竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

 竹川竹斎は、伊勢射和(いせいざわ)に拠点を持っていた由緒ある伊勢の豪商だ。竹斎は相当変わった人物で、国学、測量学、また農事や土木の方法まで学ぶなど、学問に造詣が深かった。しかも、学んだだけでなく竹斎はこれを地域で実行した。そして、何より驚かされるのは、竹斎は商人でありながら、幕末、「海防護国論」と題した意見書を提出。勝海舟と小栗上野介という幕府首脳部にあって、相対立する二人の実力者の政治顧問=黒幕的存在だったことだ。

 竹川竹斎は、伊勢国(現在の三重県)飯野郡射和村で父・竹川政信、母・菅子の長男として生まれた。幼名は馬之助、元服(1823年)して新兵衛政肝と改め、隠居(1854年)して竹斎と号した。父は文化人で、母は山田の国学者、荒木田久老の娘。竹斎の生没年は1809(文化6)~1882年(明治15年)。

 竹川家は幕府御為替御用を務め、当時、三井家と肩を並べるほどの豪商で、本家の竹川と、新宅の竹川と、東の竹川という三つの流れがあった。竹斎は東・竹川家の七代目だ。本拠は伊勢に置いてあったが、江戸で両替商を営む金融業だった。

 竹斎は国学を荒木田久守や竹村良臣(よしおみ)に学び、農事や土木の方法を、この方面の権威だった佐藤信淵(のぶひろ)に、そして天文地理の測量学を奥村喜三郎などに学んだ。また、多くの経世家や文化人と接し、知識を深めた。だが、彼が単に知識欲が旺盛だったわけではない。学んだことを地域で実行した。地域住民の多くを参加させ、近江の水利をはかるための灌漑工事を行った。もちろん、工事の費用は全部自分が出した。それによって、地域住民の意識を高めようとしたのだ。また、彼は当時1万巻といわれた蔵書、自分の持っている本を全部放出し、「射和文庫」をつくった。

 竹斎は「地域が富むためには、産業を興さなければならない。それには地域の特産品をつくって、他国に売り出すことだ」と唱えた。そのため、彼は「万古焼(ばんこやき)」を復活させた。「射和万古」と名付けた陶器を次々と生産させた。こうして、彼は伊勢射和の地域振興に尽くした。

 ただ、竹斎は地域だけではなく、幕末の日本全体を見ていた。ペリー来航後、当時の老中首座・阿部正弘は開明的な政治家で、情報公開と身分を問わず、様々な意見を求めるとの方針を打ち出し、国政参加への回路を開いた。これに応じて竹斎が提出した意見書が「海防護国論」だった。この意見書は、題名からくる印象とは違って、積極的な開国策だった。彼は後に、誰よりも先駆けて、日本に鉄道を敷設すべきだとか、北海道の開拓が急務だなどと唱えるが、学問の蓄積が彼の目を研ぎ澄まさせたのだ。

 竹斎の海防護国論にひどく感動したのが、勝海舟と大久保忠寛(一翁)だった。勝はとくに竹斎に惚れ込んでしまった。以後、勝は折に触れて様々な問題について、竹斎に相談し、アドバイスを受けたという。勝自身、明治になってから何でも自分ひとりで考え出したようなことを言っているため、一般的に、勝は相当な自信家のイメージが強いが、必ずしもそうではない。彼には、この竹川竹斎という政治顧問=黒幕がいたのだ。

 竹川竹斎は実は、海舟の青年時代からの支援者だった北海道の商人、渋田利右衛門が自分に万一のことがあったらといって、海舟に浜口梧陵、嘉納治右衛門(柔道・講道館の開祖、治五郎の親)らとともに紹介した人物の一人だ。このことは、海舟自身が『氷川清話』に書いていることだ。

 そして、驚くことに竹斎が黒幕的な役割を務めたのは、勝海舟に留まらなかった。竹斎は明治維新前後、勝と鋭く対立した勘定奉行・小栗上野介忠順の黒幕でもあったという。小栗は開明的な能吏だが、徳川幕府を立て直し、戦艦、武器・弾薬など軍備のうえからは、新政府軍とはまだ十分勝負になると判断。最後まで徹底抗戦を唱えていた。そのため小栗は、最終的に朝敵になることを怖れ、不戦=恭順派に傾いていた最後の将軍、徳川慶喜に嫌われて、江戸城内で職を罷免されてしまった人物だ。小栗上野介とは、新政府軍にとって、それほどに要注意人物だったのだ。竹斎は、そんな人物の政治顧問でもあった。

 竹斎が亡くなったとき、勝は墓前に「世のことを 望みなき身の心しりて友のすくなく成るぞわびしき」の句を捧げている。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話付 勝海舟伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」

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