狩野派屏風2点見つかる 狩野孝信・山楽 15年特別展示
京都国立博物館(京都市東山区)は12月5日、桃山時代を代表する絵師、狩野永徳の次男、狩野孝信(1517~1618年)と、京狩野の祖、狩野山楽(1559~1635年)がそれぞれ描いた屏風2点が見つかったと発表した。今回、両者の作品と認定されたのは孝信の「北野社頭遊楽図(きたのしゃとうゆうらくず)屏風」と、山楽の「槇に白鷺図(まきにしらさぎず)屏風」。2015年4月7日~5月17日の特別展で展示される。
簡素な恭仁京・朝堂院南門 短期間での造営を裏付け
奈良時代に聖武天皇が造営した恭仁宮(くにきゅう、京都府木津川市)の朝堂院の南門は、掘っ立て柱を使った簡素な門だったことが12月3日、分かった。奈良時代の宮殿は、礎石の上に柱を据える工法が主体。ところが、南門跡は幅約15 ㍍のうち開閉部が約6㍍と当時では大規模だが、礎石の上に柱を据える工法は取られていなかった。聖武天皇が短期間に遷都を繰り返し、その一つが恭仁京だけに、京都府教育委員会では「短期間で建てられたことが裏付けられた」としている。恭仁京は740年、平城京から遷都したが、4年後に廃都となった。モデルとした平城京は何度も建て替えられており、府教委は平城京の初期の姿を研究するうえで貴重な発見だとしている。
文豪・漱石が読者の学生に宛てた未公開書簡発見
夏目漱石(1867~1916年)が面識のない学生に宛てた未公開書簡が発見され、文豪が晩年を過ごした東京都新宿区に寄託された。学生が自作を読み込んでくれたのを喜ぶ内容で、「あなたが私の作物から一種の感化をそれがあなたの処世上もしくは思想上役に立ってゐるなら甚だ嬉しい」「あなたの手紙を読んで多大の愉快を感じた」、そして「私の出来る事なら何でも云って御寄(およこ)しなさい」と結ばれており、漱石の優しさがにじみ出ている。
書簡の消印は1909(明治42)年12月10日付で、東京高等師範学校(現筑波大)学生、荒木秀一宛て。この時期の漱石は「それから」を書き終えて疲弊し、勤務する朝日新聞で文芸欄を開始するなど多忙を極めていた。
解体修理中の
解体修理中の薬師寺東塔で「版築層」の基壇見つかる
薬師寺などは12月2日、解体修理中の薬師寺東塔(奈良市、国宝)で、土台部分にあたる基壇が見つかったと発表した。この基壇に、バウムクーヘンのように何層にも土を突き固めたとみられる「版築層」を確認した。基壇は東西12.7㍍、南北12.4㍍、高さは1.1㍍以上。版築層の厚さは各層2.5~6㌢と非常に薄く、発掘した奈良県文化財研究所と奈良県立橿原考古学研究所は「丁寧に細かく突き固めていたので、現在まで保たれていたのではないか」と話している。東塔は薬師寺が平城京へ移された奈良時代から現在まで伝わる唯一の建築とされ、基壇の本格的な発掘は今回が初めて。
谷崎の恋愛模様示す288通の書簡など遺族が保管
文豪、谷崎潤一郎(1886~1965年)と、妻松子やその妹重子らの間で交わされた未公開の書簡計288通を遺族が保管していたことが11月25日分かった。谷崎が松子との結婚に際し「忠僕として御奉公(ごほうこう)申上(もうしあげ)主従の分を守り候(そうろう)」などと綴った「誓約」の手紙も含まれる。女性崇拝をモチーフにした谷崎作品と、密接に結びついた恋愛模様を伝える貴重な資料だ。
松子や重子は、代表作「細雪」に登場する4姉妹のモデルとされる。書簡は谷崎が書いたものが180通、松子が95通、重子が13通で、谷崎が松子と出会った27年から谷崎晩年の63年までの36年間に交わされた。
南方熊楠の自画像発見 奈良県五條市の旧家で
生態学や民俗学の先駆者として知られる博物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす、1867~1941年)の自画像を描いたはがきが、奈良県五條市近内町の旧家「藤岡家住宅」(国登録有形文化財)で見つかった。熊楠が1921年11月に元官僚で当主の藤岡長和に宛てたもの。自画像は上目遣いの迫力ある表情で、縦じまの黒いどてらをまとって紺の帯を締めた姿。右手に巾着を持ち、左手を差し出している。
「おや方が おや方那(な)くて 暮の秋」「原首相殺され 嚢中偶(のうちゅうたまたま)空ときたので」とあり、4日前に発生した、官僚の親方である原敬首相暗殺事件に触れる一方、財布が空になったと伝える。ちゃめっ気で描いたと考えられる、熊楠らしいはがき–と専門家はみている。専門家によると、熊楠は自画像をいくつか描いているが、こうした写実的な描写は珍しいという。
紀元前2世紀「有柄式銅剣」の鋳型片 福岡で初出土
福岡県春日市教育委員会は11月12日、同市須玖南の須玖タカウタ遺跡で、握り手のある「有柄式銅剣」の鋳型片が出土したと発表した。弥生時代中期前半(紀元前2世紀中ごろ)の朝鮮半島系のものとみられる。有柄式銅剣の出土例は佐賀県・吉野ケ里遺跡など国内3カ所であるが、鋳型の出土は朝鮮半島も含めて初めて。
同遺跡の近くには「奴国の王都」と推定される須玖遺跡群の中核、須玖岡本遺跡がある。今回見つかったのは剣の柄の部分の石製鋳型のの一部(長さ13.2㌢、幅2.2㌢)。黒く変色した部分があり、実際に鋳造した可能性が高いとみられる。また、青銅器を量産できる日本最古の土製鋳型も大量に出土した。同市教委は、奴国の高度な生産技術を示す貴重な発掘成果だとしている。
清水寺で15世紀「応仁の乱」で焼失「轟門」礎石確認
京都府教育委員会は11月11日、清水寺(京都市東山区)の重要文化財「轟(とどろき)門」の解体修理に伴う発掘調査で、15世紀中ごろの礎石が見つかったと発表した。現在の轟門は1633年の建立。今回南半分の地中を調査したところ、それより古い遺構が四つの時期にわたって確認された。このうち15世紀のい遺構で見つかった礎石1個は幅約50㌢、奥行き約40㌢、高さ約25㌢。礎石と同時代の土に焼けた跡があることから、門は応仁・文明の乱で焼失したとみられる。その前後の年代の地層でも、礎石を据えた穴の遺構や瓦の一部が見つかり、江戸初期までの約200年間に少しずつ位置をずらして、頻繁に建て替えられたことも分かった。門の変遷を裏付ける史料となりそうだ。
平安期の東北の英雄アテルイらに思い馳せ、記念の法要
平安時代の蝦夷の英雄、アテルイとモレの顕彰碑が建立されて20年を記念する法要が11月8日、碑が建つ京都市東山区の清水寺で営まれた。二人にゆかりのある岩手県と福島県の関係者や、関西在住の東北出身者ら約150人が集い、1200年前の歴史に思いを馳せた。
アテルイとモレは当時の東北地方の指導者で、平安時代、桓武天皇の御世、朝廷から派遣された征夷大将軍・坂上田村麻呂らと数次にわたり激闘を繰り広げた。勝利した田村麻呂は二人を連れて都に凱旋し、朝廷に二人の助命を嘆願したが、許されず、処刑されたと伝わる。関西在住の岩手県出身者が、田村麻呂ゆかりの清水寺に二人の碑を建てさせてもらえるよう持ち掛け、平安遷都1200年に合わせて1994年に実現した。
古墳壊し敷地造成、藤原宮・大極殿院建設の痕跡
奈良文化財研究所は11月6日、694年に造営された藤原宮跡(奈良県橿原市)の発掘調査でで、天皇が即位などの重要儀式を行う地区「大極殿院」から、古墳を囲んでいた周溝の跡や埴輪片が見つかったと発表した。当初あった古墳を壊し、敷地を造成したとみられる。大極殿院は東西約120㍍、南北約170㍍の区画で、中心に大極殿があり、内庭を挟んで南側に南門があった。石敷きの内庭の下の地層から古墳の周溝が見つかった。
周溝は幅約1.5~2㍍の弧状の溝で、形状などから古墳は直径約12~15㍍の円墳とみられる。円筒埴輪の一部や土器などが出土し、周辺から耳環や管玉など古墳の副葬品らしい遺物も見つかった。墳丘を削って平らにし、宮を造営したらしい。藤原宮跡ではこれまで、大極殿院の南側でも別の古墳の周溝の一部が見つかっている。たとえ古墳を壊すことになったとしても、大和三山に囲まれた景勝の地に宮を造営することが大切だったものとみられる。
平城京天平祭2014~花と古のフェスティバル~ 11/1~
奈良市・平城宮跡で11月1~9日、「平城京天平祭2014~花と古のフェスティバル~」が開催される。期間中、大極殿・広場、朝堂院で花絵巻、花桟敷、竹の四神(朱雀、青龍、白虎、玄武)、風車が奏でる黄龍の風、、巨大木琴などが常設展示されるほか、平城宮跡周遊謎解きイベントが行われる。
また、土・日・祝日には朱雀門などで衛士 隊、広場では古代行事「万葉蹴鞠(けまり)」がそれぞれ再現される。天平時代の衣装を身に着けたり、蹴鞠の体験コーナーもある。東院庭園では雅楽と舞で表現する「よみがえる古都の宴」と題した、天平時代の宴が再現される。このほか、土・日・祝日には地元の名店など奈良のおいしいが集まった飲食物販&ものづくり体験コーナーが設けられる。
大阪城 豊臣時代の本丸と内堀 現代の技術で921億円
ゼネコン大手、大林組が1983年、豊臣時代の本丸と内堀を現代の技術で再現したらいくらかかるのか、極めて興味深い試算をしている。これによると、土木工事は、土の掘削など50億円、石積み480億円、その他付帯工事30億円、建築工事は、天守閣40億円、表御殿53億円、奥御殿54億円、その他(櫓、門、塀など)73億円。建築工事は計221億円。土木を含めた総工費は781億円となる。1983年に比べ消費者物価は18%上昇しているので、その分を修正すると921億円となる。
ただ、これはあくまでも本丸の工事代。豊臣時代の大阪城は、その外側に二の丸、惣構があった。見積もりでは石垣にとくに金がかかっている。より大きな外堀の工事を含む総事業費となると、かなり膨らむはずだ。
両界曼荼羅図 東寺・灌頂院で10/31から初の一般公開
真言宗の最重要儀式「後七日御修法(ごしちにちしほ)」の本尊として使われる重要文化財・両界曼荼羅(まんだら)図(元禄本)が10月31日から、東寺・灌頂院(かんじょういん)(京都市南区)で初めて一般公開される。これに先立ち24日に報道陣に公開され、暗い堂内に色鮮やかな仏の姿が浮かび上がった。
両界曼荼羅図は胎蔵界、金剛界の2幅(各約4㍍四方)あり、公開されるのは空海が唐から持ち帰った原本を1693年(元禄6年)に書き写したもの。後七日御修法は平安時代、国家の安泰を祈るため空海が宮中で営んだのが始まりとされている。一時の中断を経て現在も毎年1月8~14日に灌頂院で営まれる。
卑弥呼の箸墓古墳にそっくり 京都府向日市・五塚原古墳
京都府向日市の前方後円墳・五塚原(いつかはら)古墳(3世紀後半)が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ)とほぼ同じ形状で、同種の築城技術が使われていることが分かった。向日市埋蔵文化財センターと立命館大が10月16日発表した。最新の測量データ や発掘成果を比較したもので、宮内庁の陵墓として立ち入りができない箸墓の構造を知る手掛かりになる。五塚原は初期の倭王権を支えた有力首長の墓と推測されている。全長約91㍍は同約280㍍の箸墓の3分の壱の規模。墳丘測量図の比較から箸墓をモデルにつくられたとみられてきた。
「平安時代の役人も出世したい」鳥取県大桷遺跡で土器出土
鳥取県教育文化財団調査によると、鳥取県大桷(だいかく)の「大桷遺跡」(9~10世紀前半)から出土した平安時代前期の土器に「位能上(くらい よくあがれ)」と判読できる文字が記されていたことが分かった。同遺跡からは役所跡だったことをうかがわせる出土品が数多く見つかっており、同財団は「古代の役人が、出世したいという思いを込めて書いた可能性がある」としている。 土器は直径12.8㌢、高さ4.8㌢の須恵器。食器の一部とみられ、文字は底部に記されていた。遺跡から出土した建物群跡の東側の流路から和同開珎などの銅銭、役人が身に着けた装飾具ほかの墨書土器約20点とともに見つかった。
東奈良遺跡で「れんが」出土 鎌足の隠居地説裏付ける
大阪府茨木市教育委員会は10月10日、同市東奈良遺跡で出土した古代のれんが「摶(せん)」は、藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳(大阪府高槻市)のものと酷似していることが分かったと発表した。遺跡周辺は、大化の改新のきっかけとなった「乙巳(いっし)の変」(645年)前に、鎌足が隠居した別邸「三島別業」があったとされ、、隠居地説を裏付け、あるいは補強する遺物となりそうだ。
東奈良遺跡で出土した摶の破片は横13㌢、縦18㌢、厚さ4㌢。遺跡の約7㌔北にある阿武山古墳で見つかった摶と比較したところ、厚さや表面ン位ある同じ円文様の大きさ、ヘリ部分にある文様を消す特徴などが共通しており、同じ工場で作られた可能性があるという。
日本書紀によると、鎌足が乙巳の変前、皇極天皇に新たに役職に就くように求められたが断り、三島別業に籠もった。乙巳の変に向け綿密な作戦を練るためだったと考えられている。大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏ゆかりの地されるが、三島別業の場所はよく分かっていなかった。藤原氏の氏寺がある奈良市の興福寺に残された文献から、遺跡近くの茨木市沢良宜(さわらぎ)だったとの説がある。
唐招提寺で特有の奈良三彩瓦の破片65点出土
奈良県立橿原考古学研究所は10月9日、唐の高僧鑑真(688~763年)が建立した唐招提寺(奈良市)で、3色の釉(うわぐすり)を使用した奈良三彩の瓦の破片が65点見つかったと発表した。破片が見つかったのは寺の僧房にあたる西室跡の東の溝。見つかった破片の最大のものは幅22.5㌢、通常の瓦より小型で摩耗が少ないため、建造物に伴う屋外の瓦ではなく、屋内の施設で使用されていたとみられる。同寺以外では見られない鮮やかな波状の文様が施されていた。
同研究所では「鑑真が住んでいたとされる西室付近で、室内にあった(仏像などを安置する)厨子(ずし)に葺(ふ)いていたのかも知れない」とみている。 奈良三彩瓦は平城京跡や東大寺、法華寺などでも出土しているが、今回の瓦は唐招提寺特有の波状の文様が施され、使用されている白い粘土にも混入物がなかった。
織田信長の”幻の上洛作戦”裏付ける書状14通見つかる
熊本県立美術館、熊本大、東京大は10月3日、織田信長が天下統一に向け1568年に上洛する2年前に計画した”幻の上洛作戦”を裏付ける、足利将軍家側近の書状を発見したと発表した。計画の存在は知られていたが、書状により信長が予定していた上洛の経路が具体的に判明。日付から計画が実行直前で頓挫したことも分かるという。
書状は室町幕府13代将軍・足利義輝の暗殺後、京都を逃れた義昭(後の15代将軍)の側近らが署名した計14通で、いずれも1566年(永禄9年)8月28日付。幕府再興を目指す義昭と側近が伊賀(三重県)や山城(京都府)など京都周辺の勢力に宛てたもので、「御入洛の御供として織田尾張守参陣し候」と、義昭の上洛で信長の協力を得たことを示し、自らに味方するよう呼びかける内容。宛先などから信長らは尾張(愛知県)から北伊勢(三重県)、甲賀(滋賀県)、矢島(滋賀県)を経て京都に入る予定だったことが分かる。
「定日(じょうじつ)次第に御使(おつかい)を差し越さるべく候」と、上洛日程が決まり次第、使者を送ることも託したが、書状の日付の翌29日、近江の有力大名、六角氏が義昭側から離反、計画は頓挫した。
1億3000万年前の地層から新種の淡水魚化石 石川県
石川県白山市教育委員会は10月1日、白亜紀前期の約1億3000万年前の地層から発掘された化石が「シナミア科シナミア属」に分類される新種の淡水魚類と分かったと発表した。同市教委によると、シナミア属の化石が中国以外で確認されたのは初めて。1日付の学術誌にも掲載された。新種の学名を地元にある神社の名から取り「シナミア ククリヒメ」と命名した。
化石は厚さ1ミリ弱、長さ7ミリ前後のうろこの化石などがあり、シナミア科の淡水魚の特徴と一致した。頭蓋骨にえらぶたと下顎をつり下げる舌顎骨(ぜつがくこつ)の化石も見つかり、中国の白亜紀の地層から見つかった6種のシナミア属のものと形や年代が異なることから、新種と判断した。
快慶作・執金剛神立像内部から僧重源の依頼裏付ける古文書
高野山文化財保存会は9月26日、高野山・金剛峯寺(和歌山県高野町)が所蔵する仏師・快慶作の「執金剛神立像」(国重要文化財)の内部から「建久8(1197)年」や、鎌倉時代に、焼失した東大寺を再興した僧・重源を示す「南無阿弥陀仏」とした古文書が見つかったと発表した。
重源が自らの活動を記した記録「南無阿弥陀仏作善集」に、高野山の寺に納めた仏像として「執金剛身深蛇大将像」などの記述があり、今回の古文書も仏像が重源の依頼で造られたことを改めて裏付けるという。像は木造で高さ1.5㍍。2011年には内部から仏師が快慶であることを示す墨書も見つかっていた。この仏像と一対で造られた深沙大将立像も快慶の作とされる。
若き日の横山大観 香川の実業家に外遊資金求める手紙発見
日本画の巨匠・横山大観(1868~1958年)が明治期、外遊資金の提供を香川県の実業家に求めた手紙が、香川県坂出市の鎌田共済会郷土博物館で見つかった。当時まだ画壇で評価されていなかった時期で、海外で見聞を広め、新しい画風を確立しようとした大観の姿が浮かび上がる。
34歳だった1902年(明治35年)9月と11月、日本美術院でともに研讃を積んだ同県出身の画家・尾崎仲七(雅号・秀南)に宛てた2通。秀南は坂出市の醤油会社社長の鎌田勝太郎宅に居候しており、資金調達のため、作品の頒布会への加入を鎌田に持ち掛けた内容となっている。大観は1903~05年、インドや米英を歴訪、各国で評価を得た。
宮沢賢治が級友に宛てたはがきなど新資料11点見つかる
秀明大(千葉県八千代市)は9月24日、詩人で作家の宮沢賢治(1896~1963年)が学生時代の級友に宛てたはがき8枚など資料11点が新たに見つかったと発表した。真面目で堅いイメージに偏りがちな賢治の、明るくユーモラスな一面が分かる貴重な資料だ。生前、唯一出版された詩集「春と修羅」(1924年)の背表紙をブロンズに塗りつぶした珍しい本も含まれている。
いずれも同大の川島幸希学長が昨年、東京都内の古書店で入手した。書簡は盛岡高等農林学校(現・岩手大農学部)時代の同級生だった成瀬金太郎(1896~1994年)宛て。成瀬が卒業後に働いていたポナペ島(現ミクロネシア連邦ポンペイ)に送った18年4月18日付の手紙では、同封した絵はがきについて<ヌスムモノガアッタラ ヒドイメニアワセテヤリマショウ>と冗談めかして書いている。
また、「春と修羅」の背表紙に、歌人で国文学者の尾山篤二郎が「詩集」と入れたことが賢治には心外で、知人宛てに「ほんの粗硬な心象スケッチ」「ブロンヅの粉で、その二字をごまかして消したのが沢山ある」などと書いたことが知られていた。
最古級平仮名は古今和歌集の「幾世しも…」新説発表
仏教大学の南條佳代講師は9月22日までに、日本の最古級平仮名は最初の勅撰和歌集『古今和歌集』にある「幾世しも」の歌とする新説を、同大学の紀要に発表した。最古級平仮名は、平安京にあった貴族、藤原良相邸宅跡(京都市中京区)で2011年に出土した土器片(9世紀後半)に記されていた文字という。この土器片には約40字書かれているが、意味がよく分かっていなかった。当時、文字の練習に和歌を書いたとみられ、初期平仮名の姿を知る有力な史料になりそうだ。
南條講師が分析したのは、土師器(はじき)に記された平仮名。これまでの京都市埋蔵文化財研究所の記者会見資料などでは、中心部の文字は「いくよしみすらキれ
「雑賀衆・沙也可」を和歌山市の観光振興につなげたい
紀州の異能の”鉄砲集団”として日本史(戦国時代)にその名を残す「雑賀衆(さいかしゅう)」。戦国時代、現在の和歌山市を拠点に勢力を張り、天下取りを目指していた織田信長軍らを相手に戦功を立てた。後に豊臣秀吉に滅ぼされたが、地元では頭領の雑賀孫市(まごいち)は今も市民に親しまれ、春と秋にはまちおこしの祭りが開かれている。この孫市の長男、孫市郎の足跡をたどり、和歌山市の有志らが観光振興につなげようと計画している。
それは、この孫市郎が秀吉の朝鮮出兵に鉄砲頭として従ったものの、投降し、そのまま居着いたとする説がある。韓国では「沙也可(さやか)」と呼ばれていた。子孫と呼ばれる人たちが多く住む韓国・大邱(テグ)には2012年、沙也可の足跡や日韓の文化を紹介する韓日友好館がオープン、2階には「和歌山コーナー」も設けられた。
「雑賀衆・沙也可で街おこしの会」の辻健会長によると、沙也可が日本を語った文献は残っておらず、あくまでも説の一つにとどまる。しかし、辻さんはこれを和歌山市の観光振興につなげ、行く行くは当地での日韓首脳会談開催を夢見る。雑賀衆のルーツと末裔に友好促進の願いを託している。
豊臣秀長の郡山城の天守は5階? 礎石群見つかる
奈良県大和郡山市教育委員会は9月12日、豊臣秀吉の弟、秀長が城主だった郡山城(奈良県大和郡山市)の跡で、天守を支えた礎石群(16世紀末)が見つかったと発表した。店主は礎石の配置などから1階は南北約18㍍、東西約15㍍の5階建て程度に復元できるという。金箔が一部に残る瓦も、城内から初めて出土した。
豊臣政権期の築城で様相が明らかな城は少なく、同市文化財係でも城郭構造や築城技術の発展を考えるうえで重要–としている。郡山城の天守に関する史料はほとんどなく、築造年代も不明で、天守の存在を疑う説もあった。今回出土した瓦の形や製作技法、天守台上面に再建や修復の痕跡がないことから秀長らが居城とした16世紀末の築造と判断した。
西本願寺の文書に残る土方歳三ら新選組の日常・実像
浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)に残された幕末の文書から、新選組は西本願寺に駐屯した当時の様子を示す記録が見つかった。本願寺史料研究所が9月2日発表した。
新選組が駐屯を始めた直後、寺に多額の借金を願い出たり、隊士の待遇改善を副長の土方歳三自らが寺側に直談判したりするなど、組織維持に苦心したさまが浮かび上がる。研究所が当時の日記やメモ書きを精査。新選組に関する記述が14カ所で見つかった。
新選組は1865年(元治2年)3月、壬生寺周辺から西本願寺の北集会所に移り、2年余り駐屯。記録には駐屯を始めた11カ月後の3月2日に「金五百両也」「新選組ヨリ拝借願ニ付、今日御貸下ニ相成候事」との記述があり、寺が200両、残りを商人から工面していた。
伊能忠敬の北海道図に新事実「間宮林蔵が測量」
江戸時代後期に伊能忠敬(1745~1818年)測量隊が作製した蝦夷地(現 北海道)国の完成版が、探検家・間宮林蔵(1780~1844年)が測量したデータを基に作られた可能性が高いことが8月18日、伊能忠敬研究会と関連団体「InoPediaをつくる会」の調査で分かった。
伊能は1800年に道南の松前から東海岸の厚岸あたりまでを測量、第1次測量図を作製したが、没するまで道内の他地域は未踏だった。このため、北海道全体を詳細に描いた完成版は、伊能の測量と弟子で同地を長期間調査した間宮の測量を合わせて作製したと考えられてきた。
しかし今回、国立公文書館・内閣文庫の第1次測量図と最終版の北海道図をコンピューターで重ね合わせたところ、双方の測量線がほぼ全域にわたってずれていることが分かった。このため、両会は間宮が、伊能が測量した地域を測量し直して完成版を作製したと結論付けた。
異例の和製ピラミッドに興奮、奈良・都塚古墳で説明会
古代の大豪族、蘇我氏の礎をつくった蘇我稲目(570年没)の墓との見方が出ている奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)で8月16日、市民向けの説明会が合った。午前中に考古学ファンら約1200人が詰めかけ、田んぼのあぜ道に長い列をつくった。
都塚古墳は、同村教育委員会と関西大考古学研究室が調査し、墳丘が階段状に石積みされた、日本では例のないピラミッド型と判明。一辺約40㍍と当時の天皇陵にも匹敵する大型方噴だったことも分かった。
この古墳の被葬者として蘇我稲目が有力視されるのは、子の蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(7世紀前半)が、この都塚古墳からわずか約400㍍しか離れていない地にあるからだ。この一帯は当時、蘇我氏のいわば本拠地だったとされる。
漱石が病気の妻を思いやる心情を子規に吐露
夏目漱石が親友で俳人の正岡子規に宛てた書簡が東京都内の古書店で見つかった。1897年(明治30年)8月23日付で俳句が9句書かれており、そのうち2句が未発表だった。漱石が病気の妻を思いやる心情を綴った珍しい句で、専門家は「極めて貴重な資料だ」としている。
漱石は当時、熊本の第五高等学校の教授。書簡の日付の前夜に東京・根岸の子規庵で句会があり、夏休みで帰京していた漱石も参加していた。書簡の俳句は鎌倉が題材で、句会から一夜明けて新作を子規に届けたとみられる。
未発表の句は「愚妻病気 心元(こころもと)なき故本日又鎌倉に赴く」という前書きに続き「京に二日また鎌倉の秋を憶(おも)ふ」。前年に結婚した妻鏡子は体調を崩し、この夏を鎌倉で療養しており、妻を思いながら東京から鎌倉に向かう心情を詠んでいる。
未発表のもう一句は「円覚寺にて」の前書きがついて「禅寺や只秋立つと聞くからに」。円覚寺は後の長編「門」に登場する。子規はこの年、5月に病状が悪化。漱石は俳句を送ることで子規を慰めていたのではないか。
江戸期 大和川治水に尽力した中甚兵衛を漫画に
江戸時代に大和川の治水に尽力した中甚兵衛(1639~1730年)の偉業を広く伝えようと、幸田栄長(えいちょう)さん(69)ら東大阪市の有志たちが、その生涯を描いた漫画『中甚兵衛物語』を制作した。
中甚兵衛は河内郡今米村(現 東大阪市)の出身。柏原市辺りから北上し東大阪市などを通って淀川に合流していた旧大和川を、堺市方向へ西に流れる現在の流路に付け替えるよう、半世紀にわたって幕府に要望し1704年に実現させた。
旧大和川は、周辺の土地より川底が高い“天井川”となっていたため、当時農民たちは度重なる洪水に苦しめられていた。しかし、この付け替え工事の結果、水害が激減した府東部では綿花栽培が栄え「河内木綿」に代表される、後の織物産業の発達につながったとされる。
仏にすがった貴族の遺構 平安京跡で「持仏堂」
京都市埋蔵文化財研究所は8月14日、京都市南区の平安京跡から、平安時代末期(12世紀末)の貴族邸宅の持仏堂とみられる遺構を確認したと発表した。平安京跡で遺構が確認されたのは2例目。
平安京左京九条二坊十六町跡(南区西九条北ノ内町)で見つかった持仏堂の遺構は、南北約9.2㍍、東西約8.3㍍のほぼ正方形。遺構の中央東側部分の地表を掘り、こぶし大の河原石をびっしり敷き詰め地盤を強化していた。仏像そのものは見つかっていないが、同研究所では地盤を強化して重量のある仏像を安置する基壇とした可能性が高いとみている。
末法思想が流布していた当時、極楽往生を願った貴族の間で邸宅内に、阿弥陀仏を安置する持仏堂を建てることが流行した。このことは文献上でも少なくとも数十件単位で確認できるという。
被葬者は蘇我稲目か 都塚古墳は大型方噴ピラミッド型
奈良県明日香村教育委員会と関西大考古学研究室は8月13日、明日香村の都塚古墳(6世紀後半ごろ)が、墳丘を5段以上の階段状に築いたピラミッド形の大型方噴と分かったと発表した。国内の同時期の方墳で階段状墳丘が確認されたのは初めて。一辺の長さが40㍍を超え、直後に築かれた方墳大王(天皇)陵に迫る規模であることも明らかになった。
当時のトップクラスの権力者が、前方後円墳に代わる新形式として取り入れたとみられる。そのため、蘇我氏の権勢の礎を築いた蘇我稲目(そがのいなめ、?~570年)らが被葬者の候補に挙がっている。
都塚古墳があるのは蘇我稲目の子、馬子(?~626年)が被葬者として有力視されている石舞台古墳(7世紀前半、一辺約50㍍の方噴)の南東約400㍍。尾根の先端の傾斜地に築かれている。1967年に関西大考古学研究室が調査し、巨石を使った横穴式石室の中に凝灰岩製の家形石棺が安置されていたことが分かったが、墳丘の形や規模は不明だった。
今回、当時としては異例のピラミッド形の大型方噴が確認されたことで、古墳時代から飛鳥時代への過渡期の権力構造を知る手掛かりになるとみられる。