1 | 1843年、「天保の改革」に失敗した水野忠邦に代わり老中、1845年に老中首座となり、大胆な人材登用を行い、幕政改革を推進。ペリーと日米和親条約を締結した第7代福山藩主は、次のうち誰?
正解! 不正解! 阿部正弘 |
2 | 1853年、4隻の黒船(蒸気軍艦)を率い浦賀沖に現れたアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが携えてきた国書は、次のうちどの大統領のもの?
正解! 不正解! フィルモア |
3 | 1854年、ペリーは再び7隻の軍艦とともに江戸湾へ姿を現したが、このときの蒸気軍艦の旗艦名は、次のうちどれ?
正解! 不正解! ポーハタン号 |
4 | 締結された日米和親条約で開港した下田港ともうひとつは、次のうちどこ?
正解! 不正解! 箱館 |
5 | 米国との通商条約の締結に関する勅許を得るため京都に赴き、朝廷を説き伏せようとしたのは、次のうち誰?
正解! 不正解! 堀田正睦 |
6 | 朝廷の勅許を得ないまま1858年、アメリカ総領事ハリスとの間で通商条約に調印した大老は、次のうち誰?
正解! 不正解! 井伊直弼 |
7 | この日米修好通商条約で、日本が一方的に不利とされる点は?
正解! 不正解! 治外法権を認める |
8 | 日本は海外列強5カ国と修好通商条約を結ぶが、オランダ,ロシア,英国,米国と他の1カ国を次の中から選べ?
正解! 不正解! フランス |
9 | 13代将軍・徳川家定に子供がなかったことから、将軍継嗣をめぐり対立した二派は、次のうちどれとどれ?
正解! 不正解! 南紀派 |
10 | 大老・井伊直弼が断行した大弾圧「安政の大獄」で処刑された、越前藩主・松平慶永の側近は、次のうち誰?
正解! 不正解! 橋本左内 |
11 | わずか9歳のときに長州藩校・明倫館の教授見習となり、後に叔父、玉木文之進が主宰する「松下村塾」を継ぎ、幕末・明治維新で日本を動かした数多くの俊秀を育てた幕末の思想家は、次のうち誰?
正解! 不正解! 吉田松陰 |
12 | 水戸藩校・弘道館を設立して「水戸学」と呼ばれる尊王思想を教授し、志士たちに強い影響を与えるとともに、条約調印、将軍継嗣問題をめぐり、井伊直弼と激しく対立した人物は?
正解! 不正解! 徳川斉昭 |
13 | 大老・井伊直弼を桜田門外で暗殺した浪士は、脱藩者を含め次のうちどの藩出身者が多かったか?
正解! 不正解! 水戸藩 |
14 | 幕末、京都守護職にあった会津藩主は、次のうち誰?
正解! 不正解! 松平容保 |
15 | 幕末、京都で尊攘派・倒幕派の弾圧に活躍し、恐れられたのは次のうちどれ?
正解! 不正解! 新撰組 |
16 | 1863年8月18日、薩摩藩と会津藩が手を組み過激な尊皇攘夷派を京都から一掃するため起こしたクーデターで公家7人が京都を追放された。これを何という?
正解! 不正解! 七卿落ち |
17 | 1864年6月、尊皇攘夷派の再起をかけ、京都の旅籠で決起を画策していた長州藩士たちを新撰組が襲撃、殺傷する事件が起こったが、これは次のうちどれ?
正解! 不正解! 池田屋事件 |
18 | 1864年7月、巻き返しを図る長州藩兵が公武合体派排除を企図して京都に攻め上るが、薩摩・会津両藩兵に惨敗した事件は、次のうちどれ?
正解! 不正解! 禁門の変 |
19 | 断絶状態にあった薩摩、長州両藩の連合を実現に導いたのは坂本龍馬と誰?
正解! 不正解! 中岡慎太郎 |
20 | 「松下村塾」で吉田松陰の教えを受け、長州藩の尊攘運動の中心として活躍、民兵による画期的な軍隊「奇兵隊」を創設したのは、次のうち誰?
正解! 不正解! 高杉晋作 |
1 | 後の明治維新の三傑と称されるのは西郷隆盛、木戸孝允と誰?
正解! 不正解! 大久保利通 |
2 | 宇和島藩主・伊達宗城は洋学を重んじて殖産興業に努めたほか、長州藩のこの人を招き軍艦を建造した。それは誰?
正解! 不正解! 村田蔵六(後の大村益次郎) |
3 | 越前藩主・松平慶永は熊本藩からこの人を招き重商主義による富国強兵論で藩政を改革したが、それは誰?
正解! 不正解! 横井小楠 |
4 | 土佐藩主・山内豊信はこの人を抜擢し門閥政治の打破、専売の強化など藩政改革を断行させたが、その人は誰?
正解! 不正解! 吉田東洋 |
5 | 土佐藩は山内容堂の腹心、後藤象二郎が坂本龍馬が立案した新国家構想をもとに大政奉還を幕府に建白したが、その新国家構想とは次のうちどれ?
正解! 不正解! 船中八策 |
6 | 長岡藩家老として藩政改革を進め、兵制を近代化。新政府軍に求めた中立が認められず、戊辰戦争最大の激戦を率いたのは誰?
正解! 不正解! 河井継之助 |
7 | 戊辰戦争・長岡の戦いで、長岡藩は最新火器で武装。当時日本に3門しかなかった最新の火器のうち2門を入手していたが、それは次のうちどれ?
正解! 不正解! ガトリング砲 |
8 | 新撰組で副長を務め、後に新政府軍との戊辰戦争で甲州勝沼・宇都宮・五稜郭の戦いと転戦したのは次のうち誰?
正解! 不正解! 土方歳三 |
9 | 会津藩が、新政府軍約3万の軍勢に対抗するべく戊辰の会津戦争に際して組織したのが次の部隊だが、間違っているのはどれ?
正解! 不正解! 奇兵隊 |
10 | 1867年の大政奉還、そして王制復古の大号令が発せられ摂政、関白、幕府などの制度に代わって、新たに設けられた三職とは総裁と議定(ぎじょう)とどれ?
正解! 不正解! 参与 |
11 | 1868年、新政府軍の江戸城総攻撃が噂される中で、新政府軍と旧幕府軍を代表してこの2人が会談し江戸城が無血開城された。西郷隆盛と誰?
正解! 不正解! 吉田松陰 |
12 | 旧幕府海軍を率いて箱館・五稜郭で新政府軍と戦ったのは誰?
正解! 不正解! 榎本武揚 |
13 | 旧幕臣ら約3000人で結成された彰義隊を上野に攻め、わずか1日で壊滅させた新政府軍の司令官は次のうち誰?
正解! 不正解! 大村益次郎 |
14 | 明治初期、新政府の政策によって士族の特権は次々に失われていき、多くの士族を困窮に陥れた。そのため西日本で反乱が続出した。次の事件はいずれも不平士族が起こした反乱だが、これに該当しないのはどれ?
正解! 不正解! 天狗党の乱 |
15 | 不平士族の反乱・西南戦争は旧薩摩藩士ら約1万3000人が西郷隆盛を擁して挙兵したものだが、次のうち西郷軍に加わっていなかったのは誰?
正解! 不正解! 川路利良 |
16 | 鹿児島県には、西南戦争後の1879年まで地租改正も行われず、薩摩藩時代の因習制度が残っていた。そのうち青少年をまとめる制度は次のうちどれ?
正解! 不正解! 郷中制 |
17 | 警察制度の創始者で、大久保利通を助け明治新政府の確立に努めた薩摩藩の出身者は次のうち誰?
正解! 不正解! 川路利良 |
18 | 1872年の身分別人口データによると、農民や町人が平民になったが、全人口3313万2000人のうち、その平民の構成比率は次のうちどれ?
正解! 不正解! 90%以上 |
19 | 1873年の職業別人口データによると、農業・商業・工業などの明細に分類されているが、全人口1919万8000人のうち商業・工業を合わせた人口はおよそ次のうちどれ?
正解! 不正解! 180万人以上 |
20 | 1879年、巡査の月給10円、米一升七銭だったとき、太政大臣・三条実美の月俸はおよそ次のうちどれ?
正解! 不正解! 800円 |
1 | 徳川幕府は巧妙なシステムと鎖国などにより長期支配を実現させたが、その期間はおよそ次のどれ?
正解! 不正解! 260年 |
2 | 大名の力を抑えるシステムとして参勤交代があった。この大名行列の人数は家格・石高によって異なるが、諸大名中最大の加賀藩(102万2000石)の場合は次のどれ?
正解! 不正解! 4000人 |
3 | 加賀藩が参勤(金沢から江戸)時、約480㌔㍍に要した日数はおよそ次のうちどれ?
正解! 不正解! 12泊13日 |
4 | 参勤にかかる費用は旅籠代、川越代、幕府高官への土産代など莫大な額となった。加賀藩の場合、現在の金額に換算して、1泊の旅籠代だけで要した金額は次のうちどれ?
正解! 不正解! 4000万円 |
5 | 物資輸送のため、西廻り海運(酒田から日本海、瀬戸内経由で大坂に至る航路)および東廻り海運(酒田から津軽海峡、太平洋経由で江戸に至る航路)の海路を整備した豪商は次のうち誰?
正解! 不正解! 河村瑞賢 |
6 | 河川の水路整備によって知られた京都の豪商は次のうち誰?
正解! 不正解! 角倉了以 |
7 | 徳川幕府は陸路では日本橋を基点とする五街道を中心に全国的に街道を整備した。奥州道中、日光道中、東海道、甲州道中、後1つ五街道はどれ?
正解! 不正解! 中山道 |
8 | 徳川の幕藩体制を支えたのは、財政基盤である年貢の負担者として最重要視された農民だが、その全人口に占める比率は次のうちどれ?
正解! 不正解! 8割 |
9 | 幕府が朝廷の統制を図るため「禁中並公家諸法度」を制定した将軍は次のうち誰?
正解! 不正解! 徳川秀忠 |
10 | 1627年、幕府と朝廷が衝突した事件とは次のうちどれ?
正解! 不正解! 紫衣事件 |
11 | 大名が1年おきに領国と江戸に移り住む参勤交代を制度化した将軍は次のうち誰?
正解! 不正解! 徳川家光 |
12 | 将軍の下に老中、若年寄、三奉行(寺社・町・勘定)の制度を定めたときの将軍は次のうち誰?
正解! 不正解! 徳川家光 |
13 | 3代将軍家光は派手好みで、日光東照宮造営の57万両はじめ11回を数える日光社参や、寛永11年の上洛の際、多額のカネを使った。この上洛の際、どれくらいの行列を引き連れたか、次のうちどれ?
正解! 不正解! 30万人 |
14 | 多くの大名の改易に伴い激増した牢人の問題が社会問題化し1651年、ある兵学者が牢人、丸橋忠弥らとともに蜂起を企図した事件「慶安の変」が発覚した。この首謀者とされた兵学者は次のうち誰?
正解! 不正解! 由井正雪 |
15 | 徳川吉宗が行った幕政改革、新田開発と倹約によって財政が安定し幕府の権威が回復したが、この改革は次のうちどれ?
正解! 不正解! 享保の改革 |
16 | 吉宗の改革路線を継承し、重商主義を積極化。株仲間を奨励するなど商人を保護、殖産興業の推進に努めたのは次のうち誰?
正解! 不正解! 田沼意次 |
17 | 江戸中期の徳川家の直轄領(幕領)はおよそ次のうちどれ?
正解! 不正解! 400万石 |
18 | 徳川時代の年貢は「六公四民」が原則だったが、実際には“目こぼし”があったといわれる。そうした点を加味すると本当の農民の年貢率は次のうちどれが実態に近い?
正解! 不正解! 30~35% |
19 | 1782年、東北地方を中心に冷害、翌年には浅間山が大噴火し、溶岩流による死者は2万人余、降灰被害は10余国に及び、冷害と相まって大飢饉に発展した。この際、弘前藩では1783~1784年にかけて多くの餓死者が出た。その数は次のうちどれ?
正解! 不正解! 8万人超 |
20 | 重税や飢饉に苦しんだ民衆は、一揆や打ちこわしを起こした。これらはいずれも江戸時代に起こった一揆だが、これに該当しないのはどれ?
正解! 不正解! 永享の乱 |
「歴史に『I f 』はない」。よくいわれる言葉です。が、その「I f」があったら、その後の歴史は大きく変わっていたのではないか-というケースは決して少なくありません。いや、かなり多いといった方が的を射ているかも知れません。そんなケースをこれから一つひとつ見ていきたいと思います。
豊臣政権下では「武功派」と「文治派」の争いが生まれていました。むろん、秀吉がまだ健在だったころのことです。直接の争いは、秀吉の朝鮮出兵時に起こりました。朝鮮に渡った諸大名の監察を行うために、石田三成が派遣されました。
三成の軽率な報告が招いた、その後の歴史をを左右した”禍根”
このとき福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤清正たちは心を合わせて戦闘に従っていましたが、ある日、小康を得、たまたま碁か将棋を打っていました。その光景を、監察に来た三成が目撃、秀吉に報告しました。秀吉は怒って、諸将に引き揚げを命じたのです。このことが遺恨として残りました。前線で苦労していた諸将は、たまたま三成がやってきたときに将棋を打っていただけで、長い間のわずかな安らぎに過ぎない。それを三成は誇大に報告した-と一致して三成を恨んだのです。
「三成憎し」なければ、東軍・西軍の勢力図は大きく変わっていた
石田三成は近江(滋賀県)出身の文治派です。武功派の大名は三成を「算盤勘定と悪知恵だけで出世した奴」と軽蔑していました。ですから、三成とのこれほどの対立がなければ、これらの大名も果たして初めから徳川家康に味方したかどうか、全く分かりません。
関ヶ原の合戦で、豊臣恩顧の大名で、ひたすら「三成憎し」の思いから徳川家康に味方した人物は相当多かったのです。福島正則や加藤清正ら有力大名がそうでした。ですから、三成がそこまで武功派に嫌われていなかったら、東軍・西軍の勢力図は相当変わってしまい、様子見をしていた西軍の大名たちの戦への臨み方をも含め、勝敗の行方も分からなかったのです
豊臣家滅亡は関ヶ原の戦いで秀吉恩顧の大名を味方にできなかったためそれだけに、豊臣秀頼が大坂城から出て来て関ヶ原の合戦場に立っていたら、これらの大名はくるりと向きを変えて、秀頼のもとに駆け付けたのではないでしょうか。福島正則、加藤清正、黒田長政などはとくにそうです。そんな、秀吉恩顧の大名たちをつなぎとめ、味方にできなかったことが、豊臣
家の敗北、そして滅亡に追い込まれていくのです。
黒田長政は、小さいときに織田信長の人質となりました。父・黒田如水の行動が曖昧だったため、怒った信長が秀吉に「人質を殺せ」と命じたことがありました。が、秀吉は「そうします」といいながら、そうしなかったのです。長政の命を助けたわけです。したがって、長政にすれば豊臣秀吉は命の恩人なのです。
秀頼が戦場に赴かなかったことが、敵方の豊臣恩顧の大名を助けたその意味では、秀頼が大坂城から出なかったことは、この合戦の勝敗を決めた上で大きな役割を果たしたといえるでしょう。徳川家康にとっては実に幸運でした。周知の通り、小早川秀秋の裏切りもありましたが、それだけではありません。むしろ、この秀頼不出場の方が、影響が大きかったといえるのではないでしょうか。彼らは戦場で、敵方に恩ある太閤の遺児・秀頼の姿を見たら、とても討伐に向かえなかったことでしょう。
最後まで豊臣恩顧の大名を信用しなかった家康
それだけに、家康もこの豊臣系大名たちが、自分の味方をしても心の底からは信じませんでした。「何かあれば、彼らは必ず裏切る」と警戒していたといわれています。とくに福島正則や加藤清正に対してはその思いを深めていました。が、どうしたわけか加藤清正は、大坂の陣の前に急死しています。「徳川家康に毒饅頭を食わされた」という噂がとんだほど、彼の死に方は不自然でした。
関ヶ原の功績で120万石の大封得た福島正則は秀忠の代に改易に
福島正則は関ヶ原の合戦の功績で、毛利氏の拠点だった広島城を与えられ、120万石もの大封を得ました。ところが、家康が亡くなり、秀忠の代になって改易されてしまいました。徳川政権が安定したいま、警戒しながら大封を与えておく必要がない。「もう御用済み」というわけだ。不満があるならいつでも相手になるぞ-と威嚇されているにも等しい対応でした。
そして福島正則は辛うじて家名を残され、信州(長野県)川中島でわずかな俸禄をもらう存在にまでおとしめられてしまったのです。正則も、自分がここまで徳川将軍家に警戒され、信用されていないのだということを思い知ったことでしょう。
信長のもとで子飼いの直臣として育った氏郷
氏郷は近江国(滋賀県)日野城主だった蒲生賢秀(かたひで)の息子です。賢秀は地方豪族にしては先見の明があり、それまで佐々木源氏系の六角氏に仕えていましたが、これからは織田信長の時代になると見抜き、そこで密かに使いを出し、従属を誓いました。
信長にはそういう豪族がたくさんいたので、すべて人質を取っていました。賢秀も息子の氏郷を岐阜城に人質に出しました。岐阜城には当時100人余りの同じような少年がいたといいます。しかし、信長はその中から氏郷に目を向けていました。というのは、氏郷が非常に賢く、今日風に表現すれば“経営感覚”を持っていたからです。
楽市・楽座での”規制緩和”など信長の都市経営を学んだ氏郷
信長は、今後の大名はすべて領国経営に算盤勘定をいれなければいけないと考えていました。また、岐阜の城下町で展開した楽市・楽座で、単に呼び集めた商工業者の負担減だけではなく、今でいう“規制緩和”を積極的に
行いました。撰銭令の発布、道路を整備し物流ルートを設定したほか、関所や船番所の撤廃なども行いました。
こうした信長の新しい都市経営に、蒲生氏郷少年は目を向け、同時に信長の理念を自分のものとして体得していきました。そこで信長は人質の中でも氏郷は非常に期待できると考え、自分の娘を氏郷の嫁にしました。したがって、蒲生氏郷は信長の婿なのです。
信長の娘婿・氏郷を警戒し、会津に移封した天下人・秀吉
豊臣秀吉は巧妙な政略によって天下人の座を占めましたが、内心では若いながら人使いがうまく、人望もあるこの氏郷を恐れていました。そこで、秀吉は「伊達政宗は油断できない。これを抑えられるのはあなただけだ」とうまい名目を付け、思い切って氏郷を会津に移封しました。近畿・東海地区から何とか、危険な氏郷を遠ざけ、伊達政宗を抑える駒として使う“一石二鳥”の妙案だったのです。
会津移封で天下取りを断念した氏郷
この異動命令を受けた氏郷は、秀吉の巧みな意図をくみ取り、会津で大禄を得たにもかかわらず、「会津に行ったのでは、もはや天下の座は得られない。それが悲しい」と家臣に語り、さめざめと涙を流したと伝えられています。このことからも分かるとおり、一般にはほとんど知られていないことですが、実は氏郷にも天下取りの野望があったということです。
氏郷が近畿もしくは東海地区にとどまっていたら、“信長の婿”の立場を最大限に活かし、天下人はともかく、豊臣政権から徳川政権へ移行する過程で、少なくとも後世に残る様々な影響力を行使していたのではないでしょうか。
利休の死後、千家の息子を匿った秀郷
千利休の不慮の死の後、千家の息子たちはそれぞれ諸国に散っていきました。その一人を匿ったのが蒲生氏郷でした。秀吉は当然そのことを知っていました。現在、会津若松市にはこの千家の息子の匿われた家が、歴史的遺産として保存されています。
氏郷急死に、秀吉による毒殺説も
氏郷のこういう行為を秀吉は気に入りません。秀吉にすれば、氏郷はいぜんとして信長公の婿という誇りを持ち、自分(秀吉)に心から臣従していない。対抗心を持ち続けていると受け取ります。やがて、氏郷は京都に呼び戻され、そして急死するのです。世間では「蒲生氏郷は秀吉に毒殺された」と噂されました。
南朝勢力の帰趨を大きく左右した幕府設置場所
まず後醍醐天皇率いる吉野の南朝勢力が勢いを盛り返していたのは間違いないところです。楠木正成や新田義貞など後醍醐天皇の軍事勢力がそれまでとは違った攻勢にでることも十分考えられます。それに伴って、南朝方に付く勢力も出てきていたはずです。
ただ、それには、天皇親政のスローガン一点張りではなく、武家に対する論功行賞も約束する姿勢を打ち出すことが必要だったでしょうが。
九州で勢力を挽回した尊氏は1336年(建武3年、延元元年)4月、上洛行動を開始し、5月、楠木正成を大将とする建武政府軍を湊川の戦いで破り、6月には再び入京に成功。そして、重要なのはこのとき、尊氏が光明天皇を擁立した点です。一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も「自分こそが正統の天皇である」と主張したため、ここに北朝と南朝の二つが並立する60年にわたる南北朝の争乱が始まることになったのです。
尊氏は「鎌倉」か「京都」か、幕府開設場所を諮問
尊氏は1338年(暦応元年、延元3年)8月に待望の征夷大将軍に任命されました。将軍になれば、当然、幕府をどこに置くかという問題が、にわかに
クローズアップされることになりました。候補として挙げられたのは鎌倉と京都です。源頼朝以来の武家政権の伝統から考えると、鎌倉ということにな
るでしょう。それが、京都に決められたのはどうしてなのでしょう。
この問題を考えていくうえでヒントになるのが、1336年11月7日に制定された「建武式目」です。これは全文17カ条からなる尊氏による成文化した施政方針というべきものですが、その冒頭に、幕府をそれまで通り鎌倉に置いた方がいいか、他所(京都)に置いた方がいいか諮問した一文があります。
尊氏関係者の間でも意見が分かれていたことが分かります。上層武士たちの多くは、鎌倉にそれぞれの屋敷を持っていたため鎌倉に幕府を置くことを主
張したでしょう。尊氏の弟・直義(ただよし)は「建武の新政」のときも鎌倉の守りについていたので、鎌倉を主張したのではないでしょうか。
南朝勢力を牽制するため尊氏が「京都」に決断
ところが、鎌倉主流と思われた情勢の中で、尊氏本人は鎌倉より京都の方がよいと考えていたようです。一つは軍事的に、幕府を鎌倉に置くと、吉野にいる南朝勢力が勢いを盛り返してくる可能性があるためです。吉野の動きを牽制するためには、幕府は京都に置かなければならないという論法です。
そしていま一つは政治的な理由で、「国家行政権を握るには、国家の中央に位置する必要がある」という考え方です。鎌倉にいて朝廷をリモートコントロールするのは大変です。それで京都に幕府を置いて直接的にコントロールしようとしたのではないでしょうか。
鎌倉に幕府を置いていたら南朝の御所奪還の動きは強くなっていた
もし、尊氏が周囲の意見に押されて鎌倉に幕府を置いていたら、後醍醐天皇の配下の者たちが暗躍し、その京・御所奪還への動きは活発になっていたでしょう。後醍醐天皇はかなり自己中心的な人物だったという印象は強いのですが、よくいえば「強烈な個性でぐいぐい引っ張って行った」ということです。賢明な判断に基づいて京都に幕府を置いた尊氏が京にいたにもかかわらず、後醍醐天皇はあれだけ粘り強く戦い続けたのですから。
蘇我入鹿は周知の通り、皇極女帝の時代、「乙巳(いっし)の変」で暗殺され、それが大化の改新の口火となります。そして、蘇我本宗家が滅びます。
しかし、もしここで蘇我入鹿が殺害されず、この難を逃れていたら、彼は最終的に大王位の禅譲を受けていたかも知れません。
学識者で大陸の情勢にも明るかった入鹿
蘇我入鹿は開明的な人物で、学識も備えていました。遣隋使として中国に渡り、隋・唐と24年間にわたって留学していた僧・旻(みん)は帰国後、学問所、講堂を開いています。その講堂に入鹿も中大兄皇子、中臣鎌足も通っています。その僧・旻が「わが講堂に入る者で、宗我(蘇我)大郎(=そがのたいろう)より優れた者はいない」と伝えています。
入鹿は禅譲制で大王位に就くことを考えていた?
通説では、入鹿は大王になることまでは考えていなかったといわれているのですが、彼は相当な学識者で大陸の政治情勢や文化に明るい人物でした。
ですから、蘇我本宗家の権勢を永続させるためにも、大王位に就くことを考えたはずです。
入鹿が狙いとしたその方法が、中国帰りの学問僧たちによってもたらされた禅譲制という制度です。入鹿は、祖父・蘇我馬子の娘が舒明天皇の妃になって産んだ古人(ふるひと)大兄皇子を大王にして、その大王から位を禅譲させるという方法を考えていたようです。実はこれは、隋・唐で行われた方法なのです。
いくつもある、入鹿が大王位を意識していた傍証
蘇我入鹿が大王位を意識していた傍証は実はいくつもあるのです。『日本書紀』によると、入鹿の父・蝦夷が葛城の高宮で、中国の天子にのみ許され
る「八佾(やつら)の舞い」を行ったり、今来(いまき)に双墓をつくって、これを「大陵・小陵」と呼ばせ、大きい方を自分の、小さい方を息子の入鹿の墓と定めたとも書かれています。
それから、645年には甘橿(あまかし)丘に巨大な屋形を建て、蝦夷の家を「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、子供たちを王子(みこ)と呼ばせています。これらはすべて入鹿の発案で、彼が父の蝦夷を説得して行ったことなのです。中国では禅譲の前に権力者が皇帝と同じようなことをするのです。
最大の豪族の家に生まれたエリートの弱さが、野望を未達に終わらせた
ここまで準備しながら、入鹿の野望はなぜ成就しなかったのでしょうか。それは入鹿が最大の豪族の家柄に生まれたエリートで、人間の苦界を見ないで育った点にあるのではないでしょうか。「乙巳の変」の主導者の一人、中臣鎌足などは地を這うようにして育ち、そこからのし上がってきた人物です。そんな鎌足に比べると、やはり入鹿には性格の甘さが感じられます。入鹿の野望(=大王位)を真っ先に見抜いたのは恐らくこの鎌足でしょう。
ただ、家康のこの国替え、秀吉に全面的に屈服して受け容れたというより、天下獲りの野望を胸に秘め、入府後の江戸開発の青写真を描いたうえで決断したのではないかとの見方があります。というのは、1590年(天正19年)小田原攻めの最中、すでに家康は家臣を江戸に派遣し、詳細な実地調査をさせていたといいます。
家康の伝記『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』(1740年)によると、1590年(天正19年)7月5日の小田原城陥落に先立って、家康は5月に秀吉から関東への転封(てんぽう)の打診を受けていたといいます。そして6月には、拠点を江戸とすることを約束していたと記されています。[toggle heading=”h5″ title=”ゼロからの町づくりに家臣たちはこぞって不満もらす
しかし、この転封に対し、家康の家臣たちは大きな不満をもらしました。駿府や小田原に比べ、より京から離れた辺境の地へ国替えになるのですから当然でしょう。だが、家康は家臣たちをなだめ、北条氏滅亡後、東海5カ国を治めていた家康は、関東7カ国(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野・下野の一部)への国替えに素直に応じました。そして、自らの居城を江戸に置くことになります。
とはいえ、歴史と文化があり、ある程度発展をみせていた小田原や鎌倉を拠点とすることと比べると、江戸入府は格段にマイナスからのスタートだったことは確かです。辺境の、東国のさびれた農村・江戸での、ゼロからの町づくりは、次代の覇権を目指す戦国武将にとって大きなハンディだったといえます。朝廷、豊臣政権の影響を受けにくく発展の可能性秘めた江戸に賭ける
だが逆に言えば、これは朝廷や豊臣政権の影響を受けにくい新たな土地で、自由に町づくりができるというメリットにもつながります。江戸の背後に広がる広大な関東平野も、発展の可能性を秘めた魅力的なものでした。江戸は「海運の拠点、交通の要衝地」を認識していた家康
また、意外に知られていないことですが、江戸は昔から海運の拠点となっていたのです。江戸は西から運ばれてきた物資が荷揚げされる海の玄関口でした。家康が入る以前は、北関東と南関東の対立があまりに激しく世情が不安定だったため、江戸で政権を樹立するほどの武将が現われなかったのです。
ところが、2度にわたる朝鮮出兵などで豊臣政権が疲弊していく中で、家康は着々と関東で力を蓄え、周知の通り天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)で大勝利を収めます。その結果、天下をほぼ手中に収めた家康にとって、海運の拠点、交通の要衝としての江戸は、非常に大きなメリットであり、江戸に拠点を構えた家康の思惑が理解できるのです。
江戸幕府が諸大名に命じて行わせた「天下普請」とは、この工事にかかる費用(労務費・交通費・宿泊費)は原則として命じられた諸大名が負担しなければならない公共工事でした。
そこで、国内における徳川家の磐石な体制を築くため、敵対する可能性のある勢力に、できるだけ多くの工事=天下普請を行わせることで、金と労力を使わせて弱体化を図ること。「天下普請」の狙いは、まさにこの点にあったのです。豊臣家の経済力&権威を警戒し続けた家康
では、豊臣家の力とはどれほどのものだったのでしょうか。「関ヶ原の戦い」の敗戦後、所領が激減し、一大名に過ぎなくなった秀頼ですが、その遺産は推定値で現在の1000億円とも2000億円ともいわれる莫大な”経済力”がありました。また、その家柄からくる権威も侮れませんでした。豊臣姓は秀吉が関白に就くにあたり、朝廷から勅許を得て使用が認められた家格で、秀頼は時の朝廷との関係も強かったのです。豊臣家の経済力&権威が再び西国大名の武力と結び付き、徳川に刃向かってくるかも知れないという不安は、家康の脳裏に染み付いていたのでしょう。関ヶ原直後から西国の外様大名監視と朝廷対策の拠点の築城開始
家康は関ヶ原の戦い(1600年)が終わるや、秀頼や西国の外様大名たちを監視するための拠点を築き始めます。膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)の築城と、伏見城(京都市伏見区)の改修です。
また、朝廷対策の拠点として二条城(京都市中京区)の築城も開始します。娘婿にあたる池田輝政には居城の姫路城(兵庫県姫路市)の修築を、藤堂高虎には今治城(愛媛県今治市)の築城と甘崎(あまざき)城(愛媛県今治市)の修築を命じ、瀬戸内の海上路に砦を築くことで、中国・四国の外様大名の監視にあたらせました。10数名の大名に命じ、彦根城(滋賀県彦根市)の築城も行っています。征夷大将軍の宣下受け、名実ともに武家のトップに
1603年(慶長8年)2月、家康は念願叶って征夷大将軍の宣下(せんげ)を伏見城で受けます。将軍職に就いたということは、豊臣家の臣下という立場から脱し、自ら武家のトップとして全国の大名と主従の関係を持ち、主君となることを意味しました。徳川の世の到来でした。連日3万人以上の人夫が動員された江戸城の改修
江戸城の改修も「天下普請」の一環でした。家康の将軍宣下の翌月、天下普請による江戸の町の拡張・整備工事がスタートします。これらの工事には13組に分けられた70家の大名が参加。各大名は知行1000石当たり1人の人夫を出すように命じられました。毎日3万以上の人員が現場に動員されたであろう大公共工事でした。
築城される江戸城の規模は、秀頼の居城・大坂城をはるかに凌ぐものでした。この助役を命じられた外様大名たちに、徳川将軍家の威光を示す効果も大いにあったことでしょう。福島正則、加藤清正、前田利常ら親豊臣派大名を根こそぎ動員
1610年(慶長15年)、名古屋城の築城を命じられたのは、前年に篠山城の普請を終えたばかりの福島正則を含む西国大名20家、加藤清正をはじめとする九州大名11家、そして加賀の前田利常らでした。豊臣と関係の深い大名は根こそぎ動員させられているのです。しかも、その普請は大坂方が江戸に攻めてきた場合に備えた防衛の要を築くというものでした。
”一石三鳥”の天下普請で外様大名の牙を抜く
豊臣恩顧の大名の力を使ってその力を削ぎながら、徳川家の防衛と豊臣家を封じ込める拠点を築き、その過程で将軍家の威光をも認識させるというわけです。まさに”一石二鳥”、いや”一石三鳥”の妙案です。こうして家康の天下普請戦略の前に、多くの外様大名はその牙を抜かれていったのです。
幕藩体制確立に向け、横行した大名の改易
実は、江戸幕府による大名統制は厳しく、家康・秀忠・家光の徳川三代を通じて幕藩体制の確立に成功するのですが、この過程で多くの大名が改易となっています。福島正則49万石、小早川秀秋50万石、最上義俊57万石、松平忠輝75万石、松平忠直68万石、松平忠吉52万石、加藤忠広52万石、徳川忠長55万石、本多正純15万石といった具合です。大名が改易(領地没収)となる主な理由は、跡継ぎ断絶、武家諸法度違反、乱行でした。
大名の改易があまりに多く、これによって主君を失った武士たち(家臣)=牢人が激増、新たな社会問題に直面することになりました。そのため、四代将軍・家綱の治世下で、それまで禁止されていた「末期(まつご)養子の禁」が緩和されたほどです。こうした文治政策を推進したのが、家光の弟で将軍を補佐した会津藩主の保科正之らでした。文治政策への転換でした。
忍耐強く将軍家とつかず離れずの関係を維持した前田家=加賀藩
このように大名の改易が横行した中、無傷で徳川260年余を過ごすことができたのは、前田家が代々、ポリシーとする、将軍家とつかず離れずの関係を忍耐強く保持したからに他なりません。これを実践することは、実は生易しいことではありません。なぜなら、当時、諸大名は幕府の意を迎えるために、学問・芸能や宗教行事、日常の作法に至るまで、徳川家へ右へ倣(なら)えしていました。でなければ、いつ幕閣の機嫌を損じて改易の憂き目に遭うかも知れないと怖れたのです。
太閤治世下では「徳川とは同輩」意識、半面、恭順の意
ところが前田家は、「加賀には加賀の伝統がある」として、徳川将軍家に倣う風がなかったのです。それは、もともと徳川と前田は、太閤・秀吉治世下の武将という点では同輩で、家のしきたりはそれぞれの伝統によるべきもの-との意識が強かったからです。それが自然で無理がない-と。
とはいえ、権力者=徳川将軍家と、つかず離れずの関係を保持するには、藩主は自分自身を抑え込み、感情のコントロールを図り、将軍家に恭順の意を表するという姿勢が必要です。したがって、こうした姿勢を維持し続けるには格段の苦労があったに違いありません。
「お家第一…母を棄てなさい」と戒めた利家の正室・松子
加賀藩の藩祖・前田利家の正室・松子にこんなエピソードがあります。利家没後、徳川家康はいつかは前田家を潰そうと謀り、二代藩主・利長に「謀反の動きあり」の噂を流して揺さぶりをかけます。そんなとき、母の松子は自らすすんで人質として江戸に赴き、両家の安全に寄与しようと努めます。
その際、思い悩む息子・利長に「武士はお家第一、(徳川将軍家から、投げかけられる揺さぶり・謀りごとに対し)思い迷うことがあれば、母を棄てなさい!」ときっぱり言い切ったといわれています。松子は、利長ら子供や家臣たちが、自分の身を気づかって家を棄てることを強く戒めたわけです。
将軍家に嫌われず、媚びず、独自の伝統文化を維持
こんな松子の精神が代々、藩主に継承され、前田家の独自の伝統文化は維持しつつ、権力者=徳川将軍家に嫌われず、媚びず、つかず離れず、という何とも難しい、微妙なバランス感覚が求められる藩運営に努めたのです。
つまり幕府から無理難題持ちかけられても、耐え忍んで家を存続させ、文化の面で徳川を凌ごうと期するものがあったようです。家が滅びてしまったら、文化も何もないわけですから。
万全の防衛体制を敷き、文化にうつつを抜かす振りを貫く
そのために前田家は万全の防衛体制を敷き、それをひた隠しにし、その隠れ蓑として表看板に文化政策を華々しく掲げていたのです。「非武装」では、藩の意思は決して貫けないことを理解していたのです。
その軍備が少しでも漏れたら大変な騒動になるので徹底的に隠し、前田
は幕府に臣従して、文化にうつつを抜かしている振りを貫いたのです。幕府は絶えず隠密を放ってそれを探りますが、証拠がつかめません。しかし何となく薄気味悪いものを感じて、うかつには手出しできず、江戸時代は経過してしまいます。
見てきたとおり、前田家は危機感もなく、お人好しにのんびりと文化を楽しんでいたのではないのです。三代藩主・利常の時代、五代藩主・綱紀の時代はとくに華やかな文化が花開いた印象があります。しかし、実は表と裏があったのです。表面上、そう見えるということは、前田家歴代藩主が、それだけ演技が上手だったということでしょう。
その結果、加賀藩前田家は他には例のない、無傷のまま幕末まで百万石を超える家禄を保持できたのです。見事というしかありません。
- 北条時頼・・・策謀も駆使し他氏族を屠り、北条執権家の安定強化図る
- 保科正之・・・名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要
- 前田利家・・・壮語せず篤実な姿勢が好感され、大藩の基礎作りに貢献
- 前田綱紀・・・藩主在位78年間で加賀前田家の家風を確立した名君
- 前野良沢・・・蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者
- 槇村正直・・・東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物
- 松平春嶽・・・開明的藩政指導行うが、幕政参画後は“労”報われず
- 三浦梅園・・・死後100年以上経過して認められた「条理学」の思想家
- 山内容堂・・・武力倒幕画策の薩長尻目に「大政奉還」実現の演出者
- 山片幡桃 ・・・江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタント
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家康は入府後の江戸開発の青写真を描いたうえで決断 ゼロからの町づくりに家臣たちはこぞって不満もらす 朝廷、豊臣政権の影響を受けにくく発展の可能性秘めた江戸に賭ける 江戸は「海運の拠点、交通の要衝地」を認識していた家康
実は当初、徳川家康は江戸に居城を構えるつもりはありませんでした。周知の通り、家康に江戸を拠点とするよう命じたのは豊臣秀吉でした。秀吉は天下人となっても、最大のライバルとして警戒していたのが家康の存在で、その家康を京・大坂からできるだけ遠ざけるための策略だったともみられています。
ただ、家康のこの国替え、秀吉に全面的に屈服して受け容れたというより、天下獲りの野望を胸に秘め、入府後の江戸開発の青写真を描いたうえで決断したのではないかとの見方があります。というのは、1590年(天正19年)小田原攻めの最中、すでに家康は家臣を江戸に派遣し、詳細な実地調査をさせていたといいます。
家康の伝記『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』(1740年)によると、1590年(天正19年)7月5日の小田原城陥落に先立って、家康は5月に秀吉から関東への転封(てんぽう)の打診を受けていたといいます。そして6月には、拠点を江戸とすることを約束していたと記されています。
しかし、この転封に対し、家康の家臣たちは大きな不満をもらしました。駿府や小田原に比べ、より京から離れた辺境の地へ国替えになるのですから当然でしょう。だが、家康は家臣たちをなだめ、北条氏滅亡後、東海5カ国を治めていた家康は、関東7カ国(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野・下野の一部)への国替えに素直に応じました。そして、自らの居城を江戸に置くことになります。
とはいえ、歴史と文化があり、ある程度発展をみせていた小田原や鎌倉を拠点とすることと比べると、江戸入府は格段にマイナスからのスタートだったことは確かです。辺境の、東国のさびれた農村・江戸での、ゼロからの町づくりは、次代の覇権を目指す戦国武将にとって大きなハンディだったといえます。
だが逆に言えば、これは朝廷や豊臣政権の影響を受けにくい新たな土地で、自由に町づくりができるというメリットにもつながります。江戸の背後に広がる広大な関東平野も、発展の可能性を秘めた魅力的なものでした。
また、意外に知られていないことですが、江戸は昔から海運の拠点となっていたのです。江戸は西から運ばれてきた物資が荷揚げされる海の玄関口でした。家康が入る以前は、北関東と南関東の対立があまりに激しく世情が不安定だったため、江戸で政権を樹立するほどの武将が現われなかったのです。
ところが、2度にわたる朝鮮出兵などで豊臣政権が疲弊していく中で、家康は着々と関東で力を蓄え、周知の通り天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)で大勝利を収めます。その結果、天下をほぼ手中に収めた家康にとって、海運の拠点、交通の要衝としての江戸は、非常に大きなメリットであり、江戸に拠点を構えた家康の思惑が理解できるのです。
天下普請の狙いは豊臣恩顧の大名の金と労力使い、力を削ぐこと 豊臣家の経済力&権威を警戒し続けた家康 関ヶ原直後から西国の外様大名監視と朝廷対策の拠点の築城開始 征夷大将軍の宣下受け、名実ともに武家のトップに 連日3万人以上の人夫が動員された江戸城の改修 福島正則、加藤清正、前田利常ら親豊臣派大名を根こそぎ動員 ”一石三鳥”の天下普請で外様大名の牙を抜く
徳川家康が「天下普請」で、盛んに城郭の修築や河川の改修工事を行ったのは、ずばり大坂の豊臣秀頼、そして各地の豊臣恩顧の外様大名の力をじわじわと削いでいくためでした。
江戸幕府が諸大名に命じて行わせた「天下普請」とは、この工事にかかる費用(労務費・交通費・宿泊費)は原則として命じられた諸大名が負担しなければならない公共工事でした。
そこで、国内における徳川家の磐石な体制を築くため、敵対する可能性のある勢力に、できるだけ多くの工事=天下普請を行わせることで、金と労力を使わせて弱体化を図ること。「天下普請」の狙いは、まさにこの点にあったのです。
では、豊臣家の力とはどれほどのものだったのでしょうか。「関ヶ原の戦い」の敗戦後、所領が激減し、一大名に過ぎなくなった秀頼ですが、その遺産は推定値で現在の1000億円とも2000億円ともいわれる莫大な”経済力”がありました。また、その家柄からくる権威も侮れませんでした。豊臣姓は秀吉が関白に就くにあたり、朝廷から勅許を得て使用が認められた家格で、秀頼は時の朝廷との関係も強かったのです。豊臣家の経済力&権威が再び西国大名の武力と結び付き、徳川に刃向かってくるかも知れないという不安は、家康の脳裏に染み付いていたのでしょう。
家康は関ヶ原の戦い(1600年)が終わるや、秀頼や西国の外様大名たちを監視するための拠点を築き始めます。膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)の築城と、伏見城(京都市伏見区)の改修です。
また、朝廷対策の拠点として二条城(京都市中京区)の築城も開始します。娘婿にあたる池田輝政には居城の姫路城(兵庫県姫路市)の修築を、藤堂高虎には今治城(愛媛県今治市)の築城と甘崎(あまざき)城(愛媛県今治市)の修築を命じ、瀬戸内の海上路に砦を築くことで、中国・四国の外様大名の監視にあたらせました。10数名の大名に命じ、彦根城(滋賀県彦根市)の築城も行っています。
1603年(慶長8年)2月、家康は念願叶って征夷大将軍の宣下(せんげ)を伏見城で受けます。将軍職に就いたということは、豊臣家の臣下という立場から脱し、自ら武家のトップとして全国の大名と主従の関係を持ち、主君となることを意味しました。徳川の世の到来でした。
江戸城の改修も「天下普請」の一環でした。家康の将軍宣下の翌月、天下普請による江戸の町の拡張・整備工事がスタートします。これらの工事には13組に分けられた70家の大名が参加。各大名は知行1000石当たり1人の人夫を出すように命じられました。毎日3万以上の人員が現場に動員されたであろう大公共工事でした。
築城される江戸城の規模は、秀頼の居城・大坂城をはるかに凌ぐものでした。この助役を命じられた外様大名たちに、徳川将軍家の威光を示す効果も大いにあったことでしょう。
1610年(慶長15年)、名古屋城の築城を命じられたのは、前年に篠山城の普請を終えたばかりの福島正則を含む西国大名20家、加藤清正をはじめとする九州大名11家、そして加賀の前田利常らでした。豊臣と関係の深い大名は根こそぎ動員させられているのです。しかも、その普請は大坂方が江戸に攻めてきた場合に備えた防衛の要を築くというものでした。
豊臣恩顧の大名の力を使ってその力を削ぎながら、徳川家の防衛と豊臣家を封じ込める拠点を築き、その過程で将軍家の威光をも認識させるというわけです。まさに”一石二鳥”、いや”一石三鳥”の妙案です。こうして家康の天下普請戦略の前に、多くの外様大名はその牙を抜かれていったのです。
幕藩体制確立に向け、横行した大名の改易 忍耐強く将軍家とつかず離れずの関係を維持した前田家=加賀藩 太閤治世下では「徳川とは同輩」意識、半面、恭順の意 「お家第一…母を棄てなさい」と戒めた利家の正室・松子 将軍家に嫌われず、媚びず、独自の伝統文化を維持 万全の防衛体制を敷き、文化にうつつを抜かす振りを貫く
江戸時代、全国で多くの藩が改易や、藩の取り潰しを経験した中、これはかなり稀有なケースといえますが、加賀藩・前田家は、遂に百万石を超える家禄を幕末まで維持し、生き抜きました。
実は、江戸幕府による大名統制は厳しく、家康・秀忠・家光の徳川三代を通じて幕藩体制の確立に成功するのですが、この過程で多くの大名が改易となっています。福島正則49万石、小早川秀秋50万石、最上義俊57万石、松平忠輝75万石、松平忠直68万石、松平忠吉52万石、加藤忠広52万石、徳川忠長55万石、本多正純15万石といった具合です。大名が改易(領地没収)となる主な理由は、跡継ぎ断絶、武家諸法度違反、乱行でした。
大名の改易があまりに多く、これによって主君を失った武士たち(家臣)=牢人が激増、新たな社会問題に直面することになりました。そのため、四代将軍・家綱の治世下で、それまで禁止されていた「末期(まつご)養子の禁」が緩和されたほどです。こうした文治政策を推進したのが、家光の弟で将軍を補佐した会津藩主の保科正之らでした。文治政策への転換でした。
このように大名の改易が横行した中、無傷で徳川260年余を過ごすことができたのは、前田家が代々、ポリシーとする、将軍家とつかず離れずの関係を忍耐強く保持したからに他なりません。これを実践することは、実は生易しいことではありません。なぜなら、当時、諸大名は幕府の意を迎えるために、学問・芸能や宗教行事、日常の作法に至るまで、徳川家へ右へ倣(なら)えしていました。でなければ、いつ幕閣の機嫌を損じて改易の憂き目に遭うかも知れないと怖れたのです。
ところが前田家は、「加賀には加賀の伝統がある」として、徳川将軍家に倣う風がなかったのです。それは、もともと徳川と前田は、太閤・秀吉治世下の武将という点では同輩で、家のしきたりはそれぞれの伝統によるべきもの-との意識が強かったからです。それが自然で無理がない-と。
とはいえ、権力者=徳川将軍家と、つかず離れずの関係を保持するには、藩主は自分自身を抑え込み、感情のコントロールを図り、将軍家に恭順の意を表するという姿勢が必要です。したがって、こうした姿勢を維持し続けるには格段の苦労があったに違いありません。
加賀藩の藩祖・前田利家の正室・松子にこんなエピソードがあります。利家没後、徳川家康はいつかは前田家を潰そうと謀り、二代藩主・利長に「謀反の動きあり」の噂を流して揺さぶりをかけます。そんなとき、母の松子は自らすすんで人質として江戸に赴き、両家の安全に寄与しようと努めます。
その際、思い悩む息子・利長に「武士はお家第一、(徳川将軍家から、投げかけられる揺さぶり・謀りごとに対し)思い迷うことがあれば、母を棄てなさい!」ときっぱり言い切ったといわれています。松子は、利長ら子供や家臣たちが、自分の身を気づかって家を棄てることを強く戒めたわけです。
こんな松子の精神が代々、藩主に継承され、前田家の独自の伝統文化は維持しつつ、権力者=徳川将軍家に嫌われず、媚びず、つかず離れず、という何とも難しい、微妙なバランス感覚が求められる藩運営に努めたのです。
つまり幕府から無理難題持ちかけられても、耐え忍んで家を存続させ、文化の面で徳川を凌ごうと期するものがあったようです。家が滅びてしまったら、文化も何もないわけですから。
そのために前田家は万全の防衛体制を敷き、それをひた隠しにし、その隠れ蓑として表看板に文化政策を華々しく掲げていたのです。「非武装」では、藩の意思は決して貫けないことを理解していたのです。
その軍備が少しでも漏れたら大変な騒動になるので徹底的に隠し、前田
は幕府に臣従して、文化にうつつを抜かしている振りを貫いたのです。幕府は絶えず隠密を放ってそれを探りますが、証拠がつかめません。しかし何となく薄気味悪いものを感じて、うかつには手出しできず、江戸時代は経過してしまいます。
見てきたとおり、前田家は危機感もなく、お人好しにのんびりと文化を楽しんでいたのではないのです。三代藩主・利常の時代、五代藩主・綱紀の時代はとくに華やかな文化が花開いた印象があります。しかし、実は表と裏があったのです。表面上、そう見えるということは、前田家歴代藩主が、それだけ演技が上手だったということでしょう。
その結果、加賀藩前田家は他には例のない、無傷のまま幕末まで百万石を超える家禄を保持できたのです。見事というしかありません。