道元・・・異国での修行研鑽で自己の信仰を決定した曹洞宗の開祖

 鎌倉新仏教の祖師と呼ばれる人々の中で、曹洞宗の開祖・道元は極めて異色の存在だった。鎌倉新仏教は末法の世が到来したという仏教の予言を信じ、その現実認識を大前提として生まれ、そして発展していった。ところが、道元は末法の到来を頑として認めず、いわば反時代的な信念のもとに、独自の骨太い思想、宗教の世界を構築してみせた。また、日本的仏教の伝統に絶望を表明して宋に渡り、異国での修行研鑽によって自己の信仰を決定したというのも、道元だけだ。栄西(臨済宗開祖)は道元に先立って入宋し、臨済禅をわが国に伝えたが、その信仰は日本天台宗の影響を抜け切れなかったし、法然(浄土宗開祖)や親鸞(浄土真宗開祖)、日蓮(日蓮宗開祖)らは海外渡航体験さえ持っていない。

 道元禅師は京都に生まれた。生没年は1200(正治2)~1253年(建長5年)。父は源通親(みちちか)、母は松殿基房の娘(三女の伊子=いし、と推定される)だ。この父母を持ったことが、後年の道元の厳しい姿勢の源だったのではないかと思われる。源通親は変節の政治家で、収賄の大家だった。彼は平家が勢いを得はじめると、最初の妻を捨てて清盛の姪を妻に迎え、清盛の庇護の下に政界にその勢力を伸ばした。そして平家が落ち目になると、二度目の妻を捨てて高倉範子(はんし)を妻とし、後白河法皇の側についた。節操もなく、恥を知ることもない権謀術数の腐敗政治家だった。
道元の母は1183年(寿永2年)、源氏の中でもいち早く都に攻め上った木曽義仲が、後白河法皇の立て籠もる法住寺殿を焼き討ちした法住寺合戦の後で、その義仲によって不幸にも“掠奪”同様のありさまで妻にされた人だ。木曽山中に成人して、戦いしか知らなかった野生の武人、義仲はこの女性に溺れた。この前関白・松殿基房の娘は、一代の風雲児の心を狂わせ戦機を逸させたのだ。

この女性が義仲の死後、世人に疎まれていたのを、源通親が引き取って自分の妻とした。その間に生まれたのが道元禅師だ。父の通親は道元が3歳のとき、母は8歳のとき、それぞれ亡くなった。その後、道元は異母兄にあたる源通具(みちとも)に育てられた。そして13歳の年、道元は母方の叔父にあたる良顕法眼(りょうけんほうげん)を訪ねて出家の志を告げた。そして翌年、天台座主公円のもとで道元は出家したのだ。出家後の名は仏法房道元。つまり、道元という名は天台宗時代のもので、曹洞宗になっても天台宗時代の名を称し続けていたことになる。

 道元は日本仏教史上でも傑出して権門を忌避した人物だ。また性的な誘惑に対して身を持すること厳だった人だ。それは腐敗した政治家を父に持ち、性の犠牲者ともいうべき人を母に持った、生い立ちに原因があったものと推察される。両親の姿が道元の心に、癒されることのない深い傷となって、13歳という若さでの出家、そしてその後の特異な人生を彼に歩ませた大きな原因の一つだろう。
 天台教学を学ぶうちに、道元には一つの疑問が湧いてきた。それは天台宗の教えでは一切の衆生はもともと仏であると教えている。では仏であるはずの人間が、なぜ修行を積まなければならないのか-という点だ。彼はこの疑問を師や先輩たちにぶつけてみた。しかし、まともに答えられる人はいなかった。あるとき、園城寺の公胤を訪ねたとき「禅を学ぶ必要がある」といわれた。

そこで道元は1217年(建保5年)、京都の建仁寺に修行に入った。道元18歳のときのことだ。建仁寺の住持で栄西の高弟、明全(みょうぜん)について宋に渡ったのは1223年(貞応2年)のことだ。天童山景徳寺、阿育王山・天台山ほか、いろいろな寺を訪ねて禅を修行していくうちに、世俗権力との癒着の強い臨済禅に失望し始める。そして、最終的に再び天童山に戻ったところで、道元にとってその後の運命を変えた、生涯の師となる如浄(にょじょう)に出会い師事し、曹洞禅を学ぶことになったのだ。結局、道元は1227年(安貞元年)、28歳の年に帰国し、日本に曹洞禅をもたらした。こうして「只管打坐(しかんたざ)」といって、ただひたすら坐禅を組むことによって、悟りを開くという曹洞禅が全国に広まることになったのだ。

 道元は密教とか天台とかいうようなものを持ち帰ったのではない。人間はみな仏という、徹底した悟りそのものになって帰ってきたのだ。「さとりの深化の過程」について道元は『正法眼蔵』弁道話巻の中で、こう言っている。原文は長く難解なので要約すると次のような内容だ。

「ある人が悟ると、周りにいる者がみんな浄化されて次々に悟る。これらの悟った人の働きに助けられて、その坐禅人はさらに仏としての修行を積むようになり、遂には周りの自然界まで仏の働きをあらわすようになる。しかも本人はそのことを知らない」
こんな生き方ができたらどんなに素晴らしいだろうか。
 主著『正法眼蔵』はハイデッガーなど西欧の現代哲学者からも注目を浴びた。

(参考資料)百瀬明治「開祖物語」、紀野一義「名僧列伝」、懐奘編「正法眼蔵随聞記」、司馬遼太郎「街道をゆく・越前の諸道」

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