鑑真・・・日本で初めて授戒を行い、戒律制度を伝えた律宗の開祖

 鑑真は、朝廷からの「伝戒の師」としての招請を受け、数々の苦難を超えて、6回目の渡海で来日した、唐代、江南第一の大師と称された人物で、日本における律宗の開祖だ。天皇をはじめ多くの人々に日本で初めて正式な授戒を行い、日本の仏教界に正式に戒律制度を伝えた人でもある。鑑真の生没年は688(持統天皇2)~763年(天平宝字7年)。

 鑑真は中国・唐代の揚州江陽県に生まれた。俗姓は淳于。14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、道岸、弘景について律宗・天台宗を学んだ。713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称された。律宗とは仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え、研究する宗派だが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者で、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている高僧。

鑑真は揚州の大明寺の住職だった742年(天平元年)、第九次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧、栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。しかし周知の通り、その実現は容易なものではなかった。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗。次第に視力を失うことになったが、753年(天平勝宝5年)、6回目にして鑑真が乗り込んだ、帰りの遣唐使船が薩摩・坊津に漂着、遂に日本の地を踏んだ。鑑真66歳のことだ。以後、76歳までの10年間のうち、5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごし、天皇はじめ多くの人々に授戒を行った。

 仏教では新たに僧となる者は戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには10人以上の正式の僧尼の前で儀式(=授戒)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は、自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。

 しかし、奈良時代に入ると戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。こうした時代背景の下、栄叡と普照は授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れたのだ。
 栄叡と普照から強い要請を受けた鑑真は弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで、鑑真自らが渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人が随行することになったのだった。

 こうして来日した鑑真は753年(天平勝宝5年)、大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行った。そして754年(天平勝宝6年)、鑑真は平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により、戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することになった。同年4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇から僧尼まで430余名に菩薩戒を授けた。これが日本で行われた最初の登壇授戒である。併せて常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

 758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により鑑真は大和上に任じられ、政治に捉われる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を与えられる配慮が成された。759年(天平宝字3年)、鑑真に新田部親王の旧邸宅跡(現在の奈良市五条町)が与えられ、ここに彼は「唐律招提」(とうりつしょうだい、後の唐招提寺)と名付けられた、戒律を学ぶ人たちのための修行道場を建てた。 
 
 同寺には戒壇は設置されたが、あくまでも鑑真和上の私寺であって、当初は経蔵、宝蔵などがあるだけだった。そのため、金堂は763年(天平宝字7年)の鑑真の死後、弟子の一人だった如宝(にょほう)の長年にわたる勧進活動により、781年(天応1年)以降、完成したといわれる。これにより現在は、この「唐招提寺」が奈良時代建立の金堂、講堂として“天平の息吹”を伝える貴重な伽藍となっている。2001年(平成13年)1月から始まった平成の大修理事業で解体され、地震対策として耐震性も強化、一新された金堂の工事が終了、09年11月1日、落慶法要が行われた。

 鑑真は戒律のほか、彫刻や薬草などへの造詣もとりわけ深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院もつくり、貧民救済にも積極的に取り組んだ。
 師・鑑真の死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆造=だっかつかんしつづくり 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法、両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている。国宝の「唐招提寺鑑真像」がそれだが、これが日本最初の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船(おおみのみふね)により、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
(参考資料)永井路子「氷輪」、井上靖「天平の甍」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」古寺を巡る「唐招提寺」

楠木正成・・・天才的な策略家で後醍醐天皇の作戦参謀として勤皇を貫く

 もう10年以上も前のことだが、NHKが歴史のテレビ番組に「建武新政敗れ 悪党楠木正成自刃す」というタイトルをつけ、正成を祀っている湊川神社(神戸市)が抗議するという事件があった。確かにタイトルに「悪党」とつけられては、正成が「悪人」だったという印象を受ける。これに対してNHKは「悪党は悪い連中という意味ではなく、歴史上の新興勢力を表す語」と説明した。実際にこれは正しいのだが、歴史上の「悪党」という言葉は、現代の国民的常識となっていないから、早合点すると、楠木正成は悪人だったのだと思い込む人がいないとも限らない。

 楠木正成は謎の人物だ。楠木氏は伊予国の伊予橘氏(越智氏)の橘遠保(たちばなのとうやす)の末裔という。しかし、正成以前の系図は諸家で一致せず、後世の創作とみられる。河内には楠木姓の由来となるような地名はない。つまり、先祖が分からず、家系が分からず、身分も定かでない。本拠地がどこだったのかについても諸説あり、確かなことは分からない。

にもかかわらず、戦前の日本人にとって楠木正成ほど有名な歴史上の人物はいなかった。日本一の大忠臣「大楠公」として、大日本帝国臣民が模範としなければならない第一の人物として、歴史教育の中で徹底的に叩き込まれたからだ。そのため、戦後は神功皇后などとともに歴史の教科書から真っ先に抹殺されることになった。

 伝えられる正成の出生地は河内国石川郡赤阪村(現在の大阪府河内郡千早赤阪村)。生年に関しての明確な史料は存在せず、正成の前半生はほとんど不明だ。様々な歴史家による研究にもかかわらず、正成の確かな実像を捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年に過ぎない。

正成は1331年(元弘元年)、臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の水銀などの流通ルートで活動する「悪党」と呼ばれる豪族だったと考えられている。このとき、すでに官職を帯びていることから、これ以前に朝廷に仕え、後醍醐天皇もしくはその周囲の人物たちと接触を持っていたと思われる。この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと、下赤坂城で挙兵し、湯浅定仏と戦う(赤坂城の戦い)。

後醍醐天皇と正成を結びつけたのは伊賀兼光、あるいは真言密教の僧、文観と思われる。正成は後醍醐天皇が隠岐に流罪となっている間にも、大和国吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦している。正成は少数で大軍を破るという、天才的な策略家だった。1333年(元弘3年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。

 後醍醐天皇の建武新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となった。正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、足利尊氏が離反して後、実質上、後醍醐天皇の作戦参謀として新政の軍事主体の主力の一方になり、最後まで勤皇を貫いたことは特筆される。ただ、中国の諸葛孔明と並び称される鬼謀の数々を発揮しながら、正成には最後まで実力に応じた地位が与えられなかった。このことが、実態としては「補佐役」でありながら、戦局を左右する様々な進言が、簡単に退けられ、最終的に敗死の悲劇につながった。

 1336年(建武3年)、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に、新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが受け容れられず、次善の策として、いったん天皇の京都からの撤退を進言するが、これも却下される。ここで後醍醐天皇を見限ってもなんら批判、非難されることはないはずだ。

 ところが、正成はそれでも陣営にとどまったのだ。そんな絶望的な状況下で、しかも意に染まぬ新田義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)に臨んだのだ。朝廷側の主力となるべきは新田軍だった。だが、新田軍は戦いが始まってすぐに総崩れとなり、戦場に残される形となった正成のわずか700余騎が足利直義軍と戦い敗れて、正成は弟の楠木正季とともに自決したとされている。

 南朝寄りの「太平記」では正成の事績は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書「梅松論」でさえも正成に同情的な書き方をされている。この理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な正成に一目置いていたためとみられる。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「百人一語」、百瀬明治「『軍師』の研究」、永井路子「歴史の主役たち 変革期の人間像」、永井路子「続 悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

源信・・・ 『往生要集』で浄土教発展の基礎つくるが名利捨て念仏三昧

 源信は平安時代中期、『往生要集』を書いて、浄土教の発展の基礎をつくった僧として有名だが、天台僧として『一乗要訣』という天台の中心教義「一切衆生皆成仏」の理論の完成者だった。周知の通り、彼は一条天皇から僧都の位を賜り、「恵心僧都」と尊称された。だが、彼は信仰心篤い母の教えを忠実に守り、名利の道を捨てて隠棲し、まさしく市井で念仏三昧に生きた高僧だった。

 源信は大和国(現在の奈良県北葛城郡当麻)で生まれた。父は卜部正親、母は清原氏。幼名は千菊丸。源信の生没年は942(天慶5)~1017年(寛仁元年)。
源信は948年(天暦2年)、7歳のとき父と死別。950年(天暦4年)、信仰心の篤い母の影響で9歳のとき、荒廃した比叡山を再構築した中興の祖、慈慧大師良源(元三大師)に師事し、顕教、密教の奥儀を学んだ。そして、955年(天暦9年)出家、得度した。

956年(天暦10年)、源信は15歳で『和讃浄土教』を講じ、村上天皇により法華八講の一人に選ばれた。俊英の集まる良源門下で、源信の才能は若年時代から高く評価された。そして、下賜された布帛など褒美の品を故郷の母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えて、その品物を送り返した。その諫言に従い、彼は以後、名利の道を捨てたのだ。

源信は985年(寛和元年)、『往生要集』を脱稿。この往生要集は貴族を中心とした上流階級に限られるが、日本初の一般人向けの仏教解説書だ。この中で彼は阿弥陀のいる極楽への往生の方法を説いたのだ。そして、最も効果のある「念仏」の方法として勧めているのが、称名(しょうみょう)念仏ではなく、観想(かんそう)念仏という方法だ。

観想念仏は浄土三部経の『観無量寿経』に説かれている方法で、阿弥陀や極楽浄土のありさまをできるだけ観想(思い浮かべる)することによって、念仏を行うというものだ。現代風に表現すれば、イメージトレーニングだ。これは貴族の好みと一致した。観想念仏をするための一番いい方法は、この世に極楽浄土のありさまを再現することだ。今日、国宝として残っている宇治の平等院鳳凰堂は、観想念仏のために建てられたものだ。

1004年(寛弘元年)、栄耀栄華を誇った藤原道長が病を得て帰依したが、彼は京に浄土の再現ともいうべき寺、法成寺(ほうじょうじ)を建立している。道長は死に際して、法成寺の本堂に床を敷き、本尊阿弥陀如来と自分の手を五色の糸でつないで臨終を迎えたという。これほど源信が勧めた観想念仏は貴族たちを虜にしたのだ。

こうした事績が認められて源信は権少僧都となった。しかし、1005年(寛弘2年)、母の諫言を守り名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退した。また比叡山の腐敗体質にも失望して、名刹を離れて、横川の恵心院へ隠棲し、念仏三昧の求道の道を選んだ。臨終にあたって、源信も阿弥陀如来像の手に結び付けた糸を手にして、合掌しながら入滅したという。
源信の著作は『一乗要決』『因明論疏四相違略蔦釈』『六即義私記』『阿弥陀経略記』など70部以上150巻に及ぶが、代表作として知られるのはやはり、985年に著した、念仏による極楽浄土信仰興隆の起爆剤となった『往生要集』だ。

源信の浄土信仰の影響は法然、親鸞にも受け継がれている。源信は、浄土真宗では七高僧の第六祖とされ、「源信和尚」「源信大師」と尊称される。親鸞は『高僧和讃』において七高僧を挙げており、うち2人は日本人だ。ちなみに七高僧とは龍樹・世親・曇鸞・道綽・善導・源信・法然だ。
源信を境に、阿弥陀如来来迎図や浄土曼荼羅・仏像彫刻などの仏教芸術の最盛期を迎えることになるのだ。

 紫式部の『源氏物語』、芥川龍之介の『地獄変』に登場する横川の僧都は、この源信をモデルにしているとされる。
 このほか、『今昔物語』にはしばしば源信が実名で登場する。教訓的な内容や、人としての教えを語るにも、多くの人に知られている人物として、源信の信仰・思想などを、分かりやすく彼を介した話として取り上げられているのだろう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」

木戸孝允・・・“逃げの小五郎”時代を経て明治新政府の長州の代表者に

 木戸孝允は周知のとおり、西郷隆盛、大久保利通と並び称せられた「明治維新の三傑」の一人だ。確かに明治新政府における彼らの働きは群を抜いたものだった。薩・長・土・肥というが、これらの藩にはじめから統一した見解があったのではない。肥前は鍋島閑叟の態度にみられるように、完全に中立の態勢を取っていたし、土佐も山内容堂などは討幕に反対だった。坂本龍馬、中岡慎太郎ら家臣の一部が脱藩して、討幕に参加したまでのことだ。これに引き替え薩摩と長州は曲折があった後、連合し、新政府の推進力となった。この二藩が支えと成らなかったら、新政府は雲散霧消していただろう。木戸孝允の生没年は1833(天保4)~1877年(明治10年)。

 新政府で政局の中枢を握る者が、薩・長の二藩から出るのはまず妥当なことだった。長州を代表するのがこの木戸孝允だった。薩摩には西郷、大久保があるが、長州は木戸のみだった。長州藩に人材が少なかったのではない。維新後でいえば大村益次郎、もっと時代をさかのぼれば周布政之助、長井雅樂、高杉晋作、久坂玄瑞など多くの人材があったが、1869年(明治2年)京都の旅宿で刺客に襲われて死んだ大村はじめ、すでにすべて亡くなっていたのだ。

 木戸孝允の比重は高まるのみだった。彼は1849年(嘉永2年)、吉田松陰の門弟となり、その後江戸に出て、志士たちの集まる斎藤弥九郎道場の師範代を務め、水戸や土佐の藩士たちとの交渉もあったほか、全国的な顔の広さを持っていた。それに江川英龍に洋式砲術を学び、蘭学を学び、西洋事情にも詳しく、名実ともに長州藩を代表し、新政府の方向付けにはなくてはならぬ人材だった。

 その木戸、以前の名で桂小五郎は剣の道でも一流を極めながら、自ら刀を抜いて勝負を争ったことは一度もなかった。用心深い彼は、常にそうした争いの場所を避けて通ったのだ。1863年(文久3年)八・一八の政変のあとの京都は、会津藩の見廻組や、新選組などが探索の目を光らせ、志士にとっては実に物騒な場所だった。木戸は絶えず住所を変えながら、警戒の目をかいくぐって働いた。だから、彼には“逃げの小五郎”というようなあだ名さえ付いていた。池田屋騒動のとき、蛤御門の戦い(禁門の変)のときもそうだった。

 木戸は開明的だったが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治維新政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも「西郷、いいかげんにせんか!」と西郷隆盛を叱責するほど、明治政府と西郷隆盛軍双方の行く末を案じながら息を引き取ったという。

 長門国萩呉服町(現在の山口県萩市)で萩藩医、和田昌景の長男として生まれた。7歳のとき、桂家の末期養子となり長州藩の武士の身分と秩禄を得た。「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」だ。小五郎、貫治、準一郎は通称。「小五郎」は生家、和田家の由緒ある祖先の名前。「木戸」姓は第二次長・幕戦争前、1866年(慶応2年)に藩主毛利敬親から賜ったものだ。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、司馬遼太郎「幕末 逃げの小五郎」、南条範夫「幾松という女」

幸徳秋水・・・田中正造の依頼で天皇への直訴状を代筆、冤罪で死刑に

 幸徳秋水は周知の通り、大逆事件で死刑になった。明治時代、政府に対し徹底的に批判した人物は、幸徳秋水の師、中江兆民をはじめ、田中正造など数多い。しかし、その死の多くは病死だ。ところが、幸徳秋水の死は死刑だ。絞首刑に処せられた。明治国家は幸徳秋水の存在を許さなかったのだ。それほどに幸徳秋水は徹底した反逆者だったのか。

 幸徳秋水は1871年(明治4年)、高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれ、1911年(明治44年)刑死した。幸徳家は酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家だった。本名は幸徳伝次郎。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたものだ。生地の中村は、土佐の中では例外的に板垣退助の自由党よりも、大隈重信系改進党の力が強かったところだ。幼少の頃から神童といわれ、中学校に進んだ幸徳は、自由党熱にうかされた少年に育っていった。

幸徳が勉強を続けるために東京に出たのは1887年(明治20年)、17歳のときのことだ。林有造の書生となるが、保安条例によって東京を追放されて高知に帰った。1888年(明治21年)、大阪で『東雲(しののめ)新聞』を発行していた中江兆民の学僕となり、大きな影響を受ける。ここで幸徳は初めてフランス流民権論を身につけることができた。やがて発布される大日本帝国憲法が真の人民の権利という見地からみると、全くお粗末なものであることを教えられたのも、兆民の同憲法に対する冷評によってだった。

1891年(明治24年)、再度上京し国民英学会を卒業した幸徳は、兆民の世話で『自由新聞』に入社して、経済的にどうにか一本立ちできるようになる。「秋水」という号はこのとき兆民が幸徳に譲ったものだ。秋水と名乗るようになった幸徳は、『広島新聞』『中央新聞』で論説を書いた後、1892年(明治25年)、黒岩涙香の『萬朝報(よろずちょうほう)』に入社した。自信家の幸徳秋水は、存分に筆を振るう条件を与えてもらえないと、いつも不満で、勤め先を変えてしまうのだ。

黒岩涙香はスキャンダルに喰いついて離さず、『萬朝報』に徹底的に書きまくる。とりわけ政界上層部の名士たちが狙われ、庶民は大臣たちの私行暴露に拍手を送り、『萬朝報』の売れ行きはどんどん伸びていた。しかし、スキャンダルだけで売るのは限界がある。少しは理論的な筋を通さなければいけないと思っていたところへ、兆民の弟子として理論と文章力とを兼ね備えた秋水が現われた。黒岩にとっては大歓迎だし、秋水にとっては思う存分書かせてもらえるというわけだ。

 秋水が社会主義のグループと接触するのは、『萬朝報』に書くようになったお陰だ。秋水は早速「社会腐敗の原因及び其政治」という論文を載せ始めた。するとすぐに片山潜と村井知至の連名で、社会主義研究会に参加しないかという誘いのハガキがきた。秋水は喜んで入会し、毎月の例会に欠かさず出席、翌年には「現今の政治社会と社会主義」という報告を行うほどの積極的な会員となった。足尾鉱毒事件を告発した田中正造との出会いもこの頃だった。『萬朝報』は、農民を救えという論陣を張り続けた。

 衆議院議員を辞職し、天皇に直訴しようと決意した田中正造が、直訴状の代筆を秋水に頼みにきたのは、1901年(明治34年)の12月だった。なぜ秋水だったのかといえば、秋水の名文家としての名はこの頃すでに高く、とりわけ兆民の依頼で書いた「自由党を祭る文」は有名だったからだ。また、現実問題として田中が執筆を依頼した者たちが、後難を恐れて尻込みしたという側面もあった。そうした中、秋水だけが断らず書いたといわれる。

 秋水は日露戦争開戦時に社会主義新聞、週間『平民新聞』を創刊して、反戦の論陣を張った。のちクロポトキンなどの影響で無政府主義思想に傾倒。1910年(明治43年)、明治天皇暗殺計画の首謀者として権力によってでっち上げられ(大逆事件)、翌1911年(明治44年)、無実の罪(冤罪)のまま処刑された。代表的著作に『社会主義神髄』がある。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「無冠の男」

紀貫之・・・ 『古今和歌集』の「仮名序」を執筆した歌人の第一人者

 紀貫之は、官人としては意外に知られていないが、木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上に終わり、恵まれず、不遇をかこった。だが、歌人としては極めて華やかな存在で、初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂にあたり、仮名による序文「仮名序」を執筆、当時、名実ともに第一人者となった。紀貫之の生年は866年(貞観8年)もしくは872年(貞観14年)などの説があり定かではない。没年は945年(天慶9年)。

 紀貫之は、紀望行の子、下野守・紀本道の孫として生まれた。幼名は阿古久曽(あこくそ)。紀友則は従兄弟にあたる。幼くして父を失ったためか、官職には恵まれなかった。宮中で位記(位階を授与する際の辞令)などを書く内記(中務省所属の官職)の職などを経て40歳半ばでようやく従五位下となり、以後、930年(延長8年)に土佐守に任じられるなど地方官を務めたが、最後は木工権頭、従五位上に終わった。

 だが対照的に、貫之は歌人としては華やかな存在だった。892年(寛平4年)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)」に歌を残すが、当時はまだそれほど目立つ存在ではなかった。905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により、初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らとともに編纂。従兄、友則の死に遭って、編纂者の中で指導的な役割を果たすことになった。そして画期的な、仮名による序文「仮名序」を執筆、『古今和歌集』の性格を事実上決定づける存在となった。彼は古今和歌集中、第一位の102首を入れ、歌人として名実ともに第一人者となった。「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。

 貫之の『古今和歌集』以後の活躍は目覚しく、そのころからとりわけ盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐宮関係の下命に応じて、多数を詠作した。907年(延喜7年)の宇多法皇の大井川御幸は9題9首の歌を序文に献じ、913年には「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」に出詠した。この間、藤原兼輔・定方の恩顧を受け、歌人としての地歩を固めた。土佐守在任中には『新撰和歌』を撰したが、醍醐天皇はすでに崩御されていたため、帰京後、序を付して手元にとどめた。

 貫之には随筆家としての顔もある。『土佐日記』の著者として有名だ。これは、貫之が土佐守として4年の任期を終えて京に向けて旅立つ12月21日から翌2月16日までの、55日にわたる船旅を女性の文章に仮託して表現したもので、日本文学史上恐らく初めての仮名による優れた散文であり、その後の日記文学や随筆女流文学の発達に大きな影響を与えた。

 貫之の最大の功績は漢詩文、『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げたことだ。『古今和歌集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』で一層確かなものになっている。ただ、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある-といわれる。

 『小倉百人一首』には「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」が収められている。この歌の歌意は、「人の心はさあ知るすべもない。でもこの懐かしい家、梅の花は昔と変わらず、芳しく香って私を迎えている。人の心はさあいかがなものか知らないが…」。貫之の歌の中ではとくに有名な一首だ。

(参考資料)大岡信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「小倉百人一首」

児玉源太郎・・・格下げの参謀次長を引き受け、対露戦争に賭けた名参謀

 児玉源太郎は嘉永5年(1852)2月、周防徳山藩廻役80石取りの児玉半九郎の長男として生まれた。徳山藩は萩の毛利本家の支藩で、そこでの80石という禄高は中級士族だ。幼名は百合若、のちに健、元服し源太郎と改名した。

しかし、そこまでの児玉は辛酸をなめ尽した。父親の半九郎が藩の重役に憎まれて謹慎を言い渡され、児玉が5歳の時、病死した。児玉家は半九郎の死後2年経ってから長女ヒサに養子巌之丞を迎え、名を次郎彦と改名して家督を継がせた。次郎彦は藩の助教を務めたが、元治元年(1864)京都・池田屋の変、禁門の変などを経て、尊攘派だった次郎彦は自宅前で保守派に斬殺された。児玉12歳の時のことだ。この後、児玉家は藩からわずか1人半の扶持しか与えられない身となり一家5人が親戚の家を転々とする、食うや食わずの極貧生活を送るはめになる。ただ、このローティーン時代の苦難が児玉の精神形成に大きく影響したことは間違いない。

 慶応元年(1865)7月、徳山藩の政情が一変した。本藩で高杉晋作が決起し佐幕派が一掃され、支藩の俗論党が退陣。藩政の主導権が次郎彦の属していた尊攘派の手に移り、13歳の児玉が次郎彦の跡目相続人として中小姓に取り立てられ、新知25石を賜ることになったのだ。異例の人事だった。

 児玉は明治4年8月に少尉、9月に中尉となり、熊本鎮台創設のとき大尉になった。すごいスピード昇進だが、もちろん長州出身だったからだ。以後、児玉は順調に出世した。

 明治16年、児玉は大佐に昇進し、参謀本部に入った。同18年、陸軍はドイツ陸軍からメッケル少佐を招き、近代的な戦略戦術はもとより、陸軍の軍制に至るまで教えを受けた。児玉は明治19年に陸軍大学の幹事になってから、メッケルの講義を聴き、メッケルとともに参謀旅行に同道した。参謀旅行とは机上の講義ばかりでは実戦の役に立たないと考えるメッケルが発案したもので、例えば関ケ原へ行き、東西両軍の配置などを想定し、実戦に即して、戦術を研究するやり方だ。

メッケルは、近代戦は新兵器や火力の優劣などの科学的要因と兵站能力が大きくモノをいうことは確かだが、その他に兵員の精神力という計算できないものが重要であり、参謀の想像力も精神力と同様、大切だと説いた。仮に前方に敵軍の布陣している山があるとする。参謀には目に見えない山の背後がどういう地形か、それを想像できる能力が必要だというのだ。参謀旅行に同道した陸軍大学の学生が残した記録によると、メッケルは「将来、日本の陸軍は陸軍の児玉か児玉の陸軍かというようになろう」というほどに、児玉の才能を高く評価していたという。

 児玉は後の旅順攻略戦の時、メッケルのこの時の教えを見事に実践する。彼は満州軍総参謀長として、強行しては失敗を重ね5万9000余名の死傷者を出した、乃木希典が軍司令官を務める第三軍を見るべくやってきた。乃木の司令部は最前線から遠かった。ロシア軍の砲弾の絶対に届かない安全なところにあった。そして、参謀たちは司令部を一歩も出ようとせず、最前線の状況を知ろうともしないで、死の突撃で部下を死なせたくない大隊長や中隊長が、強攻策に再考を求めると、「命が惜しいのか」と臆病者扱いしていた。この参謀たちは陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリートだったが、あくまでも机上の作戦家でしかなかったのだ。

 日露戦争が始まったとき、メッケルはすでにドイツに帰国していたが、彼はクロパトキンがロシア軍の最高指揮官になったのを知ると「児玉が勝つ」と予言した。クロパトキンは欧州各国にも名将として知られていたが、児玉は知られていなかった。しかし、児玉は下級兵士の心が分かるリーダーであり、クロパトキンはそれが分からないリーダーであることをメッケルは知っていた。メッケルにしてみれば、児玉が勝って当たり前なのだった。

 明治38年、満州での陸戦を勝利に導いた児玉は、密かに日本に戻り伊藤博文らの重臣や桂太郎首相、小村寿太郎外相らに、講和交渉を開始して一日も早くまとめるように忠告した。これは満州軍総参謀長の権限外の行為だが、日本軍がこれ以上の大規模な戦闘に耐えられないことを承知していたからだ。児玉としては、陸軍のことだけを考えればいい参謀から脱却し、いわば日本の運命を考える参謀にならざるを得なかったのだ。しかし彼は、日本国の名参謀になる前に、1年後の明治39年7月に脳出血で急死した。54歳だった。その後、神奈川県江の島に児玉神社が有志によって建立された。

(参考資料)古川薫「天辺の椅子」、三好徹「明治に名参謀ありて」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、小島直記「志に生きた先師たち」

行基・・・“無私没我”の愛の行動だけが物語る高僧の事業や行為

 “行基菩薩”という呼び方がある。人間でいながら菩薩とまで尊ばれたケースは滅多にあるものではない。それだけ行基が80余年の全生涯を通じて、黙々と行った事業や行為が、人々に慕われ敬愛された証左といえよう。ただ、行基の場合、生い立ちについての記録はもとより、偉大な宗教家につきものの、誕生にまつわる奇跡譚のようなものも、さらに青・壮年期に入ってからさえ、個人的な逸話は全く残っていないのだ。人のために働き、人のために尽くし切る“無私没我”の愛の行動だけが、行基という僧の全貌を私たち後世の者に雄弁に物語っている。

 行基の体内には帰化人の血が色濃く流れている。父は高志才智(こうしさいち)といい、母は蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)といった。どちらも先祖をたどると、中国系帰化人の家系だ。前漢の支配力が朝鮮半島に及んでいた当時、その出先機関に王姓の官吏が多数、赴任してきていたのは確かだから、それらのうち誰かが百済を経由する外交ルートで日本に迎えられ、文化的指導者の地位に就いたとみられる。この王氏の子孫から書(ふみ)氏なる一族が枝分かれし、さらに書氏から高志氏が分派したわけで、行基の血には生まれながらに、代々知的職能に携わってきた優秀な先進民族の血が流れていたことになる。

 行基が生まれたのは668年、天智帝の称制7年で、場所は河内の大鳥郡だ。現在の大阪府泉北郡と、堺市にまたがる辺りだ。彼は飛鳥寺の道昭について、得度剃髪した。15歳のときのことだ。道昭も、船氏の出身という来歴が物語るように、帰化人系の僧だ。造船技術に秀でていた帰化系エンジニアの集団が、船氏の俗姓を冠していたのだ。道昭は30歳のとき、留学生となって大唐国に渡り、玄奘三蔵から法相(ほっそう)の教学を学んだ。行基が弟子となったのは、帰朝後で道昭が54歳だった。

 造船だけでなく架橋や治水利水、建造物の構築などにも道昭は抜きん出た技術を持っていたといわれる。様々な土木工事によって、民衆の利益を図った実績が道昭にもある。若き日の行基はこの師について、法相宗の教学とともに、利他行(仏教でいう、他人の苦しみを救うために全能力を発揮する行為)の精神と技法を一心不乱に学んだに違いない。

 僧尼令の決まりに従って戒を保ち、勉学し続けてさえゆけば、やがていつの日か行基も寺主に補され上座に昇り、律師、僧都、僧正など僧界での僧位を次々に手にすることができたはずだった。しかし、道昭に師事し、利他の愛に目覚めた彼にとって、僧位や僧官の取得など無意味だった。未練なく行基は僧界での出世コースに背を向け、一介の在野の聖として、市井の塵の中へ入っていったのだ。

 それからの行基は、民衆の福利のために全力を挙げて働き出した。辻に立ち、路傍に座して、分かりやすく法を説き、貧しくよるべない人々の、不安におののく魂に光明を与える。一方、橋のない川には橋を架け、水利の不便さに泣く農民のためには灌漑用池の掘削を指導し、洪水の頻発する河川には堤防を造るなど、目を見張るばかり精力的に、実践活動に挺身し始めたのだ。

 仏の教えは渡来して以来、貧しい人々とは無縁だった。朝廷や政府の、仏教への対処のしかたは本質から大きく外れていた。当時の皇族、貴族らが、これこそ正しいことだと信じて躍起になったのは、堂塔伽藍の建立だった。仏像を造り、経文を写し、法会や儀式を整備し、僧尼令を公布するなど、見かけの飾りばかりだった。お陰で上っ面だけを眺めれば、仏教は未曾有の盛時を迎えたかに受け取れた。国分寺、国分尼寺が全国に建ち、教界の体制は確立して、日本も先進国並みの仏教国家になったのだが、形ばかりで心が伴わない、民衆からは極めて遠い存在だった。行基の偉大さは、様々な行動を通して仏教と民衆を初めてしっかり結び付けた点にある。
(参考資料)杉本苑子「決断のとき」、杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「美貌の大帝」

後藤新平・・・総理大臣を目前に、請われて東京市長に就任した真の政治家

 江戸時代後期の蘭学者、高野長英を大叔父に持つ後藤新平は、明治~大正時代の政治家で逓信大臣、外務大臣、内務大臣、鉄道院総裁などを歴任、総理大臣をも嘱望される存在だった。それにもかかわらず、請われて東京市長に就任し、国家の首都・東京のあるべき姿を、大きなスケールでグランドデザインした人物だ。

それだけではない。長年にわたって東京都政に手腕を発揮し、首都東京にふさわしい様々な事業を成し遂げた。政治家を志した後藤だっただけに、もし彼がその頂点である総理大臣の椅子にだけこだわる人間なら、どれだけ請われたとしても、東京市長に就くわけはない。後藤新平という人物の真骨頂はここにあるといっていい。後藤の生没年は1857(安政4)~1929年(昭和4年)。

 後藤新平は陸奥国胆沢郡塩釜村(現在の奥州市水沢区)の水沢藩士の後藤実崇の長男として生まれた。胆沢県大参事だった安場保和に認められ、後の海軍大将、斎藤実とともに13歳で書生として引き取られ、県庁に勤務。後に15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になった。

 後藤は政治家を志していたが、母方の大叔父の高野長英が弾圧された影響もあって、医者を奨められ、恩師、安場の勧めもあって17歳で福島の須賀川(すかがわ)医学校に気のすすまないまま入学した。

ただ、同校では後藤の成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令を務めることになり、それについていくことにして、愛知県の愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)で医者となった。後藤にとっては志とは違う進路だったが、ここで彼は目覚しく昇進し、24歳で学校長兼病院長となった。この間、岐阜で遊説中、暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。

 医師として、それなりに名を成した後藤だが、ここから彼は幼少時から志していた政治家への道に舵を切る。まず目指したのは官僚だ。1883年(明治16年)、後藤は内務省衛生局に入る。2年間のドイツ留学の後、1892年に衛生局長となり、公衆衛生行政の基礎を築いた。この間、相馬家の財産騒動に巻き込まれ、入獄も経験した。さらに1898年から8年間、児玉源太郎総督の下で、台湾総督府民政局長を務め、島民の反乱を抑え、諸産業の振興や鉄道の育成を図るなど植民地経営に手腕を振るった。その実績を買われて1906年(明治39年)には南満州鉄道株式会社初代総裁に就任した。

 そして後藤は、いよいよ政治家への道に踏み出す。貴族院議員に勅選され、1908年第二次桂太郎内閣に入閣、逓信大臣兼鉄道院総裁に就任する。1912年(大正1年)第三次桂内閣でさらに拓殖局総裁を兼ね、1916年寺内正毅内閣では内務大臣、鉄道院総裁を務め、後に外務大臣としてシベリア出兵を推し進めた。1920年に東京市長に就任、8億円の東京市改造計画を提案し、1922年には東京市政調査会を創立し、関東大震災(1923年)後の復興にあたっては、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣と帝都復興院総裁を兼任するなど都市改造に尽力した。

(参考資料)郷 仙太郎「後藤新平」、小島直記「無冠の男」、小島直記「志に生きた先師たち」、古河薫「天辺の椅子」

井原西鶴・・・1日で2万句を詠み10年で30作を著した元禄の鬼才

 井原西鶴はわずか1日で2万を超える句を詠み、10年とちょっとで30もの人気作品を著した元禄の鬼才だ。醒めた眼で金銭を語り、男と女の交情をあますところなく描き、芸能記者にして自らも芸人、そしてエンタテインメント作家として絶大な人気を博した。しかもその作風は実に多様で、江戸時代前期、300年以上も前の人物でありながら、幸田露伴、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、吉行淳之介など近代から現代まで、現在活躍している作家たちにも様々な影響を与えてきた。

 ただ、井原西鶴のこうした名声の割には、伝記的なことがさっぱりわかっていない。資料が少ないのだ。大坂の裕福な町人の出といわれているが、詳細は分かっていない。本名は平山藤五(ひらやまとうご)、生没年は1642年(寛永19年)~1693年(元禄6年)。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。晩年名乗った西鶴は、時の五代将軍綱吉が娘、鶴姫を溺愛するあまり出した「鶴字法度」(庶民が鶴の字を使用することを禁じた)に因んだもの。

 西鶴といえば「好色一代男」に代表される小説家のイメージが強いが、もともとは俳人だ。西鶴が1日で2万余句の記録を打ち立てたのは、小説デビュー作となった「好色一代男」を出版した翌々年のことで、その後、作句活動を一時期中断したこともあるが、晩年は再び俳句に情熱を燃やしている。15歳の頃から俳諧を学び始め、当時は俳句の方が小説よりも芸術として上位にみられていただけに、終生俳人のプライドを軸にしながら、生涯最後の10年間を小説にも活躍の場を広げたというのが的を射ているのかも知れない。

 俳句の神様とされる松尾芭蕉と同世代で、同じ時代に生きた。だが、「量より質」の芭蕉に対し、西鶴は「質より量」で、記録が先行気味で作品の影は薄い。小説家としての西鶴の作品は、愛欲の世界を描く好色物、武士社会を扱う武家物、説話を換骨奪胎した雑話物、経済生活を描く町人物などに分類されることが多い。

 西鶴の略年譜をみると、15歳の頃、俳諧を学び始め、21歳の頃、人の俳句を採点する点者に、そして25歳のとき「遠近(おちこち)集」の「鶴永」の号で俳句入集。西鶴俳句の初見だ。33歳の正月、俳句に初めて「西鶴」と署名。36歳のとき、生玉本覚寺で一昼夜1600句独吟を興行、「西鶴俳諧大句数」と題して刊行。41歳のとき、最初の浮世草子「好色一代男」刊行。43歳のとき、「諸艶大鑑」(好色二代男)刊行。住吉神社にて一昼夜2万3500句の独吟を興行。44歳のとき、「西鶴諸国ばなし」刊行。45歳のとき、「好色五人女」「好色一代女「本朝二十不孝」刊行。46歳のとき、「男色大鑑」「武道伝来記」刊行。47歳のとき、「日本永代蔵」「武家義理物語」「嵐無常物語」「好色盛衰記」刊行。48歳のとき、「一目玉鉾」「本朝桜陰比事」刊行。51歳のとき、「世間胸算用」刊行52歳のとき、「浮世栄花一代男」刊行し、この年大坂で亡くなっている。死を迎えるまでの10年ちょっとの間に次々と小説を刊行、濃密な時間を過ごしたことがよく理解される。

(参考資料)浅沼 璞「西鶴という鬼才」

島津斉彬・・・幕末・維新に活躍する人材を育て薩摩藩の地位を固める

 島津斉彬は幕末の開明派の名君の一人で、西郷隆盛、大久保利通ら幕末から明治維新にかけて活躍する人材も育てた。そして、彼が積極的かつ強力に推進した薩摩藩の様々な近代化政策こそが、西南雄藩の中でも薩摩藩が主導的な立場を保つことができた遠因かもしれない。斉彬の生没年は1809(文化6)~1858年(安政5年)。

 薩摩藩の第十一代藩主(島津氏第二十八代当主)島津斉彬は第十代藩主・島津斉興の嫡男として江戸薩摩藩邸で生まれた。幼名は邦丸、元服後は又三郎。号は惟敬、麟洲。斉彬は、開明的藩主で中国、オランダの文物にも目を向け、洋学に造詣の深かった曽祖父、第八代藩主・重豪(しげひで)の影響を強く受けて育った。そのため、彼は洋学に強い興味を示した。

 オランダ医、シーボルトが長崎から江戸を訪れたときは、重豪は82歳の高齢ながら、自ら18歳の斉彬を伴って出迎えに行き、シーボルトと会見している。25歳で曽祖父の死を迎えるまで、斉彬はその向学心に大きな影響を受け、緒方洪庵、渡辺崋山、高野長英、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、戸塚静海、松木弘庵など当代一流の蘭学者やオランダ通詞、幕府天文方とも交流。洋書の翻訳、化学の実験なども行い、彼自身もオランダ語を学んだ。

そして、斉彬はまだ世子(後継ぎ)の身分でありながら、藩主の斉興とは別に、幕府老中・阿部正弘、水戸藩・水戸斉昭、越前福井藩・松平春嶽、尾張藩・徳川慶勝、土佐藩・山内容堂、伊予宇和島藩・伊達宗城ら開明派の諸大名とも親交を結んでいた

このことが周囲の目に蘭癖(オランダ・外国かぶれ)と映り、皮肉にも後の薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされる。「お由羅騒動」あるいは「高崎崩れ」と呼ばれる一連のお家騒動がそれだ。嫡男・斉彬派と、父・斉興の側室、お由羅の子で斉彬の異母弟にあたる島津久光の擁立を画策する一派との抗争だ。

 事態は重豪の子で筑前福岡藩主・黒田長薄の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平春嶽(慶永)、らによって収拾され、斉興がようやく隠居し、1851年(嘉永4年)斉彬が藩主の座に就いた。斉彬43歳のことだ。周知の通り、まもなくペリーが浦賀に来航した。

しかし、彼は欧州の近代文明の根源が、この半世紀前から起こった産業革命にあると見抜き、「日本はわずかに遅れているに過ぎぬ。奮起すれば追いつけぬことはない」として、薩摩藩を産業国家に改造すべく手をつけ始めた。まず幕府に工作して巨船建造の禁制を解かせ、国許の桜島の有村と瀬戸村に造船所をつくり、大型砲艦十二隻、蒸気船三隻の建造に取り掛かり、そのうちの一隻、昇平丸を幕府に献上した。長さ11間、15馬力の機関を付けた蒸気船で、これが江戸湾品川沖に回航された安政2年、芝浦の田町屋敷で幕府の顕官、有志の諸侯その他が見学し、さらに芝浦海岸には数万人の江戸市民が押し寄せ、非常な評判になった。

 また、斉彬は藩政を刷新し、殖産興業を推進した。城内に精錬所、磯御殿に反射炉、溶鉱炉などを持った近代的工場「集成館」を設置した。集成館では大小砲銃はじめ弾丸、火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造。また製紙、搾油、アルコール、金銀分析、メッキ、硫酸など多岐にわたる品目の製造を行った。これらに携わった職工、人夫は1カ月に1200人を超えたという。このほか、写真研究もしている。幕府に対して日章旗(日の丸)を日本の総船章とすることを建議して、採用された。これらはいずれも当時、日本をめぐる国際情勢について、とりわけ外交問題についても斉彬が明確な認識を持っていたからだ。

 薩摩藩は表高77万石、日本最南端の僻地藩といっても、支配下の琉球を手始めに清国との密貿易、奄美大島ほかの砂糖きびを独占して大坂で売買することなどで莫大な利益を挙げ、蓄積していたといわれる。

(参考資料)加藤 _「島津斉彬」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、綱淵謙錠「島津斉彬」、司馬遼太郎「きつね馬」

最澄・・・天台宗の開祖だが、信念のため妥協許さない姿勢が孤立招く

 平安仏教の双璧といえば、いうまでもなく天台宗と真言宗だ。そして、それぞれの開創者がここに取り上げる最澄と、後に仲違いし、決別することになる空海だ。最澄は桓武天皇の信任を得て、804年(延暦23年)、遣唐使派遣の際、還学生(げんがくしょう)として入唐。空海もこのとき、留学生(るがくしょう)に選ばれ渡航した。二人は偶然、同時期に渡航することになったが、還学生と留学生であり、二人の待遇・立場は全く違っていた。最澄がはるかに上だったのだ。最澄は天台を学び、帰朝後、天台宗を開いた。

 最澄は近江国滋賀郡古市郷で三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれた。幼名は広野。彼は12歳で同国の国師(諸国に置かれた僧官)行表(ぎょうひょう)について出家した。783年(延暦2年)、この俊敏な少年は得度し、15歳で法華経以下数巻の経典を読みこなしている。2年後に東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けて一人前の僧になったが、ほどなく比叡山に入った。彼は、先に帰化した唐僧鑑真がもたらした典籍の中の天台宗に関するものに導かれて、新しい宗派への関心を深めていった。15~18歳までの間に沙弥としての修行は十分積んでしまったと考えられる。彼は都に行って、大安寺でさらに高度の勉学に励んだとみられる。

 最澄の存在は仏家の間で注目されるところとなり、内供奉(宮中に勤仕する僧)の寿興との交際が始まり、797年(延暦16年)、彼は内供奉十禅師の列に加えられた。そのころから彼は一切経の書写に着手し、南都の諸大寺そのほかの援助を得て、その業を完成させている。また、798年(延暦17年)に、初めて山上で法華十講をおこし、801年(延暦20年)には南都六宗七大寺の十人の著名な学僧を比叡山に招いて、天台の根本の経、法華経についての講莚(こうえん)を開いた。日本における天台法華宗の樹立という彼の事業が法華講莚という最澄らしいスタイルで始まったのだ。

 最澄はこのころ、すでに和気広世(清麻呂の子)というパトロンを持っていた。広世は和気氏の寺、高雄山寺に最澄を招いて法華の大講莚を開いた。こうして和気氏は最澄を広く世間に売り出した。ただ、最澄自身は独自に天台法華宗の樹立への志向を胸に秘め、桓武天皇への接近を周到に準備していた。その意味で、桓武天皇の恩顧を受けていた和気氏は、最澄にとって天皇への有力な橋渡し役となった。最澄には前途洋々たる未来が拓かれていたはずだった。

 ところで、唐に渡った最澄は、還学生という立場から滞在期間わずか8カ月半という短さのため、直ちに天台山のある台州に向かい、そこの国清寺の行満から正統天台の付法と大乗戒を受けている。多数の経典を書写するなどして目的を達した一方、最澄は唐において密教が盛んになっていることに驚き、にわかに密教を学んでいるが、これは時間的に短すぎて成果を得られなかった。最澄が帰国後、唐で恵果から密教の根本の教えを授けられた空海の帰国を待って、接近していくのはそのためだった。

 最澄は空海より7歳年上で、仏教界でも先輩にあたる。だが、唐で密教を十分に学ぶことができなかったことを後悔し、自分よりはるかに地位が低い空海に対し、教えを乞うたのだ。というのも最澄自身、密教を学ばなければならない立場に置かれていたのからだ。

空海は最澄に、自分が恵果から学んだことを教えた。そして、最澄は改めて空海から金剛・胎蔵両界の灌頂を受けているのだ。空海、最澄の親密な関係は、こうしてしばらくは続いた。ところが、その後、弟子の一人、泰範をめぐるトラブルなどから二人の関係は険悪化、やがて決別する。

 また、最澄は高い理想を掲げながら相次ぐ挫折を強いられる。信任を得ていた桓武天皇が亡くなって後、平城天皇、そして嵯峨天皇の御世となった。最澄にとっては厳しい時代を迎えていた。詩文を愛好した教養人、嵯峨天皇は空海と深い親交を持ち、対照的に最澄は時代の変遷から置き去りにされた。それでも、最澄はひるむことなく、あくまでも気高く道を求めて止まなかった。空海が包容力に富んだ弾力性を持った生き方をしたのに対し、最澄はどちらかといえば、信念のためには一点の妥協も許さないといった態度を貫き通した。そのことが最澄の孤立感をさらに増幅したといえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、永井路子「雲と風と 伝教大師 最澄の生涯」、司馬遼太郎「空海の風景」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、北山茂夫「日本の歴史 平安京」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」

親鸞・・・日本仏教史上初めて“肉食妻帯”を宣言した、浄土真宗の開祖

 親鸞は平安時代の末から鎌倉時代にかけ、90年の生涯を波乱・動揺の社会の中で送った人物で、“肉食妻帯”を日本仏教史上初めて宣言して、これを実践した在家仏教徒であった。そして周知のとおり、現在、日本最大の信徒を持つ「浄土真宗」の基礎をつくった人だ。

 親鸞が生きた時代は、今日からみると実に様々な政治・社会、そして宗教界において興味深いことが起こっている。親鸞が8歳のとき、源頼朝が平家に対して挙兵し、1185年(文治元年)13歳のとき平家は壇ノ浦で滅んでいる。延暦寺の山徒の横暴に苦しんだ後白河法皇の崩御は、彼の20歳ときのことだ。そして49歳のとき、鎌倉幕府によって後鳥羽法皇が隠岐、順徳上皇が佐渡、土御門
上皇が土佐に流されている。

 また仏教界では1175年(安元元年)、親鸞3歳のとき、法然(源空)が専修念仏の教えを説き始めた。栄西が宋から帰朝して臨済禅を伝えたのは親鸞19歳のときのことだ。親鸞40歳のとき、師の法然が亡くなっている。道元が宋から帰朝して越前大仏寺(後の永平寺)を開創したとき、親鸞は72歳だった。日蓮が北条時頼に『立正安国論』を起草して差し出した1260年(文応元年)は、親鸞入滅の2年前だった。

 親鸞は公家の皇太后宮大進・日野有範の子として生まれた。9歳のとき母が亡くなると、その年、青蓮院の慈円の弟子となり、範宴(はんねん)と号して出家した。その後20年間、範宴は比叡山において一生不犯の清僧の修行に費やした。29~35歳の6年間は法然の膝下にあった時代だ。当時の仏教研究の根本道場だった比叡山に決別した彼は、妻帯を決意し、本願念仏の教えによる成仏の道を一心に求めることになった。師法然に巡り会ったことは、彼の生涯を決定する重要な機縁となった。

 後鳥羽院による法然の専修念仏教団に加えられる弾圧がひどくなり、1207年(承元元年)念仏停止により法然は土佐国へ、親鸞は越後国国府へと流罪に処せられた。35歳のときのことだ。39歳の1211年(建暦元年)、親鸞は流罪勅免となったが、すでに恵信尼と結婚生活に入っていた彼は、このとき愚禿(ぐとく)親鸞と名乗って、子供たちを含めた家族とともに国府にとどまっている。
その後は都には帰らず、42歳のとき常陸に赴き、そこで20年余、関東の地にいて主著『教行信証』の制作に没頭するとともに、社会の底辺で働く人々に念仏の生活を勧めた。そして、多くの弟子をつくった。しかし、どういう心境の変化か、63歳の親鸞は多くの弟子を振り捨て家族とともに都へ帰った。京都の生活は著述と念仏三昧の日々だった。そして90歳の天寿を全うした。

 ところで、親鸞の教えの根本となっているものが“悪人正機説”だ。親鸞がいう「悪人」は、窃盗や殺人を犯すような悪人という意味ではない。「煩悩だらけの凡夫」といった意味だ。つまり、肉食・妻帯という、一般的な遁世の聖にしてみれば破戒といわれる行為を行う者のことをいっており、まさしく親鸞自身も「悪人」ということなのだ。したがって、悪人正機説は、自分のような悪人こそが自力作善の行に頼ることなく、弥陀の本願を無条件に信ずることができるのだ-というわけだ。そして、親鸞は「阿弥陀仏は、私のような破戒の愚か者さえ救ってくれるのだ」と宣言しているのだ。このような平易な教えが一般民衆の中に受け入れられていったのは当然だろう。

(参考資料)早島鏡正「親鸞入門」、早島鏡正「歎異抄を読む」、梅原猛「百人一語」、百瀬明治「開祖物語」

坂田藤十郎・・・上方の和事を創始,近松作品で人気を高め上方の第一人者に

 京の四条河原の掛け小屋に始まったといわれる芝居が、今日の絢爛たる歌舞伎にまで発展した経路には、いろいろな人と時代が反映して、そうなった紆余曲折があるが、その中の最も大きい転機をつくったものに、江戸の「荒事(あらごと)」、上方の「和事(わごと)」がある。その「荒事」は江戸の市川団十郎、上方の「和事」は坂田藤十郎によって創始されたといわれている。坂田藤十郎の屋号は山城屋、定紋は星梅鉢。

 元禄時代の名優、坂田藤十郎(初代)は1647年(正保4年)頃に、京の座元、「坂田座」の坂田市右衛門の息子として生まれた。当時、京の芝居小屋は鴨川の四条あたりの河原に集まっていた。現在も毎年の顔見世興行で有名な南座のあたりが今、わずかに往時の殷賑ぶりをしのばせている。劇場の横には歌舞伎発祥の記念の石碑があり、ここが日本の演劇史上、とりわけ大切な場所だったことを示している。

 ただ、京の坂田座は藤十郎の少年時代、観客同士の喧嘩から血をみる事件になり、遂に廃座となっている。しかも、これが官憲の忌避するところとなり、四条はじめ京中の芝居小屋は、ことごとく長い興行禁止に追い込まれている。それが、都万太夫はじめ、座元たちの嘆願哀訴がようやく実り、延宝年間に至って復興することができた。藤十郎が姿を見せたのはその時だ。1676年(延宝4年)11月、縄手の芝居小屋に藤十郎が出演したという記録がある。その時、彼は28歳で円熟の境にあった。
しかし、坂田座の子に生まれて以来、その間、藤十郎について何の記録も残っていない。彼はまず当時、東西比類なしといわれた大坂の嵐三右衛門を頼って、その膝下で修行したと思われる。また、上方ばかりで芝居をしていたわけではなかったようだ。江戸からきた役者と大坂で交友があったことも関連史料で分かる。しかし、江戸に居つかなかったことは確かで、気分が合わず、上方の和事師として一生を終わったと思われる。

出雲阿国をルーツとする歌舞伎、その流れの「女歌舞伎」が風俗を乱したというので差し止められた。これを受けて発生した男だけの「若衆歌舞伎」。そして、官憲がその役者の前髪を剃ってしまった。前髪を剃られると普通の男の形になる。そこで、「野郎歌舞伎」というものが生まれたのだ。この野郎歌舞伎が生まれて漸次、芝居という形を整えた延宝4年に、坂田藤十郎が初めて記録に出現したわけだ。江戸の荒事に対して、上方の和事というものを彼が戯作したのだ。それが今日伝わっている大阪・京都の一つの芸道だ。

 江戸の市川團十郎、上方の坂田藤十郎、二人はともに東西を代表する名優だ。團十郎は三升屋兵庫(みますやひょうご)の名でいろいろな脚本を書き、藤十郎は「夕霧名残(ゆうぎりなごり)の正月」などの傑作を残している。「夕霧名残の正月」は1678年(延宝6年)、藤十郎が初演して空前の大当たりを取った。伊左衛門役が大評判となり、藤十郎は生涯にわたってこの伊左衛門役を演じ続けた。また、近松門左衛門の作品に多く主演して人気を高め、上方俳優の第一人者となった。藤十郎が完成した和事は上方を中心とした代々の俳優に受け継がれた。

 坂田藤十郎の名を一躍、現代に有名にしたのは、大正初期に菊池寛が書いた「藤十郎の恋」だろう。藤十郎はある夜、京のお茶屋の内儀、お梶をかきくどいた。あまりの藤十郎の真剣さにほだされて、遂にお梶が意を決して行灯の灯を消した時、藤十郎は暗闇の中を外へ忍び出た…。人妻と密通する新しい狂言の工夫を凝らすあまりの、それは藤十郎の偽りの恋だった。あくまで写実に徹しようとした藤十郎の芸熱心に、世人は改めて驚嘆の目を見張った。
 坂田藤十郎の名跡は長い間途絶えていたが、2005年、231年ぶりに三代目中村雁治郎が四代目坂田藤十郎を襲名、復活した。

(参考資料)中村雁治郎・長谷川幸延「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

杉原千畝・・・国家や政府の枠を超えユダヤ人にビザを発給し続けた外交官

 第二次世界大戦中、国家や政府の枠を超え、自らの立場や身の危険を顧みず、6000人の命を救う道を選んだ一人の日本人外交官がいた。その人物こそ、ここに取り上げる杉原千畝(すぎはらちうね)だ。杉原の生没年は1900(明治33)~1986年(昭和61年)。

 杉原千畝は海外では「センポ・スギハラ」、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「ちうね」という名の発音のしにくさから千畝自身がユダヤ人に音読みで「センポ」と呼ばせたとされている。いずれにしても杉原は勇気ある人道的行為を行ったと評価され、イスラエル政府から1969年、勲章を授与された。1985年には日本人として初めて「ヤド・バジェム賞」を受賞し「諸国民の中の正義の人」に列せられた。また、リトアニア政府は1991年、杉原の功績を讃えるため、首都ヴィリニュスの通りの一つを「スギハラ通り」と命名した。

 杉原は岐阜県加茂郡八百津町で父好水、母やつの次男として生まれた。旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業後、千畝が、医師になることを嘱望していた父の意に反し、1918年(大正7年)、早稲田大学高等師範部英語科(現在の教育学部)予科に入学。1919年(大正8年)、日露協会学校(後のハルピン学院)に入学。早大を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルピンに派遣され、ロシア語を学んだ。そして、1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで陸軍に入営。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科を修了。

 1924年(大正14年)、杉原は外務省に奉職。以後、満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロイセン、ルーマニアの日本領事館に勤務。そして1940年夏、リトアニア共和国・首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、その後の彼の運命を変え、後世に語り継がれる“壮挙”を実行することになる。ソ連政府や日本本国からの再三、退去命令を受けながら、杉原と妻幸子は日本政府の方針や外務省の指示に背いて、ナチス・ドイツの迫害を逃れようとするユダヤ人に、1カ月あまりの間、退去する日、ベルリンへ旅立つ列車が発車する直前まで、駅のホームでビザを発給し続けたのだ。

 ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、中立国と思われていたリトアニアに移住した。だが1940年7月15日に親ソ政権が樹立され、ソ連がリトアニアを併合することが確実となった。そうなると、ユダヤ人たちは国外に出る自由を奪われてしまう。またヒトラーの戦略から、いずれは独ソ間で戦争が始まることも十分予想された。そのため、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければ、逃亡の経路は断たれてしまうとユダヤ人たちは予感していた。もはや一刻を争う状態だった。

 すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ちていたので、ユダヤ人の逃亡手段は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路しか残されていなかった。だが、日本の通過ビザを取るためには受入国のビザが必要だった。ソ連併合に備え領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して入国ビザを発給する国がない。この窮状を解決したのが、カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事、ヤン・ツバルテンディクだ。ユダヤ人救済のため彼が便宜的に考えた、カリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島行きの「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に押し寄せた。1940年7月18日のことだ。

 杉原は7月25日に日本政府の方針、外務省の指示に背いてビザ発給を決断。以後、9月5日までユダヤ人にビザ(=渡航証明書)を発給し続けた。現在、外務省保管の「杉原リスト」には2139人の名前が記されている。その家族や公式記録から漏れている人を合わせると、杉原が助けたユダヤ人は6000人とも8000人ともいわれている。

 1947年4月、杉原は帰国。2カ月後、外務省から突然、依願免官を求められ、外務省を退職。退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務。1960年から川上貿易⑭モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易⑭モスクワ支店代表を最後に退職。日本に帰国したのは75歳のときだった。

(参考資料)杉原幸子「新版六千人の命のビザ」

坂上田村麻呂・・・至難の蝦夷平定を達成した征夷大将軍第一号

 奈良の平城京から京都の長岡京へ、そして平安京へと遷都が繰り返され、日本が新たな律令国家へと向かった歴史の転換期にあって、わが国最初の征夷大将軍、坂上田村麻呂の功績は絶大だった。

 第五十代桓武天皇は国家財政が破綻寸前にあった中で、奥州(陸奥・出羽)=東北の蝦夷の平定と、平城京から長岡京への遷都という難しい国家プロジェクトを並行して行うと宣言した。この計画は一見、一石三鳥に見えなくはなかった。成功すれば北方からの慢性的な脅威は去り、開拓された蝦夷地からは、莫大な税が徴収できる。その税を用いれば遷都は容易となり、天災の補填にも充てられる。

反面、この計画はリスクが大きかった。もし、蝦夷平定が順調に行かなかったらどうなるか。例えば奥州での戦線が膠着したら、兵站はそれだけで国家財政を瓦解させてしまうに違いなかった。そうなれば遷都どころか、国家は立ち往生を余儀なくされ、朝廷の存立自体が問われて、分裂・混乱の事態が出来しかねなかった。心ある朝廷人はこぞって桓武帝の壮挙を危ぶんだが、日本史上屈指の英邁なこの天皇は、自らの計画を変更することはなかった。

そして、この危惧は不幸にして的中してしまう。延暦3年(784)2月、万葉の歌人として著名であり、武門の名家でもあった陸奥按察使兼鎮守将軍の大伴家持が持節征東将軍に任じられ、7500の兵力とともに出陣したが、途中で急逝してしまう。また、長岡京の造営も桓武帝の寵臣で造営の責任者でもあった藤原種継が暗殺され、暗礁に乗り上げてしまう。延暦7年、今度こそはと勇み立った桓武帝は「大将軍」に参議左大弁正四位下兼東宮大夫中衛中将の紀古佐美(56歳)を任じ、5万2000人余の朝廷軍を編成して蝦夷へ派遣した。

しかし、地の利を生かした徹底したゲリラ戦に遭い、古佐美の率いた軍勢は壊滅的な大敗を喫してしまう。まさかの敗戦に、大和朝廷は存亡の危機を迎えた。兵力は底をつき、軍費も枯渇している。長岡京に続いて桓武帝が決断した平安京への遷都の事業も、もはや風前の灯となっていた。

この最悪の状態の中で桓武帝が切り札として北伐の大任に抜擢したのが坂上田村麻呂だ。延暦9年、田村麻呂32歳の時のことだ。ただ、その将才はほとんど未知数だった。正確に記せば初代の征夷大将軍は61歳の大伴弟麻呂が任命されている。弟麻呂は大伴家持が持節征東将軍となったおり、征東副将軍として兵站の実務を執った人物だ。田村麻呂は「征東副使」=「副将軍」への抜擢だった。だが、老齢の弟麻呂は軍勢を直接指揮することをせず、代わって実際の現地指揮は田村麻呂に一任された。

彼は可能な限りの兵力を動員し、征討軍を10万で組織したが、それをもって蝦夷と一気に雌雄を決することはしなかった。武具・武器をひとまず置き、将士には鋤や鍬を持たせた。そして、荒地を開墾しながら、防衛陣地を構築しては、徐々に最前線を北上させていったのだ。相手が攻撃してくれば、容赦なくこれを撃退したが、彼は蝦夷に対し“徳”と“威”をもって帰順を説き、農耕の技術まで教えるという懐柔策を取った。延暦16年11月5日、田村麻呂は「征夷大将軍」となり、4年後の44歳の時、遂に至難の蝦夷平定を達成した。

延暦24年6月、参議に任ぜられ、第五十一代平城天皇、第五十二代嵯峨天皇の御世まで生き続ける。弘仁2年(811)、54歳で病没すると、その亡骸は勅令により、立ちながら甲冑兵仗を帯びた姿のまま葬られたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち」、「日本の歴史4/平安京」北山茂夫

                             

坂本龍馬・・・少年時代は劣等性 勝海舟と出会い開眼 第一級の人物に

 坂本龍馬は土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中・海援隊」の結成、「薩長連合」の斡旋、「大政奉還」の成立に尽力するなど、志士として目覚しい活躍をしたといわれる。しかし、龍馬は生前より、むしろ死後に有名になった人物だ。とりわけ司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』で、新たなヒーロー、龍馬像がつくり上げられたようで、それまでの龍馬研究者からは本来の龍馬とは遊離している部分もあるとの指摘も出ている。ここではできるだけつくられたヒーローではない、実像の龍馬を取り上げてみたい。龍馬の生没年は1836(天保6)~1867年(慶応3年)。

 龍馬は土佐20万石の城下、高知に生まれた。諱は直陰(なおかげ)、のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。本家は才谷屋といって、本町三丁目に広く門戸を張る豪商だった。才谷屋が城下へ出てきた頃は一介の商人に過ぎなかったが、富裕になるに従って郷士の株を買い、二本差しの身分となり、殿様の拝謁を受けるまでになった家筋だ。龍馬はその才谷屋から出た坂本八平の二男三女の子女の中の末子として生まれている。次男で末子ということも彼の活躍を自由にしたのだろう。

 龍馬の少年時代は、あまり芳しいものではない。12歳のとき、小高坂の楠山塾で学ぶが、「泣き虫」と呼ばれ、「寝小便たれ」とからかわれて、遂に抜刀騒ぎまで引き起こし、そのために退塾している。そんな少年龍馬を一所懸命に教え導いたのが、姉の乙女だった。この姉は世にありふれた女性とは異なり、「お仁王様」と呼ばれたほどの女で、学問より武芸のほうが好きだった。龍馬はこの姉を家庭教師に、世間一般の少年が学ぶ課程を終えたのだ。

この点、長州などの勤皇の志士らと随分違うことが分かる。吉田松陰はじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠など大体は難しい中国の典籍を読み、漢詩などもつくれるというのが相場。土佐勤王党の領袖、武市瑞山も単なる剣術使いではなかった。だが、龍馬にはそれがなかった。だから、少年時代を武張った稽古を中心に育った龍馬には、そうした学問に関する基礎的な知識は遂に身につかなかったのだ。

 龍馬が曲がりなりにも自信を持ってきたのは、学問や知識ではなく、剣道だった。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、彼はここで並ぶ者なき剣士として成長した。しかし、所詮は田舎でのものだ。そこで、1853年(嘉永6年)剣術修行のため江戸へ出て、北辰一刀流剣術開祖、千葉周作の弟、「小千葉」といわれた千葉定吉の道場(現在の東京都千代田区)に入門した。17歳のときのことだ。佐久間象山の私塾にも通い、砲術を学んでいる。この年は、ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航、世情が騒然としてきた時期でもあった。

 1854年(安政元年)、龍馬は高知に帰郷。画家で、学者としても知られていた河田小龍(しょうりょう)を訪ねた。小龍は1852年(嘉永5年)ころ高知へ帰ってきた中浜万次郎(ジョン万次郎)から米国の事情など世界認識の眼を大きく開いた人物だった。このとき龍馬は小龍から開国必然説と、後の海援隊につながるビジョンを説かれ、構想を膨らませていったのだ。

 1856年(安政3年)龍馬は再び江戸・小千葉道場に遊学。江戸で武市半平太(瑞山)らと知り合ったことが彼の運命を大きく変える。武市を指導者とする土佐勤王党の一員となるからだ。江戸で2年間の修行を終えた龍馬は北辰一刀流の免許皆伝を得て帰郷した。しかし、河田小龍に会って気付かされた大きな夢は、直面している現実とはかけ離れていた。そのため、龍馬は尊王・攘夷に凝り固まった人物たちとの交流を持つことにうんざりしたのだろう。彼の心は土佐勤王党とも離別、土佐という一国の地を離れて、もっと自由な境を求めて翔んでいたのかも知れない。

 1862年(文久2年)、龍馬は土佐藩を脱藩。千葉定吉の息子、重太郎の紹介で幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、勝海舟に面会して弟子となったのだ。龍馬が抱いてきた大きな夢が果たせるようになったのは、何といっても勝海舟との出会いだった。蒸気船で太平洋横断の壮挙を成し遂げ、米国に渡って使命を果たしてきた勝は、そのころ軍艦奉行並として第十四代将軍家茂の側近に仕えていた。すでに米国を見てきた男は、開国の思想を抱いていた。

 龍馬にとって勝は、日本第一の人物であり、天下無二の軍学者だった。驚くことにその勝に、少年時代“劣等生”に近かった龍馬は認められるのだ。剣術家・坂本龍馬は、いつのまにか世界の情勢にも明るく、軍艦操練の実際にも触れ、軍艦の運航にも詳しい知識人として頭角を現してくる。そして、幕末の政局を海の男として存分に闊歩するのだ。薩長の連合も、龍馬がいてこそ成立したものだ。さらに大政奉還の“大芝居”も龍馬が画策したのだ。こうした世間の意表を突くような大事件が次々に実行された背景には、龍馬の自由にして雄大な夢がいつもついて回っていたといえよう。

 龍馬になぜ、これほど大きなことができたのか。やはり、龍馬の陽気な性格、雄大な志、そして真っ直ぐな行動力を備えていたことに加え、勝海舟の門弟だったことが何より大きな要因だ。そして龍馬自身、海軍操練所の運営を任されるほどの成長を遂げていたからだ。勝が背後についていたからこそ、龍馬は西郷隆盛と会い、木戸孝允とも知り合うことができた。越前福井藩の松平春嶽や大久保一翁と言葉を交わすこともできたのだ。幕末における第一級の人物と、彼ほどに多く言葉を交わした男は少ないだろう。第一級の人物を相識(あいし)ることで、彼もいつのまにか第一級の人物と世間で認められるようになっていたのだ。

 龍馬は1867年(慶応3年)、京都河原町の寄宿先、醤油商・近江屋で来合わせていた中岡慎太郎とともに、京都見廻組-佐々木唯三郎一派に暗殺された。近江屋の主人、井口新助は龍馬が刺客に狙われているのを気遣い、裏庭の土蔵に密室をこしらえ、万一の場合には裏手の梯子を下りて、誓願寺の方へ逃れるよう準備していた。これは近江屋の家の者にも秘密としてあった。

ところが、不運にも遭難の当日、龍馬は前日から風邪気味で、裏庭の土蔵にいては用便などに不自由だからということで、主家の二階へ移っていたのだ。不便さを我慢して土蔵で会っていれば、中岡慎太郎ともどもこの危難に遭うことはなかったのではないか。龍馬は頭と背に重傷を受けて即死、中岡慎太郎は全身に11カ所に重軽傷を受けており、2日後、絶命した。

(参考資料)平尾道雄「坂本龍馬 海援隊始末記」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、安部龍太郎「血の日本史」、加来耕三「日本創始者列伝」、宮地佐一郎「龍馬百話」、豊田穣「西郷従道」

佐久間象山・・・幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家

 佐久間象山は元治元年(1864)7月11日夕刻、京都三条木屋町で刺客、肥後藩士・河上彦斎に暗殺された。享年54歳だった。象山は当時でも稀な大自信家だった。果たして実像はどうだったのか。

佐久間象山の塾で教えを受けた吉田松陰は、兄の杉梅太郎に送った手紙のなかで、象山を「慷慨気節あり、学問あり、識見あり」と称え、「当今の豪傑、江戸の第一人者」と記し、山鹿素水・安積艮斎らをも凌ぎ「江戸で彼にかなう者はありますまい」とまで書いている。象山には“大法螺(おおぼら)吹き”とか“山師”といった批判もあった反面、非常に見識のあった人物だ。ペリーの来航を機に攘夷の虚しさを認識し、これ以後、開国策を終始一貫して全く変えないで、あの時代に主張したのは彼だけだ。象山とともに開国論を唱えていた横井小楠は攘夷の側へブレているが、30年間ずっと世界の大勢を説いて、開国論を唱えてきたのは彼以外にいないのだ。

 象山の言葉にこんなのがある。
「余、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋ることあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋ることあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋ることあるを知る」 

 意味するところは、20代は松代藩、つまり藩単位でものを考えていた。30歳を過ぎると、天下=日本の問題としてすべてを考えるようになってきた。40歳以降になると、全世界というものを考えるようになってきた-というわけだ。勉強すればするほど問題意識が広がるし、それにつれて自分の使命感も重くなる。そんな心境を表現しているとみられる。

 勝海舟の妹にあたる妻の順子に、象山自作のカメラのシャッターを押させて撮った写真が残っている。晩年の象山の姿だという。これをみると、象山は西洋人ではないかと思われるような、ちょっと変わった顔をしている。安政元年正月、ペリーが和親条約締結のため二度目に日本に来たとき、象山は横浜で応接所の警護の任にあたっていて、たまたま、ペリーが松代藩の陣屋の前を通り、軍議役として控えていた象山に丁寧に一礼したことがあったという。日本人でペリーから会釈されたのは象山だけだというので、当時、語り草になった。これは象山の風采が堂々としていて、当時の日本人としては異相の人だったことを物語るエピソードだ。

 象山は天才意識が強く、大変な自信家だった。彼は自分の家の血統を誇りに思って、優れた子孫を遺そうと必死になっている。蘭学の勉強を始め、普通は1年かかるオランダ文法を大体2カ月でマスターした。そして8カ月も経った頃には、傍らに辞書をおけばもうすべて分かるようになったと手紙に書いている。ショメールの百科全書を読みながらガラスを作ったりもしているのだ。また、大真面目にあちこちへお妾さんを世話してくれという手紙を書いている。これも自分のような立派な男子の種を残すということは、国家に対して忠義だというような調子で語っている。少し度を超えた自信家である。現代の日本人にぜひ欲しいくらいの自信だ。

 象山は文化8年(1811)、信州松代藩の下級武士の家に生まれた。彼は誰に教わることもなく、3歳にして漢字を覚えた。早くから彼の才能に目をつけた城主、真田幸貫の引き立てで学問などに修養。天保12年(1841)幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、彼を海防係の顧問に抜擢した。象山32歳のことだ。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの幸貫の信頼に報いるためだった。優れた漢学者としての“顔”に加え、後半生、洋学に心血を注いだ象山は、それがもたらした科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。

 幕末、京都における象山の立場はかなり自由なものだった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮や一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説くなど、その諮問に応じ、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ彼が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど、その死期が刻々と近づきつつあった。

彼のその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎたのだ。
 象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養のある方だったが、この後、彼は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、彼ほどの手だれが、身がすくみ、心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥ったという。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、日本史探訪/開国か攘夷か「佐久間象山 和魂洋才、開国論の兵学者」(奈良本辰也・綱淵謙錠)、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと4」

                             

真田幸村・・・天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣

 真田幸村は江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。真田十勇士を従えて大敵、徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、広く一般に知られることになったが、彼自身が「幸村」の名で残した史料は全く残っていない。また、真田家の戦(いくさ)上手の評価も、父昌幸由来のもので、信繁の戦功として記録上、明確に残っているものは1600年、真田氏の居城・上田城で父昌幸とともに徳川秀忠軍と戦ったものと、大坂冬の陣・夏の陣(1614~15年)での活躍しかない。戦いに明け暮れた智将・軍略家のイメージがあるが、これはあくまでも小説や講談の世界のもので、実態は意外に地味なもののようだ。

 真田信繁は真田昌幸の次男で、武田信玄の家臣だった真田幸隆の孫。信繁の生没年は1567(永禄10)~1615年(慶長20年)、ただ一説には生年1570年(永禄13年)、没年1641年(寛永18年)ともいわれる。

 関ケ原の戦いに際しては、信繁は父昌幸とともに西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘で徳川軍の東軍についた兄信之と袂を分かち戦った。昌幸と信繁は居城・上田城に籠もり、東軍・徳川秀忠軍を迎え撃った。寡兵の真田勢が相手だったにもかかわらず、手こずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として秀忠軍は関ケ原の合戦には間に合わなかった。

 しかし、石田三成率いる西軍は東軍に敗北。昌幸と信繁は本来なら切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国高野山麓の九度山に配流された。信繁は34~48歳までの14年間、この配所の九度山で浪人生活を送った。父昌幸は1611年(慶長16年)、失意のうちにこの配所で死去している。

 信繁が再び歴史の表舞台に登場するのは大坂冬の陣・夏の陣だ。1614年(慶長19年)に始まる冬の陣では信繁は当初、毛利勝永らと籠城に反対し、京を押さえ宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策に決すると、信繁は大坂城の弱点だった三の丸の南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先方隊に大打撃を与えた。これにより越前松平勢、加賀前田勢などを撃退し、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめることになった。

 冬の陣の前に大坂城に集まった浪人は10万人を超えた。主家を滅ぼされたり、幕府の酷政によって取り潰された者たちが、豊臣家の勝利に出世の望みを託して集まったのだ。だが、冬の陣の和議によって大坂城の堀を埋め立てられ、本丸だけのいわば裸城となって勝利の望みがなくなった今も、7万人もの浪人が城に残っていた。生き長らえても、徳川の世に容れられる望みのない者たちばかりだ。夏の陣に家康は16万の軍勢を大和路と河内路の二手に分け布陣した。

 対する大坂方は悲惨だった。兵力は敵の半数以下で、しかも総大将たるべき者がいなかった。秀頼には合戦の経験がなく、大野治長は闇討ちに遭って重傷を負い、総大将と目されていた織田有楽斎に至っては早々と城を逃げ出していた。真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、木村重成、長曽我部盛親ら、大阪方の武将は、誰が全体の指揮を執ると決めることができず、互いに横の連絡を取り合って、戦わざるを得なかった。

 夏の陣では、信繁は道明寺の戦いで伊達政宗の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その後、豊臣軍は劣勢となり、戦局は大幅に悪化。後藤又兵衛や木村重成などの主だった武将が討ち死にし疲弊。そこで信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗した。

豊臣軍の敗色が濃厚となる中、信繁は毛利勝永と決死の突撃作戦を敢行する。その結果、徳川家康本営に肉薄。毛利勢は徳川方の将を次々と討ち取り、本多勢を蹴散らし、何度も本営に突進した。真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢に手一杯だった徳川勢の隙を突き徳川家康の本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散らした。しかし、手薄な戦力ではここまでが限界だった。信繁の手勢は徐々に後退、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、信繁は遂に四天王寺近くの安居神社(現在の大阪市天王寺区)の境内で斬殺された。

男盛りの14年間を九度山で、不自由で困窮を極めた配流生活を送った信繁の人生の“総決算”が、この大坂冬の陣・夏の陣だったのだ。そう考えると、信繁の不器用な生き方が少し哀れな気もする。虚構の真田幸村とは大きく異なり、真田信繁は実利や権勢は全く求めず、武将としての潔さが目を引く人物だったのだろう。

 信繁討死の翌日、秀頼、淀殿母子は大坂城内で自害、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。そして、磐石な徳川の時代が始まった。

(参考資料)司馬遼太郎「軍師二人」、司馬遼太郎「関ケ原」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、池波正太郎「戦国と幕末」、海音寺潮五郎「武将列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

三条実美・・・維新政府の太政大臣、憲政内閣誕生後は内大臣を務めた名家

 三条実美(さんじょうさねとみ)は、藤原北家閑院流の嫡流で太政大臣まで昇任できた清華家の一つ、三条家という公家の中でも名家に生まれた。そして彼自身、明治政府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。彼は岩倉具視とは正反対に、策を弄するなどということが一切できず、どこまでも素直であり、太政大臣になっても、自分のために政治を利用するなどということは決してなかった。
ちなみに、1879年(明治12年)、太政大臣・三条実美の月俸は800円、右大臣・岩倉具視の月俸は600円、巡査の月給は10円、米が一升7銭だった。やはり、太政大臣というのはそれだけの貴官しか就けない職責だったのだ。

当時の顕官の中には、飾り物として太政大臣の三条実美は役に立つなどと高言する者もいたが、彼は内外に眼がよく届き、それぞれ一城の主だった参議たちを宥め、首相としての職を果たした。民間に国会開設の声が盛んになると、1885年(明治18年)、自ら太政大臣の職を解いて、後継の首相を伊藤博文に任せ、初めて憲政内閣の誕生に努めた。内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。
 三条実美(正式には三條實美)の父は贈右大臣・実万(さねつむ)、母は土佐藩主・山内豊策の娘、紀子。実美の妻は関白・鷹司輔煕の九女、治子。実美は「梨堂」と号した。生没年は1837(天保8)~1891年(明治24年)。

 実美は1854年(安政元年)、兄の公睦の早世により家を継いだ。幕府の大老・井伊直弼が断行した「安政の大獄」で処分された父、実万と同じく尊皇攘夷派の公家として1862年(文久2年)、勅使の一人として江戸へ赴き、徳川第十四代将軍家茂に攘夷を督促し、この年、国事御用掛となった。長州藩と密接な関係を持ち、姉小路公知とともに、尊皇攘夷激派の公卿として幕政に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。

 ところが、思わぬ事態が起こった。1863年(文久3年)、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター、「八月十八日の政変」だ。これにより実美は朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移った(七卿落ち)。その後、長州藩に匿われ、福岡藩に預けられ、さらに大宰府へ移送され3年間の幽閉生活を送った。失意の日々だった。

 しかし、時代はまだ実美の出番を用意していた。1867年(慶応3年)の王制復古で表舞台に復帰したのだ。彼は成立した新政府で議定(ぎじょう)となった。議定は明治政府発足後(1867年12月~)設けられた中央管制の三職(総裁、議定、参与)の一つで皇族や公家、藩主などから10人が任じられた。翌年には1868年1月に新設された総裁を補佐する副総裁に就任。戊辰戦争においては関東監察使として江戸に赴いた。そして、1869年(明治2年)には右大臣、1871年(明治4年)には7月から採用された太政官制のもとで遂に太政大臣となったのだ。

(参考資料)文藝春秋編「翔ぶが如くと西郷隆盛」

平清盛・・・日本初の武家政権を開き、武士では初の太政大臣を務めた人物

 平清盛は平安時代、周知の通り日本で初めて武家政権を開いた人物だ。保元・平治の乱を経て、源氏との戦いに勝利した、清盛の率いる平家はその後、旭日昇天の勢いで勢力拡大していくことになる。清盛は8年間に、正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて、武士では初めて太政大臣となった。『源平盛衰記』によると、一門の栄達も重盛の内大臣をはじめ、公卿16名、殿上人30人余、その他の国司や衛府の武官は80人余にも達した。

 また、娘の徳子を高倉天皇の「中宮」として参内させ、皇子をもうけるや1歳3カ月の幼帝(=安徳天皇)を誕生させた。清盛は天皇の外祖父となり、朝廷内に閨閥を張り巡らせ、天下の権を掌中にした。まさに、“平氏にあらずんば人にあらず”(『平家物語』)といわれたほどの隆盛ぶりだったのだ。

 ただ、清盛は新しい世の中のしくみをつくり変えるまでの意欲を示し得ぬまま、旧来の王朝政治を踏襲しつつ、多少の“繕い”を施したにとどまった。そのため、本格的な武家社会の構築は、次代の鎌倉幕府・源頼朝に委ねられた。

 平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として、伊勢産品(うぶすな、現在の三重県津市産品)で生まれた。生母は不明だが、祇園女御の妹という説が有力だ。母の死後、祇園女御の猶子になったといわれる。この祇園女御の庇護の下に育ったことから、清盛は一説には白河法王の落胤ともいわれる。清盛、浄海などに改名。別名・平大相国(たいらのだいしょうこく)、六波羅殿、福原殿、清盛入道などとも呼ばれた。清盛の生没年は1118(元永元)~1181年(治承5年)。

清盛の父、忠盛が死去し平氏の棟梁となったとき、清盛は36歳だった。時代はまさに大きな転換期を迎えていた。奈良朝から平安時代にかけて、日本は公地・公民の制度を政治の根幹としてきたが、長い泰平はいつしかこの基本をタテマエにすりかえてしまった。中央の貴族や大寺院・大神社などは、己れの特権を活かして、“荘園”という名目の私領をつくり、増やすことに熱中した。

そのため、中央での出世を諦めた官僚たちは、地方の役人として天下り、官権を利用して公民を使役し、原野を開墾したり、公地を詐取して、さらには婚姻政策で勢力を拡大。そうして得た領地(荘園)を、朝廷の権力外にある、勢力ある公卿や神社仏閣に寄進し、自らはその管理人となった。

 もちろん、このしくみは名目に過ぎない。寄進とはいえ、名義料的年貢を納入することで、国家の課税や課役を免れるのだから、その貯えは莫大なものになった。こうして全国に無数の在地地主(後の武士)が誕生した。その一方で、藤原氏の摂関政治に代わって、退位した天皇(上皇)が院庁を開き、“治天の君”と呼ばれ、朝廷の政治権力を掌握するシステム「院政」が生まれていた。

 平安時代末期、先の平治の乱では平氏に敗れたものの。東国武士団の頭領として源氏が登場、源義経など天才的な軍略家を輩出。配下の武将にも戦場で大活躍する多くの名将が出てくる。しかし、この清盛は戦場での名将とは言い難い。むしろ戦術を政略とからめて考察するタイプの武将だった。彼は終始、朝廷の機嫌を取り、次の後白河法皇による院政ではその保護を得て、前代未聞のスピードで昇進し、権力の座へかけ昇っていった。1167年に太政大臣となり、1171年に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、生まれた子を安徳天皇として即位させ「天皇の外戚」という立場を手に入れた。

 位人臣を極めた清盛は、平氏一門を高位高官に取り立てた。その結果、一門の知行国は30を超え、所有する荘園は500カ所以上に上った。また、父忠盛が関与を始めた「日宋貿易」を積極的に行い、莫大な富を手中に収めることに成功、平氏政権の財政を支えた。

 さらには平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、1179年(治承3年)の政変で法皇を幽閉して、幼帝・安徳天皇を擁し、清盛は政治の実権を握ることに成功する。だが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受けることになる。やがて、各地で源氏による平氏打倒の兵が挙がり、緊迫した情勢の中、平氏にとってあってはならない悲劇が起こる。総帥・清盛が熱病を発症、あっけなくその生涯を閉じたのだ。

大黒柱の清盛を失った平氏はその後、まさに坂道を転げ落ちるようにその勢いは衰え、清盛の死後、わずか4年後の1185年、壇の浦の戦いで敗れ滅亡した。清盛の存在があまりにも大きすぎたことと、彼が武家による新しい世の中のしくみや、統治システムを用意できないまま亡くなったためだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「武将列伝」、加来耕三「日本創始者列伝」、井沢元 彦「逆説の日本史・中世鳴動編」

沢庵宗彰・・・権力に与(くみ)せず、心の潔白を通した名僧

 沢庵宗彭(たくわん そうほう)は書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、多くの墨跡を残した江戸時代の臨済宗の名僧で、大徳寺の住持として知られている。とくに第三代将軍徳川家光が、この沢庵に深く帰依したといわれている。また、一般的に「沢庵漬け」の考案者といわれているが、これについては諸説あり、詳細は定かではない。沢庵の生没年は1573(天正元)~1646(正保2年)。

 沢庵宗彭は出石城主山名祐豊の重臣、秋庭綱典の次男として但馬国出石(現在の兵庫県豊岡市出石町)で生まれた。諱は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。東海・碁翁などの号がある。沢庵が8歳のとき山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得た。14歳で出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事、秀喜と改名した。1591年(天正19年)、希先西堂が没すると、この間に出石城主となっていた前野長康は大徳寺から春屋宗園の弟子、薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事することになった。

 1594年(文禄3年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。薫甫の死後、和泉国堺に出たが、堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)、沢庵の法号を得た。1607年(慶長12年)、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔頭徳禅寺に住むとともに、南宗寺にも住持した。1609年(慶長14年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵はわずか3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。1620年(元和6年)、郷里出石に帰り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結んだ。

 江戸幕府は寺院法度や禁中並公家諸法度で、寺社および、寺社と朝廷との関係を弱めるため、規制をかけた。1627年(寛永4年)、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、幕府は早速、法度違反と見做して勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り前住職の宗伯(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)、東源(とうげん)らとともに反対運動を行った。

 僧籍にあるものといえども、幕府の政事に異を唱えた代償は大きかった。1629年(寛永6年)、幕府は沢庵を出羽国上山に、宗伯を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へそれぞれ流罪とした。上山藩主の土岐頼行は流されてきた名僧沢庵の、権力に与しない生き方と、心さえ潔白なら身の苦しみなど何でもない-とする姿に心を打たれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを「春雨庵」と名付けてこよなく愛したといわれている。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇した。

 1632年(寛永9年)、第二代将軍徳川秀忠の死により、大赦令が出され、南光坊天海や柳生宗矩の尽力により紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵は1634年(寛永11年)、宗伯とともに大徳寺に戻った後、将軍家光が上洛した際、天海や柳生宗矩らの強い勧めを受けて、家光と謁見した。このころから家光は沢庵に深く帰依するようになった。そのため同年、郷里に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸へ下った。

沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することはできなかった。1639年(寛永16年)、家光は萬松山東海寺を創建し、沢庵を住職とした。家光は政事に関する相談も度々行ったが、これは家光による懐柔工作と考えられている。それは、逆に言えば、沢庵の影響力がいかに強かったかを物語っている。

 だいこんの漬物、いわゆる「沢庵漬け」は、この沢庵が考案したものといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを、沢庵が江戸に広めたともいう。後者の説によれば、徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、だいこんのたくわえ漬けを供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬けにあらず、たくわん漬けなり」と命名したと伝えられているが、風聞の域を出ない。

(参考資料)紀野一義「名僧列伝」

徳川家康・・・ケタ外れの忍耐強さと用心深さ・賢明さが天下人の要因

 徳川家康は周知の通り、江戸に幕府を開いた開祖だ。だが、3歳で母と生き別れ、6歳の幼さで人質として駿府へ送られた家康(当時は竹千代)。そして信長、秀吉の時代を耐え忍び、1600年(慶長5年)9月の「関ケ原の戦い」で勝利を収めるまでの苦難の道のりは、「長くて遠い道」だった。関ケ原後も即、徳川政権へ道が開かれたわけではなかった。通常、よく引き合いに出される織田信長・豊臣秀吉と比較して、家康の天下取りに向けての忍耐強さは抜きん出ている。天下を取ったのは家康62歳のときのことだ。現代の62歳ではない。とても、尋常な生命力ではない。家康の生没年は1542(天文10)~1616年(元和2年)。

 関ケ原の戦いで家康が勝ったといっても、大坂城の豊臣秀頼の地位が低下したわけではなかった。家康はその後も秀頼を主君とする五大老の、筆頭であっても、地位はそのままだった。ところが、1603年(慶長8年)、家康が征夷大将軍に任じられた。これに対し、秀頼はそのまま豊臣政権のトップとして大坂城にいた。これによって、幕府を開いた江戸の徳川政権と大坂の豊臣政権という、二つの政権が併存するという変則的な形となった。それでも大坂方には、家康が征夷大将軍になったのは当座のこと。秀頼様が成人した暁には、政権を戻すはず-という楽観論があった。

 ところが、その2年後、そんな大坂方の楽観論が無残に打ち砕かれる。家康が突然、将軍職を子の秀忠に譲ってしまったからだ。家康は、将軍職は徳川家が世襲すると内外に宣言したわけで、大坂方にはショックだった。

さらに追い打ちをかけるように家康は、天皇の権威を使って豊臣家の権威を乗り越え、諸大名より一段上に立つための手を打つ。1606年(慶長11年)、家康は宮中に参内したとき、朝廷に対し「武家の官位は以後、家康の推挙なしには与えないように」と申し入れているのだ。すなわち直奏(大名家と朝廷との官位の直接取引)の禁止だ。戦国期のように、大名が金を積んで官位を買い取ることをできなくするとともに、大坂の秀頼が官位を左右することを防ぐためだ。これは、官位授与権の独占であり、このことによって、秀頼と家康の立場は完全に逆転したわけだ。

この後、老獪な家康は豊臣家に対し様々な謀略を仕掛け、豊臣政権の官僚・石田三成に不満を持つ豊臣家の大名を巧みに自派に取り込み、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」を経て、遂に豊臣家を滅亡に追い込む。秀吉が全国を統一してから、まだわずか25年後のことだった。周知の通り、徳川家15人の将軍による治世は265年を数えたことを思えば、極めて短命だったといわざるを得ない。

 また家康は、朝廷側にとって一言も弁明できない不祥事=朝廷の弱味を握ることで、対朝廷工作を有利に、主導権を持って進めることができたのだ。朝廷側の不祥事とは1609年(慶長14年)の宮中の「官女密通事件」だ。「宮中乱交事件」などともいわれているもので、後陽成天皇の寵愛を受けている宮中の女官たち5人が、北野、清水などで、やはり数人の中下級の青年公家たちとフリーセックスを楽しんでいたというものだ。この事件を家康は巧みに政治的に利用したのだ。

 この密通事件に対する家康の内意は、処罰は天皇の叡慮次第としたのに対し、天皇は主謀者以下、全員を極刑(死罪)に処すべし-との判断が下ったのだ。幕府や京都所司代が予想していなかった厳刑だ。古来、官女の密通事件は珍しいことではない。確かにこのときほど大掛かりな事件は未曾有のことだったが、処罰が斬罪にまでなった例はなかった。官位授与にあたって、強引な家康の申し入れを飲まざるを得ない、朝廷として弁解の余地がない不祥事を起こされたことに対する、天皇の怒りの激しさが窺われる。

 朝廷の劣勢は続き、この処分についても最終的には家康の裁断に任された。後陽成天皇は愛妾数人に裏切られ、さらにその処罰について幕府の強い干渉を受け、二重に屈辱を被ったわけだ。
 こうして家康は、朝廷・公家を押さえ込むことに成功。1615年、大名の力を抑える、巧妙な大名統制システムをつくり上げる前提となった武家諸法度に加え、禁中並公家諸法度を制定し、朝廷の統制を図ったのだ。これは、天皇の行動まで規定した厳しいものだった。豊臣政権時代にはまず考えられなかったことだ。これによって、徳川の長期安定政権が実現されたといえよう。

 ここまで関ケ原の戦いに勝利した以後の家康の動きを見てきたが、そもそも戦国時代から安土・桃山(織豊政権)時代を経て、天下人・徳川家康が誕生するにあたって、家康のどのような点が優れていたのだろうか。
第一は忠誠無二で、最も良質な兵を持っていたことだ。戦国時代、最も良質な兵は武田氏の甲信兵と上杉氏の越後兵だが、家康の配下、三河兵も決してこれらに劣らず、あるいは優っていたとまでいわれる。

第二は家康の用心深い性格だ。幼いとき継母の父に裏切られ、長く他家の人質になっていたという悲しい経験がつくり上げたのだろう。彼は何度か、石橋を二度も三度も叩いて確実に安全であることを確かめてからでなければ渡らないことがあった。・それまで桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川勢が守っていた岡崎城に帰還したとき、主家の今川氏の許可なしには入城できないと、今川勢が引き揚げ、空き城になるまで待った・信長から同盟の申し込みがあったとき、・小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉に帰服したときもそうだった。焦れた秀吉から、その妹と母とを人質に取ったうえで、やっと腰を上げて京へ赴き帰服したのだ。

 第三は、彼が真に勇気ある武将だったことだ。決断するまでは用心深く、臆病なくらいなのだが、いったん決心し戦場に臨むと、勇猛果敢に戦うのだ。その端的な例が「三方ヶ原の戦い」だ。京に上ることを決心した武田信玄が、家康の居城の近くを通ろうとしたとき、彼は一矢も射掛けないまま通したのでは、後世、徳川家は腰抜けと悪口をいわれるぞ-と配下に命じ、信玄に遮二無二、戦を仕掛けたのだ。結局、この戦いに彼の生涯に一度という惨敗を喫して、一命も危ういほどの目に遭うが、それでもこの戦いは、徳川家の武士の誇りと体面を保つ、彼の輝かしい戦歴の一つになった。
 第四は、家康が賢明さを持ち合わせた人物だったことだ。彼が小牧・長久手の戦いで、秀吉の大軍と対峙したときのことだ。秀吉軍約11万に対し、家康軍はわずか約1万8000だった。ところが、家康軍は局地戦では奇襲戦術で応じ、散々撃破したが、決して深追いせず、その後は素早く兵を引き揚げ、相手にならず、挑発にも決して乗ることはなかった。この合戦で実質上、天下人だった秀吉と休戦・講和に持ち込んだことが、その後どれほど家康を利したことか。

秀吉が終世、家康を憚ったのは主としてこのためだ。秀吉は合戦の場で、家康を破り、屈服させることができなかったことで、名実ともに武家の棟梁を意味する征夷大将軍補任、すなわち幕府開設への道を閉ざされたわけだ。そして、家康のこの戦歴が後年、諸大名に対する無言の圧力となって効いてくるのだ。

合戦であの天下人となった太閤殿下(秀吉)に負けたことがなかった武将として、徳川家康は同列の武将から一歩抜きん出た存在として誰もが一目置かざるを得ない人物として、強烈に意識されクローズアップされるとともに、ついて従っていかざるを得ない状況がつくり出されることになるのだ

(参考資料)海音寺潮五郎「覇者の條件」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「城塞」、司馬遼太郎「関ヶ原」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史」、今谷明「武家と天皇」

武田信玄・・・上杉謙信と武名を二分し、織田信長が恐れた武将

 武田信玄は甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第十九代当主で、戦国時代、越後の上杉謙信と武名を二分した名将だ。歴史に「…たら」「…れば」と仮定の話をしても仕方ないのは十分承知しているが、敢えて信玄があと10年健在だったら、歴史はかなり変わっていたのではないか-と考えざるを得ない。

果たして、織田信長の「天下布武」があったかどうか?そうなると、豊臣秀吉の天下は?とその後の歴史に?をつけてみたくなる。織田信長が、上杉謙信とともに最も恐れていた戦国大名、それが武田信玄だ。

信玄が人生の総決算として、戦国時代、とくに良質で屈強といわれた甲斐兵の大軍団を率い、満を持しての上洛の途上、病に倒れただけに、なおさらその可能性を膨らませてしまう。何しろ徳川家康は無謀な戦を仕掛け、惨敗して武田軍の強さに脅えているし、織田信長は初めから戦うことを放棄し、信玄の上洛を黙って見ているほかなかったのだから。

 武田信玄は甲斐国・躑躅ヶ崎館で第十八代当主・武田信虎の嫡男として生まれた。幼名は勝千代。諱は晴信。信玄は出家後の法名。信玄の生没年は1521(大永元)~1573年(元亀4年)。
 信玄は8歳のとき長禅寺という寺で手習いや学問を習った。上達が早く、一を聞いて十を知るというような利発な子供だった。玄恵法師が著したとされる『庭訓往来』を2、3日で内容をすべて学び取ってしまったといわれる。

 ただ、信玄が武田家の家督を継ぐまでには今日、信玄にとって理不尽で筆舌に尽くし難いほどの労苦が伝えられている。戦国武将の生い立ちをみると、本来、家督を継ぐはずの長子でありながら幼少期、様々な理由から意識的に疑問符を付けられ、その資格を剥奪され、廃嫡されかけた人物は少なくない。著名な例を挙げれば、織田信長がそうだし、伊達政宗もそうだった。ここに取り上げる武田信玄は、その極端な例といえる。

信玄の父、武田信虎は甲斐一国を統一したほど、戦(いくさ)上手だったが、最悪な性質で家来にも民にも忌み嫌われたと伝えられ、信玄を愛さなかった。信虎は弟の信繁を愛した。信玄にはことごとく辛く当たり、信玄が何かを言い返せば、言い返すほど叱責、罵倒の繰り返しとなった。信長の父、織田信秀や、政宗の父、伊達輝宗の場合は、まだ彼らを愛していた。それだけに救いがあったが、信玄の場合は救われようがなかった。

 このため、武田家の家臣団の動向もはっきりしていた。大部分の家臣が弟の信繁に傾き、信玄は子供の頃からバカにされていた。そこで信玄はそういう空気を察し、自ら“道化者”を装った。青少年時代の彼は、事あるごとに道化者の晴信として終始した。だから、武田家の家臣の多くは当然のことながら信繁に忠誠心がいった。

ところが、信玄にも忠臣がいた。甘利虎泰、板垣信方、飯富虎昌らだ。彼らは信玄の道化ぶりを信じなかった。むしろ、そういう道化者を自己演出している信玄の深慮ぶりに舌を巻いていた。そこで、彼らは陰となく日向となく信玄を支えた。

 やがて武田家臣団は、当主の信虎が能力の有無に関わりなく、私情の面で信玄を嫌っていると判断するようになった。その結果、家臣団の気持ちは信虎から離反、細心の注意と万全の準備をもって進められた、信玄による父、信虎の駿河追放は何の混乱もなく達成された。

 名実ともに甲斐国の国主となった信玄は隣国、信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と五回にわたる「川中島の合戦」を戦いつつ、信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有するまで、武田氏の領国を拡大した。

 信玄は戦争が上手だっただけでなく、政治的手腕も卓抜だった。彼は新しく占領した土地は、決して武士たちの行賞の対象にせず、自分の直轄領として民政に熟練した者を代官として治めさせた。そのため、新付の土地でも彼が生きていた間は決して離反しなかったという。晩年、上洛の途上に三河で病を発症し信濃で病没した。死因は労咳(肺結核)、肺炎、あるいは『甲陽軍艦』では胃がん、もしくは食道がんによる病死説が有力だ。

 江戸時代から近代にかけて『甲陽軍艦』に描かれた信玄の伝説的な人物像が広く浸透。“風林火山”の軍旗を用い、甲斐の虎または、彼が龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、強大な武田軍を率い、謙信の好敵手としてのイメージが形成されたのだ。したがって、今日私たちが抱く信玄像には虚像の部分もあるのだろうが、信玄は立派な事績を残している。

 山梨県にはいまでも「信玄堤」と呼ばれる堤防がある。信玄は領国経営にも優れた力を発揮していた。治山、治水には「信玄工法」と呼ばれる技術を駆使した。甲州には釜無(かまなし)、御勅使(みだい)、荒川、笛吹などの暴れ川があって、しばしば氾濫した。信玄は国主になると、この暴れ川の鎮圧に乗り出したのだ。

 信玄の「座右の銘」がある。「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」。この意味は、どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる-というものだ。

 「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という言葉がある。これは良く知られている米沢藩主、上杉鷹山の言葉だ。だが、信玄はこれよりかなり前、鷹山とよく似た名言を残している。それは「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ」だ。
 信玄の弟、信繁の分をわきまえた人物像にも少し触れておく。既述の通り、信繁は父に深い愛情を注がれて育ったが、それに乗らなかった。それが武田家を安泰にし、武田軍団を混乱させることなく、甲斐武田を戦国の雄たらしめたのだ。彼は学問が深く、有名な「武田信繁の家訓」九十九ヵ条を書いた。これは、元々信繁が自分の子供に宛てた戒めの書だが、実際には「信玄家法」あるいは「甲州法度」の下巻として扱われている。

(参考資料)海音寺潮五郎「覇者の條件」、童門冬二「武田信玄の人間学」、井上靖「風林火山」、新田次郎「武田信玄」、井沢元彦「逆説の日本史」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

徳川光圀・・・善政、数々の文化事業で評価高い半面、藩財政の重荷に

 徳川光圀は、徳川御三家の一つ、水戸藩二代藩主として善政を行い、30年の長きにわたりその座にあり、幕政にも影響力を持った時代もあったため、天下の副将軍、「水戸黄門」のモデルとして知られる。ただ、『大日本史』の修史事業に着手したことや、古典研究や文化財の保護など数々の文化事業を行ったことで、評価が高い半面、為政者としては膨大な資金を要する文化事業を行ったことで、光圀以降の代々の藩財政悪化の遠因をつくったと指摘する見方もある。徳川光圀の生没年は、1628(寛永5)~1701年(元禄13年)。

 徳川光圀は水戸藩初代藩主・徳川頼房の十一男・十五女の第七子に生まれた。母は側室で、家臣谷重則の娘、久子。徳川家康の孫にあたる。諡号は「義公」、字は「子龍(しりゅう)」、号は「梅里」。三木長丸、徳川千代松、徳亮、光国、光圀と改名した。

 1633年(寛永10年)、光圀は後に讃岐国高松藩主になる兄の頼重を超えて継嗣に決まった。名を千代松と改め、7歳のとき江戸城に上り、当時の徳川三代将軍家光に拝謁。1636年(寛永13年)、9歳のとき将軍家光立ち会いの下、元服し家光の「光」の一字をもらい「光国」と名乗るようになった。1661年(寛文元年)父、頼房が亡くなり、34歳で第二代藩主の座に就いた。

 光圀は藩主として寺社改革や殉死の禁止、巨船「快風丸」の建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。また、民政にも力を入れ、勧農政策の実施、藩職制の整備、教育の振興などの善政も特筆される。殉死の禁止などは幕府に先駆けて行ったほか、藩士の規律、士風の高揚を図るなどの施策を講じた。とりわけ、五代将軍綱吉の時代には徳川一門の長老として幕政にも影響力を持った。

 光圀は藩主になる前、1657年(明暦3年)、江戸駒込の中屋敷の史局(後の彰考館)を置き、『大日本史』の編纂に着手したほか、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。
 1690年(元禄元年)、家督を兄・頼重の子供の綱条(つなえだ)に譲った後、久慈郡新宿村(現在の常陸太田市)に西山荘を建てて隠居した。ただ、隠居後も八幡神社の整理と一村一社制の確立に努めるなど藩政に強い影響力を持った。

 光圀は『大日本史』の編纂に必要な資料収集のため家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから、テレビ番組でお馴染みの「水戸黄門」の諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、現在の関東地方の範囲から出た記録がない。

 光圀は学者肌で好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本で最初にこの光圀が食べたとされるものも少なくない。ラーメンはじめ餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆などがそうだ。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は五代将軍綱吉が制定した「生類憐みの令」を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。鮭も好物でカマとハラスと皮をとくに好んだといわれる。吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。

 晩年、光圀は子孫のために九カ条の訓戒『徳川光圀壁書』を残している。
一.苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし
一.主人と親は無理(をいう)なるものと思え、下人は(頭の働きの)足らぬものと知るべし
一.掟に怯(お)じよ(法令を恐れよ)、火におじよ、分別がなきものにおじよ、恩をわする事なかれ
一.欲と色と酒をかたきと知るべし
一.朝寝をすべからず。咄の長座すべからず
一.(ものごとは)九分(どおりしてのけても)にたらず、十分はこぼるる
(やりすぎてもいけない)と知るべし
一.子ほど親を思え、子なきものは身にたくらべ(くらべ)て、ちかき手本と知るべし
一.小さき事は分別せよ、大なる事に驚くべからず(小さいと思える事でも、よく考えて処理せよ、大きな事であっても慌ててはならぬ)
一.(思慮)分別(する)は堪忍あるべし(堪忍に勝るものはない)と知るべし

(参考資料)尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三    
      郎「徳川吉宗とその時代」、司馬遼太郎「街道をゆく37」

高野長英・・・鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才

 高野長英は文化元年(1804)、水沢藩士後藤実慶の三男として生まれた。9歳のとき父が病死したため母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄である水沢藩医、高野玄斎の養子になった。
 長英は18歳のとき、養父の玄斎の反対を押し切り、江戸へ遊学。故郷を出奔同様に離れた折の後ろめたさは、彼の胸に深い傷として残されたが、江戸に着いてからの記憶も苦々しいもので、生活費にも事欠く有様だった。

翌年、内科専門の蘭方医として知られる吉田長淑の塾に学僕として入門し、ようやく学問に専念できるようになった。彼の学才は次第に発揮され、長淑は彼の将来性を認め、それまで高野郷斎と名乗っていた彼に、自分の長淑の長の一字を与えて、長英と改めさせた。

長英の人生において大飛躍のきっかけとなったのが、21歳のときのシーボルトが主宰する長崎・鳴滝塾への入塾だ。文政8年(1825)、長英は長崎の医師、今村甫庵に誘われ、長崎に赴く。長崎には2年前に来日したシーボルトが郊外の鳴滝に塾を開き、すでに湊長安、岡泰安、高良斎、岡研介、二宮敬作ら全国の俊秀が、塾生として蘭学の修業に専念していた。

当初、学力の乏しさに暗い気持ちになった長英だったが、生まれつき語学の才に恵まれていた彼は、塾の空気に慣れるにつれて頭角を現した。シーボルトは、長英の才質を高く評価し、様々なテーマを彼に与えた。長英もこれに応え、5歳年長の初代塾長の岡研介とともに鳴滝塾の最も優れた塾生と称されるまでになった。

長英は、三河国田原藩年寄末席の渡辺崋山に初めて会った天保3年、わが国最初の生理学書「西説医原枢要」を著し、優れた語学力を駆使して洋書を読みあさり、医学、化学、天文学への知識を深めていた。さらに崋山との接触によって、社会に対する関心も抱くようになった。

しかし、暗雲もかかり始めた。崋山が「慎機論」、そして長英が「夢物語」を書き、幕府の対外政策に対する危惧を訴えたことなどがきっかけとなり、「蛮学社中」が幕府の目付鳥居耀蔵に目をつけられることになった。鳥居は大学頭林述斎の子で儒学を信奉し、極端に洋学を嫌っていて、崋山とその周囲に集まる洋学者に激しい反感を抱いていた。それは生半可なものではなく、その矛先は崋山と親しく交わり西洋の知識を身につけた川路聖謨(としあきら)、江川英龍らの幕臣にも向けられたほど。これが近世洋学史上、最大の弾圧である“蛮社の獄”に発展する。

天保10年(1839)5月、崋山が投獄され、その4日後、長英は北町奉行所に自ら赴いた。長英は追放刑程度で済むと思っていたのだが、投獄7カ月余の後、申し渡された刑は、死ぬまで牢内生活を強いられる永牢だった。それから6年後、小伝馬町の牢に不審火があって、囚人が一時、解放される。長英もその一人として一散に走り出た。そして彼は3日の期日が過ぎても牢へ帰らなかった。
こうして友人、門弟たちとも消息を絶ち、彼の孤独な逃亡生活は始まった。北は陸奥国水沢から南は鹿児島へ逃れたとされる。「沢三泊」と名を変え、悲惨な逃亡生活だったが、西南雄藩に身を寄せた時期もあった。中でも伊予宇和島藩主・伊達宗城や薩摩藩主・島津斉彬庇護のもとに洋書を翻訳したりした時期もあった。

というのは当時、西洋の軍事、砲術を取り入れようとすると、オランダ語が必要になる。当時、日本で一番語学ができるのは、万人が認めるところ高野長英だ。師、シーボルトは単に医学だけでなく百科学、いわゆる科学全般を教えるという立場で鳴滝塾を開いていたのだ。

その当時の軍事では、一番必要なのが「三兵」に関する訓練だった。三兵とは歩、騎、砲で、三兵をいかに把握して、これを総合的に動かすかということが用兵のポイントだ。それを最もうまく駆使したのがナポレオンだ。そのナポレオン戦法を書いたのが『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』。だから、この本をぜひ翻訳したい。ところが、この日本語訳をやれるのは、長英以外にはいないといわれていたわけだ。

長英は宇和島でこれを翻訳し、砲台建設の指導をする。逃亡中の身で彼はこれらのことをやったのだ。薩摩藩主・島津斉彬は後にこの翻訳書をもとに大訓練をやっている。
 長英にようやく少しは穏やかな生活が訪れるかにみえた矢先、不幸に襲われる。逃亡・潜行生活5年、嘉永3年(1850)10月11日、江戸・青山百人町で夫婦に子供3人の「沢三泊」という町医者が高野長英であることを突きとめた捕方に取り囲まれ、彼は小刀をのどに当て、頚動脈を断ち切り自決した。47歳だった。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、同「歴史に学ぶ」、
      山手樹一郎「群盲」、杉本苑子「みぞれ」

竹本義太夫・・・人形浄瑠璃の歴史上不朽の名をとどめる、義太夫節の開祖

 人形浄瑠璃は江戸時代の民衆の中から生まれた、日本が世界に誇る伝統芸能だ。最近は若い男女の間にも年々愛好者が増えているという。この日本の誇る伝統芸能、人形浄瑠璃の歴史上に、不朽の名をとどめるのが、竹本義太夫だ。江戸時代の浄瑠璃太夫、義太夫節の開祖だ。

 竹本義太夫が摂津国(大坂)で農家に生まれたのは1651年(慶安4年)だ。この年、三代将軍家光が亡くなり、由比正雪の事件が発生している。本名は五郎兵衛。小さいときから音曲の道に趣味があった。初期には清水理太夫と名乗った。

 義太夫節は、中世から近世にかけて広く一般民衆の間で享受された平家琵琶や幸若、説経節などの「語り物」の流れを受け継いでいる。とくに竹本義太夫に先駆けて、万治・寛文期(1658~1672年)に一世を風靡した「金平浄瑠璃」は、この時代の「語り物」の姿をよく表している。これは酒呑童子の物語を発展させたもので、坂田金時の子で、金平という超人的な勇士を仮想し、これが縦横に活躍するストーリーを骨子とするものだった。この金平節を語り出した江戸の和泉太夫は、二尺もある鉄の太い棒を手にして拍手を取ったと伝えられるほど、その語り口は豪快激越だった。

 現在では浄瑠璃を語るということは、そのまま義太夫節を語るという意味に使われているが、もともと義太夫節は数ある浄瑠璃の中の一つで、浄瑠璃の総称ではない。浄瑠璃には常磐津もあれば、清元、新内、一中節もある。それが、もう今、浄瑠璃といえば義太夫節を指すようにいい、いわば浄瑠璃が義太夫節の代名詞のようになっているということは、それだけ竹本義太夫の存在が大きかったからだ。

 1684年(貞享元年)、大坂道頓堀に竹本座を開設し、1683年に刊行された近松門左衛門・作の「世継曽我」を上演した。翌年から近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。近松が竹本座のために書き下ろした最初の作品は「出世景清」。竹本義太夫以前のものを古浄瑠璃と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃に与えた。厳密にはこの「出世景清」以前が古浄瑠璃、「出世景清」以降が当流浄瑠璃と呼ばれる。1701年(元禄14年)に受領し筑後掾と称した。 
 
1703年には近松の「曽根崎心中」が上演され、大当たりを取った。これは大坂内本町の醤油屋、平野屋の手代、徳兵衛と、北の新地の天満屋の女郎、お初とが曽根崎天神の森で情死を遂げたという心中事件を取り扱ったもので、まさにその当時の出来事をそのまま劇化して舞台に仕上げたところに、同時代の観衆を強く惹きつけた点があり、日本演劇史上でも画期的な意味を持つものだった。近松門左衛門が心血を注いで書いた詞章を、53歳の最も油の乗り切った竹本義太夫は、その一句一句に自分のすべての技量と精魂を傾けて語った。「曽根崎心中」で示された義太夫の芸は、二人の師匠、宇治嘉太夫と井上播磨掾の芸を見事に乗り越え統合したものだった。そこに、義太夫の新しい個性の発見があったのだ。この大ヒットで竹本座経営が安定し、座元を引退して竹田出雲に引き継いだ。

 竹本義太夫は1714年(正徳4年)、64歳で世を去った。徳川五代将軍綱吉の時代、幕府側用人として幕政を担当した柳沢吉保が没し、大奥の中老絵島が流刑された年にあたる。竹本義太夫が千日前の地で没して、すでに300年近い歳月が流れている。

(参考資料)長谷川幸延・竹本津太夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

豊臣秀長・・・人格と手腕で不協和音の多い豊臣政権の要石の役割果たす

 豊臣政権でのナンバー2、秀吉の弟・豊臣秀長は羽柴秀長、あるいは大和大納言とも呼ばれた。秀吉の政権下で大和郡山に居城を構え、その領国は紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府南部)・大和(奈良県)にまたがり、160万石を有していた。秀吉臣下としては、徳川家康に次ぐ大大名だったといっていい。ところが、この秀長に対する評価が「よく出来た方だった」と「全くの無能者」とがあり、はっきりと分かれているのだ。いずれがこの人物の真実なのか。

 豊臣秀長は秀吉の異父弟。幼名は小竹(こちく)、通称は小一郎(こいちろう)。秀吉の片腕として辣腕を振るい、文武両面での活躍をみせて天下統一に貢献したといわれる。大和を中心に大領を支配し大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。生没年は1540(天文9年)~1591年(天正19年)。

 「大友家文書録」によると、大友宗麟は秀長のことを「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたとされている。その人格と手腕で織田家臣の時代から、内政や折衝にとくに力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和、雑賀衆の本拠である紀伊、さらに和泉までを平和裏にのうちに治めたのも秀長の功績だ。

秀長は秀吉の朝鮮出兵には反対していたとされる。ただ、この出典が「武功夜話」のみのため信憑性に乏しい。秀長が進めようとしていた体制整備も、彼の死で不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。秀吉死後もこの秀長が存命なら、秀次の粛清や徳川家康の天下取りを阻止し、豊臣政権は存続したか、もしくは少なくとも豊臣家の滅亡は避けられたとの声も多い。

 ところで、秀長の武将としての器量はどの程度のものだったのか。秀長が担当させられた山陰地方への応援については因幡(鳥取県東部)・伯耆(鳥取県東伯・西伯・日野三郡)両国に多少の足跡は認められるものの、やはり注目すべきは1582年(天正10年)6月2日の、「本能寺の変」直後の“中国大返し”だろう。同3日に信長横死の報を受けて急遽毛利との和平を取りまとめ、備中高松城の包囲を解き、同6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を返し、引き揚げを開始。この後、ポスト信長の天下取りに懸ける、2万を超える秀吉の大軍は、凄まじい速度で山陽道を駆け抜け、備中高松から山崎(京都府)まで約180・を実質5日間で走破。同13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で明智光秀を破った。このとき、大軍勢の難しい殿軍(しんがり)を立派に務めたのが秀長だった。凡将だったとは考えにくい。

 次に秀長が脚光を浴びるのは秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康が対立した、小牧・長久手の戦いだ。秀長は指揮下の蜂須賀正勝、前野長康らを率いて、近江(滋賀県)、伊勢(三重県)の動向に備え、次いで伊勢に進撃すると松島城を陥落させ、尾張に入って秀吉軍と合流。秀吉と信雄の間に和議が成立しても、秀長は美濃(岐阜県南部)・近江のあたりをにらんで臨戦態勢を解かなかった。1585年(天正13年)、秀長は紀州(和歌山県)雑賀攻めに出陣して、これを平定した。

 秀長は誕生したばかりの豊臣政権内で、公的立場の秀吉を補佐する重責を担っていた。結果論だが秀長の存命中、豊臣政権は微動だにしていない。それが、1591年(天正19年)、秀長が病でこの世を去ると、並び称された千宗易(利休)も失脚、政権はやがて自壊の方向へ突き進んでしまう。

 秀長の享年51はあまりにも早すぎた死といわざるを得ない。家康よりわずかに2歳年長の秀長が、いま少しこの世にあれば、少なくとも千利休の切腹、後の秀次(秀吉の甥で嗣子となり、関白となった)の悲劇は未然に防ぎ得たに違いない。秀長の死後、表面に出ることは少なかったが、彼が果たしていた役割の大きさを改めて認識した人も多かったのではないか。秀長とはそんな補佐役だった。

(参考資料)堺屋太一「豊臣秀長-ある補佐役の生涯」、加来耕三「日本補佐役列伝」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」

高橋是清・・・波乱万丈・七転び八起きの「ダルマ蔵相」紙幣にも

 高橋是清は明治・大正・昭和期の政治家・財政家で、第二十代内閣総理大臣(在任期間7カ月)を務めた。だが、“高橋財政”とも呼ばれる積極的な財政政策が特徴の、歴代内閣で何度も務めた大蔵大臣としての評価が高い。そのふくよかな容貌から「ダルマ蔵相」「だるまさん」と呼ばれて親しまれた高橋の人生は波乱万丈、まさに「七転び八起き」の表現がピッタリの人生だった。そして不幸なことに、蔵相として軍事費抑制方針を打ち出したことで軍部と対立し、1936年(昭和11年)、「二・二六事件」で暗殺された。高橋是清の生没年は1854(嘉永7)~1936年(昭和11年)。

 高橋是清は幕府の御用絵師、川村庄右衛門の庶子として江戸芝中門前町(現在の東京都港区)で生まれたが、生後まもなく仙台藩士高橋是忠の養子となった。その後、成長して横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾、ヘボン塾(現在の明治学院高校)で学んだ。だが1867年(慶応3年)仙台藩命で海外留学することになって、彼の人生は波乱に満ちたものとなる。

不幸のスタートは、渡航費・学費を騙し取られた13歳のときだ。その後の暗転の主なものを挙げると1.騙されてアメリカでの奴隷同然の生活を経験 2.芸妓の“ヒモ”同然の生活3.相場詐欺に遭う4.鉱山開発の詐欺に遭う-という具合。それでもその都度、立て直したり、そのうち手を差し伸べる人物が現れる。例えば、苦労を重ねてアメリカから帰国(1868年)後、その後の人生の出発点となる誘いがかかる。1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となったのだ。

それだけではない。高橋は英語の教師もこなし、大学予備門で教えるかたわら、当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現在の開成高校)の初代校長をも一時務めた。教え子には俳人の正岡子規、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅した海軍中将、秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省(現在の経済産業省および農林水産省)の官僚としても活躍。農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整備している。1887年(明治20年)のことだ。

 高橋が財政家となるスタートは40歳直前のことだ。1892年(明治25年)、日本銀行に入行。そして1899年(明治32年)、日本銀行副総裁になった。46歳のときのことだ。それから5年して、彼は日露戦争(1904~1905年)の外債募集の大任を担ってロンドンに渡った。この難題に見事な手腕を発揮、13億円の調達に成功したのだ。その後、横浜正金銀行頭取などを経て、1911年(明治44年)には遂に日本銀行総裁に就任した。

 後に高橋が、「ダルマ蔵相」の愛称で慕われ、財政のプロフェッショナルとして“高橋財政”と呼ばれる積極的な財政政策を断行するのは、何度も歴代内閣で蔵相を務めるからだ。第一次山本権兵衛、原敬、田中義一、犬養毅、斎藤実、岡田裕介の各内閣で蔵相を歴任している。加藤高明内閣では農商務相、そして立憲政友会総裁、さらに1921年(大正10年)には内閣総理大臣を務めている。
 高橋は歴代日銀総裁の中で唯一、その肖像が日本銀行券に使用された人物でもある。1951~1958年にかけて発行された五十円券がそれだ。それだけ、国民の間で人気が高かったからだ。

 1936年(昭和11年)、二・ニ六事件で高橋は暗殺された。彼を殺害すべく高橋邸を襲ったのは、近衛歩兵第三連隊の陸軍中尉中橋基明だった。邸内に兵数十人を率いて押し入った中橋を、高橋は「馬鹿者!」と言ったとも、「何をするか!」と怒鳴ったともいわれている。83歳の老人に対し、中橋は拳銃七発を浴びせて即死させた。

(参考資料)三好徹「日本宰相伝 天運の人」、三好徹「明治に名参謀ありて」、小島直記「志に生きた先師たち」、小島直記「人材水脈」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

近松門左衛門・・・竹本義太夫と組み名作を次々に発表した劇作家

 近松門左衛門は江戸時代前期、元禄期に人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した、日本が誇る劇作家だ。今日でも彼の多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演・上映され、人々に親しまれている。生没年は1653(承応2)~1724年(享保8年)

 近松門左衛門は、松平昌親に仕えた300石取りの越前吉江藩士、杉森信義の次男として生まれた。幼名は次郎吉、本名は杉森信盛。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)。ただ、出生地には長門国萩、肥前唐津などの諸説がある。2歳のとき、父とともに現在の福井県鯖江市に移住。その後、父が浪人し京都へ移り住んだ。近松が14、15歳のころのことだ。さらに、京都で仕えた公家が亡くなり、近松は武家からの転身を迫られることになった。

 近松は竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。1683年(天和3年)、曽我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曽我(よつぎそが)』が宇治座で上演され、翌年竹本義太夫が竹本座を作り、これを演じると大好評を受け、近松の浄瑠璃作者としての地位が確立された。1685年の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりとされる。

 近松はその後も竹本義太夫と組み名作を次々に発表し、1686年(貞享3年)竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として「近松門左衛門」と記載した。この当時、作品に作者の名を出さない慣習から、これ以前は近松も名は出されていなかったのだ。

 近松は100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約2割が世話物で、多くは時代物だった。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマにした作品だが、後世の評価とは異なり、当時人気があったのは時代物。とりわけ『国性爺合戦』(1715年)は人気が高く、今日近松の代表作として知名度の高い『曽根崎心中』(1703年)などは昭和になるまで再演されなかったほど。代表作『冥途の飛脚』(1711年)、『平家女護島』(1719年)、『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)など、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは、近代以後の風潮にすぎない。

 1724年(享保8年)、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び人気を博したが、こうした作品のマネをして心中をする者が続出するようになったためだ。そうした政治のあり方を近松はどう受けとめたのか?ヒット作の上演に水を差されるのを心底、嫌気したか、近松はその翌年没する。

 近松は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にある-と唱えたとされる。芸術とは虚構と現実の狭間にあるというものだ。芝居など所詮実在しない「虚」の世界だと誰もが知っているわけだが、それでもすばらしい芝居をみると、いくらみていても飽きないし、感動するわけだ。それは感動した自分の中に実在する感覚・理想・イメージなどと、その「虚」が結びついたときに、引き起こされるのではないか。つまり、「虚」「実」が絡み、入り混じったときに、初めて魅力が生まれるといったことだ。だが、この「虚実皮膜論」は穂積以貫が記録した「難波土産」に、近松の語として書かれているだけで、残念ながら近松自身が書き残した芸能論はない。
(参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

豊臣秀吉・・・信長に仕えて学び取った「大局観」で天下人に

 今日、立身出世譚の代表ともいわれる日吉丸→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉→太閤秀吉-の記録には、様々な矛盾や謎が多い。「農民の心」と「商才」と「武士の魂」で天下を取った男、豊臣秀吉の実像とは?秀吉の生没年は

 豊臣秀吉の20歳前後、織田信長に仕えるまでの経歴はほとんど分からない。生年月日すらはっきりしない。分かっているのは1.尾張中村の土民の小せがれとして1535年(天文4年)か1536年(天文5年)に生まれ、サルとあだ名を付けられた少年だったこと、2.継父との折り合いが悪くて幼くして家を飛び出し、濃尾地方を戦災孤児のような形で放浪したこと、3.そのころは与助という名前で、小溝で小魚をすくって人に売って命をつなぎ「どじょう売りの与助」と呼ばれていたらしいこと、4.14、15歳のころ縫い針の行商人となって遠州に放浪して行き、浜名の城主、松下之綱に拾われて、初めて武家奉公して数年いたが、何かの事情があって、暇を取って尾張に帰り、20歳前後のころに信長の家に小物奉公した-というくらいのことで、その間の子細は一切分からない。尾張蜂須賀郷の野武士蜂須賀小六ら野武士の下働きとして飯を食わされ、あまりにも悲惨で自ら思い出すのも嫌な期間があったことは推察される。

 江戸時代、徳川幕府に対する批判の意味と、家康によって滅ぼされた豊臣氏に対する追慕の情とが相まって、いくつもの『太閤記』が世に出され、ベストセラーとなっている。そして『絵本太閤記』や『真書太閤記』など読物的になっていくにつれ、創作された部分が増え、ノンフィクションからフィクションへという傾向が顕著になっていった。秀吉が信長に仕えるまでに38回も職を変えたというのは少しオーバーだが、秀吉が若いころ様々な職業に就いたことは事実だ。そして「貧しい百姓のせがれ」として生まれながら、若いころから商才を身につけていた。その商才が、武家奉公してからの秀吉には相当プラスになった。まさに「農民の心を持ち、商才を身につけ、武士として振る舞った」といっていい。

 秀吉は人の嫌がること、最も危険なことを進んで引き受け、この積み重ねが信長の信頼を固めていった。それは、無理に自己を奮い立たせてやったというより、幼少時代からの不遇による経験および教訓を踏まえ、「才」プラス「誠実」という命がけの勤勉さがそうさせたのであり、ひいては未曾有の大成功者を生んだのだ。

 秀吉は諸説あるが、『太閤素生記』などによると、1554年(天文23年)18歳で信長の小者として仕え、信長のすべてを受け入れられる境遇からスタートした。この点が、ともに信長の薫陶を受けてきた同志ではあったが、明智光秀との大きな違いだった。光秀は、秀吉とともに信長のお気に入りだったが、彼は40代も半ばで織田家に仕官し、すでに自己というものができ上がっていたうえで、信長に接することになったため、客観的な判断に自身との比較、そこから生じる信長に対する批判を自分の中に抱えることになってしまったのだ。
 秀吉は決して生まれながらの“大気者”ではなかった。10代で家出し、放浪する中で、生きていくための方便として、意識的に明るさを身につけたのだ。光秀が重役待遇でスカウトされて中途入社したのに比べ、秀吉はアルバイト要員の補充といった立場で織田家をスタートした。それだけに秀吉は一途に、アルバイトから正社員として召し抱えてくれた信長に、気に入られるべく懸命に努力した。織田家で生きていくには、信長のすべてを受け入れなければならない。短気で激しやすい気性、言葉など四六時中、観察し信長という人間を最もよく理解し、己れのものにしたのではないか。

 秀吉がこうして信長の中に様々なものを見て、そして学んだ。その最も大きなものが時勢を読み取る「大局観」だった。信長には、将軍を擁して京都に旗を立て、大義名分を明らかにし、楽市楽座の経済政策や海外貿易によって国力を豊かに、そして最新兵器を多量に揃えて、遠交近攻の外交・軍事戦略をもって臨めば、自ずと天下の統一は達成できるとの読みがあった。こうした信長の大局観を、秀吉は足軽から足軽組頭、部将、城代、方面軍司令部と立身出世していく過程で、身をもって学ぶことができたのだ。

 秀吉は信長の欠点すら、反面教師として学習を怠らなかった。組織に属している限りは、部下の立場で上司は選択できない。その選択の余地のない上司を批判し、愚痴ってみても、何の解決にも、プラスにもならない-と。その結果、秀吉の独自色と、周囲の彼に対する信頼、あるいは人望が生まれたのだ。

 こうして秀吉は自己を確立し、主君・信長の横死という悲嘆の底から、毛利攻めの中国遠征から史上有名な大撤退作戦「中国大返し」を敢行。2万余の軍団を率いて、凄まじい速度で昼夜走り続け、天下取りの千載一遇の好機を自身へ導くことに成功。光秀に京都・山崎の地で史上最大の“弔い合戦”を挑んで、これに勝利したのだ。

 秀吉には終生、劣性コンプレックスがつきまとっている。素性の卑しさ、体格の矮小、容貌の醜悪さのためだ。しかし、彼はそれに圧倒されはしなかった。それを跳躍板にして、飛躍している。彼が常に大きいことを心掛け、大言壮語したのは、そのコンプレックスを圧倒するためだったに違いない。大掛かりな城攻めをしたのも、壮麗な聚楽第や伏見城や大坂城を築いたのも、二度も皇族、公卿、大名らに巨額な金銀配りをしたのも、奈良の大仏以上の大仏をこしらえたのも、そのためだろう。いずれにしても、彼の劣性コンプレックスは彼の人気を高め、彼を成功させ、彼を“天下取り”に仕上げたのだ。

(参考資料)今谷明「武家と天皇」、井沢元彦「逆説の日本史」、堺屋太一「豊臣秀長」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「新史 太閤記」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、司馬遼太郎「覇王の家」

高橋泥舟・・・鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近

 高橋泥舟は槍術の名手で、第十五代将軍慶喜の側近を務めた。鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻った慶喜に恭順を説き、慶喜が水戸へ下るまでずっと、側にあって護衛し支え続けた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。生没年は1835(天保6)~1903年(明治36年)。

 高橋泥舟は旗本山岡正業の次男として江戸で生まれた。幼名は謙三郎。後に精一郎、通称は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号。母方を継いで高橋包承の養子となった。生家の山岡家は自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山について槍を修行。海内無双、神業に達したとの評を得るまでになった。生家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳で早世。山岡家に残る妹、英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。

 1856年(安政3年)、泥舟は幕府講武所槍術教授方出役となった。21歳のときのことだ。25歳の1860年(万延元年)には槍術師範役、そして1863年(文久3年)一橋慶喜に随行して上京、従五位下伊勢守を叙任。28歳のことだ。1865年(慶応2年)、新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。1868年(慶応4年)、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗戦後、逃げるように艦船で江戸へ戻った慶喜に、泥舟は恭順を説いた。

以後、江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を護衛。勝海舟・西郷隆盛の粘り強い会談の結果、江戸の町を舞台とした官軍と幕府軍との激突が回避され江戸城の無血開城、そして慶喜の処遇が決まり、水戸へ下ることになった慶喜を護衛、支え続けた。

 勝海舟が当初、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟だった。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで、泥舟は代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦。鉄舟が見事にこの大役を果たしたのだ。そして泥舟の役割はまだ終わっていなかった。後に徳川家が江戸から静岡へ移住するのに伴い、地方奉行などを務めた。

 明治時代になり、主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職により栄達を求めることはできないという姿勢を泥舟は貫き通した。幕臣の中でも、明治時代になって新政府から要請があって、この人物が戊辰戦争で本当に敵・味方に分かれて戦ったのかと思うくらい、新政府の中で要職に登り詰めた人も少なくないが、泥舟は幕府への恩義は恩義として、金銭欲も名誉欲も持たず、終生変わらぬ姿勢を保持した人物の一人だった。

 山岡鉄舟が先に亡くなったとき、山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することになった。しかし、泥舟自身にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋様なら決して人を欺くことはないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた-といった、泥舟の人柄を示す逸話が多く残っている。
 廃藩置県後、泥舟は引退して書家として生涯を送った。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸無血開城」

道元・・・異国での修行研鑽で自己の信仰を決定した曹洞宗の開祖

 鎌倉新仏教の祖師と呼ばれる人々の中で、曹洞宗の開祖・道元は極めて異色の存在だった。鎌倉新仏教は末法の世が到来したという仏教の予言を信じ、その現実認識を大前提として生まれ、そして発展していった。ところが、道元は末法の到来を頑として認めず、いわば反時代的な信念のもとに、独自の骨太い思想、宗教の世界を構築してみせた。また、日本的仏教の伝統に絶望を表明して宋に渡り、異国での修行研鑽によって自己の信仰を決定したというのも、道元だけだ。栄西(臨済宗開祖)は道元に先立って入宋し、臨済禅をわが国に伝えたが、その信仰は日本天台宗の影響を抜け切れなかったし、法然(浄土宗開祖)や親鸞(浄土真宗開祖)、日蓮(日蓮宗開祖)らは海外渡航体験さえ持っていない。

 道元禅師は京都に生まれた。生没年は1200(正治2)~1253年(建長5年)。父は源通親(みちちか)、母は松殿基房の娘(三女の伊子=いし、と推定される)だ。この父母を持ったことが、後年の道元の厳しい姿勢の源だったのではないかと思われる。源通親は変節の政治家で、収賄の大家だった。彼は平家が勢いを得はじめると、最初の妻を捨てて清盛の姪を妻に迎え、清盛の庇護の下に政界にその勢力を伸ばした。そして平家が落ち目になると、二度目の妻を捨てて高倉範子(はんし)を妻とし、後白河法皇の側についた。節操もなく、恥を知ることもない権謀術数の腐敗政治家だった。
道元の母は1183年(寿永2年)、源氏の中でもいち早く都に攻め上った木曽義仲が、後白河法皇の立て籠もる法住寺殿を焼き討ちした法住寺合戦の後で、その義仲によって不幸にも“掠奪”同様のありさまで妻にされた人だ。木曽山中に成人して、戦いしか知らなかった野生の武人、義仲はこの女性に溺れた。この前関白・松殿基房の娘は、一代の風雲児の心を狂わせ戦機を逸させたのだ。

この女性が義仲の死後、世人に疎まれていたのを、源通親が引き取って自分の妻とした。その間に生まれたのが道元禅師だ。父の通親は道元が3歳のとき、母は8歳のとき、それぞれ亡くなった。その後、道元は異母兄にあたる源通具(みちとも)に育てられた。そして13歳の年、道元は母方の叔父にあたる良顕法眼(りょうけんほうげん)を訪ねて出家の志を告げた。そして翌年、天台座主公円のもとで道元は出家したのだ。出家後の名は仏法房道元。つまり、道元という名は天台宗時代のもので、曹洞宗になっても天台宗時代の名を称し続けていたことになる。

 道元は日本仏教史上でも傑出して権門を忌避した人物だ。また性的な誘惑に対して身を持すること厳だった人だ。それは腐敗した政治家を父に持ち、性の犠牲者ともいうべき人を母に持った、生い立ちに原因があったものと推察される。両親の姿が道元の心に、癒されることのない深い傷となって、13歳という若さでの出家、そしてその後の特異な人生を彼に歩ませた大きな原因の一つだろう。
 天台教学を学ぶうちに、道元には一つの疑問が湧いてきた。それは天台宗の教えでは一切の衆生はもともと仏であると教えている。では仏であるはずの人間が、なぜ修行を積まなければならないのか-という点だ。彼はこの疑問を師や先輩たちにぶつけてみた。しかし、まともに答えられる人はいなかった。あるとき、園城寺の公胤を訪ねたとき「禅を学ぶ必要がある」といわれた。

そこで道元は1217年(建保5年)、京都の建仁寺に修行に入った。道元18歳のときのことだ。建仁寺の住持で栄西の高弟、明全(みょうぜん)について宋に渡ったのは1223年(貞応2年)のことだ。天童山景徳寺、阿育王山・天台山ほか、いろいろな寺を訪ねて禅を修行していくうちに、世俗権力との癒着の強い臨済禅に失望し始める。そして、最終的に再び天童山に戻ったところで、道元にとってその後の運命を変えた、生涯の師となる如浄(にょじょう)に出会い師事し、曹洞禅を学ぶことになったのだ。結局、道元は1227年(安貞元年)、28歳の年に帰国し、日本に曹洞禅をもたらした。こうして「只管打坐(しかんたざ)」といって、ただひたすら坐禅を組むことによって、悟りを開くという曹洞禅が全国に広まることになったのだ。

 道元は密教とか天台とかいうようなものを持ち帰ったのではない。人間はみな仏という、徹底した悟りそのものになって帰ってきたのだ。「さとりの深化の過程」について道元は『正法眼蔵』弁道話巻の中で、こう言っている。原文は長く難解なので要約すると次のような内容だ。

「ある人が悟ると、周りにいる者がみんな浄化されて次々に悟る。これらの悟った人の働きに助けられて、その坐禅人はさらに仏としての修行を積むようになり、遂には周りの自然界まで仏の働きをあらわすようになる。しかも本人はそのことを知らない」
こんな生き方ができたらどんなに素晴らしいだろうか。
 主著『正法眼蔵』はハイデッガーなど西欧の現代哲学者からも注目を浴びた。

(参考資料)百瀬明治「開祖物語」、紀野一義「名僧列伝」、懐奘編「正法眼蔵随聞記」、司馬遼太郎「街道をゆく・越前の諸道」

高松凌雲・・・戊辰戦争に随行し、わが国初の洋式野戦病院を設置

 高松凌雲は戊辰戦争の最後の舞台、函館・五稜郭戦争に随行し、わが国初の洋式野戦病院を設置した人物だ。その後、民間救護団体の前身といわれる同愛社を創設。日本における赤十字運動の先駆者とされている。生没年は1837(天保7年)~1916年(大正5年)。
 高松凌雲は現在の福岡県小郡市で庄屋の子として生まれた。名は権平、荘三郎。20歳のとき久留米藩家臣の川原家の養子となった。22歳で江戸にいる兄、古屋佐久左衛門を頼って上京。医師を志すようになる。まず蘭方医として有名だった石川桜所(おうしょ)の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学んだ。

その後、大坂に出て全国から俊才が集まっていた「適塾」に入塾し、緒方洪庵の指導を受けた。1861年(文久元年)のことだ。適塾の「姓名録」には580番目に高松凌雲の署名が残されている。凌雲はここで頭角を現し、西洋医学の知識のみならず、オランダ語を操るまでになった。さらに幕府が開いた英学所で学び英語もマスターした。

 1865年(慶応元年)、凌雲の学才を知った一橋家が、彼を一橋家の専属医師として抜擢する、ほぼ時を同じくして一橋家出身の慶喜が第十五代将軍となったため、凌雲は幕府から奥詰医師として登用されることとなった。凌雲はわずか1年数カ月の間に、無名の蘭学書生の境遇を脱し、幕藩体制下における医師の最高位昇りつめたわけだ。伊東玄朴や林洞海、松本良順らの錚々たる大家、それに恩師の石川桜所とも、いまや肩書き上、凌雲は同格だった。

 1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に慶喜が弟の昭武を団長とする派遣団に随行していた凌雲は、パリ博終了後、留学生としてパリに残るよう言い渡された。資金は幕府負担。凌雲が留学先として選んだのがオテル・デュウ(神の家)という病院を兼ねた医学学校だ。彼はここで様々な最新医療に触れた。この病院は貴族、富豪、政治家などの寄付によって成り立っており、国からの援助を受けない民間病院だった。

 1年半にわたるパリ留学を終えて帰国した凌雲は、すでに幕府が崩壊し江戸城は薩長勢に明け渡され、主君・慶喜は水戸で謹慎中という状態に驚いた。彼はパリに留学させてくれた幕府への恩義に報いるため蝦夷地で幕臣の国をつくろうとして旧幕府軍の総帥・榎本武揚らに合流。函館戦争に医師として参加する。

 函館に入ると、凌雲は函館病院の院長に就任した。これは榎本の依頼だったが、「病院の運営には一切口出ししない」という条件を榎本につけたという。凌雲は2階建ての病棟を2棟新築することを決め、工事を急がせた。病院の内治にも意を用い、病院規則を定めて運営の組織化を図った。そして、医務心得、病者取り扱い、看護人心得などの細則を次々と制定し病院管理の近代化を推進した。戦時下、明治2年に落成した新築の病棟はわが国に出現した最初の本格的な洋式野戦病院とされている。
ここで凌雲は、戦傷者であれば敵味方を問わず公平に受け入れて、できる限りの治療を施した。これは当時としては全く異例のことといっていい。当然最初は敵方の兵士とともに治療されることに対して混乱・反発が生まれたが、凌雲はパリで学んだ「神の家」精神を胸に、毅然とした態度でこれを制した。この行動は日本で初めての万国赤十字の精神に通じるものであり、日本史において大きな出来事だった。函館戦争は圧倒的な官軍勢力の前に、ほどなく旧幕府軍の敗北で終結。

 その後、凌雲は東京へ戻って病院を開院。新政府での役職の誘いが多数きたが、それらをすべて断り、町医者として「神の家」の精神を実行する道を選んだ。もし出仕すれば、相当の栄達が約束されていたはずなのに、あえて民医に徹したのは、一つには恩義のある幕府の悲運に準じるという意識を抱いていたからであり、また最後まで奥医師就任を渋り在野の生き方を望んだ適塾の緒方洪庵と同質の精神が脈打っていたからではないか。

洪庵の影響がもっとはっきりしているのは、東京都下貧民の救済医療組織、同愛社を組織したことだ。同愛社は官の補助をあてにしない医療福祉事業団の先駆けとなった。その意味で、医師凌雲にとって、適塾はまさしく出発点であり、心の故郷だったわけだ。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、百瀬明治「『適塾』の研究」

遠山景元・・・実像は意外にしたたかな高級官僚“遠山の金さん”は虚像

 遠山景元は江戸時代の旗本で天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物で、テレビの人気番組「遠山の金さん」のモデルとして知られる。しかし、講談、歌舞伎、映画、テレビなどで取り上げられ、脚色して、繰り返し演じられていくうちに、形が整って“遠山の金さん”像は作り上げられたものだ。したがって、モデルとなっているが、厳密にはこの遠山景元が“金さん”とはいえない。“金さん”はあくまでもエンタテインメントの世界の虚像だ。

 遠山景元は、あの「天保の改革」(1841~43)を推進した老中筆頭・水野忠邦を主人として、いわばその「補佐役」を担った人物だ。正式な名乗りは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)、または遠山金四郎景元。幼名は通之進。父親は秀才で長崎奉行、勘定奉行などを務めた遠山左衛門尉景晋(かげくに)。

 景元は1840年(天保11年)、40歳前後で北町奉行に任命された。3年務めて大目付に転出し、1845年(弘化2年)から1852年(嘉永5年)までの約7年間、南町奉行に任じられた。ただ、「寛政重修家譜」(787巻)によると、景元の通称は“通之進”だ。つまり、“通さん”であって、“金さん”ではない。景元の父は町奉行の経験はなかった。景晋・景元の父子が桜吹雪や女の生首の彫り物をしていたという、確かな記録もない。俗説によれば、景元はいつも手首にまで及ぶ下着の袖を、鞐(こはぜ)でずれないよう手首のところで留めていたという。

 遠山氏は美濃の名流だが、景元の家は分家の、それも末端で、初代の吉三郎景吉以来の旗本といっても、500国取りの中クラス。ごく平凡な家だったが、景元の祖父、権十郎景好(四代)のとき、その後の家督をめぐる、ちょっとした“事件”が起きる。景好は子に恵まれなかったため、1000石取りの永井筑前守直令(なおよし)の四男を養子として迎えた。それが景晋だ。景晋は永井家の四番目の男子ということで、“金四郎”と名付けられたわけだ。景晋は幕府の「昌平坂学問所」をトップで卒業した秀才中の秀才だった。松平定信の「寛政の改革」による人材登用で抜擢され、ロシアの使節レザノフが来日した折、その交渉の任にあたっている。次いで蝦夷地の巡察役に、1812年(文化9年)から13年間は作事奉行、または長崎奉行となり、さらに68歳の1819年(文政2年)から10年間、勘定奉行を務めた。

 この後、問題が起こる。晩年になって養父の景好に実子の景善(かげよし)が誕生したのだ。養子の景晋にすれば困惑したに違いない。熟慮の末、景晋は景善を自分の養子にした。これで遠山家の血は元に戻るはずだったが、皮肉にも景晋に実子、通之進=景元がその後に生まれたのだ。景晋とすれば、当然のことながらわが子=実子の方がかわいい。ただ、武家の家には秩序というものがある。そこで景晋は景元を、養子景善のさらなる養子とした。いらい、景晋は健康に注意して長生きを心がけた。彼が78歳まで幕府の要職にあり続けたのは、家督を景善に譲りたくなかったのと、通之進の行く末をでき得る限り見届けたいとの思いが強かったからに違いない。家督をめぐる、実父と養父の確執に悩まされた通之進(=景元)が、遂にいたたまれなくなって家を出て、一説に11年間もの放蕩生活だったとも伝えられるのはこの時期のことだ。

 そして1824年(文政7年)、景善が病没した。そこで翌年、32歳前後で景元は晴れて実父景晋の家督を相続、幕府へ召し出された。ほぼ実父と同様のコースを歩んだが、40歳で小納戸頭という管理職に就き、1000石取りとなってからの出世のスピードは尋常のものではなかった。2年後、作事奉行(2000石)となり、やがて44歳で勘定奉行に就任したのだ。このポストは秀才官僚の父・景晋が68歳でようやく手に入れたことを考え合わせると異常だ。しかも景元はその2年後に北町奉行の栄転している。

 では、景元の出世は何に起因していたのだろうか。答えはずばり「天保の改革」にあった。天保の改革はそれ以前の享保、寛政の改革に比べ、庶民生活の衣食住にまで事細かく干渉し、統制した点において特色があった。改革を企画・立案し、実行に移したのは老中首座・水野忠邦で、その片腕と評されたのが鳥居耀蔵だったと一般にはいわれている。講談や歌舞伎では、この二人に敢然と立ち向かい、庶民のために活躍したのが“遠山の金さん”だが、加来耕三氏は現実はむしろ逆だった-としている。節約令、物価引下げ政策、綱紀の粛正、中でも水野が直接に庶民の生活統制に乗り出したのは、天保12年の「祭礼風俗の取締令」からだが、これを推進したのが北町奉行の景元と、少し遅れて南町奉行となった鳥居の二人だった。

景元は放蕩生活で庶民生活にも通じていたから、歌舞音曲、衣服はもとより、凧揚げ、魚釣り、縁台将棋の類まで徹底して取り締まった。史実の“金さん”は世情に通じた、したたかな高級官僚で、水野の「補佐役」だった。そして、1845年(弘化2年)、“妖怪”と酷評された鳥居が主人の水野とともに失脚したにもかかわらず、景元は幕閣に生き残り続けている。景元が水野の右腕となって“天保の改革”を推進できたのは、放蕩生活を通じて得た情報だ。また、その情報網を駆使し水野のアキレス腱を日常から調査し、把握して冷静に手を打っていたのではないか。1855年(安政2年)、景元は実父より若い61歳でこの世を去っている。

(参考資料)童門冬二「遠山金四郎景元」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」加来耕三「日本補佐役列伝」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

直江兼続・・・120万石から30万石になった上杉藩を差配した智将

 上杉家の領地は、関ケ原合戦が起こるまで会津を中心に120万石もあった。関ケ原以後は4分の1の30万石になってしまった。西軍には参加しなかったが、徳川に敵対行動を取ったからだ。主君上杉景勝にそのような態度を取らせたのは筆頭家老の直江山城守兼続だ。わかりやすくいえば、彼の失敗が90万石の減俸に相当したわけだ。当然、彼が責任を取って切腹することもあり得たし、景勝が切腹を申し付けてもおかしくはない。ところが、現実にはそういうことにはならなかった。

 残った30万石の領地は、家老の直江が景勝から貰っていた米沢領だ。景勝がこの米沢30万石に移封となり、兼続は景勝から5万石を賜ったが、4万石を諸士に分配、さらに5000石を小身の者たちに与え、自分のためには5000石を残しただけだったという。そして、石高が4分の1に減ったのだから藩士を減らして当たり前なのだが、上杉家は家臣に対し米沢についてくる者は一人も拒まぬことを決め、120万石時代の家臣を米沢30万石に迎え、堂々たる(?)貧乏藩米沢のスタートを切る。この時代「すべて私の責任です」と切腹する方がどれくらい楽か知れないのに、苦しい辛い道を選んで平然としていた直江兼続とはどのような人物だったのか。

 木曽義仲四天王の一人に樋口次郎兼光がいた。直江兼続はこの樋口兼光の子孫で、直江家に入る前までの彼の名は樋口与六だ。樋口家は父の樋口兼豊の代にはかなり衰えていた。上杉謙信の家来に、能登の石動山城城主を務める直江実網という武将がいた。兼続が直江実綱の養子になったのは何年のことか分からないが、22歳の時に直江家を相続したのははっきりしている。天正9年(1581)のことだ、そして、翌年、兼続は山城守の称を許されている。まだ23歳の若さで家老クラスに昇ったわけだ。

というのも上杉謙信の養子となり後年、上杉家当主となる上杉景勝と、兼続は“ご学友”として直江実綱のもとで一緒に育った時期があるのだ。後年、二人の連携プレイが繰り広げられたのはこうした背景があるからだ。兼続は謙信にまもなく登用され、少年の身で参謀になるが、あまりにもスピードの速い栄進ぶりに家中では、「樋口与六は謙信公の稚児だ」との噂が立ったほど。

 直江兼続の名を一段と高めたのは織田信長亡きあと、天下人に昇りつめる豊臣秀吉だ。その過程で、柴田勝家を越前北ノ庄城に破り、次いで佐々成政を降伏させた後、上杉とは事を構えたくない秀吉が、当主上杉景勝の信用があって、非戦論の持ち主で、格好の交渉相手として白羽の矢を立てたのが直江兼続だ。この交渉の根回しをやったのは、兼続と同じ年齢の石田三成だ。

 翌年、上杉景勝は大軍を率いて上洛した。秀吉の関白就任祝賀が名目だが、つまり秀吉の覇権を公式に承認し、その下に屈することを表明するわけだ。兼続ももちろん同行するのだが、秀吉の兼続に対する態度はまるで大名に対するようだった。上杉と戦わずに済んだのはこの男のお蔭だという思いが強かったのだろう。景勝と兼続との信頼関係を十分に見抜いていたから、自分がどれだけ兼続を厚遇しても君臣の間にヒビの入るおそれもないと分かっていたからに違いない。

 慶長2年(1597)、上杉景勝は秀吉五大老の一人となり、その翌年、上杉家は会津120万石に移された。そして、このうち米沢30万石が直江兼続の所領になった。30万石の家老は空前絶後である。大名でも10万石以上となると、数えるほど少ない、そんな時代のことだ。上杉藩における兼続の存在の大きさ、重さの何よりの証だ。

(参考資料)藤沢周平「蜜謀」、童門冬二「北の王国 智将直江兼続」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」                             

西周・・・慶喜の政治顧問を務め、わが国に西洋の諸文明を総合的に紹介

 西周(にしあまね)は、大政奉還前後の期間、第十五代将軍・徳川慶喜の政治顧問を務めた人物だ。また、わが国に西洋の諸文明を初めて総合的に紹介した人物の一人で、西洋哲学の翻訳・紹介など哲学の基礎を築くことに尽力。福沢諭吉とともに西洋語の「philosophy」を音訳でなく、翻訳語として、「哲学」という言葉を創った。このほか、「芸術」「理性」「科学」「技術」「主観」「客観」「帰納」「演繹」など、今日ではあたり前になっている多くの哲学、科学関係の言葉は西の考案した訳語だ。

 西周は石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医、西時義の長男として生まれた。父・西時義は、森鴎外の曽祖父・森高亮の次男で、周にとって鴎外は従兄弟の子にあたる。年齢は30歳以上違う。周の生家の川向いには親戚、鴎外の生家がある。幼名は経太郎、明治維新後、周(あまね)と称した。幼時から漢学に親しみ、1841年(天保12年)藩校養老館で蘭学を学んだ。江戸時代後期の幕末から明治初期の啓蒙家、教育者。生没年は1829(文政12)~1897年(明治30年)。

 数え年20歳のとき、朱子学に専心することを命じられ、大坂、岡山に遊学した後、藩校の教官となった。1854年、ペリー来航により江戸に派遣され、時勢の急迫を感じ、翌年脱藩して洋学に専心。1857年(安政4年)には蕃書調所の教授手伝並となり、同僚の津田真道、加藤弘之などとともに哲学ほか西欧の学問を研究。1862年(文久2年)には幕命で津田真道、榎本武揚らとともにオランダ留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学、経済学、国際法などを学んだ。このときフリーメイソンに入会、その署名文書はライデン大学に現存する。

 1865年(慶応元年)に帰国した後、大政奉還前後においては、将軍徳川慶喜
の政治顧問を務め、1868年(慶応4年)、幕府の沼津兵学校初代校長に就任。1870年(明治3年)、明治政府の兵部省に入り、以後、文部省、宮内省などの官僚を歴任。軍人勅諭、軍人訓戒の起草に関係するなど、軍制の整備とその精神の確立に努めた。

 軍人勅諭、正確には『軍人に賜りたる勅諭』は、西周が起草し、井上毅が全文を検討し、福地源一郎が兵にも分かるように、文章をやわらかくした。公布されたのは1882年(明治15年)だった。
 周は1873年(明治6年)、森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、中村正直、西村茂樹、津田真道らとともに「明六社」を結成し、翌年から機関誌「明六雑誌」を発行。西洋哲学の翻訳・紹介に努めた。1890年(明治23年)、帝国議会開設にあたり、周は貴族院議員に任じられた。

 明治維新後の文化史を語るとき、西周は欠かすことのできない人物だが、同時代に活躍した福沢諭吉ほどよくは知られていない。それは、周が福沢のように政府の外部にあって自由主義を説く立場をとらず、体制内にあって漸進的立憲君主制の立場をとったからだ。そのため、周を“御用学者”と見做して過小に評価されている側面があるのだ。哲学、科学に限らず様々な分野で日本の近代化に貢献した功績は、再評価されてしかるべきと思われる。

 森鴎外は西周没後の1898年(明治31年)、正伝ともいうべき「西周伝」を書いている

(参考資料)司馬遼太郎「この国のかたち 四」

中江兆民・・・日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト

 中江兆民はフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となっていたことで知られ、「東洋のルソー」と評される。第一回衆議院議員総選挙当選者の一人。1865年(慶応元年)、土佐藩が派遣する留学生として長崎へ赴きフランス語を学ぶが、このとき郷士の先輩、坂本龍馬と出会っており、龍馬に頼まれてたばこを買いに走ったなどの逸話を残している。江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家。生没年は1847(弘化4年)~1901年(明治34年)。

 兆民は土佐藩足軽の元助を父に、土佐藩士青木銀七の娘、柳を母として高知城下の山田町で生まれた。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。中江家は初代伝作が1766年(明和3年)に郷士株を手に入れ、新規足軽として召し抱えられて以来の家系で、兆民は四代にあたる。長男の丑吉は1942年(昭和17年)に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。

1866年(慶応2年)江戸へ出て、1871年(明治4年)洋学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の「箕作塾三叉(さんさ)学舎」に入門。どうしてもフランスに行きたいと思っていた兆民は政府中、最大の実力者、大久保利通に直談判し成功。同年、岩倉ヨーロッパ使節団の一員に加わって留学生となった。1874年(明治7年)アメリカを経てフランスに入り、リヨンやパリで学ぶが、このころルソーの著書に出会い、パリで西園寺公望や岸本辰雄、宮崎浩蔵らと親しくなった。

 1874年(明治7年)帰国し、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開き、ルソーの著書「民約論」や「エミール」などをテキストとして使用する。1875年(明治8年)、明治政府より元老院書記官に任命されるが、翌年辞職。「英国財産相続法」などの翻訳書を出版する。

 1881年(明治14年)、西園寺公望とともに「自由」の名を冠した東洋最初の日刊紙(新聞)「東洋自由新聞」を東京で創刊(西園寺公望・社長、中江兆民・主筆)した。同紙はフランス流の思想をもとに自由・平等の大義を国民に知らせ、民主主義思想の啓蒙をしようとしたものだ。当時勃興してきた自由民権運動の理論的支柱としての役割を担うが藩閥政府だった明治政府を攻撃対象としたため、政府の圧力が強まった。とくに九清華家(せいがけ)の一つ、京都の公家だった西園寺が明治政府を攻撃する新聞を主宰することの社会的影響を恐れた三条実美、岩倉具視らは、明治天皇の内勅によって西園寺に新聞から手を引かせたため、結局同紙は「東洋自由新聞顛覆(てんぷく)す」の社説を掲げて第34号で廃刊となった。

 1882年(明治15年)仏学塾を再開し、「政理叢書」という雑誌を発行。1762年に出版され、フランス革命の引き金ともなったジャン・ジャック・ルソーの名著「民約論」の抄訳「民約訳解」をこの雑誌に発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介した。また、自由党の機関誌「自由新聞」に社説掛として招かれ、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年「三酔人経綸問答」を発表。三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。そこで兆民は大阪へ行くことを決意。1888年以降、保安条例による“国内亡命中”なのに、大阪の「東雲(しののめ)新聞」主筆として普通選挙論、部落開放論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。前年、保安条例による東京追放が解除されたため、1890年の第一回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、予算削減問題で自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって、議員を辞職した。まさに怒りの辞職だった。

 漢語を駆使した独特の文章で終始、明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞を嫌ったその率直闊達な行動は世人から奇行とみられた。
 主な著書に随想集「一年有半」、兆民哲学を述べた書「続一年有半」などがある。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

新渡戸稲造・・・国際連盟・事務次長を務めた国際派の硬骨漢

 新渡戸稲造は曾祖父以来、英才を輩出した新渡戸家の血を引く、高潔でかなり熱い硬骨漢だった。農学者で教育者であり、また国際連盟の事務次長を務めるなど国際的な舞台で活躍し、第二次世界大戦へ突き進む時代の中で平和のために東奔西走しながら亡くなった人物だ。著書『Bushido The Soul of Japan』(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著といわれる。日本銀行券D五千円券の肖像としても知られる。

 新渡戸稲造は、盛岡藩士で藩主・南部利剛の用人を務めた新渡戸十次郎の三男として、岩手県盛岡市で生まれた。新渡戸の生没年は1862(文久2)~1933年(昭和8年)。
 新渡戸は9歳で上京し、1873年(明治6年)、東京外国語学校英語科(後の東京英語学校、大学予備門)に入学した。数え年で13歳のときのことだ。その後、1877年(明治10年)、札幌農学校(後の北海道大学)に第二期生として入学。「少年よ大志を抱け」の名言で知られるウィリアム・クラーク博士は去っていたが、そのスピリットはまだ色濃く残っていた。在学中に洗礼を受けキリスト教徒となった。この同期に内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らがいる。1881年(明治14年)札幌農学校卒業した。

 1883年(明治16年)、新渡戸は東京大学(後の東京帝国大学)入学するが、飽き足らず、「太平洋の架け橋」になりたいと考えるようになった。太平洋の架け橋とは、西洋の思想を日本に伝え、東洋の思想を西洋に伝える橋になる-との意味だ。これは美しい理想で、口にはできても、実現するとなるとなかなか容易なことではない。

だが、新渡戸は翌年東京大学を退学し、その思いを実行に移す。私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。1884年(明治17年)のことだ。やがて、札幌農学校以来の旧来のキリスト教の信仰に確信を持てなくなっていた彼は、クェーカー派の集会に通い始め、正式に会員となり、彼らを通じて、後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。アメリカに留学中、札幌農学校助教授に任ぜられ、1887年(明治20年)にはドイツに渡り、ボン大学で農政、農業経済学を研究している。1891年(明治24年)帰国し、札幌農学校教授となった。

 1901年(明治34年)、台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画。1906年、第一高等学校校長となり、7年間在籍。1909年から東京帝国大学教授として植民政策を講義している。さらには1918年(大正7年)、東京女子大学学長となった。

 一方、「太平洋の架け橋」になりたいとの信念のもとに、国際連盟事務次長(1920~26年)あるいは太平洋問題調査会理事長(1923~33年)として、国際理解と世界平和のために活躍した。1933年(昭和8年)、カナダで開かれた太平洋会議に出席したあと、病を得て同年、同地で死去した。日本における農政学、植民政策論の先駆者で、最初の農学博士として著名だ。

 新渡戸は英語で『武士道(Bushido)』を書いた。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるのだが、彼はこの本を通して未開の野蛮国と見られていた日本にも“武士道”という優れた精神があることを世界の人々に紹介したのだ。その結果、新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡った。

 日本国内でも『武士道』が邦訳されて発売されると、たちまちベストセラーになった。それは、明治維新後、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えるものだったからだ。

 ただ、ここで表現されている「武士道」は江戸期までの「武士」の時代に、武士階級の内に自覚され形成された「武士道」と同じではない。あくまでも明治期の一文化人が欧米の習俗に触れ、その基盤となっているものを掴んだと信じたうえで、自己の「道徳性(モラリティ)」の深層を形作っている幼少時の教養の素地を再咀嚼(そしゃく)したうえで、これを「武士道」として構成したものだ。それは明治人の気骨の一面をよく掴んでおり、その後の日本の文化人の心性をある面で代表している。
 主な著書に『農業本論』(1898年)、『武士道』(1900年)、『修養』(1911年)などがある。

(参考資料)

中江藤樹・・・身分の上下を超えた平等思想を説いた「近江聖人」

 中江藤樹は江戸初期の儒学者で、わが国の陽明学の祖だ。藤樹が説いたのは、身分の上下を超えた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商・工人まで広く浸透し、没後、彼は「近江聖人」と称えられた。代表的門人に熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔がいる。生没年は1608(慶長13年)~1648年(慶安元年)。

 中江藤樹は近江国小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)で、農業を営む中江吉次の長男として生まれた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号は珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。9歳のとき伯耆国(現在の鳥取県)米子藩主加藤家の150石取りの武士、祖父中江吉長の養子となり、米子に赴く。1617年(元和2年)、米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(現在の愛媛県)に国替えとなり、藤樹は祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)、祖父が亡くなり、藤樹は家督100石を相続する。

 1632年(寛永9年)、郷里の近江に帰省し、母に伊予での同居を勧めるが、拒否される。思い悩んだ藤樹は1634年(寛永11年)、27歳で母への孝行と健康上の理由により、藩に対し辞職願いを提出するが、拒絶される。そのため脱藩し、京に潜伏の後、郷里の小川村に戻った。そこで母に仕えつつ、私塾を開き学問と教育に励んだ。1637年(寛永14年)、藤樹は伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘、久と結婚する。藤樹の居宅に藤の老樹があったことから、門下生から“藤樹先生”と呼ばれるようになる。塾の名は「藤樹書院」という。藤樹はやがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、「格物致知論」を究明するようになる。

 1646年(正保3年)、妻久が死去。翌年、近江大溝藩士・別所友武の娘、布里と再婚する。1648年(慶安元年)、藤樹が亡くなる半年前、郷里の小川村に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。江戸時代の「士農工商」という厳然とした階級社会にあって、その説くところは画期的な、身分の上下を超えた平等思想にあった。そのため、その思想は武士だけでなく、商・工人まで広く浸透した。没後、藤樹先生の遺徳を称えて、「近江聖人」と呼ばれた。

 中江藤樹には様々な著作があるが、そのうち1640年(寛永17年)に著した「翁問答」にある言葉を紹介しよう。

○「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」
 父母から受けた恵みの大きさはとても推し量ることができない。どんな父母もわが子を大きく立派に育てるために、あらゆる苦労を惜しまないものだ。ただ、その苦労をわが子に語ることはしないので、そのことが分からないのだ。

○「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす」
 本来、学問とは心の中の穢れを清めることと、日々の行いを正しくすることにある。高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、奇異に思うかも知れないが、そのような知識の詰め込みのために、かえって高慢の心に深く染まっている人が多い。

○「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし」
 私たちは姿かたちや社会的地位、財産の多寡などから、その人を評価してしまう習癖がある。しかし、すべての人間は明徳という、金銀珠玉よりもなお優れた最高の宝を身につけてこの世に生をうけたのだ。それゆえ、人間はすべて善人ばかりで、悪人はいない。まさに、“人間賛歌”の言葉だ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「中江藤樹」、童門冬二「私塾の研究」

中島知久平・・・日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王

 中島知久平はわが国史上最大の軍需工場、中島飛行機製作所の創立者だ。大正・昭和初期にかけて国防思潮の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、早くから「航空機主義」を主張。「飛行機報国」の信念から、慣例を破って海軍を中途で退役し、日本初の民間飛行機製作所(後の中島飛行機株式会社、後の富士重工業)を設立。戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、陸軍戦闘機「隼」はじめ飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長させた、日本では稀有な経歴を持つ大正・昭和期の実業家、政治家だ。生没年は1884(明治17)~1949年(昭和24年)。

 中島知久平は群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)で、比較的豊かな農家の長男として生まれた。明治33年、17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学し卒業。卒業後、中島は二つのことで注目を集めた。一つは「常磐」乗務のとき発明を構想した。艦船が編隊で航行するとき、各艦は一定の間隔を保つ必要がある。中島のアイデアは、そのためのエンジンの回転数を自動調整するメカニズムだった。頻繁に回転数を操作しなくていいから、運転者の負担が減り、石炭消費量を節約することができる。

 いま一つは「石見」乗務のころ、兵器としての飛行機の可能性に着目したことだ。海軍飛行機専門家として1910年、フランスの航空界を視察し、1912年にはアメリカで飛行機組み立てと操縦術を学び、1914年に再度フランスに渡った。訪仏前に「大正三年度予算配分ニ関スル希望」を上司に提出した。中島は「大艦巨砲主義」を批判し、貧国が採用すべき航空機戦略主張した。軍人としては軍政と兵術に優れていた。

中島は、明治40年代初めより憑かれたように、航空機の研究に熱中した。横須賀海軍工廠内飛行機工場長を経て1917年(大正6年)に大尉で退官。同年飛行機研究所を創立。中島35歳のことだ。同研究所は後に中島飛行機株式会社と改称し、日本初の民間飛行機会社となった。軍用機生産で社業を拡張し大企業に成長させ、戦時下に一大軍需会社として発展した。

 太平洋戦争前から敗戦に至るまで、「愛国」「報国」「隼」「零戦(三菱が設計士、製造の半数を受け持った)」「疾風(はやて)」といった数々の軍用機を、次々とつくりだしたのが中島飛行機だ。中島知久平が築き上げたものは、世界に類のない巨大な」「軍需産業王国」で、最盛期の昭和20年には全国に工場100カ所、敷地面積合わせて1500万坪。就業人員26万人という膨大なもの。昭和50年ごろのわが国最大規模の企業であった新日鉄の就業者数が約7万人だから、当時の中島飛行機からみれば、約4分の1といったところだ。まさにわが国、空前絶後のマンモス企業家だったといえよう。
中島は1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に群馬5区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。翌年、中島飛行機製作所の所長の座を弟、喜代一に譲り、営利企業の代表をすべて返上、政治家の道を歩き出した、その後も衆議院議員当選5回。その豊富な資金力をバックに、所属する“政友会の金袋”ともいわれた。商工政務次官を経て、第一次近衛文麿内閣の鉄道相を務めた。1938年以降、鳩山一郎と党総裁の地位を争い、翌年4月分裂後の党総裁(中島派政友会)となった。

その後、内閣参議、大政翼賛会総務などを経て、1945年敗戦直後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の軍需相となった。その後、GHQによりA級戦犯に指定され自宅拘禁となったが、1947年(昭和22年)解除、釈放された。

(参考資料)豊田穣「飛行機王 中島知久平」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

鍋島閑叟・・・破綻した藩財政を立て直し、幕末の先進雄藩に育て上げる

 鍋島閑叟(直正)は幕末・維新にかけて肥前佐賀藩の藩主を務め、破綻した藩の財政改革、教育改革、農村復興などの諸改革を断行。さらに独自に西洋の軍事技術の導入を図り、精錬方を設置し反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や、鉄砲の自藩製造に成功したほか、蒸気機関・蒸気船までも完成させる先進雄藩となった。

ただ、同藩は薩摩・長州・土佐藩などと比べると、幕府あるいは他藩に対し、自己主張するような姿勢はほとんど取らず、自主・独立独歩の道を歩んだ。その意味で、鍋島閑叟は地味だが、肥前佐賀藩を薩摩・長州・土佐に伍する雄藩に育て上げた名君だった。閑叟の生没年は1815(文化11)~1871年(明治4年)。

 肥前佐賀藩の十代藩主・鍋島閑叟は、九代藩主・鍋島斉直の十七男として、江戸赤坂の溜池にあった鍋島家中屋敷で生まれた。幼名は貞丸。母は池田治道の娘。正室は十一代将軍徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正。維新後は直正と改名した。号は閑叟。

 幼少の貞丸に対し、家中では将来必ず名君になると信じた。それは、キツネに似た彼の容貌から発想したのではない。肥前鍋島家は一代交代で暗君と名君が出た。若殿の父・斉直は女好きの贅沢好みで藩財政を傾けたため、それまでの“法則”に従えば、この嬰児・貞丸は名君になるだろうとの期待を込めた思いからだ。

 1830年(天保元年)、父の隠居の後を受け、17歳で第十代藩主に襲封。藩主時代は将軍家斉の片諱をもらい、斉正と名乗っていた。当時の佐賀藩はフェートン号事件以来、長崎警備などの負担が重く、先代藩主の奢侈・贅沢や、天災による甚大な被害も加わって、藩の財政は破綻状態にあった。斉正は直ちに藩政改革に乗り出したが、前藩主とその取り巻きら保守勢力の抵抗から、改革は困難を極めた。

 だが、役人を5分の1に削減するなどで出費を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また、藩校弘道館を拡充し、優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料支払い免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。藩政の機構改革、政務の中枢に、出自にかかわらず有能な家臣たちを積極的に登用するなどの施策を講じたのだ。

 さらに、独自に西洋の軍事・科学技術を導入し、火器の自藩製造に成功。蒸気機関・蒸気船までも完成させるほど、その技術水準は高かった。それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている。

 また斉正は、幕府に先駆けて天然痘を根絶するために、オランダから牛痘ワクチンを輸入し、長男の直大で試験した後、大坂の緒方洪庵にも分け与えている。このことが、日本における天然痘の根絶につながったのだ。

(参考資料)司馬遼太郎「肥前の妖怪」、司馬遼太郎「アームストロング砲」

橋本左内・・・幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー

 橋本左内(景岳)は、天保5年(1834)3月11日、福井藩奥外科医橋本彦也 長網の長男として、越前福井城下に生まれ、安政6年(1859)10月7日、「安 政の大獄」により江戸伝馬町の獄舎で斬首された。その生涯は、わずか26年で ある。そして、藩主・松平慶永(春嶽)の命を帯びて、水戸、薩摩など雄藩と 朝廷の間を駆け巡った期間はほんの1~2年位にすぎない。にもかかわらず、 彼は偉大な足跡を遺したと言わざるを得ない。
 左内は早熟の天才だった。幼少時の彼は父の志士的気概の影響を多分に受け て育ち、7歳の時から漢籍・詩文・書道などを学び始めるとともに、12歳で藩 立医学所済世館に入学した。これは医家の子弟としては予定されたコースだが、 その傍ら武芸の稽古にも熱心だったというところに、父の影響がはっきり表れ ている。15歳の時、左内は藩儒吉田東篁に師事して経書を学んだ。彼はよほど 傑出した学問的能力に恵まれていたようで、ここでも高い評価を得ている。
 嘉永元年(1848)、数えで15歳の左内は感興の赴くままに『啓発録』と題す る手記を著した。この中で彼は、武士であった7、8代前の祖先と同じく士籍 に列し、堂々と政治の世界で腕を振るってみたいが、医家の長男に生まれたこ とで、自分の志を成し遂げることができないことを嘆いている。
左内が大坂・適々塾に入門したのは、嘉永2年(1849)、主宰者の緒方洪庵が 種痘事業に本腰を入れ始めた前後のことだった。その当時、同塾の塾頭は大村益次郎だったが、残念なことに左内と益次郎の交遊に関しても詳らかでない。察するに、同塾での左内はひたすら勉学に打ち込んだようだ。福沢諭吉の『福翁自伝』などに記された、自由闊達でいささか放恣な塾風に対しても左内は同化せず、終始批判的な態度を取り続けた。

彼は同塾所蔵の原典をことごとく読破し、原典の筆写の誤謬を訂正できるほどの学力を備えるまでになった。その精進ぶりは、洪庵からも高く評価され「いずれわが塾名を上げるものは左内であろう、左内は池中のこう竜である」との褒詞を授けられたという。「池中のこう竜」とは、やがて時を得れば天下に雄飛するに違いない英雄・豪傑のことをさす。

 適々塾での修学は、左内に福井藩第一号の給費生という栄誉をもたらしたが、何とか医家から武士身分に取り立てられたいという彼の切なる期待も虚しく、2年と3カ月ほど後にピリオドが打たれる。嘉永5年(1852)閏2月、父の病臥の報を得たからだ。父が左内の治療の甲斐なく没したことで、藩命により橋本家を相続。父と同じく藩医に任じられて職務に精励する。とはいえ、藩医の地位に安住する日々の過ごし方は、彼にとっては不本意だった。

 安政元年(1854)、彼は藩当局に江戸遊学を願い出る。江戸の土を初めて踏み、坪井信良、次いで杉田成卿・戸塚静海に師事して蘭学を究めようとした。彼はこの江戸でまた学問上の頭角を現し、幾人かの人々から賞賛を浴びる。その結果、安政2年(1855)、「医員を免じて士分に列す」という藩命が下り、遂に晴れて藩士の身分を獲得したわけだ。

 安政4年(1857)正月、左内は藩校明道館の学監心得となって、藩校の教育体制改革の中心的地位に昇りつめる。左内23歳のことだ。さらに、藩主春嶽はこの青年を国事周旋の場における己の片腕とすることに決める。同年8月、左内は春嶽の侍読兼御用掛に任命され、以後、一橋慶喜を推す将軍継嗣に関する春嶽のブレーンとして、一橋派の雄藩(薩摩・土佐・宇和島・水戸)への周旋や大奥、そして京都・朝廷に対する工作のため、精力的に入説してまわった。

その結果、いったんは幕閣内でも一橋慶喜こそ次期将軍に相応しいといわれた。だが、井伊直弼の大老就任で事態は急転、紀州藩の慶福を推す南紀派が勝利。一橋派に厳しい処分を下されることになる。井伊直弼による「安政の大獄」の幕が切って落とされるのだ。

 左内は1年余りの取り調べの結果、安政6年(1859)10月7日、江戸伝馬町の獄舎刑場で斬罪に処された。数えの26歳だった。島流しに遭い、南の島でこれを聞いた西郷隆盛は「橋本さんまで殺すとは、幕府は血迷っている。命脈は尽きた」と嘆息したという。同じ獄舎につながれた吉田松陰の刑死に先立つこと、ちょうど20日前の処刑だった。両者は互いにその名を知り、同じ獄舎にあることを知りながら、遂に相まみえる機会を持てなかった。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、橋本左内/伴五十嗣郎全訳注「啓発録」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」

福沢桃介・・・日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家

 福沢桃介は福沢諭吉の女婿だが、「日本の電力王」と呼ばれたほか、エネルギー、鉄道など国のインフラに関わる事業会社や、後年、一流企業に育つ様々な会社を次々に設立した、一流の実業家だった。のち明治45年から一期だけだが政界にも進出、代議士となり政友倶楽部に属した。ただ、政治家は肌に合わないと痛感したのか、その後は絶対に政治には出なかった。後年は愛人“日本初の女優”川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活だった。まさに、事業においても、プライベートな生活においても、一般的な常識ではとても計れない破天荒な人物だった。生没年は1868(明治元年)~1938年(昭和13年)。

 福沢(旧姓岩崎)桃介は武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉見町)の農家に生まれ、川越の提灯屋岩崎家の次男として育った。彼の人生に、最初の大きな転機が訪れるのが大学生のときだ。慶応義塾に在学中、福沢諭吉の養子になり、20歳で入籍。米国留学を終えて22歳で諭吉の次女、房(ふさ)と結婚したのだ。しかし、福沢家には4人の息子がおり、「養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女、房へ配偶して別居すること」と申し渡されていた。大学卒業後、北海道炭礦鉄道(のち北海道炭礦汽船)、王子製紙などに勤務。

桃介はこのころ肺結核にかかり、1894年から療養生活を余儀なくされた。療養の間、株取引で貯えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。当時は日清戦争の最中で、日本勝利による株価の高騰もあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。

破天荒な生き方はまだまだ続く。病癒えた彼は独立して丸三商会という個人事業を興す。この事業も結局は頓挫。その最中に再び喀血、入院する。しかし、ここでまた不運と隣り合わせの幸運を掴んで起き上がる。株だ。今度は日露戦争前後の一大株式ブームに便乗して、たちまち200万円を儲けるのだ。

1906年、瀬戸鉱山を設立、社長に就任。木曽川の水利権を獲得し、1911年、岐阜県加茂郡に八百津発電所を築いた。1924年、恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を、1926年に中津川市に落合発電所などを次々建築。1920年に五大電力資本の一角、大同電力(戦時統合で関西配電⇒関西電力)と東邦電力(現在の中部電力)を設立、社長に就任。この事業によって「日本の電力王」と呼ばれることになる。

1922年には東邦瓦斯(現在の東邦ガス)を設立、他にも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる)の経営に携わったほか、大同特殊鋼、日清紡績など一流企業を次々に設立。その後、代議士にもなり、政友倶楽部に属した。

こうして福沢桃介はほとんどあくせくせずに、人生とビジネスを同時に楽しみながら、生来の楽天主義と、義父福沢諭吉直伝の独立自尊の精神を通し、気ままに生きた。有名な、名妓、名女優とうたわれた川上貞奴とのロマンスもそうしたものの一つだったのだろう。60歳で実業界を引退してからは、文筆に明け暮れ、悠々自適の余生を楽しんだ。

桃介が興し、育てた様々な事業は彼の後輩で、後年「電力の鬼」と呼ばれるようになった松永安左衛門に引き継がれた。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「まかり通る」、小島直記「日本策士伝」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

北条泰時・・・日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定

 北条泰時は鎌倉幕府の第三代執権で、日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定した人物だ。これによって、武家社会に求められた、鎌倉幕府のより統一的な新しい基本法典が完成したのだ。
 『御成敗式目』は北条泰時が独善的に決めたものではない。京都の法律家に依頼して、律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、彼自身がその内容を把握。そのうえで彼は『道理』(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながら、評定衆たちと案を練り、編集を進め、まとめあげたものだ。「名執権」といわれた泰時ならではの地道な作業だ。1232年(貞永元年)のことだ。

 では、なぜ泰時はこんな法の制定に乗り出したのか。それは、承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり、抽象的指導理念が必要となったからだ。紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していたのだ。

 この『御成敗式目』、はじめは『式条』『式目』と呼ばれていたが、徐々に変化し、裁判の基準としての意味で『御成敗式目』と呼ばれるようになった。完成にあたって泰時は、六波羅探題として京都にいた弟の重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。

 多くの裁判で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは、ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うかと笑う人があるかも知れないし、またその基準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。

この『式目』は漢字も知らぬ、こうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝を尽くすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ-と。

 北条泰時はこの「道理」という言葉が一番好きだった。『沙石集』という鎌倉時代の説話などによると、彼は、道理ほどおもしろいものはない、と言って、人が道理の話をすると、涙を流して喜んだという。「道理」という言葉には、かなり広い意味がある。人間の身につけるべき本来的な道徳から、守るべき法律、原則に至るまでを含んでいるとみていい。父、北条義時もくだけたエピソードが伝えられていない真面目人間だったようだが、その息子は父に輪をかけたキマジメ青年だった。

 北条泰時は鎌倉幕府第二代執権・北条義時の長男。生没年は1183(寿永2年)~1242年(仁治3年)。幼名は金剛、のち頼時、泰時、春時、観阿、別名は江間太郎。1194年(建久5年)、13歳で元服。鎌倉幕府初代将軍源頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って頼時と名乗った。のち泰時に改名した。頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、8年後の1202年(建仁2年)に三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。翌年、嫡男時氏が生まれるが、のちに三浦の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。1211年(建暦元年)、修理亮に補任。この時点で北条氏の嫡男は異母弟で正室の子、次郎朝時だったが、朝時が鎌倉幕府第三代将軍・実朝の怒りを買って失脚したため、庶長子だった泰時が嫡男とされた。

 1213年(建暦3年)の和田合戦では父・義時とともに和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。1218年(建保6年)には父から侍所の別当に任じられた。1219年(承久元年)には従五位上、駿河守に叙任、任官された。1221(承久3年)の「承久の乱」では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方にはともに大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。それ以降、京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

長谷川平蔵・・・松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平

 長谷川平蔵という人物を、日本国民に広く知らしめた功労は、池波正太郎の人気小説「鬼平犯科帳」に尽きるといっても過言ではないだろう。“鬼平”とは、鬼の平蔵の意。江戸の放火と盗賊を取り締まる火付盗賊改方(役)の長官・長谷川平蔵の通称という。もちろん、多くは小説の世界のフィクションで実在した長谷川平蔵がそのように呼ばれたという記録はない。ただ、現代でいえば、さしずめ警視総監といったところの、この「火付盗賊改役」というこの職(ポスト)は“鬼”と呼ばれてもおかしくない歴史を持っていた。

 幕閣を治安維持の面から補佐した「火附け盗賊改」は1665年(寛文5年)に設置された「盗賊改」、1683年(天和3年)に置かれた「火附改」、さらには1703年(元禄15年)より設けられた「博奕改」の三つの特殊警察機構を、1718年(享保3年)に一本化したものだった。江戸の治安維持のため、とくに悪質な犯罪を取り締まることを職務として、市中を巡察し、容疑者を逮捕して、吟味(審理)する権限を持っていた。仕置(処罰)に関しては、罪の軽重を問わず、老中・若年寄へ指図を仰がねばならなかったが、その取り調べは厳格を極め、情け容赦のない責問(拷問)が行われた。

 長官たる頭も、初期の頃はそれこそ鬼のように怖れられた人物が輩出した。大岡越前守忠相と同時代の中山勘解由(かげゆ)という人は「火附盗賊改役」を拝命すると、自宅にあった神棚と仏壇を打ちこわし、火中に投じて焼いてしまったという逸話がある。信仰とか慈悲心などを持っていては、お役目を全うできない。たとえこの身が神仏の罪を被ろうとも、江戸の治安を守り、諸悪を根絶せねばならぬ-との思いからだ。その後、制度が充実するにしたがって、このポストには思慮深い、慈悲深い者が任命されるようになった。

 1783年(天明3年)、浅間山の大噴火、“天明の大飢饉”、そしてその4年後に江戸と大坂で大規模な打ちこわしが起こった。この年、「火附盗賊改役」に命じられたのが、長谷川平蔵宣以(のぶため)だった。

 長谷川平蔵宣以は400石取りの旗本、平蔵宣雄を父に生まれた。平蔵は長谷川氏の当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前は銕三郎(てつさぶろう)と名乗った。生没年は1746(延享3年)~1795年(寛政7年)。父の平蔵宣雄も「火附盗賊改役」を務め、見事な働きをみせ、抜擢されて京都西町奉行に栄転。ところが、職務に精力を傾けすぎたのか、在職わずか9カ月で急死した。享年55。これに伴って宣以は家督を継ぎ、平蔵宣以となった。1773年(安永2年)、宣以28歳のことだ。

 「鬼平犯科帳」では宣雄の正室に、幼少期の宣以=銕三郎がいじめられ、生母は若くして死んだとあるが、史実は小説とは異なる。宣以を大切にかわいがった宣雄の正室は、宣以が5歳の時に亡くなっており、長谷川家の知行地から屋敷へ働きにきていた女性と思われる生母は、平蔵の死後まで長生きしていた。

 厳格な父をふいに失い、その悲しみから遊女やその情夫、無頼者と交わり、ゆすり騙りや賭博の類に身を投じ、庶民の生活や暗黒街のしくみを実地に体験したことはあったようだ。しかし、平蔵宣以は朱に染まらず、1年後の1774年(安永3年)、悪友とも手を切って幕臣の本分に邁進した。31歳で「江戸城西の丸御書院番士」(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、1784年(天明4年)、39歳で「西の丸御徒士頭」、41歳で「御先手組弓頭」に任ぜられ、1787年(天明7年)、「火附盗賊改役」の長官に昇進した。順調すぎる出世だ。

これには理由がある。父の偉業が高く評価され、中でも時の権力者・老中の田沼意次に支持されていたのではないかと思われる。その証拠に、宣以が「御先手組弓頭」となって1カ月後、権勢をほしいままにしてきた田沼意次が遂に失脚。老中を罷免されてしまうと、宣以の身にその反動が、災いとなって降りかかってきた。本来、2~3年で交代すべき「火附盗賊改役」に、宣以は死去するまで足掛け8年間留め置かれている。江戸時代を通じて異例のことだった。京都奉行にも、大坂・奈良・堺の奉行にも栄転していないのだ。

少なくとも田沼意次の後任として、“寛政の改革”を指揮した老中・松平定信は、宣以を田沼の「補佐役」の一人とみて、便利使いした挙句、使い捨てにしている。幕閣のトップ=老中の信任次第で、勢いのある「補佐役」のポジションも大きく変わってしまうという好例だろう。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、池波正太郎「鬼平犯科帳」

福沢諭吉・・・「天は人の上に人を造らず…」で門閥制度を嫌った啓蒙思想家

 福沢諭吉は封建社会の門閥制度を嫌った。中津藩士で、儒学に通じた学者でもあったが、身分が低いため身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った父と幼少時に死別、母の手一つで育てられたためだ。福沢は『福翁自伝』の中で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とさえ述べている。『学問のすすめ』の冒頭に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名な人間平等宣言も、こうした生い立ちがその根底にある。そのため、明治維新後、新政府からの度々の出仕要請も断り、もっぱら民間にあって慶応義塾の教育と国民啓蒙のための著作とを使命とする態度を変えなかった。福沢の生没年は1834(天保5)~1901年(明治34年)。

 明治時代の啓蒙思想家で慶応義塾の創立者、福沢諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷で十三石二人扶持の藩士、福沢百助とお順の二男三女の末っ子として生まれた。わずか2歳のとき父と死別、母子一家は中津(現在の大分県中津市)へ帰った。現在、中津市内に福沢旧邸が昔のままに保存されているが、これは二度目の住居であり、中津帰郷当初住んでいた家は倒壊寸前のひどい荒屋(あばらや)だったという。その荒屋で姉たちと福沢は、18歳までの歳月を送った。

1854年(安政1年)、福沢は長崎へ蘭学修行に出て、翌年大坂の緒方洪庵の適々塾に入門。1856年(安政3年)、兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、適々塾に戻り、1858年、藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。 
  
1859年、福沢は横浜に遊び、愕然とすることになった。開港されて、外国人の行き交う姿が珍しくない横浜の街で見かける看板は、オランダ語ではなく、英語が幅を利かせていたからだ。これまで必死で学んできた蘭学の無力さを痛感。英学に転向、以後、独学で英学に取り組む。
 1860年(万延1年)、福沢は咸臨丸に艦長の従僕として乗り込み渡米。1862年(文久2年)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6カ国を歴訪。1864年(元治1年)に幕臣となった。1866年(慶応2年)、既述の洋行経験をもとに『西洋事情』初編を書き刊行。欧米諸国の歴史、制度の優れた紹介書となった。
1867年(慶応3年)、幕府遣米使節に随従するが、このとき福沢は、幕府はもうどうにもならぬと見当をつけていたので、自分の手当から公金まで全部動員して書物を買い込んだ。大中小の各種辞書、経済書、法律書、地理書、数学書など大量に持ち帰った。そのため、福沢は勝手に大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3カ月の謹慎処分を受けた。しかし、そのお陰で、後述するように、福沢の慶応義塾では、生徒一人ひとりがアメリカ版の原書を持たせてもらって、授業を受けることができたので、次第に人気が高まるのだ。
 1868年(明治1年)、福沢はこれまでの家塾を改革し、慶応義塾と称し「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とした。同年5月15日、上野の彰義隊戦争の最中、福沢は大砲の音を聞きながら、生徒を前にして経済学の講義をしていたという。同年、幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上。明治新政府からの度々の出仕要請も断った。1871年の廃藩置県を歓迎した彼は、国民に何をなすべきかを説く『学問のすすめ』初編(1872年刊)を著す。冒頭に「天は人の上に人を造らず…」というあの有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876年)まで書き続けられ、総発行部数340万部といわれるベストセラーとなった。これにより、福沢は啓蒙思想家としての地位を確立した。

 『学問のすすめ』(明治5~9年刊)や『文明論之概略』(明治8年刊)などを通じて、明治初年から10年ごろまでのわが国開明の機運は、福沢によって指導されたといっても過言ではない。1882年(明治15年)には『時事新報』を創刊して、この後、福沢の社会的な活動はすべてこの媒体で展開され、新聞人としても多大な成功を収めた。晩年の著作の「福翁自伝」(明治32年刊)は日本人の自伝文学の最高峰として定評がある。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「福沢山脈」

北条義時・・・若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身

 人には早熟型と大器晩成型のタイプがある。ここに取り上げる北条義時は、まさに後者のタイプだ。彼は40歳を超えたころから、鎌倉幕府内で不気味な光を放ち始めたのだ。伊豆の小豪族、北条氏が財閥クラスの大豪族と付き合ううち、徐々に実力を付け、人々が気がついたとき、いつの間にか北条氏は、幕府内で押しも押されもせぬ大派閥に伸し上がっていた。

頭がよくて、大胆で、しかも慎重で、ちょっと見には何を考えているのか分からないような男、それが北条義時だった。病的なくらいに用心深く、疑り深い人物だったあの源頼朝でさえ、信用し切っていたというから、“猫かぶり”の名人だったかも知れない。そして、源氏の「天下」を奪ったのは紛れもなく、この北条義時なのだ。義時は恐らくこう宣言したかったに違いない。「天下は源氏の天下ではなく、武士階級全体の天下であり、源氏はその本質は飾り雛に過ぎない」と。

 北条義時の父は時政。姉は政子、つまり源頼朝は彼の義兄にあたる。彼が17、18歳になったころ、頼朝の挙兵があり、一家は動乱の中に巻き込まれるのだが、その中で彼は目立った活躍はしていない。平家攻めにも出陣しているが、彼の手柄話は全くない。つまり、このころは面白くもおかしくもない、極めて印象の薄い人物だったのだ。それから約10年、鳴かず飛ばずの日々が続く。気の早い人間が見たら、「こいつはもう出世の見込みはない」と決め込んでしまうところだ。

 ところが、義時は40歳を超えてから輝きだす。初めは父の時政の片腕として、後にはその父さえも自分の手で押しのけて、姉の政子と組んで、北条時代の基礎を固めてしまう。彼はいつも姉の政子を上手に利用した。頼朝の未亡人だから、政子の意志は随分権威があったのだ。政子には男勝りの賢さがあった。また彼女は、頼朝との間に生まれた頼家(二代将軍)や実朝(三代将軍)にはもちろんのこと、頼家の子の公暁にも深い愛情を持っていた。そんな政子は義時の巧妙で自然なお膳立てにあって、それを支持しないわけにいかず、遂に婚家を滅ぼし、その天下を実家のものにしてしまう結果になった。

結果的に北条氏の勢力拡大に大いに手を貸したのが、鎌倉三代将軍源実朝だった。実朝はもはや政治への出番がなく、彼自身はいわば北条氏の“操り人形”に過ぎず、実権のない将軍を演じることと引き換えに、和歌の世界を生きがいとして、のめり込んでいったからだ。実朝は藤原定家に和歌を学び、京都風の文化と生活に傾斜していった。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿のそんな姿に関東武士たちの間に失望感が広がっていった。

 北条義時はこの情勢を格好の機会とみて、“源氏将軍断絶”と“北条氏による独裁支配”の計画を推し進めたのだ。義時は1213年(建保1年)、関東の大勢力の和田義盛を打倒。これまでの政所別当に加え、義盛が担っていた侍所別当を合わせて掌握。これにより政治権力と軍事力、北条義時はいまやこの二つを手中にした。そして、いよいよ北条氏による執権政治の基礎を築いたわけだ。

 実朝暗殺事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。

 ともかく、こうして幕府は北条氏のものとなった。将軍はいても何の力もない“ロボット”で、義時が執権という名で、天下の政(まつりごと)を取ることになったのだ。
 また、「承久の乱」の毅然とした後処理によって、北条義時は北条執権体制をいよいよ確立する。承久の乱は、実朝の後継者をめぐって、幕府側が朝廷に後鳥羽上皇の皇子をもらい受けたいと申し入れたのに対し、後鳥羽上皇側が交換条件に土地の問題を持ち出し幕府に揺さぶりをかけ、地頭職の解任要求を打ち出してきたのだ。ここは義時が頼朝以来の原則を守り通し、後鳥羽側の要求を拒否した。これに対し、後鳥羽側も皇子東下はピシャリと断ってしまった。ただ、朝廷側にとってそのツケは大きかった。義時は後鳥羽上皇以下の三上皇と皇子を隠岐、佐渡などに配流処分として決着した。
 北条執権体制、この政治形態を永続性あるものにしたのは義時の子、北条泰時だ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

華岡青洲・・・通仙散で世界に先駆け乳がんの麻酔手術を行った外科医

 和歌山県那賀郡那賀町に華岡家発祥の地記念碑が建立されている。この小さな片田舎の村に、華岡青洲に診てもらうために、はるか江戸からも大勢の患者がやってきた。汽車も自動車もない時代に。だから相当の金持ちしか行っていない。そのために村に落ちたお金は大きい。華岡青洲のお陰で村は栄えたのだ。

 一介の村医者、華岡青洲は1804年(文化元年)、大和国宇智郡五條村(現在の奈良県五條市)の染物屋を営む利兵衛の母親、勘という60歳の女性に、乳がんの麻酔手術を、患者に痛みを感じさせずに行った最初の人として知られている。世界の医学に先駆けること42年。彼には近代医学の開き手、前人未到の外科領域の開拓者としての栄誉が与えられている。彼はこの偉業を独特の麻酔薬、通仙散(つうせんさん)の発明によって成し遂げた。この時、青洲46歳。全身麻酔下での外科手術の成功は、人々に大きな衝撃を与えた。当時、蘭方医の大御所だった杉田玄白は、30歳も若い青洲に教えを請う手紙を書いている。

 華岡青洲は華岡直道の長男として、紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)に生まれる。諱は震(ふるう)。字は伯行。通称は雲平。号は青洲、随賢。随賢は祖父尚政の代から華岡家の当主が名乗っている号で、青洲はその3代目。生没年は1760(宝暦10年)~1835年(天保6年)。

 1782年(天明2年)、京都へ出て吉益南涯に古医方を3カ月学ぶ。続いて大和見水にカスパル流外科(オランダの医師カスパルが日本に伝えた外科技術)を1年学ぶ。さらに見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」(古来の東洋医学とオランダ式外科学の折衷医術)を学んだ。その後も京都に留まり、医学書や医療器具を買い集めた。この時、購入し読んだ医書でとくに心に残り影響を受けたのが永富嘯庵の「漫遊雑記」で、この中に乳がんの治療法の記述があり、後の伏線となった。

 青洲は1785年(天明5年)、帰郷して父・直道の後を継ぎ開業した。安心したのか父はまもなく64歳で死去。青洲は手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始めた。研究を重ねた結果、曼陀羅華(まんだらげ)の花(チョウチンアサガオ)、草烏頭(そううず、トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見。動物実験を重ねて、麻酔薬の完成にこぎつけたが、人体実験を前にして行き詰まった。そこで、実母の於継と妻加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」を完成した。

 青洲はオランダ式の縫合術、アルコールによる消毒などを行い、乳がんだけでなく膀胱結石、脱疽、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行っている。彼の考案した処方で現在も使われているものに十味敗毒湯、中黄膏、紫雲膏などがある。
 青洲は1802年(享和2年)、紀州藩主・徳川治寶に謁見して士分に列し帯刀を許された。1813年(文化10年)には紀州藩の「小普請医師格」に任用された。ただし、青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。1819年(文政2年)「小普請御医師」に昇進し、1833年(天保4年)、「奥医師格」となった。

 青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が殺到した。彼は門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けた。そして数多くの医師を育て、弟子の中から本間玄調、鎌田玄台、熱田玄庵、館玄竜といった優れた外科医を輩出している。
(参考資料)有吉佐和子・榊原仟「日本史探訪/国学と洋学」

福地源一郎・・・江戸開城後の江戸で新聞を創刊したマスコミ人の草分け

 福地源一郎(桜痴)は江戸城開城後の江戸で「江湖(こうこ)新聞」を創刊。同紙で新政府を批判し、明治時代初の言論弾圧事件の被害者となった。また、東京日日新聞の主筆として活躍、後には社長まで務めるなど、近代ジャーナリストの“草分け”的存在だ。その人間像は徳富蘇峰の人生に大きな影響を与えたといわれる。ただ、ジャーナリストとしての後半生は「御用記者」として、体制べったりの姿勢を維持したことには、彼自身マスコミ人の草分けであっただけに、悔悟の念に苛まれたのではないだろうか。生没年は1841(天保12年)~1906年(明治39年)。

 福地源一郎は、長崎で医師、福地荀庵の息子として誕生。幼名は八十吉。号は桜痴。幼時は「神童」といわれ、数え年4歳で『三千経』『孝経』の素読を始めている。12歳で漢文「皇朝二十四孝」を書くという早熟を見込まれ、長崎のオランダ大通詞名村八右衛門の門下生になり、オランダ語を学ぶが、一年後にはもう通弁見習のポストを手に入れた。これが15~16歳のころのことだ。

福地が著した『新聞紙実歴』によれば、新聞なるものを知ったのは、このときだ。オランダ人は年々来航のたびに「風説書」というものを長崎奉行に提出する。海外事情の報告書で、これを大通詞の名村が和訳し、福地少年が筆記させられた。西洋諸国には新聞紙といって、毎日刊行して自国はむろん、外国のことを知らせる紙がある。カピタンは長崎・出島にいながら、それを呼んで重要なことだけを奉行所へ報告しているのだ-と名村は教えてくれ、そばにあったオランダの古新聞を与えてくれた。

福地には、自分にできぬことはないという自覚が固まり、他人がバカに見えて仕方がない。バカにしないまでも、あいつはバカだと思えば、つい顔に出、それが敵をつくる原因になる。1857年、海軍伝習所の軍艦頭取・矢田堀景蔵に従って江戸に出た。江戸で真っ先に覚えたのは吉原通いだった。有り金はたいて足りず、食い詰め、放浪したこともある。このときはさすがに閉口したようだが、結局懲りず、福地の吉原通いは一生続くのだ。後述するが「東京日日新聞」主筆時代が彼の絶頂期といえるが、朝出勤すると、論説原稿をさっと書き上げ、おもむろに腰を上げ吉原へ繰り込むといった調子だ。吉原通いの途中で新聞の仕事をしていくという方が表現としては正確だったようだ。

以後、2年ほど英国の学問や英語を森山栄之助の下で学んだ。そして外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事する。1861年、1865年には幕府の使節としてヨーロッパに赴き、西洋世界を視察した。ロンドン、パリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せた。パリでは本来の通弁の仕事ではなく、国際法の勉強をするはずだったが、国際法以前の、ヨーロッパ各国通史を知らないし、公用語のフランス語を知らない。そんなわけでフランス語の初歩から学ぶことになった。率直にフランス語修得を喜び、帰国すると幕府は崩壊寸前、そして遂に幕府は倒れた。

 福地は江戸城開城後の1868年、江戸で「江湖新聞」を創刊した。彰義隊が上野で敗れた後、同紙に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、というが、幕府側が倒れて、薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と薩長の横暴を厳しく批判。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分。福地は逮捕されたが、木戸孝允のとりなしで無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件だ。静岡でほとぼりの冷めるのを待ち、また東京に出た。戯作と翻訳、そして吉原通いの日々だ。福地は吉原で酒は全く呑まないのだ。芸者を呼んでも三味線は弾かせず、おもしろくないと、3日も4日も待合で外国語の本を読んでいる-といった具合だ。

 1870年、大蔵省に入り翌年、岩倉使節団の一等書記官として各国を訪れた。帰国後の1871年、政府系の東京日日新聞に入社。主筆を務め、ジャーナリストとして筆名を上げ、部数を飛躍的に伸ばした1874年(明治7年)から、西南戦争の戦況報道を経て、1881年(明治14年)までが福地の全盛期だった。後には社長も務めた。また、東京府府会議長も務めて政界にも進出した。

 1889年(明治22年)に完成した東京の歌舞伎座は、福地が全面的な構想を描いたもので、座主のポストには福地が就くはずだった。しかし、それを維持するだけの金がなかったのだ。これは不幸だった。座主の椅子を手放してからは、単なる一作者として脚本を書いた。多芸多才人の数奇な人生だった。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、司馬遼太郎「峠」、小島直記「無冠の男」