石田梅岩・石門心学の京都講舎跡地に石碑と駒札設置

石田梅岩・石門心学の京都講舎跡地に石碑と駒札設置

江戸時代の思想家、石田梅岩(1685~1744年)が石門心学を説くために開いた、京都市中京区車屋町通御池上ルの講舎跡地に、同学問発祥の歴史を伝える石碑と駒札が設置され、3月19日に除幕式が行われた。梅岩の研究者や子孫、地域住民ら約50人が立ち会い、教えを後世に伝えていくことを誓った。

石田梅岩は現在の亀岡市に生まれ、呉服屋で奉公したのち、1729年に同地で当時としては画期的な、身分の区別なく誰もが自由に学べる講義を始めた。その斬新な教えは承認を中心に石門心学として広まっていった。

国内最古の彩色「両界曼荼羅図」3/20から東寺で公開

国内最古の彩色「両界曼荼羅図」3/20から東寺で公開

弘法大師・空海ゆかりの世界遺産・東寺(京都市南区)の宝物館で3月18日、国内最古の彩色曼荼羅図(まんだらず)「両界(胎蔵界・金剛界)曼荼羅図」(国宝)のうち、胎蔵界が報道陣に公開された。作者は不明だが、彩色された最古の両界曼荼羅図として知られ、赤、黄、群青など鮮やかな色使いが特徴。同寺で公開されるのは6年ぶり。前期(胎蔵界、3月20日から4月23日まで)、後期(金剛界、4月24日から5月25日まで)に分けて展示される。

ベトナム中南部産つぼ片 堺環濠都市遺跡で出土

ベトナム中南部産つぼ片  堺環濠都市遺跡で出土

大阪府堺市は3月17日、堺区熊野町2丁の堺環濠(かんごう)都市遺跡から、ベトナム中南部産のつぼ片17点が出土したと発表した。「大坂夏の陣」(1615年)で焼けた豪商の屋敷跡だった場所で見つかり、貿易都市として栄えたチャンパ王国産のものとみられる。堺市博物館では、日本とベトナムの交流史を示す貴重な資料としている。

肩の部分に4つの「耳」と呼ばれる飾りが施され、表面に釉薬が塗られた「施釉四耳壺(せゆうしじこ)」の小片で、いずれも8~17㌢。復元すると口径17㌢、高さ34㌢のつぼになる。糖蜜などの物質を運搬する容器として使われていたという。同市の2012年の発掘調査で、深さ約1㍍の地点で見つかった。

堺の豪商が深く関与し、徳川幕府が鎖国政策を取るまでは推進していた朱印船貿易では、ベトナム中南部のチャンパ王国も取引国の一つだった。同国は2~17世紀ごろまで、東西交易の仲介で富を築いたとされているが、実態は分っていない。今回の発見は、同国の歴史の変遷の解明にも役立つと期待されている。

福岡で最古級「導水施設」遺構の木樋「纏向」と同時期

福岡で最古級「導水施設」遺構の木樋「纏向」と同時期

九州歴史資料館(福岡県小郡市)は3月16日、同県行橋市の延永(のぶなが)ヤヨミ園(その)遺跡から九州で初めて出土した古墳時代の水の祭祀(さいし)遺構「導水施設」の木樋(もくひ)が、3世紀中ごろ~4世紀中ごろのものと判明したと発表した。ヤマト政権発祥の地とされる奈良県の纏向(まきむく)遺跡で出土した国内最古の3世紀後半~4世紀初頭のものとほぼ同時期で、近畿で始まった水の祭祀が極めて短期間に九州にも伝わっていたことになる。

2011年の調査で出土した木樋は3つの細長い部分からなり、長さ4.2㍍、幅35~70㌢、厚さ4~10.4㌢。一方の端に長さ35㌢、幅30㌢と、長さ60㌢、幅35㌢の2つの水槽状のくりぬきがあり、もう一方の端まで幅10㌢の溝が延びる。放射性炭素年代を測定し実年代に換算した結果、3世紀中ごろ~4世紀中ごろのものと判明した。2つの槽を持つ木樋の実物が出土したのは国内初。

纏向遺跡に続く導水施設の遺構は滋賀県や京都府、石川県などで4世紀のものが見つかっている。5世紀になると導水施設をかたどった埴輪や石製品も近畿を中心に全国各地で出土する。このため、5世紀中ごろに水の祭祀が近畿から各地に波及したとされていた。今回、近畿から遠い九州で纏向遺跡とほぼ同時期のものが出土したことで、通説は再考を迫られることになりそうだ。

妻の身内や娘の近況が書かれた与謝蕪村直筆の手紙発見

妻の身内や娘の近況が書かれた与謝蕪村直筆の手紙発見

江戸時代中期の俳人で俳画創始者の与謝蕪村(1716~83年)の直筆の手紙が、京都市の古美術店で見つかった。奈良大の永井一彰教授(近世国文学)が3月12日発表した。戸の手紙には、妻の身内や娘の近況が書かれ、謎が多い蕪村の家族関係が分かる貴重な資料という。縦約16㌢、横約59㌢。宛先や書かれた時期は不明だが、蕪村の他の手紙と比較し直筆と判断された。

蕪村は大阪出身。40代でともという女性と結婚し、くのという娘がいたとされる。手紙には妻の妹が河内(大阪府東部)から訪ねてきて、姉妹が久々の対面を喜んだことや、娘が手習い(習字)を始めたことなどが書かれていた。妻に妹がいたことはこれまで知られていなかった。

土佐藩参政・吉田東洋の写真はジョン万次郎が撮影

土佐藩参政・吉田東洋の写真はジョン万次郎が撮影

高知市の土佐山内家宝物資料館は3月13日、幕末に土佐勤王党に暗殺された土佐藩参政、吉田東洋の写真を撮影したのは、日本人で初めて米国へ渡ったジョン万次郎(中浜万次郎、1827~98年)だった可能性が高いと発表した。ガラス板を使った米国式の湿板写真で縦約10.9㌢、横8.2㌢。万次郎は遣米使節団として渡米。1860年の帰国時に写真機を持ち帰った。東洋の日記から暗殺前年の1861年1月29日に江戸で撮影され、2014年、東洋の子孫から同館に寄贈された。

東大寺、醍醐寺の木像仏2体国宝に 文化審が答申

東大寺、醍醐寺の木像仏2体国宝に 文化審が答申

文化審議会は3月13日、国宝に東大寺(奈良市)の「木像弥勒仏坐像」と醍醐寺(京都市)の「木造虚空蔵菩薩立像」を指定するよう下村博文文部科学相に答申した。1935年に法隆寺金堂(奈良市斑鳩町)の壁画を撮影した写真原板や、中世の村上水軍が発給した海上通行証「過所船旗」など美術工芸品39件の重要文化財指定も求めた。近く答申通り指定され、美術工芸品の重要文化財は1万612件(うち国宝874件)となる。

彦根城 豊臣家との戦いに備え他城の部材を再利用

彦根城  豊臣家との戦いに備え他城の部材を再利用

滋賀県彦根市教育委員会は3月12日までに、徳川家重臣だった井伊家の彦根城(彦根市)は、約2㌔離れた佐和山城の石垣や瓦を再利用していたことが分かったと発表した。他城の部材を使ったのは、関ヶ原の戦いの後、徳川家側が豊臣家との戦いに備えて、築城を急いだためと考えられ、中井均滋賀県立大学教授(城郭史)は「当時の緊張感が伝わる発見」と話している。

彦根城は徳川家が1604年、諸大名に命じて築城を始めた。佐和山、安土などの各城の部材を再利用したことは、江戸時代の文献に記されているが、遺物で裏付けられるのは初めてという。佐和山城は豊臣方の石田三成の居城として知られるが、関ヶ原の戦い後は井伊家などが城主となった。

京都・琳派400年記念し、外壁に「21世紀の風神・雷神」

京都・琳派400年記念し、外壁に「21世紀の風神・雷神」

「琳派」の祖、本阿弥光悦が徳川家康から京都・鷹ヶ峯の領地を拝領してから今年で400年の節目となるのを記念して、京都国立博物館(京都市東山区)で3月12日から、記念のプロジェクション・マッピングが始まる。11日の内覧会では、博物館の外壁に鮮やかな映像が映し出された。映写されるのは、映像作家の土佐尚子・京都大学教授が制作した「21世紀の風神・雷神伝説」。毎秒2000コマの高速度カメラで撮影した自然現象の映像に、風神・雷神図や、未生流笹岡の笹岡隆甫家元のいけばな作品、茂山逸平さんによる狂言「神鳴」の舞台などが織り込まれている。15日までの午後6時半~8時半に3回上映。無料だが、申し込みが必要。

福井県勝山市出土の化石は新種恐竜「コシサウルス」

福井県勝山市出土の化石は新種恐竜「コシサウルス」

福井県立恐竜博物館は3月10日、同県勝山市の白亜紀前期(約1億2000万年前)の地層から見つかった化石が、草食恐竜の新種のものと確認されたと発表した。同館は、北陸地方の古称「越国(こしのくに)」にちなんで学名を「コシサウルス・カツヤマ」と命名。化石は3月12日から同館で公開される。

化石は13本の歯が残る右上顎骨(長さ16.9㌢)や左大腿骨の一部(同11.7㌢)など5点で、2008年に発掘された。推定される全長は約3㍍で、3歳以上の幼体とみられる。

下鴨神社で21年に1度の「式年遷宮」神事スタート

下鴨神社で21年に1度の「式年遷宮」神事スタート

世界遺産の下鴨神社(京都市左京区)で3月10日、21年に1度、社殿を新しくする「式年遷宮」神事のうち、祭神が宿るとされる「磐座(いわくら)」をおはらいする「新殿磐座解除(げじょ)の儀」があった。修理が終わった本殿に祭神を移す「正(しょう)遷宮」(4月27日)に向けた一連の神事の皮切りとなる。磐座は、東西の本殿(国宝)の中間にある石で囲われた約1.1㍍四方の穴。神職らが穴の中に鏡や太刀などの鎮め物を納め、小石で埋めた。今後、本殿や新造された獅子狛(ししこま)のおはらい(3月19日)や提灯行列(3月21日)、献茶祭などの行事が予定されている。

平安の優美 初公開 春日大社本殿・式年造替で

平安の優美 初公開 春日大社本殿・式年造替で

春日大社は3月6日までに、20年に1度の修繕事業「式年造替(しきねんぞうたい)」に合わせ、国宝の本殿を初めて一般公開すると発表した。通常は皇室関係者しか入れない内院(ないいん)に入り、本殿を間近に見ることができる。

公開は4月1日から5月31日。ご神体を本殿から仮殿に移し本殿の修復作業に入る前の2カ月間を利用して公開する。現在の本殿は1863年に建て替えられたが、奈良・平安初期の様式を保ち、平安後期の王朝の優美さを加味したとされている。

 

白亜紀後期の地層から最大級イカ・タコの化石

白亜紀後期の地層から最大級イカ・タコの化石

北九州市立いのちのたび博物館は3月5日、北海道羽幌町の約8500万~8000万年前(白亜紀後期)の地層から、巨大なイカとタコの下顎部分の化石2点が見つかったと発表した。ともに新種で、下顎の化石としては世界最大級という。イカは全長10~12㍍と推定。現生する無脊椎動物では最大級のダイオウイカに匹敵するか、それ以上の可能性があるとしている。タコは全長2.4㍍と推定される。

定家と為家の直筆、俊成90歳祝賀の歌会記録 原本確認

定家と為家の直筆、俊成90歳祝賀の歌会記録 原本確認

平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人、藤原俊成の90歳の祝いの歌会の様子を、息子で新古今和歌集編者の定家と、その息子の為家が記録した自筆原本が3月4日、東京都内で確認された。この記録の原本が表に出たのは初めて。定家・為家父子の肉筆画並ぶのは極めて珍しく、専門家は「重要文化財クラスの一級資料」と評価している。

歌会は建仁3年(1203年)、後鳥羽上皇が開いた。和紙5枚を繋いだ巻物で縦約30㌢、横約2.5㍍。江戸時代前期に表装されたとみられる。20首以上の歌を、歌人で能筆家としても知られる為家が記した。さらに末尾には定家が、参加者の名前と「若草」「納涼」「紅葉」「雪」などの歌題を加筆している。この歌会の記録は「俊成卿九十賀和歌」として複数の写本が伝わっている。

比沖で発見?太平洋戦争で撃沈された戦艦「武蔵」船体

比沖で発見?太平洋戦争で撃沈された戦艦「武蔵」船体

米マイクロソフトの共同創業者で資産家のポール・アレン氏は3月3日までに、太平洋戦争で撃沈された戦艦「武蔵」の船体をフィリピン中部シブヤン海での潜水調査で発見したと、ツイッターで明らかにした。船体が見つかったのはシブヤン海の水深約1000㍍地点としているが、詳しい場所は示していない。アレン氏は、船首とみられる部分と漢字が刻印されたバルブの計2枚の写真を掲載。船首とみられる画像では「菊の紋章と巨大ないかり」と説明。バルブには「開」「主弁取手」の文字が確認できる。今後、艦載機射出機や、主砲の砲塔が設置されていた部分の映像も公開するとしている。

武蔵は1944年10月24日、連合国軍のレイテ島上陸部隊を攻撃に向かう途中、シブヤン海で米軍機の攻撃を受けて沈没した。また、沈没した「武蔵」の船体はこれまで確認されていなかった。

東大寺お水取り始まる「おたいまつ」に参拝者歓声

東大寺お水取り始まる「おたいまつ」に参拝者歓声

東大寺二月堂(奈良市)の「修二会(しゅにえ)」(お水取り)が3月1日、本行入りした。小雨の中、午後7時ごろ長さ約6㍍の「おたいまつ」が舞台を駆けると、炎と火の粉が夜空に舞い、勇壮な光景に参拝者から歓声が上がっていた。

奈良時代の752年(天平勝宝4年)に始まったとされる伝統法会で、今年で1264回。練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる11人の僧が、五穀豊穣(ごこくほうじょう)などを祈る。おたいまつは14日まで毎晩続く。

きらびやか洛中洛外図 3/1から京都文化博物館で特別展

きらびやか洛中洛外図 3/1から京都文化博物館で特別展

15世紀の応仁の乱から町が復興する16世紀初頭に登場し、江戸期を通じて制作された洛中洛外図屏風。この特別展「京(みやこ)を描く–洛中洛外図の時代」が3月1日、京都市中京区の京都文化博物館で始まった。同展には国立歴史民俗博物館(千葉県)の所蔵品を中心に、室町後期から明治期までの重要文化財6点を含む計64点を展示、紹介する。各屏風には祇園祭や花見、芸能を堪能し、商いやものづくり、家事にいそしむ人々の姿が生き生きと描かれている。会期は前期が3月22日まで、後期が3月24日から4月12日まで。

松本清張の初期の短編「渓流」59年ぶりに確認

松本清張の初期の短編「渓流」59年ぶりに確認

北九州市出身の作家、松本清張(1909~92年)の初期の短編小説「渓流」を立教大の石川巧教授が59年ぶりに確認した。人妻との恋に敗れた青年が自殺する話。雑誌に発表後、単行本化や全集収録はされず、埋もれたままになっていた。

「渓流」は上京4年目の56年に大衆文芸雑誌「小説春秋」に掲載された。400字詰め原稿用紙で約35枚の作品。人妻との恋に破れた青年が素性を隠して山峡の温泉旅館で働き、宿の娘とひかれあうが、寂寥に抗しきれず自殺する。発表誌が著名作家の再録中心だったこともあり「渓流」の存在そのものが知られていない。

薬師寺東塔で創建時の基壇を確認 構造の詳細判明

薬師寺東塔で創建時の基壇を確認  構造の詳細判明

奈良文化財研究所などは2月26日、約110年ぶりの解体修理中の国宝・薬師寺東塔(奈良市、8世紀前半)の調査で、730年(天平2年)に建立された当初の基壇が確認されたと発表した。規模は東西13.3㍍、南北13.4㍍、高さ約1.3㍍で四方に階段を設け、切り石を周囲に配するなどしており、構造の詳細が初めて判明した。

東塔の発掘調査は2014年7月から実施。塔の中央を貫く心柱を動かしたうえで、基壇部分を掘り下げた。その結果、基壇は創建後、中世から明治時代に3回にわたって拡張されており、創建時の四方の規模は現在の一辺14.6~14.7よりも1㍍以上小さかったと判明した。一方、地面からの高さは後世にチ票面が上がったことから、現在の75㌢よりも大幅に高かった。

連載の執筆進まぬ漱石が悩める心情記した書簡発見

連載の執筆進まぬ漱石が悩める心情記した書簡発見

夏目漱石が初めて新聞に連載した小説「虞美人草(ぐびじんそう)」を執筆した明治40(1907)年に「此位(このくらい)はかどらぬ事も稀(まれ)に候」などと筆が進まないもどかしさを記した書簡が見つかった。東京の古書店が2014年、個人所蔵の手紙を入手した。書簡は当時の朝日新聞の社会部長に宛て、縦約20㌢、長さは約130㌢の和紙に毛筆で書かれている。消印は同年6月16日で、同紙で連載が始まる7日前だった。この書簡は漱石の全集には収録されていない。

オダサクの京都で発行の最後の連載小説見つかる

オダサクの京都で発行の最後の連載小説見つかる

「無頼派」の作家・織田作之助(1913~47年)が最晩年に書き、専門家にも存在を知られていなかった小説が、戦後の占領期に京都市で発行されていたローカル雑誌「国際女性」に掲載されていたことが2月21日、分かった。今回見つかった小説は「四つの手記」。かつて交際していた男性と、自分の娘との関係を疑う女性「私」の心理が描かれた作品で、全集や単行本には収録されていない。「国際女性」1946年9月の2号に、連載第1回の3㌻分が掲載されていた。同誌は紙不足のため7号で休刊した。この「四つの手記」は最後に構想した連載小説とみられる。

「国際女性」の顧問は谷崎潤一郎と新村出が務め、武者小路実篤や田村泰次郎らも寄稿。女性解放運動家らが支援する総合雑誌で、戦前の思想弾圧「滝川事件」で知られる法学者・滝川幸辰らも論文を寄せていた。

 

与謝野晶子文芸館2/28閉館 堺市の新施設へ引き継ぐ

与謝野晶子文芸館2/28閉館 堺市の新施設へ引き継ぐ

堺市立文化館内にある与謝野晶子文芸館(堺市堺区田出井町)が2月28日、15年の歴史に幕を閉じ閉館する。明治から昭和初期に活躍した同市出身の女流歌人、与謝野晶子(1878~1942年)の資料約1000点を所蔵し、常設展のほか企画・特別展を開催。最終日まで、これまでの企画・特別展をポスターで振り返る催しが開かれている。資料は3月20日に開館する市の文化観光拠点「さかい利晶(りしょう)の杜(もり)」(堺市堺区宿院町西)内にオープンする与謝野晶子記念館に引き継がれる。

100年ぶりに知恩院・御影堂の棟上げ 19年春完成

100年ぶりに知恩院・御影堂の棟上げ 19年春完成

京都市東山区の浄土宗総本山・知恩院で2月20日、約100年ぶりの大規模修理が進む国宝・御影堂の上棟式があった。伊藤唯眞門跡が導師を務め、装束を着た工事関係者が木槌で棟木を打って無事の完成を祈った。御影堂は知恩院の中心建築で、間口45㍍、奥行き35㍍、高さ28.5㍍。江戸時代初期の火災で焼失後、1639年に三代将軍・徳川家光が再建した。今回は1910年以来の大規模修理で、これまでに約8万5000枚の屋根瓦をすべて下ろし、骨組みのゆがみを補修するなどの作業が進められている。2016年には瓦を葺き始め、19年春に完成する予定。

築200年の清水次郎長の生家倒壊回避へ住民ら改修へ

築200年の清水次郎長の生家倒壊回避へ住民ら改修へ

幕末の侠客、清水次郎長(1820~93年)の生家(静岡市清水区美濃輪町)が老朽化し、近隣住民や住宅関連会社が改修計画を進めている。資金のめどもつき、年内にも工事が始まる見通し。生家は2階建てで、築200年前前後とみられ、昔の土間などが残る。建物一部は、キセルなど80点近くの次郎長の遺品とともに一般公開され、年間約1万2000人が訪れる。

しかし、天井や床の一部が破損。雨漏りも目立ち、2013年、耐震診断で倒壊の可能性が指摘された。ここで立ち上がったのが地元商店街の有志らでつくる「次郎長生家を活かすまちづくりの会」。13年から改修資金の募金を始め、15年2月までに130万円集まった。目標額の500万円には届いていないが、住宅資材メーカー、エヌ・シー・エヌ(東京都港区)が一部負担も含め支援することが決まった。

「博徒の大親分」だった次郎長は後半生、失業した旧幕臣らに静岡県内で茶畑を開墾させ、地元の清水港も整備するなど地域振興に尽力したため敬愛する人も多い。「次郎長生家を活かすまちづくりの会」の牧田充哉会長は「地元の発展に寄与した人物の功績を伝えることで、まちおこしにもつなげたい」と話している。

小林多喜二の獄死前後の様子記した書簡見つかる

小林多喜二の獄死前後の様子記した書簡見つかる

「蟹工船」「不在地主」などの作品で知られるプロレタリア作家、小林多喜二が1933年に築地署(東京都)で獄死する前後の様子を、同時期に収監されていた生物学者、石井友幸(1903~72年)が記した書簡が見つかった。拷問で口を利くことができなくなっていたことや、死亡後に人工呼吸が施されたとみられると書かれている。

書簡は、石井が多喜二と交流のあった小説家、江口渙(かん)に宛てた計3通で、400字詰めの原稿用紙計5枚とはがき1枚。1962~67年に、やり取りがあったとされる。文学館によると、多喜二の死の前後については、遺言をしていたり、監房で死亡していたりと諸説ある。書簡は栃木県にある江口の旧宅を調査していた郷土の歴史研究会が発見した。多喜二は1903年に秋田県で生まれ、4歳で小樽市に移住した。銀行に就職後、「蟹工船」などを発表。特高警察の拷問を受けて死亡した。

神戸で出土の「桜ヶ丘12号」と茨木出土の銅鐸の鋳型一致

神戸で出土の「桜ヶ丘12号」と茨木出土の銅鐸の鋳型一致

神戸市立博物館によると、1964年に神戸市で見つかった「桜ヶ丘12号銅鐸」(弥生時代中期、国宝)と、茨木市の東奈良遺跡で出土した「第1号流水文銅鐸鋳型」(重要文化財)の大きさや形状がほぼ一致することが分かった。12号銅鐸は青銅器づくりの一大拠点とされる東奈良遺跡で制作された可能性があり、銅鐸の流通を解明する手掛かりとして注目される。

12号鐸は高さ31㌢、重さ約2.6㌔。鋳型に彫られた銅鐸の型は高さ約31~32㌢とほぼ同じで、本体の曲線部分なども一致した。しかし本体と鋳型の模様は異なっており、この鋳型から12号鐸がつくられた可能性は低い。この点、鋳型を作る際、大きさや形にある程度の規格があり、模様だけ変えていたのではないか–と同博物館ではみている。

明日香村・西方遺跡で飛鳥時代の建物跡 近江京陣営か

明日香村・西方遺跡で飛鳥時代の建物跡 近江京陣営か

奈良県明日香村教育委員会は2月5日、飛鳥寺西方遺跡(明日香村)で、飛鳥時代の建物跡が見つかったと発表した。簡易な構造から仮設の建物だったとみられ、日本書紀に記述がある「壬申の乱」(672年)の陣営だった可能性もあるという。今回見つかったのは、国内最古の本格的寺院・飛鳥寺の約80㍍西側で建物跡2棟分の柱穴。南北の幅は2棟とも4.8㍍、東西に延びる長辺は16.7㍍と17.5㍍。2棟は約6㍍離れて東西に並んで配置されていた。

飛鳥寺西方遺跡は、大化の改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻(つき)の木の広場」と考えられており、この広場は日本書紀に度々登場。古代の最大の内乱、壬申の乱の際、近江京・大友皇子側の陣営が置かれたと記され、天皇が蝦夷や隼人ら当時の辺境の人々を招いた際に供宴を催したという記述もある。ただ、総合的に考えると壬申の乱の陣営の一部と変える方が合理的という。現地説明会は2月8日午前10時~午後3時。少雨決行。

大阪・難波宮跡近くで「五十戸」を記した木簡出土

大阪・難波宮跡近くで「五十戸」を記した木簡出土

大阪博物館協会大阪文化財研究所は2月3日、大阪市の難波宮跡近くで地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土したと発表した。「日本書紀」には難波宮に遷都した孝徳天皇が646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。木簡は長さ15.5㌢、幅3.4㌢。「玉作五十戸俵」と記されていた。玉作という地名は陸奥(青森など)や土佐などにあり、地方から五十戸単位で税として米を収めた際の荷物とみられている。五十戸と記した史料はこれまで天智天皇の時代の660年代のものが最古で、孝徳天皇の時代に遡る可能性があり、同研究所ではこのころ「五十戸」があった証拠になるかも知れない-としている

高山右近没後400年 2000人が参加し神戸でミサ

高山右近没後400年  2000人が参加し神戸でミサ

江戸時代に幕府の禁教令で国外追放され、1615年フィリピン・マニラで死亡した、敬虔なキリシタン大名として名を残した高山右近の没後400年を記念し、日本カトリック司教協議会が2月3日神戸市でミサを開いた。同協議会は大名の地位を捨て、信仰に命を捧げた殉教者として右近をカトリックで「聖人」に次ぐ「福音」に設定するよう、ローマ法王庁(バチカン)に申請している。ミサには2000人が参加した。

「琳派」誕生400年祝う 1年かけ展覧会など開催

「琳派」誕生400年祝う 1年かけ展覧会など開催

美術や工芸など幅広い分野に影響を与えた「琳派(りんぱ)」の誕生400年を祝う記念祭の開幕記念フォーラムが1月31日、京都市下京区の京都劇場で開かれた。記念祭は琳派の祖とされる本阿弥光悦が徳川家康から、洛北の鷹峯(たかがみね)に土地を与えられた1615年を誕生年と定め、これから約1年かけて展覧会や講演会などを開催する。フォーラムは絵師・俵屋宗達の「風神雷神屏風図」をイメージした尺八、和太鼓、箏(こと)の演奏で幕開け。山下裕二・明治学院大教授らが影響を受けた現代の美術作品やデザインを解説し、金剛流若宗家の金剛龍謹(たつのり)さんが能「山姥(やまんば)」を上演した。

明治の岩倉使節団30年後の”同窓会”の集合写真など見つかる

明治の岩倉使節団30年後の”同窓会”の集合写真など見つかる

明治維新直後に政府が米欧に派遣した岩倉具視を団長とする使節団(1871~73年)の”同窓会”の集合写真や随行員任命書など、希少性の高い多数の写真や文書が東京都内で見つかり、長崎歴史文化博物館(長崎市)に引き取られた。資料は元佐賀藩士で、明治政府で文部官僚を務めた中島永元(ながもと、1844~1922年)に関する約1100点。中島は佐賀藩が長崎に設けた藩校・致遠館(ちえんかん)の元教師で、岩倉使節団にも加わり欧米を視察。貴族院議員も務めた。

資料は約600点の写真史料と約500点の文書史料からなる。集合写真は幕末から明治にかけて活躍した写真家、上野彦馬が撮影したもの。1902年(明治35年)に開かれた「岩倉大使同行記念会」の写真は縦40㌢、横56㌢。写真に収まっている26人の中には、津田塾大の創立者、津田梅子も写っている。

台湾沖の海底で「アジア第4の原人」化石見つかる

台湾沖の海底で「アジア第4の原人」化石見つかる

国立科学博物館などの国際チームは1月27日付の英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズ(電子版)に、台湾沖の海底で新たな原人の化石が見つかったと発表した。北京原人などアジアの他の原人とは異なる特徴を持つ「第4の原人」と考えられ、古代の人類が各地で多様に進化していたことを示す発見として注目される。同チームによると、発見されたのは下あごの骨の右半分の化石。時期は不明だが、台湾本島と澎湖(ほうこ)諸島の間の海域で底引き網に引っかかり、地元収集家が保管していた。この海域では台湾が大陸と陸続きだったころに生息していたゾウの化石が大量に見つかっている。

今回見つかったあごの骨の幅は、75万~40万年前の北京原人の化石の平均よりも4㍉以上厚く、親知らずの一つ手前の第2大臼歯も一回り大きかった。80万年前のジャワ原人よりも大きい。進化に伴って歯やあごは小さくなるため、ジャワ原人、北京原人の子孫ではないと結論付けた。アジアではこれまで、ジャワ原人(120万~5万年前)、北京原人(75万~40万年前)、そして2003年にインドネシアで見つかった小型のフロレス原人(100万~数万年前)の三つの原人グループが知られている。

日露戦争で陸軍作戦指揮の児玉源太郎の手帳・書類etc400点

日露戦争で陸軍作戦指揮の児玉源太郎の手帳・書類etc400点

日露戦争(1904~05年)で陸軍の作戦を指揮した軍人で政治家の児玉源太郎が記した手帳や書類など約400点が東京都内の児玉の旧宅で見つかった。桂内閣が進めた露との講和(05年9月5日)を「失敗」と記した覚書もあり、当時の政治に不満、不信感を抱えた、合理的な政略家としての児玉の一面がうかがえる。

児玉は直筆1次史料が少なく近現代史研究の第一級史料といえそうだ。児玉の長男・秀雄氏(故人)の調査を進める過程で発見された。とくに日露戦争関連が多い。

子規、漱石、熊楠らの東大予備門時の成績表見つかる

子規、漱石、熊楠らの東大予備門時の成績表見つかる

愛媛県松山市の「坂の上の雲ミュージアム」は1月27日、松山出身の俳人・正岡子規、夏目漱石、南方熊楠らが東大予備門(現教養学部)1年の時の成績表が見つかり、2月24日から展示すると発表した。1学期の修身学や和漢文など11科目評価。子規は「日本歴史」が得意な半面、英語で出題された幾何学は苦手だった。全体では110人中34位と「中の上」だった。成績表には子規と同学年だった夏目漱石(22位)の本名・塩原金之助や南方熊楠(69位)の名前もみえる。

奈良県・纏向遺跡で占い用「骨」初めて出土

奈良県・纏向遺跡で占い用「骨」初めて出土

奈良県桜井市教育委員会は1月29日、同市の纏向(まきむく)遺跡(国史跡)で、3世紀後半~4世紀初め(古墳時代前期)に占いに使ったとみられる動物の骨「卜骨(ぼっこつ)」が見つかったと発表した。邪馬台国の有力候補地とされる纏向遺跡で卜骨が出土したのは初めて。当時の祭祀(さいし)のあり方を考えるうえで意義深い発見という。卜骨はイノシシの成獣の右肩甲骨で、長さ16.7㌢、幅6.7㌢。人工的に掘られた穴の底部から見つかった。直径1㌢ほど丸く削った部分が3カ所あり、それぞれ点状に焦げた跡があった。先端が細い熱した道具を押し付けてできたとみられる。

中国の歴史資料「魏志倭人伝」に、3世紀の日本では人々が骨を焼き、割れ方を見て吉凶を占ったとの記述がある。卜骨は紀元前の弥生時代前期から全国で確認され、古墳時代に減少。7世紀以降の律令時代には国が祭祀の部署を設け、亀の甲羅を焼く占いをした。

奈良・若草山で春呼ぶ山焼き 古都の夜空を焦がす

奈良・若草山で春呼ぶ山焼き 古都の夜空を焦がす

古都・奈良の恒例行事、若草山(奈良市)の山焼きが1月24日夜にあり、ふもとの奈良公園などに集まった観光客ら約19万人が山肌に広がる炎に見入っていた。山焼きに先立ち、約600発の花火が打ち上げられた後、山肌に散らばった地域の消防団員約300人がラッパの合図に合わせて一斉に着火。炎は煙を上げて広がり約33㌶を焼いた。

ツタンカーメン王の「黄金のマスク」ずさん修理

ツタンカーメン王の「黄金のマスク」ずさん修理

エジプト考古学博物館でツタンカーメン王の「黄金のマスク」の付けひげ部分が2014年8月、清掃作業中に破損し、その場で修復されていたことが分かった。本来は専門施設での修復が必要だが、博物館の上層部がすぐ直すよう指示。石材などの接着に使う強力なエポキシ樹脂で接着されたため、顎部分と付けひげの間の隙間に黄色っぽい樹脂が見えるという。AP通信が報じた。

横穴墓から5~6世紀の大量副葬品 宮崎・えびの市

横穴墓から5~6世紀の大量副葬品 宮崎・えびの市

 宮崎えびの市教育委員会は1月19日、同市島内の「島内地下式横穴墓群」(5~6世紀ごろ)で、装飾された朝鮮半島製の「銀装円頭大刀」など武器、武具を中心とした大量の副葬品を納めた有力者の墓が見つかったと発表した。未盗掘で、繊維や革が多数残存するなどほぼ完全な状態で見つかっており、同市教委は極めて珍しい例としている。

墓は道路工事に伴う調査で2014年10月に見つかり、内部を調査していた。副葬品とともに男女とみられる2体の人骨が見つかった「玄室」は奥行き約2.25㍍、幅約3.1㍍、高さ94㌢、墓群約160墓の中で最大級で、大和政権からの甲冑が含まれ、朝鮮半島とも直接交流のあった有力首長の墓とみられている。

舒明天皇陵か蘇我蝦夷墓説 奈良・明日香村に巨大石溝

舒明天皇陵か蘇我蝦夷墓説  奈良・明日香村に巨大石溝

奈良県立橿原考古学研究所は1月15日、明日香村川原の丘陵地にある小山田遺跡で、様々な石で固めた巨大な溝(掘割)が見つかったと発表した。これまで全く知られていなかった遺構で、同研究所は7世紀中ごろに築かれた一辺50㍍以上の大型方墳の濠(ほり)とみている。古墳とすれば飛鳥時代(7世紀)最大級で、舒明(じょめい)天皇ら天皇(大王)陵や、天皇に並ぶ権力を振るった蘇我蝦夷(そがのえみし)の墓の可能性が指摘されている。

溝は2014年11月からの県立明日香養護学校の建て替え工事に伴う調査で見つかった。ほぼ東西方向に約48㍍が確認された。幅は最上部が約7㍍、底面が約3.9㍍。深さは残っている部分で約1㍍あった。北側の法(のり)面には40㌢大の石英閃緑(せんりょく)岩(花こう岩)がびっしりと張ら付けられ、底面には15~30㌢大の石英閃緑岩が敷き詰められていた。南側の法面は一辺数十㌢の方形に加工した板石(厚さ5~10㌢)が積まれていた。一番下に緑がかった結晶片岩が2段に、その上に赤みがかった室生(むろう)安山岩が階段状に8段積み上げられていた。溝を造成した時の土の中から6世紀後半の土器類、溝が埋没した時の流入土から7世紀後半の土器が出土。板石積みに用いられた石の種類からも7世紀中ごろの築造とみられるという。

一帯は飛鳥時代の古墳の集中地域。古墳とすれば、蘇我馬子の墓とする説が有力な石舞台古墳(明日香村、一辺約50㍍の方墳)を上回り、推古天皇陵とされる飛鳥時代最大の山田高塚古墳(大阪府太子町、長辺61㍍)にも匹敵する。現場は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)、藤原鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼした「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)の舞台とされる伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡から西約1㌔。

 

 

 

平安祈る音色 国内最古の鰐口 和歌山鷺ノ森遺跡で出土

平安祈る音色 国内最古の鰐口 和歌山鷺ノ森遺跡で出土

和歌山市教育委員会は1月9日、同市の鷺ノ森遺跡の9世紀末~10世紀初めの地層から、金属製の音を出す仏具、鰐口(わにぐち)が出土したと発表した。国内最古とみられる。青銅器で幅9.3㌢、高さ9㌢、厚さ4㌢と小型だった。鰐口は僧侶が携帯する小型仏具で,鎌倉時代の絵画「一遍上人絵伝」には僧侶が経を唱えながら打ち鳴らす様子が描かれている。鎌倉時代以降、次第に大型化し、神社や仏閣の正面軒先につるされるようになった。

大坂の陣400年「城塞」テーマに2/7菜の花忌シンポジウム

大坂の陣400年「城塞」テーマに2/7 菜の花忌シンポジウム

「第19回菜の花忌シンポジウム」(司馬遼太郎記念財団主催)が2月7日午後2時、大阪市中央区のNHK大阪ホールで開かれる。テーマは「乱世から乱世へ—-『城塞』から考える」。2014年から15年にかけては、「大坂の陣400年」。司馬が大坂の冬の陣・夏の陣を描いた小説『城塞』を軸に、戦国時代の大坂城を巡る様相、乱世における人間模様など様々な観点から意見を交わす。

司馬遼太郎賞・フェローシップ贈賞式(記念スピーチは、作家の伊集院静さん)に続くシンポジウムのパネリストは、建築家の安藤忠雄さん、作家、伊東潤さん、静岡文化芸術大学教授・磯田道史さん、女優の杏さん。司会は文化外国語専門学校校長で元NHKアナウンサー、古屋和雄さん。

優雅に”蹴”高く 京都・下鴨神社で「蹴鞠初め」

優雅に”蹴”高く 京都・下鴨神社で新年「蹴鞠初め」

平安時代に貴族が楽しんだ「蹴鞠(けまり)」を神前に奉納する「蹴鞠初め」が1月4日、京都市左京区の下鴨神社であった。雪化粧した境内で、「蹴鞠保存会」メンバーが鞠を蹴る度に発する「ヤア」「オウ」などの掛け声が響いた。約15㍍四方の「鞠(まり)場」で、古式ゆかしい装束を身に着けた男女8人が1組となり、シカ皮でできた鞠(直径約20㌢)を蹴り合う。約3000人の参拝者らは、見事な足さばきに歓声を挙げていた。

わび茶「珠光茶会」15年2月は2日延長し7日間に

わび茶「珠光茶会」15年2月は2日延長し7日間に

奈良市の春日神社や東大寺など7社寺を主な会場として奈良の茶文化に親しんでもらおうと開く「珠光茶会」が、2015年2月には7日間と今年より2日延長されることになった。奈良市などの実行委員会が決めた。今年2月に初めて開かれ、3日間で予想より2000人多い6000人が参加したことから、期間の延長で混雑を緩和する。茶会はわび茶の祖とされる室町時代の茶人、村田珠光が奈良市の出身であることにちなみ、今年2月に初開催した。

東大寺南大門・金剛力士像 修理終え開眼法要

東大寺南大門・金剛力士像 修理終え開眼法要

奈良市東大寺南大門にある金剛力士像(国宝)のうち口を開けた阿形(あぎょう)が約20年ぶりの修理を終え、12月20日に開眼法要が営まれた。阿形は10月から、長年たまったほこりや汚れを落とす作業に入り、作業はこのほど終わった。口を閉じた吽形(うんぎょう)の修理は2015年度に開始する予定。この日は筒井寛昭別当ら6人の僧侶が般若心経を唱え、阿形像の前で像に魂を入れる儀式が営まれた。

藤原宮 瓦最大産地の窯跡 奈良県高取町で発見

藤原宮 瓦最大産地の窯跡  奈良県高取町で発見

奈良県高取町教育委員会は12月18日、藤原宮(694~710年同県橿原市)の瓦を焼いた7世紀末の窯跡が、同町市尾で見つかったと発表した。周辺は藤原宮で使われた瓦の最大産地とみられていたが、窯跡の発見は初めて。燃焼室など窯の構成部分がすべて良好な状態で残り、天皇が執務する大極殿に使う軒丸瓦(のきまるがわら、直径約20㌢、厚さ約5㌢)も出土した。

窯跡は丘陵の西側斜面に造られ、全長6㍍、幅1.3㍍。粘土のブロックを棒状の道具で突き固めながら積んで窯を築き、木を燃やす燃焼室、瓦を焼く燃成室、煙が抜ける煙道をすべて確認できた。傾斜は約15度と緩く、「登り窯」から後世の「平窯」への過渡期とみられる。窯の中からは軒丸瓦や丸瓦、窯を使い終えた後の儀式で供えたらしい馬の下あごの骨も出土した。網伸也・近畿大教授は「7世紀後半に滅亡した百済からきた工人が伝えたのだろう。日本最初の都城を造った国家の意気込みを感じさせる」と話している。

京都・岡崎の尊勝寺で最大級の九体阿弥陀堂跡を確認

京都・岡崎の尊勝寺で最大級の九体阿弥陀堂跡を確認

発掘調査会社のイビソク関西支店(京都市伏見区)は12月18日、左京区岡崎の発掘調査で、平安後期に建立された六勝寺の一つ「尊勝寺」の九体阿弥陀堂(くたいあみだどう)跡の南端を確認したと発表した。廂(ひさし)と孫廂を含めた建物の全長は約65㍍と判明、九体阿弥陀堂としては最大級という。南北に長い建物の南部分で、複数の柱穴跡を確認した。建物の南端を示す柱穴跡もあり、これまでの調査で判明している北限部分に照らして、廂を含めた柱間は17間、建物自体の柱間は13間と分かった。南端の柱穴は直径1.5~2㍍と大きく根固め石が敷き詰められていた。礎石は見つからなかった。

尊勝寺は法勝寺をはじめとして岡崎地区に建てられた六カ寺の一つ。九体阿弥陀堂は堀河天皇の発願で1105年に建立。9体の阿弥陀如来像と四天王像を安置したとされる。

藤原宮の東方官衙地区で発見の建物跡は楼閣・大型倉庫

藤原宮の東方官衙地区で発見の建物跡は楼閣・大型倉庫

奈良文化財研究所は12月11日、奈良県橿原市の藤原宮(694~710年)跡で大極殿の東側にあった官庁街「東方官衙(かんが)地区」で2年前に一部が見つかった礎石を据えた建物の跡について「全容が判明し、柱の配置から楼閣や大型倉庫などだったとみられる」と発表した。礎石建物は寺院など格式の高い施設に用いられた構造。藤原宮では大極殿などの中枢施設や門のほかはなかったという。

発掘の結果、規模が南北約8㍍、東西約11㍍と分かった。その西に南北約7㍍、東西約12㍍以上の大型の掘っ立て柱の建物跡も新たに発見。2棟とも大極殿の真東に位置し、中心軸が大極殿とほぼ一致しており、藤原宮の造営当初から計画的に配置されたとみている。平城宮、平安宮には類例がなく特殊な性格を持つ建物だったとみられる。

9000年前超前の人骨 沖縄の洞穴遺跡から出土

9000年超前の人骨 沖縄の洞穴遺跡から出土

沖縄県立博物館・美術館(那覇市)は12月11日、同県南城市のサキタリ洞遺跡で、9000年前より古い地層から頭や上半身の大部分が残る人骨が見つかったと発表した。人骨を覆うように複数の石が合ったことなどから、博物館は洞穴を墓として埋葬された可能性があるとしている。国内では愛媛県久万高原町の上黒岩岩遺跡など縄文時代早期の9000~8000年前の埋葬人骨が見つかっている。今回の人骨が埋葬と確認されれば国内最古級になる可能性がある。見つかった人骨は後期旧石器時代(3万5000~1万数千年前)の可能性もあるという。成人とみられ、仰向けの姿で頭や両手、胴体といった上半身の大部分が残っており、直径30㌢大の石が4個、頭や胸、腹などの上で見つかった。

竹久夢二直筆の原稿・手紙20点 東京都内で見つかる

竹久夢二直筆の原稿・手紙20点 東京都内で見つかる

画家で詩人の竹久夢二(1884~1934年)の手紙やはがき、直筆原稿が計20点が東京都内で見つかり、竹久夢二美術館(東京)と菅茶山記念館(広島県福山市)が12月6日発表した。編集者として交流のあった童謡詩人、葛原しげるの孫、真さん(66)が東京都小金井市の実家で発見した。直筆作品がこれだけまとまって見つかるのは珍しい。8点は1912、13年に夢二がしげるに宛てた手紙やはがきで、12点は童話など直筆原稿だった。今回見つかった資料は12月7日から2015年2月22日まで菅茶山記念館で展示される。

手紙やはがきは、夢二の作品が世評で評価される以前のもので、夢二の作品に容赦のない、出版社の要求に対する不満や批判など、胸の内を編集者にぶちまけている。例えば、挿絵の描き方について「単純な線で、複雑な内容を表現するのと、空疎な観察を、統一のない粗雑な線でごたごた、所謂こまかく描くのとは別のことです」と主張。夢二自身は、自然を細かく見たうえで、あえて印象的に単純な線で描いたのに、出版社からは写実的な絵を求められて、納得できない夢二が担当編集者に伝えてほしいと、葛原に訴えている。

宮内庁 陵墓の調査現場を公開 淡輪ニサンザイ古墳

宮内庁 陵墓の調査現場を公開 淡輪ニサンザイ古墳

宮内庁は12月5日、陵墓として管理する大阪府岬町の前方後円墳、淡輪(たんのわ)ニサンザイ古墳(5世紀半ば)の発掘現場を、報道陣と日本考古学協会など16学会の研究者に公開した。同古墳の墳丘が発掘されるのは初めてで、埴輪列や葺石などが出土し、実態解明につながるという。同古墳は、同庁が11代垂仁天皇の皇子の墓に指定。だが、海に近い立地や周囲の古墳との関係などから、被葬者は朝鮮半島との関わりが深い大豪族・紀氏とする説が有力とされる。