徳川家康・・・ケタ外れの忍耐強さと用心深さ・賢明さが天下人の要因

 徳川家康は周知の通り、江戸に幕府を開いた開祖だ。だが、3歳で母と生き別れ、6歳の幼さで人質として駿府へ送られた家康(当時は竹千代)。そして信長、秀吉の時代を耐え忍び、1600年(慶長5年)9月の「関ケ原の戦い」で勝利を収めるまでの苦難の道のりは、「長くて遠い道」だった。関ケ原後も即、徳川政権へ道が開かれたわけではなかった。通常、よく引き合いに出される織田信長・豊臣秀吉と比較して、家康の天下取りに向けての忍耐強さは抜きん出ている。天下を取ったのは家康62歳のときのことだ。現代の62歳ではない。とても、尋常な生命力ではない。家康の生没年は1542(天文10)~1616年(元和2年)。

 関ケ原の戦いで家康が勝ったといっても、大坂城の豊臣秀頼の地位が低下したわけではなかった。家康はその後も秀頼を主君とする五大老の、筆頭であっても、地位はそのままだった。ところが、1603年(慶長8年)、家康が征夷大将軍に任じられた。これに対し、秀頼はそのまま豊臣政権のトップとして大坂城にいた。これによって、幕府を開いた江戸の徳川政権と大坂の豊臣政権という、二つの政権が併存するという変則的な形となった。それでも大坂方には、家康が征夷大将軍になったのは当座のこと。秀頼様が成人した暁には、政権を戻すはず-という楽観論があった。

 ところが、その2年後、そんな大坂方の楽観論が無残に打ち砕かれる。家康が突然、将軍職を子の秀忠に譲ってしまったからだ。家康は、将軍職は徳川家が世襲すると内外に宣言したわけで、大坂方にはショックだった。

さらに追い打ちをかけるように家康は、天皇の権威を使って豊臣家の権威を乗り越え、諸大名より一段上に立つための手を打つ。1606年(慶長11年)、家康は宮中に参内したとき、朝廷に対し「武家の官位は以後、家康の推挙なしには与えないように」と申し入れているのだ。すなわち直奏(大名家と朝廷との官位の直接取引)の禁止だ。戦国期のように、大名が金を積んで官位を買い取ることをできなくするとともに、大坂の秀頼が官位を左右することを防ぐためだ。これは、官位授与権の独占であり、このことによって、秀頼と家康の立場は完全に逆転したわけだ。

この後、老獪な家康は豊臣家に対し様々な謀略を仕掛け、豊臣政権の官僚・石田三成に不満を持つ豊臣家の大名を巧みに自派に取り込み、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」を経て、遂に豊臣家を滅亡に追い込む。秀吉が全国を統一してから、まだわずか25年後のことだった。周知の通り、徳川家15人の将軍による治世は265年を数えたことを思えば、極めて短命だったといわざるを得ない。

 また家康は、朝廷側にとって一言も弁明できない不祥事=朝廷の弱味を握ることで、対朝廷工作を有利に、主導権を持って進めることができたのだ。朝廷側の不祥事とは1609年(慶長14年)の宮中の「官女密通事件」だ。「宮中乱交事件」などともいわれているもので、後陽成天皇の寵愛を受けている宮中の女官たち5人が、北野、清水などで、やはり数人の中下級の青年公家たちとフリーセックスを楽しんでいたというものだ。この事件を家康は巧みに政治的に利用したのだ。

 この密通事件に対する家康の内意は、処罰は天皇の叡慮次第としたのに対し、天皇は主謀者以下、全員を極刑(死罪)に処すべし-との判断が下ったのだ。幕府や京都所司代が予想していなかった厳刑だ。古来、官女の密通事件は珍しいことではない。確かにこのときほど大掛かりな事件は未曾有のことだったが、処罰が斬罪にまでなった例はなかった。官位授与にあたって、強引な家康の申し入れを飲まざるを得ない、朝廷として弁解の余地がない不祥事を起こされたことに対する、天皇の怒りの激しさが窺われる。

 朝廷の劣勢は続き、この処分についても最終的には家康の裁断に任された。後陽成天皇は愛妾数人に裏切られ、さらにその処罰について幕府の強い干渉を受け、二重に屈辱を被ったわけだ。
 こうして家康は、朝廷・公家を押さえ込むことに成功。1615年、大名の力を抑える、巧妙な大名統制システムをつくり上げる前提となった武家諸法度に加え、禁中並公家諸法度を制定し、朝廷の統制を図ったのだ。これは、天皇の行動まで規定した厳しいものだった。豊臣政権時代にはまず考えられなかったことだ。これによって、徳川の長期安定政権が実現されたといえよう。

 ここまで関ケ原の戦いに勝利した以後の家康の動きを見てきたが、そもそも戦国時代から安土・桃山(織豊政権)時代を経て、天下人・徳川家康が誕生するにあたって、家康のどのような点が優れていたのだろうか。
第一は忠誠無二で、最も良質な兵を持っていたことだ。戦国時代、最も良質な兵は武田氏の甲信兵と上杉氏の越後兵だが、家康の配下、三河兵も決してこれらに劣らず、あるいは優っていたとまでいわれる。

第二は家康の用心深い性格だ。幼いとき継母の父に裏切られ、長く他家の人質になっていたという悲しい経験がつくり上げたのだろう。彼は何度か、石橋を二度も三度も叩いて確実に安全であることを確かめてからでなければ渡らないことがあった。・それまで桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川勢が守っていた岡崎城に帰還したとき、主家の今川氏の許可なしには入城できないと、今川勢が引き揚げ、空き城になるまで待った・信長から同盟の申し込みがあったとき、・小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉に帰服したときもそうだった。焦れた秀吉から、その妹と母とを人質に取ったうえで、やっと腰を上げて京へ赴き帰服したのだ。

 第三は、彼が真に勇気ある武将だったことだ。決断するまでは用心深く、臆病なくらいなのだが、いったん決心し戦場に臨むと、勇猛果敢に戦うのだ。その端的な例が「三方ヶ原の戦い」だ。京に上ることを決心した武田信玄が、家康の居城の近くを通ろうとしたとき、彼は一矢も射掛けないまま通したのでは、後世、徳川家は腰抜けと悪口をいわれるぞ-と配下に命じ、信玄に遮二無二、戦を仕掛けたのだ。結局、この戦いに彼の生涯に一度という惨敗を喫して、一命も危ういほどの目に遭うが、それでもこの戦いは、徳川家の武士の誇りと体面を保つ、彼の輝かしい戦歴の一つになった。
 第四は、家康が賢明さを持ち合わせた人物だったことだ。彼が小牧・長久手の戦いで、秀吉の大軍と対峙したときのことだ。秀吉軍約11万に対し、家康軍はわずか約1万8000だった。ところが、家康軍は局地戦では奇襲戦術で応じ、散々撃破したが、決して深追いせず、その後は素早く兵を引き揚げ、相手にならず、挑発にも決して乗ることはなかった。この合戦で実質上、天下人だった秀吉と休戦・講和に持ち込んだことが、その後どれほど家康を利したことか。

秀吉が終世、家康を憚ったのは主としてこのためだ。秀吉は合戦の場で、家康を破り、屈服させることができなかったことで、名実ともに武家の棟梁を意味する征夷大将軍補任、すなわち幕府開設への道を閉ざされたわけだ。そして、家康のこの戦歴が後年、諸大名に対する無言の圧力となって効いてくるのだ。

合戦であの天下人となった太閤殿下(秀吉)に負けたことがなかった武将として、徳川家康は同列の武将から一歩抜きん出た存在として誰もが一目置かざるを得ない人物として、強烈に意識されクローズアップされるとともに、ついて従っていかざるを得ない状況がつくり出されることになるのだ

(参考資料)海音寺潮五郎「覇者の條件」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「城塞」、司馬遼太郎「関ヶ原」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史」、今谷明「武家と天皇」

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