正岡子規の晩年の未発表5句見つかる 自画像2点も

正岡子規の晩年の未発表5句見つかる 自画像2点も

今年生誕150年を迎えた明治期の俳人・正岡子規(1867~1902年)が死の前年の正月に詠んだ俳句5句と、自画像2点などが載った冊子「歳旦帳(さいたんちょう)」が見つかった。いずれも全集などにも掲載されたことがない、未発表のものだ。
和綴じの32㌻の冊子(縦24㌢、横26㌢)で、子規と、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)、伊藤左千夫ら弟子や友人13人が俳句や短歌、画をしたためている。正岡子規晩年の句風が分かる貴重な資料という。
子規は掲載されている8句のうち5句が新出。無署名だが筆跡や、それ以前にも似た句があることなどから、子規の句と判断された。子規の未発表句は、
寝後れて新年の鐘を聞きにけり
暗きより元朝(がんちょう)を騒く子供哉
うらうらと初日の影や枯木立
初夢や巨燵(こたつ)ふとんの暖まり
留守の戸に名刺投込む御慶かな
の5句。当時患っていた脊椎カリエスの病状はすでに重かったが、ふとんの中から感じ取った新年の朗らかな雰囲気が伝わってくるような作品だ。
このほか、前年の暮れに撮影された、有名な子規の横顔写真をもとに描いた自画像や、友人の画家・中村不折(ふせつ)が病床の子規を描いた画、伊藤左千夫の新出の短歌2首も載っている。
この歳旦帳は長い間不明で、今回「子規庵」(東京都台東区)を運営する子規庵保存会に数年前に寄託された個人の資料から見つかった

称徳天皇の離宮「由義宮」実態解明へ新たな発見

称徳天皇の離宮「由義宮」実態解明へ新たな発見

大阪府八尾市文化財調査研究会などによると、奈良時代末期の僧、道鏡ゆかりの寺とされる「由義寺(ゆげでら)」の痕跡が見つかった八尾市の遺跡で、新たに複数の建物や運河の跡とみられる穴や溝が発見された。
近くでは、当時の称徳天皇の庇護のもと、絶大な権力を誇っていた道鏡の「由義寺」の巨大な塔の基礎にあたる部分が見つかっていることから、研究者は称徳天皇の離宮「由義宮(ゆげのみや)」の実態解明につながる発見として注目している。
八尾市は現在、市の南部、東弓削地区の奈良時代の遺跡の発掘調査を進めている。その結果、今回およそ3000平方㍍の範囲を調査したところ、1辺4㍍余りの複数の建物があったとみられる直径20㌢余りの柱穴や、建設資材を運ぶのに使われていた運河の跡とみられる、幅16㍍から20㍍、深さ1㍍ほどの大きな溝-などが見つかった。
このため、研究者らは日本の歴史に記録されていながら、詳細が分かっていない由義宮の中身が明らかになる可能性があるとみている。

長岡京跡で大規模建物跡 貴族の邸宅の可能性

長岡京跡で大規模建物跡 貴族の邸宅跡の可能性

京都府長岡京市埋蔵文化財センターによると、同市長岡京跡で貴族の邸宅跡とみられる大規模な建物の跡が見つかり8月19日、考古学ファン200人余りが集まり、現地で説明会が開かれた。
説明会では今回見つかった柱の跡から推測される建物の大きさについて、南北21㍍、東西9㍍に及ぶ大きな建物であることが紹介された。また、これまでの調査で隣接する場所にも同じような建物の跡が見つかっていることから、大規模な建物を複数持つことができる有力貴族の邸宅だった可能性があるとしている。
長岡京市の小学校のグランドでは、桓武天皇が794年に平安京に遷都するまでの10年間、都をおいた長岡京の建物の跡が見つかり、今年6月から市の埋蔵文化財センターが発掘調査を続けている。

キトラ・高松塚古墳 9/23から公開 奈良・明日香村

キトラ・高松塚古墳 9/23から公開 奈良・明日香村

文化庁は8月14日、奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)の壁画のうち四神の白虎が描かれた西壁と、天井の天文図を9月23~10月22日、同村内の「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」で公開すると発表した。
四神の館の開館1年を記念し、複数の壁画を公開する。無料。定員各日700人程度、事前予約制。
また、明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)の国宝の極彩色壁画も9月23~29日まで、同村内の仮設修理施設で公開する。通路から窓ガラス越しに白虎や西壁女子群像(飛鳥美人)などを見学できる。無料。定員は各日400人程度。事前予約制。

ビルの屋上から先祖の霊送る 京都五山で送り火

ビルの屋上から先祖の霊送る 京都五山で送り火

300年以上の歴史があるとされる京都のお盆の伝統行事「京都五山送り火」が8月16日夜行われ、京都市を囲む五つの山が炎で描かれた文字と形に彩られた。
予定通り午後8時に、京都市左京区の大文字山で護摩木を組んだ火床に一斉に火が灯されると、瞬く間に「火」の文字が浮かび上がった。そして、その後は5分間隔で「妙法」、「船形」、「左大文字」、「鳥居形」の順に火が灯された。
この時間帯、京都市内ではあちこちで送り火を眺める人たちがみられた。とりわけ、五山を見渡せる、眺望に恵まれたビルの屋上から数多くの人たちが、山々に浮かび上がる、先祖の霊を送る幻想的な風景に見入っていた。

頭にとさか、飛べない鳥に似た恐竜化石 中国で出土

頭にとさか、飛べない鳥に似た恐竜化石 中国で出土

中国江西省の白亜紀(8360万~6600万年前)の地層から、現代の飛べない鳥「ヒクイドリ」に似た、頭にとさかがある恐竜の化石が見つかった。中国地質科学院や日本の北海道大などの研究チームが恐竜の新属新種に分類し、英科学誌サイエンティフィック・リポーツに発表した。
この化石はオビラプトロサウルス類で、学名はヒクイドリに似ていることなどから「コリトラプトル・ジェイコブシ」と名付けられた。全身骨格がほぼ揃い、8歳でまだ成長しきっていなかった。
ヒクイドリはダチョウやエミューのような飛べない鳥の仲間で、ニューギニアやオーストラリア北東部などの熱帯雨林に生息し、主に果実を食べていた。

五稜郭跡 戊辰戦争時の米蔵「兵糧庫」特別公開

五稜郭跡 戊辰戦争時の米蔵「兵糧庫」特別公開

北海道函館市の国指定特別史跡・五稜郭跡で、1864(元治元)年に函館奉行所の米蔵として建設された「兵糧庫」が8月31日まで特別公開されている。
この兵糧庫は1868年1月、「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに始まった、明治新政府と旧幕府軍との間で繰り広げられ1年半に及んだ「戊辰戦争」の最後の戦い(1869年5月)の場となった箱館で、戦後唯一解体を免れた建物だ。
明治新政府に対し徹底抗戦を叫び、箱館・五稜郭で新政権樹立を宣言した榎本武揚や土方歳三らが日常的にみていた、あるいは出入りしたかも知れない風景の一部といってもいい。
創建時の柱や梁(はり)が残り、実際に敷かれた木製水道管や沈没した新政府軍の軍艦の一部が展示されている。

特別展「戦国!井伊直虎から直政へ」静岡で8/14から

特別展「戦国!井伊直虎から直政へ」静岡で8/14から

大河ドラマ「おんな城主 直虎」にちなんだ特別展「戦国!井伊直虎から直政へ」が8月14日から静岡市駿河区の県立美術館で開かれる。10月12日まで。前売り券は一般1,000円、高校・大学生と70歳以上は500円。中学生以下は無料。開幕日除き月曜日休館。
特別展では、直虎ゆかりの品々をはじめ当時の井伊谷(いいのや)(現在の浜松市北区引佐町)周辺を取り巻く今川家、織田家、徳川家、武田家など戦国大名の関連資料も展示。古文書や刀剣、絵画など160点が並び、「井伊の赤備え」として知られる赤色の甲冑(かっちゅう)も間近に見ることができる。
会場は4つの章で構成される。井伊家が現在、大河ドラマで放送中の直虎の時代、今川家の配下で様々な雌伏の時代を経て、一気に戦国大名の勢力図が塗り替わり、徳川家に臣従、家康の配下として大きく飛躍し、譜代大名として彦根藩を創設するまでの過程を多くの資料で解説している。

纏向遺跡 史跡公園へ 見学者施設整備始動

纒向遺跡 史跡公園へ 見学者施設整備始動

奈良県桜井市などによると、同市の纒向(まきむく)遺跡で整備計画が本格的に動き出した。4年後には発掘調査の成果や同遺跡に関わる歴史を学べる場所を備えた史跡公園が完成する予定だ。同遺跡は、邪馬台国の最有力候補地として全国的に知られながら、これまで見学者のための施設などがなかった。
同市教育委員会は2016年3月、同遺跡と、一帯の古墳群の保存や活用を進める計画書をまとめた。遺跡中心部の旧纒向小学校跡地(約1万平方㍍)を「センターエリア」と位置付け、史跡公園を整備する構想だ。そして今年3月末にはセンターエリア整備の第1弾として、見学者用トイレが完成。今後、写真パネルや模型などの展示室やボランティアの活動拠点を備えた「ガイダンス施設」と広場を2021年度末までに完成させる計画だ。
同遺跡は3~4世紀の集落遺跡としては国内最大で、中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼(247年ごろ死去)の時代と重なる。また、関東から九州まで各地の土器が出土し、箸墓(はしはか)古墳などの前方後円墳が最初に築造された場所でもあることから、ヤマト王権の誕生の地と考えられている。
2009年には同市教委の調査で、大型建物跡が出土。「卑弥呼の宮殿」とする説が紹介され、現地説明会では2日間で1万人以上が集まった。しかし遺構は調査後、埋め戻され、現地を訪れてもこれらの成果を実感できる場所や休憩所はない。

奈良・東大寺でお盆前に恒例の「お身拭い」

奈良・東大寺でお盆前に恒例の「お身拭い」

奈良の東大寺で8月7日、恒例の「お身拭い」が行われた。お身拭いは、東大寺の大仏にきれいな姿でお盆を迎えてもらおうと、毎年8月7日に行われている。
7日は午前7時すぎから、白装束の僧侶や寺の関係者などおよそ180人が大仏殿に集まり、初めに大仏の魂を抜くための法要が行われた。この後、大仏の手のひらや膝の上などに登り、はたきやほうきでたまったほこりを払い落した後、布で全体を隅々まで磨き上げた。
高さがおよそ15㍍ある大仏の頭や肩の部分は、天井からロープでつるしたかごに乗り込んだ人たちが慎重に作業していた。

古代山陽道の遺構を確認 広島県府中市で2例目

古代山陽道の遺構を確認 広島県府中市で2例目

広島県府中市教育委員会は8月5日、同市府川町で7世紀半ば~10世紀に都と大宰府(福岡県)を結んだ古代山陽道の遺構を確認したと発表した。同市内での遺構確認は2例目。
古代山陽道は天武・持統朝以降、整備が進められ、平城京、平安京などと大宰府を結んだ古代日本の幹線道路で、各地の国府を結び、一定区間ごとに駅家(うまや)が設けられていたといわれる。

平安時代の最大級の有力貴族の邸宅跡発見 京都市

平安時代の最大級の有力貴族の邸宅跡発見 京都市

京都市埋蔵文化研究所は8月3日、同市中京区で平安京の遺構としては最大級の邸宅跡が見つかったと発表した。同研究所では当時の有力貴族の邸宅で、平安時代前期の840年ごろまでに建てられたとみている。
今回発掘されたのは柱を直接地面に埋め込む「掘立(ほったて)柱建物」など4棟の遺構。最大のものは東西約21㍍、南北約9㍍。使用人が寝泊まりや食事の準備をした「御厨(みくりや)」とみられる跡も見つかった。また、周囲からは当時の高級品だった緑釉(りょくゆう)陶器や灰釉(かいゆう)陶器が出土している。
建物の所有者は不明だが、天皇の平安宮(大内裏)から南西約800㍍と近く、敷地が1町(約120㍍)四方に及ぶことから、都に数人程度しかいなかった大納言など大臣級の三位以上の官位を持つ貴族に絞られるという。

「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産に推薦へ 文化審議会

「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産に推薦へ 文化審議会

文化庁の文化審議会は7月31日、2019年の世界文化遺産への登録を目指して、大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」を日本から推薦することを決めた。ただ、世界遺産登録に向けては、改善すべき課題も多く指摘された。
百舌鳥・古市古墳群は大阪・堺市、羽曳野市、藤井寺市にまたがる古墳群で、4世紀後半から5世紀にかけて築造され49基に上る。中でも仁徳天皇陵とされる陵墓は、全長486㍍に及ぶ前方後円墳で、世界最大級の大きさを誇る。様々な規模の古墳群があることで、日本列島における古代王権の成り立ちを表す遺跡とされている。
ただ、大阪府内でも2つの地域にまたがる古墳群を一体として見ることの説明が不十分なことや、ほかの地域の古墳群との差別化をどう図るかという点など、改善すべき課題が指摘された。

弥生中期の木製品削る「やりがんな」出土 石川県小松市

弥生中期の木製品削る「やりがんな」出土 石川県小松市

石川県埋蔵文化財センターは7月27日、同県小松市の八日市地方(ようかいちじがた)遺跡で、弥生時代中期前半(約2300年前)とみられる柄付き鉄製「やりがんな」が出土したと発表した。
やりがんなは、木製品を作る際に木の表面などを削る工具。木製の柄もある完全な形の品としては国内最古といい、センターは「鉄器が日本列島へ普及する過程を考えるうえで貴重な資料」としている。
今回出土したやりがんなの全長16.3㌢。鉄の部分(長さ5.1㌢)を柄の中に一部はさみ込んだ後、糸とテープ状にした桜の樹皮を巻いて固定。柄には斜めの格子文様が彫られ、一端はバットのグリップのような形に削り出されている。
これまでやりがんなの刃だけの出土例は北部九州などであった。やりがんなは法隆寺など飛鳥時代の寺社建築などでも使われ、室町時代に現在の台がんなが伝わるまで、宮大工の主要な大工道具だったとされる。

大津・曼陀羅山古墳群で地方豪族の墓?見つかる

大津・曼陀羅山古墳群で地方豪族の墓?見つかる

滋賀県大津市教育委員会はこのほど、100基余りの古墳からなる大津市の古墳群の発掘調査で、新たに地元の豪族の墓とみられる石室が見つかったと発表した。
大津市の真野地区の「曼陀羅山古墳群」には6世紀の古墳時代後期の墓が116基あるが、発掘調査が行われていたのは5基だけで、埋葬者など詳しいことは分かっていなかった。
大津市教育委員会が新たに直径20㌢ほどの2つの古墳を調査したところ、いずれも横穴式石室と呼ばれる石造りの埋葬施設が確認され、30余りの土器のほか、鉄製の刀のつばや矢じりなどが見つかった。こうした武器の副葬品は海外から日本に来た渡来人のものとみられる古墳群からは見つかっていないことから、同市教委では地元の豪族の墓だとみていて、未発掘の古墳群の埋葬者を考えるうえで重要な発見だとしている。

弥生期の銅剣柄飾りの土製鋳型 国内初確認 福岡

弥生期の銅剣柄飾りの土製鋳型 国内初確認 福岡

福岡県春日市教育委員会は7月25日、弥生時代の銅剣につける把頭飾(はとうしょく)柄(つか)飾りを作ったとみられる土製の鋳型が同県春日市の須玖(すぐ)タカウタ遺跡で見つかったと発表した。国内初の確認で、日本列島で金属器生産が始まった当初から、独自の高い鋳造技術を持っていたことを示すものという。
鋳型は長さ3.5㌢、幅2.6㌢、厚さ2.7㌢。弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)のもので、建物跡から見つかった。土でできており、青銅を流し込んで製品を鋳造したとみられる。
弥生時代の銅剣は権威の象徴で、朝鮮半島に由来を持つ。把頭飾は柄の先端を飾る部品で、石製と青銅製があり、青銅製は鋳型で製作した。老の原型と土の鋳型を使ったと想定されてきたが、これまで鋳型の確認例はなかった。それが今回の出土で初めて証明された。

天神祭本宮 100隻の船渡御 夜空彩る5000発の奉納花火

天神祭本宮 100隻の船渡御 夜空彩る5000発の奉納花火

日本三大祭りの一つ、大阪天満宮(大阪市北区)の天神祭は7月25日、本宮を迎え、家族連れ、男女のカップル、訪日外国人旅行客ら数多くの見物客でにぎわった。
祭りのクライマックス「船渡御(ふなとぎょ)」では約100隻の船団が、かがり火や提灯の明かり川面を照らしつつ、大阪中心部を流れる大川を行き交う。そして、午後7時半ごろから花火が打ち上げられ始めた。見物客らが歓声を上げ見守る中、約5000発の奉納花火がなにわの夜空を彩った。
今年の特徴は浴衣姿の訪日外国人旅行客の女性が数多くみられたこと。彼女たちは、大阪市中央区周辺の着付けをしてくれるレンタルショップを利用。いつもとは違う自分の浴衣姿を写メしながら、日本スタイルで祭りを体感し、楽しんでいた。

国内最大級の笠形の木製埴輪見つかる 滋賀県栗東市

国内最大級の笠形の木製埴輪見つかる 滋賀県栗東市

滋賀県栗東市にある古墳から、国内では最大級の笠の形をした木製の埴輪が見つかった。大阪・羽曳野市の応神天皇陵で出土した同じ形の埴輪に次ぐ大きさという。
今回見つかったのは直径が76㌢と75㌢の「笠形木製品」と呼ばれる楕円形をした木製品の埴輪2点で、当時の身分の高い人にかざす「かさ」をかたどっていると考えられている。今年2月から3月にかけて、栗東市が5世紀前半の豪族の墓とされる「椿山古墳」で行った堀の部分の発掘調査で見つかった。
発掘調査にあたった関係者は、大和政権の中枢に近い人物が近江地域を支配していたのではないかとみている。

長崎で草食恐竜・鳥脚類の歯の化石35点見つかる

長崎で草食恐竜・鳥脚類の歯の化石35点見つかる

福井県立恐竜博物館と長崎市は7月18日、強度調査の結果、長崎市の長崎半島西海岸に分布する白亜紀後期の地層「三ツ瀬層(みつせそう)」(約8100万年前)から、主に二足歩行の草食恐竜が属する鳥脚類の歯の化石35点が見つかったと発表した。エドモントサウルスなどの「ハドロサウルス上科(じょうか)」のものとみられるという。
発表によると、2013年から保存状態のよい化石が次々と見つかり、とくに14年以降に発見された34点は半径数㍍の範囲から発掘された。形がきれいに残り、測定できたものの高さは17~5㍉。上下の歯がかみ合う面が水平で、表面にY字や十字の模様がある特徴から鳥脚類とみられ、19点は上あごの歯と確認されたという。

「コンチキチン」京都の祇園祭 前祭の23の山鉾巡行

「コンチキチン」京都の祇園祭 前祭の23の山鉾巡行

「コンチキチン」の祇園囃子を奏で、京都の夏を彩る祇園祭のハイライト、前祭(さきまつり)の「山鉾巡行」が7月17日行われ、豪華な装飾を施した山や鉾が京都市の中心部、四条通りや河原町通りを練り歩いた。
17日午前9時半ごろ、山鉾巡行では先頭を行く「長刀鉾」に乗った稚児が、通りに張られた「しめ縄」を刀で断ち切ったのを合図にスタート。長刀鉾の後には今年の1番くじを引き当てた「占出山」が続き、豪華な装飾品で飾られた23の山や鉾が列をなして、折からの好転に恵まれ、うだるような暑さの都大路を進む。
四条河原町の交差点では、車輪の下に竹を敷いて水をまき、滑らせながら90度方向転換する「辻回し」が披露され、沿道のあちこちからは大きな拍手と歓声があがる。警察によると、沿道の人出は昨年の19万人を上回る22万人に上った。
なお、残る10の山と鉾による後祭(あとまつり)の山鉾巡行は今月24日で、再び都大路を練り歩く。

鷹匠を厚遇する織田信長の書状発見 徳川美術館

鷹匠を厚遇する織田信長の書状発見 徳川美術館

徳川美術館(名古屋市東区)によると、織田信長が鷹狩りに使う鷹を飼育していた近江国の鷹匠(たかじょう)、沢源三郎に宛てた、父親に代わって当主となる源三郎に領地の相続を保証した内容を記した書状が見つかったことが分かった。
書状は1574(天正2)年11月24日付で、縦29㌢、横45㌢で公式文書であることを示す「天下布武」の朱印が押されている。
この書状は、同館などが主催する特別展で、7月15日から9月10日まで展示される。

新薬師寺旧境内出土品を公開 金堂跡発見から10年

新薬師寺旧境内出土品を公開 金堂跡発見から10年

奈良時代の新薬師寺金堂とみられる大型建物跡が出土してから来年で10年となるのに合わせ、奈良教育大学(奈良市高畑町)教育資料館で、瓦などの出土品を公開する「新薬師寺旧境内展~蘇る幻の大寺院」が開かれている。開館は10時~17時。日曜、祝日は休館。無料。
平成20年に行われた発掘調査では、基壇を構成したとみられる石材や柱穴などが出土し、新薬師寺の七仏薬師金堂跡と推定。基壇の東西規模は現在の東大寺大仏殿に匹敵する約68㍍と推定され、創建した光明皇后の強大な力を伝える遺構として注目された。
展示品は瓦が主で、基壇を構成した石材片や礎石片、奈良三彩片、建物跡の南方から見つかった八角柱なども並んでいる。七仏薬師金堂の復元模型もあり、建物とともに巨大な仏堂の姿をうかがうことができる。

7/15から「源信 地獄・極楽への扉」千年忌特別展

7/15から「源信 地獄・極楽への扉」千年忌特別展

奈良で生まれ、比叡山で修業を積んだ平安時代の僧侶、源信(げんしん、942~1017年)の千年忌特別展が7月15日から奈良市の奈良国立博物館で開かれる。源信は地獄と極楽の世界をわかりやすく描いた「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著し、具体的な死後の世界のイメージを一般に広めた。9月3日まで。
今回の特別展では源信の足跡をたどりつつ、全15幅の国宝「六道絵(ろくどうえ)」(滋賀・聖衆来迎寺=しょうじゅらいこうじ)や、国宝「阿弥陀聖衆来迎(らいごう)図」(京都・知恩院)など約140点を紹介する。会期中展示替えあり。

初ラーメンは徳川光圀ではなかった 室町時代の新資料

初ラーメンは徳川光圀ではなかった 室町時代の新資料

新横浜ラーメン博物館によると、日本で初めてラーメンが食べられたのは定説より約200年遡ることが分かった。これにより、これまで1697年、徳川光圀が食べたのが最も古いとされてきたラーメン史は書き替えられることになる。
今回、麺の歴史について調べていた民間人から、室町時代の僧侶の日記「蔭涼軒目録」の中に、中国のレシピを参考に1488年「経帯麺」を調理師、来客に振る舞ったとの記述があるとの情報提供があったという。
中華麺の定義はかん水を使用していること。そこで、このレシピを調べたところ、「経帯麺」は小麦粉とかん水を使うことが分かり、日本初のラーメンの可能性があると結論付けた。
これまでは江戸時代の僧侶の日の記述を根拠に、水戸藩主の徳川光圀が1697年に食べたのが最も古いとされていた。

織田信長の居館をCGで再現 岐阜市が入城450年で

織田信長の居館をCGで再現  岐阜市が入城450年で

織田信長が岐阜に入城し、今年で450年となることにちなんだ市の記念事業として、岐阜市司町の複合施設「ぎふメディアコスモス」に7月13日、「信長公ギャラリー」がオープンする。
このギャラリーの目玉が、信長の居館のCG映像が上映される「おもてなし劇場」だ。小姓の案内という設定で、約15分間の映像だが、”天下布武”を唱え、天下人への様々な思いを巡らせ過ごした信長の居館の佇まいが、垣間見られる。前期は9月24日まで、後期は10月6~12月17日まで。入場無料。

渋沢栄一揮毫の書発見 塩原太助翁記念碑に

渋沢栄一揮毫の書発見  塩原太助翁記念碑に

第一国立銀行や東京証券取引所はじめ生涯におよそ500もの多種多様な企業の設立・経営に関わり「日本資本主義の父」ともいわれる実業家、渋沢栄一(1840~1931年)。その渋沢栄一が群馬県の塩原太助翁記念公園(みなかみ町)の記念碑のために揮毫(きごう)した書が同園内の宝物庫に保管されていたことが分かった。塩原太助遺跡保存会は書を修復し、隣接する塩原太助記念館で年内にも公開する方針。
書は長さ5.4㍍、幅2.1㍍の和紙に書かれている。墨で「塩原太助翁之碑」「子爵 渋沢栄一書」と書かれ、落款もある。ただ、これまで保存会や太助の子孫もこの書の存在を知らなかったという。
富は社会で共有すべきだとする「道徳経済合一」を唱えた渋沢は、炭屋として成功を収め、公益事業に私財を投じた太助に強く共感したと伝えられる。

平安中期の年号・収穫量記す木簡出土 浜松・梶子遺跡

平安中期の年号・収穫量記す木簡出土 浜松・梶子遺跡

浜松市は7月7日、同市中区南伊場町の梶子遺跡から、平安時代中期の具体的な年号や稲の収穫量が記された木簡などが出土したと発表した。
同市文化財課では、木簡は公的な稲の収穫量を記録した台帳と推測されるとし、当時地方を治めていた律令体制が形骸化していた時代に、少なくとも浜松では役所が機能していたことを示す貴重な史料-と説明している。
木簡は1~6月に行われた発掘調査で遺跡内の「伊場大溝」と呼ばれる川の跡から9点見つかった。このうち1点は西暦913年にあたる「延喜十三年」の文字や稲の収穫量、日付とみられる数字など100以上の文字が書き込まれていた。
同遺跡群からはこれまでに180点以上の木簡が見つかっているが、奈良時代のものが中心だった。梶子遺跡は、同市中区のJR東海浜松工場一帯にある遺跡群の一つ。

「沖ノ島」8つの構成資産一括して世界遺産に

「沖ノ島」8つの構成資産一括して世界遺産に

ポーランドのクラクフで開かれたユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は7月9日、日本の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)を8つの構成資産まとめて世界遺産に登録することを決めた。
8つの構成資産のうち4つを除外し、沖ノ島本体のみを認めるとした5月のユネスコの諮問機関イコモスの事前評価を覆す決定だった。地元・宗像市や福津市の8つの構成資産が密接に結びついてこその「沖ノ島」-との真摯(しんし)な主張が、世界を説得した形となった。審議時間は約1時間弱で、大きな異論はなかった。

熊本で発見の化石の歯は7㍍超ティラノサウルス科か

熊本で発見の化石の歯は7㍍超ティラノサウルス科か

福井県立恐竜博物館は7月5日、熊本県天草市天草町の白亜紀後期の地層「姫浦層群(ひめのうらそうぐん)・軍ヶ浦層(いくさがうらそう)」(約8000万年前)から、ニ足歩行の肉食恐竜などが分類される「獣脚類」の歯の化石1個を発見したと発表した。
断面がふくらみのある楕円形になっている特徴から全長7㍍を超えるゴルゴサウルスなどのティラノサウルス科のものと推定されるという。
化石は2014年10月、天草市立御所浦白亜紀資料館との共同調査で採集された。歯を構成するエナメル質のある「歯冠(しかん)」部分で、高さ42㍉、幅25㍉、厚さ16㍉。全体の高さは56㍉以上あったと推測される。鋸歯の傾きから左上か右下のあごの歯と考えられるという。
発見された化石は、天草市立御所浦白亜紀資料館で7月15~9月3日、一般公開される。

側室・茶々へ太閤・秀吉の気遣いの自筆手紙見つかる

側室・茶々へ太閤・秀吉の気遣いの自筆手紙見つかる

東京大学と兵庫県立歴史博物館は7月7日、太閤・秀吉(1537~1598年)が側室・茶々(後の淀殿)へ送った自筆の手紙が見つかったと発表した。手紙は縦22.6㌢、横50.8㌢と縦22.5㌢、横49.7㌢の2枚に切って掛け軸に貼ってあった。2016年6月、兵庫県豊岡市出石町の旧家で見つかったという。
文面は、当時病を患っていた茶々を優しく気遣う内容で、能を企画して見せたいので、食事をしっかり摂るようにと促し、サンマを送ったと記すなど細やかな心遣いが読み取れる。
調査を担当した東大史料編纂所によると、これまでに茶々に宛てた秀吉自筆の手紙は5点しか確認されておらず、筆まめだった秀吉にしては極めて少なく、新たに見つかったのは戦後初めてという。

国内最古の真珠と確認 飛鳥寺で約60年前に出土

国内最古の真珠と確認  飛鳥寺で約60年前に出土

奈良文化財研究所の最新の分析によると、6世紀末に建立された日本最古の本格的な寺、奈良県明日香村の「飛鳥寺」で、およそ60年前に行われた発掘調査で出土した品々の中に真珠があったことが確認された。国内の寺で出土した真珠としては最も古いという。
真珠は直径1.5㍉から2㍉ほどの大きさで14個あり、真ん中には小さな穴が開けられている。ガラス玉や武具などとともに出土したが、傷みが激しく、これまで材質は分かっていなかった。同研究所のX線など最新の方法で分析した結果、主な成分が炭酸カルシウムで何層も重なってできていることなどが分かり、真珠と確認された。
真珠は仏教の世界では七つの宝、「七宝」の1つとされ、金や銀と並ぶ貴重なものとして珍重されてきたが、国内の寺で見つかった埋納品としては最も古いという。

若冲の墨画発見 塩飽水軍の子孫所有 鑑定番組で

若冲の墨画発見 塩飽水軍の子孫所有 鑑定番組で

江戸時代の、鶏をモチーフにした作品で知られる画家、伊藤若冲(1716~1800年)の鶏図(墨画)が見つかった。今回見つかったのはテレビの鑑定番組に出されて本物と分かったもの。かつて瀬戸内海で活躍した塩飽(しわく)水軍の本拠地、香川県丸亀市の本島にある水軍の子孫の旧家で、50年以上、蔵で眠っていたものという。
作品は、若冲が得意とした鶏を描いた左右一対の掛け物で、雄がひなと雌を見守っている構図。鑑定で「本物」と判定され、1500万円の評価額が付いた。

「お千度の儀」「くじ取り式」祇園祭の行事始まる

「お千度の儀」「くじ取り式」祇園祭の行事始まる

7月に入り、京都の夏を彩る祇園祭の様々な行事が始まった。1日には「お千度の儀」、2日には「くじ取り式」が行われた。
祇園祭の無事を祈る神事、お千度の儀は八坂神社(京都市東山区)で、山鉾巡行で先頭を行く長刀鉾の稚児らが祭りの無事を祈った。
2日には祇園祭の見せ場となる山鉾巡行で、山と鉾が進む順番を決めるくじ取り式が、京都市議会の議場で行われた。
くじ取り式は、あらかじめ順番が決まっている山と鉾を除く24基の順番を決めるもので、争いを避けるためおよそ500年前に始まったといわれている。紋付き袴姿の山と鉾の代表者が、京都市の門川市長の立ち会いのもと、くじを引いていく。
その結果、前祭(さきまつり、7月17日)の巡行で先頭を務める「長刀鉾」の次を行く注目の山一番は「占出山」、また後祭(あとまつり、同24日)で「橋弁慶山」と「北観音山」の次を行く山一番を引き当てたのは「鯉山」だった。

2000万年前のキノコ蘇る 八戸沖海底で採取の菌類

2000万年前のキノコ蘇る 八戸沖海底で採取の菌類

海洋研究開発機構(神奈川県横須賀市)によると、地球深部探査船「ちきゅう」が2012年に八戸沖の海底から取り出された地層から約2000万年前に陸地と一緒に海に沈んだとみられる菌類が採取されたことが分かった。
69の菌類が見つかり、このうち「スエヒロタケ」の一種を培養すると子実体(キノコ)を形成した。人類の誕生以前の菌類であり、現代と比較することで、人の活動が地球の生命進化に与えた影響などを知る手がかりとなる可能性があるという。
菌類はアクレモニウム、スエヒロタケ、アオカビなどで、一般にはカビやキノコとして知られる。古代の森林や湿地に生息していた菌類の胞子が海底で保存され、研究室の培養で蘇ったとみられる。

板垣退助がルイ・ヴィトンの鞄を日本人で初めて購入

板垣退助がルイ・ヴィトンの鞄を日本人で初めて購入

フランスの高級ブランド「ルイ・ヴィトン」の鞄を日本人で初めて購入したのは、自由民権運動の指導者、板垣退助だったことが分かった。
板垣の事績を顕彰する「板垣会」の公文豪・副理事長がルイ・ヴィトンジャパン(東京都)を通じてパリ本店に照会して判明した。
記録によると、1883(明治16)年1月9日に「Itagaki」という人物がシリアルナンバー「7720」のトランクをパリで購入していることが判明し、名前とナンバーが板垣の子孫が保管していたトランクと一致した。そして、この3週間後の同月30日、後藤が2つのトランクを購入した記録があるが、現物は確認されていない。
高知県はこれまで元土佐藩士で、明治新政府で要職を務めた後藤象二郎と紹介してきたが、これよりさらに3週間早く板垣が購入していたことが分かったもの。
共に土佐藩士だった板垣と後藤は1882(明治15)年、横浜からフランスの郵船に乗り、香港などを経てパリに到着。その後もロンドンなどを外遊し、翌年帰国している。

三浦按針墓地を発掘調査 骨片出土 長崎・平戸

三浦按針墓地を発掘調査 骨片出土 長崎・平戸

徳川家康の外交顧問を務め、平戸で没した英国人ウイリアム・アダムス(日本名:三浦按針)を埋葬したとされる平戸市大久保町の公園で6月27日、市が発掘調査を始めた。初日は骨片などが見つかり、市は按針の遺骨かどうか調べる。
調査場所は崎方公園の「三浦按針墓地」一帯で墓の位置を示す石碑周辺(縦1.8㍍、横3㍍)と隣接する道路部分(縦2㍍、横4㍍)、石碑を取り除くと、下から縦約10㌢、横約60㌢、厚さ約40㌢の骨片1個と、割れたつぼが見つかった。
按針はオランダ、イギリスの商館が平戸に開設される際にも活躍し、故郷へ戻ることなく1620年に死没した。1931年10月11日付の長崎新聞は、周辺を調査した警察署員や当時の平戸町助役らが、人の頭部や足の骨片数十個を発見したと報じている。ただ市によると、再び埋め戻したとの話もあり、資料がなく不明という。

元寇防塁で新たな石積み 九州大箱崎キャンパスで確認

元寇防塁で新たな石積み 九州大箱崎キャンパスで確認

九州大は6月26日、福岡市東区の箱崎キャンパスで見つかっていた元寇防塁の跡とみられる石積み遺構の延長線上に、新たな石積みを確認したと発表した。
同キャンパス内の石積み遺構は、昨年の中央図書館南側での発掘調査で初めて確認され、南北方向に約17㍍延びていた。今回、その遺構から南に約60㍍の地点で約5㍍にわたる遺構が見つかった。
同大によると、これらの遺構は文永の役(1274年)の後、再度の蒙古の襲来に備えて博多湾岸に築かれた防塁の一部である可能性が高いという。さらに遺構の延長上には石積みがあったとみられる石片があったことから、キャンパス内の遺構は南北120㍍以上あったと推測している。
同市内では防塁があった10地区が国の史跡に指定されているが、溝状遺構が見つかったのは今回が初めて。

ティラノサウルスの体はウロコに覆われていた

ティラノサウルスの体はウロコに覆われていた

豪州や米国などの研究チームは英専門誌にこのほど、大型肉食恐竜ティラノサウルスは映画『ジュラシック・ワールド』に登場したように、ウロコに覆われていた-とする研究成果を発表した。
ティラノサウルスは白亜紀末期(約6600万年前)に北米にいた大型恐竜。当初はウロコに覆われていると考えられていたが、白亜紀前期に中国にいたティラノサウルスの祖先にあたる小型恐竜ディロングが羽毛を持っていたと2004年に発表。2012年には大型恐竜の仲間で全長9㍍のユウティラヌスにも羽毛の証拠が発見されたことで、全長10㍍級のティラノサウルスも羽毛が生えていたとする説が高まっていた。
大型動物は体が羽毛で覆われると、体温が上がりやすく、熱帯のゾウやサイは毛がほとんどない。研究チームは、白亜紀後期にいたティラノサウルスの大型の仲間、タルボサウルスやゴルゴサウルス、アルバートサウルスなどの化石からもウロコが見つかっていることから、白亜紀前期の羽毛を持つ小型の祖先から大型に進化する過程で変化、白亜紀後期のティラノサウルス類はウロコを持つようになったと結論付けた。

江戸後期退位の光格天皇がじかに添削の和歌見つかる

江戸後期退位の光格天皇がじかに添削の和歌見つかる

江戸時代後期の200年前、最後に退位した光格天皇が添削したとみられる和歌が見つかった。教育研究機関「モラロジー研究所」(千葉県柏市)の分析によると、京都産業大学の所功名誉教授が今年3月、京都市内の古書店から入手した文書に記された和歌を添削したものが、光格天皇が門人の作品に手を入れた跡と分かった。
光格天皇は和歌に優れ、多くの門人を指導したとされる。今回見つかったのは門人、風早(かざはや)実秋が詠んだ和歌40首が記された文書。そこには墨で線が引かれていた。光格天皇が題を与え、実秋が2首ずつ詠んで差し出し、優れている方に天皇が線を入れた跡とみられるという。
天皇がじかに添削した和歌が見つかるのは極めて珍しいという。所氏は、宮廷文化である和歌を天皇が習得し、伝えてきたことが分かる貴重な史料-としている。

戦前の検閲の生々しい実態「蟹工船」など画像公開

戦前の検閲の生々しい実態「蟹工船」など画像公開

国立国会図書館は戦前、内務省が検閲していた発売頒布禁止(発禁)にした本など1327点をデジタル画像で公開した。これらは戦後、占領軍に接収されてアメリカにわたり、米国議会図書館(LC)が所蔵しているもの。
国会図書館がLCと共同で2012年度からデジタル化を進めてきた。検閲官がチェックに使った正本で、傍線や書き込みから検閲の詳細が分かる。小林多喜二「蟹工船」改訂版(1930年)など著作権消滅が確認された約200点は国会図書館のウェブサイトで公開し、それ以外は館内限定公開としている。
公開された、例えば「蟹工船」改訂版の表紙には「削除処分モノ」と「削除命令ヲ遵奉(じゅんぽう)セザルヲ以(もっ)て禁止」との文字が書き込まれている。

福岡・中原遺跡で弥生時代後半のすずり見つかる

福岡・中原遺跡で弥生時代後半のすずり見つかる

福岡県・筑前町の中原遺跡の竪穴式住居跡から見つかった石片が、弥生時代後半の硯(すずり)とみられることが分かった。国学院大の柳田康雄客員教授(考古学)が、奈良県桜井市纒向学研究センターの研究紀要「纒向学研究」で報告した。
都から遠く離れ、渡来人との交流や関わりが薄かったとみられる集落でも出土したことで、すずりは当時格別なものではなく、柳田氏は「倭人がすずりを使って文書を作り、外交もしていた可能性がある」としている。
弥生時代のすずりは松江市の田和山遺跡で1個、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で2個出土しており、今回で4例目となる。

「竜馬がゆく」「坂の上の雲」自筆原稿見つかる

「竜馬がゆく」「坂の上の雲」自筆原稿見つかる

司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)によると、司馬遼太郎(1923~1996年)の代表作「竜馬がゆく」最終回と、「坂の上の雲」第1回の自筆原稿が見つかった。
いずれも同氏がかつて勤務した関係で産経新聞に連載された代表作で、どちらも存在しないと思われていた原稿。今回見つかった原稿には、様々に手を入れられ、推敲(すいこう)の跡がみられ、作者の作品への”熱い思い”が伝わってくる。
「竜馬がゆく」は連載5回分23枚、「坂の上の雲」は連載6回分24枚、400字詰め原稿用紙で計47枚が見つかった。東京の古書店から連絡を受けた同記念館が鑑定し、6月初めに買い取った。これらの原稿は7月1日から8月31日、同記念館で特別展示される。

奈良・橿原市で弥生期の脚付き編み籠出土 全国初

奈良・橿原市で弥生期の脚付き編み籠出土 全国初

奈良文化財研究所は6月21日、奈良県橿原市の瀬田遺跡で弥生時代後期末(2世紀後半)の箱形の脚が付いた編み籠が見つかったと発表した。脚付きの編み籠の出土は全国初。
円形周溝墓から台座のような脚が付いた編み籠が出土。ラーメン鉢のような形とみられるが、半分は失われ、つぶれた状態で出土した。上辺9㌢、下辺11㌢、高さ3.5㌢の台形の板を四つ組み合わせ、植物で結んで脚同士と籠を固定している。ササ類の茎で編まれ直径約30㌢。底部は「網代編み」、側面は「ござ目編み」など部分によって4種類の編み方を使い分けていた。
同研究所では、状態も良く、素材や製作方法が分かり、弥生時代の工芸技術を知る貴重な例-としている。食料の運搬や貯蔵などに使った日用品と考えられるという。脚付きは、土の上に直接置かないようにするためだったとみられる。

出島和蘭商館跡と対岸結ぶ新設「出島表門橋」試験点灯

出島和蘭商館跡と対岸結ぶ新設「出島表門橋」試験点灯

長崎市の国史跡「出島和蘭(オランダ)商館跡」と、川をはさんだ対岸を結ぶ「出島表門(おもてもん)橋」で6月20日、LED照明の点灯試験があった。
鎖国下の江戸時代にあっても、外国への唯一の門戸となっていた出入口「出島」の石橋が撤去されて以来、約130年ぶりに架かる表門橋は11月に完成する予定だ。同日は橋げたに取り付けられた6120個のLED灯が、さながら江戸時代と現代をつなぐ光の列のように梅雨空の夕暮れに淡く浮かび上がった。橋は11月24日に予定されている完成記念式典から渡れるようになり、夜間にはこのLED照明が点灯される。

大山崎瓦窯跡で平安京造営時の瓦窯跡の範囲確定

大山崎瓦窯跡で平安京造営時の瓦窯跡の範囲確定

京都府・大山崎町教育委員会は、国史跡・大山崎瓦窯跡(大山崎町大山崎)でこれまで確認されていた最北端の窯跡の北から瓦を大量に廃棄した大きな穴が出土したと発表した。
穴は直径約10㍍、深さ0.7㍍で、中から瓦片が大量に見つかった。この穴以北に窯跡はなく、遺跡の北端と判明。この結果、同窯跡がこれまでの調査で出土した12基(南半分の10基と北半分の2基)の窯の範囲で確定した。
同教委では、北半分の2基が瓦を製造する過程で生じた焼け損じ品などを、今回見つかった穴に捨てたものとみている。瓦の様式から、2基は平安京に遷都した桓武天皇の息子、嵯峨天皇の時代に瓦を供給していたことも分かった。

龍馬の手紙 新たに6枚発見 文面に西郷、高杉ら登場

龍馬の手紙 新たに6枚発見 文面に西郷、高杉ら登場

高知県は6月15日、坂本龍馬(1836~1867年)が兄・権平の家族に宛てた手紙が新たに6枚見つかったと発表した。これらの手紙には龍馬が京・伏見の船宿、寺田屋で幕府の役人に襲撃された事件や、幕府と長州藩との戦争の様子が生々しく記述されている。幕末動乱の時代を動かした当事者の記録だ。
県などによると、6枚の手紙はいずれも縦25㌢で、幅は30㌢前後。龍馬が慶応2年12月4日(1867年1月)に記したもの。手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたが、この6枚は今回初めて原本が確認された。
手紙の1枚目は寺田屋事件について記している。幕府役人の追手を辛くも逃れ、かくまわれた薩摩藩亭で小松帯刀や西郷隆盛らと語り合い、笑ったことなどが書かれている。3枚目の文面には幕府と長州藩との戦争が描写されている。奇兵隊を組織した長州藩の高杉晋作が錦ののぼり旗を振って指示を出したり、味方の戦意高揚を図るため酒を振る舞い気勢を上げる様子などが記されている。

名古屋城襖絵 来秋にも本丸御殿で初の一般公開

名古屋城襖絵 来秋にも本丸御殿で初の一般公開

名古屋市は6月12日、名古屋城本丸御殿で国重要文化財の襖(ふすま)絵「竹林豹虎図(ちくりんひょうこず)」の実物を2018年秋にも設置、展示すると発表した。これまで単体で展示されたことはあるが、敷居と鴨居にはめ込んだ形での一般公開は、当初の本丸御殿の戦災焼失後、初めて。
竹林豹虎図は1614年、狩野派の絵師が描いた全4枚、表裏8面の襖絵。名古屋城来訪者の控室だった玄関の一之間と二之間の境に設置されていた。本丸御殿は太平洋戦争末期、1945年5月の空襲で天守とともに焼失したが、竹林豹虎図を含む障壁画1047面は空襲前に疎開していたため、現存している。

ブラジル移民とコーヒーの歴史展 神戸・交流センター

ブラジル移民とコーヒーの歴史展 神戸・交流センター

明治末期、神戸からブラジルに渡った移民たちをきっかけに、日本で広く知られることになったコーヒーの歴史をたどる展示会が、神戸市中央区の海外移住と文化の交流センターで開かれている。神戸港開港150年記念事業の一環。
同展では、明治41年に最初の移民が神戸港から出港し、ブラジルでコーヒー栽培を始めたことなど、移民とコーヒーのつながりを示すパネルや資料など48点が展示されている。
この中には最初の移民たちを引率し、”移民の父”として知られる水野龍氏が、サンパウロ州政府と交わしたコーヒー豆の無償提供を受ける契約書もあり、水野氏がこの豆をもとに日本にコーヒーを広めた経緯も紹介されている。

蝦夷地探検の近藤重蔵 滋賀・高島市で再評価の企画展

蝦夷地探検の近藤重蔵 滋賀・高島市で再評価の企画展

江戸時代後期の探検家、近藤重蔵(1771~1829年)をテーマにした企画展が、滋賀県高島市鴨の高島歴史民俗資料館で開かれている。6月30日まで。月・火曜日は休館。無料。
重蔵は幕臣で5回にわたり蝦夷地を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てたと伝えられている。択捉島はその後、幕府の直轄地となり開発が進められた。ところが、その重蔵は長男が起こした殺傷事件の責任を問われ、大溝藩預かりの身となり、3年間の幽閉を経て、失意のうちに病死した。
今回の企画展では、日露戦争を経て彼の功績が再評価され、明治末期から昭和初期にかけての書画や資料を中心に、重蔵にまつわる15点を紹介している。1905年に発行された肖像木版画や、功績を称えた富岡鉄斎の扁額(へんがく)「氣呑北虜(気は北虜を呑(の)む)」、明治政府から重蔵に正五位が贈られた後、地元で開かれた贈位報告に関する新聞記事もある。

明治新政府の目安箱に投書の住民の訴状原本見つかる

明治新政府の目安箱に投書の住民の訴状原本見つかる

明治新政府が全国に先駆けて京都に設置した目安箱に投書した住民らの訴状の原本34通が、このほど京都市内で見つかった。この時期の訴状が見つかるのは極めて珍しいという。
古文書研究で知られる国際日本文化研究センターの磯田道史順教授(46)が5月下旬、京都市内の古書店で見つけた。
今回見つかった34通の訴状は、慶応4・明治元(1868)年を示す「戊辰(ぼしん)歳」、目安箱への訴えを示す「箱訴(はこそ)」の文字が書かれた冊子に綴じられていた。投書には同年6月~12月の日付があった。
訴状の内容は、幕末の動乱で荒廃した街の復興を求める声や、新政府の紙幣・太政官札(だじょうかんさつ)の発行に伴う物価高騰への苦情、僧侶の贅沢を制限せよ-という訴えや、新政府の役人たちが酒や女色にふけっている-といった告発もあった。
明治新政府は徳川幕府にならい同年2月、全国初となる目安箱を京都・三条大橋西詰に設置。その後、東京や大阪にも広がった。