平城宮跡で「太政官」建物跡? 東方官衙地区で初めて見つかる

奈良県文化財研究所の調査によると、奈良市の平城宮跡で奈良時代の国政を担った中心的な役所「太政官(だいじょうかん)」とみられる大規模な建物跡が初めて見つかった。今回見つかったのは平城宮跡の「東方官衙(とうほうかんが)」と呼ばれる役所が集まった地区で、土を固めた建物の土台「基壇」が見つかった。基壇の大きさは東西およそ29m、南北およそ17m、高さがおよそ1.2mあったとみられ、平城宮跡で見つかった役所の中では最も規模が大きいという。基壇の南北ではそれぞれ3カ所で階段の跡が見つかったほか、周辺には小石が一面に敷き詰められていて、格式の高い大規模な建物が建てられていたと同研究所ではみている。さらに天皇が政務や儀式を行った大極殿の近くにあることから、国政を担った中心的な役所、太政官の建物跡と判断している。同研究所では、当時の律令国家を考えるうえで貴重な資料だとしている。

奈良・橿原市の本薬師寺跡で飛鳥時代最大の南門見つかる

奈良県橿原市教育委員会の発掘調査によると、同市の本薬師寺の跡で寺の正門にあたる南門が初めて見つかった。当時の寺院の南門としては最大で、同委員会は本薬師寺が国家主導で造られた寺院としてふさわしい立派な門を備えていたことを示す資料だとしている。国の特別史跡に指定されている本薬師寺跡は、飛鳥時代、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して創建を始めた寺の跡で、奈良市にある薬師寺の前身とされている。同委員会の発掘調査によると、建物の柱を支える礎石を抜き取った穴が、東西に並んで3カ所見つかった。南門の大きさは東西およそ15mとみられている。

10/3から人気の「琵琶湖疏水」に新観光船お目見え

明治時代に開通したびわ湖と京都市を結ぶ水路「琵琶湖疏水」を走る観光船(2隻)に、10月3日から新しい船が1隻追加されることになり9月23日、お披露目された。船は「れいわ号」と名付けられ、14人乗りで座席を斜めに配置したり、屋根の支柱の数を減らして周囲の景色が見やすいように工夫されている。秋シーズンの運航は10月3日から12月1日まで。琵琶湖疏水(区間7.8km)の観光船は2018年から運航され、平均乗車率が98%を上回り、予約が取りづらい状況が続いていた。

京都・伏見区の秀吉居城の内堀は推定の2倍以上の規模と判明

天下人となった豊臣秀吉が現在の京都市伏見区に築いた城「指月城」の内堀が30m以上と、これまで推定されていた最大で15mほどの2倍以上だったことが分かった。京都市文化財保護課の発掘調査で明らかになった。                                                        指月城は、秀吉が隠居のために築いた屋敷を1594年に改築したもので、その後地震で倒壊し、後に伏見城が造られた。20年前から発掘調査を進めている京都市は今回、過去の調査で見つかっていた土の段差が指月城の内堀の端だったことが分かり、これまで考えられた2倍以上の規模だったことが判明した。天下を統一した秀吉の権力の大きさを表すものとみられている。

足利義満ゆかり「花の天井」一般公開 京都・平岡八幡宮

室町時代の三代将軍、足利義満ゆかりの京都市右京区の平岡八幡宮で、四季折々の草花が描かれた「花の天井」が一般公開されている。この秋の一般公開は12月1日まで。平岡八幡宮の本殿の天井には義満の邸宅「花の御所」に咲いていたとされる四季折々の草花が描かれており、「花の天井」と呼ばれている。44枚の天井板一つ一つには、義満が中国の明との貿易で取り寄せたとされるブドウやザクロ、京都の山々を彩る赤く色づいたカエデの葉など、いろいろな種類の花が色鮮やかに表現されている。

和歌山県串本町沖 トルコ軍艦沈没事故から129年 追悼式典

トルコの軍艦「エルトゥールル」が明治23年9月16日、和歌山県串本町の沖合で沈没し乗組員500名以上が亡くなった事故から129年となる9月16日、串本町の慰霊碑の前で犠牲者を追悼する式典が行われた。式典には日本と、駐日トルコ大使館のハサン・ムラット・メルジャン特命全権大使らトルコの、両国関係者などおよそ120名が参列した。  この事故の際、地元の住民が乗組員の救助にあたり、69名の命が救われたことから、その後日本とトルコが友好を続ける礎の一つになったとされている。

“やりまわし”に歓声 大阪・岸和田「だんじり祭」

高さがおよそ4m、重さがおよそ4トンのだんじりを法被、ねじり鉢巻き姿の男たちが、力強い掛け声とともに、豪快に引き回す大阪府岸和田市の「だんじり祭」が9月14、15の両日行われた。今年は市内の各地区から34台のだんじりが参加。最大の見どころは交差点で、だんじりが勢いよく走りながら直角に向きを変える”やりまわし”。だんじりの屋根の上でうちわを持って舞う「大工方」の合図で、引手たちが息を合わせて、勢いよくだんじりを曲げる。そのたびに見物客からは歓声が上がる。                                              岸和田だんじり祭は、江戸時代、当時の岸和田藩主が五穀豊穣を願って始めたと伝わる、300年以上続く伝統の祭。

平安京の「九条大路」、羅城跡?を初確認、道幅30m

京都市埋蔵文化財研究所によると、平安京の南端の通りの「九条大路」と、城壁の一部とみられる跡が発掘調査で初めて確認された。京都市南区の高校の跡地で、平安時代に舗装された大きな路面が見つかり、過去の文献などから平安京の南端を東西に走る「九条大路」とみられるという。道の両側には幅1m余りの側溝が見つかり、当時の道幅は30mほどあったことが分かった。また、道の南側には「羅城(らじょう)」と呼ばれる平安京の城壁の一部とみられる土台の跡も見つかった。今回の調査で少なくとも都の玄関口、羅城門の西側600mほどの場所まで城壁が続いていたことが初めて確認された。

地球型惑星に水蒸気 存在を初めて確認、英科学誌に発表

AFP時事によると、ハビタルゾーン(生命居住可能地域)内にある太陽系外惑星の待機中に水蒸気が存在することを初めて確認したとする論文が9月11日、英科学誌ネイチャー・アストロノミーに発表された。論文によると、この惑星「K2-18b」は、質量が地球の8倍、大きさが地球の2倍で、液体の水が存在できるハビタルゾーン内で恒星の周りを公転している。K2-18bは、米航空宇宙局(NASA)のケプラー宇宙望遠鏡が発見した数百個の「スーパーアース(巨大地球型惑星)」の一つ。これまで4,000個余り見つかっている太陽系外惑星のうち、岩石でできた表面と水を含む大気の両方を持つことが確認されたのは、この惑星が初めて。

ヤマト王権トップ?の木棺初公開、桜井茶臼山古墳

古墳時代の初期ヤマト王権のトップの大王の墓の可能性が指摘されている奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(3世紀末~4世紀初め、国史跡)から出土した木棺が、保存処理を終え、奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)で初公開されている。公開は10月31日まで。                                                                         この木棺はコウヤマキ製で長さ4.89m、幅75cm、厚さ27cm。残っているのは底の部分。同研究所が2009年の発掘調査で竪穴式石室から取り出したもの。2015年から木棺の保存処理を進め、薬剤の溶液に2年間浸けて木材を補強。乾燥後に約1年かけて状態を観察してきた。同時期の大型の前方後円墳の多くは宮内庁の管理する陵墓や陵墓参考地に指定され、原則非公開とされている。

シベリア抑留者「舞鶴引き揚げの日」特別展

戦後シベリア抑留からの最初の引き揚げ船が京都府舞鶴港に入港した日にちなんだ、10月7日の「舞鶴引き上げの日」を知ってもらおうと、舞鶴市で特別展が開かれている。会場の舞鶴市役所では、抑留と引き揚げの歴史が写真や絵を交えたパネルで紹介され、雪の降り積もった極寒のシベリアで、日本人が重い丸太をひく様子や、配給の食料を囲む様子などが披露されている。また、日本に戻ってきた人たちが船から降りる際に使った桟橋の模型も、当時撮影された写真とともに展示されている。この特別展は10月7日まで開かれている。舞鶴市は昨年、シベリア抑留と引き揚げの歴史を次の世代に継承しようと、条例で10月7日を「舞鶴引き揚げの日」と制定した。

「川中島の戦い」巡る上杉謙信の新たな書状、新潟で発見

戦国武将、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が戦った「川中島の戦い」に関する新たな書状が、このほど新潟で見つかった。専門家の鑑定で、この書状は花押などから原本と確認された。これにより、通説で5回の合戦が繰り広げられた、信濃の領土を巡る川中島の戦いは、その後も合戦があったことがうかがえる貴重な記録だ。                   見つかった書状は戦国時代の永禄年間(1558~1570年)に、上杉謙信が自分の領土だと考えていた、現在の長野県北部、北信濃の7人の武将に宛てたもの。新潟大学名誉教授で郷土史に詳しい冨澤信明さんが、およそ15年前に骨董品を扱う関係者から購入し、保管したままになっていた。書状の文面には「皆々在陣あり、堅固の仕置専一に候」(みんな陣所のそれぞれの持ち場でしっかり守るように)と指示した内容が記されている。

「むかわ竜」は新種恐竜、学名「カムイサウルス・ジャポニクス」に

北海道大学総合博物館の研究グループによると、全身の骨格の化石が残る国内最大の恐竜「むかわ竜」が、ハドロサウルス科の草食恐竜の仲間の新種であることが分かり、学名にアイヌ語を入れ「カムイサウルス・ジャポニクス」と名付けられた。                 むかわ竜は、2003年に北海道・むかわ町で全身骨格の化石が発見された。体長8m、体重4~5.3トン。白亜紀の終りごろ、およそ7,200万年前に生息していたとみられている。

エチオピアで380万年前の猿人の頭蓋骨ほぼ完全な形で見つかる

ロイター通信によると、エチオピアで380万年前のアウストラロピテクス・アナメンシス(アナメンシス猿人)の頭蓋骨がほぼ完全な形で見つかり、顔が復元された。これは最終的に現生人類へとつながる進化系統の重要な時期に関する手掛かりを示す発見となる。科学誌ネイチャーに掲載された研究によると、頭蓋骨は2016年にエチオピアの首都アディスアベバの北東約550kmで発見され、成人男性のものだという。

奈良・桜井茶臼山古墳から出土の木棺 初公開

奈良県橿原考古学研究所で8月21日から、古代ヤマト王権を率いた王の墓ではないかという説がある桜井市の桜井茶臼山古墳から見つかった木製の棺(ひつぎ)が、初めて一般に公開されている。公開は平日、10月末まで。この木棺は70年前、同古墳の石室から見つかり、4年前から腐食を防ぐため保存処理が施されていた。木棺のサイズは長さ4.9m、幅75cm。高野槇(こうやまき)という針葉樹の丸太を削ってつくられたもので、両側の損傷は激しいものの、中心部分の保存状態は比較的よく、説明パネルには大量の銅鏡の破片も一緒に見つかったことや、合成樹脂を使って保存処理したことなどを写真付きで紹介している。桜井茶臼山古墳は、古墳時代前期に築造されたとみられる全長200mの前方後円墳で、国の史跡に指定されている。

秀次の息子を「要職に」秀吉の新たな書状見つかる

東京大学史料編纂所によると、豊臣秀吉が、養子の秀次が切腹する3カ月ほど前に、その息子を要職に就かせると発言していたことを示す書状が新たに見つかった。これは文禄4(1595)年、秀吉の側近、木下吉隆が毛利輝元に送った書状の中に、豊臣秀次の息子を大和(いまの奈良県)の国主にするという秀吉の発言が記されていたことで分かったもの。秀吉と秀次は、この2年前に秀吉の実子、秀頼が生まれたことをきっかけに、不仲になったというのが通説。実際にこの書状が書かれた3カ月ほど後に、秀次は謹慎、切腹させられ、妻子も処刑された。しかし、今回の見つかった書状により、両者の冷えた関係は秀頼の出生直後からのものではなく、同編纂所では「豊臣家に人がいなくなってしまうと、滅亡につながってしまうと考え、秀吉は簡単に秀次一家を潰そうつはしていなかったのではないか」とし、この書状はかなり重要な、意味のある発見だと指摘している。

持統天皇の生涯を漫画作品で紹介 明日香村で展覧会

奈良県明日香村の県立万葉文化館で、飛鳥時代の女性天皇、持統天皇の生涯を、里中満智子さんの作品に沿って紹介する展覧会が開かれている。9月23日まで。このうち古代日本最大の内乱「壬申(じんしん)の乱」(672年)の後、勝利した夫の大海人皇子(後の天武天皇)の即位および親政を経て、天武天皇の死後、皇后が持統天皇として即位するまでの期間を描いた漫画の原稿およそ160点あり、パネルなども添えて詳しく紹介されている。また、里中さんの作品の構想のもととなった日本書紀など考古学資料も一緒に展示されていて、作品への理解や実際の歴史を楽しく学ぶのに役立っている。壬申の乱は天智天皇崩御後、その皇太子、大友皇子と天智天皇の弟がその覇権を争い、いわば反乱者が勝利した稀有な例。それだけにその後、日本の律令政治の基礎をつくっていった天武~持統天皇の足跡を詳しく、そして分かりやすく紹介している。

昭和天皇「国民が退位希望するなら躊躇せぬ」拝謁記で心情明らかに

民間出身の初代宮内庁長官、田島道治(たじまみちじ)氏が、昭和天皇との対話を克明に記した「拝謁記」から、敗戦後~東京裁判後の当時の天皇の、揺れ動く心情が明らかになった。そして、この中で天皇が「国民が退位を希望するなら、少しも躊躇せぬ」と語るなどこの間、退位の可能性にたびたび言及していたことが分かった。                        分析にあたった専門家は「皇室が本当に国民に認められるかどうかがすごく気になっていて、存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘している。昭和天皇の退位をめぐる問題は、これまでの研究で昭和23年の東京裁判の判決に際し、昭和天皇が連合国軍最高司令官マッカーサーに手紙を送り、退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えたことで、決着したとされてきた。しかし、現実には皇室の今後を見据え、退位をも辞さない覚悟を含めた葛藤があった。田島道治氏は戦後制定された日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり宮内庁や宮内府のトップを務めた。在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していた。

「二・二六事件」推移克明に記録した海軍極秘文書見つかる

陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」(1936年2月26日発生)について、暴徒として鎮圧されるまでの4日間の事件の推移を分単位で克明に記録した海軍の極秘文書が見つかった。陸軍のではなく、海軍のこうした文書が存在したこと自体が驚きだ。そして、この事件の際、これまで断固鎮圧の姿勢を貫いたとされていた昭和天皇の、揺れ動く思いのさまが垣間見える記録だ。この中で昭和天皇は、海軍の作戦を統括する軍令部のトップ、皇族将校の伏見宮・軍令部総長とのやり取りで、①海軍の青年士官がこの企てに合流することはないか②事件鎮圧に出動する海軍の陸上部隊の指揮官は、部下を十分掌握できる人物を選任せよ-などと、事件の拡大を懸念する発言をしていたことが記録されていて、専門家は当時の天皇と軍の関係を知るうえで、極めて貴重な資料と指摘している。この事件の後、日本軍部は戦争への道をまっしぐらに進み、わずか5年後の1941年に太平洋戦争勃発、そして1945年の敗戦へと突き進む。

古都の夜空に浮かぶ火文字・形 京都五山送り火

京都のお盆の伝統行事「京都五山送り火」が8月16日、行われた。今年は台風10号の影響で、本来の前日からの準備ができず、この日朝5時ごろからの作業に追われたという。それでも午後8時には予定通り、まず京都市左京区の大文字山の火床に一斉に火が灯され、山の斜面に大きな「大」の文字が浮かび上がった。続いて、京都の街を囲む5つの山々に「妙法(みょうほう)」、「船形(ふながた)」、「左大文字(ひだりだいもんじ)」、「鳥居形(とりいがた)」の順で、ほぼ5分おきに点火された。すると、炎で描かれた文字と形が、古都の夜空に浮かび上がった。市内中心部のビルの屋上をはじめ、市内各所で見物客がそれぞれの思いを胸に、この幻想的な風景に見入っていた。京都五山送り火は、お盆に迎えた先祖の霊を送る京都の伝統行事。

滋賀・長浜城跡で石垣発見、石材の技法から築城は豊臣期

滋賀県長浜市は8月14日、長浜城跡(所在地:同市公園町)の試掘調査で石垣の一部が見つかったと発表した。石材の形状などから豊臣期(1574~1590年)に造られた可能性があるという。石垣は、大きさが不揃いの石材8個が連なった長さ4.5mで、深さ1.4mの地中から見つかった。1600年以降の徳川期の城郭にみられる、くさびを用いて石材を割る「矢穴技法」が使われておらず、同市は豊臣期の石垣と考えられるとしている。長浜城は羽柴(豊臣)秀吉が築いたことで知られているが、その後、家臣の山内一豊ら城主が4人交代。大坂夏の陣(1615年)で豊臣氏滅亡後、徳川政権が安定した後、廃城となり、資材は彦根城の築城に再利用されたと伝えられており、この時代の遺構はこれまではっきりと確認されていなかった。

志賀直哉の『暗夜行路』の舞台 京都時代の旧居宅、解体へ

文豪・志賀直哉(1883~1971年)の京都時代の旧居の一つで、代表作『暗夜行路』でも重要な舞台として描かれた京都市北区の住宅が近く取り壊されることが分かった。この旧居は北野白梅町交差点から南西約200mにあり、1910年代当時の衣笠村に郊外型住宅として開発され、文化人が数多く住んだ衣笠園の一角。志賀は実父との確執が激しく、わずか4カ月余りだったが、新婚間もない大正4年1月にここに移り住んでいる。暗夜行路の作品では、自らを投影させた主人公の作家、時任謙作と妻・直子が新婚生活をスタートさせた家として登場する。旧居は大正期の木造2階建てで、老朽化が著しく、現在の所有者が解体・売却の手続きを進めている。

山形県内陸部の竪穴住居跡からマグロの骨出土、縄文草創期

山形県南陽市教育委員会などによると、約1万1,000~1万2,000年前の縄文時代草創期の竪穴住居跡が確認された同市赤湯の北町遺跡で、内陸部の縄文遺跡としては全国的に珍しいマグロの骨が出土した。見つかったのは成長段階のマグロの背骨の一部と判明した。白竜湖西側に位置する同遺跡は、枯れた植物が分解せずに積もった泥炭層の湿原だった場所に広がる。こうした環境にあったからか、専門家は「これだけの内陸部で海洋魚の骨が見つかったこと自体、驚き」としている。いずれにしても、当時から内陸部と海岸部で人的、物的交流があったことが推察される。

弥生~飛鳥時代の木製品60点集め奈良・橿原市で特別展

奈良県橿原市の「歴史に憩う橿原市博物館」で、同市内の遺跡から出土した木製の食器や農具などおよそ60点を集めた企画展が開かれている。9月1日まで。これらはいずれも2,000年ほど前の弥生時代から飛鳥時代の木製品。新堂遺跡から出土した古墳時代の「腰掛け」は高さ14cm、幅36cmほどの小さな椅子で、儀式で使われた特別なものと考えられる。持統天皇が造営した藤原京の跡から出土した「漆塗り匙」は、長さ27cmほどの飛鳥時代のスプーンで、官位の高い貴人が使っていたとみられる。

島原城の石垣解体後、発掘調査行われず宅地に、市教委が伝え忘れ

長崎県島原市教育委員会関係者らによると、江戸時代に築かれた島原城(長崎県島原市)の遺構の一つ、櫓(やぐら)台跡の石垣(高さ約2m、幅約10m)が取り壊され、文化財保護法に基づく発掘調査が行われないまま宅地になっていたことが分かった。地権者側から工事の相談を受けた市教委が、調査が必要であると伝え忘れたのが原因という。石垣は県史跡の本丸から北へ約500mの城敷地内に位置し、本来なら市教委は県史跡への追加を目指していた。 島原城の敷地は家臣の屋敷区画を含む約42万㎡(東西約350m、南北約1,200m)。このうち本丸や二ノ丸がある約7万㎡が2016年に県史跡い指定された。他のエリアでは宅地化が進み、約30基あった櫓台跡の石垣の大半が姿を消している。

人々の暮らしに溶け込んだ「浮世絵ねこの世界展」

江戸時代から大正時代にかけて、猫を題材に描かれた浮世絵の展示会が大阪歴史博物館で開かれている。9月8日まで。「浮世絵ねこの世界展」と題した同展には、人々の暮らしに溶け込み、様々な表情をみせる江戸時代から大正時代にかけての猫を題材にした浮世絵およそ150点余が展示されている。                                                                 このうち歌川国芳の作品では小判に興味津々の猫やかつお節に寝ている猫など、猫に関する「たとえ」とは反対の行動をとる様子がユーモラスに描かれ秀逸。また、明治に描かれた美人画では、飼い猫の鼻を撫でる遊女の様子が、猫を可愛がりすぎるため主人から猫と引き離されたという逸話をとともに描かれ、思わず笑みがこぼれる。

20年の大河の放送控え、光秀の菩提寺が境内リニューアル、観光客増見込む

明智光秀の菩提寺として知られる滋賀県大津市の西教寺が、観光客の増加を見込んで境内の宿泊施設や体験プログラムをリニューアルした。同境内には寺が経営するユースホステルがある。寺では2020年、京都・本能寺で織田信長を討った光秀を主人公にしたNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が放送されることで、同寺を訪れ宿泊を希望する観光客が増えることが見込まれるとして、施設を全面的に改装し、7月完成した。改装により客室や広間の畳を新調したほか、3階建ての施設に2台のエレベーターを設置して、バリアフリー化を進めた。また、これまで宿泊客に向けて行ってきた境内の清掃や写経に加え、夜の本堂で座禅を組む体験ができるプログラムも新たに設けた。

天神祭「船渡御」浪速の夜空彩る5,000発の花火

大阪の夏の風物詩、大阪天満宮(所在地:大阪市北区)の天神祭は7月25日、本宮を迎え市内の中心部を流れる大川でおよそ100隻の船が行き交う「船渡御」が営まれた。そして、日暮れとともにクライマックスの、令和初の約5,000発の奉納花火が打ち上げられ、家族連れやカップルなど多くの見物客を魅了した。

祇園祭・後祭の山鉾巡行 「鷹山」の唐櫃が参加

近畿で遅い梅雨明けが発表された7月24日、京都の夏を彩る祇園祭・後祭(あとまつり)の山鉾巡行が行われた。京都市中京区の烏丸御池の交差点を午前9時半にスタート。山鉾の数は10で、前祭(さきまつり)の23と比べ少ないが、いずれも豪華な懸装品で飾られた山や鉾が前祭と同様、”コンチキチン”の祇園囃子が響く中、ゆっくりと都大路を進む。交差点に差し掛かると、車輪の下に竹を敷いて水をまきながら、直角に方向転換する「辻回し」を披露。見物客が盛んに拍手を送っていた。今年はここ190年以上、山鉾巡行に参加していなかった「休み山」の「鷹山(たかやま)」関係者が参加。ご神体の代わりに掛け軸を収めた唐櫃(からびつ)を担いで列に加わり、後祭を盛り上げた。

14の学術団体が世界遺産の古墳群公開求める声明

日本考古学協会など14の学術団体は7月23日、世界文化遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」を地域や社会に公開していくことなどをもとめる声明を出した。この中で同古墳群のうち、宮内庁が管理する古墳が原則、非公開となっていることについて、陵墓であることに配慮しながら一般への公開を進めることや、国と地元自治体が協力して史跡への指定などの保護を進めることを求めている。

奈良「吉野離宮」遺跡で新たに2棟の建物跡

奈良県吉野町と奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査によると、「吉野離宮」とされる吉野町の遺跡で、新たに2棟の建物の跡が見つかった。吉野町の国の史跡「宮滝遺跡」では2017年、大型の建物跡が見つかり吉野離宮の中心的な建物「正殿」の跡ではないかとみられている。今回見つかったのは、この正殿の北側。南北6m、東西7.5m以上の大きさがある。正殿の後部に建てられた「後殿」とみられる。また今回、正殿と目される建物跡の南西側からは、南北5.4m、東西3m以上の大きさの建物跡が見つかった。吉野町などはこれら2つの建物は、正殿の両脇に建てられた「脇殿」とみている。   奈良時代、吉野離宮には女帝の元正天皇や聖武天皇などがたびたび訪れている。

平城京跡で長屋王と同規模の広大な宅地跡見つかる

奈良市教育委員会の発掘調査によると、奈良時代に都があった「平城京跡」で、当時の権力者、左大臣・長屋王と同じ規模を持つ広大な宅地の跡が見つかった。場所は「平城宮跡」に近い奈良市法華町の市立一条高校の敷地内。藤原不比等邸宅跡の約150m東の一等地。所有者の特定につながる木簡などは見つかっていないが、かなり有力な貴族の屋敷だったとみられる。広さは、当時の宅地の区画である町(ちょう)4つ分にまたがる約6㏊(約6万1,000㎡)。奈良時代、宅地の広さは官位で決められ、4町を与えられる人物は左大臣など三位以上で、左大臣として権力を握っていた長屋王も町4つ分の広さの宅地だった。平城京跡の発掘調査で町4つ分の広さの宅地が見つかったのはのは3例目。

“辻回し”に歓声と拍手 祇園祭・前祭で23基の山鉾巡行

京都・祇園祭の前祭(さきまつり)の山鉾巡行が7月17日、京都市内中心部で行われた。午前9時半ごろ、先頭の長刀鉾(なぎなたぼこ)に乗った稚児がしめ縄を刀で断ち切ったのを合図にスタート。長刀鉾の次は2年連続で山一番を引き当てた「蟷螂山(とうろうやま)」が続き、総勢23の山・鉾が「コンチキチン」の祇園囃子を奏でながら夏の都大路を進む。四条河原町の交差点に差し掛かると山鉾巡行の見せ場の一つ、”辻回し”を披露した。辻回しは、水をまいた竹の上で車両を滑らせて、山・鉾自体と乗り込んでいる人らを含め何トンにもなる山や鉾を直角に方向転換するもの。沿道の人たちからは歓声や拍手が起こっていた。警察によると、沿道にはおよそ12万人が見物に訪れた。

“辻回し”に歓声と拍手 祇園祭・前祭で23基の山鉾巡行

京都・祇園祭の前祭(さきまつり)の山鉾巡行が7月17日、京都市内中心部で行われた。午前9時半ごろ、先頭の長刀鉾(なぎなたぼこ)に乗った稚児がしめ縄を刀で断ち切ったのを合図にスタート。長刀鉾の次は2年連続で山一番を引き当てた「蟷螂山(とうろうやま)」が続き、総勢23の山・鉾が「コンチキチン」の祇園囃子を奏でながら夏の都大路を進む。四条河原町の交差点に差し掛かると山鉾巡行の見せ場の一つ、”辻回し”を披露した。辻回しは、水をまいた竹の上で車両を滑らせて、山・鉾自体と乗り込んでいる人らを含め何トンにもなる山や鉾を直角に方向転換するもの。沿道の人たちからは歓声や拍手が起こっていた。警察によると、午前9時半の時点で沿道にはおよそ3万4,000人が見物に訪れていた。

京都 祇園祭 過ごしやすい宵山に人の波

京都の夏を彩る祇園祭は7月16日夜、17日の「前祭(さきまつり)」の山鉾巡行を前に参加する23の山・鉾が勢揃い、この前夜祭にあたる宵山を迎え大勢の人波でにぎわった。この日は四条通と烏丸通、そして周辺の路地が午後6時から歩行者天国となり、豪華に飾り付けられた山や鉾が提灯の明かりで幻想的に照らし出される中、”コンチキチン”の祇園囃子が鳴り響いていた。この時期の京都盆地は35度以上の”猛暑日”となるのが通例。ところが、今年は雨や曇天続きで、全国各地と同様、日照時間が短く、その分気温の上昇も例年ほどではない。この日の京都も最高気温が32.2度と過ごしやすく、うちわを手にした浴衣姿の家族連れやカップルらが宵山を楽しんでいた。               前祭の山鉾巡行は17日午前9時から、「後祭(あとまつり)」の山鉾巡行は7月24日にそれぞれ行われる。

熊野那智大社で勇壮な火祭り

和歌山県那智勝浦町の世界遺産、熊野那智大社で7月14日、氏子たちが高さが6mほどもある神輿を先導して、重さ50kgものヒノキでつくられた大たいまつをかざし、時々これを叩きつけ、参道を清めながら那智の滝までの石段の道を練り歩く「那智の扇祭り」が行われた。沿道には東京など関東や近畿圏からも数多くの観光客が訪れ、迫力あるこの勇壮な火祭りの様子をカメラに収めていた。那智の扇祭りは、熊野那智大社に祀られている神々が扇がついた神輿に乗って那智の滝に帰る神事で、国の重要無形文化財に指定されている。                                                              

40億年前に土星や天王星が大移動、隕石の分析で裏付け

茨城大学や東京大学などの研究グループは、カナダ西部に19年前に落下した隕石を分析し、隕石の由来を調べた結果、土星や天王星など太陽系の一部の惑星が、およそ40億年前に大きく移動したことが分かったと発表した。また、隕石は落下したコースから木星の内側にある小惑星帯からきたと推定されたものの、その成分には木星よりも外側の温度が低いところでできた特徴をもっていることから、この隕石は木星よりも外側でつくられた後、木星の内側の小惑星帯に大きく移動してきたと考えられるとしている。   太陽系ができる過程では、およそ40億年前に木星よりも外側の惑星(土星・天王星・海王星)は、それぞれの重力が影響しあって太陽から離れる方向に移動し、海王星は地球と太陽の距離の15倍にあたる22億km余、天王星はおよそ7億5,000万km外側に移動し、逆に小惑星の一部は木星よりも遠くから、木星の内側に移動したとの説があり、これを裏付け結果を得た。

7/13から「恐竜博2019」世界初公開の化石も、50年間の最新の成果を展示

東京・上野の国立科学博物館で、世界で初めて公開される貴重な恐竜の化石など、この50年間の最新の研究の成果を集めた「恐竜博2019」が7月13日から開かれている。10月14日まで。会場には100点余の恐竜の化石や標本などに加え、最新研究をもとにつくられた高精細な恐竜CG(コンピュータ・グラフィックス)映像などが展示されている。 このうち「デイノケイルス」という恐竜の頭と足の化石は世界で初めての公開。およそ40年間謎とされてきた全身の骨格が明らかになった。長い前足で幅の広いくちばしを持つ珍しいタイプの恐竜だったことが分かった。また、全身の骨格が見つかった恐竜としては国内最大の「むかわ竜」は、12歳程度の大人の恐竜だと分析された結果とともに展示されている。

はやぶさ2,2度目のリュウグウ着陸に成功 惑星内部の岩石採取

太陽系宇宙の成り立ちの一端を解明することにつながるのか?宇宙航空研究開発機構(JAXA)は7月11日、「はやぶさ2」が小惑星「リュウグウ」内部の岩石を採取する、世界初のミッションのため、リュウグウへの2度目の接地(タッチダウン)=着陸に成功したと発表した。JAXAは、タッチダウンは大成功、何らかの岩石が採れたと思われるとしている。はやぶさ2の着陸はわずか数秒間で探査機の下から伸びる筒状の装置の先端を地表につけて、その瞬間に弾丸を発射し、砕けて舞い上がった岩石の破片を採取するという仕組み。

21万年前の人類の化石発見、人類は定説より早くアフリカ外へ進出

ドイツのチュービンゲン大学などの研究グループによると、ギリシャの洞窟から見つかった現代の人類の化石が、アフリカ以外で見つかったものとしては最も古い21万年前のものとみられることが分かった。その結果、グループでは、現在に人類は定説より数万年も早くアフリカの外に進出し、ネアンデルタール人などとの共存や競争が長い間、複雑な形で繰り広げられてきたことになり、人類の歴史の解明に役立つと分析している。ギリシャ南部の洞窟から発見された2つの頭蓋骨を復元し、放射線による年代測定を行った。7月10日付の英国の科学雑誌「ネイチャー」に論文が掲載された。

丸木舟で台湾~与那国島へ200kmの航海に成功、日本人のルーツ求めて

日本列島へ最初にたどり着いた日本人は、どのように黒潮を乗り越え、海を渡ってきたのか?日本人の祖先による3万年以上前の航海を実現する、国立科学博物館などのプロジェクトがつくった5人乗りの丸木舟が7月9日午前11時半すぎ沖縄・与那国島に到着した。7月7日午後2時半すぎ(日本時間)の台湾南部・台東県の海岸を出発してからおよそ45時間の航海だった。かいを漕いで、大きなカベだった速い潮流、黒潮を乗り越え、直線で約200kmの航海に成功した。3万年以上前を再現するため、時計や地図、コンパスを持たず、地形や星、月、太陽を手掛かりに進むのは容易なことではない。同プロジェクトでは、丈夫な草(植物)を束ねた舟や竹の筏(いかだ)での実験航海失敗の経験を踏まえ、今回、石斧を使い杉の大木からつくった丸木舟で、遂に黒潮を越えた。約3万年前には台湾は大陸と地続きだった。沖縄の島々への航海は祖先が日本に渡った主要なルートの一つとみられるが、遺跡から当時の舟は見つかっていない。

丸木舟で与那国島目指し台湾出航、日本人の祖先の渡来検証へ

国立科学博物館は7月7日、約3万年前に日本人の祖先が大陸から日本に渡ってきた航海を再現するため、手漕ぎの丸木舟が台湾を出航したと発表した。日本列島西端の沖縄・与那国島を目指す。大陸からの渡来を検証するため、これまで植物や木製の船や筏(いかだ)など3万年前に入手可能だったと思われる材料で、再現実験が行われたが、いずれも無理と判断。今回は丸木舟でのトライとなった。                                          丸木舟は台湾南東部の台東県の海岸を出発。これまでの経験を踏まえ、体力強化のため練習を繰り返し、シーカヤックなどの経験豊富な漕ぎ手5人(男性4人、女性1人)が乗り込んでいる。与那国島までは直線距離で200km以上あり、夜通し漕いでも30~40時間かかる見通し。3万年前の航海術を再現するため、GPS(全地球測位システム)などは使用しないという。ただ、スタッフが乗り込んだ伴走船が並走する。

百舌鳥・古市古墳群 世界文化遺産に登録、23件目

ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は、アゼルバイジャンの首都バクーで会議を開き、日本時間の7月6日午後5時半すぎに、大阪府の「百舌鳥・古市(もずふるいち)古墳群」を新たに世界文化遺産として登録することを決めた。百舌鳥・古市古墳群は大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市にまたがる、4世紀後半から5世紀後半ごろに造られた、合わせて49基の古墳で構成される。この中には宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理し、「大山古墳」とも呼ばれる国内最大の前方後円墳も含まれている。これらの古墳は、当時の高い築造技術を示しているほか、日本の古代国家の成り立ちを研究するうえで、貴重なものとされる。今回の登録によって日本の世界遺産は23件目で、文化遺産が19件、自然遺産が4件になる。大阪府の世界遺産の登録は今回が初めて。

井伊直弼が側近や家臣に宛てた手紙18通を展示 心情綴るものも

江戸・幕末期、大老となり、14代将軍をめぐり南紀派と一橋派の対立時の一橋派への弾圧および最終決断や、「安政の大獄」の首謀者とも目される彦根藩主・井伊直弼が、側近や家臣などに宛てた貴重な手紙を集めた企画展が、滋賀県彦根市の彦根城博物館で開かれている。7月16日まで。今回展示されているのは、国の重要文化財に指定されている「彦根藩井伊家文書」などに残された、およそ300通の中から選ばれた自筆の手紙18通。後に側近となる国文学者、長野義言(主膳)に宛てた手紙は、長さ2mを超えた長文で初対面から3夜連続で語り合った喜びが綴られている。また、兄の直亮が急死し、思いがけず藩主の座に就くことになった際、当時江戸にいた  直弼が親しい家臣に送った手紙には「言語に絶する」「残念の至り」などの兄の死を悼む心情が記されている。このほか、病気の家臣を「養生が大事」などと気遣う手紙も残されている。      安政の大獄で、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など数多くの英才を斬首した”鬼”のような印象の強い井伊直弼の、親しい間柄の人たちに宛てた手紙には心優しい、人間味あふれた側面も持ち合わせた人物像がうかがわれる。

  

フィリピン沖海底で旧日本海軍の重巡洋艦「摩耶」船体発見

米国の調査チームによると、太平洋戦争中に撃沈された旧日本海軍の重巡洋艦「摩耶」の船体が、フィリピン・パラワン島沖のおよそ1,850mの海底で見つかった。同チームの無人探査機が撮影した映像には船体はじめ、艦橋の構造物や主砲などの形が確認できるほか、機器に刻まれた文字もはっきりと写っている。                                          摩耶は1944年10月、フィリピンへと迫る米国軍を迎え撃つためレイテ島に向かったが、米国海軍の潜水艦の魚雷攻撃をけて沈没し、乗員336人が死亡した。今回、摩耶を発見した調査チームは、2015年にもフィリピン沖の海底で戦艦「武蔵」を発見している。

奈良・香芝市の古墳 王族の墓の可能性

奈良県香芝市教育委員会はこのほど、同市の国の史跡、平野塚穴山古墳で土を盛った墳丘の表面を覆っていた装飾用とみられる石が見つかったと発表した。こうした装飾は天皇陵と考えられる古墳でしか確認されていないことなどから、同市教委では王族の墓の可能性が高まったとしている。同古墳は一辺が25mから30m、高さ5mの2段に築かれた方墳で、7世紀後半に造られたとみられ、国の史跡に指定されている。              同市教委が3年ほどかけて行った発掘調査の結果、土を盛った墳丘の南側の斜面から、2m四方にわたって15cmから30cmほどの装飾用とみられる石がおよそ20個見つかった。同種の凝灰岩で墳丘を覆った古墳は、、いずれも奈良県明日香村にあって、斉明天皇の墓という説がある牽牛子塚(けんごしづか)古墳と、天武天皇と妻の持統天皇を埋葬したとされる野口王墓古墳しか例がないという。こうした点を総合的に判断すると、埋葬されたのは天智天皇や天武天皇の祖父にあたる茅渟王(ちぬおう)が有力な一人とみている。

近江商人の商いの心得、家訓展 滋賀・東近江市

滋賀県東近江市の近江商人博物館で、代々伝わる商いの心得や家訓を記した掛け軸などおよそ20点を集めた展示会が開かれている。7月15日まで。                                   麻布の仲介業者の主人が跡継ぎに宛てた遺言書には「他国で商売をするときは、行く先の人たちのことを大切に思いなさい」と書かれていて、近江商人のモットーといわれる「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の心得が記されている。また、「長者三代鑑」と名付けられた掛け軸には、一番下に懸命に働く創業者、真ん中に仕事をせず茶の湯に興じる2代目、そして一番上に落ちぶれた3代目の姿が描かれ、戒めともいうべき「創業者の勤勉な精神を忘れるべからず」というメッセージが込められている。近江商人の、今日のビジネスにも通じる、興味深い心得がうかがわれる。

銀河系の最遠端の観測に成功 東北大、東大など研究チーム

東北大、東京大学、法政大学、国立天文台などの共同研究チームは6月21日、すばる望遠鏡の超広視野主焦点カメラHyper Suprime-Can(HSC)が撮像したデータを用いて、銀河系の最遠端、すなわち銀河系を形づくる星々の世界の境界を初めて見極めることに成功したと発表した。その境界までの距離は半径約52億光年もあり、銀河系の中心から太陽系までの距離(約2万6,000光年)の20倍にもなることが分かった。銀河系がどのように形成されたかを知るうえで、手がかりとなる。

厳島神社の大鳥居改修工事始まる 老朽化で損傷激しく

世界遺産の厳島神社(所在地:広島県廿日市市)でこのほど、海上に立つ大鳥居の改修工事が始まった。老朽化で損傷が激しいためだ。終了時期は未定。国の重要文化財に指定されている大鳥居は、高さ約16mで、満潮時には海上に浮かぶように見えることから同神社の象徴となっている。現在の大鳥居は1875年に建立され8代目。各部の破損状態を調査し、今後の修理方針を決める。                                             

東大大学院 Y染色体の遺伝子系図解析で縄文・弥生期の人口急減を解明

東京大学大学院の研究グループは6月17日、Y染色体の遺伝子系図解析で縄文時代晩期から弥生時代にかけて、急激な人口減少が起きていたことを解明したと発表した。同グループは日本人男性345名のY染色体の全塩基配列決定と変異解析を行った。他の東アジア人のY染色体データと併せて系統解析すると、縄文人に由来するY染色体の系統が同定された。縄文人由来Y染色体の遺伝子系図(共通祖先から現在に至るまでの分岐過程)を推定したところ、縄文時代晩期から弥生時代にかけて人口が急激に減少したことが示された。縄文時代晩期は世界的に寒冷化した時期であり、気温が下がったことで、食料供給量が減ったことが急激な人口減少の要因の一つではないかと思われるとしている。この結果は、縄文時代の遺跡数や規模などの変化から類推されてきた、縄文時代後期・晩期に起きた急激な人口減少を裏付けるものだ。