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世界最古の生命の痕跡発見 39億年前の岩石から

世界最古の生命の痕跡発見 39億年前の岩石から

東京大学などの研究グループは、カナダで採取した39億年前の岩石から世界最古とみられる生命の痕跡を発見したと発表した。
同大学の小宮剛准教授らの研究グループは、カナダ北東部ラブラドル半島にあったおよそ39億5000万年前の岩石を採取し、詳しく調べた。その結果、自然界に存在する3種類の炭素のうち、生物の体内に多い最も軽い炭素の割合が高い塊が見つかり、研究グループでは生物の死骸の痕跡だと結論付けた。
痕跡の大きさは数十マイクロ㍍で、細胞内に核を持たない原始的な生物で、泥が積もってできた岩石から出てきたので、海に生息していたのではないかと考えられるという。
これまで確認された世界最古の生命の痕跡は、グリーンランドで見つかった38億年前のものだが、今回の発見はそれよりも1億年以上古いとしている。

主要作品集め「運慶」特別展 東京・国立博物館

主要作品集め「運慶」特別展 東京・国立博物館

天才仏師の運慶の主な作品を集めた特別展「運慶」が9月26日、東京・上野公園の東京国立博物館で始まった。11月26日まで。10月9日を除く月曜日休館。料金は一般1600円。
今回の特別展で特筆されるのは、肖像彫刻の最高傑作といわれる運慶作の無著(むじゃく)・世親菩薩立像(せしんぼさつりゅうぞう、1212年ごろ、国宝)と、近年運慶に手によるものとの可能性が指摘されている、四天王立像(13世紀、国宝)が顔を揃えたこと。どちらも運慶工房が奈良・興福寺北円堂のために制作したとの仮説に基づく展示で、仏像が居並ぶ、厳かな雰囲気の中、高さ2㍍前後の6体が”静”と”動”の見事なコントラストを演出している。

二葉亭四迷の死 漱石が夫人へ宛てたお悔み状初公開

二葉亭四迷の死 漱石が夫人へ宛てたお悔み状初公開

東京都目黒区の日本近代文学館で9月23日から、小説家・二葉亭四迷(1864~1909年)の死を知った夏目漱石(1867~1916年)が、四迷の夫人(長谷川柳子)に宛てたお悔み状が初公開されている。漱石全集にも未収録で、同館が四迷の遺族から2016年、寄贈を受けたもの。
当時、四迷と漱石は朝日新聞社員で同僚だった。四迷は特派員としてロシアに赴任していたが、病気で帰国途上、客死した。漱石は1909年5月15日付の朝日新聞で四迷の死を知り同日、日記に「二葉亭印度洋上ニテ死去。気の毒なり。遺族はどうする事だろう」と書き、柳子宛てに手紙を出したことも記している。ただ、その手紙は不明だった。
日本近代文学館の企画展「漱石・芥川・太宰から現代作家まで」は11月25日まで。

大伴家持生誕1300年「家持の時代展」人間像を紹介

大伴家持生誕1300年「家持の時代展」人間像を紹介

越中国守で万葉集の代表的歌人、大伴家持(おおとものやかもち)の生誕1300年を記念した「家持の時代展」が富山県高岡市で開かれている。10月22日まで。
同展では国宝2点はじめ、重要文化財を含む貴重な歴史資料を通じて大伴家持の人間像と、桓武天皇の御世、785年、長岡京の造宮使だった藤原種継暗殺事件に連座した者として死後、告発されるなど藤原氏主導の、彼が生きた波乱に満ちた時代を紹介している。
また、家持が国守として自筆した署名のある役所の公文書などおよそ90点の資料が並び、当時の生活や文化を感じ取ることができる。
家持は746年から5年間、国守として現在の高岡市伏木で過ごし、この間に万葉集の223首を詠んだとされている。

平安後期の大型住居跡 岩手県九戸村・外久保遺跡

平安後期の大型住居跡  岩手県九戸村・外久保遺跡

岩手県・九戸村教育委員会が発掘調査を進めている同村長興寺の外久保(そとくぼ)遺跡で、平安時代後期(10世紀後半)とみられる大型の竪穴住居跡が見つかった。
面積は約72平方㍍と県北の高地性集落では最大規模。南北を崖に挟まれ、尾根をふさぐような立地も珍しく、調査関係者は「特殊な役割や仕事を担う場所だったのではないか」とみている。
同遺跡は約2700平方㍍で、近接する同村江刺家の県史跡・黒山の昔穴(むかしあな)遺跡の関連調査として7月に発掘を始めた。これまで4棟の住居跡が見つかり、大型住居跡からは鉄をつくる炉へ風を送る羽口(はぐち)や鉄器の破片などが出土。鍛冶を行っていた可能性もあるという。

雪舟の幻の水墨画「倣夏珪山水図」84年ぶり確認

雪舟の幻の水墨画「倣夏珪山水図」84年ぶり確認

山口県立美術館(山口市)は9月19日、室町時代の代表的水墨画家、雪舟の幻の作品「倣夏珪(ほうかけい)山水図」の存在が確認されたと発表した。縦約30.1㌢、横約30.8㌢のうちわ型で、山や水面には緑や青で薄く彩色も施されている。
中国・南宋期の夏珪の作品に倣(なら)い、少なくとも12点描かれ、他に6点の存在が確認されている「倣古(ほうこ)図」シリーズの1点。雪舟60歳前後作品とみられる。
1933年、当時の所有者が売りに出した記録が残り、一部で存在が知られながら、長らく所在不明で、今回84年ぶりにその存在が確認された。専門家らは、構図や力強い筆致に雪舟のオリジナリティーが感じられ、重要文化財級の作品―と話している。

藤原京「京職」など宮外に都の民政担う3カ所の役所

藤原京 「京職」など宮外に都の民政担う3カ所の役所

奈良文化財研究所の調査、研究によると、日本初の都城・藤原京(694~710年、奈良県橿原市など)の宮殿の外に、都の民政を司る左右の「京職(きょうしき)」など少なくとも3カ所の役所があったことが分かった。
これらはこれまで、天武天皇の長男、高市(たけちの)皇子など有力貴族の邸宅跡などと考えられていたが、出土した木簡や建物配置などから判明した。持統天皇の治世のもと、行政組織などが整えられた国家の出発点、藤原京の実態解明につながる成果とみられる。同研究所がまとめた「藤原京左京六条三坊」の報告書の中で明らかにした。
藤原京の宮跡(藤原宮)に近接した「左京六条三坊」で1985~87年に実施された調査で4町(4区画=約1万2200平方㍍)を占める遺構を確認。出土した木簡に「左京職」と墨書されていたことや、儀式用の広場がある建物配置などから、702年の大宝律令施行で「京職」が左右に分かれたうち左京(京の東半分)を担当する「左京職」が置かれていたと判断した。
左京職と対になる右京職は「右京七条一坊」の3町以上の敷地にあり、「左京六条一坊」には、門の護衛を司る役所「衛門府(えもんふ)」が4町の敷地に設けられていたことも木簡の調査などから分かった。

大英博物館と共同で10/6から「北斎ー富士を超えてー」

大英博物館と共同で10/6から「北斎―富士を超えて―」

あべのハルカス美術館(大阪市阿倍野区)で2017年10月6~11月19日、稀代の浮世絵師、葛飾北斎の後期の作品を集めた特別展「北斎―富士を超えて―」が開催される。これは大英博物館との国際共同プロジェクトとして挙行されるもので、本来、大英博物館でしか見られない北斎の作品が数多く展示される。
北斎はゴッホやモネらに影響を与え、とりわけ「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は「The Great Wave」として世界で最も多くの人々に知られる作品の一つだ。今回は肉筆画を中心に還暦以降の30年に焦点を当て、老いてなお貪欲に進化し続け、亡くなる90歳まで描き続けた、北斎が追い求めた世界に迫る。
開館時間は火~金曜日10時~20時、月土日曜日・祝日10時~18時。休館日は10/10、16、23、30、31日。料金は一般1500円、大学・高校生1000円、中学・小学生500円。

山本周五郎 未発表の未完小説の草稿見つかる

山本周五郎 未発表の未完小説の草稿見つかる

神奈川近代文学館によると、伊達騒動を独自の視点で描いた『樅(もみ)ノ木は残った』、『赤ひげ診療譚』、『五辯の椿』、『さぶ』などの作品で知られる作家、山本周五郎(1903~67年)が、生前に発表していない未完の小説「註文(ちゅうもん)の婿」の草稿が見つかった。
草稿は、200字詰め原稿用紙44枚に万年筆で書かれた、江戸が舞台のユーモア時代物。ストーリーは面倒な職務から逃れたい一心で、養子を迎え隠居しようと企てる藩の国家老の姿をユーモラスに描いている。
主人公が待望の余生を謳歌し始めるところで、意外なオチの予感を漂わせつつ、終わっている。評論家らは、この後を時間をかけて推敲(すいこう)し、書き込み仕上げる気持ちがあったのではないか―としている。市井に生きる庶民や名もなき流れ者などを主に描き、大衆小説作家といわれ幅広い読者層に支持されていた作家の、晩年まで自作の完成度を追求した、隠れた葛藤も伝わる貴重な資料だ。
この草稿は、9月30日に神奈川近代文学館(横浜市中区)で始まる「没後50年 山本周五郎展」で初公開される。

奈良・橿原市で夏季特別展「天武天皇 覇者の世界」

奈良・橿原市で夏季特別展「天武天皇 覇者の世界」

天皇を中心とした中央集権体制を確立したとされる天武天皇の軌跡を紹介する夏季特別展「天武天皇 覇者の世界」が、橿原市の「歴史に憩う橿原市博物館」で開かれている。飛鳥時代の建築工具や食器などの資料51点を展示している。9月18日まで。
会場では「天武の都づくり」「天皇の暮らし」「専務天皇の世界観」の3コーナーを設置。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行など天武天皇が制定したとされる律令、国史の編纂、貨幣の鋳造、藤原京(橿原市など)造営などの功績について紹介している。
古代天皇について、現在では聖徳太子が摂政を務めた推古天皇、その後の斉明天皇などと表現しているが、その当時「天皇」という言葉は存在せず、王の中の王という意味で「大王(おおきみ)」と呼ばれていた。「天皇」という称号が使われるようになったのは、天武天皇のころとされている。また、「倭国」と呼ばれていた国号も、同時期に「日本」と改められた。