宮城・多賀城跡で鎮守府示す奈良時代後半の木簡出土

宮城・多賀城跡で鎮守府示す奈良時代後半の木簡出土

宮城県多賀城市の国特別史跡・多賀城跡の発掘調査をしている宮城県多賀城跡調査研究所は2月4日、政庁南の城前地区で鎮守府を示す「府」と書かれた奈良時代後半の文書箱(もんじょばこ)のふたなどの木簡が出土したと発表した。
中央政府が奈良時代に国府とともに東北以北の蝦夷(えみし)を統治するために置いた鎮守府の存在が、同時代の史料で裏付けられた。書箱が見つかった場所は、政庁から約120㍍南、当時の正門「南門」に通じる南大路の東側にある城前地区の実務官衙(かんが=役所)のごみ捨て場跡から出土した。
文字が書かれたふたは長さ32.1㌢、幅5.7㌢、厚さ1.7㌢。「府符口(諸?)郡司口」と書かれ、「府、諸郡司に符す」と読めるという。「符」は上から下へ指令を伝える文書で使われる語句であることから、鎮守府が各地の郡の役人(郡司)に命令を出した文書を収めた箱とみられる。
奈良時代の多賀城に鎮守府が置かれたことは「続日本紀」などの記録にあるが、同時代の史料で存在が確認されたのは初めて。

五代友厚の商才示す新史料、長崎で幕末の証文

五代友厚の商才示す新史料、長崎で幕末の証文

大阪商工会議所初代会頭、五代友厚(1836~1885年)が幕末、長崎の豪商に7500両を貸したことを示す証文が見つかった。五代は当時20代半ば、若いころから大金を動かす才覚があったことが分かる貴重な史料だという。
証文は長崎の豪商として知られた小曾根家の12代当主六左衛門ら宛てで、17代当主吉郎(きちろう)さん(68)の長崎の自宅にあった。縦19.5㌢、横89.5㌢、中袋に入れられ、宛先を書いた包み紙にくるまわれていた。
冒頭に「金子御取替申候一札之事」(金をご融資することの一札)とあり、7500両を利息7%で貸すという内容。末尾には文久元(1861)年12月の日付とともに、「薩州」「五代才助」(友厚を名乗る前の名前)という署名があった。
NHK連続テレビ小説「あさが来た」で一躍脚光を浴びた、俳優ディーン・フジオカ演じる実業家、五代友厚の青年時代の姿の一端を示すものだ。

大阪・住吉祭に修理終え75年ぶり大神輿復活、巡行へ

大阪・住吉祭に修理終え75年ぶり大神輿復活、巡行へ

大阪三大祭の一つ、住吉祭で男たちに担がれ大和川を渡る大神輿(みこし)が1月28日、胴体部の修理を終えて、住吉大社(大阪市住吉区)に帰ってきた。
この大神輿、130年以上前につくられたもので、老朽化が進み、2年半前から富山県の工房で宮大工らの手で修理されていた。今後、必要な装飾を施され、8月1日には70年以上途絶えていたこの大神輿での巡行が復活する。
大神輿は高さ約3㍍、全長約5㍍。重さは約2.6㌧といわれる。また、2月からの装飾作業で、神輿のてっぺんに金色の鳳凰が飾られる。

開館12日目で来場者1万人突破 真田丸大河ドラマ館

開館12日目で来場者1万人突破 真田丸大河ドラマ館

戦国武将、真田信繁(幸村)が主人公のNHK大河ドラマ「真田丸」の放送に合わせてオープンした「信州上田真田丸大河ドラマ館」(上田市)が1月28日、開館12日目にして来場者数1万人を突破した。真田家ゆかりの同市と長野市は観光地を整備してイベントを企画するなど誘客に力を注いでおり、上々の滑り出しとなった。
同館はドラマで使われた着物や小道具を展示し、「信繁の生きた時代」や「上田城と真田家の家族」など4つのゾーンに分けて真田丸の世界を体感してもらうのが”売り”だ。見学通路は城下町の街並みを再現した。展示面積は650平方㍍で、過去の大河ドラマ館を含めて最大級といわれる。同館では目標来場者数50万人を見込んでいる。

熊本城 城ランキングで3年連続首位 城郭全体復元中

熊本城 城ランキングで3年連続首位 城郭全体復元中

旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」による「行ってよかった!日本の城ランキング2015」で熊本城が3年連続1位に選ばれた。
トリップアドバイザーは米国に本社を置き、世界45カ国で500万を超すレストランやホテル、観光スポットについて、旅行者から寄せられた情報を提供している。このうち日本の城ランキングは2014年6月から15年5月に投稿された口コミの件数や、5段階評価などを基に算出している。
熊本城は周知の通り、加藤清正が築いた熊本のシンボル。訪日外国人の割合も平成23年度の6.6%から26年度は17.2%まで高まっている。うち9割はアジア圏からの訪日客という。
現在の熊本城天守閣は昭和35年に外観を復元。平成10年度からは現存する絵地図や古文書を基に、城郭全体(98㌶)を対象に往時の姿に復元するプロジェクトも始動。このプロジェクトの費用を賄うため、一般から「一口城主制度」を設け資金提供を呼び掛け、すでに南大手門や本丸御殿大広間が完成している。

奈良・若草山で新春恒例「山焼き」極寒の夜空彩る

奈良・若草山で新春恒例「山焼き」極寒の夜空彩る

奈良・若草山で1月23日夜、新春恒例の「山焼き」が行われ、燃え上がる炎の明かりが極寒の古都の夜空を彩った。午後6時すぎ、花火が打ち上がると号砲が鳴り響き、これを合図に地元の消防団が山の斜面の枯れ草に松明の火を一斉に放った。
江戸時代から続く「若草山の山焼き」は、山頂にある古墳の霊魂を鎮めるために始まったと伝えられる。あいにく夕方から降り始めた雨の影響で、例年のような炎の勢いはなかったが、古都の夜空を赤く照らし出した。極寒の中、集まったおよそ15万人の見物客らは冬の祭典に魅入っていた。

権勢誇示する秀吉の33通の家臣宛て書状見つかる

権勢誇示する秀吉の33通の家臣宛て書状見つかる

兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館などは1月21日、「龍野神社旧蔵文書」から羽柴(後の豊臣)秀吉による家臣、脇坂安治(やすはる)宛ての33通の書状が見つかったと発表した。
これらの書状の中で秀吉は、天下取りを目指す精力的な進攻を記す一方で、家臣の動きの細部に目を配るなど厳格な統治者としての一面を示している。
当時、最後で最大の難敵だった徳川家康との戦い、1584年の小牧・長久手の戦いに関する書状では、徳川方から織田信雄(信長の次男)の娘、家康の長男と弟らを人質に出す和睦案が出されたが、秀吉は一度は拒絶したと記述。後に受け入れたとの書状もあり、調査した東大史料編纂所の村井祐樹助教は「詳細な情報によって(この時期の出来事を)時系列で追える意味は大きい」としている。
翌年(1585年)の書状では、秀吉が追放した家臣をかくまわないように指示。信長の時代のように甘く考えれば処罰も辞さない-などの意の書状もあり、主君だった信長をよびすてにし、自らの権勢を誇示している。

浜松に早くも「大河ドラマ館」主人公・井伊直虎で誘客

浜松に早くも「大河ドラマ館」 主人公・井伊直虎で誘客

遠州ゆかりの井伊直虎が主人公の2017年放送予定の大河ドラマを活用して地域振興を目指す官民連携組織「『おんな城主直虎』推進協議会」が1月12日、発足した。浜松市中区のホテルで初会合を開き、市が常設展示館「大河ドラマ館」を、市みおつくし文化センター(同市北区)に開設することを報告した。
大河ドラマ館は撮影セットや小道具、衣装の展示などを通じて大河ドラマの世界観を紹介する施設。2017年の放送開始に合わせオープンする予定。
「『おんな城主直虎』推進協議会」は行政機関、観光・経済団体や地元企業など77団体の代表者で構成、浜松商工会議所の大須賀正孝会頭が会長に就任した。市が設置した「おんな城主直虎」推進本部(本部長・鈴木康友市長)と連携し、観光誘客に向けた情報発信や市民啓発などの事業に取り組む。

江戸初期?の「富士参詣曼荼羅」愛知県常滑市で発見

江戸初期?の「富士参詣曼荼羅」愛知県常滑市で発見

静岡県の調査によると、世界遺産富士山への参詣登山の様子を描いた「富士参詣曼荼羅(まんだら)」が愛知県常滑市の松栄寺に保管されていることが分かった。江戸時代初期の作品とみられる。
古くから信仰の対象とされてきた富士山の、当時の参詣の様子が細かく描かれ、国の文化財に指定された富士山本宮浅間神社(富士宮市)所蔵の参詣曼荼羅と並ぶ史料として注目を集めそうだ。
松栄寺の富士参詣曼荼羅は縦179㌢、横145㌢、中央に大きく富士山が配置され、興津宿、清見ヶ関(現静岡市清水区)を出発して富士川を渡り、大宮口から表口登山道を登るルートを紹介している。建物のつくりから慶長年間の1602~1606年の作と推定される。

連ドラ「あさが来た」人気にあやかり社員有志がマップ

連ドラ「あさが来た」人気にあやかり社員有志がマップ

好評のNHK連続テレビ小説「あさが来た」人気にあやかろうと、ヒロインのモデルである明治時代の女性実業家で、大同生命(大阪市西区)の創設者の一人でもある広岡浅子(1849~1919年)ゆかりの地を紹介するマップを、大同生命の社員有志が作成した。
マップは縦約30㌢、横約40㌢のカラーで、、中之島や堂島エリアをカバーしている。江戸時代の古地図と現代の地図を見比べることができる。5万部発行し、市営地下鉄の駅や京阪電鉄の主要駅などで配布している。
観光客増につなげようと大阪市なども1月は、ドラマの舞台をボランティアガイドと巡る街歩きツアーを実施予定で、相乗効果が期待できそうだ。

京都・下鴨神社で新春「蹴鞠初め」巧みな足さばき披露

京都・下鴨神社で新春「蹴鞠初め」巧みな足さばき披露

京都市左京区の下鴨神社で1月4日、新春恒例の「蹴鞠(けまり)初め」があった。穏やかな天候に恵まれ、約3500人の観光客らが見守る中、色とりどりの伝統装束を身にまとった蹴鞠保存会のメンバーが、シカの革製の直径約20㌢の鞠を巧みに蹴り上げ、妙技を披露した。
この蹴鞠、勝敗はなく、相手が受けやすいように蹴ることが作法とされる。約15㍍四方の鞠庭で男女8人が1組となり、「ヤア」「オウ」などの掛け声とともに、息の合った足さばきを見せると、観光客らから盛んに拍手が送られていた。

のろしリレー 大河「真田丸」に合わせ長野~群馬結ぶ

のろしリレー 大河「真田丸」に合わせ長野~群馬結ぶ

2016年1月10日から始まるNHK大河ドラマ「真田丸」に合わせ、戦国武将・真田一族ゆかりの長野(上田市)~群馬(沼田市)両県の12カ所で、順にのろしを上げる「狼煙(のろし)リレー」のイベントが1月1日行われ、計7市町村の住民が参加した。
狼煙は戦国時代、味方への有力な情報伝達手段だった。名将幸村(信繁)と父昌幸らの居城だった上田城跡公園(長野県上田市)から、幸村の兄信幸の沼田城跡のある沼田公園(群馬県沼田市)までの約100㌔を結んだ。
上田城跡公園ではドラム缶を重ねた狼煙台を設置。一時強風にあおられたが、木の板で煙の方向を調整し、約40分かけてゴールした。

女性城主・井伊直虎の木像、浜松市・龍潭寺に奉納

女性城主・井伊直虎の木像、浜松市・龍潭寺に奉納

戦国時代、現在の浜松市北区周辺を治めた女性城主・井伊直虎の姿をかたどった木彫像がこのほど、井伊家の菩提寺、龍潭寺(浜松市北区引佐町)に奉納された。
法衣(ほうえ)を身にまとった座像で真正面を見つめる凛々(りり)しい表情が印象的。高さ49㌢、幅41㌢、奥行き25㌢。5本の杉を組み合わせた寄せ木造りで、同市在住の彫刻家の池谷雅之さん(61)が4カ月かけて制作した。12月28日から展示されている。
没落寸前の井伊家を守り抜いた直虎は、2017年放送のNHK大河ドラマのヒロインになる。ただ、その容姿を伝える史料は残っていない。

由利公正かまど 幻の「三岡へっつい」再現 福井県

由利公正のかまど 幻の「三岡へっつい」再現 福井県

幕末・明治時代前期に活躍した越前・福井藩士、由利公正(三岡八郎、1829~1909年)が考案したといわれる幻のかまど「三岡へっつい」の再現に向けて、福井県と同県左官工業組合が政策準備を進めている。
今年7月に三岡へっついの情報を募集、実物はみつからなかったが、文献を頼りに職人がイメージ模型を作成。12月27日から製作を本格化させる。2016年2月7日の「ふるさとの日」に披露した後、様々なイベントで使う。
同県は由利をNHK大河ドラマの主人公として誘致活動を進めており、同組合では誘致実現とともに、左官技術のPRなどにもつながると期待している。
三岡へっついは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」、大島昌宏の「炎の如く 由利公正」でも登場する。三岡(明治期に由利公正に改名)は横井小楠に影響を受け、財政・金融に明るく、坂本龍馬らとも親交があった。

江戸城の天守閣は高さ60㍍で日本一だった 耐震構造も

江戸城の天守閣は高さ60㍍で日本一だった 耐震構造も

広島大学の三浦正幸教授らの調査によると、1657年の明暦の大火で焼失した江戸城最後の天守閣「寛永度天守(かんえいどてんしゅ)」の往時の姿が明らかになり、天守台を除いた天守は60㍍で、その高さは当時の大阪城、名古屋城をしのぎ、日本一だった。また、大地震にも耐えられる構造になっていた。
地下1階、地上5階建てで、寛永度天守は3度築かれた江戸城の天守閣のうち、徳川三代将軍・家光が1638(寛永15)年に建てた最後の天守閣。

後期難波宮の屋根瓦落下跡 埋め戻しから54年ぶり公開

後期難波宮の屋根瓦落下跡 埋め戻しから54年ぶり公開

大阪市中央区の史跡「難波宮跡」の発掘調査現場で、昭和の発掘調査の後、埋め戻され保存されてきた後期難波宮の屋根瓦落下跡が、このほど54年ぶりに一般公開され、多くの考古学ファンが見学に訪れた。
倒壊した塀から落下した屋根瓦が、落下したままの状態で大量に残っている珍しいケースだ。史跡整備を計画する大阪市が、屋根瓦落下跡などの有効活用策を検討するために再公開した。
後期難波宮は8世紀、聖武天皇が造営した宮殿。1961年、大阪市の発掘調査で後期難波宮の屋根瓦が出土したが、大量に発見されただけではない。南北方向に走る屋根瓦付きの築地塀が、何らかの事情で東側に倒れ込んだ。その際、塀もろとも瓦屋根が裏返しになる形で、地面へ落下したと推定される状態のまま発見されたのだ。
そして発掘調査後、瓦落下跡の長さ約10㍍のエリアをコンクリートブロックで囲い、瓦の表面に特殊な合成樹脂を塗る保存作業を施されたうえで埋め戻されたものだ。

厚さ11㌢の「大型構造船」の部材発掘 滋賀塩津港遺跡

厚さ11㌢の「大型構造船」の部材発掘 滋賀塩津港遺跡

滋賀県文化財保護協会は12月10日、琵琶湖北端にある同県長浜市の塩津港遺跡で、板を組み合わせた「大型構造船」の部材が見つかったと発表した。平安時代後期(12世紀)の船の一部とみられ、国内最古級という。
構造船はこれまで鎌倉時代後期から使われたと考えられていたが、専門家は今回の部材の発見により、100年以上前の平安時代の琵琶湖ですでに就航していたことを裏付ける、日本造船史上、貴重な史料-としている。
見つかった部材は長さ205㌢、幅58㌢、厚さ11㌢。船の側面か底に使われていたとみられ、板を繋ぐ「縫いくぎ」が打たれた跡が3カ所あった。部材の厚さなどから、船は長さ20㍍以上あった大型構造船とみられる。
塩津港は北陸の物資を京都に運ぶ中継地として栄え、12世紀には埋め立て造成で本格的な港が築かれていたことが分かっている。今回は荷物を運ぶ道路(長さ10㍍、幅3.7㍍)や、道路東側に築いたとみられる塀の大きな柱なども複数確認された。

「出雲そば」200年遡る最古の文書見つかる

「出雲そば」200年遡る最古の文書見つかる

島根県のご当地グルメ「出雲そば」が江戸時代前期にはすでに食べられていたことを示す最古の記述が、同県立出雲歴史博物館の調査で見つかった。出雲そばについてこれまで確認されていたものを約200年遡る文書記録という。
出雲大社の神職、佐草自清の日記の中で寛文6(1666)年3月27日に、江戸前期に出雲大社で行われた造営工事に関し、本殿の柱を立てる相談をした後、日が暮れたところで、そば粉を練って細く切った「蕎麦切」が振る舞われたとの記述があった。
出雲そばは、松本城主だった松平直政が寛永15(1638)年に松江へ移った際、信州から蕎麦切が伝わったのが始まりとされる。出雲そばが記述された文書は、これまで嘉永2(1849)年のものが最古だったが、この日記はこれを約200年遡る。

四天王寺 五重塔を耐震改修 2016年7月お披露目

四天王寺 五重塔を耐震改修 2016年7月お披露目

耐震改修工事が行われている四天王寺(大阪市天王寺区)の五重塔が報道陣に公開された。五重塔は高さ39㍍で、最上層からはあべのハルカスや通天閣なども見渡せる。
2022年には、聖徳太子が亡くなって1400年を迎える。聖徳太子ゆかりの四天王寺のこの工事は「聖徳太子千四百年御聖忌」に伴う整備事業の一環として行われているもの。新しい五重塔は2016年7月ごろにお披露目される予定。
工事で取り外されたものの一部は、12月14日から2016年1月10日まで一般公開される。

東大寺大仏の螺髪は定説の半分 レーザー解析で判明

東大寺大仏の螺髪は定説の半分  レーザー解析で判明

奈良・東大寺の大仏の毛髪、螺髪(らほつ)が定説の「966個」ではなく「492個」だったことが分かった。東大寺から委嘱された東京大学生産技術研究所がレーザーを使った最新技術で調査した結果、分かったもの。1000年近く伝えられてきた定説を覆し、実態を解き明かした。
奈良時代、聖武天皇の命で建造され、752年に完成した初期の大仏については、文献には螺髪を966個つくったと記されている。しかし、その後何度か火災に遭い、現在の大仏は江戸時代に修復されたもので、その際、減ったのか?などは不明だという。ただ、江戸、明治時代の文献にも螺髪は「966個」と記されており、ずっと定説とされてきた。

「後期難波宮」の瓦を再発掘 保存状態良好

「後期難波宮」の瓦を54年ぶり再発掘 保存状態良好

大阪市教育委員会は12月1日、聖武天皇が726年から造営した後期難波宮(大阪市)で、昭和36年に行われた調査時に出土し、埋め戻して保存していた瓦を54年ぶりに再発掘したと発表した。史跡の整備に先立ち、劣化していないか確かめるのが目的で、保存状態は良好だった。12月6日午前10時~午後3時半に一般公開する。
瓦は36年4月、大阪市中央区馬場町で見つかった。多くが裏向けになっており、瓦を使った塀が倒壊し、そのまま残されたと考えられる。塀は天皇の生活空間だった内裏を囲っていた。
難波宮は、中大兄皇子らと「大化の改新」を遂行した遂行した7世紀中ごろの孝徳天皇の時代から整備された「前期」と、奈良時代に聖武天皇が造営した「後期」に分かれる。

京都・平安期の井戸から「難波津の歌」の木簡

京都・平安期の井戸から「難波津の歌」の木簡

京都市埋蔵文化研究所はこのほど、同市中京区で発掘された平安時代中期(9世紀後半)の井戸から、和歌「難波津の歌」が平仮名で書かれた木簡が出土したと発表した。平仮名では最古級とみられる。
9世紀の中ごろから後半は漢字を当てはめた万葉仮名を基に10世紀前半に平仮名が成立するまでの過渡期にあたり、平仮名の形成過程をたどるうえで貴重な資料という。
木簡は縦34.5㌢、横3.5㌢。文字は縦2行にあり、右側に和歌「難波津に 咲くやこの花 冬こもり 今は春べと 咲くやこの花」がほぼ平仮名に近い形で書かれていた。
難波津の歌は古代から字の練習に使われていた。7世紀ごろ以降とみられる多数の出土品に書かれているが、平仮名でほぼ全文が読み取れる史料は初めてとみられる。

宇喜多秀家自筆と伝わる和歌初公開 岡山・光珍寺で法要

宇喜多秀家自筆と伝わる和歌初公開 岡山・光珍寺で法要

岡山城を築城した戦国大名、宇喜多秀家の命日の11月20日、菩提寺の光珍寺(岡山市)で没後360年の慰霊法要が営まれ、参列者ら約30人が宇喜多家と家臣の遺徳をしのんだ。
法要後には今年5月、同寺が入手した宇喜多秀家自筆の和歌と伝えられる短冊2枚が初めて公開された。公開された和歌は「御菩提のたねや植えけん此寺にみのりの秋そ久しかるへき」など。
宇喜多秀家は豊臣秀吉の治世下、五大老の一人で、岡山の街づくりの礎を築き、備前宰相と呼ばれた。1600年の関ケ原の戦いでは西軍の副将となり、敗れた。その後、1606年八丈島に流された。

八百万の神々が出雲に 出雲大社で厳かに神迎神事

八百万の神々が出雲に 出雲大社で厳かに神迎神事

全国から出雲地方に集う八百万(やおよろず)の神々を迎える出雲大社(島根県出雲市)の「神迎(かみむかえ)神事」が旧暦の10月10日にあたる11月21日夜、営まれた。3連休の初日とあって、信徒や観光客ら約1万人が訪れ、伝統の神事を見守った。
国譲り神話の舞台として知られる稲佐の浜で、かがり火が焚かれる厳かな雰囲気の中、千家隆比古・権宮司が海に向かって祝詞を読み上げた。このあと、迎えた神々が乗り移ったとされるサカキ「神籬(ひもろぎ)」が白い布で覆われ、「竜蛇神(りゅうじゃしん)」に導かれて約1㌔先の出雲大社に向かった。
神籬が到着した神楽殿では神迎祭が執り行われ、神々が本殿両脇の東西十九社に案内された。神々は1週間滞在し、向こう1年間の農事や縁結びなどを話し合うとされる。
神々の出雲滞在中、境内では23日に「献穀祭」、26、28日に「縁結び大祭」、28日には出雲から神々が古里へ旅立つ「神等去出祭(からさでさい)」などの祭りが続く。

日露戦争から今日をひも解く 坂の上の雲ミュージアム

日露戦争から今日をひも解く 坂の上の雲ミュージアム

名城大(愛知県名古屋市)都市情報学部の稲葉千晴教授らでつくる研究会「日露戦争史料調査会」が11月22日、坂の上の雲ミュージアム(愛媛県松山市)で講演会「日露戦争と東アジア‥今日的視点から」を行い、市民ら約50人が熱心に聞き入った。
講演会では日露戦争に詳しい稲葉教授と立命館大学政策科学部の宮脇昇教授、文化功労者で日中関係に詳しい早稲田大学の毛里和子名誉教授が登壇。
日露戦争の戦場となった中国で、日本は30万人もの兵士の食料や弾薬などの物資をどのようにして運搬したのか?などの問題提起と、日露戦争を報道した海外の新聞を紹介した。

高知・北川村で中岡慎太郎の墓前祭”シャモ鍋”に舌鼓

高知・北川村で中岡慎太郎の墓前祭”シャモ鍋”に舌鼓

中岡慎太郎の祥月命日にあたる11月17日、高知県北川村柏木の松林寺跡で墓前祭が開かれた。中岡慎太郎は慶応3(1867)年11月15日、京都・近江屋(現在の河原町)で坂本龍馬とともに襲撃され、2日後に亡くなったと伝えられている。
墓前祭の後、決まって振る舞われるのが「シャモ鍋」。2人が凶刃に倒れた日に食べようとしていたという料理だ。この日も地元の「中岡慎太郎先生顕彰会」の面々が大鍋2杯を用意した。墓前祭に集まった人たちは、恒例の(?)シャモにハクサイ、キノコなどを入れ、しょうゆ仕立てにしたシャモ鍋に舌鼓を打っていた。

十返舎一九 直筆の礼状 長野・安曇野市で見つかる

十返舎一九 直筆の礼状 長野・安曇野市で見つかる

長野県安曇野市教育委員会によると、江戸時代、弥次さん喜多さんの珍道中を描いた作品「東海道中膝栗毛」で知られる作者、十返舎一九(1765~1831年)が知人に宛てた自筆とみられる書状が見つかった。
1814年ごろ、一九は安曇野市を訪れ、「東海道中膝栗毛」の続編の執筆に向けた取材をしていた。書状は宿泊場所を提供した藤森家当主の善兵衛に宛てたもので、世話になった感謝の思いが綴られている。書状には、ペンネームの十返舎ではなく、本姓を用いた「重田一九」と署名が入り、「御馳走に相成り誠にもって御礼筆紙に申し尽くし難く候」などと記されている。

京都・南座の大入り願い勘亭流「まねき書き」公開

京都・南座の大入り願い勘亭流「まねき書き」公開

京都・南座の歳末の風物詩「吉例顔見世(きちれいかおみせ)興行」を前に出演する歌舞伎役者の名を看板いっぱいに書き込む「まねき書き」が11月10日、京都市左京区の妙伝寺で報道陣に公開された。
太く丸みを帯びた「勘亭(かんてい)流」と呼ばれる独特の書体で「劇場に隙間なく客が入るように」と大入りへの願いを込めている。看板は11月25日の「まねき上げ」で、南座正面に掲げられる。

奈良・宗祐寺で「中尊寺経」の一部見つかる

奈良・宗祐寺で「中尊寺経」の一部見つかる

奈良県宇陀市の宗祐寺(そうゆうじ)は11月9日、金銀で書写した経典の断片が見つかり、栄華を極めた奥州藤原氏が12世紀に中尊寺(岩手県)に奉納した「中尊寺経」の一部とみられると発表した。油紙に金字と銀字で1行ずつ交互に書かれ計19行あった。同寺が1888年に入手した記録はが残っているが、出所は不詳。
中尊寺経は現在、高野山などに伝わり、国宝や重要文化財にもなっている。

色づき始めた奈良・談山神社境内で「けまり祭」

色づき始めた奈良・談山神社境内で「けまり祭」

奈良県桜井市の談山神社で11月3日、恒例の「けまり祭」が開かれた。木々が紅や黄に色づき始めた境内で行われ、参拝者らを楽しませた。烏帽子に鞠水干(まりすいかん)と呼ばれる上衣姿の保存会の人たちが8人グループになり、鹿の皮でできたまりを蹴りながら、落とさずにパスが続くと参拝者から歓声が沸いていた。
けまり祭は、神社が祀る藤原(当時は中臣)鎌足が、中大兄皇子(後の天智天皇)と蹴鞠会(けまりえ)で出会ったという故事にちなみ、毎年春と秋に開催されている。

はねのある字体の珍しい「和同開珎」長岡京で発見

はねのある字体の珍しい「和同開珎」長岡京で発見

桓武天皇が造営した長岡京(784~794年、京都府長岡京市など)跡から字体にはねのある珍しい「和同開珎(わどうかいちん)」が3枚見つかり、同市埋蔵文化財センターが11月2日までに発表した。出土したのは「和同開珎」の4字すべてにはねがある2枚と、「和同珎」の3字にはねがある1枚。
字体にはねのある和同開珎は長岡京市以外で石川、滋賀、奈良の3県でしか見つかっておらず、全国で数十枚しかないという。

与謝野晶子 病床の最晩年の草稿見つかる 推敲の跡

与謝野晶子  病床の最晩年の草稿見つかる  推敲の跡

歌人の与謝野晶子(1878~1942年)が亡くなる直前、病床で書き付けた短歌の草稿ノートが、東京都内の親戚宅で見つかった。かすれて乱れた鉛筆書きで、与謝野晶子記念館(大阪府堺市)では「病床にあっても、最期まで創作を続けた晶子の熱情がうかがえる」としている。
ノートは晶子のひ孫が都内の自宅の納戸で見つけ、2014年秋、同記念館に調査を依頼していた。ノートには晶子の絶筆とされる歌掛け軸「連峯の雲」(堺市博物館蔵)の歌の草稿もあった。雲が山々に映える箱根・十国峠の風景を詠んだ歌で、推敲を重ねた跡があった。

秀吉「本能寺の変」時の家族の避難警護の家臣に感謝

秀吉「本能寺の変」時の家族の避難警護の家臣に感謝

滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館は10月29日、「本能寺の変」(1582年)の直後、豊臣(当時は羽柴)秀吉の居城だった長浜城にいた母・なかと妻おねらの逃避行を警護した家臣・広瀬兵庫助に宛てた古文書2通が見つかったと発表した。「(母や妻のために)尽力してもらってうれしい」という趣旨のねぎらいと恩賞を与えると記したもので、兵庫助の子孫が9月に原本を同博物館に寄託した。11月11日から同博物館で展示される。
兵庫助は、この逃避行の同中敬語を担当し、美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内広瀬)にあった自らの館にかくまったとされてきた。

天平の音色肌で感じて! 10/24から「正倉院展」

天平の音色肌で感じて! 10/24から「正倉院展

奈良・正倉院に伝わる宝物を紹介する「第67回正倉院展」の開会式が10月23日、奈良市の奈良国立博物館で開かれ、招待客約2600人が訪れた。一般公開は24日から11月9日までの17日間。
今回は初出展12件を含む宝物63件を展示。象牙や緑色に染めた鹿角などで作られた花文様がリズミカルに背面を飾る「紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)」や宝物リスト「国家珍宝帳」に記載された聖武天皇遺愛の「七条褐色紬袈裟(しちじょうかっしょくのつむぎのけさ)」、大ぶりのハスの花が目を引くフェルトの敷物「花せん」など、逸品が並ぶ。

長岡京 大極殿院の規模特定 礎石の据え付け穴など発見

長岡京 大極殿院の規模特定 礎石の据え付け穴など発見

京都府向日(むこう)市埋蔵文化財センターは10月22日、平安京遷都(794年)までの10年間、桓武天皇治政下、都が置かれた長岡京の中枢部、長岡宮の跡(京都府向日市)で、大極殿を囲む北側回廊の柱を支えた礎石の据え付け穴や、その南北の溝状遺構が見つかった。
桓武天皇が政務を執った大極殿の回廊の柱位置や幅が特定できたのは初めて。3列になった穴8個(直径1.2㍍、深さ10㌢)や、基壇(土台部分)を支える化粧石を抜き取った溝を確認。柱の間隔は東西に3.6㍍、南北に2.4㍍で、壁を挟んで二つの通路が並ぶ「複廊」構造だった。
過去の調査で大極殿のあるエリア「大極殿院」は東西約105㍍、南北約122㍍の縦長だったと推測されていたが、今回の発掘からそうした規模が確実となった。

悩める乱歩の未発表手記見つかる 内面赤裸々に記す

悩める乱歩の未発表手記見つかる 内面赤裸々に記す

今年没後50年にあたる作家・江戸川乱歩(平井太郎、1894~1965年)の1936(昭和11)年の日付が記された未発表手記が見つかった。「怪人二十面相」などで人気を得ながら悩み、海外の文学や哲学を読んで思索を深めていたことが分かる。従来の自伝や随筆に見られない乱歩の生の思いが伝わる貴重な資料だ。
手記は原稿用紙38枚。遺族が立教大に寄託した資料から成蹊大の浜田雄介教授らが見つけた。日付は同年6月18日から7月5日で、タイトルは「誰にも宛てない手紙」などを消して「独語」に。欄外に赤字で「発表せず」と書かれていた。

「梟の城」執筆した作家・司馬遼太郎の文机帰郷

「梟の城」執筆した作家・司馬遼太郎の文机帰郷

来年没後20年になる作家、司馬遼太郎(1923~96年)が、直木賞を受賞した「梟(ふくろう)の城」(1960年1月受賞)など初期作品を大阪市内で執筆していたころの文机が委託先から約半世紀ぶりに帰郷した。東大阪市の終の棲家(ついのすみか)跡に建てられた司馬遼太郎記念館が10月20日、公表した。
木製で幅81.5㌢、奥行き55㌢、高さ33㌢、引き出しが三つの座り机。司馬は1959年1月、産経新聞の同僚記者だった福田みどりさん(2014年11月)と結婚。それまで暮らしていた大阪府八尾市から、大阪市西区の「西長堀アパート」に移住した.机は八尾時代から新婚アパート時代初期までの間に使われ、直木賞受賞作の他に長編「花咲ける上方武士道」などが生み出された。

推定体長18㍍ 北海道で国内最大級のクジラの化石

推定体長18㍍ 北海道で国内最大級のクジラの化石

北海道月形町の約533万~360万年前地層から化石で見つかった鯨が、当時としては国内最大級の個体だったと分かった。ナガスクジラの仲間とみられ、推定で体長約18㍍、体重約30㌧。新種の可能性もある。鯨類の進化過程や生息環境の解明に役立ちそうだ。
札幌市博物館活動センターによると、化石は成獣で、これまでに国内で発見されている同じ時代のナガスクジラの仲間は、成獣でも6~7㍍級のものが多いという。

聖徳太子ら 日本最古の官道「竹内街道」で時代行列

聖徳太子ら 日本最古の官道「竹内街道」で時代行列

飛鳥時代に整備され、大阪と奈良を結ぶ日本最古の官道とされる「竹内(たけのうち)街道」が町の中心部を通る太子町で10月17日、地元の住民らが聖徳太子や推古天皇ら街道ゆかりの人物に扮して、約1.5㌔の時代行列を行った。
日本書紀に613年に「難波より京に至る大道を置く」とあり、竹内街道の大部分がこのルートと重なる。敷設1400年を祝い、時代行列は2013年に始まった。行列には聖徳太子の命を受け、遣隋使として中国・隋に渡った小野妹子ら、歴史の表舞台で活躍した人物らの姿も見られた。

「稲むらの火祭り」町民ら700人が防災意識新たに

「稲むらの火祭り」町民ら700人が防災意識新たに

江戸時代の安政南海地震(1854年)で、田に積まれた稲わらに火を放って、村人を高台に避難させ津波から命を救った浜口梧陵の史実を再現する「稲むらの火祭り」が10月17日、和歌山県広川町であった。参加した町民ら約700人は、浜口梧陵が遺した、かけがえのない教訓に、防災への意識を新たにした。
午後6時ごろ、たいまつを持った行列が町役場を出発。高台にある神社まで、当時の避難路約2㌔を練り歩いた。そして史実通り、稲わらに火が放たれると一気に燃え上がった。

石清水八幡宮 国宝に 網走監獄を重要文化財に

石清水八幡宮 国宝に 網走監獄を重要文化財に

文化審議会は10月16日、石清水八幡宮本社(京都府八幡市)を国宝に、旧網走監獄(北海道網走市)など8件を重要文化財に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。近く答申通り指定され、建造物の国宝・重要文化財は2445件になる。
石清水八幡宮は平安時代の860年に創建。現在の本社社殿群は、江戸幕府が1634年に建て替えた。文化庁では、古代の荘厳な形式と近世らしい装飾を兼ね備えた完成度の高い建築で、広く浸透した八幡信仰の象徴としても深い文化史的意義がある-としている。
旧網走監獄は刑の重い服役囚を収容した刑務所で、現在に残る建物は明治45(1912)年に再建された。明治期の木造監獄の数少ない保存例、博物館として公開されている。刑務所の建物が重要文化財になるのは初。
このほか文化審議会は、国宝「龍光院書院」(京都市)の指定範囲の追加や、諏訪大社上社本宮(長野県諏訪市)の建物10棟を重要文化財にに追加することも求めた。

官営の製塩施設か 貝塚に炉跡や土器片 宮城県で出土

官営の製塩施設か 貝塚に炉跡や土器片 宮城県で出土

宮城県東松山市教育委員会は10月15日、同市の江ノ浜貝塚で9世紀(平安時代初期)の大規模な製塩炉跡や多量の製塩土器片が見つかったと発表した。
同県多賀城市にあった陸奥国府多賀城との関わりを示す遺物も出土し、官営施設だった可能性が高いという。貝塚は松島湾の入り江に面した砂丘にあり東日本大震災で壊れた防潮堤の復旧工事に伴い、5月から発掘調査していた。
奥松島縄文村歴史資料館によると、砂丘の斜面に沿った幅約10㍍の範囲で、石を組むなどした6基の製塩炉跡を確認した。

蕪村の知られざる212句 奈良・天理大図書館が入手

蕪村の知られざる212句  奈良・天理大図書館が入手

天理大付属天理図書館(奈良県天理市)は10月14日、入手した句集に、江戸時代を代表する俳人、与謝蕪村(1716~1783年)の作で、これまで知られていなかった212句が収録されていたと発表した。蕪村の句でこれまでに確認されていたのは約2900句で、専門家はこれだけまとまった新出句が判明したのは意義深い-としている。
同図書館によると、「夜半亭(やはんてい)蕪村句集。蕪村門下の京都・寺村百池(ひゃくち)の家に伝わっていたとされる。1934(昭和9)年に雑誌「俳句研究」でその存在が紹介された後、行方が分からなかったが、同図書館が4年前に書店から入手した。
句集は四季別に編集され、春夏と秋冬の2冊。安永・天明期(1770~80年代)の制作とみられる。内容を精査したところ、収められた1903句の約1割(春57、夏35、秋59、冬61)が未知の句だった。蕪村筆と思われる朱の書き入れや墨書による訂正などもあった。
「傘(からかさ)も化(ばけ)て目のある月夜哉(かな)」は、句の前に「化物題」とあり、化け物をお題にした句会で詠んだ可能性がある。「我焼きし野に驚(おどろく)や艸(くさ)の花」などの句も記されていた。

龍馬はやはり剣の達人 北辰一刀流免許皆伝示す文書

龍馬はやはり剣の達人 北辰一刀流免許皆伝示す文書

幕末の剣豪、千葉周作が創始した「北辰一刀流」の免許皆伝書を、坂本龍馬が取得していたことを示す文書を、高知県立坂本龍馬記念館が初めて確認した。北海道にある坂本家が今夏、同館に寄贈した龍馬の関連史料の中から見つかった。同館によると、皆伝書の存在を示す文書は7代当主の弥太郎が明治43年8月30日付で龍馬の甥の妻に書いた預かり書。
北海道で行われた坂本龍馬遺品展に出品する際に書き記したもので、秘伝巻物として「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」と書かれていた。さらに別の展覧会に出品した龍馬の遺品の目録(昭和4年)では「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部焼失セリ 於釧路市」と書かれていた。
これらの記述から、大正2年に釧路で起きた火災で坂本家が延焼した際、龍馬の剣術の皆伝書は焼失したとみられる。

奈良公園で秋の風物詩「シカの角切り」

奈良公園で秋の風物詩「シカの角切り」

古都・奈良の秋の風物詩「シカの角切り」が10月10日、奈良公園(奈良市)の鹿苑(ろくえん)で始まった。江戸時代初期から続く伝統行事。
和太鼓の音とともに、角切り場に放たれたシカを、鉢巻きに法被姿の勢子(せこ)約20人が追い回し角に縄を引っ掛けて捕獲。烏帽子を付けた神職役が、のこぎりで角を切り落とすと観客から大きな歓声が上がった。角切りは11日、12日も正午から午後3時まで行われる。

「舞鶴への生還」「東寺百合文書」世界記憶遺産に

「舞鶴への生還」「東寺百合文書」世界記憶遺産に

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10月9日、日本が申請していた「舞鶴への生還」と「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」が世界記憶遺産に登録されたと発表した。この結果、日本の世界記憶遺産は5件となった。
「舞鶴への生還」(申請者・京都府舞鶴市)は、第二次世界大戦後、舞鶴港に引き揚げたシベリア抑留者たちの手記など570点で、市文化財に指定されている。抑留者がストーブのすすをインク代わりにして綴った「白樺日誌」や、抑留中の収容所で発行された新聞のほか、戦後のヒット曲「岸壁の母」のモデル、故・端野いせさんが息子に宛てた手紙も含まれる。舞鶴市の舞鶴引揚記念館で約40点が常設展示されている。
東寺百合文書(申請者・政府)は、794年の平安遷都ともに建立された東寺に伝わる8~18世紀の文書約2万5000通。仏教史や寺院史の研究上、貴重な史料で、足利義満の直筆や織田信長の印入りの文書もある。

「琳派400年」を記念したファッションショー

「琳派400年」を記念したファッションショー

「琳派400年」を記念したファッションショーが10月9日、京都市東山区の京都国立博物館で開かれた。ファッションデザイナーのコシノジュンコさんが琳派をイメージしてデザインし、京友禅や西陣織の技術も取り入れた衣装が次々に登場した。江戸時代の遊びなどを金糸や漆を素材にして表現した着物やドレス約40点が披露された。囃子(はやし)やコシノさんの衣装を身にまとった能の演出もあり、招待客たちは華やかで雅な「琳派の美」を楽しんでいた。
2015年は琳派の祖・本阿弥光悦が徳川家康から京都・鷹峯(たかがみね)の領地を拝領した1615年から400年の節目となる。

藤原京大極殿の階段跡発見 平城京構造解明に手がかり

藤原京大極殿の階段跡発見 平城京構造解明に手がかり

奈良県文化財研究所は10月9日、国内初の本格的な都城・藤原京(694~710年、奈良県橿原市)の宮跡で、天皇の即位など重要儀式が営まれる大極殿の階段跡が3カ所見つかったと発表した。同研究所では「大極殿の構造の解明に役立つ重要な手がかりだ」としている。 また、大極殿の建物規模は推定で東西約45㍍、南北約20㍍と確認された。これは、平城京大極殿(第1次)とほぼ一致し、専門家は「平城宮大極殿は藤原宮大極殿を移築したとの定説を裏付ける成果」という。

鎌倉大仏 修理へ 16年1~3月拝観を停止

鎌倉大仏 修理へ 16年1~3月拝観を中止

神奈川県鎌倉市の鎌倉大仏殿・高徳院は国宝の本尊・銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏、高さ13・35㍍)の保存修理工事を、2016年1月13日から3月10日までの予定で実施する。
1959年から約2年半がかりで実施した耐震補強の「昭和の大修理」から半世紀以上が経過している。保存状態を詳細に調べるとともに、表面をきれいにする。調査で集めたデータは専門家らが分析し、問題が見つかれば別途修復工事を検討する。国庫補助事業で総工費は6496万円。

はためく恭仁宮 新年儀式 旗竿穴を確認 史書裏付ける

はためく恭仁宮 新年儀式 旗竿穴を確認 史書裏付ける

京都府教育委員会は10月8日、聖武天皇が奈良時代の一時期、都を置いた恭仁宮(くにきゅう、京都府木津川市)の朝堂院跡で、天皇や宮人らが新年を祝う朝賀の際に旗竿を立てた跡とみられる穴3個が見つかったと発表した。
平安初期の史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大極殿完成前の741年と742年の元日に朝賀が行われたとの記述があり、穴には装飾を施した宝幢(ほうどう、旗竿)7本を立てた際に掘られたらしい。同種の穴跡が確認された平城宮跡(奈良市)より古い。
穴跡は役人らが執務した朝堂院の敷地内で確認された。穴跡は約5.4㍍間隔で東西に並び、それぞれ横3㍍、縦1.1~1.2㍍、深さ50~90㌢。高さ約9㍍の旗竿の中央柱と脇柱を立てた穴の跡とみられる。その東側にも等間隔で4個の穴を掘り、西から順に玄武、白虎、月像、銅烏(カラス)像、日像、青龍、朱雀の各旗竿を立てたとみられる。
続日本紀には741(天平13)年正月「宮垣未就」(宮を囲う塀が未完成)、742年「為大極殿未成(中略)造四阿殿於此受朝」(大極殿は未完成だが、仮施設で朝賀を行う)と記されている。743年には大極殿で元日を祝う儀礼をしており、確認された穴跡は741年と742年の記述を裏付けるものとみられる。