北条時頼・・・策謀も駆使し他氏族を屠り、北条執権家の安定強化図る

 北条時頼は鎌倉幕府の第五代目執権だ。能楽『鉢の木』に登場する時頼は、花も実もある、立派な為政者に仕立て上げられている。それは温和で最も実直なイメージの三代泰時に重なる。だが、実態は陰の主役となって、血なまぐさい陰謀の数々をやってのけ、執権家としての北条氏の基礎を初めて確立した二代義時の姿に近い人物だった。つまり、時頼こそ北條氏の“執権らしい執権”だったのだ。

 北条時頼は、北条時氏を父とし、安達景盛の娘(後の松下禅尼)を母として生まれた。幼名は戒寿丸、通称は五郎。11歳のとき祖父泰時の邸で元服。烏帽子親は当時、鎌倉府の首長だった摂_将軍、藤原(九条)頼経(よりつね)だ。1243年(寛元元年)、左近将監に任ぜられ従五位下に進んだが、1245年(寛元3年)、四代目執権北条経時と図って、時頼は27歳の将軍頼経を辞任させ、子の頼嗣を新将軍の座に据えてしまった。頼経の年齢が、ロボットとして操りにくい段階にまで達したからだった。この交替からまもなく、経時が病死したため、執権職は弟の時頼に回ってきた。

 経時の死が、23歳という若死にのせいもあり、不可解な部分もある。権位への野望のために時頼が兄を殺したのではないかとの疑問だ。何故なら、兄を立てるなら経時の遺児たちが幼少の間、一時政権を預かったにせよ、成長後はこれを返上してやるはずなのだ。しかし、経時の子供たちはいずれも出家し、経時の系統はそのまま絶えてしまっている。そして、この後、代々得宗として一族の上に君臨したのは時頼の子孫なのだ。それだけに、黒い噂がより真実味を帯びてくる。

 しかし、五代目執権職に就いた20歳の時頼はしたたかだった。時頼の強引なやり口に疑惑と反感の目を向ける者には、一門であっても、反対に彼らを挑発し、機先を制して屠ってしまう。三浦一族に対してもそうだった。

 三浦氏は、幕府の創業時代から目覚しい武威を持ちながら常に北条氏の走狗となって裏切り、煽動、離間など血みどろ仕事の先棒担ぎ、他族の蹴落としに一役買ってきたため、北条側の弱味も握っており、時政(初代)や義時(二代目)、泰時(三代目)にさえ一目置かせていた存在だったのだ。当然、時頼にとっても目の上の瘤(こぶ)だった。そこで彼は謀略の限りを尽くして三浦氏を挑発し、虚をついて、これを滅亡させた。こうして彼は北条執権家の基盤の、より一層の安定強化を図ったのだ。

 時頼は30歳で出家し、嫡男の時宗が幼弱だったため一時、執権職を一門の長時に譲ったが、なお最高指導者としての活動はやめず、自宅で秘密会議を開き、重要政務を決定した。時頼は37歳で亡くなったが、やり遂げた仕事の量は、彼が生きた歳月の量をはるかに上回っていたといえる。
 六代目長時のあとは泰時の弟で当時、長老的な立場にあった政村が担当、時宗を連署(副執権)とし、その成長を待って八代目を時宗に譲った。

 130年、十六代にわたって執権職を務めた北条氏。これほど長きにわたって権力を保持するにはどすぐろい、権謀術策の限りを尽くし、さぞかし人間的に“欲望の塊”と化した人物が揃っていたのだろうと思いたくなるところだ。だが、違うのだ。確かに、得宗と呼ばれている宗家嫡流の権力保持には、後世の人々に陰険な氏族として毛嫌いされているにもかかわらず、一人ひとりの生き方は、権位にありながら珍しいほど清潔だった。藤原道長、平家の公達、足利将軍義満、義政、豊臣秀吉、徳川家斉ら数多い。ところが、北条執権職を務めた人物のうち、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した者は、十四代の高時を除いてほとんど見当たらない。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

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