谷崎潤一郎 幻の創作ノート 印画紙見つかる
繊細で焼失したとされていた文豪、谷崎潤一郎(1886~1965年)の創作ノート「松の木影」を写した印画紙255枚が見つかり、保管していた中央公論新社が4月2日、公表した。同社が5月から順次、刊行する「谷崎潤一郎全集」(全26巻)に収録される予定。
代表作「細雪」をはじめとする作品執筆までの試行錯誤を記したもので、「谷崎円熟期の作品を読み解くうえで、第一級の資料。創作の秘密に肉薄する資料が残っていたことは奇跡に近い」(千葉俊二・早稲田大学教授)という。
難波京「朱雀大路」跡 難波宮跡の南部で側溝を確認
大阪文化財研究所の調査によると、上町台地に築かれた都・難波京(なにわきょう)のメインストリート「朱雀大路」の側溝とみられる溝が、大阪市中央区の難波宮跡(国史跡)の南で見つかった。難波京の朱雀大路が確認されたのは初めて。道幅は、藤原京を超える約33㍍と推定されている。現場は、1993年に現・大阪市立聴覚特別支援学校のグランドで見つかった、前期難波宮の朱雀門(宮城南門)跡から南に約140㍍。
難波京は孝徳天皇が大化の改新直後の645年から建設し、天武天皇の時代にかけて整備された「前期」と、聖武天皇が726年から造営を始め、平城京の副都として整備した「後期」に分かれる。溝の時期は絞り込めていないが、難波京の基準となる朱雀大路も、前期には建設されていたとみられる。
土井晩翠がローマから薄田泣菫に宛てた書簡発見
岡山県倉敷市は3月27日、「荒城の月」の作詞者として知られる土井晩翠(1871~1952年)が、イタリアのローマから倉敷市出身の詩人、薄田泣菫(1877~1945年)に宛てた書簡が見つかったと発表した。これは1903年ごろ、2枚の絵はがきとスミレの押し花を封筒に入れ、晩翠が留学していたローマから送ったもの。
「未だ御目にかからず候へとも一筆御免被下度」と始まることから、まだ面識がなかったが、尊敬する薄田に手紙を書いたとみられる。スミレの花は薄田が愛読した英国を代表する詩人ジョン・キーツの詩集で詠まれており、薄田のペンネームにも使われた。晩翠はキーツの墓のそばに咲いていたスミレを押し花にして送っていた。薄田の子孫が倉敷市に寄贈した書簡類から見つかった。
与謝野鉄幹・晶子夫妻が薄田泣菫に宛てた書簡見つかる
岡山県倉敷市は3月27日、歌人の与謝野鉄幹(1873~1935年)、晶子(1878~1942年)夫妻が、詩人で随筆家の薄田泣菫(1877~1945年)に宛てた書簡46点が見つかったと発表した。鉄幹は雑誌『明星』の運営難を吐露し、晶子は恐縮しながら原稿料の送付を依頼するなどしており、当時の与謝野家の苦しい台所事情がうかがわれる。
同市出身の薄田泣菫は大阪毎日新聞社の学芸部長なども務めた。書簡の日付は夫妻が20歳代から40歳代だった1900年から19年で、泣菫の遺族から同市に寄贈された約1700点の資料の中にあった。晶子は1913年11月27日付で「心ぐるしき極み」としたうえで、「稿料をすこしご送附たまはらば」と催促。17年3月8日付には「金十七円(現在の約8万~13万円)をかはせでおおくり下さいまして ありがたく存じます」と綴っている。調査した加藤美奈子・就実短大准教授は「年齢の近い泣菫には、苦労も打ち明けやすかったのでは」とみている。
魯迅の弟に島崎藤村、谷崎潤一郎らが1400通の書簡
中国の作家・魯迅の弟で、随筆家として知られた周作人(1885~1967年)宛てに武者小路実篤、梅原龍三郎、島崎藤村、谷崎潤一郎、草野心平ら日本の数多くの日本の文化人が送った書簡1400通が、北京にある周作人の遺族宅で見つかった。孫の周吉宜さん(65)が24日、公表した。1910年代から66年までの手紙やはがきで、戦前から戦後にまたがる日中の文化交流を物語る貴重な史料。遺族の依頼で整理に当たった顧偉良・弘前学院大教授(日本近代文学)は、「これほどの規模で残っていたのは奇跡。詳しく調査すれば近代の日中間における民間レベルの関係が具体的に見えてくる」と話している。書簡の差出人400人近くに上っている。
周は魯迅とともに明治末、日本に留学。帰国後は北京大教授を務めた。白樺派の作家、武者小路実篤の「新しき村」運動に共鳴し、北京に支部をつくるなど日本の文学者をはじめ芸術家、学者らと幅広く交流した。
京都・誠心院で厳かに 情熱の歌人「和泉式部忌」
平安時代の歌人、和泉式部をしのぶ「和泉式部忌」が3月21日、京都市中京区の誠心院で営まれた。式部ゆかりの謡曲の奉納があり、檀家や参拝者が聞き入った。寺伝によると、誠心院は和泉式部が初代住職を務めたとされ、境内に供養塔も建てられている。そのため「和泉式部寺」とも呼ばれ、毎年この日を命日として法要が続けられている。本堂では式部ゆかりの謡曲「誓願寺」「東北」が謡い上げられ、境内は厳かな雰囲気に包まれていた。
冷泉天皇の皇子、為尊(ためたか)親王と敦道(あつみち)親王、2人の皇子との恋に身を焦がし、和泉式部は恋多き女として数々の逸話を残している。ただ、彼女の恋はいつも一途(いちず)で捨て身だ。何もかも犠牲にしてでも、この恋にすがりつきたいという、せつないまでの激しい情熱のほとばしりが感じられる。
ベトナム中南部産つぼ片 堺環濠都市遺跡で出土
大阪府堺市は3月17日、堺区熊野町2丁の堺環濠(かんごう)都市遺跡から、ベトナム中南部産のつぼ片17点が出土したと発表した。「大坂夏の陣」(1615年)で焼けた豪商の屋敷跡だった場所で見つかり、貿易都市として栄えたチャンパ王国産のものとみられる。堺市博物館では、日本とベトナムの交流史を示す貴重な資料としている。
肩の部分に4つの「耳」と呼ばれる飾りが施され、表面に釉薬が塗られた「施釉四耳壺(せゆうしじこ)」の小片で、いずれも8~17㌢。復元すると口径17㌢、高さ34㌢のつぼになる。糖蜜などの物質を運搬する容器として使われていたという。同市の2012年の発掘調査で、深さ約1㍍の地点で見つかった。
堺の豪商が深く関与し、徳川幕府が鎖国政策を取るまでは推進していた朱印船貿易では、ベトナム中南部のチャンパ王国も取引国の一つだった。同国は2~17世紀ごろまで、東西交易の仲介で富を築いたとされているが、実態は分っていない。今回の発見は、同国の歴史の変遷の解明にも役立つと期待されている。
福岡で最古級「導水施設」遺構の木樋「纏向」と同時期
九州歴史資料館(福岡県小郡市)は3月16日、同県行橋市の延永(のぶなが)ヤヨミ園(その)遺跡から九州で初めて出土した古墳時代の水の祭祀(さいし)遺構「導水施設」の木樋(もくひ)が、3世紀中ごろ~4世紀中ごろのものと判明したと発表した。ヤマト政権発祥の地とされる奈良県の纏向(まきむく)遺跡で出土した国内最古の3世紀後半~4世紀初頭のものとほぼ同時期で、近畿で始まった水の祭祀が極めて短期間に九州にも伝わっていたことになる。
2011年の調査で出土した木樋は3つの細長い部分からなり、長さ4.2㍍、幅35~70㌢、厚さ4~10.4㌢。一方の端に長さ35㌢、幅30㌢と、長さ60㌢、幅35㌢の2つの水槽状のくりぬきがあり、もう一方の端まで幅10㌢の溝が延びる。放射性炭素年代を測定し実年代に換算した結果、3世紀中ごろ~4世紀中ごろのものと判明した。2つの槽を持つ木樋の実物が出土したのは国内初。
纏向遺跡に続く導水施設の遺構は滋賀県や京都府、石川県などで4世紀のものが見つかっている。5世紀になると導水施設をかたどった埴輪や石製品も近畿を中心に全国各地で出土する。このため、5世紀中ごろに水の祭祀が近畿から各地に波及したとされていた。今回、近畿から遠い九州で纏向遺跡とほぼ同時期のものが出土したことで、通説は再考を迫られることになりそうだ。
妻の身内や娘の近況が書かれた与謝蕪村直筆の手紙発見
江戸時代中期の俳人で俳画創始者の与謝蕪村(1716~83年)の直筆の手紙が、京都市の古美術店で見つかった。奈良大の永井一彰教授(近世国文学)が3月12日発表した。戸の手紙には、妻の身内や娘の近況が書かれ、謎が多い蕪村の家族関係が分かる貴重な資料という。縦約16㌢、横約59㌢。宛先や書かれた時期は不明だが、蕪村の他の手紙と比較し直筆と判断された。
蕪村は大阪出身。40代でともという女性と結婚し、くのという娘がいたとされる。手紙には妻の妹が河内(大阪府東部)から訪ねてきて、姉妹が久々の対面を喜んだことや、娘が手習い(習字)を始めたことなどが書かれていた。妻に妹がいたことはこれまで知られていなかった。
彦根城 豊臣家との戦いに備え他城の部材を再利用
滋賀県彦根市教育委員会は3月12日までに、徳川家重臣だった井伊家の彦根城(彦根市)は、約2㌔離れた佐和山城の石垣や瓦を再利用していたことが分かったと発表した。他城の部材を使ったのは、関ヶ原の戦いの後、徳川家側が豊臣家との戦いに備えて、築城を急いだためと考えられ、中井均滋賀県立大学教授(城郭史)は「当時の緊張感が伝わる発見」と話している。
彦根城は徳川家が1604年、諸大名に命じて築城を始めた。佐和山、安土などの各城の部材を再利用したことは、江戸時代の文献に記されているが、遺物で裏付けられるのは初めてという。佐和山城は豊臣方の石田三成の居城として知られるが、関ヶ原の戦い後は井伊家などが城主となった。
京都・琳派400年記念し、外壁に「21世紀の風神・雷神」
「琳派」の祖、本阿弥光悦が徳川家康から京都・鷹ヶ峯の領地を拝領してから今年で400年の節目となるのを記念して、京都国立博物館(京都市東山区)で3月12日から、記念のプロジェクション・マッピングが始まる。11日の内覧会では、博物館の外壁に鮮やかな映像が映し出された。映写されるのは、映像作家の土佐尚子・京都大学教授が制作した「21世紀の風神・雷神伝説」。毎秒2000コマの高速度カメラで撮影した自然現象の映像に、風神・雷神図や、未生流笹岡の笹岡隆甫家元のいけばな作品、茂山逸平さんによる狂言「神鳴」の舞台などが織り込まれている。15日までの午後6時半~8時半に3回上映。無料だが、申し込みが必要。
定家と為家の直筆、俊成90歳祝賀の歌会記録 原本確認
平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人、藤原俊成の90歳の祝いの歌会の様子を、息子で新古今和歌集編者の定家と、その息子の為家が記録した自筆原本が3月4日、東京都内で確認された。この記録の原本が表に出たのは初めて。定家・為家父子の肉筆画並ぶのは極めて珍しく、専門家は「重要文化財クラスの一級資料」と評価している。
歌会は建仁3年(1203年)、後鳥羽上皇が開いた。和紙5枚を繋いだ巻物で縦約30㌢、横約2.5㍍。江戸時代前期に表装されたとみられる。20首以上の歌を、歌人で能筆家としても知られる為家が記した。さらに末尾には定家が、参加者の名前と「若草」「納涼」「紅葉」「雪」などの歌題を加筆している。この歌会の記録は「俊成卿九十賀和歌」として複数の写本が伝わっている。
比沖で発見?太平洋戦争で撃沈された戦艦「武蔵」船体
米マイクロソフトの共同創業者で資産家のポール・アレン氏は3月3日までに、太平洋戦争で撃沈された戦艦「武蔵」の船体をフィリピン中部シブヤン海での潜水調査で発見したと、ツイッターで明らかにした。船体が見つかったのはシブヤン海の水深約1000㍍地点としているが、詳しい場所は示していない。アレン氏は、船首とみられる部分と漢字が刻印されたバルブの計2枚の写真を掲載。船首とみられる画像では「菊の紋章と巨大ないかり」と説明。バルブには「開」「主弁取手」の文字が確認できる。今後、艦載機射出機や、主砲の砲塔が設置されていた部分の映像も公開するとしている。
武蔵は1944年10月24日、連合国軍のレイテ島上陸部隊を攻撃に向かう途中、シブヤン海で米軍機の攻撃を受けて沈没した。また、沈没した「武蔵」の船体はこれまで確認されていなかった。
薬師寺東塔で創建時の基壇を確認 構造の詳細判明
奈良文化財研究所などは2月26日、約110年ぶりの解体修理中の国宝・薬師寺東塔(奈良市、8世紀前半)の調査で、730年(天平2年)に建立された当初の基壇が確認されたと発表した。規模は東西13.3㍍、南北13.4㍍、高さ約1.3㍍で四方に階段を設け、切り石を周囲に配するなどしており、構造の詳細が初めて判明した。
東塔の発掘調査は2014年7月から実施。塔の中央を貫く心柱を動かしたうえで、基壇部分を掘り下げた。その結果、基壇は創建後、中世から明治時代に3回にわたって拡張されており、創建時の四方の規模は現在の一辺14.6~14.7よりも1㍍以上小さかったと判明した。一方、地面からの高さは後世にチ票面が上がったことから、現在の75㌢よりも大幅に高かった。
オダサクの京都で発行の最後の連載小説見つかる
「無頼派」の作家・織田作之助(1913~47年)が最晩年に書き、専門家にも存在を知られていなかった小説が、戦後の占領期に京都市で発行されていたローカル雑誌「国際女性」に掲載されていたことが2月21日、分かった。今回見つかった小説は「四つの手記」。かつて交際していた男性と、自分の娘との関係を疑う女性「私」の心理が描かれた作品で、全集や単行本には収録されていない。「国際女性」1946年9月の2号に、連載第1回の3㌻分が掲載されていた。同誌は紙不足のため7号で休刊した。この「四つの手記」は最後に構想した連載小説とみられる。
「国際女性」の顧問は谷崎潤一郎と新村出が務め、武者小路実篤や田村泰次郎らも寄稿。女性解放運動家らが支援する総合雑誌で、戦前の思想弾圧「滝川事件」で知られる法学者・滝川幸辰らも論文を寄せていた。
築200年の清水次郎長の生家倒壊回避へ住民ら改修へ
幕末の侠客、清水次郎長(1820~93年)の生家(静岡市清水区美濃輪町)が老朽化し、近隣住民や住宅関連会社が改修計画を進めている。資金のめどもつき、年内にも工事が始まる見通し。生家は2階建てで、築200年前前後とみられ、昔の土間などが残る。建物一部は、キセルなど80点近くの次郎長の遺品とともに一般公開され、年間約1万2000人が訪れる。
しかし、天井や床の一部が破損。雨漏りも目立ち、2013年、耐震診断で倒壊の可能性が指摘された。ここで立ち上がったのが地元商店街の有志らでつくる「次郎長生家を活かすまちづくりの会」。13年から改修資金の募金を始め、15年2月までに130万円集まった。目標額の500万円には届いていないが、住宅資材メーカー、エヌ・シー・エヌ(東京都港区)が一部負担も含め支援することが決まった。
「博徒の大親分」だった次郎長は後半生、失業した旧幕臣らに静岡県内で茶畑を開墾させ、地元の清水港も整備するなど地域振興に尽力したため敬愛する人も多い。「次郎長生家を活かすまちづくりの会」の牧田充哉会長は「地元の発展に寄与した人物の功績を伝えることで、まちおこしにもつなげたい」と話している。
小林多喜二の獄死前後の様子記した書簡見つかる
「蟹工船」「不在地主」などの作品で知られるプロレタリア作家、小林多喜二が1933年に築地署(東京都)で獄死する前後の様子を、同時期に収監されていた生物学者、石井友幸(1903~72年)が記した書簡が見つかった。拷問で口を利くことができなくなっていたことや、死亡後に人工呼吸が施されたとみられると書かれている。
書簡は、石井が多喜二と交流のあった小説家、江口渙(かん)に宛てた計3通で、400字詰めの原稿用紙計5枚とはがき1枚。1962~67年に、やり取りがあったとされる。文学館によると、多喜二の死の前後については、遺言をしていたり、監房で死亡していたりと諸説ある。書簡は栃木県にある江口の旧宅を調査していた郷土の歴史研究会が発見した。多喜二は1903年に秋田県で生まれ、4歳で小樽市に移住した。銀行に就職後、「蟹工船」などを発表。特高警察の拷問を受けて死亡した。
神戸で出土の「桜ヶ丘12号」と茨木出土の銅鐸の鋳型一致
神戸市立博物館によると、1964年に神戸市で見つかった「桜ヶ丘12号銅鐸」(弥生時代中期、国宝)と、茨木市の東奈良遺跡で出土した「第1号流水文銅鐸鋳型」(重要文化財)の大きさや形状がほぼ一致することが分かった。12号銅鐸は青銅器づくりの一大拠点とされる東奈良遺跡で制作された可能性があり、銅鐸の流通を解明する手掛かりとして注目される。
12号鐸は高さ31㌢、重さ約2.6㌔。鋳型に彫られた銅鐸の型は高さ約31~32㌢とほぼ同じで、本体の曲線部分なども一致した。しかし本体と鋳型の模様は異なっており、この鋳型から12号鐸がつくられた可能性は低い。この点、鋳型を作る際、大きさや形にある程度の規格があり、模様だけ変えていたのではないか–と同博物館ではみている。
明日香村・西方遺跡で飛鳥時代の建物跡 近江京陣営か
奈良県明日香村教育委員会は2月5日、飛鳥寺西方遺跡(明日香村)で、飛鳥時代の建物跡が見つかったと発表した。簡易な構造から仮設の建物だったとみられ、日本書紀に記述がある「壬申の乱」(672年)の陣営だった可能性もあるという。今回見つかったのは、国内最古の本格的寺院・飛鳥寺の約80㍍西側で建物跡2棟分の柱穴。南北の幅は2棟とも4.8㍍、東西に延びる長辺は16.7㍍と17.5㍍。2棟は約6㍍離れて東西に並んで配置されていた。
飛鳥寺西方遺跡は、大化の改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻(つき)の木の広場」と考えられており、この広場は日本書紀に度々登場。古代の最大の内乱、壬申の乱の際、近江京・大友皇子側の陣営が置かれたと記され、天皇が蝦夷や隼人ら当時の辺境の人々を招いた際に供宴を催したという記述もある。ただ、総合的に考えると壬申の乱の陣営の一部と変える方が合理的という。現地説明会は2月8日午前10時~午後3時。少雨決行。
大阪・難波宮跡近くで「五十戸」を記した木簡出土
大阪博物館協会大阪文化財研究所は2月3日、大阪市の難波宮跡近くで地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土したと発表した。「日本書紀」には難波宮に遷都した孝徳天皇が646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。木簡は長さ15.5㌢、幅3.4㌢。「玉作五十戸俵」と記されていた。玉作という地名は陸奥(青森など)や土佐などにあり、地方から五十戸単位で税として米を収めた際の荷物とみられている。五十戸と記した史料はこれまで天智天皇の時代の660年代のものが最古で、孝徳天皇の時代に遡る可能性があり、同研究所ではこのころ「五十戸」があった証拠になるかも知れない-としている
「琳派」誕生400年祝う 1年かけ展覧会など開催
美術や工芸など幅広い分野に影響を与えた「琳派(りんぱ)」の誕生400年を祝う記念祭の開幕記念フォーラムが1月31日、京都市下京区の京都劇場で開かれた。記念祭は琳派の祖とされる本阿弥光悦が徳川家康から、洛北の鷹峯(たかがみね)に土地を与えられた1615年を誕生年と定め、これから約1年かけて展覧会や講演会などを開催する。フォーラムは絵師・俵屋宗達の「風神雷神屏風図」をイメージした尺八、和太鼓、箏(こと)の演奏で幕開け。山下裕二・明治学院大教授らが影響を受けた現代の美術作品やデザインを解説し、金剛流若宗家の金剛龍謹(たつのり)さんが能「山姥(やまんば)」を上演した。
明治の岩倉使節団30年後の”同窓会”の集合写真など見つかる
明治維新直後に政府が米欧に派遣した岩倉具視を団長とする使節団(1871~73年)の”同窓会”の集合写真や随行員任命書など、希少性の高い多数の写真や文書が東京都内で見つかり、長崎歴史文化博物館(長崎市)に引き取られた。資料は元佐賀藩士で、明治政府で文部官僚を務めた中島永元(ながもと、1844~1922年)に関する約1100点。中島は佐賀藩が長崎に設けた藩校・致遠館(ちえんかん)の元教師で、岩倉使節団にも加わり欧米を視察。貴族院議員も務めた。
資料は約600点の写真史料と約500点の文書史料からなる。集合写真は幕末から明治にかけて活躍した写真家、上野彦馬が撮影したもの。1902年(明治35年)に開かれた「岩倉大使同行記念会」の写真は縦40㌢、横56㌢。写真に収まっている26人の中には、津田塾大の創立者、津田梅子も写っている。
台湾沖の海底で「アジア第4の原人」化石見つかる
国立科学博物館などの国際チームは1月27日付の英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズ(電子版)に、台湾沖の海底で新たな原人の化石が見つかったと発表した。北京原人などアジアの他の原人とは異なる特徴を持つ「第4の原人」と考えられ、古代の人類が各地で多様に進化していたことを示す発見として注目される。同チームによると、発見されたのは下あごの骨の右半分の化石。時期は不明だが、台湾本島と澎湖(ほうこ)諸島の間の海域で底引き網に引っかかり、地元収集家が保管していた。この海域では台湾が大陸と陸続きだったころに生息していたゾウの化石が大量に見つかっている。
今回見つかったあごの骨の幅は、75万~40万年前の北京原人の化石の平均よりも4㍉以上厚く、親知らずの一つ手前の第2大臼歯も一回り大きかった。80万年前のジャワ原人よりも大きい。進化に伴って歯やあごは小さくなるため、ジャワ原人、北京原人の子孫ではないと結論付けた。アジアではこれまで、ジャワ原人(120万~5万年前)、北京原人(75万~40万年前)、そして2003年にインドネシアで見つかった小型のフロレス原人(100万~数万年前)の三つの原人グループが知られている。
奈良県・纏向遺跡で占い用「骨」初めて出土
奈良県桜井市教育委員会は1月29日、同市の纏向(まきむく)遺跡(国史跡)で、3世紀後半~4世紀初め(古墳時代前期)に占いに使ったとみられる動物の骨「卜骨(ぼっこつ)」が見つかったと発表した。邪馬台国の有力候補地とされる纏向遺跡で卜骨が出土したのは初めて。当時の祭祀(さいし)のあり方を考えるうえで意義深い発見という。卜骨はイノシシの成獣の右肩甲骨で、長さ16.7㌢、幅6.7㌢。人工的に掘られた穴の底部から見つかった。直径1㌢ほど丸く削った部分が3カ所あり、それぞれ点状に焦げた跡があった。先端が細い熱した道具を押し付けてできたとみられる。
中国の歴史資料「魏志倭人伝」に、3世紀の日本では人々が骨を焼き、割れ方を見て吉凶を占ったとの記述がある。卜骨は紀元前の弥生時代前期から全国で確認され、古墳時代に減少。7世紀以降の律令時代には国が祭祀の部署を設け、亀の甲羅を焼く占いをした。