橘諸兄 聖武天皇を補佐し、生前に正一位に叙された初代橘氏長者

橘諸兄 聖武天皇を補佐し、生前に正一位に叙された初代橘氏長者

 橘諸兄(たちばなのもろえ)は元皇族で、聖武天皇の御世、国政を担当した奈良時代の政治家で、生前に正一位に叙された、数少ない人物の一人だ。諸兄は、後に朝廷内の実力者、藤原不比等の後妻となった県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)を母に持ち、三千代が最初、皇族の美努王(みぬおう)に嫁した際、もうけた二男一女のうちの一人だ。当時、葛城王(葛木王とも、かつらぎのおおきみ)といった。

 母・三千代は、やがて大宰帥・美努王との生活が破綻し、文武天皇の時代、不比等の妻となり、安宿媛(光明子)を産んだのだ。早世した息子、文武天皇の後を受けた母・元明女帝は、後宮に長く仕えた重鎮の三千代を深く信頼し、即位の大嘗祭の宴で盃に橘を浮かべて、その労をねぎらい橘の氏称を賜与(しよ)したのだ。これを機に橘氏が登場することになった。736年(天平8年)、弟の佐為王とともに母・橘三千代の姓、橘宿禰を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗った。諸兄が初代橘氏長者だ。諸兄の生没年は684(天武天皇13)~757年(天平勝宝9年)。

 橘諸兄の大出世は、まさに“棚からぼた餅”式の幸運に恵まれたものだった。737年(天平9年)、権勢を誇った藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)をはじめ朝廷の高官らが、当時大流行した疫病(天然痘)で相次いで亡くなったのだ。その結果、出仕できる公卿は従三位・左大弁だった橘諸兄と、同じく従三位・大蔵卿の鈴鹿王のみとなった。そこで朝廷では急遽、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王を知太政官事(ちだじょうかんじ)に任命して応急的な体制を整えた。不測の、やむを得ない事態だったとはいえ、諸兄にとっては大抜擢人事を受けた形となった。

 翌年、諸兄は遂に正三位・右大臣に任命され一躍、朝廷の中心的存在となった。これ以降、国政は諸兄が担当し、聖武天皇を補佐することになった。そして743年(天平15年)、諸兄は、従一位・左大臣となり、749年(天平勝宝元年)、正一位に叙された。生前に正一位に叙された人物は日本史上、わずか6人しかいないが、諸兄はその栄誉に浴したわけだ。

 ただ諸兄にとって、官位は頂点まで昇り詰め、朝政の要となったものの、政権運営は決してスムーズに運べる状況にはなかった。天平勝宝年間(749~757年)は二重権力の時代だった。一つは聖武太上天皇を上に戴く橘諸兄を中心とする「太政官」の権力であり、もう一つは光明皇太后を上に戴く、藤原仲麻呂を中心とする「紫微中台(しびちゅうだい)」の権力だ。この二つの権力の接合点、あるいは調和点として孝謙女帝が存在していた。本来、公式的には太政官権力が国家を代表するはずなのだが、実際は「紫微中台」の権力が強かった。

 だが、756年(天平勝宝8年)、権力の一方に大きな変化が起こった。重い病の床に就いていた聖武太上天皇が亡くなり、支えを失った橘諸兄は左大臣の位を去ったのだ。そして757年(天平勝宝9年)、諸兄は疫病であっけなく亡くなってしまった。その結果、権力が一元化され、藤原仲麻呂の勝利が目前に迫ったとき、これまでの「聖武帝=橘諸兄」ラインにつながる皇親、宮臣たちが乾坤一擲(けんこんいってき)の賭けに出た。それが諸兄の長男、奈良麻呂が起こした「橘奈良麻呂の変」だった。

 しかし、実はこの「橘奈良麻呂の変」(757年)の実態がよく分かっていない。橘奈良麻呂は、病気の聖武天皇の後は、黄文(きぶみ)王父子を中心に多治比(たじひ)氏と小野氏が政治を補佐し、大伴・佐伯両氏の武力でその政権を守らせるという計画だったという。この際、奈良麻呂が一番頼りとしていたのは大伴・佐伯両氏の武力だ。大伴古麻呂はすでに奈良麻呂の味方で、万全を期すべく佐伯全成(さえきのまたなり)を味方につけるため奈良麻呂は再三にわたって、誘いをかけている。実際、確かに陰謀はあった。が、本当にクーデターの実行計画はあったのか?

 いずれにしても、この計画は未遂に終わり、失敗。嫌疑をかけられた者たちへの凄惨を極めた、拷問を含めた取り調べにより、黄文王、道祖(ふなど)王、それに大伴古麻呂、多治比犢養(うしかい)、小野東人(おののあずまひと)、鴨角足(かものつのたり)らは拷問を受け死んだ。黄文王の兄、安宿王も妻子とともに佐渡配流、佐伯大成(おおなり)、大伴古慈斐(こしび)は各々任国の信濃、土佐に配流、多治比国人は伊豆配流、佐伯全成は自殺した。

 この事件によって古代豪族、大伴・佐伯両氏は致命的打撃を受けた。要するに、この橘奈良麻呂の変は、クーデターの嫌疑を理由に反藤原仲麻呂派を一掃しようとしたものだった。もっと突き詰めていえば、反仲麻呂派を一掃するために、奈良麻呂らに謀(はかりごと)をめぐらせる時間を与え、泳がせていたのではないか-とみることもできる。しかし、勝利に酔っている時間はわずかだ。この報いは10年も経たないうちにやってくる。764年(天平宝字8年)、「藤原仲麻呂の乱」がそれで、権勢を誇り、「恵美押勝(えみのおしかつ)」とも呼ばれた藤原仲麻呂は琵琶湖畔で一族とともに自害して果てている。

(参考資料)梅原 猛「海人(あま)と天皇 日本とは何か」、笠原英彦「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」、神一行編「飛鳥時代の謎」、杉本苑子「穢土荘厳(えどしょうごん)」、杉本苑子「檀林皇后私譜」

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