後期難波宮の屋根瓦落下跡 埋め戻しから54年ぶり公開

後期難波宮の屋根瓦落下跡 埋め戻しから54年ぶり公開

大阪市中央区の史跡「難波宮跡」の発掘調査現場で、昭和の発掘調査の後、埋め戻され保存されてきた後期難波宮の屋根瓦落下跡が、このほど54年ぶりに一般公開され、多くの考古学ファンが見学に訪れた。
倒壊した塀から落下した屋根瓦が、落下したままの状態で大量に残っている珍しいケースだ。史跡整備を計画する大阪市が、屋根瓦落下跡などの有効活用策を検討するために再公開した。
後期難波宮は8世紀、聖武天皇が造営した宮殿。1961年、大阪市の発掘調査で後期難波宮の屋根瓦が出土したが、大量に発見されただけではない。南北方向に走る屋根瓦付きの築地塀が、何らかの事情で東側に倒れ込んだ。その際、塀もろとも瓦屋根が裏返しになる形で、地面へ落下したと推定される状態のまま発見されたのだ。
そして発掘調査後、瓦落下跡の長さ約10㍍のエリアをコンクリートブロックで囲い、瓦の表面に特殊な合成樹脂を塗る保存作業を施されたうえで埋め戻されたものだ。

厚さ11㌢の「大型構造船」の部材発掘 滋賀塩津港遺跡

厚さ11㌢の「大型構造船」の部材発掘 滋賀塩津港遺跡

滋賀県文化財保護協会は12月10日、琵琶湖北端にある同県長浜市の塩津港遺跡で、板を組み合わせた「大型構造船」の部材が見つかったと発表した。平安時代後期(12世紀)の船の一部とみられ、国内最古級という。
構造船はこれまで鎌倉時代後期から使われたと考えられていたが、専門家は今回の部材の発見により、100年以上前の平安時代の琵琶湖ですでに就航していたことを裏付ける、日本造船史上、貴重な史料-としている。
見つかった部材は長さ205㌢、幅58㌢、厚さ11㌢。船の側面か底に使われていたとみられ、板を繋ぐ「縫いくぎ」が打たれた跡が3カ所あった。部材の厚さなどから、船は長さ20㍍以上あった大型構造船とみられる。
塩津港は北陸の物資を京都に運ぶ中継地として栄え、12世紀には埋め立て造成で本格的な港が築かれていたことが分かっている。今回は荷物を運ぶ道路(長さ10㍍、幅3.7㍍)や、道路東側に築いたとみられる塀の大きな柱なども複数確認された。

「出雲そば」200年遡る最古の文書見つかる

「出雲そば」200年遡る最古の文書見つかる

島根県のご当地グルメ「出雲そば」が江戸時代前期にはすでに食べられていたことを示す最古の記述が、同県立出雲歴史博物館の調査で見つかった。出雲そばについてこれまで確認されていたものを約200年遡る文書記録という。
出雲大社の神職、佐草自清の日記の中で寛文6(1666)年3月27日に、江戸前期に出雲大社で行われた造営工事に関し、本殿の柱を立てる相談をした後、日が暮れたところで、そば粉を練って細く切った「蕎麦切」が振る舞われたとの記述があった。
出雲そばは、松本城主だった松平直政が寛永15(1638)年に松江へ移った際、信州から蕎麦切が伝わったのが始まりとされる。出雲そばが記述された文書は、これまで嘉永2(1849)年のものが最古だったが、この日記はこれを約200年遡る。

四天王寺 五重塔を耐震改修 2016年7月お披露目

四天王寺 五重塔を耐震改修 2016年7月お披露目

耐震改修工事が行われている四天王寺(大阪市天王寺区)の五重塔が報道陣に公開された。五重塔は高さ39㍍で、最上層からはあべのハルカスや通天閣なども見渡せる。
2022年には、聖徳太子が亡くなって1400年を迎える。聖徳太子ゆかりの四天王寺のこの工事は「聖徳太子千四百年御聖忌」に伴う整備事業の一環として行われているもの。新しい五重塔は2016年7月ごろにお披露目される予定。
工事で取り外されたものの一部は、12月14日から2016年1月10日まで一般公開される。

東大寺大仏の螺髪は定説の半分 レーザー解析で判明

東大寺大仏の螺髪は定説の半分  レーザー解析で判明

奈良・東大寺の大仏の毛髪、螺髪(らほつ)が定説の「966個」ではなく「492個」だったことが分かった。東大寺から委嘱された東京大学生産技術研究所がレーザーを使った最新技術で調査した結果、分かったもの。1000年近く伝えられてきた定説を覆し、実態を解き明かした。
奈良時代、聖武天皇の命で建造され、752年に完成した初期の大仏については、文献には螺髪を966個つくったと記されている。しかし、その後何度か火災に遭い、現在の大仏は江戸時代に修復されたもので、その際、減ったのか?などは不明だという。ただ、江戸、明治時代の文献にも螺髪は「966個」と記されており、ずっと定説とされてきた。

「後期難波宮」の瓦を再発掘 保存状態良好

「後期難波宮」の瓦を54年ぶり再発掘 保存状態良好

大阪市教育委員会は12月1日、聖武天皇が726年から造営した後期難波宮(大阪市)で、昭和36年に行われた調査時に出土し、埋め戻して保存していた瓦を54年ぶりに再発掘したと発表した。史跡の整備に先立ち、劣化していないか確かめるのが目的で、保存状態は良好だった。12月6日午前10時~午後3時半に一般公開する。
瓦は36年4月、大阪市中央区馬場町で見つかった。多くが裏向けになっており、瓦を使った塀が倒壊し、そのまま残されたと考えられる。塀は天皇の生活空間だった内裏を囲っていた。
難波宮は、中大兄皇子らと「大化の改新」を遂行した遂行した7世紀中ごろの孝徳天皇の時代から整備された「前期」と、奈良時代に聖武天皇が造営した「後期」に分かれる。

京都・平安期の井戸から「難波津の歌」の木簡

京都・平安期の井戸から「難波津の歌」の木簡

京都市埋蔵文化研究所はこのほど、同市中京区で発掘された平安時代中期(9世紀後半)の井戸から、和歌「難波津の歌」が平仮名で書かれた木簡が出土したと発表した。平仮名では最古級とみられる。
9世紀の中ごろから後半は漢字を当てはめた万葉仮名を基に10世紀前半に平仮名が成立するまでの過渡期にあたり、平仮名の形成過程をたどるうえで貴重な資料という。
木簡は縦34.5㌢、横3.5㌢。文字は縦2行にあり、右側に和歌「難波津に 咲くやこの花 冬こもり 今は春べと 咲くやこの花」がほぼ平仮名に近い形で書かれていた。
難波津の歌は古代から字の練習に使われていた。7世紀ごろ以降とみられる多数の出土品に書かれているが、平仮名でほぼ全文が読み取れる史料は初めてとみられる。

宇喜多秀家自筆と伝わる和歌初公開 岡山・光珍寺で法要

宇喜多秀家自筆と伝わる和歌初公開 岡山・光珍寺で法要

岡山城を築城した戦国大名、宇喜多秀家の命日の11月20日、菩提寺の光珍寺(岡山市)で没後360年の慰霊法要が営まれ、参列者ら約30人が宇喜多家と家臣の遺徳をしのんだ。
法要後には今年5月、同寺が入手した宇喜多秀家自筆の和歌と伝えられる短冊2枚が初めて公開された。公開された和歌は「御菩提のたねや植えけん此寺にみのりの秋そ久しかるへき」など。
宇喜多秀家は豊臣秀吉の治世下、五大老の一人で、岡山の街づくりの礎を築き、備前宰相と呼ばれた。1600年の関ケ原の戦いでは西軍の副将となり、敗れた。その後、1606年八丈島に流された。

八百万の神々が出雲に 出雲大社で厳かに神迎神事

八百万の神々が出雲に 出雲大社で厳かに神迎神事

全国から出雲地方に集う八百万(やおよろず)の神々を迎える出雲大社(島根県出雲市)の「神迎(かみむかえ)神事」が旧暦の10月10日にあたる11月21日夜、営まれた。3連休の初日とあって、信徒や観光客ら約1万人が訪れ、伝統の神事を見守った。
国譲り神話の舞台として知られる稲佐の浜で、かがり火が焚かれる厳かな雰囲気の中、千家隆比古・権宮司が海に向かって祝詞を読み上げた。このあと、迎えた神々が乗り移ったとされるサカキ「神籬(ひもろぎ)」が白い布で覆われ、「竜蛇神(りゅうじゃしん)」に導かれて約1㌔先の出雲大社に向かった。
神籬が到着した神楽殿では神迎祭が執り行われ、神々が本殿両脇の東西十九社に案内された。神々は1週間滞在し、向こう1年間の農事や縁結びなどを話し合うとされる。
神々の出雲滞在中、境内では23日に「献穀祭」、26、28日に「縁結び大祭」、28日には出雲から神々が古里へ旅立つ「神等去出祭(からさでさい)」などの祭りが続く。

日露戦争から今日をひも解く 坂の上の雲ミュージアム

日露戦争から今日をひも解く 坂の上の雲ミュージアム

名城大(愛知県名古屋市)都市情報学部の稲葉千晴教授らでつくる研究会「日露戦争史料調査会」が11月22日、坂の上の雲ミュージアム(愛媛県松山市)で講演会「日露戦争と東アジア‥今日的視点から」を行い、市民ら約50人が熱心に聞き入った。
講演会では日露戦争に詳しい稲葉教授と立命館大学政策科学部の宮脇昇教授、文化功労者で日中関係に詳しい早稲田大学の毛里和子名誉教授が登壇。
日露戦争の戦場となった中国で、日本は30万人もの兵士の食料や弾薬などの物資をどのようにして運搬したのか?などの問題提起と、日露戦争を報道した海外の新聞を紹介した。

高知・北川村で中岡慎太郎の墓前祭”シャモ鍋”に舌鼓

高知・北川村で中岡慎太郎の墓前祭”シャモ鍋”に舌鼓

中岡慎太郎の祥月命日にあたる11月17日、高知県北川村柏木の松林寺跡で墓前祭が開かれた。中岡慎太郎は慶応3(1867)年11月15日、京都・近江屋(現在の河原町)で坂本龍馬とともに襲撃され、2日後に亡くなったと伝えられている。
墓前祭の後、決まって振る舞われるのが「シャモ鍋」。2人が凶刃に倒れた日に食べようとしていたという料理だ。この日も地元の「中岡慎太郎先生顕彰会」の面々が大鍋2杯を用意した。墓前祭に集まった人たちは、恒例の(?)シャモにハクサイ、キノコなどを入れ、しょうゆ仕立てにしたシャモ鍋に舌鼓を打っていた。

十返舎一九 直筆の礼状 長野・安曇野市で見つかる

十返舎一九 直筆の礼状 長野・安曇野市で見つかる

長野県安曇野市教育委員会によると、江戸時代、弥次さん喜多さんの珍道中を描いた作品「東海道中膝栗毛」で知られる作者、十返舎一九(1765~1831年)が知人に宛てた自筆とみられる書状が見つかった。
1814年ごろ、一九は安曇野市を訪れ、「東海道中膝栗毛」の続編の執筆に向けた取材をしていた。書状は宿泊場所を提供した藤森家当主の善兵衛に宛てたもので、世話になった感謝の思いが綴られている。書状には、ペンネームの十返舎ではなく、本姓を用いた「重田一九」と署名が入り、「御馳走に相成り誠にもって御礼筆紙に申し尽くし難く候」などと記されている。

京都・南座の大入り願い勘亭流「まねき書き」公開

京都・南座の大入り願い勘亭流「まねき書き」公開

京都・南座の歳末の風物詩「吉例顔見世(きちれいかおみせ)興行」を前に出演する歌舞伎役者の名を看板いっぱいに書き込む「まねき書き」が11月10日、京都市左京区の妙伝寺で報道陣に公開された。
太く丸みを帯びた「勘亭(かんてい)流」と呼ばれる独特の書体で「劇場に隙間なく客が入るように」と大入りへの願いを込めている。看板は11月25日の「まねき上げ」で、南座正面に掲げられる。

奈良・宗祐寺で「中尊寺経」の一部見つかる

奈良・宗祐寺で「中尊寺経」の一部見つかる

奈良県宇陀市の宗祐寺(そうゆうじ)は11月9日、金銀で書写した経典の断片が見つかり、栄華を極めた奥州藤原氏が12世紀に中尊寺(岩手県)に奉納した「中尊寺経」の一部とみられると発表した。油紙に金字と銀字で1行ずつ交互に書かれ計19行あった。同寺が1888年に入手した記録はが残っているが、出所は不詳。
中尊寺経は現在、高野山などに伝わり、国宝や重要文化財にもなっている。

色づき始めた奈良・談山神社境内で「けまり祭」

色づき始めた奈良・談山神社境内で「けまり祭」

奈良県桜井市の談山神社で11月3日、恒例の「けまり祭」が開かれた。木々が紅や黄に色づき始めた境内で行われ、参拝者らを楽しませた。烏帽子に鞠水干(まりすいかん)と呼ばれる上衣姿の保存会の人たちが8人グループになり、鹿の皮でできたまりを蹴りながら、落とさずにパスが続くと参拝者から歓声が沸いていた。
けまり祭は、神社が祀る藤原(当時は中臣)鎌足が、中大兄皇子(後の天智天皇)と蹴鞠会(けまりえ)で出会ったという故事にちなみ、毎年春と秋に開催されている。

はねのある字体の珍しい「和同開珎」長岡京で発見

はねのある字体の珍しい「和同開珎」長岡京で発見

桓武天皇が造営した長岡京(784~794年、京都府長岡京市など)跡から字体にはねのある珍しい「和同開珎(わどうかいちん)」が3枚見つかり、同市埋蔵文化財センターが11月2日までに発表した。出土したのは「和同開珎」の4字すべてにはねがある2枚と、「和同珎」の3字にはねがある1枚。
字体にはねのある和同開珎は長岡京市以外で石川、滋賀、奈良の3県でしか見つかっておらず、全国で数十枚しかないという。

与謝野晶子 病床の最晩年の草稿見つかる 推敲の跡

与謝野晶子  病床の最晩年の草稿見つかる  推敲の跡

歌人の与謝野晶子(1878~1942年)が亡くなる直前、病床で書き付けた短歌の草稿ノートが、東京都内の親戚宅で見つかった。かすれて乱れた鉛筆書きで、与謝野晶子記念館(大阪府堺市)では「病床にあっても、最期まで創作を続けた晶子の熱情がうかがえる」としている。
ノートは晶子のひ孫が都内の自宅の納戸で見つけ、2014年秋、同記念館に調査を依頼していた。ノートには晶子の絶筆とされる歌掛け軸「連峯の雲」(堺市博物館蔵)の歌の草稿もあった。雲が山々に映える箱根・十国峠の風景を詠んだ歌で、推敲を重ねた跡があった。

秀吉「本能寺の変」時の家族の避難警護の家臣に感謝

秀吉「本能寺の変」時の家族の避難警護の家臣に感謝

滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館は10月29日、「本能寺の変」(1582年)の直後、豊臣(当時は羽柴)秀吉の居城だった長浜城にいた母・なかと妻おねらの逃避行を警護した家臣・広瀬兵庫助に宛てた古文書2通が見つかったと発表した。「(母や妻のために)尽力してもらってうれしい」という趣旨のねぎらいと恩賞を与えると記したもので、兵庫助の子孫が9月に原本を同博物館に寄託した。11月11日から同博物館で展示される。
兵庫助は、この逃避行の同中敬語を担当し、美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内広瀬)にあった自らの館にかくまったとされてきた。

天平の音色肌で感じて! 10/24から「正倉院展」

天平の音色肌で感じて! 10/24から「正倉院展

奈良・正倉院に伝わる宝物を紹介する「第67回正倉院展」の開会式が10月23日、奈良市の奈良国立博物館で開かれ、招待客約2600人が訪れた。一般公開は24日から11月9日までの17日間。
今回は初出展12件を含む宝物63件を展示。象牙や緑色に染めた鹿角などで作られた花文様がリズミカルに背面を飾る「紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)」や宝物リスト「国家珍宝帳」に記載された聖武天皇遺愛の「七条褐色紬袈裟(しちじょうかっしょくのつむぎのけさ)」、大ぶりのハスの花が目を引くフェルトの敷物「花せん」など、逸品が並ぶ。

長岡京 大極殿院の規模特定 礎石の据え付け穴など発見

長岡京 大極殿院の規模特定 礎石の据え付け穴など発見

京都府向日(むこう)市埋蔵文化財センターは10月22日、平安京遷都(794年)までの10年間、桓武天皇治政下、都が置かれた長岡京の中枢部、長岡宮の跡(京都府向日市)で、大極殿を囲む北側回廊の柱を支えた礎石の据え付け穴や、その南北の溝状遺構が見つかった。
桓武天皇が政務を執った大極殿の回廊の柱位置や幅が特定できたのは初めて。3列になった穴8個(直径1.2㍍、深さ10㌢)や、基壇(土台部分)を支える化粧石を抜き取った溝を確認。柱の間隔は東西に3.6㍍、南北に2.4㍍で、壁を挟んで二つの通路が並ぶ「複廊」構造だった。
過去の調査で大極殿のあるエリア「大極殿院」は東西約105㍍、南北約122㍍の縦長だったと推測されていたが、今回の発掘からそうした規模が確実となった。

悩める乱歩の未発表手記見つかる 内面赤裸々に記す

悩める乱歩の未発表手記見つかる 内面赤裸々に記す

今年没後50年にあたる作家・江戸川乱歩(平井太郎、1894~1965年)の1936(昭和11)年の日付が記された未発表手記が見つかった。「怪人二十面相」などで人気を得ながら悩み、海外の文学や哲学を読んで思索を深めていたことが分かる。従来の自伝や随筆に見られない乱歩の生の思いが伝わる貴重な資料だ。
手記は原稿用紙38枚。遺族が立教大に寄託した資料から成蹊大の浜田雄介教授らが見つけた。日付は同年6月18日から7月5日で、タイトルは「誰にも宛てない手紙」などを消して「独語」に。欄外に赤字で「発表せず」と書かれていた。

「梟の城」執筆した作家・司馬遼太郎の文机帰郷

「梟の城」執筆した作家・司馬遼太郎の文机帰郷

来年没後20年になる作家、司馬遼太郎(1923~96年)が、直木賞を受賞した「梟(ふくろう)の城」(1960年1月受賞)など初期作品を大阪市内で執筆していたころの文机が委託先から約半世紀ぶりに帰郷した。東大阪市の終の棲家(ついのすみか)跡に建てられた司馬遼太郎記念館が10月20日、公表した。
木製で幅81.5㌢、奥行き55㌢、高さ33㌢、引き出しが三つの座り机。司馬は1959年1月、産経新聞の同僚記者だった福田みどりさん(2014年11月)と結婚。それまで暮らしていた大阪府八尾市から、大阪市西区の「西長堀アパート」に移住した.机は八尾時代から新婚アパート時代初期までの間に使われ、直木賞受賞作の他に長編「花咲ける上方武士道」などが生み出された。

推定体長18㍍ 北海道で国内最大級のクジラの化石

推定体長18㍍ 北海道で国内最大級のクジラの化石

北海道月形町の約533万~360万年前地層から化石で見つかった鯨が、当時としては国内最大級の個体だったと分かった。ナガスクジラの仲間とみられ、推定で体長約18㍍、体重約30㌧。新種の可能性もある。鯨類の進化過程や生息環境の解明に役立ちそうだ。
札幌市博物館活動センターによると、化石は成獣で、これまでに国内で発見されている同じ時代のナガスクジラの仲間は、成獣でも6~7㍍級のものが多いという。

聖徳太子ら 日本最古の官道「竹内街道」で時代行列

聖徳太子ら 日本最古の官道「竹内街道」で時代行列

飛鳥時代に整備され、大阪と奈良を結ぶ日本最古の官道とされる「竹内(たけのうち)街道」が町の中心部を通る太子町で10月17日、地元の住民らが聖徳太子や推古天皇ら街道ゆかりの人物に扮して、約1.5㌔の時代行列を行った。
日本書紀に613年に「難波より京に至る大道を置く」とあり、竹内街道の大部分がこのルートと重なる。敷設1400年を祝い、時代行列は2013年に始まった。行列には聖徳太子の命を受け、遣隋使として中国・隋に渡った小野妹子ら、歴史の表舞台で活躍した人物らの姿も見られた。

「稲むらの火祭り」町民ら700人が防災意識新たに

「稲むらの火祭り」町民ら700人が防災意識新たに

江戸時代の安政南海地震(1854年)で、田に積まれた稲わらに火を放って、村人を高台に避難させ津波から命を救った浜口梧陵の史実を再現する「稲むらの火祭り」が10月17日、和歌山県広川町であった。参加した町民ら約700人は、浜口梧陵が遺した、かけがえのない教訓に、防災への意識を新たにした。
午後6時ごろ、たいまつを持った行列が町役場を出発。高台にある神社まで、当時の避難路約2㌔を練り歩いた。そして史実通り、稲わらに火が放たれると一気に燃え上がった。

石清水八幡宮 国宝に 網走監獄を重要文化財に

石清水八幡宮 国宝に 網走監獄を重要文化財に

文化審議会は10月16日、石清水八幡宮本社(京都府八幡市)を国宝に、旧網走監獄(北海道網走市)など8件を重要文化財に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。近く答申通り指定され、建造物の国宝・重要文化財は2445件になる。
石清水八幡宮は平安時代の860年に創建。現在の本社社殿群は、江戸幕府が1634年に建て替えた。文化庁では、古代の荘厳な形式と近世らしい装飾を兼ね備えた完成度の高い建築で、広く浸透した八幡信仰の象徴としても深い文化史的意義がある-としている。
旧網走監獄は刑の重い服役囚を収容した刑務所で、現在に残る建物は明治45(1912)年に再建された。明治期の木造監獄の数少ない保存例、博物館として公開されている。刑務所の建物が重要文化財になるのは初。
このほか文化審議会は、国宝「龍光院書院」(京都市)の指定範囲の追加や、諏訪大社上社本宮(長野県諏訪市)の建物10棟を重要文化財にに追加することも求めた。

官営の製塩施設か 貝塚に炉跡や土器片 宮城県で出土

官営の製塩施設か 貝塚に炉跡や土器片 宮城県で出土

宮城県東松山市教育委員会は10月15日、同市の江ノ浜貝塚で9世紀(平安時代初期)の大規模な製塩炉跡や多量の製塩土器片が見つかったと発表した。
同県多賀城市にあった陸奥国府多賀城との関わりを示す遺物も出土し、官営施設だった可能性が高いという。貝塚は松島湾の入り江に面した砂丘にあり東日本大震災で壊れた防潮堤の復旧工事に伴い、5月から発掘調査していた。
奥松島縄文村歴史資料館によると、砂丘の斜面に沿った幅約10㍍の範囲で、石を組むなどした6基の製塩炉跡を確認した。

蕪村の知られざる212句 奈良・天理大図書館が入手

蕪村の知られざる212句  奈良・天理大図書館が入手

天理大付属天理図書館(奈良県天理市)は10月14日、入手した句集に、江戸時代を代表する俳人、与謝蕪村(1716~1783年)の作で、これまで知られていなかった212句が収録されていたと発表した。蕪村の句でこれまでに確認されていたのは約2900句で、専門家はこれだけまとまった新出句が判明したのは意義深い-としている。
同図書館によると、「夜半亭(やはんてい)蕪村句集。蕪村門下の京都・寺村百池(ひゃくち)の家に伝わっていたとされる。1934(昭和9)年に雑誌「俳句研究」でその存在が紹介された後、行方が分からなかったが、同図書館が4年前に書店から入手した。
句集は四季別に編集され、春夏と秋冬の2冊。安永・天明期(1770~80年代)の制作とみられる。内容を精査したところ、収められた1903句の約1割(春57、夏35、秋59、冬61)が未知の句だった。蕪村筆と思われる朱の書き入れや墨書による訂正などもあった。
「傘(からかさ)も化(ばけ)て目のある月夜哉(かな)」は、句の前に「化物題」とあり、化け物をお題にした句会で詠んだ可能性がある。「我焼きし野に驚(おどろく)や艸(くさ)の花」などの句も記されていた。

龍馬はやはり剣の達人 北辰一刀流免許皆伝示す文書

龍馬はやはり剣の達人 北辰一刀流免許皆伝示す文書

幕末の剣豪、千葉周作が創始した「北辰一刀流」の免許皆伝書を、坂本龍馬が取得していたことを示す文書を、高知県立坂本龍馬記念館が初めて確認した。北海道にある坂本家が今夏、同館に寄贈した龍馬の関連史料の中から見つかった。同館によると、皆伝書の存在を示す文書は7代当主の弥太郎が明治43年8月30日付で龍馬の甥の妻に書いた預かり書。
北海道で行われた坂本龍馬遺品展に出品する際に書き記したもので、秘伝巻物として「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」と書かれていた。さらに別の展覧会に出品した龍馬の遺品の目録(昭和4年)では「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部焼失セリ 於釧路市」と書かれていた。
これらの記述から、大正2年に釧路で起きた火災で坂本家が延焼した際、龍馬の剣術の皆伝書は焼失したとみられる。

奈良公園で秋の風物詩「シカの角切り」

奈良公園で秋の風物詩「シカの角切り」

古都・奈良の秋の風物詩「シカの角切り」が10月10日、奈良公園(奈良市)の鹿苑(ろくえん)で始まった。江戸時代初期から続く伝統行事。
和太鼓の音とともに、角切り場に放たれたシカを、鉢巻きに法被姿の勢子(せこ)約20人が追い回し角に縄を引っ掛けて捕獲。烏帽子を付けた神職役が、のこぎりで角を切り落とすと観客から大きな歓声が上がった。角切りは11日、12日も正午から午後3時まで行われる。

「舞鶴への生還」「東寺百合文書」世界記憶遺産に

「舞鶴への生還」「東寺百合文書」世界記憶遺産に

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10月9日、日本が申請していた「舞鶴への生還」と「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」が世界記憶遺産に登録されたと発表した。この結果、日本の世界記憶遺産は5件となった。
「舞鶴への生還」(申請者・京都府舞鶴市)は、第二次世界大戦後、舞鶴港に引き揚げたシベリア抑留者たちの手記など570点で、市文化財に指定されている。抑留者がストーブのすすをインク代わりにして綴った「白樺日誌」や、抑留中の収容所で発行された新聞のほか、戦後のヒット曲「岸壁の母」のモデル、故・端野いせさんが息子に宛てた手紙も含まれる。舞鶴市の舞鶴引揚記念館で約40点が常設展示されている。
東寺百合文書(申請者・政府)は、794年の平安遷都ともに建立された東寺に伝わる8~18世紀の文書約2万5000通。仏教史や寺院史の研究上、貴重な史料で、足利義満の直筆や織田信長の印入りの文書もある。

「琳派400年」を記念したファッションショー

「琳派400年」を記念したファッションショー

「琳派400年」を記念したファッションショーが10月9日、京都市東山区の京都国立博物館で開かれた。ファッションデザイナーのコシノジュンコさんが琳派をイメージしてデザインし、京友禅や西陣織の技術も取り入れた衣装が次々に登場した。江戸時代の遊びなどを金糸や漆を素材にして表現した着物やドレス約40点が披露された。囃子(はやし)やコシノさんの衣装を身にまとった能の演出もあり、招待客たちは華やかで雅な「琳派の美」を楽しんでいた。
2015年は琳派の祖・本阿弥光悦が徳川家康から京都・鷹峯(たかがみね)の領地を拝領した1615年から400年の節目となる。

藤原京大極殿の階段跡発見 平城京構造解明に手がかり

藤原京大極殿の階段跡発見 平城京構造解明に手がかり

奈良県文化財研究所は10月9日、国内初の本格的な都城・藤原京(694~710年、奈良県橿原市)の宮跡で、天皇の即位など重要儀式が営まれる大極殿の階段跡が3カ所見つかったと発表した。同研究所では「大極殿の構造の解明に役立つ重要な手がかりだ」としている。 また、大極殿の建物規模は推定で東西約45㍍、南北約20㍍と確認された。これは、平城京大極殿(第1次)とほぼ一致し、専門家は「平城宮大極殿は藤原宮大極殿を移築したとの定説を裏付ける成果」という。

鎌倉大仏 修理へ 16年1~3月拝観を停止

鎌倉大仏 修理へ 16年1~3月拝観を中止

神奈川県鎌倉市の鎌倉大仏殿・高徳院は国宝の本尊・銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏、高さ13・35㍍)の保存修理工事を、2016年1月13日から3月10日までの予定で実施する。
1959年から約2年半がかりで実施した耐震補強の「昭和の大修理」から半世紀以上が経過している。保存状態を詳細に調べるとともに、表面をきれいにする。調査で集めたデータは専門家らが分析し、問題が見つかれば別途修復工事を検討する。国庫補助事業で総工費は6496万円。

はためく恭仁宮 新年儀式 旗竿穴を確認 史書裏付ける

はためく恭仁宮 新年儀式 旗竿穴を確認 史書裏付ける

京都府教育委員会は10月8日、聖武天皇が奈良時代の一時期、都を置いた恭仁宮(くにきゅう、京都府木津川市)の朝堂院跡で、天皇や宮人らが新年を祝う朝賀の際に旗竿を立てた跡とみられる穴3個が見つかったと発表した。
平安初期の史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大極殿完成前の741年と742年の元日に朝賀が行われたとの記述があり、穴には装飾を施した宝幢(ほうどう、旗竿)7本を立てた際に掘られたらしい。同種の穴跡が確認された平城宮跡(奈良市)より古い。
穴跡は役人らが執務した朝堂院の敷地内で確認された。穴跡は約5.4㍍間隔で東西に並び、それぞれ横3㍍、縦1.1~1.2㍍、深さ50~90㌢。高さ約9㍍の旗竿の中央柱と脇柱を立てた穴の跡とみられる。その東側にも等間隔で4個の穴を掘り、西から順に玄武、白虎、月像、銅烏(カラス)像、日像、青龍、朱雀の各旗竿を立てたとみられる。
続日本紀には741(天平13)年正月「宮垣未就」(宮を囲う塀が未完成)、742年「為大極殿未成(中略)造四阿殿於此受朝」(大極殿は未完成だが、仮施設で朝賀を行う)と記されている。743年には大極殿で元日を祝う儀礼をしており、確認された穴跡は741年と742年の記述を裏付けるものとみられる。

大阪府・近つ飛鳥博物館で「ワカタケル大王」展 開幕

大阪府・近つ飛鳥博物館で「ワカタケル大王」展 開幕

大阪府・河南町の府立近(ちか)つ飛鳥博物館で10月3日、雄略天皇の時代を考古資料で探る特別展「ワカタケル大王の時代」が開幕した。河内平野に築かれた巨大古墳から出土した豪華な副葬品などが展示され、訪れた古代史ファンが「倭(わ)の五王(ごおう)」の時代に思いを馳せた。会期は11月29日まで。
雄略天皇は5世紀後半に実在したヤマト王権の大王で、中国・宋に使節を派遣した倭の五王のうち最後の「武」としても知られる。日本書紀では第21代・大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと)とおくり名されている。5世紀はヤマト王権の勢力が伸長した時期で、各地の首長の墓である前方後円墳も巨大化した。また、国際化の時代で、朝鮮半島に出兵したり、先進技術ががもたらされたりした。
特別展では、埼玉県行田市にある稲荷山古墳から見つかり、「ワカタケル大王」と読める文字が刻まれた金錯銘(きんさくめい)鉄剣のレプリカをはじめ、真の雄略天皇陵の可能性が指摘される岡ミサンザイ古墳(藤井寺市、仲哀天皇陵)出土の埴輪などが展示されている。
また、5世紀代の近畿各地の古墳の多様な出土品や墓に供えられた須恵器なども公開。この時代の国際色豊かな文化のありようを探っている。
10月25日には仁藤敦史・国立歴史民俗博物館教授による講演「『治天下大王』の支配権」があるほか、多彩な講座、シンポジウムが行われる。10月4、17、31日と11月21、29日のいずれも午後2時からは学芸員が展示解説を行う。

大阪 本町橋・松竹座の資料発見 戦前の上方寄席

大阪 本町橋・松竹座の資料発見 戦前の上方落語

戦前、大阪・生國魂(いくくにたま)神社の分社・御旅所(おたびしょ)=大阪市中央区本町橋=境内にあった寄席「松竹座」の建築許可証や見取り図が、経営者の遺品から見つかった。
当時、大阪の中心部には二十数軒の寄席があったとされるが、その多くは太平洋戦争の空襲で罹災(りさい)しており、専門家は「当時の寄席の見取り図は大変珍しい。全体像がよく分かる貴重な資料」と話している。
松竹座は1911(明治44)年開場。経営者の飯沼梅吉さんと妻タケさんの名前が「松竹梅」にちなむことから命名した。見つかったのは「建築許可証」(大正10年大阪府発行)や「興行場検査証」(大正11年同)と、それぞれに添付された見取り図。「検査証」によると、戦況が悪化した昭和19年、「大阪府貨物自動車運送事業組合」に貸与され、同20年の空襲で焼失した。
見取り図などによると、2階建てで総面積約200平方㍍。1階中央は「平場(ひらば)」と呼ばれる畳席で79人収容。ほかに1階左右と2階正面、左右に桟敷席があり、計187人収容した。

大阪・寝屋川の小路遺跡で古墳時代初期の集落跡出土

大阪・寝屋川の小路遺跡で古墳時代初期の集落跡出土

大阪府寝屋川市小路南町の小路遺跡で、2世紀後半~3世紀の古墳時代初めとみられる大規模な集落跡が出土したと、同市教育委員会が発表した。北河内地域で、この時代の集落跡が確認されたのは初めて。同市教委では、同地域で古墳が出現した時代を解明する手掛かりになるとしている。
市教委によると、今年3月から9月まで土地区画整理事業に伴い、約4000平方㍍を発掘調査。地表から約50㌢の部分で柱穴や井戸、溝などの遺構を発見した。ごみを捨てたとみられる穴からは約2000点の土器片が出土した。集落跡は東西200㍍、南北約300㍍の範囲に広がっていたと推定される。
土器の中には吉備地方(岡山県)や東海地方(愛知県)のものも見つかり、こうした地域との交流も想定される。遺構から南東に約500㍍離れた四条畷市岡山には、古墳時代前期の前方後円墳(忍岡古墳)があり、集落跡との関連も考えられるという。

新婚 三島由紀夫の幸せ報告 手紙見つかる

新婚 三島由紀夫の幸せ報告  手紙見つかる

作家の三島由紀夫(1925~70年)が、新婚旅行中に書いた英文の手紙が見つかった。米出版社の社長宛てで、妻の瑤子さんを「かわいくて良い子(cute and sweet)」と紹介するなど、後年の三島のイメージからはあまり連想できないほど、幸せがにじむ文面が綴られている。
手紙は1958年6月4日付。33歳の三島が新婚旅行中の宿泊先だった箱根富士屋ホテルの便箋2枚を使い、『仮面の告白』英語版の出版社の社長に近況を報告したものだ。
三島は母の手術と回復を報告。続けて「私は6月1日に結婚しました。今はハネムーン中です。私の妻瑤子は21歳の大学生です。彼女はとてもかわいくて、良い子です」と紹介している。手紙は米国の骨董商が見つけた。

「式年造替」の春日大社で本殿修理 朱塗り替え

「式年造替」の春日大社で本殿修理 朱塗り替え

社殿を20年に1度修復する「式年造替」を行っている春日大社(奈良市)で9月28日、国宝・本殿の修理がが始まり、屋根飾りの「千木(ちぎ)」などが取り外された。修理では檜皮(ひわだ)屋根の吹き替えや、柱の朱の塗り替えなども行い、2016年秋に完成予定。
1863(文久3)年建築の本殿は幅約1.9㍍、奥行き約2.5㍍、高さ約5.7㍍の神殿4棟が横に並ぶ独特の構造。かつては式年造替のたびに建て替えたが、明治以降は文化財保護のため修理している。春日大社の千木は長さ2.4㍍のヒノキ部材2本を交差させて朱を塗り、金箔を張った銅製金具を用いた豪華な造り。近くの仮殿に移されているご神体は、本殿修理後の16年11月、遷座祭で本殿に戻る。

「命のビザ」の業績説明 記憶遺産候補に杉原氏資料

「命のビザ」の業績説明 記憶遺産候補に杉原氏資料

第二次世界大戦中、ユダヤ人に「命のビザ(査証)」を大量に発給しナチス・ドイツの迫害から救った外交官・故杉原千畝(すぎはらちうね)氏(1900~86年)の資料(杉原リスト、所在地・岐阜県)と、古代石碑「上野三碑(こうずけさんひ)」(群馬県)の2件が、2017年の登録を目指す記憶遺産の候補に選ばれた。
外交官・杉浦千畝氏の資料(杉原リスト)は20点で構成。ビザを記入したパスポートや発給者リストの外交公電のほか、自筆手記、避難者が日本に上陸した後の記録が含まれる。
「上野三碑」は現存では日本最古とされる「山上碑」、楷書体の字体や碑の形状に当時の中国文化の影響がみられる「多胡碑」、仏教の広がりや家族制度の様子を記した「金井沢碑」の三つの石碑。7~8世紀に現在の群馬県高崎市に建立され、国の特別史跡。

“大阪の恩人”に思いを馳せ 五代友厚 没後130年

“大阪の恩人”に思い馳せ 五代友厚 没後130年

大阪商工会議所の初代会頭で幕末から明治にかけて経済の近代化した尽くした五代友厚の命日にあたる9月25日、大阪市阿倍野区で墓前祭が行われた。五代は28日から放送が始まるNHK連続テレビ小説「あさが来た」で、女性実業家・広岡浅子をモデルとした主人公の精神的支柱として登場するほか、映画化(平成30年公開予定)も進行するなど、その功績を再検証する機運が高まる中、没後130年の節目に関係者らが思いを馳せた。
墓前祭は五代の功績を伝えようと平成25年に発足した任意団体「五代友厚プロジェクト」が企画した。この日、大阪市阿倍野区の市設南霊園にある五代友厚公墓所にプロジェクトのメンバーや五代の親族ら約100人が参列した。墓前祭の後には同区民センターでパネルディスカッションなどが行われた。大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)や「大阪株式取引所」(現・大阪取引所)などの創設に力を尽くし「大阪の恩人」と呼ばれた。

龍馬暗殺直前 福井から帰京、滋賀の宿屋に記録

龍馬暗殺直前 福井から帰京、滋賀の宿屋に記録

NPO法人京都龍馬会は9月21日、暗殺される直前坂本龍馬が、雪深い陸路を通って福井から京都に戻っていたとする記録が、滋賀の塩津(現在の長浜市)で宿屋を営んでいた林市郎の経歴書から見つかったと発表した。
坂本龍馬記念館(高知市)によると、龍馬は暗殺時に風邪をひいていたとされており、同館ではこの経歴書の信ぴょう性は高く、福井行きで体調を崩した可能性があるとしている。
経歴書によると、林は1867年、京都の近江屋で龍馬と面会、龍馬が福井からの帰路、雪深い琵琶湖西側の西近江路を通ったと聞いた。11月5日に福井出張から京に戻り、15日に暗殺された-などと記している。

井伊直弼生誕200年祭 彦根城でゆかりの能・狂言

井伊直弼生誕200年祭 彦根城でゆかりの能・狂言

彦根市で開催中の井伊直弼公生誕200年祭の関連事業「彦根城能」が9月22日、同市の彦根城博物館能舞台で開かれ、直弼ゆかりの演目が訪れた約200人の観衆を魅了した。
幕末の幕閣にあっては大老職に就き、ともすれば悪評高い安政の大獄を断行した”悪玉”に仕立て上げられる直弼だが、一個人としては品格のある文化人だった。そのため、茶道や能・狂言などにも明るく、関心が高かった。
直弼がつくったとされる素謡「筑摩江」に続き、能「安達ケ原」をもとに直弼がつくりあげたと伝わる狂言「鬼ヶ宿」を、大蔵流の茂山千五郎さんらが演じた。最後に直弼が自身の好みで演出したとされる能「竹生島 女体」を喜多流の粟谷能夫さんらが上演した。弁財天や龍神が登場する場面に、観客らは息をのんで魅入っていた。

A級戦犯7人の絶筆公開「全く相済まぬ」東条の遺書も

A級戦犯7人の絶筆公開「全く相済まぬ」東条の遺書も

終戦直後、巣鴨拘置所の教誨(きょうかい)師として日本人で唯一、東条英機らA級戦犯7人の最後を見届けた仏教学者、花山信勝(しんしょう)氏(故人)の生家の宗林寺(金沢市)で、A級戦犯の絶筆や遺書など二十数点が一般公開されている。戦後、同寺で厳重に保管され、戦後70年を機に「平和の大切さを再認識するきっかけにしてほしい」と初めて公開に踏み切った。
A級戦犯の絶筆は、開戦時の首相の東条、元奉天特務機関長、土肥原賢二、元中支那方面軍司令官、松井岩根(いわね)、元陸軍軍務局長、武藤章、元陸相、板垣征四郎、元首相、広田弘毅(こうき)、元陸軍次官、木村兵太郎-の7人が1948年12月23日未明の絞首刑直前、両手に手錠をかけられた状態で1枚の紙に名前を連署した。
東条の遺書は同年11月17日、花山氏に宛てて書かれ、5日前に軍事法廷で下された死刑判決への受け止めや国家、国民への思いがわら紙原稿用紙に鉛筆でびっしり綴られている。「一応の責任を果たしホット一安心」とする一方、「同胞のことを思う時、私の死刑によっても責任は果たされない。全く相済まぬことと思っている」と心情を吐露している。

好々爺、笑顔の山縣有朋の写真見つかる

好々爺、笑顔の山縣有朋の写真見つかる

明治の元勲、いかめしい強面(こわもて)権力者の印象が強く、笑わない人物として知られ、明治政府の第3代、9代の首相を務めた山縣有朋の笑顔の写真が見つかった。極めて珍しい好々爺の山縣像だ。
「山縣有朋記念館」東京事務所が所蔵。写真は著名人の笑顔を集めた雑誌『ニコニコ』に掲載された写真で、山縣が79歳の時のスナップという。同誌で「世間の評判が悪いのはニコニコの修養が足りない」と批判された後に、撮影されたものらしい。この20年ぐらい前にこんな写真が出ていたら、山縣を見る世間の目もかなり違っていたかも知れない。

幽玄の世界「大坂夏の陣400年 大阪城本丸能」

幽玄の世界「大坂夏の陣400年 大阪城本丸能

大坂夏の陣から400年を記念し、大阪市中央区・大阪城本丸広場で9月20日、かがり火で能や狂言を楽しむ「夏の陣 大坂城本丸能」が9月20日始まった。23日まで4日間の日程で行われる。
冒頭、薪(たきぎ)に神火をともす「火入れ式」が行われ、舞台を囲む3つのかがり火が宵闇に揺らめくと、幽玄の世界に誘われたような錯覚を覚え、思わず客席からは拍手が湧いた。大坂城天守閣を背景にした幻想的な舞台に観客らは酔いしれた。21日には野村萬斎さん(49)も出演する。

奈良市で「うどんルーツサミット」春日餺飥うどんPR

奈良市で「うどんルーツサミット」春日餺飥うどんPR

平安時代に奈良・春日大社で振る舞われたとされる麺を再現した「春日餺飥(はくたく)うどん」をPRしようと9月19日、奈良市で「うどんルーツサミット」が開かれた。
論争がある”うどん発祥の地”候補として注目を集める狙いもある。藤原実資の日記「小右記」に989年、一条天皇が「餺飥」と呼ばれる麺を食べたという記述があることに、NPO法人「奈良の食文化研究会」が注目。春日大社の監修のもとで開発した。

平城宮跡で10/3「庭の宴」天平衣装ファッションショー

平城宮跡で10/3「庭の宴」天平衣装ファッションショー

平城宮跡(奈良市)にある国の特別名勝「東院庭園」で10月3日午後6時半から、奈良時代の宴席を再現する「庭の宴」が開かれる。天平衣装のファッションショーや雅楽の演奏、古代食などが楽しめる企画で、主催する奈良文化財研究所が参加者を募集している。
このイベントは奈良文化財研究所が、史跡を活用し、当時の政治や暮らしを知ってもらおうと2年前から「観月会(かんげつえ)」と題して開催。今年は東院庭園が「楊梅宮」と呼ばれていた宝亀8(777)年に双頭のハスが咲いたという続日本紀の記述にちなみ、慶事を祝う宴席を再現する。唐楽などの演奏や研究員によるミニ講演があるほか、参加者には黒米と赤米の俵飯や古代のチーズ「蘇(そ)」など古代食も振る舞われる。
参加料は2500円。定員150人で応募多数の場合抽選となる。問い合わせは事務局(0742-30-6711)。

坂本龍馬「幻の愛刀」11月に86年ぶりに公開へ

坂本龍馬「幻の愛刀」11月に86年ぶりに公開へ

坂本龍馬がとくに愛した刀と伝えられ、昭和4年に東京で展示されて以来、行方が分からなくなっていた日本刀を、北海道在住の坂本家の関係者が保管していたことが9月16日分かった。高知県立坂本龍馬記念館(高知市)で11月、86年ぶりに公開される。
同記念館によると、見つかったのは刀身約52㌢の脇差し。備前長船(おさふね)の刀匠「勝光」「宗光」の名や「永正2(1505)年8月吉日」と年月が記され、室町時代末期につくられたとみられる。