私説 小倉百人一首 No.51 藤原実方朝臣

藤原実方朝臣

かくとだにえやはいぶきのさしもぐさ
       さしも知らじな燃ゆる思ひを

【歌の背景】古来「伊吹山のさしもぐさ」を「恋の思い」に例えて歌にしたものは多く、この歌もその一つ。

【歌 意】私があなたにこんなにも恋い焦がれているとだけでも、打ち明けることができればいいのに、どうして言えましょう(言えません)。だから伊吹山のさしも草の艾(もぐさ)火のように熱く燃える私のこの思いを、あなたはご存知ないでしょうね。  
【作者のプロフィル】貞信公左大臣忠平の曾孫、侍従定時の子。母は左大臣源雅信のむすめ。叔父済時の養子となり、一条天皇に仕え、左近衛中将にまでなった。才気ある歌人として知られたが、宮中で藤原行成と争って粗暴な振る舞いがあり、天皇の怒りに触れて陸奥守におとされた。任地でも乱暴がもとで、長徳4年(998)40歳前後で神罰に当たって落馬して死んだという。

私説 小倉百人一首 No.52 藤原道信朝臣

藤原道信朝臣

明けぬれば暮るるものとは知りながら
       なほ恨めしき朝ぼらけかな

【歌の背景】後朝(きぬぎぬ)の別れが生んだ恋の歌。夜になればまた逢いに来ればいい。それは分かっていても、やはり別れの朝はつらい。そのつらさを詠んだもの。

【歌 意】夜が明けてしまえば、やがてまた日が暮れて夜になる。するとまたあなたに逢える。そういうことは十分分かっているのに、あなたと別れて帰らねばならない夜明けは恨めしいのです。

【作者のプロフィル】右大臣師輔の孫。法住寺太政大臣為光の三男。母は謙徳公一条摂政伊尹のむすめ。藤原兼家の養子となり、従四位上左近中将に至り将来を嘱望されたが、正暦5年(994)23歳という若さで死んだ。

私説 小倉百人一首 No.53 右大将道綱母

右大将道綱母
※「蜻蛉日記」の著者。

なげきつつひとりぬる夜の明くる間は
       いかに久しきものとかは知る

【歌の背景】夫の摂政、藤原兼家が夜、彼女の家に来たとき門を開けるのが遅かったので、そのまま夫は帰ってしまい、いつも通っていると思われる他の女性のところへ行ってしまった。その翌朝、夫のもとへこの歌を送ったという。
 当時の結婚形態は一夫多妻であった。兼家にも多くの女性、愛人がいた。したがって、作者も夫の来訪を夜ごと待たなければならなかった。この歌には浮気な夫に対する恨みごとが見事に歌い込まれている。

【歌意】あなたがおいでにならないのを嘆きながら、自分一人で寝る夜の明け方までの時間は、どんなに長く感じられることか。それをあなたはご存知なのでしょうか。おそらくご存知ないのでしょう。

【作者のプロフィル】この作者の名は不明。藤原倫寧(ともやす)のむすめで、摂政藤原兼家の妻となり右大将道綱を生んだ。わが国日記文学の代表的作品「蜻蛉日記」の筆者であり、美人で賢い女性だった。
 「蜻蛉日記」は21年間の回想記録で、多情な夫に真実の愛を求めて苦しみ、やがて一子道綱への、母としての愛情に生きる道を見出していく王朝女性の苦難が詳しく描かれている。
 「更級日記」の作者、藤原孝標(たかすえ)のむすめは姪にあたる。

私説 小倉百人一首 No.54 儀同三司母(ぎどうさんじのはは)

儀同三司母(ぎどうさんじのはは)
※藤原道隆の妻。

忘れじの行末まではかたければ
       今日をかぎりの命ともがな

【歌の背景】後に関白となった藤原道隆との恋のよろこびが、やっと始まったばかりの頃の歌。一夫多妻の平安朝の女性は、恋愛においては男の来訪をただひたすら待つ弱い立場にあった。だから男性にいったん身を任せたら相手に捨てられまいと日夜心を砕いた。それが、ストレートに恋の“よろこび”を歌わずに、恋の“悲しみ”を歌い込むという、烈しくも痛ましい心情を吐露したものになったと思われる。

【歌意】(あなたは私に対して)「いつまでもあなたを忘れまい」とおっしゃる。でも、あなたはその誓いの言葉を、将来いつまでも忘れないでいてくれるかどうか分からないので、こうして愛されている今日が私の命の最後の日でありたいものです。

【作者のプロフィル】彼女は従二位高階成忠のむすめで、藤原道隆の妻、貴子のこと。「儀同三司」とは「儀」(格式)は三司に同じの意味。「三司」は三公ともいい、太政大臣、左右大臣を示した。子、伊周(これちか)が準大臣だったため、儀同三司の母とは伊周の母の意。
  「大鏡」によると、高内侍(こうのないし)とも呼ばれ、気性のしっかりした聡明な女性で、漢詩文の教養も深かったらしい。

私説 小倉百人一首 No.55 大納言公任

大納言公任
※藤原公任

滝の音は絶えて久しくなりぬれど
       名こそ流れてなほ聞こえけれ

【歌の背景】藤原公任が時の権力者、藤原道長の伴をして嵯峨遊山した折の歌。公任は平安中期の歌壇を支配し、その才能、力量が高く評価されたといわれているが、この歌の内容は平凡。

【歌 意】嵯峨上皇が営まれた嵯峨離宮の、かつては豊かな水量を落としとどろかせた大覚寺の滝はもう涸れてしまったが、その名声は幻の滝音となって今もなお世に鳴り響いている。ならばその名滝を称えるこの歌も名声を得て、後世に伝わってほしいものだ。

【作者のプロフィル】関白太政大臣頼忠の長男。四条大納言と呼ばれた。漢詩・和歌・音楽に優れ、能書家。多彩な人で、とくにその歌論書が有名。「新撰髄脳」、「和歌九品」、「北山抄」などがある。「和漢朗詠集」の撰者でもあった。貫之・定家とともに、「中古の三歌人」とまでいわれ、当時の歌壇の指導者であった。長久2年(1041)76歳で没。

私説 小倉百人一首 No.56 和泉式部

和泉式部
※越前守大江雅致(まさむね)のむすめ。和泉守橘道貞の妻。「和泉式部日記」の著者。

あらざらむこの世の外の思ひ出に
       いまひとたびの逢うこともがな

【歌の背景】これは彼女が病中に恋人に送った歌である。大病を患って自分の命に不安を感じ、その心細さから、恋人にいま一度逢いたい。そして、それをあの世での思い出にしたい-と詠んだもの。

【歌意】(大病を患って)私は死ぬかもしれませんが、せめてあの世へ行ってからの思い出になるように、もう一度あなたにお逢いしたいのです。

【作者のプロフィル】和泉式部は生没年とも不詳。越前守大江雅致(まさむね)のむすめ。19歳ぐらいで18歳年上の和泉守橘道貞と結婚し、まもなく小式部を生んでいる。
   「和泉式部日記」が物語るように、夫や子供がありながら少女の頃から憧れていた冷泉天皇の第三、第四皇子の弾正宮為尊親王、帥宮敦道親王との烈しい恋愛に身をやつしたこの時期が、彼女の人生のピークであったといえるかもしれない。しかし、当時の都の人々の噂となった身分違いの恋は、両親王のそれぞれ26歳と27歳という若過ぎる死で、無情にも終止符が打たれた。
   後年、彼女が亡き宮への想いからようやく立ち直った頃、藤原道長に召されて一条天皇の中宮彰子に仕え、20歳も年上の丹後守藤原保昌と再婚し、丹後に下ったという。これにより、この情熱的な歌風で知られた多情多感な才女は、いわば“表舞台”から去り、これ以後の消息は不明である。