京都の知恩院(所在地:京都市東山区)で12月27日、大晦日を前に僧侶およそ30人が集まり、「除夜の鐘」の試しづきが行われた。知恩院では毎年、大晦日に高さが3mある大きな釣り鐘をついて新年を迎える。知恩院の除夜の鐘は「しゅもく」と呼ばれる長さ4mの棒に、いくつもの縄を付けてひく独特の打ち方で知られていて、掛け声がかかると16人の僧侶が一斉に縄を引く。
そして、別の一人が一気に縄にぶら下がるように仰向けの姿勢になって、勢いをつけて鐘をつく。すると、厳かで重厚な鐘の音が周囲に響き渡る。知恩院では感染対策のため、除夜の鐘をつく時間帯の参拝は事前に申し込んだ人に限定していて、今回はすでに定員の400人に達しているという。
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「赤穂義士祭」2年ぶりに規模縮小し実施 高校生が赤穂城跡で
「忠臣蔵」として知られる兵庫県赤穂市の「赤穂義士祭」が12月14日、2年ぶりに規模を縮小して行われた。2年ぶりの開催となった今年は、市民が街中を練り歩くパレードを取りやめるなど規模を縮小。今回は県立赤穂高校の生徒たちが四十七士に扮して赤穂城跡を練り歩いた。
行列は、大石内蔵助役の生徒が打ち鳴らす太鼓の音に合わせておよそ200mの道のりを30分かけて一歩一歩ゆっくりと練り歩き、大石神社の鳥居の前で「えい、えい、おー」と”勝どき”をあげた。
赤穂義士祭は300年余り前の江戸時代、徳川五代将軍綱吉のころ、播州赤穂藩の四十七士が主君、浅野内匠頭の敵を討つため、吉良邸へ討ち入りしたことに因むもの。その12月14日に毎年行われているが、昨年は新型コロナウイルスの影響で中止となっていた。
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大阪「鴻池組旧本店」洋館・和館など5件が国の有形文化財に
国の文化審議会はこのほど、大阪府内の建造物5件を国の有形文化財に登録するよう答申した。大阪市此花区の明治43年に建てられた「鴻池組旧本店」の洋館と和館、高槻市で現在、レストランなどに使われている「旧京都大学高槻農場」など合わせて4件の建物と、柏原市にある安田家住宅母屋も新たに登録されることになった。
鴻池組旧本店の洋館の外壁は、白いモルタルに赤いレンガでラインを巡らせたモダンなデザインが特徴。玄関ホールにはクジャクやバラをモチーフにしたステンドグラス、応接室の暖炉や棚には当時流行していたアール・ヌーボーの装飾が施されている。また、和館は屋根が瓦葺きで軒下は漆喰(しっくい)が塗り込められ、重厚な町家のつくりとなっている。
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大阪・堺市 仁徳天皇陵で多数の埴輪の破片など見つかる
宮内庁と堺市が10月から調査を進めている、国内最大の前方後円墳「仁徳天皇陵」として管理されている世界遺産、大山古墳から多数の埴輪の破片などが見つかり、11月19日、報道陣に公開された。古墳の最も内側の第1堤の10カ所で、縦2m、横は最大で13.5mの調査区域を設け、30cmほど掘り起こして行った調査結果が示された。
今回の調査では、堤の内側で円筒埴輪などの破片が見つかった。3年前に初めて行った調査で、堤の外から同様の発見があったことから、宮内庁は堤の内外両側に花輪が並べられていた可能性があるとしている。また、木製の埴輪が立っていたと推測される穴や、こぶし大の石を敷き詰めた石敷きも見つかった。
調査は12月上旬までで、堺市は史料の一部を博物館などで公開することを検討している。
奈良・橿原市で弥生時代前期の水田跡やひつぎなど発見
奈良県立橿原考古学研究所によると、弥生時代の集落を囲む溝が見つかっている奈良県橿原市の発掘調査現場(橿原市四条町)で、新たに水田の跡やひつぎが見つかったと発表した。
現場は東西25m、南北20mの範囲で、およそ2,400年以上前の弥生時代前期のものとみられる水田の跡とそこで作業していたとみられる人々の足跡が数百個見つかった。また水田跡から北西に300mほど離れた場所で、同じ時期のものとみられる土器のひつぎが2つ見つかった。ひつぎは大きいもので高さ70cm、幅80cmほどの大きさで、子どもが埋葬された可能性があるという。
これまでの発掘調査で、周辺からは集落を囲う環濠とみられる溝なども見つかっていて、同研究所は稲作をしながら人々が暮らしていた集落があった可能性が高いとみている。また、これら一連の発見は集落、食料生産、埋葬という生活の3つの要素がセットでそろって珍しいもの。この地域の弥生時代の生活をみていくうえで、貴重な史料だとしている。
奈良・高取町で古墳時代中期の人工池を発見 渡来人が築造か
奈良県高取町教育委員会は11月17日、同町の清水谷(しみずだに)遺跡で、川原石を積んで護岸を施した古墳時代中期(5世紀中ごろ)の人口の池の跡が見つかったと発表した。池は東西26m、南北13m、深さ60cm。石組みの護岸を施し、西側に排水溝を設けていた。
同町ではこれまでに大壁(おおかべ)建物と呼ばれる朝鮮半島から来た渡来人の古墳時代の住居跡が約40棟出土し、渡来人が多く住んでいたとみられる。同町教委によると、日本書紀の「応神7年の条」には「高麗(こま)人や百済人などが来朝し、池をつくり、その池を韓人(からひと)池という」と記されており、今回見つかった池は、こうした記述にみられるような渡来人が造った人口の池だったとしている。
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平安京の内裏「登華殿」の建物跡を初めて確認 柱穴発見
京都市埋蔵文化財研究所が行った発掘調査およびその報告書によると、平安京の天皇が暮らす「内裏」のうち、皇后らが住む「登華殿」の一部の柱の穴が見つかったことが分かった。平安時代の内裏の建物跡が確認されたのは初めてという。
報告書によると、建物の柱の穴が5カ所見つかり、江戸時代に記された文献と照らし合わせたところ平安京の天皇が暮らす「内裏」のうち皇后らが住む「登華殿」の跡だと分かったという。さらにこの穴は、およそ1mから2m四方の掘っ立て柱の穴で、この建物の形状が縄文時代のころからの建築様式で、中国の様式が好まれた平安時代初期になっても、古くからの様式を採用していたことが判明したとしている。また、柱の穴の間隔はおよそ3mあり、文献に基づくと南北27m、東西12mの建物だと推測できるという。
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江戸時代の人々も歯周病 現代とは異なる細菌が原因
東京医科歯科大学の研究グループによると、江戸時代の人々も細菌への感染で歯ぐきや歯を支える骨が溶ける歯周病にかかっていたとする研究結果を、スイスの分子生物学の雑誌に発表した。
これは、東京都江東区の深川付近で発掘された江戸時代後期の人骨をCTスキャンなどで解析したもので、付着していた歯石を調べると、歯周病の原因の細菌は現代とは異なることも分かったという。人骨12体のうち5体で、あごの骨の一部が溶けていて、歯周病にかかっていた。また、骨に付着していた歯石に含まれるDNAを解析したところ、24種類の細菌がいたことが分かり、このうち17種類は現代人の口の中でも見られるものだった。
しかし、現代人で歯周病の原因となっている細菌は、江戸時代の人の歯石からは1種類も検出されず、研究グループは口の中の細菌の環境は現代とは異なり、当時の人々は他の細菌によって歯周病になっていたとみられるとしている。
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東大らのチーム 雑穀を食べていた特異な縄文人集団を発見
東京大学総合研究博物館の米田穣(よねだみのる)教授らの研究チームは10月13日、長野県小諸市七五三掛(しめかけ)遺跡で出土した人骨からコラーゲンを抽出し、放射性炭素年代を測定することで、15点中13点が縄文時代晩期末ごろの人骨であることを発見したと発表した。さらに炭素・窒素安定同位体比の特徴から、縄文時代晩期末の集団が渡来文化の一部である雑穀(アワ・キビ)を食べていたことも明らかにした。
縄文終末期に中部高地に伝来した渡来文化には、水田稲作だけではなく雑穀栽培が含まれていたが、これまではそれらの穀物を利用したのが縄文人だったのか、渡来人だったのか、また食生活における雑穀の重要性などの詳細は不明だった。
今回の研究成果で、雑穀は食生活の一部のみを占めることから、狩猟採集による伝統的な生活を継続しつつ、縄文人が渡来文化を主体的に受容した様相が示された。土器表面の圧痕研究ではイネ(籾)に加え、アワ、キビの雑穀種子も見つかっていることから、縄文人集団は中部高地の環境に適した雑穀を選択して生業に取り入れていたと考えられるという。
奈良・平城宮跡資料館で木簡紹介 当時の食生活窺わせる
奈良市の平城宮跡資料館で、奈良時代の文字が書かれた木の板「木簡」を紹介する展示会が開かれている。「地下の正倉院展」と題されたこの展示会は、奈良文化財研究所が毎年この時期に開いているもの。
今年は当時の生活様式を窺わせる木簡など、国宝3点を含むおよそ50点が2回に分けて展示される。このうち、奈良時代に送検された奈良市の西大寺の井戸の跡で見つかった木簡には、寺の食事についてウリやナスなど野菜が中心だったことが記されている。ただ、同じ井戸の跡から当時、僧侶が食べてはしけないとされていたイワシやコイなどの骨が見つかったことも紹介され、木簡だけでは読み解けない当時の食生活を想像させる展示になっている。
この展示会は11月7日まで開かれている。
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現代日本人の祖先DNAに古墳人 遺伝的特徴がほぼ一致
金沢大学や鳥取大学などの国際研究チームは、日本人のルーツ研究、DNA解析し、大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代の日本人につながる祖先集団が初めて誕生したとの趣旨の論文を9月18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表した。
石川県金沢市で見つかった約1,500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人や弥生人にはなく、現代日本人にみられる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかったのだ。研究チームは、約9,000年前の縄文人や約1,500年前古墳人など計12体のDNAを解読。すでに解読済みの弥生人2体のデータなどと比較した。親から子に遺伝情報が受け継がれる際に生じるわずかな違いの痕跡から、どの集団が遺伝的に近いのかを調べた。
延暦寺焼き討ちから450年 信長と光秀の子孫も参列し法要
滋賀県大津市の比叡山延暦寺で9月12日、織田信長による元亀2年の延暦寺焼き討ちから450年にあたる記念の法要がが行われた。今回の法要は天台宗の開祖・最澄が亡くなって1,200年の節目と重なることから、延暦寺が織田信長と明智光秀の子孫を招き、初めて当事者が参列し、ともに犠牲者を悼んだ。これは、「相手を許すことで、恨みを無くす」という最澄の教えに基づくもの。
参列した信長の子孫、織田茂和さんと光秀の子孫で作家の明智憲三郎さんの2人は、僧侶がお経を読み上げる中、焼香した後、供養塔に手を合わせ深々と頭を下げ、犠牲者を悼んでいた。
延暦寺の水尾寂芳執行(しぎょう)は、「織田家、明智家が参加していただいたことで、非常に意義深い法要となった。多くの犠牲者が出た歴史の上に私たちが立っていることを考え、今日をきっかけに新しい関係をつくっていければ」と今後の交流を誓っていた。
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京都「五山送り火」昨年に続き”火床”減らして実施
京都のお盆の伝統行事「五山送り火」は8月16日、急拡大中の新型コロナウイルスの感染を防ぐため、昨年に続き”火床”の数を減らして実施された。午後8時、左京区の大文字山から順次、点火が始まった。しかし、点火の場所が、昨年と同様、圧倒的に少ない。コロナ対策によるものだ。
例年は京都市を囲む5つの山々に、「大」や「船形」などの文字や形が炎で描かれるが、昨年と同様今年も”密”を避けるため、火床の数を大幅に減らし、規模を縮小して行われた。「大」の文字はそれぞれの端と、中心の合わせて6カ所だけに火がともされた。
五山送り火はお盆に迎えた先祖の霊を送る、300年以上の歴史があるとされる行事。こうした形でも「実施できてよかった」と関係者はじめ、見ていた人も話していた。
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東海道は「53次」と、大坂までの「57次」があった
通常、東海道といえば「53次」が相場。ただし、これは江戸-京の宿駅だ。江戸時代初期に設けられたものだ。しかし、征夷大将軍職が初代徳川家康から、2代目秀忠にバトンタッチされたころからは、東海道は江戸-大坂までの「57次」となったようだ。
江戸幕府を開いた家康は、関ヶ原合戦(1600年9月)の直後に、京から江戸までの交通と情報伝達に最適なルート選定を家臣に命じた。その結果、1601年1月に40ほどの宿駅を決めて朱印状を出した。これが東海道の宿駅伝馬制の始まり。その際、53次をイメージ付けしたのが歌川広重の作品「東海道五十三次」(浮世絵木版画)だ。
2代将軍秀忠は1615年、大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させると、家康の意向を受けて東海道を大坂までの延伸に着手する。そして設けられたのが大坂までの伏見、淀、枚方、守口の4駅で、これら4駅を合わせた「57次」が生まれた。
円山応挙の幽霊画と真筆認定 8月に青森で公開
青森市文化財審議委員らの調査によると、青森県弘前市の久渡寺所蔵の幽霊画「返魂香之図」が、江戸時代の絵師・円山応挙(1733~1795年)の真筆であることが分かった。8月13~15日、久渡寺で公開される。
弘前市教委などによると、米カリフォルニア大バークリー校付属美術館に寄託されている応挙の幽霊画と制作時期が近いことや、作品の技術の高さなどから真筆と判断した。応挙の幽霊画で真筆と認められているものは、米国の美術館に寄託されているものだけで、国内で真筆と確認されるの初めて。
返魂香之図は、弘前藩家老、森岡主膳元徳が相次いで亡くした妻らをしのぶため、応挙に制作を依頼したものと考えられる。久渡寺が所蔵していたことの経緯については、当の森岡主膳が1794年にこの絵を久渡寺に寄進したとの記録が残っている。
2,000年以上前の”古代のハス”滋賀・野洲市で見ごろ
京都・祇園祭2年ぶり「山鉾建て」始まる
ダビンチのクマの頭部の素描画13億円で落札
実測日本地図作製「伊能忠敬」神戸で特別展
江戸時代に日本初の実測日本地図を完成させた偉業をたどる特別展「伊能忠敬」が神戸市立博物館で7月10日から始まった。
会場では、忠敬と弟子らが全国を旅して、足掛け17年をかけた日本列島の測量事業により、つくり上げた日本地図作製にまつわる記録・資料、複製絵図、製図道具など約70点を展示。空前の事業を成し遂げた忠敬らの足跡をたどっている。
今年は、偉業達成前に没した忠敬の後を受け弟子たちが完成させた、精密な日本地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を幕府に上呈して200年の記念の年にあたる。それは1821年、江戸城で披露された。大図30軸、中図2軸、小図1軸からなり、各地の測量を記録した「輿地実測録」が付されていた。
これら同図の正本は明治時代に皇居の火事で失われ、控えも関東大震災で焼失した。ただ諸大名に献上された複製の絵図が現存する。
特別展は8月29日まで。料金は一般1,400円、大学生700円、高校生以下無料。
「京都五山送り火」今年も大幅縮小,文字や形描かず
清水寺で綸旨・秀吉の書状など古文書194点確認
京都市東山区の清水寺は7月7日、室町時代から幕末に至る歴代天皇の綸旨(命令書)16点を含む古文書194点が見つかったと発表した。
最も古い綸旨は応仁の乱(1467~1477年)で焼失した清水寺の復興に尽くした中興の祖、願阿(がんあ)上人に対し、後土御門天皇が再建を了承する内容。室町幕府の初代将軍・足利尊氏や豊臣秀吉の書状などもあった。
これらは願阿上人が開いた清水寺の子院、成就院に残されていた文書。願阿は清水寺再建のため招かれ、寄付金集めの「勧進」を展開した。応仁の乱以前から鴨川に橋を架け、飢餓に苦しむ人々を救済するなど庶民から厚い支持を受けた社会事業家で、1484年の本堂の再建を見届け、1486年に亡くなった。成就院は、幕末には尊皇攘夷の舞台ともなり、西郷隆盛と行動をともにした月照(げっしょう)も住職を務めている。
京都「時代祭」コロナで見どころの動く歴史絵巻中止
平安神宮と地元の市民でつくる平安講社は7月6日、毎年10月22日に行われる、京都三大祭りの一つ、時代祭が昨年に続きコロナ禍で中止すると発表した。10月22日とその前後に平安神宮の本殿で行われる神事については関係者だけで執り行うという。
時代祭は、平安時代から鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治時代までの衣装をまとったおよそ2,000人が都大路を練り歩く祭りで、いわば動く歴史絵巻。
祭りの10月のコロナの収束が見通せず、役員やサポートする人を含めて行列に関わるおよそ5,000人の、参道に集まる人たちの安全・安心を考えると中止せざるを得ないとしている。
この結果、京都三大祭が、5月の「葵祭」の行列中止、7月の「山鉾巡行」中止と合わせいずれも最大の”見どころ”が中止されることになった。
中国に「尖閣は日本領」認識の地図集 71年以前
日本政府の「領土・主権展示館」(所在地:東京・霞が関、以下、領土館)や、中国の政府機関が1971年以前に発行した公式地図や機関紙などによると、中国は尖閣諸島(所在地:沖縄県石垣市)は1971年以前は、日本領だと認識していたことが分かった。
なぜ、中国がその後、突然尖閣は中国の領土だと主張し出したのかといえば、1960年代後半に東シナ海に石油資源が大量に埋蔵されている可能性が指摘されたためだ。これを機に中国の認識が一変。石油資源の確保を巡り、尖閣に対し領有権を初めて公式に主張し出した。1971年12月のことだ。
中国の、日本でいう国土地理院にあたる中国の「国家測絵総局」(当時)直属の地図出版社が発刊した「世界地図集」をみると、明確になる。地図集の1960年版では、尖閣は日本の地図を示すページに記載されていた。ところが、1972年版になると日本のページから削除され、中国のページに追加されている。また、1960年版は尖閣の「魚釣島」をその名称のまま表しているが、手のひらを返したように1972年版になると中国政府が現在使っている「釣魚島」に変更しているのだ。
領土館はいま既述した、中国側の資料を含めた、こうした実態を詳細に理解できる資料の展示を行っている。