「山・鉾・屋台」の全国33巡行行事が無形文化遺産登録
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は11月30日、エチオピアで開いた政府間委員会で、全国33件の日本の祭りで構成する「山・鉾・屋台行事」を無形文化遺産に登録した。このうち、「京都祇園祭の山鉾巡行」(京都府)と「日立風流物」(茨城県日立市)は2009年に無形文化遺産登録されていたが、政府は今回、同じ特徴を持つ祭礼行事をまとめ一つのグループとして文化遺産申請することで、登録対象を広げた。
後期難波宮の「官衙」など役所建物群跡見つかる
大阪市教育委員会は11月30日、奈良時代、726年に聖武天皇が造営した後期難波宮(大阪市中央区)で、役人が文書処理など執務した役所「官衙」とみられる建物群の跡が見つかったと発表した。
官衙跡は、7世紀中ごろの飛鳥時代、孝徳天皇によって整備された前期難波宮では発見されていたが、後期難波宮で確認されたのは初めて。
発掘現場は、天皇が重要儀式や執務をした大極殿など主要建物群の西側。塀とみられる柱穴で仕切られた区域に、4棟の掘っ立て柱式建物群が見つかり、うち2つは官衙によくみられる細長い建物だった。
官衙跡のすぐ北側には東西に一直線に並ぶ11個の柱穴を発見。天皇が出入りするような格式の高い門を構えた「五間門区画」の一部とみられ、南北約200㍍、東西約120㍍以上の大規模施設があったことも判明した。
現地説明会は12月3日、13時~15時。
大宰府守る7世紀の大規模土塁発見 福岡県筑紫野市丘陵
福岡県筑紫野市教育委員会は11月28日、同市の丘陵上で長さ500㍍に及ぶ大規模な7世紀の土塁が見つかったと発表した。
古代、九州を統括し、朝鮮半島からやって来る諸外国に対する、国家外交の最前線だった大宰府を守る防塁とみられる。同市教委は「大宰府都城の外郭線」とみており、未確認の広大な防衛ラインが敷かれていた可能性が出てきた。丘陵上の土塁の確認は今回が初めて。
現場は、政治の中枢だった大宰府政庁跡(太宰府市)から南東約7㌔㍍の前畑遺跡。土塁は土を盛って壁のようにめぐらせた防御施設で、高さ約1.5㍍、下部の幅は約13.5㍍。2段構造で東側が急斜面になっている。標高49~61㍍の尾根をほぼ南北方向に約500㍍(残存部分390㍍)にわたって走る。土を何度も突き固める版築工法で造られていた。
遺跡から探る災害復興 高知で「発掘された日本列島」
高知県南国市岡豊町の高知県立歴史民俗資料館で開催中の特別展「発掘された日本列島2016」で、災害復興をテーマにした展示が行われている。火山噴火や大地震、洪水など災害に見舞われた地域がいかに復興したかを遺跡から探る。東日本大震災後の道路整備や高台移転に際して、東北3県で実施された発掘調査の成果も紹介している。展示は12月18日まで。
近年発掘された注目の全国36施設約750点の出土品を展示する企画展では、特別展として災害復興の痕跡が確認された旧石器~江戸時代の7遺跡のパネルや遺物が並ぶ。
圧巻は福島県相馬市の段ノ原B遺跡で見つかった約6,000年前の大地震に伴う地割れの痕跡。竪穴住居が並ぶ高台の縄文集落を分断する長さ92㍍、幅2~6㍍、深さ0.2~2.5㍍の溝状の亀裂だ。溝からは約4,600点の土器や石器が出土し、地震で破損した土器や倒壊した家屋の廃材などのがれきの処理が行われていたことが分かった。遺跡は竪穴102棟が見つかった大集落で、被災後も住民は集落を放棄せず、暮らし続けることを選んだとみられている。
このほか、弥生時代に洪水の土砂で集落が埋まり、丘陵上に”高台移転”したことが分かる玉津田中遺跡(兵庫県)や、富士山の宝永大噴火(1707年)後に積もった火山灰を埋め、耕作土を掘り起こして畑を復旧した「天地返し」の痕跡が確認できる横野山王原遺跡(神奈川県)などが紹介されている。また、東日本大震災後の災害復興工事に伴って発掘された7遺跡についても紹介している。
豊橋・西側北遺跡で国内最古級の竪穴建物跡を確認
愛知県豊橋市の文化財センターは11月22日、同市牛川町で見つかった「西側北遺跡」で、縄文時代草創期(約1万1,000年前)の日本最古級の竪穴建物の跡が確認されたと発表した。当時の人々の生活を知る貴重な手掛かりになるとみられる。
同センターによると、建物の跡は卵形で長径が約3.5㍍、短径が約3㍍で、中央部分が浅いすり鉢状にへこんでいる。また、外周の壁や建物内部の柱の跡も確認。さらに約1万1,000年前の「押圧(おうあつ)縄文土器」という、縄を表面に押し付けてつくった土器も出土した。
これらが根拠となり、建物跡は約1万1,000年前のものと分かった。同種の建物は東海地方では三重県松阪市で見つかっているが、愛知県内では初めてという。11月27日午前10時半と午後1時半の2回、現地説明会がある。
箸墓古墳周辺区域「周濠」を国の史跡指定へ
邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もある奈良県桜井市の箸墓古墳で、古墳を囲む堀が残るとみられる周辺の区域が、新たに国の史跡に指定され、保存が図られることになった。
新たに史跡に指定されるのは、箸墓古墳の西側のおよそ1万5,000平方㍍の区域で、この場所には古墳を取り囲む「周濠」と呼ばれる堀が残っているとみられている。昨年、商業施設の建設計画が持ち上がったため、地元の桜井市が開発を規制しようと、史跡への指定を国に申請していたもの。同市は史跡の指定後に、商業施設の予定地を公有地として事業者から買い取ることにしている。
箸墓古墳は全長およそ290㍍の巨大な前方後円墳で、宮内庁が皇族を埋葬した「陵墓」として管理している。
秀吉築城の”幻の城”最初の伏見城の石垣見つかる
民間発掘調査団体の関西文化財調査会は11月18日、豊臣秀吉が天下統一後の1592年から築城した最初の伏見城(指月城)とみられる石垣が京都市伏見区で見つかったと発表した。
今回見つかったのは、最初の伏見城の石垣の一部とみられ、長さ14.5㍍、高さ2.8㍍。自然のままの石や加工された石が6段から7段積み上げられ、隙間が小さな石で埋められていた。また、石垣に沿って幅がおよそ20㍍とみられる堀の跡も見つかった。
この指月城は、秀吉が築いてわずか4年後に慶長伏見地震(1596年)で倒壊したことから”幻の城”ともいわれる。その後、別の場所で再建されたが、史料が少なく、詳しい位置などは分かっていない。それだけに、城の全容を知るうえで、貴重な遺構として注目されている。
秀吉の太閤検地の記録も 奈良の庄屋に伝わる古文書展
奈良県・田原本町の庄屋に伝わる古文書に、太閤検地の記録も残されている、唐古・鍵考古学ミュージアム(青垣生涯学習センター)の田原本町合併60周年記念企画展「小林家文書展-庄屋に伝わる350年の歴史」が、同ミュージアムで開かれている。11月27日まで。
小林家は同町小室で代々庄屋を務め、16世紀末から昭和まで約350年にわたる1,130点ほどの文書が残されている。これらの文書群などは、平成24年度に同町文化財に指定された。
今回の展示会では絵図9点を含む計75点の資料を公開。いずれの資料からも当時の地域の生活が垣間見える内容となっている。このうち最古のものは、天下人となった豊臣秀吉の命令で実施された太閤検地の記録。文禄4(1595)年の大和国十市郡田原本検地帳(写し)で、同家がこれをもとに年貢の徴収実務を行っていたことがうかがえる。
また、干ばつでの不作が続いた明和9(1772)年の救済米の積み増しを求める嘆願文(写し)からは、同家が村人の困窮を訴え、村人と役所の間を取り持った様子が読み取れる。
同ミュージアムの開館時間は9時~17時、月曜休館。
若冲作「果蔬涅槃図」の高精細複製画、誓願寺に奉納
世界的に知られる江戸時代の絵師、伊藤若冲が描いた水墨画「果蔬涅槃図(かそねはんず)」の高精細複製画が完成し11月14日、京都市中京区の誓願寺に奉納された。誓願寺の本堂で関係者が集まる中、完成した複製画が奉納され、法要が営まれた。
この複製画は、若冲が今年、生誕300年を迎えたことを記念して伊藤家の菩提寺である宝蔵寺が、元々所蔵されていた本山の誓願寺に納めようと作製したもの。これまで数多くの文化財の複製を手掛けてきた大手印刷会社の協力を得て作製された。
果蔬涅槃図は、伊藤家一族の冥福を祈るために描かれた作品と言われ、若冲が晩年に野菜と果物で釈迦の入滅を描いた水墨画だ。現在、京都国立博物館に所蔵されている。
この複製画は11月25~27日、京都市中京区の新京極商店街で開催される「若冲ウィーク」で一般公開される。また、実物は11月15日から京都市美術館で開かれている「若冲展」で公開されている。
大坂の陣の両軍の布陣・配置絵図初公開 舞鶴市資料館
江戸時代に田辺藩主を務めた牧野家に伝わったとされる大坂冬の陣、夏の陣の徳川、豊臣両軍の布陣を描いた絵図が、京都府舞鶴市南田辺の田辺城資料館で展示されている。
大きさは冬の陣が縦120㌢、横84㌢、夏の陣が縦127㌢、横110.5㌢。江戸時代に作成されたとみられ、大坂城や大和川など建物や地形、徳川家康や真田幸村(信繁)をはじめとした各武将の軍の配置や合戦に関する記述がみられる。
「家康との交渉が決裂し、秀頼は籠城の支度を始めた」「真田が天王寺へ出て戦い、多くの敵を討ち取った」などの内容で、戦いの流れや武将の活躍も書き込まれている。
この絵図は牧野家の分家が所有していたもので、今回が初公開。12月18日まで。9時~17時、月曜と11月24日は休館。無料。
秀吉が築いた新たな”御土居”の一部を発掘 本格土木工事
京都市埋蔵文化財研究所によると、安土桃山時代に豊臣秀吉が、周囲の外敵から守るため、当時の京を囲んで築いた”御土居”の一部が京都市北区の発掘調査で見つかった。
緩やかな段丘に盛り土した急勾配の土塁や、2例目となる地下排水溝があり、御土居の造営法を考えるうえで貴重な史料となりそうだ。
調査地は北区紫野花ノ坊町の住宅地。南北44㍍にわたって御土居が見つかった。自然の段丘の西側を4.5㍍掘り下げて堀にし、生じた土などを段丘に盛り土した跡が良好な状態で確認できた。土塁と堀はともに幅18㍍、堀の底から最も高い位置までの高低差は9㍍と推定される。
握り拳大の石を敷き詰めた長さ6㍍の地下排水溝(幅40㌢、深さ40㌢)も見つかった。この種の地下排水溝は上京区の北野天満宮境内の御土居に続いて2例目。
同研究所は「地形を生かすだけでなく、想像以上に大規模な土木工事を行っていた」とみている。
ペリー来航 実は1年前に予告されていた オランダから
黒船来航、1853年7月のペリー艦隊の浦賀沖来航は、一般には突然のことと受け止められているが、実は幕府は1年前に予告されていた。
1852年7月、長崎・出島のオランダ商館長が「別段風説書」と呼ばれる文書を長崎奉行に提出していた。毎年、オランダ領東インド政庁が海外情報を記した書面を作成し、商館長を通して幕府に渡していたもの。
そこには米国政府が日本に使節を送る計画が示されていた。予告文には、その重要性を強調するため、丸印が付けてあったという。風説書に添えてオランダ東インド総督の書簡と日蘭条約草案の抜粋もあった。
ただ、これを受けた幕府は海防関係の諸大名らと内々に対応を協議したが、財政難のため防衛強化などの施策は講じられなかった。
世界で起きた津波 70年以降は日本とスマトラ島に集中
東北大学災害科学国際研究所は、過去400年間に世界で起きた津波を分析した報告書を公開した。
同大は米国が集計している地震の記録などからマグニチュード7.5以上と推定される地震を分析し、1600年以降に発生した津波災害94例を抽出。津波の高さや到達時間、威力などを計算した。
津波の高さについては1600~1969年と、1970年以降の地図を公開した。このうち太平洋とインド洋で発生した地震を対象にした地図では、高さ2㍍超の津波が日本の太平洋沿岸や北米大陸西岸、南米チリ、インドネシア・スマトラ島などを襲い、1970年以降は日本とスマトラ島付近に集中している。
「世界津波の日」各地で慰霊・訓練『稲むらの火』世界に
2015年12月の国連総会で11月5日が「世界津波の日」に制定されて初めて迎えたこの日、日本をはじめ世界各地で被災・犠牲者の慰霊の式典や、地震や津波の発生に備え避難訓練が実施された。
「世界津波の日」は、安政南海地震で大津波が和歌山県・広川町に押し寄せた際、濱口梧陵が収穫した稲わらに火をつけ住民に知らせ、高台に逃れさせた逸話『稲むらの火』にちなんでいる。その広川町では犠牲者を悼む「津浪祭」が開かれ、参加者たちは安政の地震後につくられた堤防に土を盛った。その後、南海トラフ地震が発生し、大津波警報が発令されたとの想定で訓練が行われた。
インドネシア・アチェ州の州都バンダアチェでは、集会で『稲むらの火』の逸話が紹介され、この精神に学ぶとともに、いかに被災した事実を風化させず、後世に伝えるかなどについて話し合った。同地はスマトラ沖大津波で壊滅的な被害を受けたが、人口の流入で当時を知る人が少なくなりつつあるという。また、同地ではこれまでスマトラ沖大津波で被災した12月26日を慰霊の日としていた。また、日本人28人が死亡した津波に被災したタイ・プーケットでも慰霊式典が開かれた。
大阪・堺市では近畿地方整備局や大阪府などが主催する総合防災訓練が行われた。ヘリを使った上空からの救助やがれきの下敷きになった人の救助など、地震や災害に備えた幅広い内容で、参加者たちは真剣な表情で訓練に取り組んでいた。
このほか、4月の熊本地震を経験した熊本市の私立中学・高校でも生徒や教職員らが真剣な表情で訓練に参加していた。
『稲むらの火』は安政年間、1854年11月5日(旧暦)、安政南海地震で大津波が和歌山県有田郡広川町を襲った際、醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った梧陵(雅号)が、収穫した稲わらを燃やして知らせ、村人を高台の広八幡神社へ逃れさせ、津波から救ったとされる逸話だ。
「山・鉾・屋台行事」ユネスコの無形文化遺産へ
文化庁は10月31日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に推薦していた「山・鉾(ほこ)・屋台行事」(18府県の計33件)について、事前審査をしていた評価機関が「登録」を勧告したと発表した。同庁によると、評価機関の登録勧告が覆った例はなく、11月末~12月初めにかけてエチオピアで開かれる政府間委員会で正式に登録が決まる見通しとなった。
「山・鉾・屋台行事」では、2009年に「京都祇園祭の山鉾行事」(京都市)と「日立風流物(ふりゅうもの)」(茨城県日立市)の2件がすでに登録されている。ただ、無形文化遺産の登録数が増えるにつれ、同分野の文化財の単独登録が難しくなっているため、政府は登録済みのものの範囲を広げる形で、今回東北から九州まで16県の31件を追加した。
これにより、「高山祭の屋台行事」(岐阜県高山市)、「博多祇園山笠行事」(福岡市)、「長浜曳山祭りの曳山行事」(滋賀県長浜市)、「秩父祭の屋台行事と神楽」(埼玉県秩父市)などが登録される見込み。
真田信繁自筆の書状見つかる 九度山幽閉時の心境綴る
徳川家康の天下取り総仕上げの戦いとなった、江戸時代初期の大坂の陣(1614~15年)で壮烈な死を遂げたとされる戦国武将、真田信繁(幸村)の自筆書状の原本が発見されたことが分かった。
書状は関ケ原の戦いの後、信繁が父・昌幸とともに幽閉された和歌山・九度山から兄・信之に仕える義兄の小山田茂誠(しげまさ)に宛てた長文のもの。内容は長い九度山での配流生活で便りをくれる人が減り、自らが老いたことを嘆くなどの心境を綴っている。
NHK大河ドラマ『真田丸』の時代考証を担当している丸島和洋氏(国文学研究資料館特定研究員・慶應義塾大学非常勤講師)の著書『真田信繁の書状を読む』に掲載された写しを見た三重県の個人収集家が、古書店で発見、購入したものを鑑定した結果、自筆原本であることが確認されたもの。
これまで「写し」(原本でなく、筆写したもの)が知られていたが、原本は長らく所在不明になっていた。
北斎の肉筆画と判明”作者不明”の西洋水彩画風作品6点
オランダのライデン国立民族学博物館の調査によると、同博物館所蔵で長く作者不明とされてきた絵6点が、江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849年)の肉筆画であることが分かった。
西欧の水彩画の技法を真似た、北斎としては異色の作品。親交があった、ドイツ人医師シーボルトらから影響を受けた作品群とみられる。6点は江戸の街並みを描いた風景画。タイトルはないが、「日本橋」「両国橋」「品川」などを題材に川や人々、橋を描いている。
空を大胆により入れた構図などに西洋画の特色が表れている。長崎の商館で働いていたシーボルトは1826年、江戸に上った際、北斎らと面会したことが分かっている。
赤レンガ造りが印象的な明治の「旧奈良監獄」国の重文に
明治41年に建てられた全国の「五大監獄」一つで、赤レンガ造りの建物が残る奈良市の「旧奈良監獄」、現在の奈良少年刑務所が歴史的な価値が高いとして、国の需要文化財に指定されることになった。
刑務所としては、全国で現存する最も古い建物で、敷地を取り囲む塀や建物は、ロマネスクを基調とした重厚な赤レンガの壁で統一されている。また、受刑者が生活する5つの収容棟は看守所や事務所を中心に放射状に配置され、人の出入りを確認しやすい機能性と建物としての美しさを両立させている。当時の監獄の特徴が残る貴重な建物として評価された。
奈良少年刑務所は施設の老朽化などのため、今年度で閉鎖が決まっていて、10月20日時点でおよそ260人いる受刑者は、すべて他の刑務所に移る予定。今後、施設の運営権を民間の事業者に売却し、ホテルや博物館などへの再利用を目指している。
滋賀・稲部遺跡から大規模な鉄器工房群の遺構 巨大勢力
滋賀県彦根市教育委員会は10月17日、市内の稲部遺跡(稲部、彦富両町、推定総面積約20万平方㍍)で、弥生時代末~古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群や大規模な建物の遺構が見つかったと発表した。
同時代では他にない規模で、同市教委では「祭祀(さいし)・政治都市と工業都市の両面を持ち、巨大勢力の存在を示す」ほか、邪馬台国の時代からヤマト政権の成立期にかけて、この地域の拠点的な集落だったと推定している。大阪大学の福永伸哉教授も「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語るとともに、日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」としている。
当時、鐵製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5~5.3㍍の方形。うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石、鉄製矢じり2個なども見つかった。
100年前の横浜と日本人の暮らしぶり写した写真見つかる
1900年ごろの日本、横浜で暮らしていたドイツ人のアルバムから、横浜港と周辺の街や生活する人々を写した71枚もの写真が見つかった。
幕末、米国のペリーが浦賀沖に来航。日米和親条約を経て、1859年に開港したのが横浜港だ。徳川幕府の思惑から、当時はまだ極めて辺鄙(へんぴ)な田舎に過ぎなかった横浜が開港されたわけだ。写真はそれから40年前後経過した横浜の姿をとらえたものだ。
現在も横浜港のシンボルの一つとなっている赤レンガ倉庫も、これらの写真に映し出されている1900年ごろに建設されたといわれる。また、活気に満ちた、横浜の当時の日本人職人たちが、外国へ輸出する織物や刺繍、金属製品などをつくっている様子も写されている。
国産翡翠を初めて確認 77年前の画期的発見に”光”あてる
日本人に古から親しまれてきた緑の宝石、翡翠(ひすい)がこのほど、日本鉱物科学会の「日本の石(国石)」に選ばれた。今から77年前の1939年、国内で翡翠が採れることを突き止めたのは東北帝大(現東北大)の若き研究者、河野義礼(かわのよしのり)さん(1904~2000年)だ。
「埋もれた画期的な発見に光をあてたい」。地道に研究を重ねた鉱物学者の業績を紹介しようと、関係者はいま年内の企画展開催に向け準備中だ。
古代社会、縄文、弥生、古墳時代にかけて周知のとおり、翡翠は勾玉(まがたま)などの宝飾品として珍重され、各地の遺跡から出土している。しかし、昭和初期までは国内の産地が見つかっておらず、遺跡群から出土する翡翠はいずれもシルクロードや、中国、朝鮮半島からなど大陸から持ち込まれたものと考えられていた。
学会で支配的だったこうした説を覆したのが、東北帝大理学部助手だった河野さんだ。当時30代半ばの河野さんは新潟県糸魚川市で見つかった緑色鉱物の鑑定を依頼され、化学分析で翡翠と特定した。現地も調査し、国内で翡翠が算出することを初めて確認したという。
国内の翡翠産地発見は当時、日中戦争の混乱下であまり注目されなかったが、考古学史を塗り替えるほどインパクトのある出来事だった。
企画展は主催、会場いずれも東北大総合学術博物館。翡翠をはじめ宮城県にゆかりのある鉱物や化石を展示し、河野さんの業績を広く紹介する予定。
翡翠は国内では鳥取県、岡山県などでも算出され、海外ではミャンマーや中米が産地として有名。
平城京にペルシャ人役人が勤務していた 木簡に名前
奈良文化財研究所の調査によると、奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中ごろの木簡に、ペルシャ(現在のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが分かった。
国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果といえる。
木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。今年8月、赤外線撮影した結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録と分かった。
表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名、中国語でペルシャ人を表す「波斯(はし)」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。
藤原宮跡で旗竿の穴見つかる 律令制下の朝廷儀式で使用
奈良文化財研究所(奈文研)は9月28日、日本初の本格的な都とされる奈良県橿原市の藤原京(694~710年)の中枢部、藤原宮跡で、天皇が正月に臨んだ儀式などに使われた「幢幡(どうばん)」と呼ばれる特殊な旗竿(はたざお)を立てたとみられる7基の柱の穴が見つかったと発表した。
幢幡の数などが奈良時代の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記された大宝元(701)年の元日朝賀の記述と合致し、7世紀後半の、藤原不比等を中心に進められたといわれる律令国家形成期の歴史の一場面を、具体的に復元できる手掛かりになるとみられる。
奈文研によると、柱の穴は天皇が重要儀式の際に出御する大極殿院の南門のさらに南約11~21㍍で出土。深さ約80㌢~1㍍、柱の太さは約70㌢とみられる。宮殿の中軸線上に1基、その左右対称の位置に3基ずつ三角形に配置されていた。
国宝・金地螺鈿毛抜形太刀 異例の高純度の金を使用
春日大社(奈良市)は、平安時代の傑作として国宝に指定され春日大社に伝わる国宝の「金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)」の柄(つか)などの装飾金具の一部がきわめて純度の高い金でつくられていたことが分かったと発表した。
専門家によると、この時代の工芸品は銅や銀などにめっきする場合が多く、純度の高い、多量の金が使われるのは異例。金の使用量の多さから、強大な権力者による奉納品との見方が強まった。
太刀の長さは96.3㌢。分析依頼された奈良文化財研究所によるX線CTスキャンなどの調査から、柄や鍔(つば)、鞘(さや)の金具の一部が純金(24金)に近い22~23金とみられることが判明した。
10月1日に開館する春日大社国宝殿で展示する。10月31日まで。
江戸時代初期の様子記した文書 オランダで見つかる
徳川政権が確立する最後の戦となった「大坂の陣」(1614~15年)前後の、江戸時代初期の様子が記された文書がオランダ・ハーグの国立文書館で見つかった。同国ライデン大学と共同調査している国際日本文化研究センター(京都市)がこのほど発表した。
当時、東インド会社の拠点だった長崎の平戸オランダ商館のオランダ人関係者らが1609~1633年に作成した書簡524点や日記で、幕府高官や日本の商人から聞き取った情報などが記されている。
例えば、大坂夏の陣で大坂城が落城した直後の1615年6月11日付の報告には次のような記述がある。東インド会社の商務員ワウテルセンが平戸オランダ商館長に宛てたものだ。
「皇帝(徳川家康)、その息子(徳川秀忠)および全軍は、(豊臣)秀頼の(大坂)城を攻囲するために6月2日に大坂へ出発し同3日に到着した。(形勢不利と判断した)秀頼(軍)の数人の大名が赦免が得られると考え、皇帝側に寝返るため、城に火をつけたが、(事態が発覚し)彼らは逃げる前に秀頼(の指示)によって、その場で(城壁から)落とされて死んだ」とある。
日本人のルーツ探る草船航海、台湾発は1年延期 竹製船案
日本人のルーツを探る航海実験を進める国立科学博物館などのチームは8月27日、2017年7月に予定していた台湾発の航海を1年延期することを明らかにした。
この実験航海の目的は約3万年前、日本人の祖先がどのようにして琉球諸島へ移住したのかを検証すること。今年7月行われた航海では、草舟で沖縄県の与那国島から約75㌔㍍東の西表島を目指したが、潮流に流され、予定ルートの半分以上を伴走船に引かれる結果に終わっている。
台湾から与那国島への航海は100㌔㍍以上になるほか、黒潮を越える必要もあり、さらに難易度は高い。
東京都内で27日開かれた報告会では今後、与那国島-西表島間の再航海は行わず、台湾発の航海では草船に比べ、耐久性の高い竹を材料に検討する方針が示された。
奈良・興福寺 五重塔、三重塔を初の同時特別公開
奈良・興福寺の五重塔が6年ぶりに特別公開されている。また、例年7月7日の1日だけ公開されている三重塔も同時公開されている。2塔が同時公開されるのは初めて。いずれも初層が特別公開されている。10月10日まで。
国宝・五重塔は高さがおよそ50㍍で、奈良時代に創建された後、焼失。現在の塔は室町時代に再建されたもの。五重塔の一番下の階にあたる初層には東西南北の方面に薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が安置され荘厳な雰囲気を醸し出している。
一方、三重塔は高さ19㍍の優美な塔だ。興福寺では北円堂と並んで最も古い鎌倉時代の建物で、中に安置されている弁財天座像などが拝観できる。
剣術修行時代の龍馬の婚約者「千葉さな」改葬
幕末、江戸に出た坂本龍馬が剣術修行に通った千葉道場(道場主・千葉定吉)の娘で、当時彼の婚約者とされながら、結ばれることのなかった千葉さな(佐那)の墓が、今年で没後120年を迎えるのを機に、千葉家ゆかりの東京都練馬区の仁寿院へ改葬されることになった。
さなは戦後に千葉県松戸市にある東京都立八柱霊園の無縁塚へ合葬されていた。今回さなの妹、はまの子孫が無縁塚の土を譲り受け、命日の10月15日に法要を営む。
龍馬と結ばれなかったさなは明治維新後、横浜で元鳥取藩士と結婚したが、まもなく離縁。東京・千住へ移り住んで、1896年に58歳で亡くなったとされている。
北辰一刀流を創始した剣豪、千葉周作は父・定吉の兄で、さなにとっては伯父にあたる。
唐招提寺と凸版印刷が鑑真和上「東征伝絵巻」複製制作
奈良市の唐招提寺と凸版印刷、トッパン・フォームズは、奈良時代に中国・唐から来日し、当時の世界先進の様々な文化を伝えるとともに、同寺を開いた名僧、鑑真和上の半生を描いた「東征伝絵巻」(重要文化財)の複製を制作した。
東征伝絵巻は全5巻で、鎌倉時代に鎌倉・極楽寺の僧、忍性が描かせ、唐招提寺に奉納した。唐から5度にわたる渡海失敗を乗り越えて来日し、戒律を伝えた和上の功績を伝える貴重な絵巻として知られている。
凸版印刷が開発した文化財専用の大型オルソスキャナーを使って高精細アーカイブデータを活用し、絵巻を正確に再現。またトッパン・フォームズが福井県越前市の越前和紙メーカーと共同開発した、絵巻に適した和紙を使って最長20㍍の絵巻を、継ぎ目なく再現している。
京都・城陽の遺跡で奈良時代の役所の建物跡出土
京都府埋蔵文化財調査研究センターは8月4日、城陽市富野の芝山遺跡から、奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかったと発表した。
建物跡は同じ方向を向いていることから、当時の役所に関連する施設と考えられるという。
確認されたのは奈良時代の掘立柱建物跡7棟。Ⅰ群4棟とⅡ群3棟の2群に分けられ、群ごとに少しずれた角度で西を向いている。建物が同方向を向く統一性のある造りから、役所を構成する建物の一部か、役人の住居と推定されるという。
平城京で出土する瓦と同じ模様を持つの軒平瓦のかけらや、墓と推定される飛鳥時代の穴も見つかった。芝山遺跡は南北約840㍍、東西約950㍍。
姫路城の内堀周遊木造和船「船卸しの儀」8月デビュー
江戸時代に姫路城の内堀を往来していたとの記録が残る「木造和船」が完成、このほど古式にのっとった「船卸しの儀」が行われた。和船は8月23日に姫路城の内堀で命名式とお披露目が行われ、すでに観光客を乗せて内堀を巡る1隻目とともに周遊船として活用される予定。
製作したのは3年前の1隻目と同様、オクムラボート(姫路市的形町)。和船はスギ製で、長さ10.1㍍、幅2.1㍍、重さ1.3㌧。
今回は①1隻目の観光周遊船の利用者が増えている②和船をつくる職人の高齢化が進み、技術の伝承が必要-などから、2隻目を建造することになった。建造費は約1,000万円で、一部は文化庁からの補助も受けている。
和船の復元製作は有志らで結成された「姫路藩和船建造委員会」が中心になって進められている。
優雅に、そして豪快に 祇園祭・前祭の山鉾巡行
京都祇園祭・前祭(さきまつり)の山鉾巡行が7月17日、中心部の四条通り~河原町通りなどであった。豪華な刺しゅうが施された銅掛けや水引きなどで飾り付けられ、さながら「動く美術館」ともいわれる23基の山や鉾が、「コンチキチン」の祇園囃子(ばやし)を奏でながら都大路を優雅に、そして豪快に進んだ。
午前9時、長刀(なぎなた)鉾を先頭に四条烏丸を出発。四条河原町の交差点などで進行方向を変える豪快な「辻回し」が、威勢のいい掛け声とともに披露されると、大勢の見物客から大きな歓声が起きていた。
今年は日曜日にあたり、台風の影響で実施自体が危ぶまれた昨年より12万5,000人多い19万人(京都府警発表)が沿道を埋めた。
7月24日には後祭(あとまつり)で、残る10基の山や鉾が練り歩く。
『梁塵秘抄』「口伝集」の江戸期の写本見つかる
後白河法皇(1127~1192年)が平安時代の流行歌などを集めた歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』のうち、歌い方などを解説した「口伝(くでん)集」の巻11の江戸期の写本が見つかった。
今回見つかった写本は縦約27㌢、横約20㌢の和紙17ページに墨筆で記されている。奥書に「宗淵(そうえん)僧都(そうず)自筆也 大原勝林院秀雄大僧都所蔵」などとあり、声明道場として知られる京都・大原勝林院に江戸時代に在籍した僧侶らの名が記されている。
梁塵秘抄はの写本は一部しか残っていないうえ、天理大付属天理図書館(奈良県天理市)が所蔵する同巻の写本とは異なる記述もあり、専門家は「古典文学研究に貴重な資料」とみている。
金閣寺 敷地内から七重塔「北山大塔」部材の一部出土
京都市埋蔵文化財研究所は7月8日、巨大な仏塔の一部とみられる装飾品が、鹿苑寺(金閣寺、京都市北区)敷地内から出土したと発表した。
文献によると、室町幕府三代将軍の足利義満(1358~1408年)は、金閣寺近くに「北山大塔(だいとう)」を建立したとされ、その部材の可能性があるという。北山大塔は七重塔だったとみられる史料がほとんど残っておらず、その部材とすれば初の発見となる。
今回、最大のもので横幅37.4㌢、高さ24.6㌢、厚さ1.5㌢の青銅製破片が東側敷地で計3個見つかった。塔の屋上から突き出た「相輪」の一部で、輪を9個重ねた「九輪(くりん)」の破片とみられ、一部に金メッキが施されている。
関ケ原での小早川秀秋の寝返りに新説 決断遅れは肝疾患
豊臣氏の時代から徳川期への移行にあたり、天下分け目の戦いとなった関ケ原の戦い(1600年)の勝敗の分岐点となったとされる戦国武将、小早川秀秋が西軍から東軍へ寝返った際、決断が遅れたのは、過度の飲酒で肝疾患に病み、判断力が低下していたためだ-とするユニークな説が発表された。兵庫県姫路市御立東の脳神経外科医、若林利光さん(63)が、秀秋の当時の症状などを記した史料からまとめたもの。
若林さんは安土桃山時代から江戸時代初めに活躍し、秀秋も診た医師・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の診療録「医学天正記」の記述に注目。秀秋について「酒疸一身黄 心下堅満而痛 不飲食渇甚」(大量の飲酒による黄だん、みぞおち付近の内臓が硬く痛みがあり、飲食できずのどの渇きが激しい)の記述から、肝硬変と考えられるという。
国立国際医療研究センター肝炎情報センター(千葉県市川市)も、大量の飲酒は肝硬変の原因の一つで、「記述にある症状からは肝硬変が疑わしい」としている。
静岡大名誉教授(戦国史)の小和田哲男氏も「当時は15歳ごろからの飲酒も多く、医師の見地からはそのような解釈も成り立つのではないか」と今回のユニークな説に肯定的な見方をしている。
秀秋は、当時東軍を率いた徳川家康から寝返りを誘われていたが、開戦後もなかなか動かず、家康が怒り出すほどだったと伝えられている。
歌麿の浮世絵 史上最高値8,800万円で落札 パリ競売
AFP時事によると、フランス・パリで6月22日行われた競売で、江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿の版画が74万5,000ユーロ(約8,800万円)で落札されたことが分かった。
主催者によると、落札額は日本の木版画としても、歌麿の作品としても史上最高という。落札されたのは歌麿の連作画集「歌撰恋之部」に含まれる「深く忍恋」。
ポルティエ(Portier)家が4世代にわたって所有してきた150万ユーロ(約1億7,800万円)相当のコレクションの目玉で、落札予想価格は約10万ユーロ(約1,190万円)だった。
このほか、東洲斎写楽の谷村虎蔵の役者絵は10万1,000ユーロ(約1,200万円)、歌川国政の岩井半四郎の役者絵は7万8,680ユーロ(約930万円)でそれぞれ落札された。