徳川光圀・・・善政、数々の文化事業で評価高い半面、藩財政の重荷に

 徳川光圀は、徳川御三家の一つ、水戸藩二代藩主として善政を行い、30年の長きにわたりその座にあり、幕政にも影響力を持った時代もあったため、天下の副将軍、「水戸黄門」のモデルとして知られる。ただ、『大日本史』の修史事業に着手したことや、古典研究や文化財の保護など数々の文化事業を行ったことで、評価が高い半面、為政者としては膨大な資金を要する文化事業を行ったことで、光圀以降の代々の藩財政悪化の遠因をつくったと指摘する見方もある。徳川光圀の生没年は、1628(寛永5)~1701年(元禄13年)。

 徳川光圀は水戸藩初代藩主・徳川頼房の十一男・十五女の第七子に生まれた。母は側室で、家臣谷重則の娘、久子。徳川家康の孫にあたる。諡号は「義公」、字は「子龍(しりゅう)」、号は「梅里」。三木長丸、徳川千代松、徳亮、光国、光圀と改名した。

 1633年(寛永10年)、光圀は後に讃岐国高松藩主になる兄の頼重を超えて継嗣に決まった。名を千代松と改め、7歳のとき江戸城に上り、当時の徳川三代将軍家光に拝謁。1636年(寛永13年)、9歳のとき将軍家光立ち会いの下、元服し家光の「光」の一字をもらい「光国」と名乗るようになった。1661年(寛文元年)父、頼房が亡くなり、34歳で第二代藩主の座に就いた。

 光圀は藩主として寺社改革や殉死の禁止、巨船「快風丸」の建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。また、民政にも力を入れ、勧農政策の実施、藩職制の整備、教育の振興などの善政も特筆される。殉死の禁止などは幕府に先駆けて行ったほか、藩士の規律、士風の高揚を図るなどの施策を講じた。とりわけ、五代将軍綱吉の時代には徳川一門の長老として幕政にも影響力を持った。

 光圀は藩主になる前、1657年(明暦3年)、江戸駒込の中屋敷の史局(後の彰考館)を置き、『大日本史』の編纂に着手したほか、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。
 1690年(元禄元年)、家督を兄・頼重の子供の綱条(つなえだ)に譲った後、久慈郡新宿村(現在の常陸太田市)に西山荘を建てて隠居した。ただ、隠居後も八幡神社の整理と一村一社制の確立に努めるなど藩政に強い影響力を持った。

 光圀は『大日本史』の編纂に必要な資料収集のため家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから、テレビ番組でお馴染みの「水戸黄門」の諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、現在の関東地方の範囲から出た記録がない。

 光圀は学者肌で好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本で最初にこの光圀が食べたとされるものも少なくない。ラーメンはじめ餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆などがそうだ。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は五代将軍綱吉が制定した「生類憐みの令」を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。鮭も好物でカマとハラスと皮をとくに好んだといわれる。吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。

 晩年、光圀は子孫のために九カ条の訓戒『徳川光圀壁書』を残している。
一.苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし
一.主人と親は無理(をいう)なるものと思え、下人は(頭の働きの)足らぬものと知るべし
一.掟に怯(お)じよ(法令を恐れよ)、火におじよ、分別がなきものにおじよ、恩をわする事なかれ
一.欲と色と酒をかたきと知るべし
一.朝寝をすべからず。咄の長座すべからず
一.(ものごとは)九分(どおりしてのけても)にたらず、十分はこぼるる
(やりすぎてもいけない)と知るべし
一.子ほど親を思え、子なきものは身にたくらべ(くらべ)て、ちかき手本と知るべし
一.小さき事は分別せよ、大なる事に驚くべからず(小さいと思える事でも、よく考えて処理せよ、大きな事であっても慌ててはならぬ)
一.(思慮)分別(する)は堪忍あるべし(堪忍に勝るものはない)と知るべし

(参考資料)尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三    
      郎「徳川吉宗とその時代」、司馬遼太郎「街道をゆく37」

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