大伴家持生誕1300年「家持の時代展」人間像を紹介

大伴家持生誕1300年「家持の時代展」人間像を紹介

越中国守で万葉集の代表的歌人、大伴家持(おおとものやかもち)の生誕1300年を記念した「家持の時代展」が富山県高岡市で開かれている。10月22日まで。
同展では国宝2点はじめ、重要文化財を含む貴重な歴史資料を通じて大伴家持の人間像と、桓武天皇の御世、785年、長岡京の造宮使だった藤原種継暗殺事件に連座した者として死後、告発されるなど藤原氏主導の、彼が生きた波乱に満ちた時代を紹介している。
また、家持が国守として自筆した署名のある役所の公文書などおよそ90点の資料が並び、当時の生活や文化を感じ取ることができる。
家持は746年から5年間、国守として現在の高岡市伏木で過ごし、この間に万葉集の223首を詠んだとされている。

平安後期の大型住居跡 岩手県九戸村・外久保遺跡

平安後期の大型住居跡  岩手県九戸村・外久保遺跡

岩手県・九戸村教育委員会が発掘調査を進めている同村長興寺の外久保(そとくぼ)遺跡で、平安時代後期(10世紀後半)とみられる大型の竪穴住居跡が見つかった。
面積は約72平方㍍と県北の高地性集落では最大規模。南北を崖に挟まれ、尾根をふさぐような立地も珍しく、調査関係者は「特殊な役割や仕事を担う場所だったのではないか」とみている。
同遺跡は約2700平方㍍で、近接する同村江刺家の県史跡・黒山の昔穴(むかしあな)遺跡の関連調査として7月に発掘を始めた。これまで4棟の住居跡が見つかり、大型住居跡からは鉄をつくる炉へ風を送る羽口(はぐち)や鉄器の破片などが出土。鍛冶を行っていた可能性もあるという。

雪舟の幻の水墨画「倣夏珪山水図」84年ぶり確認

雪舟の幻の水墨画「倣夏珪山水図」84年ぶり確認

山口県立美術館(山口市)は9月19日、室町時代の代表的水墨画家、雪舟の幻の作品「倣夏珪(ほうかけい)山水図」の存在が確認されたと発表した。縦約30.1㌢、横約30.8㌢のうちわ型で、山や水面には緑や青で薄く彩色も施されている。
中国・南宋期の夏珪の作品に倣(なら)い、少なくとも12点描かれ、他に6点の存在が確認されている「倣古(ほうこ)図」シリーズの1点。雪舟60歳前後作品とみられる。
1933年、当時の所有者が売りに出した記録が残り、一部で存在が知られながら、長らく所在不明で、今回84年ぶりにその存在が確認された。専門家らは、構図や力強い筆致に雪舟のオリジナリティーが感じられ、重要文化財級の作品―と話している。

藤原京「京職」など宮外に都の民政担う3カ所の役所

藤原京 「京職」など宮外に都の民政担う3カ所の役所

奈良文化財研究所の調査、研究によると、日本初の都城・藤原京(694~710年、奈良県橿原市など)の宮殿の外に、都の民政を司る左右の「京職(きょうしき)」など少なくとも3カ所の役所があったことが分かった。
これらはこれまで、天武天皇の長男、高市(たけちの)皇子など有力貴族の邸宅跡などと考えられていたが、出土した木簡や建物配置などから判明した。持統天皇の治世のもと、行政組織などが整えられた国家の出発点、藤原京の実態解明につながる成果とみられる。同研究所がまとめた「藤原京左京六条三坊」の報告書の中で明らかにした。
藤原京の宮跡(藤原宮)に近接した「左京六条三坊」で1985~87年に実施された調査で4町(4区画=約1万2200平方㍍)を占める遺構を確認。出土した木簡に「左京職」と墨書されていたことや、儀式用の広場がある建物配置などから、702年の大宝律令施行で「京職」が左右に分かれたうち左京(京の東半分)を担当する「左京職」が置かれていたと判断した。
左京職と対になる右京職は「右京七条一坊」の3町以上の敷地にあり、「左京六条一坊」には、門の護衛を司る役所「衛門府(えもんふ)」が4町の敷地に設けられていたことも木簡の調査などから分かった。

大英博物館と共同で10/6から「北斎ー富士を超えてー」

大英博物館と共同で10/6から「北斎―富士を超えて―」

あべのハルカス美術館(大阪市阿倍野区)で2017年10月6~11月19日、稀代の浮世絵師、葛飾北斎の後期の作品を集めた特別展「北斎―富士を超えて―」が開催される。これは大英博物館との国際共同プロジェクトとして挙行されるもので、本来、大英博物館でしか見られない北斎の作品が数多く展示される。
北斎はゴッホやモネらに影響を与え、とりわけ「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は「The Great Wave」として世界で最も多くの人々に知られる作品の一つだ。今回は肉筆画を中心に還暦以降の30年に焦点を当て、老いてなお貪欲に進化し続け、亡くなる90歳まで描き続けた、北斎が追い求めた世界に迫る。
開館時間は火~金曜日10時~20時、月土日曜日・祝日10時~18時。休館日は10/10、16、23、30、31日。料金は一般1500円、大学・高校生1000円、中学・小学生500円。

山本周五郎 未発表の未完小説の草稿見つかる

山本周五郎 未発表の未完小説の草稿見つかる

神奈川近代文学館によると、伊達騒動を独自の視点で描いた『樅(もみ)ノ木は残った』、『赤ひげ診療譚』、『五辯の椿』、『さぶ』などの作品で知られる作家、山本周五郎(1903~67年)が、生前に発表していない未完の小説「註文(ちゅうもん)の婿」の草稿が見つかった。
草稿は、200字詰め原稿用紙44枚に万年筆で書かれた、江戸が舞台のユーモア時代物。ストーリーは面倒な職務から逃れたい一心で、養子を迎え隠居しようと企てる藩の国家老の姿をユーモラスに描いている。
主人公が待望の余生を謳歌し始めるところで、意外なオチの予感を漂わせつつ、終わっている。評論家らは、この後を時間をかけて推敲(すいこう)し、書き込み仕上げる気持ちがあったのではないか―としている。市井に生きる庶民や名もなき流れ者などを主に描き、大衆小説作家といわれ幅広い読者層に支持されていた作家の、晩年まで自作の完成度を追求した、隠れた葛藤も伝わる貴重な資料だ。
この草稿は、9月30日に神奈川近代文学館(横浜市中区)で始まる「没後50年 山本周五郎展」で初公開される。

奈良・橿原市で夏季特別展「天武天皇 覇者の世界」

奈良・橿原市で夏季特別展「天武天皇 覇者の世界」

天皇を中心とした中央集権体制を確立したとされる天武天皇の軌跡を紹介する夏季特別展「天武天皇 覇者の世界」が、橿原市の「歴史に憩う橿原市博物館」で開かれている。飛鳥時代の建築工具や食器などの資料51点を展示している。9月18日まで。
会場では「天武の都づくり」「天皇の暮らし」「専務天皇の世界観」の3コーナーを設置。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行など天武天皇が制定したとされる律令、国史の編纂、貨幣の鋳造、藤原京(橿原市など)造営などの功績について紹介している。
古代天皇について、現在では聖徳太子が摂政を務めた推古天皇、その後の斉明天皇などと表現しているが、その当時「天皇」という言葉は存在せず、王の中の王という意味で「大王(おおきみ)」と呼ばれていた。「天皇」という称号が使われるようになったのは、天武天皇のころとされている。また、「倭国」と呼ばれていた国号も、同時期に「日本」と改められた。

「本能寺の変」後の光秀書状の原本発見 幕府再興を構想

「本能寺の変」後の光秀書状の原本発見 幕府再興を構想

三重大の藤田達生教授(日本近世史)らは、織田信長を討ち果たした明智光秀が、その「本能寺の変」の10日後に記した書状の原本を発見した。
この書状は光秀が室町幕府最後の十五代将軍、足利義昭による幕府再興を目指していたことを示す内容とされ、東京大学史料編纂所が明治22(1889)年に書状の写しを作成した後、原本は行方が分からなくなっていた。
今回見つかったのは光秀が天正10(1582)年6月12日、現在の和歌山市周辺を拠点にしていた紀州雑賀衆で反信長派のリーダー格の武将、土橋重治に宛てた密書の原本。信長により、京から追放されていた義昭の上洛に向け、その指示を受けた重治と協力するという内容が書かれている。
この密書の原本の大きさは縦11㌢、横56㌢。小さい書状をさらに細かく折りたたんでおり、使者が極秘資料として運んだことが分かるという。

鳥取藩士の文化文政期の手紙大量に発見 古屏風の下張り

鳥取藩士の文化文政期の手紙大量に発見 古屏風の下張り

鳥取市で古い屏風(びょうぶ)の下張りから、江戸・文化文政期、鳥取藩主池田家に仕えた江戸詰めの武士が妻に宛てた手紙が大量に見つかった。妻から江戸にいる夫に宛てた手紙も含まれ、確認されただけで約180枚に上る。これは参勤交代や江戸暮らしの様子を書き記した手紙で、専門家は記述の詳しさに注目している。
屏風は6曲で、下張りに明治時代の新聞が使われており、さらにその下から手紙が見つかった。これらを整理、解読した結果、約200年前に鳥取藩主が参勤交代した際、随行した城戸佐久馬という武士と妻がやり取りした手紙だと分かった。
手紙が書かれた時期は1817(文化14)年から1818(文政元)年と、1823(文政6)年から1826(文政9)年の2度の参勤交代で江戸に詰めた期間。城戸は鳥取藩八代藩主、池田斉稷(なりとし)の駕籠を警護する供侍だった。彼は随行して訪れた場所などを筆まめに様々な事柄を記していた。

熊本の断層で3000年に1度の間隔で大地震が発生

熊本の断層で3000年に1度の間隔で大地震が発生

産業技術総合研究所の研究チームは、2016年4月、熊本地震を引き起こした活断層につながり、今回は動かなかった断層区間で約3000年に1度の間隔で大地震が繰り返し起こっていたとの調査結果を発表した。
大地震が繰り返し起きていたのは熊本県益城(ましき)町から八代海に至る日奈久(ひなぐ)断層帯(約81㌔㍍)のうち、同県宇城(うき)市と芦北町の間の「日奈久区間」(約40㌔㍍)。その北東につながる「高野-白旗区間」(約16㌔㍍)が、2016年4月14日にマグニチュード(M)6.5の前震を引き起こした。
同研究所によると、日奈久区間で約1万8000年前から現在までに6回、大地震で地層がずれた痕跡を確認した。最新の痕跡は約1900~1100年前で、地震の規模はいずれもM7級の可能性があるという。

古代の造幣局全容解明へ 周防鋳銭司跡発掘調査

古代の造幣局全容解明へ 周防鋳銭司跡発掘調査

平安時代に銅銭を鋳造した山口市の鋳銭司(すぜんじ)・陶地区にある「周防鋳銭司(すおうのじゅぜんじ)跡」の発掘調査が始まった。
同所の発掘調査は1971年度以来、約45年ぶり。2020年度までの期間中、これまで調査されていない広大なエリアの発掘を進め、古代の「造幣局」の全容解明を目指す。周防鋳銭司では、古代日本で発行された12種類の銅銭「皇朝十二銭」のうち、8つが鋳造されとみられる。
1965年度、71年度の発掘で鋳造に使ったとみられる「るつぼ」などの土器や、鋳銭司長官の名が刻まれた粘土板が出土し、73年に約3万8000平方㌔㍍が国指定史跡となった。ただ、これまで発掘調査されたのは全体の5%未満で、古代造幣局に連なる様々な謎が解き明かされるのを待っている。

発掘例ない異形の埴輪 京都・五塚原古墳で出土

発掘例ない異形の埴輪 京都・五塚原古墳で出土

京都府向日市埋蔵文化財センターによると、国史跡・乙訓古墳群の一つで、古墳時代前期の前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」(向日市寺戸町)で、全国の発掘例でも類例のない形状の埴輪が見つかった。埴輪上部が球状で開口部の立ち上がりが低く「朝顔形円筒埴輪」の中で異形の特徴があった。
同センターによると、埴輪は2016年9~10月に古墳の裾部分から出土。80年以上後に築造された近隣の妙見山古墳から運ばれ、五塚原古墳の主の子孫を納めた埴輪棺とみられる。埴輪の破片約300点を接合し、高さ約66㌢・口径約20㌢に復元した結果、埴輪上部が丸みを帯びて円筒形の器台よりも膨らんでおり、立ち上がりが約1.5㌢と開口部の広がりがほぼなかった。
制作方法から朝顔形円筒埴輪に分類できるものの、同埴輪の上部は通常つぼの形にかたどられ、開口部が大きく広がるのが特徴で、今回そうした形状はみられなかったという。
こうした調査・分析結果を踏まえると、丹後地方独特とされる「丹後型円筒埴輪」に外見上の共通要素があるといい、専門家は「製作技術が乙訓地方を介して、ヤマト王権から丹後地方へ伝わった可能性を示す重要な資料」と評価している。
同センターは10月9日まで、向日市寺戸町の市文化資料館で開催中の「先祖の記憶-古墳時代の祖霊観」で、今回復元した埴輪などを展示している。

唐招提寺 鑑真ゆかりの寺に”袈裟”贈呈 1300年ぶり交流

唐招提寺 鑑真ゆかりの寺に”袈裟”贈呈1300年ぶり交流

奈良市の唐招提寺は、同寺を開いた高僧、鑑真が日本に渡る前に住職を務めていた中国・揚州市の大明寺との交流を深めようと、僧侶が身に着ける”袈裟(けさ)”を贈ることにした。唐招提寺の西山明彦長老が9月11日に大明寺を訪れ、故事にちなんで袈裟20枚を渡すという。
中国の鑑真を招聘するきっかけになったのが、贈呈した袈裟に施されていた長屋王の漢詩だ。その漢詩の意は、「国は違っても同じ天のもとで仏を信仰しよう」というもの。これを見て鑑真は、その思いを理解し、弟子を派遣するのではなく、高齢の身でありながら自分自身が海を渡る決意をし、艱難辛苦を経て来日。最終的に奈良に唐招提寺を開いたと伝えられている。
今年はその袈裟が贈られてから1300年の節目にあたるということで、唐招提寺は鑑真ゆかりの大明寺との交流を深めることになったもの。袈裟は奈良の正倉院に収められている七条袈裟を手本につくられていて、裏側には言い伝えと同様に長屋王の漢詩が金色の糸で刺繍されている。

千々石ミゲルの木棺?の一部見つかる 天正遣欧使節

千々石ミゲルの木棺?の一部見つかる 天正遣欧使節

天正遣欧使節(1582~1590年)のメンバーの一人、千々石(ちぢわ)ミゲルの墓とされる、長崎県諫早市の石碑周辺の発掘調査現場で9月1日、木棺の一部とみられる木片と金具が見つかった。別府大の田中裕介教授は、石碑は墓石でミゲルの墓であることはほぼ間違いない-としている。天正遣欧使節メンバーの墓が確認されれば初めて。
8月20日に始まった調査では、石碑の地下1.5㍍から平らな自然石を並べた3枚の「蓋(ふた)石」が出土。蓋石を外すと内部は縦約1㍍、横約0.7㍍、深さ約0.5㍍の空洞で、土の壁に埋まった状態で、取ってや留め具のような金具3点と木片が確認された。碑文などから石碑はミゲル夫妻の墓とされてきたが、これまで埋葬施設との確認はなかった。発掘調査作業は9月中旬まで行われる。
天正遣欧使節は1582年、九州の大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らのキリシタン大名が欧州に派遣した少年4人。伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノ、千々石ミゲルで、彼らは8年後に帰国したが、待っていたのは豊臣秀吉による伴天連追放令(1587年)だった。このキリシタン弾圧の嵐の中で殉教など過酷な運命をたどった。ただ唯一、ミゲルはキリシタン弾圧に遭い信仰を捨て、大村藩士を務めたとされる。しかし、その生涯の多くの部分は謎に包まれている。

国産初の金兵衛火縄銃のレプリカ 関市「鉄砲伝来展」

国産初の金兵衛火縄銃のレプリカ 関市「鉄砲伝来展」

国産初の鉄砲製造に成功した刀鍛冶、八板金兵衛清定(1502~70年)が造った火縄銃のレプリカを紹介する「鉄砲伝来展」が岐阜県関市南春日町の関鍛冶伝承館で開かれている。
金兵衛は戦国時代に美濃国関(現在の岐阜県関市)で生まれた刀鍛冶だが、種子島(現在の鹿児島県西之表市)へ移住して鉄砲鍛冶となったと伝えられる。1543年8月、種子島にポルトガル商人が乗った船が漂着し、火縄銃が日本に伝来した。このことが金兵衛の人生を大きく変えることになる。
種子島島主の種子島時尭(ときたか)は大金を払って、火縄銃を手に入れると、金兵衛に鉄砲の製造を命令し、試行錯誤を経て1545年に国産初の鉄砲が造られたとされる。
鉄砲はその後、天下統一を目指した織田信長などがいち早く合戦に取り入れ、その威力を天下に示した。そして、大阪・堺などの鉄砲鍛冶の手で改良を加えられ、戦国の世の戦のあり方や、やがてその鉄砲の調達力が歴史を変える有力な手段となっていく。

永井荷風晩年の創作ノート発見 膨大な推敲の跡

永井荷風晩年の創作ノート発見 膨大な推敲の跡

江戸文化や花柳界を題材にした作品などで知られる作家、永井荷風(1879~1959年)の晩年の創作ノート2冊が見つかった。大学ノートで2冊あり、合わせて約200㌻に鉛筆書きされている。
短編小説「吾妻(あづま)橋」や戯曲「渡鳥(わたりどり)いつかへる」など、1950~59年に発表された小説・戯曲13作品や随筆などが下書きされていた。題名や構成、そして言葉を何度も練り直した、膨大な推敲(すいこう)の跡がうかがえ、孤高の作家の創作過程を伝える貴重な資料といえそうだ。
秀明大学の川島幸希学長が2016年春、東京都内の古書店で購入し、詳細が確認された。

大宰府の大規模土塁2/3保存へ 筑紫野・前畑遺跡

大宰府の大規模土塁2/3保存へ 筑紫野・前畑遺跡

福岡県教育委員会は同県筑紫野市の前畑遺跡で見つかった7~8世紀ごろの大規模土塁について、確認された長さ約390㍍のうち約3分の2を現状のまま保存する方針を発表した。
土塁は、西鉄筑紫駅(福岡県筑紫野市)周辺で実施されている市の区画整理事業に伴う発掘調査で見つかり、丘陵の尾根に沿って確認された。発見場所では高さ1.5㍍、底部の幅13.5㍍。学術的価値が極めて高いとして、日本考古学協会(東京)が国や県などに史跡指定と保存を求めていた。
発表によると、保存するのは市が公園整備を予定する区域にある約250㍍分。残る約140㍍分は市の区画整理事業に沿って取り壊される見通し。

国内最古級の陶器製水洗便器 滋賀・東近江の古民家で

国内最古級の陶器製水洗便器 滋賀・東近江の古民家で

滋賀県東近江市五個荘竜田町の古民家で、国内最古級とみられる大正時代の大小1組の陶器製水洗便器が見つかった。商標マークから、小便器は「TOTO」の前身にあたる日本陶器が1914~17(大正3~6)年に製造したものと判明した。ただ、大便器はTOTOに資料がなく、詳細は不明だが、創成期の製品の可能性が高い。
今回便器が見つかったのは繊維製品、実用雑貨などを幅広く扱っていた近江商人、松居久右衛門の本宅。約2000平方㍍の敷地に築約250年の母屋と5棟の蔵などが並ぶ一角だ。便器は和式で、大正時代に増築された別棟に設置されており、管を通じて戸外に排水する仕組みも残っていた。

和歌刻まれた10世紀中ごろの土器出土 山梨で全国初

和歌刻まれた10世紀中ごろの土器出土 山梨で全国初

山梨県甲州市は8月25日、同市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)の平安時代のケカチ遺跡から、和歌1首が刻まれた珍しい土器が出土したと発表した。京の都の平安京文化が成熟、和歌や仮名文字が広がり始めた10世紀中ごろに作られたとみられる。
平安時代の土器は、一般には墨で地名などが書かれたものの出土例が多い。ところが、今回の出土品は焼く前の土器に文字を刻み込んでおり、甲州市教育委員会は「和歌を丸々1首刻んだ土器の発見は全国で初めて」としている。

奈良・小山田古墳で石舞台級の巨大石室?見つかる

奈良・小山田古墳で石舞台級の巨大石室?見つかる

奈良県立橿原考古学研究所は8月24日、舒明天皇や有力豪族・蘇我蝦夷の墓説がある小山田古墳(奈良県明日香村、7世紀中ごろ)で、横穴式石室の入り口部分の遺構と通路(羨道=せんどう)が見つかったと発表した。
羨道は前年度調査の延長部分で、長さは8.7㍍以上あることが分かった。日本最大級の規模を持つ石舞台古墳(奈良県明日香村)の羨道は11.7㍍で、同研究所では石舞台に並ぶ大型の石室だった可能性が高い-としている。
今回の調査ではひつぎを安置する玄室に通じる羨道の両側に壁として積まれた巨石を抜き取った穴を左右4カ所ずつ、計8カ所確認した。羨道は石舞台古墳と同じ幅の約2.6㍍で、中央には排水溝も見つかった。
小山田古墳は一辺約70㍍の方墳とされ、墳丘規模も日本最大級。現地説明会は8月26日、午前10時から午後3時まで。

正岡子規の晩年の未発表5句見つかる 自画像2点も

正岡子規の晩年の未発表5句見つかる 自画像2点も

今年生誕150年を迎えた明治期の俳人・正岡子規(1867~1902年)が死の前年の正月に詠んだ俳句5句と、自画像2点などが載った冊子「歳旦帳(さいたんちょう)」が見つかった。いずれも全集などにも掲載されたことがない、未発表のものだ。
和綴じの32㌻の冊子(縦24㌢、横26㌢)で、子規と、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)、伊藤左千夫ら弟子や友人13人が俳句や短歌、画をしたためている。正岡子規晩年の句風が分かる貴重な資料という。
子規は掲載されている8句のうち5句が新出。無署名だが筆跡や、それ以前にも似た句があることなどから、子規の句と判断された。子規の未発表句は、
寝後れて新年の鐘を聞きにけり
暗きより元朝(がんちょう)を騒く子供哉
うらうらと初日の影や枯木立
初夢や巨燵(こたつ)ふとんの暖まり
留守の戸に名刺投込む御慶かな
の5句。当時患っていた脊椎カリエスの病状はすでに重かったが、ふとんの中から感じ取った新年の朗らかな雰囲気が伝わってくるような作品だ。
このほか、前年の暮れに撮影された、有名な子規の横顔写真をもとに描いた自画像や、友人の画家・中村不折(ふせつ)が病床の子規を描いた画、伊藤左千夫の新出の短歌2首も載っている。
この歳旦帳は長い間不明で、今回「子規庵」(東京都台東区)を運営する子規庵保存会に数年前に寄託された個人の資料から見つかった

称徳天皇の離宮「由義宮」実態解明へ新たな発見

称徳天皇の離宮「由義宮」実態解明へ新たな発見

大阪府八尾市文化財調査研究会などによると、奈良時代末期の僧、道鏡ゆかりの寺とされる「由義寺(ゆげでら)」の痕跡が見つかった八尾市の遺跡で、新たに複数の建物や運河の跡とみられる穴や溝が発見された。
近くでは、当時の称徳天皇の庇護のもと、絶大な権力を誇っていた道鏡の「由義寺」の巨大な塔の基礎にあたる部分が見つかっていることから、研究者は称徳天皇の離宮「由義宮(ゆげのみや)」の実態解明につながる発見として注目している。
八尾市は現在、市の南部、東弓削地区の奈良時代の遺跡の発掘調査を進めている。その結果、今回およそ3000平方㍍の範囲を調査したところ、1辺4㍍余りの複数の建物があったとみられる直径20㌢余りの柱穴や、建設資材を運ぶのに使われていた運河の跡とみられる、幅16㍍から20㍍、深さ1㍍ほどの大きな溝-などが見つかった。
このため、研究者らは日本の歴史に記録されていながら、詳細が分かっていない由義宮の中身が明らかになる可能性があるとみている。

長岡京跡で大規模建物跡 貴族の邸宅の可能性

長岡京跡で大規模建物跡 貴族の邸宅跡の可能性

京都府長岡京市埋蔵文化財センターによると、同市長岡京跡で貴族の邸宅跡とみられる大規模な建物の跡が見つかり8月19日、考古学ファン200人余りが集まり、現地で説明会が開かれた。
説明会では今回見つかった柱の跡から推測される建物の大きさについて、南北21㍍、東西9㍍に及ぶ大きな建物であることが紹介された。また、これまでの調査で隣接する場所にも同じような建物の跡が見つかっていることから、大規模な建物を複数持つことができる有力貴族の邸宅だった可能性があるとしている。
長岡京市の小学校のグランドでは、桓武天皇が794年に平安京に遷都するまでの10年間、都をおいた長岡京の建物の跡が見つかり、今年6月から市の埋蔵文化財センターが発掘調査を続けている。

キトラ・高松塚古墳 9/23から公開 奈良・明日香村

キトラ・高松塚古墳 9/23から公開 奈良・明日香村

文化庁は8月14日、奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)の壁画のうち四神の白虎が描かれた西壁と、天井の天文図を9月23~10月22日、同村内の「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」で公開すると発表した。
四神の館の開館1年を記念し、複数の壁画を公開する。無料。定員各日700人程度、事前予約制。
また、明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)の国宝の極彩色壁画も9月23~29日まで、同村内の仮設修理施設で公開する。通路から窓ガラス越しに白虎や西壁女子群像(飛鳥美人)などを見学できる。無料。定員は各日400人程度。事前予約制。

ビルの屋上から先祖の霊送る 京都五山で送り火

ビルの屋上から先祖の霊送る 京都五山で送り火

300年以上の歴史があるとされる京都のお盆の伝統行事「京都五山送り火」が8月16日夜行われ、京都市を囲む五つの山が炎で描かれた文字と形に彩られた。
予定通り午後8時に、京都市左京区の大文字山で護摩木を組んだ火床に一斉に火が灯されると、瞬く間に「火」の文字が浮かび上がった。そして、その後は5分間隔で「妙法」、「船形」、「左大文字」、「鳥居形」の順に火が灯された。
この時間帯、京都市内ではあちこちで送り火を眺める人たちがみられた。とりわけ、五山を見渡せる、眺望に恵まれたビルの屋上から数多くの人たちが、山々に浮かび上がる、先祖の霊を送る幻想的な風景に見入っていた。

頭にとさか、飛べない鳥に似た恐竜化石 中国で出土

頭にとさか、飛べない鳥に似た恐竜化石 中国で出土

中国江西省の白亜紀(8360万~6600万年前)の地層から、現代の飛べない鳥「ヒクイドリ」に似た、頭にとさかがある恐竜の化石が見つかった。中国地質科学院や日本の北海道大などの研究チームが恐竜の新属新種に分類し、英科学誌サイエンティフィック・リポーツに発表した。
この化石はオビラプトロサウルス類で、学名はヒクイドリに似ていることなどから「コリトラプトル・ジェイコブシ」と名付けられた。全身骨格がほぼ揃い、8歳でまだ成長しきっていなかった。
ヒクイドリはダチョウやエミューのような飛べない鳥の仲間で、ニューギニアやオーストラリア北東部などの熱帯雨林に生息し、主に果実を食べていた。

五稜郭跡 戊辰戦争時の米蔵「兵糧庫」特別公開

五稜郭跡 戊辰戦争時の米蔵「兵糧庫」特別公開

北海道函館市の国指定特別史跡・五稜郭跡で、1864(元治元)年に函館奉行所の米蔵として建設された「兵糧庫」が8月31日まで特別公開されている。
この兵糧庫は1868年1月、「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに始まった、明治新政府と旧幕府軍との間で繰り広げられ1年半に及んだ「戊辰戦争」の最後の戦い(1869年5月)の場となった箱館で、戦後唯一解体を免れた建物だ。
明治新政府に対し徹底抗戦を叫び、箱館・五稜郭で新政権樹立を宣言した榎本武揚や土方歳三らが日常的にみていた、あるいは出入りしたかも知れない風景の一部といってもいい。
創建時の柱や梁(はり)が残り、実際に敷かれた木製水道管や沈没した新政府軍の軍艦の一部が展示されている。

特別展「戦国!井伊直虎から直政へ」静岡で8/14から

特別展「戦国!井伊直虎から直政へ」静岡で8/14から

大河ドラマ「おんな城主 直虎」にちなんだ特別展「戦国!井伊直虎から直政へ」が8月14日から静岡市駿河区の県立美術館で開かれる。10月12日まで。前売り券は一般1,000円、高校・大学生と70歳以上は500円。中学生以下は無料。開幕日除き月曜日休館。
特別展では、直虎ゆかりの品々をはじめ当時の井伊谷(いいのや)(現在の浜松市北区引佐町)周辺を取り巻く今川家、織田家、徳川家、武田家など戦国大名の関連資料も展示。古文書や刀剣、絵画など160点が並び、「井伊の赤備え」として知られる赤色の甲冑(かっちゅう)も間近に見ることができる。
会場は4つの章で構成される。井伊家が現在、大河ドラマで放送中の直虎の時代、今川家の配下で様々な雌伏の時代を経て、一気に戦国大名の勢力図が塗り替わり、徳川家に臣従、家康の配下として大きく飛躍し、譜代大名として彦根藩を創設するまでの過程を多くの資料で解説している。

纏向遺跡 史跡公園へ 見学者施設整備始動

纒向遺跡 史跡公園へ 見学者施設整備始動

奈良県桜井市などによると、同市の纒向(まきむく)遺跡で整備計画が本格的に動き出した。4年後には発掘調査の成果や同遺跡に関わる歴史を学べる場所を備えた史跡公園が完成する予定だ。同遺跡は、邪馬台国の最有力候補地として全国的に知られながら、これまで見学者のための施設などがなかった。
同市教育委員会は2016年3月、同遺跡と、一帯の古墳群の保存や活用を進める計画書をまとめた。遺跡中心部の旧纒向小学校跡地(約1万平方㍍)を「センターエリア」と位置付け、史跡公園を整備する構想だ。そして今年3月末にはセンターエリア整備の第1弾として、見学者用トイレが完成。今後、写真パネルや模型などの展示室やボランティアの活動拠点を備えた「ガイダンス施設」と広場を2021年度末までに完成させる計画だ。
同遺跡は3~4世紀の集落遺跡としては国内最大で、中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼(247年ごろ死去)の時代と重なる。また、関東から九州まで各地の土器が出土し、箸墓(はしはか)古墳などの前方後円墳が最初に築造された場所でもあることから、ヤマト王権の誕生の地と考えられている。
2009年には同市教委の調査で、大型建物跡が出土。「卑弥呼の宮殿」とする説が紹介され、現地説明会では2日間で1万人以上が集まった。しかし遺構は調査後、埋め戻され、現地を訪れてもこれらの成果を実感できる場所や休憩所はない。

奈良・東大寺でお盆前に恒例の「お身拭い」

奈良・東大寺でお盆前に恒例の「お身拭い」

奈良の東大寺で8月7日、恒例の「お身拭い」が行われた。お身拭いは、東大寺の大仏にきれいな姿でお盆を迎えてもらおうと、毎年8月7日に行われている。
7日は午前7時すぎから、白装束の僧侶や寺の関係者などおよそ180人が大仏殿に集まり、初めに大仏の魂を抜くための法要が行われた。この後、大仏の手のひらや膝の上などに登り、はたきやほうきでたまったほこりを払い落した後、布で全体を隅々まで磨き上げた。
高さがおよそ15㍍ある大仏の頭や肩の部分は、天井からロープでつるしたかごに乗り込んだ人たちが慎重に作業していた。

古代山陽道の遺構を確認 広島県府中市で2例目

古代山陽道の遺構を確認 広島県府中市で2例目

広島県府中市教育委員会は8月5日、同市府川町で7世紀半ば~10世紀に都と大宰府(福岡県)を結んだ古代山陽道の遺構を確認したと発表した。同市内での遺構確認は2例目。
古代山陽道は天武・持統朝以降、整備が進められ、平城京、平安京などと大宰府を結んだ古代日本の幹線道路で、各地の国府を結び、一定区間ごとに駅家(うまや)が設けられていたといわれる。

平安時代の最大級の有力貴族の邸宅跡発見 京都市

平安時代の最大級の有力貴族の邸宅跡発見 京都市

京都市埋蔵文化研究所は8月3日、同市中京区で平安京の遺構としては最大級の邸宅跡が見つかったと発表した。同研究所では当時の有力貴族の邸宅で、平安時代前期の840年ごろまでに建てられたとみている。
今回発掘されたのは柱を直接地面に埋め込む「掘立(ほったて)柱建物」など4棟の遺構。最大のものは東西約21㍍、南北約9㍍。使用人が寝泊まりや食事の準備をした「御厨(みくりや)」とみられる跡も見つかった。また、周囲からは当時の高級品だった緑釉(りょくゆう)陶器や灰釉(かいゆう)陶器が出土している。
建物の所有者は不明だが、天皇の平安宮(大内裏)から南西約800㍍と近く、敷地が1町(約120㍍)四方に及ぶことから、都に数人程度しかいなかった大納言など大臣級の三位以上の官位を持つ貴族に絞られるという。

「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産に推薦へ 文化審議会

「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産に推薦へ 文化審議会

文化庁の文化審議会は7月31日、2019年の世界文化遺産への登録を目指して、大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」を日本から推薦することを決めた。ただ、世界遺産登録に向けては、改善すべき課題も多く指摘された。
百舌鳥・古市古墳群は大阪・堺市、羽曳野市、藤井寺市にまたがる古墳群で、4世紀後半から5世紀にかけて築造され49基に上る。中でも仁徳天皇陵とされる陵墓は、全長486㍍に及ぶ前方後円墳で、世界最大級の大きさを誇る。様々な規模の古墳群があることで、日本列島における古代王権の成り立ちを表す遺跡とされている。
ただ、大阪府内でも2つの地域にまたがる古墳群を一体として見ることの説明が不十分なことや、ほかの地域の古墳群との差別化をどう図るかという点など、改善すべき課題が指摘された。

弥生中期の木製品削る「やりがんな」出土 石川県小松市

弥生中期の木製品削る「やりがんな」出土 石川県小松市

石川県埋蔵文化財センターは7月27日、同県小松市の八日市地方(ようかいちじがた)遺跡で、弥生時代中期前半(約2300年前)とみられる柄付き鉄製「やりがんな」が出土したと発表した。
やりがんなは、木製品を作る際に木の表面などを削る工具。木製の柄もある完全な形の品としては国内最古といい、センターは「鉄器が日本列島へ普及する過程を考えるうえで貴重な資料」としている。
今回出土したやりがんなの全長16.3㌢。鉄の部分(長さ5.1㌢)を柄の中に一部はさみ込んだ後、糸とテープ状にした桜の樹皮を巻いて固定。柄には斜めの格子文様が彫られ、一端はバットのグリップのような形に削り出されている。
これまでやりがんなの刃だけの出土例は北部九州などであった。やりがんなは法隆寺など飛鳥時代の寺社建築などでも使われ、室町時代に現在の台がんなが伝わるまで、宮大工の主要な大工道具だったとされる。

大津・曼陀羅山古墳群で地方豪族の墓?見つかる

大津・曼陀羅山古墳群で地方豪族の墓?見つかる

滋賀県大津市教育委員会はこのほど、100基余りの古墳からなる大津市の古墳群の発掘調査で、新たに地元の豪族の墓とみられる石室が見つかったと発表した。
大津市の真野地区の「曼陀羅山古墳群」には6世紀の古墳時代後期の墓が116基あるが、発掘調査が行われていたのは5基だけで、埋葬者など詳しいことは分かっていなかった。
大津市教育委員会が新たに直径20㌢ほどの2つの古墳を調査したところ、いずれも横穴式石室と呼ばれる石造りの埋葬施設が確認され、30余りの土器のほか、鉄製の刀のつばや矢じりなどが見つかった。こうした武器の副葬品は海外から日本に来た渡来人のものとみられる古墳群からは見つかっていないことから、同市教委では地元の豪族の墓だとみていて、未発掘の古墳群の埋葬者を考えるうえで重要な発見だとしている。

弥生期の銅剣柄飾りの土製鋳型 国内初確認 福岡

弥生期の銅剣柄飾りの土製鋳型 国内初確認 福岡

福岡県春日市教育委員会は7月25日、弥生時代の銅剣につける把頭飾(はとうしょく)柄(つか)飾りを作ったとみられる土製の鋳型が同県春日市の須玖(すぐ)タカウタ遺跡で見つかったと発表した。国内初の確認で、日本列島で金属器生産が始まった当初から、独自の高い鋳造技術を持っていたことを示すものという。
鋳型は長さ3.5㌢、幅2.6㌢、厚さ2.7㌢。弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)のもので、建物跡から見つかった。土でできており、青銅を流し込んで製品を鋳造したとみられる。
弥生時代の銅剣は権威の象徴で、朝鮮半島に由来を持つ。把頭飾は柄の先端を飾る部品で、石製と青銅製があり、青銅製は鋳型で製作した。老の原型と土の鋳型を使ったと想定されてきたが、これまで鋳型の確認例はなかった。それが今回の出土で初めて証明された。

天神祭本宮 100隻の船渡御 夜空彩る5000発の奉納花火

天神祭本宮 100隻の船渡御 夜空彩る5000発の奉納花火

日本三大祭りの一つ、大阪天満宮(大阪市北区)の天神祭は7月25日、本宮を迎え、家族連れ、男女のカップル、訪日外国人旅行客ら数多くの見物客でにぎわった。
祭りのクライマックス「船渡御(ふなとぎょ)」では約100隻の船団が、かがり火や提灯の明かり川面を照らしつつ、大阪中心部を流れる大川を行き交う。そして、午後7時半ごろから花火が打ち上げられ始めた。見物客らが歓声を上げ見守る中、約5000発の奉納花火がなにわの夜空を彩った。
今年の特徴は浴衣姿の訪日外国人旅行客の女性が数多くみられたこと。彼女たちは、大阪市中央区周辺の着付けをしてくれるレンタルショップを利用。いつもとは違う自分の浴衣姿を写メしながら、日本スタイルで祭りを体感し、楽しんでいた。

国内最大級の笠形の木製埴輪見つかる 滋賀県栗東市

国内最大級の笠形の木製埴輪見つかる 滋賀県栗東市

滋賀県栗東市にある古墳から、国内では最大級の笠の形をした木製の埴輪が見つかった。大阪・羽曳野市の応神天皇陵で出土した同じ形の埴輪に次ぐ大きさという。
今回見つかったのは直径が76㌢と75㌢の「笠形木製品」と呼ばれる楕円形をした木製品の埴輪2点で、当時の身分の高い人にかざす「かさ」をかたどっていると考えられている。今年2月から3月にかけて、栗東市が5世紀前半の豪族の墓とされる「椿山古墳」で行った堀の部分の発掘調査で見つかった。
発掘調査にあたった関係者は、大和政権の中枢に近い人物が近江地域を支配していたのではないかとみている。

長崎で草食恐竜・鳥脚類の歯の化石35点見つかる

長崎で草食恐竜・鳥脚類の歯の化石35点見つかる

福井県立恐竜博物館と長崎市は7月18日、強度調査の結果、長崎市の長崎半島西海岸に分布する白亜紀後期の地層「三ツ瀬層(みつせそう)」(約8100万年前)から、主に二足歩行の草食恐竜が属する鳥脚類の歯の化石35点が見つかったと発表した。エドモントサウルスなどの「ハドロサウルス上科(じょうか)」のものとみられるという。
発表によると、2013年から保存状態のよい化石が次々と見つかり、とくに14年以降に発見された34点は半径数㍍の範囲から発掘された。形がきれいに残り、測定できたものの高さは17~5㍉。上下の歯がかみ合う面が水平で、表面にY字や十字の模様がある特徴から鳥脚類とみられ、19点は上あごの歯と確認されたという。

「コンチキチン」京都の祇園祭 前祭の23の山鉾巡行

「コンチキチン」京都の祇園祭 前祭の23の山鉾巡行

「コンチキチン」の祇園囃子を奏で、京都の夏を彩る祇園祭のハイライト、前祭(さきまつり)の「山鉾巡行」が7月17日行われ、豪華な装飾を施した山や鉾が京都市の中心部、四条通りや河原町通りを練り歩いた。
17日午前9時半ごろ、山鉾巡行では先頭を行く「長刀鉾」に乗った稚児が、通りに張られた「しめ縄」を刀で断ち切ったのを合図にスタート。長刀鉾の後には今年の1番くじを引き当てた「占出山」が続き、豪華な装飾品で飾られた23の山や鉾が列をなして、折からの好転に恵まれ、うだるような暑さの都大路を進む。
四条河原町の交差点では、車輪の下に竹を敷いて水をまき、滑らせながら90度方向転換する「辻回し」が披露され、沿道のあちこちからは大きな拍手と歓声があがる。警察によると、沿道の人出は昨年の19万人を上回る22万人に上った。
なお、残る10の山と鉾による後祭(あとまつり)の山鉾巡行は今月24日で、再び都大路を練り歩く。

鷹匠を厚遇する織田信長の書状発見 徳川美術館

鷹匠を厚遇する織田信長の書状発見 徳川美術館

徳川美術館(名古屋市東区)によると、織田信長が鷹狩りに使う鷹を飼育していた近江国の鷹匠(たかじょう)、沢源三郎に宛てた、父親に代わって当主となる源三郎に領地の相続を保証した内容を記した書状が見つかったことが分かった。
書状は1574(天正2)年11月24日付で、縦29㌢、横45㌢で公式文書であることを示す「天下布武」の朱印が押されている。
この書状は、同館などが主催する特別展で、7月15日から9月10日まで展示される。

新薬師寺旧境内出土品を公開 金堂跡発見から10年

新薬師寺旧境内出土品を公開 金堂跡発見から10年

奈良時代の新薬師寺金堂とみられる大型建物跡が出土してから来年で10年となるのに合わせ、奈良教育大学(奈良市高畑町)教育資料館で、瓦などの出土品を公開する「新薬師寺旧境内展~蘇る幻の大寺院」が開かれている。開館は10時~17時。日曜、祝日は休館。無料。
平成20年に行われた発掘調査では、基壇を構成したとみられる石材や柱穴などが出土し、新薬師寺の七仏薬師金堂跡と推定。基壇の東西規模は現在の東大寺大仏殿に匹敵する約68㍍と推定され、創建した光明皇后の強大な力を伝える遺構として注目された。
展示品は瓦が主で、基壇を構成した石材片や礎石片、奈良三彩片、建物跡の南方から見つかった八角柱なども並んでいる。七仏薬師金堂の復元模型もあり、建物とともに巨大な仏堂の姿をうかがうことができる。

7/15から「源信 地獄・極楽への扉」千年忌特別展

7/15から「源信 地獄・極楽への扉」千年忌特別展

奈良で生まれ、比叡山で修業を積んだ平安時代の僧侶、源信(げんしん、942~1017年)の千年忌特別展が7月15日から奈良市の奈良国立博物館で開かれる。源信は地獄と極楽の世界をわかりやすく描いた「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著し、具体的な死後の世界のイメージを一般に広めた。9月3日まで。
今回の特別展では源信の足跡をたどりつつ、全15幅の国宝「六道絵(ろくどうえ)」(滋賀・聖衆来迎寺=しょうじゅらいこうじ)や、国宝「阿弥陀聖衆来迎(らいごう)図」(京都・知恩院)など約140点を紹介する。会期中展示替えあり。

初ラーメンは徳川光圀ではなかった 室町時代の新資料

初ラーメンは徳川光圀ではなかった 室町時代の新資料

新横浜ラーメン博物館によると、日本で初めてラーメンが食べられたのは定説より約200年遡ることが分かった。これにより、これまで1697年、徳川光圀が食べたのが最も古いとされてきたラーメン史は書き替えられることになる。
今回、麺の歴史について調べていた民間人から、室町時代の僧侶の日記「蔭涼軒目録」の中に、中国のレシピを参考に1488年「経帯麺」を調理師、来客に振る舞ったとの記述があるとの情報提供があったという。
中華麺の定義はかん水を使用していること。そこで、このレシピを調べたところ、「経帯麺」は小麦粉とかん水を使うことが分かり、日本初のラーメンの可能性があると結論付けた。
これまでは江戸時代の僧侶の日の記述を根拠に、水戸藩主の徳川光圀が1697年に食べたのが最も古いとされていた。

織田信長の居館をCGで再現 岐阜市が入城450年で

織田信長の居館をCGで再現  岐阜市が入城450年で

織田信長が岐阜に入城し、今年で450年となることにちなんだ市の記念事業として、岐阜市司町の複合施設「ぎふメディアコスモス」に7月13日、「信長公ギャラリー」がオープンする。
このギャラリーの目玉が、信長の居館のCG映像が上映される「おもてなし劇場」だ。小姓の案内という設定で、約15分間の映像だが、”天下布武”を唱え、天下人への様々な思いを巡らせ過ごした信長の居館の佇まいが、垣間見られる。前期は9月24日まで、後期は10月6~12月17日まで。入場無料。

渋沢栄一揮毫の書発見 塩原太助翁記念碑に

渋沢栄一揮毫の書発見  塩原太助翁記念碑に

第一国立銀行や東京証券取引所はじめ生涯におよそ500もの多種多様な企業の設立・経営に関わり「日本資本主義の父」ともいわれる実業家、渋沢栄一(1840~1931年)。その渋沢栄一が群馬県の塩原太助翁記念公園(みなかみ町)の記念碑のために揮毫(きごう)した書が同園内の宝物庫に保管されていたことが分かった。塩原太助遺跡保存会は書を修復し、隣接する塩原太助記念館で年内にも公開する方針。
書は長さ5.4㍍、幅2.1㍍の和紙に書かれている。墨で「塩原太助翁之碑」「子爵 渋沢栄一書」と書かれ、落款もある。ただ、これまで保存会や太助の子孫もこの書の存在を知らなかったという。
富は社会で共有すべきだとする「道徳経済合一」を唱えた渋沢は、炭屋として成功を収め、公益事業に私財を投じた太助に強く共感したと伝えられる。

平安中期の年号・収穫量記す木簡出土 浜松・梶子遺跡

平安中期の年号・収穫量記す木簡出土 浜松・梶子遺跡

浜松市は7月7日、同市中区南伊場町の梶子遺跡から、平安時代中期の具体的な年号や稲の収穫量が記された木簡などが出土したと発表した。
同市文化財課では、木簡は公的な稲の収穫量を記録した台帳と推測されるとし、当時地方を治めていた律令体制が形骸化していた時代に、少なくとも浜松では役所が機能していたことを示す貴重な史料-と説明している。
木簡は1~6月に行われた発掘調査で遺跡内の「伊場大溝」と呼ばれる川の跡から9点見つかった。このうち1点は西暦913年にあたる「延喜十三年」の文字や稲の収穫量、日付とみられる数字など100以上の文字が書き込まれていた。
同遺跡群からはこれまでに180点以上の木簡が見つかっているが、奈良時代のものが中心だった。梶子遺跡は、同市中区のJR東海浜松工場一帯にある遺跡群の一つ。

「沖ノ島」8つの構成資産一括して世界遺産に

「沖ノ島」8つの構成資産一括して世界遺産に

ポーランドのクラクフで開かれたユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は7月9日、日本の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)を8つの構成資産まとめて世界遺産に登録することを決めた。
8つの構成資産のうち4つを除外し、沖ノ島本体のみを認めるとした5月のユネスコの諮問機関イコモスの事前評価を覆す決定だった。地元・宗像市や福津市の8つの構成資産が密接に結びついてこその「沖ノ島」-との真摯(しんし)な主張が、世界を説得した形となった。審議時間は約1時間弱で、大きな異論はなかった。

熊本で発見の化石の歯は7㍍超ティラノサウルス科か

熊本で発見の化石の歯は7㍍超ティラノサウルス科か

福井県立恐竜博物館は7月5日、熊本県天草市天草町の白亜紀後期の地層「姫浦層群(ひめのうらそうぐん)・軍ヶ浦層(いくさがうらそう)」(約8000万年前)から、ニ足歩行の肉食恐竜などが分類される「獣脚類」の歯の化石1個を発見したと発表した。
断面がふくらみのある楕円形になっている特徴から全長7㍍を超えるゴルゴサウルスなどのティラノサウルス科のものと推定されるという。
化石は2014年10月、天草市立御所浦白亜紀資料館との共同調査で採集された。歯を構成するエナメル質のある「歯冠(しかん)」部分で、高さ42㍉、幅25㍉、厚さ16㍉。全体の高さは56㍉以上あったと推測される。鋸歯の傾きから左上か右下のあごの歯と考えられるという。
発見された化石は、天草市立御所浦白亜紀資料館で7月15~9月3日、一般公開される。

側室・茶々へ太閤・秀吉の気遣いの自筆手紙見つかる

側室・茶々へ太閤・秀吉の気遣いの自筆手紙見つかる

東京大学と兵庫県立歴史博物館は7月7日、太閤・秀吉(1537~1598年)が側室・茶々(後の淀殿)へ送った自筆の手紙が見つかったと発表した。手紙は縦22.6㌢、横50.8㌢と縦22.5㌢、横49.7㌢の2枚に切って掛け軸に貼ってあった。2016年6月、兵庫県豊岡市出石町の旧家で見つかったという。
文面は、当時病を患っていた茶々を優しく気遣う内容で、能を企画して見せたいので、食事をしっかり摂るようにと促し、サンマを送ったと記すなど細やかな心遣いが読み取れる。
調査を担当した東大史料編纂所によると、これまでに茶々に宛てた秀吉自筆の手紙は5点しか確認されておらず、筆まめだった秀吉にしては極めて少なく、新たに見つかったのは戦後初めてという。