キトラ古墳・石室を8月に期間限定で初公開 文化庁
文化庁は6月6日、壁画発見から30年を迎える奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)について、8月に期間限定で石室を初めて一般公開すると発表した。公開は8月18~25日の午前9時~午後5時。7月中~下旬に公募する予定。
八角形で5段構造 宮内庁が「野口王墓古墳」の復元案
八角形で5段構造 宮内庁が「野口王墓古墳」の復元案
宮内庁は5月24日、天武・持統両天皇の合葬陵として管理する奈良県明日香村の野口王墓(のぐちおうのはか)古墳について、7世紀の天皇陵に特有とされる八角形で、5段構造だったとする詳細な復元案を初めて公表した。根拠となる発掘時の写真なども公表。同古墳は古墳時代終末期を代表するひとつだが、陵墓は宮内庁が管理し、一般の立ち入りを原則禁じ、実地調査に基づく詳しい情報をこれまでほとんど公表していなかった。
同庁の復元案では、墳形は最下段の一辺が約15㍍、対角辺約40㍍、正八角形。高さは約7.7㍍。表面は切り石で覆われ、5段構造の最上段は高さ約3㍍と他の段より高く、仏塔のような形だったと推定している。この復元案などは明日香村教育委員会が5月25日に発売する「牽牛子塚(けんごしづか)古墳発掘調査報告書」に収録される。
大王墓は6世紀までは前方後円墳だったが、7世紀に即位した舒明天皇(天武天皇の父)から八角形になったとされる。舒明天皇陵とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)や天智天皇(天武天皇の兄)陵とされる御廟野古墳(京都市)は墳丘の八角形部分が2段で、大型で色の異なる岩が使われている。
奈良・牽牛子塚古墳造営には延べ2万人が従事か
奈良・牽牛子塚古墳造営には延べ2万人が従事か
奈良県明日香村教育委員会が刊行した牽牛子塚(けんごしづか)古墳発掘調査報告書によると、同古墳造営には延べ2万人程度が従事したとみられる。同古墳は天皇陵特有とされる八角墳で、飛鳥時代の女帝、斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)の合葬墓との見方が強い。同村教委は今回、墳丘に使われた石材の総重量を約276㌧と推定。産出地は大阪府と奈良県の境にある二上山などとみられ、石の切り出しに延べ1056人、運搬に延べ1万3780人が必要などと推計している。ちなみに、同古墳の墳丘は対角辺約22㍍、高さ約4.5㍍以上。巨大な岩をくり抜いた石槨(せっかく)を持ち、表面は切り石で装飾されていた。
天理市で幻の廃寺「内山永久寺」の扁額見つかる
天理市で幻の廃寺「内山永久寺」の扁額見つかる
奈良文化財研究所(奈良市)の調査によると、平安時代末期に建立され、江戸時代には大和国屈指の寺院として栄えながら、明治期の廃仏毀釈で廃寺となった「内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)」(奈良県天理市)の扁額が天理市内の民家で見つかった。扁額は門戸などに掲げられる額で、今回見つかったのは長さ約84㌢、幅約43㌢で、寺の院号とされる「金剛乗院」と書かれている。鎌倉時代の書家、藤原教家が1247年に書き、同寺の真言堂に掲げられたものと結論付けた。鎌倉時代の扁額の発見は極めて珍しく、実態が不明な永久寺の解明や書道史の研究に役立つ一級史料として注目される。
内山永久寺は東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ大和国屈指の大寺院で、平安時代の永久年間(1113~1118年)、鳥羽天皇の勅願で建立され、近世の最盛期には60近い坊があったとされる。
京都・伏見の寺田屋の女将・お登勢の生家に石碑 大津市
奈良県桜井市で国内最古の祭祀用の木製仮面見つかる
奈良県桜井市で国内最古の祭祀用の木製仮面見つかる
奈良県桜井市教育委員会は5月30日、同市の大福遺跡で2世紀後半の仮面と見られる木製品が見つかったと発表した。同市教委では木製仮面では国内最古といい、祭祀(さいし)に使用したとみられる。見つかった仮面はほぼ中央で割れており、残存部は長さ23.4㌢、厚さ5㍉。目を表す穴と、ひもを通したとみられる穴があった。
同遺跡やその周辺では、弥生時代の祭器である銅鐸(どうたく)を破砕して他の青銅器に再生した跡が見つかっている。いずれも弥生時代から古墳時代への移行期で、同市教委は祭祀などが移り変わる様子を物語る重要資料としている。国内では仮面は縄文時代の土面が知られているが、木製は大福、纏向(まきむく、3世紀前半)両遺跡の2点以降、7世紀のものまで見つかっていない。
ジョン万次郎の漂流記 写本100年ぶり戻り5/18から展示
ジョン万次郎の漂流記 写本100年ぶり戻り5/18から展示
ジョン万次郎の漂流記「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」の写本の一つが、米国から約100年ぶりに日本に戻り、5月18日から7月19日まで「『漂巽紀略』に見る万次郎の世界展」で、万次郎に関する資料などとともに、高知県立坂本龍馬記念館(高知市)で展示されている。
「漂巽紀略」は江戸時代末期、遭難の末に米国に滞在したジョン万次郎(中浜万次郎)が1851年に帰国した際、本人から聞き取った話を基に、土佐藩の絵師、河田小龍が様々な挿絵・図を施しながら執筆。万次郎が救助されたときの様子や米国での生活や文化が書かれている。原本は、当時の土佐藩・山内容堂に提出されたが、その行方は分かっていない。龍馬記念館によると、幕末に作られた写本は6つあり、このうち1つは記念館が保管。新たに展示されるのは別の写本で、米国のボストン港などの絵が多く含まれている。
全教科「甲」宮沢賢治の成績簿 母校の花巻小で発見
全教科「甲」宮沢賢治の成績簿 母校の花巻小で発見
岩手県出身の詩人で童話作家、宮沢賢治(1896~1933年)の小学校時代の成績簿が、母校の花巻小学校(同県花巻市)で見つかった。成績は「甲」「乙」「丙」の3段階で評価されている。3、4年時は修身(道徳)、国語、算術、体操、操行(品行)の5教科すべてが最も優れた「甲」評価、5、6年時は日本歴史、地理、理科、図画、唱歌を加えた10教科がいずれも「甲」だった。1、2年時の記録は学校の火災で失われたとみられる。
成績簿の内容は「校本 宮沢賢治全集第14巻」(筑摩書房、77年発行)にも掲載されているが、原本の確認は初めて。賢治没後80年の今年8月に花巻市の宮沢賢治記念館で公開される予定。賢治は1909年に花巻小の前身、花巻尋常高等小学校を卒業した。
平安時代の瓦に「西寺」の押印 京都・八幡の窯跡で発見
平安時代の瓦に「西寺」の押印 京都・八幡の窯跡で発見
京都府埋蔵文化財研究センターは5月20日、京都府八幡市の美濃山瓦窯跡(8世紀~9世紀前半)で「西寺」と押印のある平安時代の瓦が1点見つかったと発表した。西寺は平安時代初めに東寺とともに平安京に建立された「国立寺院」。嵯峨天皇から空海に東寺、守敏に西寺が与えられたが、西寺は鎌倉時代には廃れたため、幻の官寺といわれる。
西寺跡(京都市南区)から出土した瓦片の押印と同じで、窯はもともとすぐそばの寺の瓦を焼いていたが、約15㍍離れた西寺のためにもつくっていたらしい。見つかった瓦は幅約17㌢、長さ約15㌢、厚さ約1.3㌢。「西寺」の押印がある瓦は、官営工房とされる坂瓦窯(大阪府枚方市)でもつくられていたが、今回出土したものとは書体が違う。
気仙沼の遺跡で縄文時代の大量のマグロの骨や石器出土
梶井基次郎の小説「檸檬」の舞台 「丸善」京都に復活
梶井基次郎の小説「檸檬」の舞台 「丸善」京都に復活
大正期の作家、梶井基次郎の小説「檸檬」の舞台として京都市民やファンに長年親しまれながら、2005年に閉店した書店「丸善」が2015年春、復活することが分かった。丸善CHIホールディングス傘下の丸善書店が、京都市中心部の河原町通りの旧店舗近くで建て替え中の専門店ビル「BAL(バル)」内に再オープンし、以前に扱っていた洋書や文具を充実させるという。
延べ床面積は約3300平方㍍で、ビルの複数階に店を展開する計画。丸善CHIは建て替え前の旧バルで傘下のジュンク堂書店を今年1月末まで営業。リニューアルにあたり、店名を市民に親しまれていた「丸善」とするのが効果的と判断した。
手塚治虫の1940年代の「メトロポリス」など未発表原稿発見
平安貴族の優美な船遊び 京都・車折神社の神事「三船祭」
古代の幹線道路「中ツ道」の路面の遺構発見 藤原京跡北で
古代の幹線道路「中ツ道」の路面の遺構発見 藤原京跡北で
奈良県立橿原市考古学研究所は5月11日、奈良盆地を南北に縦断していた古代の幹線道路の一つ「中ツ道」の路面の遺構が、奈良県天理市喜殿町で見つかったと発表した。場所は藤原京跡(奈良県橿原市)の北端から北約10㌔の地点。中ツ道の路面の遺構が見つかるは初めて。粘土質の地面を平らにならした上に、土を混ぜて硬くした砂が約10㌢敷き詰められ、古代の「国道」の舗装状況も分かるという。
中ツ道は道路部分の幅が約23㍍と推定され、両側に側溝があったとされる。橿原研の2012年度の調査では、今回の発掘現場南で、中ツ道東側側溝の一部が出土していた。新たに見つかったのは道路部分の東端一部(南北約15㍍、最大幅3㍍)で、それに沿うように側溝(幅約2.2㍍、深さ約70㌢)も確認された。
古代の幹線道路は7世紀ごろ造営されたとみられ、『日本書紀』の壬申の乱(672年)の記述で登場する。上ツ道、中ツ道、下ツ道の3本が約2.1㌔間隔で並行し、藤原京と平城京を結んでいたとみられる。
秀吉の「賎ヶ岳の合戦」戦略指示書発見 官兵衛も参戦
秀吉の「賎ヶ岳の合戦」戦略指示書発見 官兵衛も参戦
滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館は5月10日、1583年に羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が戦った賎ヶ岳の合戦の際、秀吉が戦略を指示するため自陣に送った古文書を発見したと発表した。文書は、秀吉の弟で最前線にいた羽柴秀長に宛てた「羽柴秀吉書置 羽柴秀長宛」の墨書で、縦30㌢、横約45㌢。秀吉の天下取りを支えた黒田官兵衛や、木村隼人、前野長康などの名前を挙げ、自軍の砦の周囲にある小屋を壊すことなどを指示している。
賎ヶ岳の合戦は信長没後、賎ヶ岳(現在の長浜市)周辺で、家臣の秀吉と柴田勝家が戦い、秀吉が勝利。信長の後継者の地位を固め、天下取りの足掛かりとした。この合戦への黒田官兵衛の参戦は従来、一部の史料でしか確認が取れていなかったが、今回の発見で参戦が確認できたとしている。
青年・太宰の旧制中高時代のノート、日記など全容公開
青年・太宰の旧制中高時代のノート、日記など全容公開
「人間失格」「斜陽」などの作品で知られる作家、太宰治(1909~48年)が旧制青森中学、旧制弘前高校在学中に使った授業ノートや日記など22点が日本近代文学館(東京都目黒区)に寄贈され5月10、公開された。横山武夫・元青森県立図書館長が太宰の実兄、津島文治・元青森県知事から受け取ったものを遺族が保管していた。ノートの存在は研究者には知られていたが、まとまった形で全容が明らかになるのは初めて。
「地鉱 津島修治」と題されたノートには、授業内容の書き取りとともに「芥川龍之介」の文字がびっしり書き込まれている。太宰が弘前高校時代に創刊した同人誌「細胞文芸」の表紙や、自身のペンネームの構想を書いたとみられるページもある。資料の一部は今秋、同館で公開される予定。
出雲大社で60年ぶり「平成の大遷宮」のヤマ場、本殿遷座祭
出雲大社で60年ぶり「平成の大遷宮」のヤマ場、本殿遷座祭
出雲大社(島根県出雲市)で60年ぶりの大改修「平成の大遷宮」のヤマ場となる本殿遷座祭が5月10日夜、営まれた。仮殿へ移していたご神体を改修を終えた本殿に戻す神事で、天皇陛下の勅使や氏子ら参列した約1万2000人が厳かな雰囲気の中、静かに見守った。神事は午後7時から2時間半。その間、本殿入り口の提灯と、通り道のわずかな明かり以外の照明は落され、一般の参列者は立ち入りが制限された。
千家尊祐宮司が仮殿で祝詞を奏上。その後、絹垣と呼ばれる白い布で覆った神輿に乗せられたご神体が神職らの行列と共に進み、本殿の神座に迎えられた。前回の本殿遷座祭はちょうど60年前の1953年5月10日。今回は2008年から本殿を修復した。12日から6月9日までは境内で特設舞台で神楽やコンサートなど奉祝行事が連日行われる。
秀吉,家康の京都・伏見城跡の全域を調査 創建時の石垣確認
秀吉,家康の京都・伏見城跡の全域を調査 創建時の石垣確認
大阪歴史学会や京都府は、豊臣秀吉や徳川家康の居城だった伏見城跡(京都市)のほぼ全域を調査し、巨大な土橋や創建当初のものとみられる豪壮な石垣などを確認した。城跡は80万平方㍍(東京ドーム17個分)に及ぶ。伏見城と同じ場所に明治天皇陵が造営されたことから、遺構の大半は桃山陵墓地として立ち入りが規制され、研究が進んでいなかった。今回のように宮内庁が陵墓地でこれほど大規模な文化財調査を許可するのは異例。1592年、天下統一後の秀吉の権勢や高い築城技術を示す一級史料になりそうだ。
関係者によると、本丸と二の丸をわたる巨大な土橋(長さ約40㍍、幅約5㍍)や幅数十㍍の堀、天守の土台(一辺十数㍍、高さ約5㍍)など多数の遺構を確認した。各地の自然石を積み上げた秀吉時代に特徴的な石垣は高さ約7㍍、長さ約20㍍分が残っていた。花崗岩を割り出した徳川期とみられる石垣には長辺1.8㍍の巨岩が使われていた。
東大寺法華堂の須弥壇・仏像の修理完了 5/18から拝観再開
博物館数、全国で3317施設の歴史がトップ 美術は1087
絶滅した鳥類世界最大の巨大卵 1000万円で落札
東大寺が100年後を見据え東塔の再建など整備構想
東大寺が100年後を見据え東塔の再建など整備構想
東大寺は4月26日、100年後を見据えた境内の整備基本構想を発表した。まず境内全体を発掘調査し資料を蓄積、戦乱などで失われた東塔を再建し、西塔や講堂、僧坊などは創建時の姿がはっきりとわかるように礎石などを整備する。構想は学識経験者による境内整備計画委員会が3年がかりでまとめた。同寺が全体の発掘調査を行うのは初めて。
発掘調査は文化庁や奈良県、奈良市などと協議しながら進めるが、数年はかかる見通し。まず東塔跡から調査を始める。建物の復元計画は発掘の調査結果をもとに検討する。東塔は高さが70㍍、100㍍など様々な説がある。再建費用は現在のところ不明。
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司馬遼太郎氏から池波正太郎氏宛ての親愛の書簡発見
野間宏さんの未発表小説「狙撃」自筆原稿発見
野間宏さんの未発表小説「狙撃」自筆原稿発見
「真空地帯」や「青年の環」などで知られる作家、野間宏さん(1915~91年)の未発表小説「狙撃」の自筆原稿が見つかった。中央公論社(当時)の元編集者、水口義朗さん(78)が保管していた。1960年ごろ書かれた作品とみられる。「狙撃」は400字詰め原稿用紙52枚。東京・兜町が舞台で、株を買い占めて会社を乗っ取ろうとする総会屋が敵対グループとトラブルになり、命を狙われる-といった内容。61年、深沢七郎さんの小説「風流夢譚」をめぐり、中央公論社社長宅を右翼の少年が襲った事件があり、当時は「狙撃」のような題名の小説を発表できる状況ではなかったため、見送られたのではないかと推測される。「週刊読書人」紙で4月26日発売号から3週連続で掲載される。
安部公房の弟を励まし気遣う手紙30数通が見つかる
安部公房の弟を励まし気遣う手紙30数通が見つかる
「壁」「他人の顔」「燃えつきた地図」「砂の女」「箱男」などの作品で知られる作家、安部公房さん(1924~93年)が、47年から51年に芥川賞を受賞する前までの間に、札幌市に住む実弟の井村春光さんへ宛てた手紙など30数通が井村さんの自宅で見つかった。安部さんは医者を目指して苦学している弟を激励、貧しい中でも金銭的な支援を続けていたこと、そして送金できないことを詫びる文面もある。また、自身の創作への思いも率直に語り、ストイックに芸術を追求する心情を認めている。49年のはがきでは、初期の短編「デンドロカカリヤ」を書いたと報告、技術的にも自信がつきました-と興奮気味に伝えているのが印象的だ。
奈良県桜井市の大福遺跡で筒状銅器が出土
993年にも宇宙線急増 名大チームが屋久杉で確認
993年にも宇宙線急増 名大チームが屋久杉で確認
名古屋大・太陽地球環境研究所の増田公明准教授らの研究チームは4月23日付の英科学誌電子版に、地球に到達した宇宙線が993年に急増し、宇宙環境が大きく変化していたことを確認したと発表した。同チームは775年にも同様の現象が起きていることを明らかにしており、今回が2例目。2例とも太陽表面で起こる爆発現象の「太陽フレア」の大規模な発生により起きたものと推測している。
チームは樹齢1900年の屋久杉の年輪を解析し、取り込まれた炭素濃度を測定。その結果、宇宙線が大気と反応して生成され、太陽の活動周期の11年間で通常0.3~0.4%程度の変動しかない放射性炭素「炭素14」の大気中の濃度が、993年に0.9%高まったことを発見した。
江戸初期の「大津絵」最古の作品か 博物館が発見
江戸初期の「大津絵」最古の作品か 博物館が発見
江戸初期に描かれた「大津絵」の最古とみられる作品を昨年11月、東京都内の古美術商がオークションで落札し、保管していたのを大津市歴史博物館職員がこのほど発見、確認した。見つかったのは天照大神(あまてらすおおみかみ)の化身が描かれた「雨宝童子(うほうどうじ)」と呼ばれる作品。縦約70㌢、幅約30㌢。同博物館では1620~40年ごろの作品とみている。
大津絵は江戸時代に旅土産として人気を集めた神仏などの絵画で、高価な仏画などを買えない庶民向けに描かれた民俗絵画。安価で大量に制作する必要性があったため、徐々に簡素な作風に変化していったことが特徴とされている。
文化庁が長崎の教会群に世界遺産に「推薦可能」判定
南ア チンパンジーとヒトの特徴 猿人の骨格発見
フローレス原人は脳が現代人の1/3だった
小型の人類、フローレス原人は脳が現代人の1/3だった
国立科学博物館と東京大学の研究チームは、身長1㍍ほどで小型の人類、フローレス原人の脳の大きさが現代人の3分の1しかないことを突き止めた。脳と体のサイズの比率から、ジャワ原人を祖先とし、脳と体が小さく進化していった原人の可能性が高まった。4月17日に英国王立協会紀要(電子版)に掲載される。フローレス原人は1万数千年まで生きていたとされる。2003年にインドネシアのフローレス島で初めて見つかったフローレス原人の頭蓋骨化石を、東大のコンピューター断層撮影装置(CT)で解析。樹脂で正確に頭骨を復元し、脳の大きさを測定した結果、426CCで、現代人(約1300CC)の約3分の1だった。
高杉晋作の日記や三味線を萩・下関市に寄贈
高杉晋作の日記や愛用の三味線を萩・下関市に寄贈
幕末の志士、高杉晋作の玄孫(やしゃご)で現高杉家当主の高杉力さん(48)は4月13日、山口県萩市と下関市が管理していた晋作の日記や愛用していた三味線などの遺品を、両市に寄贈すると発表した。萩市へはすでに69点を寄贈。晋作の命日の4月14日に、下関市へ寄贈する158点の披露式を同市立東行記念館で開いた。
萩市に寄贈されたのは、高杉家の家紋入りの産着など。江戸遊学に旅立つ晋作を師の吉田松陰が激励した手紙や、萩から江戸に約2カ月かけて軍艦で航海した際の日記「東帆録」が含まれる。下関市には、愛用の三味線などが寄贈された。奇兵隊の軍旗や療養生活中の和歌などもあり、いわば下関戦争から死に至るまでの激動の人生をともにした遺品群だ。遺品をめぐっては、晋作の墓がある寺「東行庵」(下関市)と高杉家などとの間で所有権の争いが続いていた。
藤原公任編纂の古文書の裏に”猿の顔”?の印
古墳時代の金色の馬具一式 福岡の遺跡群から
古墳時代の金色の馬具一式出土 福岡の遺跡群から
福岡県古賀市教育委員会は4月18日、同市の谷山北地区遺跡群で、7世紀初頭前後(古墳時代末期)の金銅製の鞍など馬具一式が出土したと発表した。同市教委によると、馬具は7世紀初頭の直径約20㍍の円墳「船原3号噴」の入り口から約5㍍離れたところに掘った横5.2㍍、縦0.8㍍の穴に埋められていた。馬具は轡(くつわ)に手綱を結び付ける「引手」、鞍の金具、馬の背中を飾る「雲珠(うず)」、ハート形をした飾り金具「杏葉(ぎょうよう)」、ひもなどが交差した場所に付ける「辻金具」など多数。これらの馬具は馬を豪華に飾るのに使われていたと考えられ、全国的にも例が少なく、当時の葬送儀礼が分かる重要な発見としている。
ナスカで2人の人物 新たな地上絵発見 山形大
ナスカで2人の人物が並んだ新たな地上絵発見 山形大
山形大は4月12日、世界遺産「ナスカの地上絵」で知られるペルーのナスカ台地で、2人の人物が並んだ地上絵を新たに見つけたと発表した。人物は縦約13㍍、横約7㍍で頭部が逆三角形のものと、縦約14㍍、横約12㍍で頭部が円形のものの2体。ナスカ台地周辺で出土した土器との比較などから、紀元前400年から同200年の間に描かれたと推定されるという。多くの地上絵は、地表の石などを取り除いてつくった「線」で描かれているが、今回の地上絵は小石を積み上げたり、取り除いたりして描かれていた。2011年に山形大の研究グループが発見し、ペルー文化省に報告。今月初めに学会で発表した。
4600年前、港の跡地発見 パピルス40巻も
4600年前、エジプト最古の港の跡地発見 パピルス40巻も
エジプトのアリ文化財担当国務相は4月11日、大ピラミッドの建造で有名なクフ王(在位・紀元前2589~同2566年)の時代に使われた港の跡を発見したと明らかにした。エジプトで見つかった港としては最古のものと同国メディアが報じた。
港の跡はエジプトとフランスの合同チームが調査、北東部スエズの南方約180㌔の紅海沿岸で見つかった。シナイ半島から銅などを運び出すのに使われていたとみられる。船を係留するロープを結び付けるために使われていた複数の石も発掘された。また、アリ国務相は、現地でクフ王時代の日常生活の詳細が記されたパピルス40巻も発見されたと発表した。
隋の煬帝の墓か 中国江蘇省の工事現場で発見
縄文人は調理? 土器の焦げ跡に魚を煮炊き跡
縄文人は普通に調理? 土器の焦げ跡に魚を煮炊きした跡
日本、英国などの研究チームは、北海道や福井県の遺跡から出土した1万1000~1万5000年前の縄文式土器の焦げ跡に、サケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれていることを見つけ、4月11日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。料理に使われた世界最古の土器という。縄文土器は一般に食料の貯蔵などに使っていたとみられていたが、栄養価の高い魚類を料理していたことも示すもの。縄文人の暮らしぶりの一端を明らかにする成果。今回詳細に調べた鳥浜貝塚(福井県若狭町)、大正3遺跡(北海道帯広市)以外の遺跡でも、焦げ跡の炭素や窒素の同位体比から、ほとんどの土器は煮炊きに使われていたとみられる-としている。
出雲大社 「本殿遷座祭」大遷宮最終章へ
円山応挙”幻の虎”発見 大谷記念美術館
鑑真和上坐像の模像に彩色 天平の面影 再現
北大文書館で萩原朔太郎 農学志し 志願者名簿
北海道大文書館で萩原朔太郎が農学志した志願者名簿
北海道大文書館(札幌市)によると、過去の志願者名簿の中に前橋市出身の詩人、萩原朔太郎の名が見つかった。これは同館の職員が保管していた過去の志願者名簿などを調べていた際に偶然見つけたもので、資料は1907年の東北帝国大学農科大予科(現・北海道大)の志願者名簿。朔太郎の名前や出身中学などの記載があったという。名簿には入試を欠席したことを示す印も付けられていた。後年、都会や欧州を愛し、芸術活動を志した朔太郎が、旧制中学卒業後の進学先として、農学を志願していたことを示すもので、詩一筋ではなく、進路に悩む青春期の朔太郎の一面が表れている資料といえそうだ。