新渡戸稲造・・・国際連盟・事務次長を務めた国際派の硬骨漢

 新渡戸稲造は曾祖父以来、英才を輩出した新渡戸家の血を引く、高潔でかなり熱い硬骨漢だった。農学者で教育者であり、また国際連盟の事務次長を務めるなど国際的な舞台で活躍し、第二次世界大戦へ突き進む時代の中で平和のために東奔西走しながら亡くなった人物だ。著書『Bushido The Soul of Japan』(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著といわれる。日本銀行券D五千円券の肖像としても知られる。

 新渡戸稲造は、盛岡藩士で藩主・南部利剛の用人を務めた新渡戸十次郎の三男として、岩手県盛岡市で生まれた。新渡戸の生没年は1862(文久2)~1933年(昭和8年)。
 新渡戸は9歳で上京し、1873年(明治6年)、東京外国語学校英語科(後の東京英語学校、大学予備門)に入学した。数え年で13歳のときのことだ。その後、1877年(明治10年)、札幌農学校(後の北海道大学)に第二期生として入学。「少年よ大志を抱け」の名言で知られるウィリアム・クラーク博士は去っていたが、そのスピリットはまだ色濃く残っていた。在学中に洗礼を受けキリスト教徒となった。この同期に内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らがいる。1881年(明治14年)札幌農学校卒業した。

 1883年(明治16年)、新渡戸は東京大学(後の東京帝国大学)入学するが、飽き足らず、「太平洋の架け橋」になりたいと考えるようになった。太平洋の架け橋とは、西洋の思想を日本に伝え、東洋の思想を西洋に伝える橋になる-との意味だ。これは美しい理想で、口にはできても、実現するとなるとなかなか容易なことではない。

だが、新渡戸は翌年東京大学を退学し、その思いを実行に移す。私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。1884年(明治17年)のことだ。やがて、札幌農学校以来の旧来のキリスト教の信仰に確信を持てなくなっていた彼は、クェーカー派の集会に通い始め、正式に会員となり、彼らを通じて、後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。アメリカに留学中、札幌農学校助教授に任ぜられ、1887年(明治20年)にはドイツに渡り、ボン大学で農政、農業経済学を研究している。1891年(明治24年)帰国し、札幌農学校教授となった。

 1901年(明治34年)、台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画。1906年、第一高等学校校長となり、7年間在籍。1909年から東京帝国大学教授として植民政策を講義している。さらには1918年(大正7年)、東京女子大学学長となった。

 一方、「太平洋の架け橋」になりたいとの信念のもとに、国際連盟事務次長(1920~26年)あるいは太平洋問題調査会理事長(1923~33年)として、国際理解と世界平和のために活躍した。1933年(昭和8年)、カナダで開かれた太平洋会議に出席したあと、病を得て同年、同地で死去した。日本における農政学、植民政策論の先駆者で、最初の農学博士として著名だ。

 新渡戸は英語で『武士道(Bushido)』を書いた。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるのだが、彼はこの本を通して未開の野蛮国と見られていた日本にも“武士道”という優れた精神があることを世界の人々に紹介したのだ。その結果、新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡った。

 日本国内でも『武士道』が邦訳されて発売されると、たちまちベストセラーになった。それは、明治維新後、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えるものだったからだ。

 ただ、ここで表現されている「武士道」は江戸期までの「武士」の時代に、武士階級の内に自覚され形成された「武士道」と同じではない。あくまでも明治期の一文化人が欧米の習俗に触れ、その基盤となっているものを掴んだと信じたうえで、自己の「道徳性(モラリティ)」の深層を形作っている幼少時の教養の素地を再咀嚼(そしゃく)したうえで、これを「武士道」として構成したものだ。それは明治人の気骨の一面をよく掴んでおり、その後の日本の文化人の心性をある面で代表している。
 主な著書に『農業本論』(1898年)、『武士道』(1900年)、『修養』(1911年)などがある。

(参考資料)

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