鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

 サントリーの創業者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)はブドウ酒の輸入販売から始め、日本人の口に合う甘味ワインの製造・販売に成功、国産ウイスキーづくりに挑んだ。そして苦難を乗り越えて、国産の洋酒を日本に広く根付かせた人物だ。社風をうまく表現した、部下への指示は「やってみなはれ」。自らもチャレンジ精神こそ企業活力の源泉であることを体現してみせた。鳥井信治郎の生没年は1879(明治12)~1962年(昭和37年)。

 鳥井信治郎は大阪市東区(現在の大阪市中央区)釣鐘(つりがね)町で両替商、父・忠兵衛、母・こまの二男として生まれた。忠兵衛40歳、母・こま29歳のときの子だ。10歳年長の兄・喜蔵(長男)、6歳上の姉・ゑん(長女)、3歳上のせつ(二女)の兄姉があり、彼はその末っ子だった。父は早く歿しており、彼は80歳まで生き周囲の人に豊かな愛情を注いだ母親に育てられた。

 信治郎は1887年(明治20年)、大阪市東区(現在の大阪市中央区)島町の北大江小学校へ入学。小学校を卒業した彼は、北区梅田出入橋の大阪商業学校へ入り、そこに1~2年在学した後、1892年(明治25年)、数え年14歳で親の家を出て、道修(どしょう)町の薬種問屋、小西儀助商店に丁稚奉公に出た。薬種問屋は旧幕時代までは、草根木皮の漢方薬だけ商っていたが、明治になると洋薬を多く輸入し、ブドウ酒、ブランデー、ウイスキーなどの洋酒も扱っていた。

 信治郎はこの店に数年いるうちに、時代の先端をいく新感覚を身につけるとともに、洋酒の知識を深めることができた。後年、彼が日本におけるウイスキー醸造業の開拓者となる素地は、この店でつくられたのだ。小西儀助商店で3~4年働いた後、彼は博労(ばくろう)町の絵具、染料問屋の小西勘之助商店へ移った。この店でも3年、合わせて7年ほどの徒弟時代を終えて、西区靭中通2丁目で1899年(明治32年)、鳥井商店を開業し、ブドウ酒の製造販売を始めた。数え年21歳のときのことだ。この年、父・忠兵衛が亡くなった。

 信治郎は、1906年(明治39年)には鳥井商店を寿屋洋酒店に店名を変更した。翌年には「赤玉ポートワイン」を発売した。1923年(大正12年)にはわが国初の美人ヌードポスターを発表、大きな反響を呼んだ。翌年には大阪府・島本町に山崎にウイスキー工場をつくった。木津川、桂川、宇治川の三つが合流し、霧が発生しやすい点が、スコッチウイスキーのふるさとに似ていた。竹林の下から良質の水も湧き出ていた。1926年(大正15年)には喫煙家用歯磨き「スモカ」を発売した。

 寿屋が初めてビール事業に進出したのは1928年(昭和3年)のことだ。横浜市鶴見区で売りに出ていたビール工場を101万円で買収。新市場に打って出たのだ。当時のビール業界は4社の寡占。価格も大瓶1本33銭と決まっていた。寿屋はそこに1本29銭でなぐり込みをかけ、さらに25銭まで値下げした。こんな大阪商人の思い切った安値攻勢に手を焼いた麒麟麦酒は、寿屋が他社の空き瓶にビールを詰め、自社の「オラガビール」のラベルを貼って出荷している点に着目し、商標侵害だと提訴した。麒麟は「ビール瓶を井戸水で冷やす際にラベルがはがれ、元の商標が表に出る」と主張。寿屋は敗北した。

 寿屋のビール工場は1カ所だけ。自社瓶しか使えないと、空き瓶の回収に膨大な手間とコストがかかる。負けず嫌いの信治郎は、ガラス研削用のグラインダーを20台導入した。他者の空き瓶から商標部分を削り取るためで、彼の執念の強さを感じることができる。そこまで手をかけたビール工場も1934年(昭和9年)、売却せざるを得なくなった。2年前には好調だった喫煙家用歯磨き事業を売却していたが、同時並行で進めていたウイスキー事業が難航し、資金繰りが逼迫してきたからだ。普通の経営者なら、追い詰められたとき、現金収入のあるビール事業や歯磨き事業を残し、メドが立たないウイスキー事業を整理していたはずだ。だが、そうしなかった信治郎のこだわりが、サントリーの歴史を運命付けたのだ。

 話は前後するが、信治郎がウイスキー事業への進出を決めた1920年代前半、信治郎は全役員の反対に遭った。そのころ英国以外でウイスキーをつくる計画は、荒唐無稽と思われていた。仕込みから商品化まで何年もかかるうえ、きちんとした製品になる保証はないからだ。「赤玉ポートワイン」の販売で得た利益をつぎ込みたいという信治郎に対し、将来ものになるかどうか分からない仕事に全資本をかけることはできない-と反対の合唱だった。ところが、信治郎は反対の声を聞けば聞くほど、事業家意欲を燃やし、「誰もできない事業だから、やる価値がある」と意思を貫き通したのだ。これがサントリーに流れ続けるベンチャー精神の源泉となった。

 創業者・信治郎は“やってみなはれ”を信条としていた。そして、その後継者・佐治敬三は“やらせてみなはれ”を信条とした。「やらせてみなければ人は育たない」。それはいわば、男の向こう傷は仕方がないということで、積極的に飛び出せば何かトラブルが起こる。しかし、何もしないで自滅するよりはいいじゃないかということでもあった。彼はさらに、経営の知恵はつまずき、考え、学び、迷うことの繰り返しの中から生まれてくる。明日の道は、今日の失敗と挑戦が創り出すものだと説いている。信治郎に始まるサントリーの社業の歴史には、こうしたチャレンジ精神が色濃く息づいている。

(参考資料)杉森久英「美酒一代 鳥井信治郎伝」、邦光史郎「やってみなはれ 芳醇な樽」、佐高 信「逃げない経営者たち 日本のエクセレントリーダー30人」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 鳥井信治郎」

 

大石内蔵助 日頃は凡庸だったが、危機に真価を発揮した忠臣蔵のリーダー

大石内蔵助 日頃は凡庸だったが、危機に真価を発揮した忠臣蔵のリーダー

 大石内蔵助(くらのすけ)は播州赤穂藩の筆頭家老で、周知の通り、江戸・元禄時代、赤穂浪士四十七士を束ねて、吉良邸へ討ち入り、上野介の首級を上げ、主君・浅野内匠頭長矩の無念を晴らした、いわゆる「忠臣蔵」の見事な統率力あるリーダーであり、智将だ。赤穂四十七士と称されるが、1700年(元禄13年)3月、江戸城松之廊下の変事の急報が赤穂藩にもたらされたとき、復仇を誓った同志は122人もいた。その過半が脱落した末の一挙だ。お家断絶に伴い、禄を離れ、生活に困窮した同志を扶助し、急進派の暴発を抑えながら、とにかく五十名近くを率いて大事に臨み、成し遂げた。それは並大抵のことではなかったろう。

 大石内蔵助は大石良昭の長男として生まれた。幼名は松之丞、諱は良雄。渾名は昼行燈。内蔵助の生没年は1659(万治2)~1703年(元禄16年)。そもそも大石家は、平将門を討った藤原秀郷の子孫と伝えられ、その一族が近江国栗太郡大石庄の下司職になったので、その地名をとって大石を名乗るようになったのだという。また、主君浅野家と大石家とは深い婚姻・養子の関係で繋がっている。そのため、大石家は浅野家唯一の譜代家老(代々家老となる家柄)であり、出自の良さも合わせて赤穂藩において特別な地位を占めていたのだ。

 大石内蔵助良雄は1673年(延宝元年)、父・良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽の養子となった。また、この年に元服して喜内(きない)と称するようになった。1677年(延宝5年)、良雄が19歳のとき祖父・良欽が死去し、その遺領1500石と「内蔵助」の通称を受け継いだ。また、赤穂藩の家老見習いになり、大叔父の良重の後見を受けた。1679年(延宝7年)、21歳のとき正式に筆頭家老となった。1683年(天和3年)、良雄の後見をしていた良重も世を去り、いよいよ独立しなければならなくなった。

 それにしても20代半ばまで、そして平時における内蔵助は家格の割に凡庸で、「昼行燈(ひるあんどん)」と渾名されていたことは有名だ。秀でた部分がみえなかった。したがって、藩政は老練で財務に長けた家老・大野知房が牛耳っていたと思われる。筆頭家老とは名ばかりだった。そんな内蔵助に自覚を促し、精神的に自立させたのはやはり身を固め家庭を持ったことだった。1686年(貞享4年)、豊岡藩・京極家筆頭家老、石束毎公の娘、りく(18歳)と結婚。1688年(元禄元年)長男・松之丞(後の主税良金=ちからよしかね)、1690年(元禄3年)長女・くう、1691年(元禄4年)には次男・吉之進(吉千代とも)が生まれている。そして、内蔵助は1693年(元禄6年)京都の伊藤仁斎に入門して儒学を学んだという。

 皮肉なことに、内蔵助が紛れもなく世間の耳目を集めたのは、赤穂藩取り潰し後の藩札引き替えなどの残務整理と城明け渡しの際にみせた手際の良さだった。要するに、ふだんは茫洋として、才子ぶったところをみせることは全くなく、危機に際して真価を発揮するタイプの人物だったのだ。

 大石内蔵助が1702年(元禄15年)、江戸に入り、討ち入り決行の20日前に在京の旧知の僧に宛てた書状に、次の歌がある。

 「とふ人とかたること葉のなかりせば 身は武蔵野の露と答へん」

 深みと重みがあり、冷徹な分析能力、洞察力、そして慎重かつ豪胆な行動で事を成した内蔵助の人物像にふさわしい歌だ。

 内蔵助の辞世として一般的に伝えられているものは、上記の決行20日前に詠んだものとは明らかに違う。次の歌がそれだ。

 「あな楽し思ひは霽(は)るる身は捨つる 浮き世の月に翳(かげ)る雲なし」

 赤穂浪士や忠臣蔵に関する近年の評伝や文学作品には、内蔵助の軽妙さや、洒脱な側面に光を当てて描くものが多い。そんな内蔵助の人物イメージに、この辞世は合致している。だが、本来の内蔵助の心情に照らして熟慮すれば、やはり上記の歌が符合する。

(参考資料)井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代 江戸転換期の群像」

大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

 大原孫三郎は、倉敷を拠点に倉敷紡績、倉敷銀行、倉敷電灯(後の中国電力)など数々の事業を育て上げた人物だ。その一方で、学術、美術など様々な社会事業に先鞭をつけ、一貫してその財を人に投じた。それは生きた金となって、今日なお社会に大原美術館をはじめ2つの大企業(倉敷紡績、クラレ)、7つの研究所(大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、大原農業研究所など)、倉敷中央病院が残され、いまも社会に貢献している。大原孫三郎の生没年は1880(明治13)~1943年(昭和18年)。

 倉敷という街は、大原孫三郎がいなければごく普通の地方の中都市に終わっただろう。一例を挙げると、孫三郎が画家・児島虎次郎に命じて印象派の名画を買い集め、大原美術館をつくった。倉敷の持つその文化性のお陰で、この街は空襲を免れているのだ。また、こんな逸話がある。明治40年、岡山に師団が設けられ倉敷にも連隊が置かれることになった。日露戦争直後、軍国主義のみなぎる時代、街を挙げて快哉を叫ぶはずだ。連隊を置けばカネが落ち、消費が活発になる。いまならGDP換算いくらくらいと、そのあたりの研究所が試算するだろう。経済的にみてこんなおいしい話を、当時まだ30歳に満たぬ孫三郎が先頭に立って反対したのだ。理由は「風紀が乱れる」ということだった。倉敷紡績は若い女子工員を大勢雇用している。若い男と女が集まれば…というわけだ。いずれにしても、倉敷は軍都を免れ、空襲にも遭わず廃墟とならずに済んだ。

 大原孫三郎は、岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は文久年間、村の庄屋を務め、明治中ごろで所有田畑約800町歩の大地主となった豪家だった。二人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。1902年(明治35年)、21歳で父・孝四郎の経営する倉敷紡績に入った孫三郎が、真っ先に手を着けたのは1000人を超す女子工員の労働環境改善だった。1888年(明治21年)の工場開設以来、少女らは12時間交代の徹夜労働を強いられていた。2階建ての大部屋に閉じ込められ、万年床で寝起きする毎日。伝染病の集団感染も起きた。

 孫三郎は、こうした劣悪な環境で睡魔と闘いながら働く従業員の幸福を保証してこそ、事業の繁栄があると考えた。そこで、幹部の反対を押し切り、敷地を購入し平屋の「家族式寄宿舎」を建設した。後にJR倉敷駅の北側に新しく、孫三郎自身が設計した、2棟が向かい合って中庭を持つ「分散式寄宿舎」のある万寿工場をつくっている。孫三郎はまた「飯場(はんば)制度」も廃止した。請負業者が炊事一切、日用品の販売を仕切り、工員の口入れ手数料などでピンハネ商売などが行われていたからだ。こうした工場内で隠然とした力を持つ業者を締め出したのだ。外出や面会を見張る守衛もやめた。細井和喜蔵の『女工哀史』が出版される10年も前の改革だった。

 孫三郎の生家は倉敷一の大地主。何不自由なく育った。が、生来の癇(かん)性と病弱で学校に馴染めず、いじめに遭って、不登校を決め込んだこともあった。東京に遊学するが、勉強に身が入らない。富豪の息子に悪友が群がった。高利貸から借りた金で吉原通いの生活。こうして放蕩息子の借財は利息も合わせて1万5000円に上ったという。今なら億単位の金額だ。

 こうした破天荒で度外れた放蕩生活が実家に知れ、父に1901年(明治34年)在学中の東京専門学校(後の早稲田大学)を中退のうえ、倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。しかし、孫三郎はこの謹慎を機に生まれ変わり、この後、既述した様々な近代的かつ先進的な事業経営に乗り出していくのだ。

(参考資料)城山三郎「わしの眼は10年先が見える 大原孫三郎の生涯」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 大原孫三郎」

秋山好古 日露戦争で世界最強のコサック騎兵団を破る快挙を成し遂げる

秋山好古 日露戦争で世界最強のコサック騎兵団を破る快挙を成し遂げる

 秋山好古(あきやまよしふる)は明治維新後、軍隊の近代化推進の一環として騎兵隊の養成を担い、徹底的な研究と努力で、当時世界最弱と笑われていた日本陸軍騎兵隊を鍛え上げた。その結果、日露戦争最後の陸の決戦、奉天会戦で当時、世界最強を誇ったロシア・コサック騎兵団を破る快挙を成し遂げた、「日本騎兵隊の父」といわれる人物だ。

 秋山好古は伊予国松山城下(現在の愛媛県松山市歩行町)で、松山藩士・秋山久敬を父に、母・貞との三男として生まれた。好古の名前の由来は論語の一節、「信而好古」から。幼名は信三郎。陸軍大将、従二位を叙任された。戦前、圧倒的に不利とみられていた日露戦争(1904~1905年)の日本海海戦で、連合艦隊の作戦参謀として「丁字戦法」を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之(海軍中将)は10歳年下の実弟(五男)。好古の生没年は1859(安政6)~1930年(昭和5年)。

 秋山家は伊予の豪族・河野氏の出で、好古の七代前の秋山久信が伊予松山・久松家に仕えた。足軽よりも一階級上の位で、家禄10石ほどの下級武士(徒士=かち=身分)だった。好古は松山藩では正岡子規の叔父にあたる加藤恒忠と並ぶ秀才だった。好古は藩校・明教館に入学し、家計を支えつつ学んだ。17歳で単身大阪に出て、年齢を偽り、師範学校の試験を受け合格した。卒業後、教員となり、名古屋にあった県立師範学校(現在の愛知教育大学)の付属小学校に勤めることになった好古は、この学校に誘ってくれた松山藩の先輩、和久正辰より「月謝だけでなく生活費がただで、小遣いまでくれる学校がある」と勧められ、身を任せるまま陸軍士官学校に入校した。そして、陸軍大学校へと進み、1887年(明治20年)から3年間、フランスに留学し、ここで騎兵戦術を習得した。乗馬学校校長・騎兵監などを歴任し、騎兵科の確立に尽力した。

 日清戦争では騎兵第一大隊長(第二軍、第一師団)として出征、金州、旅順を攻略。北上しながら転戦を重ねた。北清事変では第五師団の兵站監として出征、乱の平定後に清国駐屯軍司令官として勤務した。日露戦争では騎兵第一旅団長(第二軍)として出征、緒戦から偵察、側面援護と力戦し、ロシアのコサック騎兵の突撃を阻止した。とくに沙河会戦後の黒溝台の会戦では、全軍の最左翼・黒溝台方面約30kmを固めた秋山支隊にロシア第二軍主力が全力を挙げ反撃を加えるが、10万のロシア軍を相手にわずか8000人で死守するという鉄壁さをみせた。「日露戦争の最大の危機」といわれた同会戦を勝利に導いた戦功は大きい。

 1913年(大正2年)、第十三師団長、1915年近衛師団長。1916年朝鮮駐箚(ちゅうさつ)軍司令官。1920年教育総監を務めたが、晩年は軍を離れ、郷里松山の北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)校長に就任した。

(参考資料)司馬遼太郎「坂の上の雲」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」、生出 寿「智将 秋山真之」、吉村 昭「海の史劇」

渋川春海 日本人最初の暦「貞享暦」をつくった日本初の国産暦の生みの親

渋川春海 日本人最初の暦「貞享暦」をつくった日本初の国産暦の生みの親

 渋川春海は江戸時代前期の天文歴学者で、囲碁博士であり、神道家だ。江戸幕府の初代天文方を務め、1684年(貞享元年)「貞享暦(じょうきょうれき)」を作成、これが後の太陰暦の基となった。その意味で、彼はいわば日本初の国産暦の生みの親だ。渋川春海の生没年は1639(寛永16)~1715年(宝永5年)。

 渋川春海は、江戸幕府碁方の安井家、一世・安井算哲の長子として京都・四条室町で生まれた。幼名は六蔵、のち父の名を継ぎ算哲と称した。諱は都翁(つつち)、字は春海、順正(のぶまさ)、通称は助左衛門、号は新藘(しんろ)。姓は安井から保井、さらに出身地にちなんで渋川と改姓した。1652年(慶安5年)父の死に伴って、二世・安井算哲となったが、当時まだ13歳だったため、碁方の安井家は一世・算哲の養子、算知に引き継がれており、彼は保井姓を名乗ることになった。

 保井算哲は幼少時から学芸百般に才能を発揮し、碁を算知に学んで、江戸においては池田昌意から数学と暦法、京都では山崎闇斎に垂加神道、岡野井玄貞に天文学と暦法、土御門泰福に暦法と陰陽道をそれぞれ学んだ。これにより、彼は21歳のころには学者として諸国に知れ渡る存在となって、徳川光圀、保科正之、柳沢吉保の寵遇を受けたという。1659年(万治2年)、碁方の算知の力に預かったとみられるが、彼は20歳で御城碁に初出仕して本因坊道悦に黒番四目勝ち。その結果その後、25年間碁士を務めることになった。そして、その後、彼は人生の転機を迎える。その経緯はこうだ。

 それは霊元天皇が土御門泰福に改暦を命じたことに始まる。土御門泰福は既述の通り、算哲(春海)が暦法と陰陽道を学んだ師だ。そこから、様々な事情や経緯はあったが、結論としては1684年(貞享元年)、算哲の手になる日本人最初の暦「貞享暦」が採用されたのだ。このことが、算哲のその後の運命を大きく転換させた。「貞享暦」の採用により、算哲は碁方から天文方に移り、新規召し抱え250石の禄を受け、渋川春海を名乗った。その後、渋川家は天文方として代々続き、碁方としての安井家は算知の系統で栄えていった。

 ところで、当時の日本の暦事情はどうだったのか。江戸時代の暦は月を中心とし、1年を12カ月か13カ月とした「太陰太陽暦」だった。この暦では新月の日が月初の1日(ついたち)にあたる。そこで、日食は必ず1日に起こらなければならず、それに失敗すると、時の幕府の権威が失くなってしまうというわけだ。そのため、戦乱の時代から世の中が落ち着くと、暦に関心が持たれるようになる。当時、平安時代から使用されていた「宣明暦」による日食の予報は外れることがおおかったようだ。

 そこで、当時盛んだった和算の視点から暦の検討が行われるようになった。1673年、春海は「授持暦」で改暦を行うことを上奏したが、運悪く1675年の日食は授時暦では当たらず、宣明暦では当たったのだ。このため、改暦は却下された。だが、春海は自ら太陽高度や星の位置を測り、前回の日食の予報の失敗の原因が、中国と日本の経度の差にあること突き止めた。そして、独自の方法で授時暦に改良を加えた「大和暦」をつくり、1683年に再び上奏した。しかし、これも採用されず、衆議は明の「大統暦」の採用となった。

 春海の改暦運動は行き詰まった。だが、まだ道は残されていた。彼は囲碁方として幕府に仕えていたため、そのお勤めの中で会津の保科正之、水戸光圀など有力者と知り合っていたのだ。この強力な人脈が春海に味方した。保科正之や水戸光圀らは春海の改暦運動を後押し、明の大統暦と大和暦の優劣を天測で競うことになったのだ。結局ここで大和暦の優秀さが証明され、1684年(貞享元年)、大和暦(=「貞享暦」)が採用されることに決定、1685年(貞享2年)から施行されたというわけだ。

(参考資料)冲方 丁(うぶかた とう)「天地明察」

吉田兼好 出家、隠棲後、二条派の歌人としての活動が顕著に

吉田兼好 出家、隠棲後、二条派の歌人としての活動が顕著に

 随筆『徒然草』で知られる吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した歌人・随筆家だ。後宇多上皇には北面の武士として仕え、厚遇を得たが、上皇の崩御後、30歳で出家した。生没年は不詳。生年は1283年(弘安6年)ごろ、没年は1352年(天和元年/正平7年)以後。

 吉田兼好の本姓は卜部(うらべ)氏という。神祇を司(つかさど)る家系で、中臣氏の流れである9世紀半ばの卜部平麻呂を祖とする下級貴族だ。卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれた。兼好は吉田家の系統だったことから江戸時代以降、吉田兼好と通称されるようになったもの。したがって、当時の文書には「卜部兼好(うらべかねよし)」と自書している。出家したことから、兼好法師とも呼ばれた。

 父の兼顕は治部少輔で、内大臣・堀川具守(とももり)の家司を務めていた。そのため、兼好は20歳前後に、具守の娘・基子(西華門院)が国母となった第九十四代・後二条天皇の蔵人として官歴を始めている。ところが、彼は1308年(徳治3年)の後二条天皇崩御が契機となったのか、争いを避ける意味もあったのか、1313年(正和2年)までには出家し、洛北・修学院、さらには比叡山の横川(よかわ)に隠棲の身となったのだ。兼好の出家、隠棲時の生活ぶりについては詳しくは分からない。仏道修行に励むかたわら、和歌に精進した様子などが自著には記されているのだが…。鎌倉には少なくとも2度訪問・滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で、後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。

 室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。また、晩年は当時の足利幕府の執事・高師直に接近したとされ、『太平記』にその恋文を代筆したとの記述がある。皮肉にも兼好は出家、隠棲後、当時隆盛を誇っていた二条派の歌人として、その活動が顕著になった。後二条天皇の皇子で、後醍醐天皇の皇太子となった邦良(くによし)親王の歌会への出詠も多く、頓阿(とんあ)などとともに、二条為世門の四天王といわれたこともあった。その和歌は『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』『風雅和歌集』に計18首が収められている。

「夕なぎは波こそ見えねはるばると 沖のかもめの立居のみして」

 これは1318年(文保2年)ごろ、関東へ下向した折の作だ。横浜市の金沢文庫には兼好自身の墨跡が現存しているが、この用向きは鎌倉幕府の何事かを内偵することだったという説がある。出家の身でありながら、なにやら生臭いことにも関わっていたのかとの思いもする。いずれにしても、これは相模湾と思われる海を見て詠んだものだ。夕なぎに静かな、平らかな広がりを見せる海、沖合い遥かに、鴎のみが水面に浮かび、また飛び立つさまが悠揚せまらぬ調べで描かれている。灼熱の日差しも、思い起こす記憶にとどまるだけになった晩夏に特有の、ある種のもの憂さ、そしてもの悲しさを感じさせて、現代にも通じる秀逸な叙景だ。

 「さわらびのもゆる山辺をきて見れば 消えし煙の跡ぞかなしき」

 これは1316年(正和5年)に没した旧主・堀川具守を弔った岩倉の山荘を再訪した際、詠んだものだ。芽を出した早蕨を見るにつけても、亡き人が偲ばれる様子を、その早蕨とともに旧知の女官・延政門院一条に贈ったもの。掛詞、縁語を駆使した技巧がうかがえる。

 「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

 有名なこの序文で始まる『徒然草』は、鴨長明の『方丈記』、清少納言の『枕草子』と並んで三大随筆の一つとして、いまも多くの人々に読まれている文学だ。243段に分かれ、自然・人生の様々な事象を豊富な学識をもって自由に記したものだ。文体も記事文、叙事文、説明文、議論文と多様で、古来名文として定評がある。全体に懐古趣味・無常観が流れている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、梅原 猛「百人一語」