)古墳(3世紀後半)が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ)とほぼ同じ形状で、同種の築城技術が使われていることが分かった。向日市埋蔵文化財センターと立命館大が10月16日発表した。最新の測量データ や発掘成果を比較したもので、宮内庁の陵墓として立ち入りができない箸墓の構造を知る手掛かりになる。五塚原は初期の倭王権を支えた有力首長の墓と推測されている。全長約91㍍は同約280㍍の箸墓の3分の壱の規模。墳丘測量図の比較から箸墓をモデルにつくられたとみられてきた。
「平安時代の役人も出世したい」鳥取県大桷遺跡で土器出土
鳥取県教育文化財団調査によると、鳥取県大桷(だいかく)の「大桷遺跡」(9~10世紀前半)から出土した平安時代前期の土器に「位能上(くらい よくあがれ)」と判読できる文字が記されていたことが分かった。同遺跡からは役所跡だったことをうかがわせる出土品が数多く見つかっており、同財団は「古代の役人が、出世したいという思いを込めて書いた可能性がある」としている。 土器は直径12.8㌢、高さ4.8㌢の須恵器。食器の一部とみられ、文字は底部に記されていた。遺跡から出土した建物群跡の東側の流路から和同開珎などの銅銭、役人が身に着けた装飾具ほかの墨書土器約20点とともに見つかった。
東奈良遺跡で「れんが」出土 鎌足の隠居地説裏付ける
大阪府茨木市教育委員会は10月10日、同市東奈良遺跡で出土した古代のれんが「摶(せん)」は、藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳(大阪府高槻市)のものと酷似していることが分かったと発表した。遺跡周辺は、大化の改新のきっかけとなった「乙巳(いっし)の変」(645年)前に、鎌足が隠居した別邸「三島別業」があったとされ、、隠居地説を裏付け、あるいは補強する遺物となりそうだ。
東奈良遺跡で出土した摶の破片は横13㌢、縦18㌢、厚さ4㌢。遺跡の約7㌔北にある阿武山古墳で見つかった摶と比較したところ、厚さや表面ン位ある同じ円文様の大きさ、ヘリ部分にある文様を消す特徴などが共通しており、同じ工場で作られた可能性があるという。
日本書紀によると、鎌足が乙巳の変前、皇極天皇に新たに役職に就くように求められたが断り、三島別業に籠もった。乙巳の変に向け綿密な作戦を練るためだったと考えられている。大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏ゆかりの地されるが、三島別業の場所はよく分かっていなかった。藤原氏の氏寺がある奈良市の興福寺に残された文献から、遺跡近くの茨木市沢良宜(さわらぎ)だったとの説がある。
唐招提寺で特有の奈良三彩瓦の破片65点出土
奈良県立橿原考古学研究所は10月9日、唐の高僧鑑真(688~763年)が建立した唐招提寺(奈良市)で、3色の釉(うわぐすり)を使用した奈良三彩の瓦の破片が65点見つかったと発表した。破片が見つかったのは寺の僧房にあたる西室跡の東の溝。見つかった破片の最大のものは幅22.5㌢、通常の瓦より小型で摩耗が少ないため、建造物に伴う屋外の瓦ではなく、屋内の施設で使用されていたとみられる。同寺以外では見られない鮮やかな波状の文様が施されていた。
同研究所では「鑑真が住んでいたとされる西室付近で、室内にあった(仏像などを安置する)厨子(ずし)に葺(ふ)いていたのかも知れない」とみている。 奈良三彩瓦は平城京跡や東大寺、法華寺などでも出土しているが、今回の瓦は唐招提寺特有の波状の文様が施され、使用されている白い粘土にも混入物がなかった。
織田信長の”幻の上洛作戦”裏付ける書状14通見つかる
熊本県立美術館、熊本大、東京大は10月3日、織田信長が天下統一に向け1568年に上洛する2年前に計画した”幻の上洛作戦”を裏付ける、足利将軍家側近の書状を発見したと発表した。計画の存在は知られていたが、書状により信長が予定していた上洛の経路が具体的に判明。日付から計画が実行直前で頓挫したことも分かるという。
書状は室町幕府13代将軍・足利義輝の暗殺後、京都を逃れた義昭(後の15代将軍)の側近らが署名した計14通で、いずれも1566年(永禄9年)8月28日付。幕府再興を目指す義昭と側近が伊賀(三重県)や山城(京都府)など京都周辺の勢力に宛てたもので、「御入洛の御供として織田尾張守参陣し候」と、義昭の上洛で信長の協力を得たことを示し、自らに味方するよう呼びかける内容。宛先などから信長らは尾張(愛知県)から北伊勢(三重県)、甲賀(滋賀県)、矢島(滋賀県)を経て京都に入る予定だったことが分かる。
「定日(じょうじつ)次第に御使(おつかい)を差し越さるべく候」と、上洛日程が決まり次第、使者を送ることも託したが、書状の日付の翌29日、近江の有力大名、六角氏が義昭側から離反、計画は頓挫した。
1億3000万年前の地層から新種の淡水魚化石 石川県
石川県白山市教育委員会は10月1日、白亜紀前期の約1億3000万年前の地層から発掘された化石が「シナミア科シナミア属」に分類される新種の淡水魚類と分かったと発表した。同市教委によると、シナミア属の化石が中国以外で確認されたのは初めて。1日付の学術誌にも掲載された。新種の学名を地元にある神社の名から取り「シナミア ククリヒメ」と命名した。
化石は厚さ1ミリ弱、長さ7ミリ前後のうろこの化石などがあり、シナミア科の淡水魚の特徴と一致した。頭蓋骨にえらぶたと下顎をつり下げる舌顎骨(ぜつがくこつ)の化石も見つかり、中国の白亜紀の地層から見つかった6種のシナミア属のものと形や年代が異なることから、新種と判断した。
快慶作・執金剛神立像内部から僧重源の依頼裏付ける古文書
高野山文化財保存会は9月26日、高野山・金剛峯寺(和歌山県高野町)が所蔵する仏師・快慶作の「執金剛神立像」(国重要文化財)の内部から「建久8(1197)年」や、鎌倉時代に、焼失した東大寺を再興した僧・重源を示す「南無阿弥陀仏」とした古文書が見つかったと発表した。
重源が自らの活動を記した記録「南無阿弥陀仏作善集」に、高野山の寺に納めた仏像として「執金剛身深蛇大将像」などの記述があり、今回の古文書も仏像が重源の依頼で造られたことを改めて裏付けるという。像は木造で高さ1.5㍍。2011年には内部から仏師が快慶であることを示す墨書も見つかっていた。この仏像と一対で造られた深沙大将立像も快慶の作とされる。
若き日の横山大観 香川の実業家に外遊資金求める手紙発見
日本画の巨匠・横山大観(1868~1958年)が明治期、外遊資金の提供を香川県の実業家に求めた手紙が、香川県坂出市の鎌田共済会郷土博物館で見つかった。当時まだ画壇で評価されていなかった時期で、海外で見聞を広め、新しい画風を確立しようとした大観の姿が浮かび上がる。
34歳だった1902年(明治35年)9月と11月、日本美術院でともに研讃を積んだ同県出身の画家・尾崎仲七(雅号・秀南)に宛てた2通。秀南は坂出市の醤油会社社長の鎌田勝太郎宅に居候しており、資金調達のため、作品の頒布会への加入を鎌田に持ち掛けた内容となっている。大観は1903~05年、インドや米英を歴訪、各国で評価を得た。
宮沢賢治が級友に宛てたはがきなど新資料11点見つかる
秀明大(千葉県八千代市)は9月24日、詩人で作家の宮沢賢治(1896~1963年)が学生時代の級友に宛てたはがき8枚など資料11点が新たに見つかったと発表した。真面目で堅いイメージに偏りがちな賢治の、明るくユーモラスな一面が分かる貴重な資料だ。生前、唯一出版された詩集「春と修羅」(1924年)の背表紙をブロンズに塗りつぶした珍しい本も含まれている。
いずれも同大の川島幸希学長が昨年、東京都内の古書店で入手した。書簡は盛岡高等農林学校(現・岩手大農学部)時代の同級生だった成瀬金太郎(1896~1994年)宛て。成瀬が卒業後に働いていたポナペ島(現ミクロネシア連邦ポンペイ)に送った18年4月18日付の手紙では、同封した絵はがきについて<ヌスムモノガアッタラ ヒドイメニアワセテヤリマショウ>と冗談めかして書いている。
また、「春と修羅」の背表紙に、歌人で国文学者の尾山篤二郎が「詩集」と入れたことが賢治には心外で、知人宛てに「ほんの粗硬な心象スケッチ」「ブロンヅの粉で、その二字をごまかして消したのが沢山ある」などと書いたことが知られていた。