十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫に 

十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫とした女性 

 古代、万葉の頃は数奇な運命に導かれるように薄幸の生涯を送った女性は様々いるが、十市皇女(とおちのひめみこ)ほど身を裂かれるような、悲劇的な選択を迫られた女性は極めて少ないだろう。彼女は、古代日本の最大の内乱「壬申の乱」(672年)を両軍の最高指揮官として戦った大海人皇子(おおあまのみこ)と大友皇子を、それぞれ父と夫に持った女性だった。父と夫が戦う事態はまさに異常としか言いようがない。

 十市皇女の動静はほとんど記録に残っておらず、まさに謎だらけだ。生年にもいくつかの説がある。653年(白雉4)や648年(大火4年)など確定しない。没年は678年(天武天皇7年)だ。天武天皇の第一皇女(母は額田王・ぬかだのおおきみ)であり、大友皇子(明治期に弘文天皇と遺贈された)の正妃。

 父の大海人皇子が、兄の天智天皇から大田皇女、鵜野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)の2人の皇女を娶ったことから、両者の関係を緊密にする意味も加わって、大海人皇子の方からは妻・額田王との間に生まれた皇女=十市皇女が天智天皇の長子、大友皇子の妻として迎えられた。このことが彼女にとって、冒頭に述べた通り後に大きな悲劇を生むことになった。

 既述のとおり、彼女の生涯は詳らかではない部分が極めて多く断定できないのだが、彼女の人生にとってぜひ記しておかなければならないのが、天武天皇の皇子(長男)、高市皇子(たけちのみこ)との悲恋に終わった恋だろう。高市皇子は天武天皇存命時は皇子の中では草壁皇子、大津皇子に次ぐNo.3の座にあったが、天武天皇が亡くなった後、大津皇子、そして草壁皇子が亡くなるとNo1に昇り詰め、690~696年は太政大臣を務め持統天皇政権を支えた有力な皇子だ。相手としては何の問題もない。したがって、政略結婚として大友皇子のもとに嫁ぐことがなければ、彼女はきっと高市皇子との恋を成就させたのではないか。

 それを裏付けるのが相手の高市皇子の動静だ。高市皇子は詳らかなところは分からないが、実は当時の皇族としてはかなり異例の年齢まで正妃を持たず、独身だったからだ。恐らく高市皇子は愛しい十市皇女を想い続け、妻を迎える気にならなかったのではないかとみられるからだ。まさに相思相愛だったのだ。

 そんな彼女だったからか、大友皇子の正妃としての境遇に心底馴染めない側面があったのか、父母への思慕が勝っていたのか、こんな説が残っている。『宇治拾遺物語』などでは、十市皇女が父・大海人皇子に夫・大友皇子の動静を通報していたことが記されている。大海人皇子にとって、迫りくる娘婿・大友皇子との雌雄を決する決戦「壬申の乱」に至る過程で敵方、近江大津京の情報は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。その役割を彼女は主体的に担ったのかも知れない。

 彼女には、その死についても謎がある。詳しい経緯はわからないが、彼女は未亡人であったにもかかわらず、泊瀬倉梯宮(はつせくらはしのみや)の斎宮となることが決まる。通常は斎宮といえば未婚の女性が選ばれるのだが。そして678年(天武天皇7年)、まさに出立の当日、4月7日朝、なぜか彼女は急死してしまう。王権をめぐって自分の父と夫が戦うという、非情の運命を背負わされた女性の悲しすぎるエンディングだ。

 『日本書紀』は「十市皇女、卒然に病発して宮中に薨せぬ」と記されている。7日後の4月14日、亡骸(なきがら)は大和の赤穂の地に葬られた。彼女はまだ30歳前後だ。この不審な急死に対し、自殺説、暗殺説もある。

 1981年、「比売塚(ひめづか)」という古墳の上に建てられた比売(ひめ)神社に、彼女は祀られている。この比売神社は現在、奈良市高畑町の一角にある。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、豊田有恒「大友皇子東下り」

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位859年ぶり 女帝

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位した859年ぶりの女帝

 第百九代・明正(めいしょう)天皇は、徳川二代将軍秀忠の娘、東福門院和子(まさこ)を母に持つ、第百八代後水尾(ごみずのお)天皇の第二皇女で、奈良時代の第四十八代称徳(しょうとく)天皇以来、実に859年ぶりの女帝として即位した。この徳川氏を外戚とする唯一の天皇の誕生を機に、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の朝廷に対する介入が本格化したのだ。ただ、明正天皇の治世中は、将軍家の度重なる強い圧力を嫌って突然退位した前天皇、父の後水尾による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷において実権を持つことは何ひとつなかったという。彼女自身、幕府と朝廷=母の実家と父帝の板ばさみとなり、ある意味で悲劇のヒロインだったともいえる。

 明正天皇の幼名は女一宮(おんないちのみや)、諱(いみな)は興子(おきこ)。明正天皇の在位は1629(寛永6)~1643年(寛永20年)、生没年は1624(元和9)~1696年(元禄9年)。奈良時代以来の女帝、明正天皇の誕生は、今日、後水尾天皇による「俄の御譲位」事件として記録されている。父の後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け、興子内親王として践祚(せんそ)。わずか数え年7歳のときのことだ。

 幕府による後水尾天皇への圧力として象徴的だったのが、無位無官の女性=春日局の参内だった。春日局は本名・山崎福、明智光秀の重臣、斎藤利三の娘、応募して徳川三代将軍家光の乳母となった気丈な女性だ。お福は将軍の代参として伊勢両宮に参詣の途次、京都に立ち寄り、参内したいと申し出た。しかし、無位無官の女性が参内するなどいうのは、前代未聞のことだ。そのため、公卿の誰かの子として、禁裏に招かれる体裁をとるということになった。だが、お福は老女なので、養家となるべき相応の公卿が見当たらない。そこで、やむなくとられた手段は、伝奏・三条西実条の姉妹分という扱いだった。ちなみに、春日局とは室町時代の将軍家の乳人(めのと)の称で、このときお福はそれに倣って、「春日局」の称号を許されたのだ。

 こうした体裁を整えたうえでお福は予定通り参内、禁中御学問所で天皇と対面し、西の階(きざはし)近くに召されて勾当内侍(こうとうのないし、長橋局)の酌で天盃(てんぱい)を受けた。『大内日記』によると、このときお福は、後水尾天皇の中宮和子(明正天皇の母)のいる中宮御所で、京都所司代・板倉重宗と落ち合い、そこから伝奏・実条の案内で参内したらしい。いずれにしても、お福は上首尾に天盃を賜り、面目を施したのだ。しかし、地下(じげ、無位無官)の女性が幕府の威光を背に強引に参内したというので、公卿らの憤懣はうっ積した。

 後水尾天皇の退位のきっかけとなった事件として指摘されるのが紫衣(しえ)事件だ。これは幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝廷・幕府間の対立事件で、江戸時代初期の両者の最大の不和確執だ。事の始まりはこうだ。幕府は1613年(慶長18年)、「勅許紫衣並 山城大徳寺 妙心寺等諸寺入院の法度」、1615年(元和元年)に「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。しかし、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。

 これを知った徳川三代将軍家光は1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして、多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じたのだ。この事件をきっかけに、こうした介入に承服できない後水尾天皇は、退位の決意を固めたといわれる。

 幕府には無断で、突然ではあったが、譲位を迫る将軍家の強引な仕儀に屈する形で、後水尾天皇は後継に幼女を据え、退位した。しかし、このことは後を託された明正天皇にとって、きわめて悲しい運命を科されたことをも意味した。それは、古代より天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない-という不文律があったからだ。

 この不文律は元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主要な意図だった。だが、後水尾天皇はこの不文律を利用し、徳川将軍家に対して反撃に出たのだ。皇室から徳川家の血を絶やし、後世までその累が及ばぬようにするという意図をもって、娘に白羽の矢を立て、明正天皇を即位させたとの見方があるのだ。後水尾天皇は将軍家の、天皇家に対する無礼な振る舞いに立腹、一時的な感情に支配されて退位したように見せながら、実際にはしたたかに計算したうえで明正天皇を誕生させたともいえるのだ。幕府の意向を十分汲みながら、皇室から徳川の血を排除するという、一石二鳥の妙手だったわけだ。事実、後水尾天皇は明正天皇への譲位後も朝廷内においては院政を敷き、引き続き実権は握っていたのだから。院政は本来、朝廷の法体系の枠外のしくみで、「禁中並公家諸法度」ではそれを統制できなかったのだ。

 明正天皇は1643年、21歳で異母弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位。以後54年間、女性の上皇として宮中にあった。崩御後、古代の女帝、第四十三代・元明(げんめい)、第四十四代・元正(げんしょう)両天皇の一字ずつを取って明正院と号した。

(参考資料)今谷 明「武家と天皇- 王権をめぐる相剋」、笠原英彦「歴

      代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」

藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

 藤原俊成女(ふじわらとしなりのむすめ)は、俊成(通称しゅんぜい)の娘ではなく、養女としていたが、実は孫だ。彼女の結婚生活は長続きせず、妻としての幸せには恵まれなかったが、30歳を過ぎてから後鳥羽院に出仕。後鳥羽院歌壇における俊成女の活躍は目覚しく、新古今時代を代表する女流歌人となった。女流歌人の『新古今和歌集』への入集歌は、式子内親王(しきしないしんのう)に次いで第二位だ。

 藤原俊成女の生没年は不詳。1171年(承安元年)ごろに生まれ、1251年(建長3年)以降に亡くなったと推測される。本名は不詳。実父は藤原盛頼。実母は俊成の娘、八条院三条。1177年(治承元年)彼女が7歳のころ、父は「鹿ケ谷の変」に連座して官職を解かれ、八条院三条と離婚。以後、彼女は祖父・俊成のもとに預けられたらしい。そして、俊成の養女となった。後に歌壇で「俊成卿女」などと称された。現実に『新古今和歌集』などには「皇太后宮大夫俊成女」として収められている。

 少女時代を祖父・俊成のもとで過ごし、20歳のころ、時の政界の実力者、土御門内大臣・源通親(みちちか)の次男、大納言・源通具(みちとも)と結婚した。1190年(建久元年)ごろのことだ。通具との結婚生活は、一男一女をもうけながらも長続きしなかった。1199年(正治元年)夫の通具は、土御門天皇の乳母、従三位典侍(ないしのすけ)按察局(あぜちのつぼね)・藤原信子(しんし)と結婚した。按察局は、通親の養女となって後鳥羽院の後宮に上った宰相君源在子(さいしょうのきみみなもとのざいし=承明門院)の異母妹で、通親を柱とする当時の権勢の中心にいた女房だ。

 夫の通具は父の名代として『新古今和歌集』の5人の撰者の筆頭だったが、藤原定家などは『明月記』の中でしばしば撰者としての見識のなさを記している。通具は、係累を見極め、出世のために何度も結婚・離婚を繰り返した父・通親と同様、出世欲が人一倍強く、人格的に俊成一族とは相容れなかったのだ

 そんな、肌合いの違う夫との以後の結婚生活は、形式的には夫婦関係を解消することはなかったが、俊成女にとって決して幸せなものではなかったようだ。そして、二人の関係は夫の夜離れにつれ、自然離別という状態になっていった。翌年の1200年(正治2年)には母の八条院三条が亡くなり、彼女はいっそう孤独な境涯になった。

 失意の俊成女が、輝きを取り戻すのは30歳を過ぎて、後鳥羽院の女房として出仕してからのことだ。幼い頃から俊成のもとで養育され、磨かれただけに、後鳥羽院歌壇で活躍し始めるのに時間はかからなかった。史料によると、後鳥羽院主催の1201年(建仁元年)八月十五日撰歌合(うたあわせ)が、「俊成卿女」の名の初見で、彼女のいわば「歌合デビュー」だが、その後、後鳥羽院歌壇の多くの歌合に参加している。その歌才ゆえに「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たとみられる。

 「風かよふ寝ざめの袖の花の香に かをるまくらの春の夜の夢」

 歌意は、春の夜明け方、ふと目覚めると、風がほのかに枕元にかよっている。その風は花の香を運んでくるばかりか、はらはらと散る花をさえ袖の上に運んでくる。その花の香に包まれて、果たして目覚めているのか、それとも春夜の夢の中にまだ漂っているのか分からないような、心地よさの中で、すべてが夢の中のようなひとときだ。

 『新古今和歌集』入集歌をみると、祖父・俊成、叔父・定家らの影響はもとより、『伊勢物語』『源氏物語』『狭衣(さごろも)物語』などの古典を縦横に摂取し、技巧的、構成的な作風を展開する最も新古今的な作家の一人といえる。

 「下燃えに思ひ消えなむけぶりだに 跡なき雲のはてぞかなしき」

 歌意は、片思いの苦しさの中で私はこがれ死にすることでしょう。せめて私を荼毘に付す煙なりとも、あの方に知ってもらいたいものだが、その煙さえ空に立ちのぼっては誰のものというしるしもない。悲しいことです。この歌も『狭衣物語』に収められている歌がベースになっている。

 晩年の住まいにちなみ「越部禅尼(こしべぜんに)」「嵯峨禅尼」などとも呼ばれた。家集に『俊成卿女集』がある。俊成女はいま、祖父・俊成と墓を並べ、京都の東福寺南明院に眠っている。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」

只野真葛 封建社会の束縛・苦難に、力強く生きた女流文学者

只野真葛 封建社会の束縛・苦難に遭いながら、力強く生きた女流文学者

 只野真葛(ただのまくず)は、『赤蝦夷風説考』を幕府に上申した工藤平助の娘、あや子の後の名だ。真葛は、天明から文化・文政の江戸時代中期~後期、家の没落や結婚の失敗などの幾多の苦難を乗り越え、自由で鮮やかな個性に輝く著作を残した。封建社会の束縛に取り囲まれながらも、自分を見失うことなく、一人の人間として力強く生きた女流文学者で国学者だった。只野真葛の生没年は1763(宝暦13)~1825年(文政8年)

 江戸の築地で生まれた只野真葛(当時は工藤あや子)の父は工藤平助。江戸ではかなり名の知れた医者だ。養父の工藤丈庵(くどうじょうあん)以来、伊達家に仕えているが、父は藩侯・伊達重村の命令で還俗し、それまでの周庵(しゅうあん)という医者らしい名前を改めて、平助を名乗るようになっていた。母は同じく伊達藩の桑原隆朝の長女、遊(ゆう)。

 あや子の別号は綾女。工藤綾子または、単にあや(綾)、また「工藤真葛」「真葛子」「真葛の媼(おうな)」とも称された。只野は婚家の姓。あや子の上に生後まもなく死去した子がいたが、実質的には弟2人、妹4人を合わせた7人の長女として育った。「真葛」の筆名は、両親が7人の子供たちを秋の七草の名に因んで呼称していたことに由来し、40歳のころから自ら用いるようになった。

 あや子は父の影響で蘭学的知見にも通じ、ときに文明評論家や女性思想家と評されるときもある。彼女は読本の大家として知られる曲亭馬琴とも親交があった。馬琴に批評を頼んだ経世論『独考(ひとりかんがへ)』、俗語体を駆使して往時を生き生きと語った随筆『むかしばなし』、生まれ育った江戸を離れて仙台に嫁してからの生活を綴った『みちのく日記』など多数の著作がある。

 あや子は幼女の時代から才弾けていて、筆が持てるようになった3歳の頃、すぐ「いろは」が書けるようになったし、『百人一首』も瞬く間に憶えてしまった。父は「あや子はもの憶えがいい」と喜んで、すぐ下の弟とともに、漢籍の素読を授けた。だが、そのうちにあや子に漢文の素読をさせることをやめた。あや子が「どうして?」と訊ねると、父は困ったような微笑を浮かべて「女が四角い文字を憶えると不幸せになるというからな。わしはあや子を不幸せにしたくないのさ」といった。そんな時代だった。

 女はもの知りであってはならない。女は男より賢くなってはいけない。つまり、男女は同等であってはならない。この考え方はあや子の時代から約200年経った第二次大戦まで続いた。18世紀半ばすぎに生きていたあや子は、この封建的規制を不自由なこと、理屈に合わないことと感じた。普通、この時代の女性のほとんどがこの規制の前に、黙って引き下がってしまうところだ。そのことがあや子の個性を裏付けるものといえるかも知れない。

 江戸時代の女性は、様々な社会的制約に取り囲まれていた。あや子=真葛はそれを痛いほど体験しながら、独自の道を開いていった。そして、いつか、封建的な制約を超えた、ユニークな思考を展開させていったのだ。1778年(安永7年)、あや子は伊達藩上屋敷へ奉公に出た。七代藩主・伊達重村夫人、近衛年子に仕えることになった。16歳のときのことだ。1783年(天明3年)、選ばれて重村の息女・詮子(あきこ)の嫁ぎ先、彦根藩の井伊家上屋敷に移ることになった。この井伊直富と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、当時の権力者、田沼意次だったという。

 これに前後して父・平助は1781年(天明元年)、『赤蝦夷風説考』下巻を、そして1783年(天明3年)には同上巻を含めすべて完成させた。ただ、1786年(天明6年)工藤家にとって極めて不運なことが起こった。徳川十代将軍・家治が亡くなり、これをきっかけに平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた開明派の老中首座・田沼意次が失脚。代わって保守派の松平定信が老中首座に就いたことで、平助の出世の見込みは全くなくなったのだ。

 また、あや子自身も1788年(天明8年)、夫の井伊直富が28歳の若さで病死した詮子のもとを辞し、実家(工藤家)へ戻った。そしてこれ以後、あや子はやむなく工藤家の支柱たらざるを得なくなった。そんなあや子に肉親の死、意に沿わぬ結婚の失敗など、様々な可能性が扉を閉ざしていった。しかし、彼女は決して「人間とはなにか、そして生きるとは?」という問いかけを忘れることはなかった。

 真葛は、二度目に嫁いだ伊達藩士・只野行義のもとで、ようやく「書くこと」によって己れの居場所を見い出すことになり、それは夫の死後も変わらなかった。女流文学者・只野真葛の誕生だった。

(参考資料)永井路子「葛の葉抄(くずのはしょう)」、大石慎三郎「田沼意次の時代」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」

大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、穂積皇子、藤原麻呂、大伴宿奈麻呂(すくなまろ)らに嫁ぎ、後年は氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。額田王以後最大の女流歌人で、『万葉集』に長短歌84首が収められている。これは女性では最多で、全体でも大伴家持、柿本人麻呂に次いで第三位だ。大伴坂上郎女の生没年は不詳。

 大伴坂上郎女は、大納言・大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母。坂上郎女の通称は、坂上の里(現在の奈良市法蓮町北町)に住んだためという。7世後半に生まれ、750年(天平勝宝2年)ごろまで生きた。藤原時代の最後から奈良朝初期に歌を残し、『万葉集』に84首が収められている女流最多の歌人。これに次ぐのが笠郎女の29首だから、その差は歴然としている。

    晩年の穂積皇子に愛され、次いで藤原不比等の四男で京家の祖・藤原麻呂の妻となった。その死別後、異母兄・大伴宿奈麻呂に嫁して坂上大嬢(おおいらつめ)、二嬢(おとのいらつめ)を産んだ。724年(神亀元年)~728年(神亀4年)ごろ宿奈麻呂が亡くなった後、異母兄の旅人を追って大宰府に下向した。帰京後は佐保邸にとどまり、一家の刀自(とじ=家政をつかさどる婦人の称)として、また氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。旅人が亡くなった後は、甥の家持を後見し、家持の歌人としての出発に多大な影響を及ぼすとともに、娘の大嬢をその妻として嫁がせた。

 大伴坂上郎女の歌人としての評価は高い。その題材も相聞歌、祭神歌、挽歌など多岐にわたっている。とりわけ、恋の歌において、即興的・機知的な才を遺憾なく発揮した。

 「夏の野の繁みに咲ける姫百合の 知られぬ恋は苦しかりけり」

 歌意は、夏の野の繁みにひっそりと咲いている姫百合のように人に知られない恋は苦しいものだなあ。

 「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波 やむ時もなし我が恋ふらくは」

 歌意は、佐保川の川面を岩ばしるながれのように、私の恋心もまた激しく、とどまることはない。

 「山菅(やますげ)の実ならぬことを我(わ)に寄そり 言われし君はたれとか寝(ぬ)らむ」

 歌意は、山菅が実を結ばないことを、私との仲になぞらえて世間から噂されたあなたは、いまごろどなたと一緒に寝ているのでしょうか。

 「黒髪に白髪(しろかみ)交じり老ゆるまで かかる恋にはいまだ逢はなくに」

 歌意は、黒髪に白髪が混じって、これほど年取るまで、こんな恋にはまだ出逢ったことはありません。

 「恋ひ恋ひて逢える時だに愛(うつく)しき 言(こと)尽くしてよ長くと思はば」

 歌意は、恋して恋して、やっと逢えたときくらい、情け深い言葉をありったけ言い尽くしてください。これからも二人の仲を長く続けようと思うなら。

 「ぬばたまの夜霧のたちておぼほしく 照れる月夜の見れば悲しさ」

 歌意は、夜霧が立ち込めて、ぼんやり照っている月を見ると悲しいことだ。 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

大伯皇女 伊勢神宮の斎宮を務め、非業の最期を遂げた大津皇子の姉

大伯皇女 伊勢神宮の斎宮を務め、非業の最期を遂げた大津皇子の姉

 大伯皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女で、大津皇子の同母姉だ。673年から伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)を務めていたが、天武天皇崩御がこの大伯皇女はもとより、大津皇子を含めた姉弟の不幸を呼ぶ引き金となった。天武天皇病没後の政情不穏な中で、天武の皇后・持統天皇が仕掛けた策謀にかかり、弟・大津皇子が謀反の罪で処断されると、大伯皇女も斎宮を解かれ、表舞台から姿を消した。大伯皇女の生没年は661年(斉明天皇7年)~702年(大宝元年)。

 大伯皇女は斉明天皇の時代、中大兄皇子が実質上、指揮し、百済救援軍を派遣するため天皇家一族が筑紫へ向けて西下した際、その途中、備前国大伯(おおく)(岡山県邑久郡、おくぐん)の海上で生まれたため、そこからこの名が付けられた。「大伯」は「大来」で表記されることもある。大伯皇女・大津皇子の姉弟が、なぜ持統天皇に嫌われ、排除されるのかといえば、二人はいまは亡き、持統天皇の同母姉・大田皇女の子だからだ。

    とりわけ、弟の大津皇子は眉目秀麗で文武両道に優れていたのに対し、持統天皇の息子、草壁皇子は虚弱体質で凡庸だったと伝えられる。そのため、持統天皇にとって大津は息子を脅かす存在だったため、実子・草壁を皇位に就けたいと願う持統天皇の、排除のターゲットとなったのだ。

   歴史に「たら」「れば」をいっても仕方がないのを承知で、あえていえば、成り行きに任せれば、持統天皇誕生の目はなかった。大伯皇女・大津皇子の姉弟の母・大田皇女は二人の幼少時亡くなっているが、もし健在なら当然、大田皇女が皇后となっているはずで、大津が皇太子となり、天武天皇の後継となっていただろう。

 大伯皇女は673年(天武天皇2年)、父の天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)と定められ、翌674年、伊勢国に下向した。わずか13歳のときのことだ。これにも皇后・持統の意向が働いているとみられる。厄介払いされたのだ。都にとどまり、結婚し子をもうけられると、実子・草壁皇子の子の時代にライバルが増えてしまうからだ。以来、彼女は12年間にわたって斎宮を務めた。

686年(朱鳥元年)自分の運命を予感した大津皇子は、伊勢神宮・斎宮のたった一人の姉、大伯皇女に会いに行く。姉弟は久しぶりの、そして最後の別れを惜しんだ。幼くして母を失った二人きりの同母きょうだいの心の結びつきはよほど強かったのだろう。伊勢から都へ帰る大津皇子を見送るときに詠んだ、大伯皇女の歌が次の一句だ。

「わが背子を大和に遣るとさ夜ふけて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」

10月3日、大津皇子が謀反人として死を賜った後、大伯皇女は11月17日に伊勢神宮・斎宮の任を解かれ退下し、都に帰った。都に戻った大伯皇女が詠んだ歌2首を紹介する。

 「神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君あらなくに」

 歌意は、神様がいる伊勢にいれば良かった。あなたがいない所に帰ったと

て、何になりましょう。

 「現身(うつそみ)の人なる我や明日よりは 二上山を同母弟(いろせ)と

我が見む」

 歌意は、もはや生きているとはいえない私です。明日からはあなたが眠る

二上山をあなただと思って眺める暮らしになります。

 『万葉集』には大伯皇女の短歌6首が収められている。いずれも無残な死を遂げた弟・大津皇子に対する深い愛情を歌いこんだ秀歌だ。これ以後、大伯皇女がどうなったか、分かっていない。結婚もしなかったとみられる。正史には41歳で亡くなったことだけが記録されている。天武朝から持統朝へ移行した途端、手の平を返したように、謀反人に仕立てられた皇子・大津、そしてその姉・大伯皇女の無念さが伝わってくる。

(参考資料)黒岩重吾「天翔る白日 小説 大津皇子」、神一行編「飛鳥時代の謎」

大弐三位 宮中で、高官夫人として才華を発揮した紫式部の娘

大弐三位 宮中で、高官夫人として才華を発揮した紫式部の娘

 大弐三位(だいにのさんみ)は平安時代中期の女流歌人で、王朝の才女、あの紫式部の娘だ。二度の結婚生活、後に後冷泉天皇となる皇子の乳母も経験した女性だ。多くの「歌合」で歌を詠み、勅撰和歌集『後拾遺和歌集』に37首が収められている。真偽は定かではないが、『源氏物語』宇治十帖や『狭衣(さごろも)物語』の作者ともいわれる。宮中で、そして高官夫人として、母・紫式部譲りの才華を発揮した女性だった。大弐三位の父は藤原宣孝。本名は藤原賢子(けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれた。大弐三位の生年は999年(長保元年)ごろで、没年は1082年(永保2年)。

 藤原賢子は1001年(長保3年)の3歳ごろ、父と死別。その後は祖父・藤原為時と母・紫式部に育てられた。1017年(長和6年)、18歳のころ、母・式部の後を継ぎ、一条院の女院・彰子(上東門院)に女房として出仕した。当時は祖父の任国の越後国と官名を取って越後弁と呼ばれた。この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任(あさとう)ら上流貴公子たちと交際があったことが知られている。その後、賢子は関白・藤原道兼の二男・兼隆と結婚、一女をもうけた。1025年(万寿2年)、親仁(ちかひと)親王(後の後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられた。1037年(長暦元年)までの間に東宮権大進(とうぐうのごんのだいしん)、高階成章(たかしなのなりあき)と再婚、1038年(長暦2年)、為家を産んだ。

 1054年(天喜2年)、第七十代・後冷泉天皇の即位とともに、同天皇の幼少時、乳母を務め弁乳母と呼ばれた彼女は従三位典侍(じゅさんみのすけ)に昇叙、夫・成章も大宰大弐に就任した。大弐三位は、この官位と夫の官名に由来する女房名だ。

 紫式部の才能を受け継ぎ、この間、大弐三位は歌人としての才能に磨きをかける。1028年(長元元年)の「上東門院菊合」、1049年(永承4年)の「内裏歌合」、1050年(永承5年)の「祐子内親王歌合」など多くの歌合で歌を詠んでいる。

 家集『大弐三位集』があり、『後拾遺和歌集』に37首入集。『後拾遺和歌集』、そして『小倉百人一首』に収められている歌を紹介する。

 「有馬山 ゐなのささ原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」

 歌意は、有馬山や猪名の笹原に風が吹くと、そよそよと音をたてる。その「そよ」ではないが、さあそれですよ、私はあなたのことを忘れなどするものですか。あなたこそ私によそよそしいではありませんか。

 詞書(ことばがき)によると、作者、大弐三位のところに通っていた男が作者に対して、うとうとしくなりながら、自分のことをたなにあげて、作者に「あなたの心が頼りない」といった。そこで作者はこの歌で「頼りにならないのは、あなたの方です」と反撃したのだ。自分から遠ざかりそうな男の不実を恨む女心の寂しさが、うまく表現されている。男に皮肉で言い返したのだが、その皮肉・抗議も正面切ったものではなく、心細さや哀れさを感じさせて、余韻がある。

 大弐三位は、恐らく40歳くらいと比較的短命だった母・紫式部とは対照的に、父、母を失ってからも、したたかに、そして快活に生き抜き、80年を上回る生涯を駆け抜けた。

(参考資料)曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

大田垣蓮月 天性の美貌に恵まれながら結婚運に恵まれず尼僧に

大田垣蓮月 天性の美貌に恵まれながら結婚運に恵まれず尼僧に

 大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)は江戸時代末期の尼僧歌人・陶芸家だ。彼女は天性の美貌に恵まれながら、結婚運あるいは家庭運には恵まれなかった。そのため、33歳のころ剃髪、42歳のころ俗世の縁を断ち切り得度、洛東・岡崎村の山中に草庵を結び、初めて安心立命の境地に達し、その後は幕末の京に住まいながら、動乱の時代とはほとんど無縁で、陶芸と歌を詠み生涯を全うした。

 大田垣蓮月は、伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎良聖(よしきよ)の庶子という。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。蓮月の生没年は1791(寛政3)~1875年(明治8年)。生後すぐ京都知恩院の坊官、大田垣伴左衛門光古(みつひさ/てるひさ)の養女となった。7、8歳のころ丹波亀山藩の京屋敷に奥勤めとして奉公し、薙刀ほか諸芸を身に付けた。1807年(文化4年)、17歳のとき大田垣家の養子、望古(もちひさ)と結婚。一男二女をもうけたが、いずれも夭折した。夫の放蕩により、1815年(文化12年)離婚し、京都東山の知恩院のそばに住んだ。

   1819年(文政2年)、29歳のとき、大田垣家に入家した古肥(ひさとし)と再婚し一女を得たが、4年後夫は病没。葬儀の後、養父とともに知恩院で剃髪し、蓮月を称した。2年後、7歳の娘を失い、さらに1832年(天保3年)42歳のとき養父を亡くした。こうしてみると、前世からの何か、得体の知れない宿縁でもあるかのように、次から次へと不幸が彼女を襲う。このように蓮月は一人取り残され、精神的に寂寥のうちにあったが、天性の美貌ゆえ、その後も言い寄る男が後を絶たない。しかし、養父が亡くなった1832年(天保3年)ごろ、俗世の縁を断ち切ることを決意して得度。洛東・岡崎村の山中に草庵を結んで、初めて安心立命の境地に達することができた。

このころ、山中の草庵で詠んだ歌がある。

「山里は松の声のみ聞きなれて 風吹かぬ日は寂しかりけり」

山里の寂しさを歌うようでいて、その実、その静けさの中に澄み切った心を委ねて穏やかに暮らしているさまがよく表現されている。

    その後、蓮月は岡崎、粟田、大原、北白川などを転々とし、急須、茶碗などを焼いて生計を立てた。彼女は引っ越し魔として知られ、三十数回も居宅を変えているが、愛する人々の墓参りのために、そして陶芸の土を確保するため、岡崎近傍を離れることはなかった。

 やがて、その名は高まり自作の和歌を書き付けた彼女の陶器は「蓮月焼」と呼ばれて人気を博するようになった。しかし、自身は質素な生活を続け、飢饉の際には30両を匿名で奉行所に喜捨したり、資財を投じて賀茂川の丸太町に橋を架けたりしたという。1867年(慶応3年)、西賀茂の神光院の茶所に間借りして境内の清掃と陶器制作に日を送り、1875年(明治8年)85歳で亡くなった。

 蓮月は、和歌は上田秋成、香川景樹に学び、小沢藘庵に私淑したという。穂井戸忠友、橘曙覧(あけみ)、野村望東尼らと交流があった。なお、後に画家として名を成す富岡鉄斎は、蓮月尼老年の侍童だ。1868年(明治元年)、『蓮月高畠式部二女和歌集』が出版され、1871年(明治4年)には近藤芳樹編の家集『海女の刈藻』が刊行された。

 蓮月の代表作として次の歌が知られている。

 「宿かさぬ人のつらさを情(なさけ)にて おぼろ月夜(づくよ)の花の下臥(ぶ)し」

 旅の途中で野宿せざるを得なかったとき、人の無情を恨むのではなく、むしろ月を眺めながら花を友として寝ることを喜びと感じられる心の豊かさを持っていたのだ。

 「願はくばのちの蓮の上に くもらぬ月をみるよしもがな」

 これは、蓮月の名を詠み込んだ辞世だ。没後、死出の装束とともに用意されていた蓮と月の絵に、画賛として誌されていた。

 蓮月の出自に別説がある。作家の澤田ふじ子氏によると、蓮月の父は伊賀上野ではなく津藩主の藤堂高猷(たかゆき)の縁者で藤堂良聖(よしきよ)といい、母は不明。洛中の河原町丸太町東入ルで生まれたという。そこは、三本木と俗称される花街の住所だから、要するに母は三本木芸者だったのだ。それなら、蓮月が置屋で生まれて寺侍の養女となり、少女時代に丹波亀山藩の京屋敷に奉公に出たという経歴もスムーズに理解できる。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

相模 離婚後、情熱的で奔放な恋の歌を数多く、評価の高い女流歌人

相模 離婚後、情熱的で奔放な恋の歌を数多く残した、評価の高い女流歌人

 相模(さがみ)は、情熱的で妖艶な歌風で知られ、相模守・大江公資(きんすけ)と離婚した後、浮き名を流した奔放な恋を回顧して詠んだ歌などに佳作が多い。勅撰集に合計百九首が入っているほか、『後拾遺和歌集』に採られた四十首は和泉式部の六十七首に次いで二位だ。『新勅撰和歌集』には十八首で和泉式部の十四首よりも多かった。それだけ、女流歌人としての評価が高かった人物なのだ。

 相模の生没年は不詳だが、宇治関白・藤原頼通と同時代の宮廷で1020年代から1050年代にかけて、優れた恋歌を数多く残した歌人だ。大江山の鬼退治で名を馳せた源頼光の娘とも養女ともいわれる。母は慶滋保章(よししげのやすあき)の娘。頼光は清和源氏だが布衣(ほい=無官)、慶滋氏は学者の家系で、いずれにしても下級貴族だ。

 相模は初め、第六十九代・後朱雀天皇の皇女、祐子(ゆうし)内親王に仕えて、乙侍従(おとのじじゅう)といわれた。その後、相模守・大江公資の妻となったので、その縁で以後、相模と通称された。ただ、不幸にも夫婦生活はそれほど長くはなかった。公資が相模守に任官したのは1021年(治安元年)だが、その任地で次第に夫婦の仲が疎隔。相模守の任期を終え京に帰って後、公資が次に遠江守に任じられたときには、二人の仲は亀裂が走り、相模は同行していない。公資は別の女性を任地に伴っているから、恐らく離婚したのだ。それにしても、この大江公資、相模夫妻は、ともに歌人として知られ、仲もよかったといわれるが、儚いものだ。

    二人の仲が良かったときのこんなエピソード伝わっている。公資はかねて望みの大外記書記官に任じられそうになった。そのとき、ある人が公資は妻の相模と一緒に歌をつくるのが好きで、そのために役目がおろそかになるのではないかとからかった。この一言がもとで、公資はその役がふいになったという。

 「恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」

    この歌は『小倉百人一首』に収められている作品で、歌意は恋人の無情を恨めしく重い、悲しんで、涙のために乾くひまもない袖、そのため袖は濡れて朽ちてしまいそうだ。そのうえ、この恋のために立つ噂に私の名まで朽ち果ててしまうのは本当にくやしいことです。

 公資と別れた後、一条天皇の皇女、脩子(しゅうし)内親王家に仕えていた時代に浮き名が知られた権中納言・藤原定頼、源資通らとの奔放な恋を回顧して詠んだ歌とされる。

 「五月雨(さみだれ)の空なつかしく匂ふかな 花たちばなに風や吹くらむ」

    これは6月の季節感を詠んで心に深く訴える佳作だ。さみだれは旧暦5月の雨、つまり梅雨のこと。橘はそれに先立って白色五裂の小花が咲き、芳香を発する。そうした季節感を強く意識するとともに、彼女は心密かに往時、その季節にあった、心躍る恋を回顧し、懐かしんでいるのかも知れない。

    相模は歌道の指導的立場にあったばかりでなく、和泉式部、能因法師、源経信らと交流があったことがそれぞれの家集からうかがえる。

(参考資料)曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、高橋睦郎「百人一首」

善信尼 日本最初の尼僧で15歳で百済に留学、戒律を学んだ先駆者

善信尼 日本最初の尼僧で15歳で百済に留学、戒律を学んだ先駆者

 善信尼(ぜんしんに)は飛鳥時代、11歳で出家した日本最初の尼僧の一人で、15歳で百済に留学、戒律を学び帰国。多くの女性を尼として得度、出家させ仏法興隆貢献したと伝えられる女性だ。善信尼は鞍作部(くらつくりべ)の司馬達等(しばたっと)の娘だ。名は嶋。仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の叔母にあたる。中国からの渡来人、恵善尼(えぜんに)、禅蔵尼(ぜんぞうに)とともに得度、出家したといわれる日本最初の尼僧の一人。善信尼の生年は574年(敏達天皇3年)だが、没年は不詳。

 司馬嶋は584年(敏達天皇13年)、百済から請来(しょうらい)した弥勒像供養のために、高句麗から招いた僧・恵便(えびん)に師事、出家し善信尼と名乗った。彼女がまだ11歳のときのことだ。こうして日本初の出家者が誕生した。このとき、中国からの渡来人、恵善尼、禅蔵尼とともに、斎会を行ったと伝えられる。

 仏教の受け入れを巡る諸豪族の姿勢は、消極派が大勢を占めていたといっていいだろう。時代はさかのぼるが『日本書紀』によると、552年(欽明天皇13年)、百済から仏教が伝来すると、欽明天皇はその礼拝の賛否を群臣に諮った。開明派の蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)は積極的に賛成したが、物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)は、「蕃神(あだしくにのかみ)」(仏のこと)を礼拝すれば「国神(くにつかみ)」の怒りをかうであろうと反対した。

 そこで、欽明天皇は試みに稲目に礼拝することを許したが、後に疫病が流行し、病死する者が多く出た。尾輿らはその原因を、仏を礼拝したためとして、仏像の破却を欽明天皇に上奏し、仏像を難波に流し、寺を焼いた。この双方の対立は子の時代に引き継がれた。稲目の子・馬子、尾輿の子・守屋だ。こうした崇仏派と廃仏派が激しく対立しつつあった当時、日本初の出家者に対する社会の目は冷たいものだった。翌585年(敏達天皇14年)、廃仏派の急先鋒、物部守屋に廃仏運動の、崇仏派に対する見せしめとして、彼女たちは法衣を剥ぎ取られて全裸にされ海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処された。

 崇仏派の代表者が蘇我馬子だが、馬子はなぜ司馬嶋を選んだのか?それは、政治的な側面を考慮した、もっといえば彼女たちは政治的な道具として利用されたとみるのが妥当なようだ。馬子は、まだまだ得体の知れない仏教を受け入れるにあたり、いきなり男性の僧をつくることは政治的反発も強いと予想。こうした批判を牽制しつつ、神道の巫女と同様のイメージを中心に据え、渡来人だった司馬達等の娘であれば、万一、仏教受容に失敗したときも言い逃れできると読んだのだ。いわば、馬子の巧妙なリスクヘッジの産物だったわけだ。

 年長の善信尼は、馬子の期待通り守屋に辱めを受けた後も、他の二人を元気づけ、尼僧としての務めを果たしていく。善信尼は588年(崇峻天皇元年)、戒律を学ぶため百済へ渡った。後の中国・隋や唐への遣隋僧・遣唐僧に先立つものだ。15歳の善信尼の留学だった。百済で彼女は十戒、六法、具足戒を受け、2年間の留学を終え、590年帰国した。

 帰国後は、馬子が提供した大和国桜井寺(現在の明日香村・豊浦?)に住み、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の娘・善徳(ぜんとく)をはじめ多くの女性を得度、出家させ、仏法興隆に貢献したといわれる。

(参考資料)黒岩重吾「磐舟の光芒 物部守屋と蘇我馬子」、黒岩重吾「紅蓮の女王 小説 推古女帝」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」

正親町町子 名門公家から柳沢吉保の側室となり『松蔭日記』を著した才媛

正親町町子 名門公家から柳沢吉保の側室となり『松蔭日記』を著した才媛

 正親町町子(おおぎまちまちこ)は、藤原北家閑院流、羽林家の家格を有する由緒ある公家の娘だが、江戸時代前期、16歳のころ江戸へ下向して、柳沢保明(後の徳川五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保)の側室となった女性だ。才媛として知られた彼女が、夫・柳沢吉保の幕閣としての栄華と精進を細やかに綴った『松蔭日記』は今日に至るまで高い評価を得ている。

 正親町町子は、権大納言正親町実豊の庶腹の子、神道家公通の異母妹。初名は弁子。町子の生年は1675年(延宝3年)ごろ、没年は1724年(享保9年)。1691年(元禄4年)、江戸へ下向して柳沢吉保(当時は保明)の側室となった。ただ、正親町家というのは、一大名の側室としては家格が高すぎ、全く釣り合いが取れないため、母方の姓の田中氏を名乗った。

 なぜ、このような不釣合いな婚儀が成立したのか。それは、町子の母が御所時代の右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね、宮中時代は常盤井局=ときわいのつぼね)に仕えていた縁による。右衛門佐局は将軍生母とはなれなかったが、将軍綱吉の御台所・信子に請われて綱吉の御手附中臈となった才色兼備の女性で、最終的に大奥総取締の役に就いている。

 高貴の家格から迎えた妻の好印象も手伝って、夫・柳沢吉保は将軍綱吉に重用され、幕府大老格・将軍側用人として権勢を振るうまでに大出世した。そして、町子は1694年(元禄7年)、1696年(元禄9年)にそれぞれ吉保の四男・経隆、五男・時睦を産んだ。

 公家から、武家へ嫁いだ町子の心境の一端を示す歌がある。

 「さかゆべき生(おひ)さき見えて今よりや にひ玉松の陰しげるらん」

 朝廷、そして由緒ある公家といえども、「禁中並びに公家諸法度」の統制の下に置かれ、徳川の治世が磐石になったこの時代。公卿の姫たちの最高の出世は、将軍・諸侯の側室となることだった。それが家門の、つまり家計のためだった。彼女たちが帯びた、その悲しい使命を理解せずには味わえない歌だ。

 武家側も、ある程度立身すれば、少々、背伸びをしてでも京都から公家の姫君を側室に迎え、家門にハクをつけることに躍起になった面もあったのだ。こうして、双方の利害が一致、今日風に表現すれば政略結婚が成立していったというわけだ。

 町子が著した『松蔭日記』は、近世女流文学中の出色のものという評価もある。これは、実直に勤める夫・吉保が栄え、そして仕えた綱吉没後に隠居していくまでを描いたものだ。大地震や火事による焼失のときの人々の動きや再建される様子、病気見舞い、回復祝いに、お祝い返し、新築祝いに、お祝い返しなど、とにかく日々のできごとを客観的に書いている。そして、これが大きな特徴なのだが、文章の至るところに古書(古典・古文)の一文を意識した言葉が散りばめられているのだ。和歌文学者的素養がなければ書けない作品だ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、朝日日本歴史人物事典

森田無絃 世にも稀なブスが射止めた尊皇派の奇人学者森田節斎の妻の座

森田無絃 世にも稀なブスが射止めた尊皇派の奇人学者森田節斎の妻の座

 森田無絃(もりたむげん)は、幕末から明治にかけて生きた関西の女学者だ。当時としては珍しい、女性の学者が生まれるについては、彼女自身が非常な学問好きだったことはもちろんだが、幼いころ痘瘡を患ったこともあって、世にも稀なブスだったため、彼女の父が恐らく嫁の貰い手がない娘を不憫に思い、せめて本人の好きなことをさせてやりたいと考え、親しい学者に娘を預けたためだ。

 森田無絃は摂津国高槻藩(現在の大阪府高槻市)藩士、小倉藤左衛門(おぐらとうざえもん)の娘だ。本名は琴子。小倉琴子は幼いころ痘瘡を患い、稀に見る不器量な娘だった。同じ女に生まれて、どうしてこうも違うのだろうと恨み言を言いたくなるほどだったという。ただ、彼女は非常に学問が好きで、娘時代から「秋花園(しゅうかえん)」という号を名乗っていた。森田無絃の生没年は1826(文政9)~1896年(明治29年)。

 父の藤左衛門は娘の学問好きを見込んで、親しい大坂の学者、藤沢東畡(ふじさわとうがい)のところに預けた。不器量な顔に生まれた娘に、せめて女学者として、名でも立ててくれれば、それなりの生き方ができるだろう-と考えたからだ。

 琴子が師とした藤沢は、日本の国体にも深い関心を寄せ、「天皇の系統による国体は、孔子の学説に叶っている」と唱えていた。琴子は学問を学びながら、藤沢家の家事の手伝いをするという、いわゆる内弟子だった。藤沢のもとには数多くの男の学生がいた。琴子は、藤沢が学問を教え始めると、その若い男の学生たちの後ろで、ひっそりと師の教えを聴いていた。だが、若い男子学生で、琴子に関心を寄せる者は誰もいなかった。琴子の器量が悪かったので、家事のお手伝いさんが、暇をみて先生の学問を片隅で聞いているのだろう-という程度にしかその存在を考えなかった。

 しかし、娘の琴子にとっては、そうした現実はショックだった。やはり同世代の男に目を向けてもらいたい。それがないため、彼女は次第に孤独になっていった。そうなると、自分でつけた「秋花園」という名前が、何か空々しくなった。美しくもないのに、秋の花の園などと名乗ることが、おこがましくも感じられた。そこで、彼女はその後、「無絃」と名乗るようになった。無絃の「絃」は琴に張った糸のことだ。自分の名が琴子なので、「絃の無い琴」という思いを込めたのだ。

 そんな琴子にとって、予想もしていなかったことが起こる。琴子を嫁に貰いたいという変わった男が現れたのだ。琴子が29歳のときのことだ。夫となったのは大和国(現在の奈良県)の儒学者、森田節斎(せっさい、44歳)だ。森田節斎は、幕末の“奇人学者”の一人だ。大和・五条の医者の息子に生まれた彼は、家業を継がないで、学問を修めた。世の中を鋭く見る目も持っていて、時世に合わせた学説を唱えるので、人気があった。そして、彼は大坂から関西地方を転々として歩き回った。頼山陽と非常に仲良くなった。江戸へも出て学んだ。後には、節斎の学問を慕って、長州(現在の山口県)の吉田松陰をはじめ遠くから訪ねてくる門人が何人もいた。

 節斎の学説は、尊皇論だ。ただ、彼は詩人だったので、尊皇倒幕を現す具体的な方法まで教えることができなかった。端的にいえば、若者たちを煽動して歩いていたのだ。ただ、1854年(安政元年)、44歳になっていたが、まだなぜか独身だった。高槻藩の鉄砲奉行に友人がいた。その友人の伝手で琴子のことを聞き、その彼女が藤沢の内弟子になっていると教えられた。節斎は藤沢とは旧知の仲だった。

 そこで、節斎はすぐ藤沢を訪ね、琴子を妻にしたい旨伝え、琴子本人と会った。そして、思わず心の中でアッと声をあげた。余りにも不器量だったからだ。だが、彼はそんなことでへこむような男ではなかった。琴子を藤沢門下一の女学者よ、と名指したうえで、節斎は「失礼だが、その器量で私以外の誰のところに嫁に行こうと考えておられますか?」と切り出した。押し付けがましい言い方だった。が、琴子は逆らわなかった。師の藤沢から節斎の噂を嫌というほど聞いていたからだ。藤沢は節斎を誉め称えていた。その本人にいま会っているのだ。琴子は、節斎を見返しながら、「いま日本で第一の文章家だとうかがっております森田節斎先生が、私を妻にしてくださるのでしたら、私は半分は師、半分は夫として仕えます」と答えた。

 節斎は琴子と結婚した。友達が「節斎先生、えらい美人をお貰いになったそうだな?」とからかった。節斎は平然と笑っていた。そして、自分のつくった俳句を示した。『どぶろくも 酒とおもえば 酒の味』これには友人たちも大笑いした。しかし、どぶろくに例えながらも、決して琴子をばかにしていないことを知って、それ以後はからかわなかった。 事実、節斎は琴子を尊敬していた。その学殖の深さと、文章力の確かさは、時折節斎を超えた。

 大和・五条は南北朝時代には南朝と縁の深いところだ。尊皇精神は脈々と続き、節斎にもその血は流れていた。節斎は付近の農民たちを集めて、いつか天皇の役に立つ兵士を育てようと、集団訓練を始めた。ところが、節斎にとっては想定外のことが起こった。中にいた過激派が京都の公家、中山忠光を担ぎ出し、「天誅組の乱」を起こしたのだ。乱はすぐ鎮圧されたが、幕府側は「この乱を裏で煽動したのは、森田節斎という勤皇学者だ」と狙い始めた。

 節斎と琴子は、五條にいられなくなって、中国地方に逃れた。倉敷で塾を開いた。このころから、節斎と一緒に弟子たちを教えていた琴子の発言力が強くなった。弟子を選んだり、あるいは追放したりすることに、琴子が干渉した。ある身持ちの悪い弟子をめぐって二人は言い合いになり、節斎は琴子を離縁してしまった。生まれた息子を節斎のもとに置き、傷ついた琴子は大坂に戻って、小さな塾を開いた。もう一人の女学者として十分に生活できた。一方、子供の面倒をみながら、倉敷にもいられなくなった追われる身の節斎は、放浪生活を続けた。そうなると、節斎の頭の中には琴子の姿がちらついた。

 森田節斎は、遂に幕府の権力に屈した。転向宣言をしたのだ。節斎の号を「愚庵(ぐあん)」と改めた。やがて、幕府が倒れた。明治維新になると、節斎と親しかった、いまは新政府の役人になっている春日潜庵(かすがせんあん)が心配して、節斎を探し回った。そして、「琴子さんのところに戻れ」と説得した。二人を迎えた琴子は、育った息子を抱きしめて泣き続けた。節斎は「やっと琴のところに戻ってきた」といった。涙の顔をあげた琴子はこういった。「いいえ、私は琴でも絃がありませんでした。あなたが私の絃だったのです。絃の無い毎日は、本当にさびしゅうございました…」。負け惜しみの強かった節斎は、頷きながら、思わずホロリと涙を落とした。家族の“きずな”が復活した瞬間だった。

 森田無絃の主な著作に『地震物語』『呉竹一夜話』などがある。

(参考資料)童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」

小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

 小姉君(おあねのきみ)は蘇我稲目(いなめ)の娘で、同様に欽明天皇の妃となった姉・堅塩媛(きたしひめ)とともに、大和朝廷における蘇我氏の勢力台頭および権力拡大に貢献した女性の一人だ。小姉君は、欽明天皇との間に5人の皇子・皇女を産んだ。茨城皇子(うばらきのみこ)、葛城皇子(かずらきのみこ)、穴穂部間人皇女(あなほべの はしひとの ひめみこ、聖徳太子の母)、穴穂部皇子(敏達天皇の弟)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)がそれだ。ただ後年、この小姉君系の皇子たちは悲しい運命をたどった者が多く、姉の堅塩媛系と明暗を分けた。

 蘇我氏は古代史における最大の氏族で、馬子の時代から蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)などが大王家に対して専横を極め、大化改新で滅ぼされたという悪のイメージが強い。だが、この蘇我氏、実は6世紀初頭に稲目が突然、大臣(おおおみ)として出てくるまでは、歴史に登場してくることもあまりなかった謎の多い氏族なのだ。突然、勃興して、古代史の一番のキーポイントを握る存在となった割には、『古事記』『日本書紀』における稲目以前の記述があまりにも簡単すぎる。

『古事記』や『公卿補任(くぎょうぶにん)』などをもとに、蘇我氏の系譜をたどってみると、祖先は伝承の人物・武内宿禰(たけしうちのすくね)の子、蘇我石川宿禰から始まり、満智(まち)-韓子(からこ)-高麗(こま)-稲目と続く。満智からが実在の人物とされている。韓子、高麗も百済の名前なので、蘇我氏は百済系渡来人の総領家として漢(あや)氏や秦(はた)氏を従え、大伴氏や物部氏らの軍事家系ではなく、財政を管理する新しい官僚として登場。大和政権の財政を仕切った氏族だった。

 蘇我氏台頭のいま一つの大きな要因が、聖徳太子の事績にあるように仏教を、熱意を持って取り入れたことと、稲目が大王=天皇の妃に堅塩媛・小姉君の2人の娘を入れて大王家の外戚になったからだ。馬子時代以降の蘇我氏隆盛の要因は、欽明天皇に嫁いだ堅塩媛と小姉君の姉妹による閨閥づくりにあるが、この姉妹のその後の生涯はなぜか明暗を分けた。用明天皇、推古天皇が皇位に就き繁栄を続ける姉・堅塩媛系に対し、小姉君系はどうしたわけか悲運をたどった。

   小姉君系のその一人、崇峻天皇は同じ蘇我氏一族でありながら、馬子の指示を受けた東漢直駒(やまとのあやの あたいこま)に殺害されているし、聖徳太子も母方は小姉君系であり、太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)もやがて、入鹿(馬子の孫)に一族を滅ぼされているのだ。馬子-入鹿らはなぜ、同じ父、そして祖父にあたる稲目の娘・堅塩媛系を正統視し、小姉君系を排斥・排除していったのか。

     もちろん、これには有力豪族、物部氏との対立を抜きには語れない。対立の構図は「堅塩媛-用明天皇-蘇我馬子」と「小姉君-穴穂部皇子-物部守屋」だ。587年(用明2年)、用明天皇が逝去。守屋は皇位継承者に穴穂部皇子を推した。兄弟相続なら、用明天皇の次は穴穂部だ。これに対して、謀略家の馬子は兄弟相続の慣習を踏まえながらも、小姉君系の勢力を分断させるという秘策に出た。馬子は穴穂部の同母弟の泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)を担ぎ出したのだ。そして、穴穂部と当時、険悪な状態にあった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、のちの推古天皇、母は堅塩媛)に取り入り、穴穂部皇子と宅部皇子(欽明天皇の皇子、穴穂部派)の殺害の詔(みことのり)を出させて、この二人を殺してしまったのだ。この結果、守屋は擁立すべき穴穂部皇子を失い、いよいよ孤立していった。

 こうしてみると、『日本書紀』に記されている同母姉妹の堅塩媛と小姉君は、やはり真っ赤なウソで、二人は実は姉妹ではなかったのではないか-と考えざるを得ない。確かに系図上は姉妹として記されてはいるのだが、これは体裁を繕っているに過ぎず、何か重大な謎が隠されているに違いない。確かに、馬子にとって、対立していた物部守屋との戦いを勝利に導くための策略重視の側面を割り引いても、どうして実姉(小姉君)が産んだ皇子たち(=馬子にとっては甥)をあれほど簡単に殺害できるのか。容易に答えは出てこない。とすれば、堅塩媛と小姉君は同母の姉妹ではなく、小姉君は馬子にとってよほど対立関係にあった人物を母に持っていたのではないかと推察される。

   小姉君の生没年は不詳。史料によると、小姉君は絶世の美女だったようだ。気品にあふれ、はたを圧する、近寄り難いほどの容姿・容貌に恵まれていたと思われる。これに対し、姉の堅塩媛は並みの容貌だった。そこで、小姉君に対し、逆らい難い嫉妬心が生まれ、堅塩媛本人はもとより、この姉に同情した弟・馬子の意を受けた忠臣・関係者が、小姉君を孤立化させる動きをしていったとの指摘もある。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」、神一行編「飛鳥時代の謎」永井路子「冬の夜、じいの物語」

周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

 周防内侍(すおうのないし)は、平安時代後期の女流歌人だ。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代(在位1045~1107年)の62年間、後宮に出仕し、内侍として仕えた女官だ。宮仕えが長期にわたり、歌がうまかったので、宮中でもいい顔だったとみられる。その証拠に、多くの男が彼女宛てに歌を贈ったことが、勅撰集に見い出される。

 周防内侍は周防守・平棟仲(継仲の説もあ)の娘で、ここからその呼び名が出た。本名は仲子(ちゅうし)。生没年は不詳。四代の天皇に仕えた後、1108年(天仁元年)以後、病のため出家し、1111年(天永2年)までの間に没したとみられる。歌は『後拾遺和歌集』『金葉集』『詞花集』『新古今和歌集』など勅撰集に35首が収められている。

 「春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)に かひなく立たむ名こそ惜しけれ」

 これは『千載和歌集』『小倉百人一首』に収められている歌だ。歌意は、春の短い夜に、夢をみるくらいのほんの短い時間、あなたの腕を借りて枕にすることで、つまらない噂を立てられては、口惜しい限りです。

 『千載和歌集』雑の部に、「二月(きさらぎ)ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまた居あかして物語などし侍りけるに、内侍周防より伏して枕もがなと忍びやかにいふを聞きて大納言忠家、是を枕にとて、腕(かひな)を御簾(みす)の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける 周防内侍」と詞書(ことばがき)がある。どのような状況のもとで、この歌が詠まれたかがよく分かる。当時の宮廷人の趣味的、遊蕩(ゆうとう)的な雰囲気がよく表現されている。

 早春の月夜、徹夜で女房らがしゃべり合う。「枕がほしいなあ」と周防内侍がいう。通りすがりの大納言・藤原忠家が「これを貸しましょう」と腕を御簾の下から差し入れた。そのたわむれに対して、「これくらいのことで、浮き名を立てられてはやりきれません。せっかくですが、お断りします」と答える代わりに、この歌を詠んだのだ。周防内侍の当意即妙の才気がみなぎっている。

 そして、この続きがある。忠家は

 「契ありて春の夜深き手枕を いかがかひなき夢になすべき」と返している。歌意は、あなたと私との間はさきの世からの縁で、ひとかたならぬ仲です。春の夜更けに、私の手をあなたが枕にするのです。どうしてつまらない夢に終わらせましょうか-という意味だ。

 こういう宮廷の男女関係のありようは自由といえば自由だが、ふしだらになる一歩手前で品を失わなかったのは、女の誇り高い態度もさることながら、それを許した男の女に対する、尊敬を失わない距離の取り方に負うところが大きい。男が大納言という高位の殿上人で、女が受領階級出身の女房であることを考えれば、これは奇跡に近いことだ。

 平安時代、紫式部(一条天皇の中宮彰子に仕えた)や清少納言(一条天皇の中宮定子に仕えた)の例を持ち出すまでもなく、中級貴族ぐらいまでの子女が宮中に出仕することはよくあることで、決して珍しいことではない。だが、その期間が四代の天皇にわたって60年余にもなると、これは異例のことだ。周防内侍はそれだけの間、宮中に仕えた女官だけに、備わった歌のうまさとともに、内部事情には当然明るく、官僚たちにとって無視できない存在でもあったとみることができる。

(参考資料)曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、高橋睦郎「百人一首」

式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

 式子(しょくし・しきし・のりこ)内親王は、第七十七代・後白河天皇の第三皇女だが、11年間にわたり、人間の男と交わってはならないという賀茂(かも)の斎院(さいいん)を務めたため、心に秘めた、藤原定家らとの“忍ぶ恋”の苦しみを詠んだ歌を数多く残した。厳しい禁忌(タブー)のもとに生き、その後は出家し、生涯を終えただけに、世俗の女性の恋とは異なる、忍ぶ恋の歌の真実を歌い上げている。定家とともに、『新古今和歌集』の優れた歌人だ。

 式子内親王の母は、従三位・藤原成子(なりこ、藤原季成の娘)。二条・高倉両天皇、以仁王は兄にあたる。1159年(平治元年)から、二条・六条・高倉の三天皇の11年間にわたり賀茂の斎院を務め、1169年(嘉応元年)病気のため退下した。そして、1194年(建久5年)ごろ出家したとみられる。生涯独身を通した。萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門斎院(おおいのみかどさいいん)などと称された。法号は承如法(しょうにょほう)。生没年は1149(久安5年)~1201年(建仁元年)。

 式子内親王は、明るい宮廷生活を送った女性ではなかった。その生涯は、源平争乱、朝廷・公卿の没落と武家の台頭という、歴史の転換期だった。崇徳天皇、以仁王、安徳天皇その他の人々の不幸な末路をも見た。それだけに、その歌にも、深い悲しみに洗われた人の持つ味わいがあるのだ。

 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする」

 これは『新古今和歌集』、『小倉 百人一首』に収められた式子内親王の歌だ。歌意は、私の命よ、絶えるならいっそのこと早く絶えてしまってくれ。このまま生き長らえていると、この恋の苦しさを堪える力がだんだん弱くなって、忍び隠してきた心のうちの思いが、外に現れてしまいかねないから-というものだ。

 下二句では「忍ぶ」「弱る」と歌い込んで、心にまつわりつく恋のきずなをきっぱりと絶ちきれぬ、そうかといって恋の苦しみにも耐えられぬ、女心の哀切さがにじみでている。現代人には理解し難い王朝女性の恋の表現だろう。わが存在すべてを焼き尽くすほどの恋情に焦がれながら、一切を自分一人の中に隠し通すのだ。それは、恋の自然な発露からすれば、一種自虐的なものであり、それだけに相手に対する純粋な憧れの思いは、一層切なく哀しい。

 大岡信氏は「忍ぶ恋の苦しみを歌った歌はおびただしいが、その最も有名なものは恐らくこの式子の歌だろう」としている。

 式子内親王は、藤原俊成に師事して多くの優れた歌を詠んだ。俊成の『古来風体抄(こらいふうていしょう)』は式子内親王に奉った作品といわれる。俊成の息子、定家は1181年(養和元年)以後、折々に式子のもとへ伺候している。一説によると、内親王のもとで家司のような仕事をしていたのではないかともいわれているが、詳細は定かではない。定家の『明月記』にしばしば内親王に関する内容が登場し、とくに死去の前後にはその詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実だ。

 謡曲『定家』は式子と定家の恋を題材にしたものだが、真偽は不明だ。ただ、『渓雲問答』に次のような記述がある。二人の関係を定家の父、俊成は、ほのかに聞いていたが、あるとき定家の住まいを調べると、この歌を書いた式子の手跡があった。それで真剣になるのも道理だと思って、諌めなかったという。

 式子内親王は『新古今和歌集』には49首採られ、女流歌人中トップ、また入集歌数では第5位だ。小野小町、和泉式部らとともに、女流歌人として和歌の心を正統に継承した人物といえよう。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

山川登美子 『明星』初期の同人で与謝野晶子と才華を競った女流歌人

山川登美子 『明星』初期の同人で与謝野晶子と才華を競った女流歌人

 山川登美子は、与謝野鉄幹が主宰した『明星』の初期の同人で、鳳晶(ほうしょう=後の与謝野晶子)と才華を競った女流歌人だ。師・与謝野鉄幹への思慕を断ち、親の決めた許婚と結婚。そのため、一時、歌から離れたが、不幸にも夫と死別して再び『明星』に復帰した。ところが、不運にも夫の病んだ結核に自らも冒され、30歳の若さで亡くなった。登美子の生没年は1879(明治12)~1909年(明治42年)。

 山川登美子は、福井県遠敷(おにゅう)郡竹原村(現在の小浜市)で、父・山川貞蔵の四女として生まれた。生家は小浜藩主・酒井家に側用人御目付役として仕えた、由緒ある家柄だった。父貞蔵は小浜第二十五国立銀行(現在の福井銀行)の頭取を務めた。登美子の本名はとみ。雲城高等小学校在学中は学業成績抜群で、習字・和歌・絵に才能を発揮した。

 登美子は1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール、梅花女学校に入学。大阪に嫁いでいた長姉いよ宅から通学した。1897年(明治30年)同校を卒業。1900年(明治33年)、母校の研究生となり英語を専修。同年、与謝野鉄幹が創刊した雑誌『明星』に登美子の歌が掲載された。そして、鉄幹と、翌年、鉄幹と結婚することになる与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会った。また、登美子はこのころ、鉄幹が創立した東京新詩社の社友となった。

 鉄幹と出会い、歌人として目覚めた登美子は、本格的に和歌の世界にのめり込み、『明星』を舞台に「白百合」の号で、与謝野晶子と歌才を競った。これから女流歌人として歩を進めようかとした矢先、登美子は突然思いもよらない行動に出た。歌の世界へ自分を導いた鉄幹への思慕を断ち、1901年(明治34年)、親の勧めた縁組に従って、山川駐(とめ)七郎と結婚したのだ。登美子22歳のときのことだ。

 この点、大阪府堺市の商家で育った与謝野晶子と比較すると対照的だ。武家の重臣の家柄に育った登美子は、自己規制ができる忍耐強い性格だった。これに対して、晶子は奔放華麗で、自分の思いは、親の意向に背いてもやり遂げる性格だった。登美子の親も『明星』に歌が掲載され評判になるのを好まず、女の身で世間に目立つようなことをさせたくないと考え、密かに縁談を進めていたのだ。登美子自身も、親の意思に背くことは親不孝と捉えてもいたのだろう。

 登美子にとって、そんな一大決心のもとにスタートさせた結婚生活だったが、不幸にも夫が病気を患って、看病の甲斐なく亡くなり、あっけなく終わりを告げる。肺結核だった。25歳で、寡婦(未亡人)となった登美子は心機一転、1904年(明治37年)、大阪の梅花女学校在学時の第四代校長・成瀬仁蔵が創設した日本女子大学英文科予科に入学し、1907年(明治40年)3月まで同校に在学。その間、復帰した『明星』に「白百合」の号で短歌131首を収載した。鉄幹・晶子との交流も密になった。鉄幹は、登美子を“白百合の君”と称し、愛した。そして1905年(明治38年)、当時の若い世代に圧倒的な支持を受け、後世、浪漫主義の代表的な作品との評価を受けた合同詩集『恋衣(こいごろも)』を茅野(増田)雅子、与謝野晶子との共著で本郷書院から刊行し、登美子は歌人として再起した。

 今度こそ、登美子は女流歌人として、さらに飛躍の時期を迎えるはずだった。ところが、またもそれを阻止する不幸が襲う。登美子自身が、夫から伝染した肺結核に犯されていたのだ。それでも病状が進行する中、孤独の中で自らの生を、そして死をみつめ、感覚を研ぎ澄まし、独自の歌境を拓いた。しかし、1909年(明治42年)、登美子は生家でわずか30年の生涯を閉じた。

 登美子の後半生は悲劇的だった。第二の人生ともいうべき結婚生活で、まず夫、次いで父を喪(うしな)い、長兄、長姉の死が彼女を襲った。さらに自らも肺結核という死病の床に臥す生活だった。それだけに、普通なら来世は今生とは全く異なる人生を、病気に打ち克つだけの強健な肉体を持つ、たとえば男に生まれ変わりたいと願っても、なんら不思議ではない。ところが、登美子はなお堂々と、来世も女に生まれたいもの-と歌に歌っている。次の歌がそれだ。

 「をみなにてまたも来む世ぞ生まれまし 花もなつかし月もなつかし」

 志半ばで、遂げられなかった歌の世界への、そして鉄幹への敬慕の思いを、来世ではきっと成就させたいとの哀切の思いからなのか。

 また、辞世は

 「父君に召されていなむとこしへの 春あたたかき蓬莱のしま」

 登美子を顕彰して、彼女が入学してから100年目を迎えた1994年、出身校の梅花女学校(現在の梅花女子大学)主催で「梅花・山川登美子短歌賞」が設けられている。

(参考資料)渡辺淳一「君も○○栗(こくりこ) われも○○栗(こくりこ) 与謝野鉄幹・晶子の生涯」、大岡 信「名句 歌ごよみ 春」

斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

 斎宮女御(さいぐうのにょうご)は、父は醍醐天皇の第四皇子・重明(しげあきら)親王、母・左大臣・藤原忠平の二女・寛子(かんし)との間に生まれ、当初、徽子女王(きしにょおう)と呼ばれた。が、8歳から10年間、伊勢神宮の斎宮を務めたため、都へ戻って3年、20歳で叔父にあたる村上天皇の女御として入内したが、後世、その前歴ゆえに「斎宮女御」と称された。また、斎宮女御は三十六歌仙の中でも5人(伊勢・小野小町・斎宮女御・小大君=こおおきみ・中務=なかつかさ)しかいない女流歌人の一人で、しかも唯一の皇族歌人だった。歌才に優れていた彼女は、絵もよくし、琴の名手でもあった。

 斎宮女御の生没年は929(延喜7)~985年(寛和元年)。936年(承平6年)、徽子女王は8歳で朱雀天皇の斎宮に卜定(ぼくじょう=吉凶を占い定めること)、母・寛子御息所の服喪で退下(たいげ)するまで10年間その任を務めた。未婚の皇女が都を遠く離れた伊勢神宮で、ひたすら神に仕える生活を送るのは、哀れを誘うことも多い。しかし彼女の場合、係累の力関係は並ではなかった。当代の権勢を誇る関白・藤原忠平の孫である徽子女王は、都へ戻って3年、20歳で村上天皇の女御として入内することができた。その住まいから承香殿(しょうきょうでん)女御とも呼ばれた。

 入内の後朝(きぬぎぬ)、村上天皇は例に従い、女御に歌を贈る。

 「思へどもなほぞあやしきあふことの なかりし昔いかで経つらむ」

 逢ってあなたを知る昨夜まで、私がどうして過ごしてきたのか。それが不思議におもわれるほど、あなたは素敵な人だ。これに対する女御の返しは

 「昔ともいまともいさや思ほへず おぼつかなさは夢にやあるらむ」

 昔なのか今なのか、いずれにしてもこの切なさは、この想いがきっと現実ではなく、夢のできごとだからなのでしょう-というものだ。こんな愛の交歓があって翌年、規子(きし)内親王が誕生している。

 しかし、そんな時期は長くは続かない。天皇の渡りが途絶えた寂しい日には、琴の名手でもあった彼女は、ひとり琴を爪弾くこともあった。ある秋の夕暮れ、妙なる琴の調べに誘われて天皇が承香殿に赴いてみると、彼女はそばに人の気配があるのにも気付かず、琴を弾きながら次の歌を吟唱していた。

 「秋の日のあやしきほどの夕暮れに 荻(おぎ)吹く風の音ぞきこゆる」

 秋の日、とりわけ人恋しい想いのする夕暮れに、お慕い申し上げる方は来てくれない。私のもとに訪れるのは、ただ荻の葉を吹く風の音だけ…。哀切なる想いがひしひしと伝わってくる。

 村上天皇崩御後、今度は規子内親王が円融天皇の斎宮として卜定、977年(貞元2年)、伊勢へ赴くことになった。わずか8歳で斎宮となった徽子女王=斎宮女御とは異なり、29歳になっての斎宮就任は、有力な後ろ楯がない薄幸を意味する。気が付けば華やかな係累は、いつの間にか遠い過去のものとなっていたのだ。そこで、斎宮女御は意を決して、一緒に伊勢へ行き、その寂しさを慰めた。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

 皇女和宮は、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約の内約があったにもかかわらず、「公武合体」という朝廷と幕府の政治的な都合で、この婚約を解消させられ、第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁した、悲劇の女性となった。和宮の生没年は1846(弘化3)~1877年(明治10年)。皇女和宮は、第百二十代・仁孝天皇の第八皇女として生まれた。生母は勧行院(かんぎょういん)橋本経子。和宮が生まれたときには、父の帝はすでに崩御し、兄の孝明天皇の御代になっていた。

 幕府は、反対勢力に強硬な姿勢を貫き「安政の大獄」を断行した大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された後、朝廷との融和を図ろうとする「公武合体派」の安藤信正が老中首座となった。安藤は朝廷側の岩倉具視と諮り、十四代将軍家茂の御台所(みだいどころ=正室)に皇女を迎えようとしたのだ。それまで、宮家出身の御台所や御簾中(御三家、御三卿の正室)はあったが、皇女というのは前例がない。

    いや、正確には江戸時代、将軍家と天皇家との縁組がまとめられたことは二度あった。一つは二代将軍秀忠の娘、和子(まさこ)が、第百八代・後水尾(ごみずのお)天皇の中宮として入内している。いま一つは、七代将軍家継と八十宮吉子内親王の縁組がそれだ。父・六代将軍家宣の死去に伴い、わずか4歳で将軍になった家継の相手に決まった皇女・八十宮はまだ数えで3歳だった。婚約の儀式は執り行われていたが、家継がわずか8歳で亡くなったため、両家の関係は婚約のみに終わり、江戸時代初めての天皇家と徳川家の縁組は実らなかったのだ。ただ、すでに結納の儀も済んでいたことから、八十宮は生涯、亡き家継の婚約者として過ごすことを余儀なくされた。

 家茂の相手の皇女候補、実は3人がリストアップされていた。和宮の姉で桂宮を継いだ淑子内親王(32歳)、孝明天皇の皇女・寿万宮(すまのみや、2歳)そして和宮だった。和宮は家茂と同年で、年齢はつりあっていたが、すでに有栖川宮熾仁親王との婚約が勅許になっていた。したがって、一時は寿万宮の成長を待つことに落ち着きかけた。ところが、不幸にして寿万宮が夭折してしまった。そこで、熾仁親王に辞退を強要して、和宮に親子(ちかこ)の名を賜り内親王宣下のうえ降嫁が決まったのだ。

 こうして和宮は16歳で家茂のもとに嫁した。幕府にとって、和宮降嫁による「公武一和」は、単なるスローガンではなく、必死の方策だった。繰り返すが、この結婚は最初から政治主導のものだった。それだけに、幕府を警戒した朝廷は、和宮降嫁にあたってこまごまとした条件を付けていた。①下向後、大奥に御同居の御方がおられないようにする。ただし、例えば天璋院は西の丸、本寿院(十三代将軍家定の生母)は二の丸というように別殿に住まわれるのなら構わない②下向後、天璋院や本寿院と往来や対面などはせず、年始やそのほかの節は、すべて使者で済ませる③別殿の御方から使者を遣わすときは、堂上の娘が使者を務めるとき以外は御目通りをしない-といった内容だ。

    将軍の正室となりながら、その将軍の義母や前将軍の生母との同居を拒否し、往来や対面も使いで済まそうというのだ。さらに使いには、旗本の娘ではなく、公家の娘を立てろという。これでは、大奥に波風が立つのも当然だった。しかし、こうした条件は江戸では全く考慮された形跡がない。京都や政治の最前線で交渉する酒井忠義と、江戸にいる老中とでは、考え方も認識も全く違っていたし、大奥はそうした政治とは無縁の世界だった。幕府の男子役人が何を約束してこようと、大奥には大奥の流儀があるということだったのか。

 勝海舟が回想しているように、初めは和宮と天璋院は大層仲が悪かった。それはお付きの女中が反目しあってことから生じたものだった。和宮が連れてきた女中たちは事あるごとに関東の風儀を笑ったし、大奥にも長い間の伝統に培われた儀礼が確立していた。この「御風違い」による対立や反目は、なかなか解消しなかった。天璋院、和宮、それぞれが将軍家と朝廷の威光を背負っているだけに、それも当然のことだった。

 家茂は1866年(慶応2年)、幕府軍による第二次長州征討の最中、大坂城中で病没した(享年21)から、和宮の結婚生活はわずか4年ほどだった。だが、夫婦仲は睦まじいものだったようだ。また、ともすればぎくしゃくするケースがあった天璋院とも、明治になってからは心うち解けたという。

 家茂の病没後、静寛院宮(せいかんいんのみや)と称した和宮(=親子内親王)が官軍の江戸城総攻撃を前に、東征大総督宮の熾仁親王に交渉して「最後の将軍・慶喜の助命と徳川宗家存続」を実現すべく尽力したのは、徳川家の嫁としての意識が確かだったからといわれている。

 和宮には江戸へ下向するときに詠んだ、次のような歌かある。

「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」

   彼女は、その身の不運を知りながらも、公武合体の実を挙げるべく下向すると決めた以上、この身に懸けてやり遂げよう-との思いに燃えていたのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話」、司馬遼太郎「最後の将軍」、海音寺潮五郎「江戸開城」

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

 堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目の娘で、第二十九代・欽明天皇の妃となって、後の第三十一代・用明天皇、第三十三代・推古天皇の2人の天皇の母となるなど皇子7人、皇女6人の計13人の子供を産み、強力な閨閥により大和朝廷における蘇我氏の勢力拡大・隆盛に大きく貢献。その大王家・皇族との血脈により、さながら“蘇我王朝”とも評された当時の、文字通り産みの親だ。

 堅塩媛は飛鳥時代、大和朝廷の実権を掌握、大豪族の頂点に立った蘇我氏の総帥・蘇我馬子の姉だ。百済渡来人の総領として、大和政権・国家の財政を仕切った蘇我氏の巨大な権力の基盤は、冒頭で述べた通り、この女性、堅塩媛によって築かれたといえる。まさに、日本古代史における蘇我氏の繁栄を約束付けた存在だった。

    蘇我氏が政治の実権を掌握した後、彼女は「大后」や「皇太夫人」という称号で呼ばれたといわれる。彼女の生没年は不詳。多くの皇子・皇女を産んだだけに、それほど長く生きたとは思えない。529年(継体23年)ごろに生まれ、572~585年ごろ没したとみられる。45年から58年の人生だったと思われる。

 堅塩媛は橘豊日大兄皇子(たちばなのとよひのおおえのみこ、後の用明天皇)、磐隈皇女、●嘴鳥皇子、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめ、後の推古天皇)、椀子(まろこ)皇子、大宅(おおやけ)皇女、石上部(いそのかみべ)皇子、山背(やましろ)皇子、大伴皇女、桜井皇子、肩野皇女、橘本稚(たちばなのもののわか)皇子、舎人皇子(当麻皇子夫人)の7皇子・6皇女合わせて13人の子をもうけた。

 『日本書紀』は、堅塩媛の名前をわざわざ「きたしひめ」と詠むように注釈を入れている。「きたしひめ」とは、汚い、醜いに通じる、ひどい名前で、その名の由来は悲しいものだ。それは、後世の人たちが蘇我家につけたあだ名ともとれるのだ。「きたし」は後に天智天皇となった皇太子・中大兄皇子の最初の夫人、蘇我造媛(そがのみやっこひめ)の、父の、そして一族の死にまつわる、おぞましい記憶に由来するものだと紹介されている。

 中大兄皇子と中臣鎌足、そして蘇我倉山田石川麻呂らによる「乙巳の変」で、専横を極めた蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家を滅ぼし、大化の改新が断行。孝徳天皇の御世、中大兄皇子の妃・蘇我造媛が、謀反を計ったとの嫌疑で父・蘇我倉山田石川麻呂が「物部二田作塩」に斬られたと聞いて、心を傷つけられ、悲しみもだえた。このため造媛は「塩」の名を聞くことさえ忌み嫌い、彼女に近侍する者は塩の名を口にすることを避け、改めて堅塩(きたし)といった。造媛は、あまりに心に深い傷を負って、遂に亡くなった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、黒岩 重吾「北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目」、神 一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「冬の夜、じいの物語」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

 月花門院(げっかもんいん)は、正確には月花門院綜子(そうし)内親王といい、皇統が二派に分かれてしまう両統迭立(てつりつ)の禍いの基をつくった第八十八代後嵯峨天皇の第一皇女だ。『増鏡』によると、月花門院には四辻宮(よつじのみや)と基顕中将の二人の恋人がいて、そのいずれとも父の分からぬ子を宿し、流産(堕胎?)のために夭折したと記されている。月花門院23歳のときのことだ。

 月花門院(月華門院とも)の諱は綜子。母は西園寺実氏の娘、大宮院。高貴な血筋で後深草院の同母妹で、亀山院の同母姉だ。生没年は1247(宝治元)~1269年(文永6年)。月花門院は1247年(宝治元年)、生まれるとともに内親王宣下。1248年(宝治2年)安嘉門院邦子内親王の猶子となった。両親の寵愛を受け1263年(弘長3年)、17歳のとき准三宮並びに院号宣下。以後、月花門院を称した。

 鎌倉時代の都の貴族は、武家に権力を奪われて地盤が沈下していく中、過去の栄光が忘れられずにもがいた人々と、新しい時代に適応している人たちに分かれていた。そして幕府は、その両勢力の争いに乗じて着々と政権の基盤を固めていた。そんな時代状況の中で、綜子内親王は高貴の人々の中でも最も恵まれた境遇にあったはずだ。しかし、男と女の世界の恋の成就に、貴賎はあまり関係しなかったようだ。彼女が詠んだ歌の多くが、恋の悲傷の歌なのだ。

 「秋の来て身にしむ風の吹くころは あやしきほどに人ぞ恋しき」

 これは実家にさがっていた後嵯峨院大納言典侍(藤原為家の娘)に贈った歌だ。歌意は、秋が来て身に沁みる風の吹くころには、自分でも不思議なほど人が恋しいことです。贈った相手は女性で、いわば友情の歌なのだが、詠み込まれた心情は、やはり恋の悲愁だろう。

 「ちぎりおきし花のころしも思ふかな 年に稀なる人のつらさは」

 歌意は、稀にしか逢うことができない恋人と、「花のころに逢う」との約束を思うにつけても、切なさで心がいっぱいになってしまいます。世間をはばかる事情があって逢えないのか、ただひたすら恋人の訪れを待つ皇女の姿が浮かんでくるようだ。

 「いかなればいつともわかぬ夕暮れの 風さへ秋は恋しかるらむ」

 歌意は、どういうわけか、いつも決まって何ということもない夕暮れの風さえ、秋は悲しみを催させるのでしょうか。この歌は秋と風と夕暮れを詠み込んで、自然を見つめて人生を沈思する中世の人々の感受性を表現している。が、同時に人を恋することの悲しさと危うさを知り尽くしたような、悲恋の皇女の叫びが聞こえてくるような歌でもある。

 1266年(文永3年)、完成披露された『続古今集』には、月花門院綜子内親王の歌が20歳の若さで8首入集している。また『続古今集』以後の勅撰集に彼女の歌21首が収められている。そして1269年(文永6年)、彼女は23歳で急逝した。『増鏡』によると、月花門院は中将・源彦仁(順徳院の孫、忠成王の子)および、頭中将・園基顕の二人と密通し、子を身籠った末、堕胎の失敗によって亡くなったらしい。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、欽明天皇の第三皇女で、同母兄・用明天皇の皇后。用明天皇との間に厩戸(うまやと)、来目(くめ)、殖栗(えくり)、茨田(まむた)の四人の皇子をもうけた。厩戸皇子は豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)などとも呼ばれた聖徳太子だ。つまり、この穴穂部間人皇女は聖徳太子の生母なのだ。同母弟に穴穂部皇子がいる。

  用明天皇の母は蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)であり、穴穂部間人皇女は堅塩媛の妹、小姉君(おあねのきみ)の娘だ。つまり、姉が産んだ皇子のもとに、妹が産んだ皇女が嫁いだというわけだ。異母兄・妹の結婚だった。

 穴穂部間人皇女の生年は不詳、没年は622年(推古天皇29年)。用明天皇崩御後、用明天皇の第一皇子、田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁し、佐富女王(長谷王妃、葛城王、多智奴女王の母)を産んだ。彼女の同母弟、穴穂部皇子(あなほべのみこ)は敏達(びだつ)天皇が崩御した際、皇位を望んだとされる。皇子は皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)を姦すべく、もがりの宮に入ろうとしたところを敏達天皇の臣下、三輪君逆(みわのきみさこう)に遮られた。

 穴穂部皇子はこれを憎み、当時の実力者、大臣(おおおみ)蘇我馬子、大連(おおむらじ)物部守屋に三輪君逆の無礼を訴え、斬殺するように命じた。物部守屋は兵を率い、磐余(いわれ)の池辺(いけのへ)を皮切りに三輪君逆の跡を追い、遂にその命を奪った。蘇我馬子は穴穂部皇子に自重を促したが、皇子はこれを聞き入れなかった。これを契機に、穴穂部皇子と皇后・炊屋姫および馬子の関係は険悪なものとなったといわれる。 

 こうした経緯があって、穴穂部間人皇女に因む以下の逸話が伝えられている。京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、この穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。この皇女は、蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せた。そして都に戻る際に、惜別の意味を込めて自分の名を贈った。

 ところが、同地の人々は皇后の御名をそのまま呼ぶのは畏れ多いとして、皇后がその地を退座したことに因み、「たいざ」と読むことにしたという。ただ、「古事記」「日本書紀」などの文献資料には、穴穂部間人皇女が丹後国に避難したことの記述はない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「聖徳太子の叛乱」

鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

 鏡王女(かがみのおおきみ)は、額田王(ぬかだのおおきみ)の姉だから、近江の豪族・鏡王の女(むすめ)だ。とはいえ、これには異説があり、第三十四代舒明天皇の皇女とも皇妹ともいわれる。鏡王女の名を一般的に眼にするのは、中大兄皇子の妃だった彼女が、懐妊中、大化改新で貢献した功臣・中臣鎌足に下された件(くだり)だ。感激した鎌足は、鏡王女を正妻として遇したが、そのときの子が、藤原不比等だ。困ったことに、これにも異説があって、不比等の母は車持の与志古娘(よしこのいらつめ)ともされる。だが、父・鎌足が賜った藤原姓を、中臣氏の中で不比等の系統のみが継ぐことになったのは皇胤だからとする解釈も根強い。

 いずれにしても、中大兄皇子の鏡王女に対する気持ちはすでに冷めていた。だから、鎌足への下賜につながるのだ。鏡王女にとっては悲しい現実にさらされたわけだ。ただ、名ばかりの妃でいるよりは、正室として迎えられ、普通に言葉を交わせる鎌足との生活が、女性にとって幸せだったのではないかとの見方もできる。鏡王女の生年は不詳だが、没年は683年(天武12年)だ。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。鏡女王とも呼ばれた。彼女の少女時代のことは何も分からない。額田王ほどではないが、代表的な万葉歌人の一人といわれる。史料によると、夫・鎌足の病気平癒を祈り、669年(天智天皇8年)に山階(やましな)寺(後の興福寺)を建立した。

 鏡王女が紛れもなく皇族の一員だったことが分かる件がある。『日本書紀』に天武天皇12年7月、王女を天武天皇が見舞いにきたことが記されているのだ。『万葉集』には4首の鏡王女の歌が収められ、天智天皇、額田王、藤原鎌足との歌の問答が残されている。

 「風をだに恋ふるはともし風をだに 来むとし待たば何か嘆かむ」

 これは、鏡王女がまだ中大兄皇子(天智天皇)の妃の一人だったとき、妹の額田王が

 「君待つとわが恋ひをればわが屋戸の 簾動かし秋の風吹く」

と歌ったのに対して返したものだ。額田王が中大兄皇子を待つ満ち足りた心を歌ったのに対し、鏡王女はすでに皇子の寵が去った自分のところには風さえ来ないと、妹をうらやましい気持ちで歌ったわけだ。鏡王女自身が感じていたように、中大兄皇子の自分への気持ちは冷めていた。だから、冒頭で述べたように、鎌足への下賜につながるのだ。

 鎌足が中大兄皇子から下賜された鏡王女に対して詠んだ、情熱的?なこんな歌が『万葉集』に収められている。

 「玉くしげみむろの山のさな葛 さ寝ずは遂にありかつましじ」

 『万葉集』独特の枕詞や飾りの言葉が入っているので分かりにくいが、彼のホンネは下の句にある。現代風に表現すれば、「あなたと寝ないではいられないだろうよ」ということだ。この歌は、鏡王女の次の歌に対して答えた歌だ。

 「玉くしげ覆ふを安み明けていなば 君が名はあれど我が名し惜しも」

 歌意は、化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってから、お帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の良くない評判が立つのが惜しいですわ。

 鎌足には天智天皇から手厚い恩賞として、采女の安見児をもらったとき詠んだこんな歌がある。これも『万葉集』にある歌だ。

 「吾はもや安見児えたり皆人の得がてにすとふ安見児えたり」

 歌意は、俺こそ采女の安見児(やすみこ)をわがものにしたぞ。みんなが結婚できないという安見児を、我が妻にした-と手放しで喜んでいる。

 中大兄皇子=天智天皇の生涯は波乱を極めたが、鎌足は常に側近にあって活躍した。それだけに鎌足に対する天智の信任は絶大で、位人臣をきわめ、手厚い恩賞も与えられた。そして、異例中の異例のことだが、実は鏡王女の下賜も、破格のご褒美の一つなのだ。

 普通、豪族は天皇家に対する忠誠の証として娘を、天皇家の側女=采女として差し出す。その意味で、その女性は人ではなく、世話をする個人(天皇や皇子)の所有物、つまりモノと同じなのだ。だから、一見、中大兄皇子=天智天皇の取った行動は非人間的なものに思われ勝ちだが、本来的にはその女性本人の意思や気持ちがどうであろうと斟酌されることはないのだ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人 胡女(こじょ)」

吉野太夫 関白と豪商が身請けを競った、諸芸を極めた稀代の名妓

吉野太夫 関白と豪商が身請けを競った、諸芸を極めた稀代の名妓

 吉野太夫(よしのだゆう)は江戸時代初期、京都・六条三筋町の遊郭(のち島原に移転)の名妓だった。容姿、芸、人格ともに優れ、当時の同遊郭の「七人衆」の筆頭で、夕霧太夫、高尾太夫とともに「寛永三名妓」といわれる女性だ。

 吉野太夫(二代目吉野太夫)は本名・松田徳子。実父はもと西国の武士とも、関ケ原浪人ともいわれる。生まれは京都の方広寺近くと伝えられる。生没年は1606(慶長11)~1643年(寛永20年)。吉野太夫は京都の太夫に代々伝わる名跡で、初代から数えて十代目まであったと伝えられている。ただ、その職性から、ここに取り上げた二代目以外の人物像については詳細不明となっている。

 松田徳子は幼少のころに肥前太夫の禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、林弥(りんや)と称した。1619年(元和5年)、吉野太夫となった。14歳のときのことだ。彼女は利発な女性で、和歌、連歌、俳諧はもちろん、管弦では琴、琵琶、笙が巧みだった。さらに書道、茶道、香堂、華道、貝合わせ、囲碁、双六を極め、諸芸はすべて達人の境にあったという。それだけに、吉野太夫は当時18人いた太夫の中でも頭抜けた存在だった。容姿、芸、人格ともに優れ、才色兼備を称えられた彼女の名は国内のみならず、遠く中国・明まで「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえているといわれるほど、知れ渡っていたという。

    馴染み客に後陽成天皇の皇子で近衛信尹(のぶただ)の養子、関白・近衛信尋(のぶひろ、後水尾天皇の実弟)や、豪商で当時の文化人の一人、灰屋紹益(はいやじょうえき)らがいた。皇族から政財界、文化人まで幅広い層の、当時第一級の人物が、彼女のファンだった。吉野太夫の名を、さらに華やかにし高めたのは、関白・近衛信尋と豪商・灰屋紹益が、彼女の身請けを競ったためだ。結果は、関白を押さえ、灰屋紹益が勝利を収めた。紹益は勝った後、吉野太夫を正妻として迎え世間を驚かせた。1631年(寛永8年)、吉野太夫26歳のときのことだ。

 吉野太夫が、身請けを競って勝った紹益に贈った歌がある。

 「恋そむるその行末やいかならん 今さへ深くしたふ心を」

 一方、迎え入れた紹益は、人気の太夫を娶った嬉しさを、

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

と詠んでいる。

 吉野太夫は結婚後は、遊女時代の派手さ、きらびやかさとは無縁の質素な暮らしをし、夫を立てて親族との交わりを大切にした。そのため、後世、遊女の鑑(かがみ)として取り上げられる逸話も多い。 十余年の結婚生活の後、吉野太夫は夫・紹益に先立って病没し、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺に葬られた。まだ38歳の若さだった。

 毎年4月第3日曜日、吉野太夫を偲んで常照寺では花供養が行われ、島原から太夫が参拝し、訪問客に花を添えている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

祇王御前 栄耀栄華を誇った平清盛に寵愛された白拍子の名手 

祇王御前 栄耀栄華を誇った平清盛に寵愛された白拍子の名手 

 祇王御前(ぎおうごぜん)は白拍子の名手で、『平家物語』によると当時、栄耀栄華を誇った平家の総帥・相国入道平清盛に寵愛された女性だ。祇王御前は近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲町)で生まれたとされている。生没年は不詳。都で評判となった舞と美貌を権力者の清盛が聞き付け、邸に招かれた。そして、祇王はたちまち清盛の寵愛を受ける身となった。祇王17歳ころのことだ。これを知った祇王の母の刀自(とじ)は、娘の“玉の輿”を大変喜んだ。

 祇王がどれだけ清盛の寵愛を受けていたかを示す逸話がある。祇王の出身地、野洲は毎年ひどい干害が起こるところだった。そこで、祇王は清盛に野洲の干害を何とかしてほしいと頼んだ。清盛は愛する彼女の頼みを聞き入れ、野洲川から水を通すために溝を掘らせ、干害対策を施した。このとき掘られた溝は祇王井川と呼ばれ、現在も残っている。

 ところで、祇王が清盛に仕えて2年が過ぎたある日、西八条御殿の清盛の邸に、加賀国生まれの「仏」と名乗る白拍子が訪ねてきた。侍者がこのことを清盛に取り次ぐと、清盛は「白拍子が招きもしないのに、訊ねてくるとは怪しからん」と怒り、追い返そうとする。しかし、同じ白拍子の祇王は仏御前を不憫に思い。彼女を邸に入れてあげるよう取り成した。邸に入ることを許された仏御前は、今様(当時の流行りの歌)を歌うよう命じられ、

 君を初めて見る折は 千代も経ぬべし 姫小松

 お前の池なる亀岡に 鶴こそ群れゐて 遊ぶめれ

と、3回繰り返して歌った。

 この歌を聴いた清盛は仏御前に興味を示し、次は舞を舞うように命じた。すると、彼女は清盛の前で美しい舞を披露したため、大いに気に入られ、邸に留められることになった。

 仏御前が邸に来てからは、清盛の関心は祇王から彼女に移った。祇王のお陰で邸に入れてもらった仏御前は、そのことを心苦しく思っていた。それを察した清盛は、祇王が邸にいるから仏御前の気持ちが沈んでしまうのだと考える。そして、思いもかけない事態が起こる。何と清盛は祇王を邸から追い出してしまったのだ。同じ白拍子の身で不憫に思ってかけた情けが、完全に仇となったわけだ。

 祇王は邸を出る前に、忘れ形見として障子に、次の和歌を残したと伝えられている。

 「萌え出づるも 枯るるも同じ野辺の草 いずれか秋に あはで果つべき」

 歌意は、追い出す仏も、追い出される私も、いずれも野辺の草。秋が来れば飽きられて捨てられる運命にあるのですよ。

 その後、祇王は母と妹の祇女と一緒に出家し、嵯峨野に草庵(=往生院)を結んでひっそりと暮らすことにした。だが、『平家物語』は祇王の物語に劇的な展開を用意している。清盛は、嵯峨野で隠棲している祇王を呼び、仏御前の無聊(ぶりょう)を慰めるために舞うよう命じる。

 仏も昔は凡夫なり 我らも終(つひ)には仏なり

 いずれ仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

 悔し涙をこらえながら、祇王は歌い舞った。祇王の舞は相変わらず美しく、人の心を揺さぶるものだった。仏御前には身につまされた。程なく、髪を下ろし出家姿で、祇王らの嵯峨野の草庵を訪れた女性は、あの仏御前だった。彼女も現世の無常を感じ、清盛のもとを去り、出家することにしたのだった。

 現在、往生院は祇王寺と呼ばれている。その境内には祇王、祇女、刀自の墓とされる宝筐院塔と平清盛の供養塔の五輪塔がある。また、祇王寺の仏間には清盛、祇王、祇女、刀自、仏御前の木像が安置されている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

儀同三司母 中関白・藤原道隆の正室で教養人だったが、道長一族に敗れる

儀同三司母 中関白・藤原道隆の正室で教養人だったが、道長一族に敗れる

 儀同三司母は、学者として高名な高階成忠の娘、貴子(きし、もしくは たかこ)のことだ。摂政・関白を務めた藤原兼家の長男、道隆の正室で、二人の間に伊周(これちか、正二位、内大臣)、隆家(正二位、中納言)、僧都隆円、定子、原子ら三男四女がいた。定子は一条天皇の中宮として入内しているし、末娘の原子は三条天皇の女御となっている。きらびやかで栄華に満ちた一族だった。また、夫・道隆の弟に栄華の頂点を極めた道長がいる。

 だが、従一位で摂政関白、内大臣を務め、中関白(なかのかんぱく)と称した夫・道隆が43歳の若さで亡くなってしまうと、儀同三司母=高階貴子の人生は暗転してしまう。摂関家の嫡流・氏の長者は道兼、次いで道長に奪われてしまった。まさに血脈を分けた一族の中で政権争いが発生。夫の弟、道長と伊周、叔父・甥の骨肉の争いとなったのだ。結果は、道長が勝利し、まだ22歳の伊周がこの政争に敗れ、弟の隆家ともども官位を剥奪され、996年(長徳2年)九州(大宰権帥)へ左遷された。このとき、母貴子は同行を願ったが、聞き容れられず、彼女は半年後、不幸にも失意のうちにこの世を去った。

 儀同三司は息子、藤原伊周のことで、結局、伊周は三公(太政大臣、左大臣、右大臣、唐風には三司)になれなかった。後年、彼が「准大臣」となり、自らをこの官職の唐名「儀同三司」と称した。そのため、彼の母ということで、「儀同三司母」は彼女の死後付けられた通称だ。

 高階貴子の生年は不詳、没年は996年(長徳2年)。平安時代の女流歌人で、女房三十六歌仙に数えられる。貴子の生母は不詳。成忠の妻には紀淑光の娘が知られ、貴子がその所生だとすると、名立たる学者、紀長谷雄の血をひくことになる。円融天皇の後宮に内侍として仕え、高内侍(こうのないし、女官名)と呼ばれていた。

    『大鏡』などによると、貴子は女性ながら和歌を能くし、漢学、漢詩の素養も深く、円融天皇も一目置かれたほどの才媛だった。その貴子と恋に落ちたのが、時の大納言・藤原兼家(後の従一位、摂政・関白・太政大臣)の長男、道隆だった。その道隆との恋の歓びを歌ったのが次の歌だ。これは『新古今集』、『小倉百人一首』に収められている、激しくも傷(いた)ましい恋の歌だ。

 「忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな」

 歌意は、あなたはいつまでも決して忘れないよ、そうおっしゃいます。でも、それは信じられません。それなら私はいっそ、たった今死んでもいいのです。今日のこの嬉しさの絶頂で。詞書(ことばがき)によると、この歌は道隆との恋が始まったばかりの、幸福の絶頂ともいうべき時期の歌だ。にもかかわらず、傷ましいほどの緊迫感をもって、明日のことはあてにするまい、せめて今日の命のこの歓びだけをしっかり握っていたい-と、その心情を吐露している。

   一夫多妻の平安期において、ほとんどの場合、女はひたすら男の訪れを待つだけの存在だった。したがって、女は未知の恋に対して極めて慎重であるのが普通で、ひとたび男に身を委ねたときには、その恋を永続させることに心を砕き、絶えず不安におののいていなければならなかった。恋の歓びの歌に、深い哀しみが内蔵されるのは、そうした女の受け身の立場からきており、この歌もその典型的な一首だ。

(参考資料)永井路子「この世をば」、大岡 信「古今集・新古今集」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」

間人皇女 母・兄・弟が天皇の血筋ながら、兄との密通説が残る女性

間人皇女 母・兄・弟が天皇の血筋ながら、兄との密通説が残る女性

 間人皇女(はしひとのひめみこ)は、第三十五代・皇極天皇、そして重祚(ちょうそ)して第三十七代・斉明天皇となった女帝の娘で、母の同母弟、第三十六代・孝徳天皇の皇后でもあった女性だ。付け加えて記せば、彼女は第三十八代・天智天皇の同母妹で、第四十代・天武天皇の同母姉だから、これ以上ない、ピカ一の血筋なのだ。したがって、彼女にとって今日もう少し称賛されるような事績が残っていてもよさそうだが、実は史料として残っているのは、彼女にとってマイナスイメージを抱かせるようなものばかりだ。

 そのマイナスイメージの一つが、同母兄・天智天皇いや、中大兄皇子時代から間人皇女が孝徳天皇の皇后となった後を含めて、中大兄皇子・間人皇女の二人が、タブーとされている同父同母兄妹の密通=近親相姦(「国津罪」)があったとされることだ。当時は、兄妹であっても母親が異なれば、その恋愛、そして結婚についても別にタブーではなく、ザラにみられた。今日風にいえば、極めて近い親戚で、叔父と姪や叔母と甥の間での結婚も普通に行われていた。だが、同父同母となると話は全く別で、当時も当然のことながら厳しく、恋愛・結婚は禁止されていたのだ。間人皇女は、そのタブーを犯したのだ。

 孝徳天皇と間人皇后は形だけの夫婦にすぎず、間人の愛人は実は血を分けた兄の中大兄皇子だったのだ。このことは飛鳥に住む者には公然の秘密だった。こんなタブーを犯しただけに二人に、そして二人の親族は高価な代償を払わねばならなかった。皇太子・中大兄皇子は孝徳天皇没後、母の皇極上皇をいま一度担ぎ出し、帝位に就け斉明帝としたのは、同父同母の兄妹が男女関係を持つなど、神意に悖(もと)る。そんな中大兄皇子が即位すれば、神の怒りで必ず国に禍事(まがごと=わざわい)が起こる-との世論に屈したからだったのではないか。

    また、建築好きで、太っ腹の女丈夫で百済救援の派兵を断行した、この斉明老女帝も661年、筑紫の行宮(あんぐう)、朝倉宮で疫病に感染し亡くなってしまった。ここでも中大兄皇子はすぐ即位しなかった。いや即位できず、661~668年の7年間も「称制」(即位せず、皇太子のまま政務を執る体制)を取っているのだ。この間、天皇は不在だった。その大きな理由の一つが、妹・間人皇女との間の男女関係を解消できなかったからとの見方がある。

  事実、古代の皇室では同母兄妹と肉体関係を持ったために追放された皇子・皇女がおり、反対勢力が結束して、皇太子・中大兄皇子の即位を阻止した可能性はある。中大兄皇子の後宮には多くの妃が召され、数多くの子も生まれた。しかし、間人皇女との仲は誰よりも長く格別なものだった。そのため、母帝の急逝によって生じた帝位の空白を、いまは悪性の熱病にかかり意識が混濁し、もはや呼吸しているだけの状態にあった間人皇女を、たとえしばらくの間でも中天皇(なかつすめらみこと)として、この国の主(あるじ)の座に座らせたい-と中大兄皇子は考えた。愛しい妹への餞(はなむけ)だった。後世の史家は、恐らく歴代天皇の数に入れないだろうが…。世の指弾をはね返してまで貫き通した禁断の愛ゆえの、最期の悲しい“看取り”だったのかも知れない。

 間人皇女の生年は不詳、没年は665年(天智天皇4年)。既成のワクにとらわれない、よほど奔放な女性だったのか、兄・中大兄皇子にだけ従順な女性だったのか、よく分からない。ただ、兄・天智天皇を虜(とりこ)にしたことだけは間違いない。

 孝徳天皇が653年(白雉4年)、当時皇太子だった中大兄皇子らとともに自分のもとを去った皇后・間人皇女を詠んだ歌がある。

「鉗木(かなぎ)附け吾が飼う駒は曳き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか」

    歌意は、木にくくりつけて、逃げないように大切に飼っていた馬が、私の知らない間に、どうして他の人と親しくなって、私のもとから連れ去られてしまったのだろう-の意味だ。病中の自分を難波の廃都(難波長柄豊碕宮)に打ち捨て、母や兄たちと飛鳥京(飛鳥河辺行宮)へ引き揚げてしまった妻・間人皇后を、馬に擬して痛罵したのだ。厩舎の止め木につながれ、飼い主でさえ曳き出せない馬を、気ままに乗り回せる人物こそ、中大兄皇子をさしていることはいうまでもない。

(参考資料)遠山美都雄「中大兄皇子」、神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代 天皇総覧」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人 胡女(こじょ)」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

右衛門佐局 宮中から請われて大奥に転身し総取締となり京風を入れた才媛

右衛門佐局 宮中から請われて大奥に転身し総取締となり京風を入れた才媛

 右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね・えもんのすけのつぼね)は江戸時代前期、常盤井局と称し、天皇の中宮に仕えていたが、才智あふれる美女だったために、請われて江戸へ下向。第五代将軍・徳川綱吉の御手附中臈(おてつきちゅうろう)となり、この右衛門佐局と名を改めたのだ。公家の姫君で才色兼備の彼女は、江戸城の大奥に京風の雅(みやび)をもたらしただけでなく、江戸の文化・文芸にも大きな貢献をなした。

 右衛門佐局は、藤原北家道隆の流れ、坊門家の支流にあたる水無瀬中納言氏信の娘として京で生まれた。生没年は1650(慶安3)~1706年(宝永3年)。初め後水尾院に出仕し、後、第百十二代霊元天皇(在位1663~1687年)の中宮・新上西門院に仕えて常盤井局と称した。当時、宮中随一の才媛と呼ばれ、才智あふれる美女だったため、第五代将軍綱吉の御台所・鷹司(たかつかさ)信子に請われて江戸の下向することになったのだ。1684年のことだ。

 綱吉の御台所・信子は学問の相手として、『源氏物語』『古今和歌集』などの講義もできる常盤井局を招いたのだが、真意は別にあった。御台所は綱吉との間で子に恵まれず、夫・綱吉の気持ちが側室・お伝の方に移っていたことが、その背景にあった。つまり、子を生す生さぬという問題にとどまらず、大奥の勢力争いにも通じる事態となっていたのだ。そこで御台所は叔母の新上西門院に訴えて、才色兼備の彼女が選ばれたというわけだ。御台所の狙いはピタッとあたった。学問を好むという部分も少しはあったろうが、むしろその雰囲気を愛した綱吉は、たちまち公家の姫君の魅力の虜となった。常盤井局は将軍家の御手附中臈となり、名を右衛門佐局と改めた。そして、大奥に京風の雅をもたらしただけでなく、江戸の文化・文芸にも大きな貢献をなした。

 1689年(元禄2年)、北村季吟、湖春父子を召し出し、初代歌学方(かがくかた)としたのも右衛門佐局の推挙によるものだ。翌年、住吉具慶(広澄)が土佐派絵所を開いて、江戸に土佐派が確立したのは彼女の功績だ。後に、右衛門佐局の権勢に対抗するために、綱吉の生母・桂昌院によって招かれた大典侍(おおすけ)局(清閑寺大納言煕房の娘)が、能・狂言役者たちを江戸に呼び寄せたことともあわせて、京風化の進展が江戸の文化史上に新たなページを加えるようになった、格好の契機となった。

 右衛門佐局は残念ながら、将軍生母とはならなかった。1691年(元禄4年)懐妊したが、対抗勢力のお伝の方の依頼を受けた護持院・隆光の呪詛で流産したと伝えられる。翌早春、吹上御苑で催された観梅の宴の際、右衛門佐局が、

 「御園生(みそのふ)にしげれる木々のその中に ひとり春知る梅のひと本」

と詠み、これを賞した綱吉に「梅が枝に結び付けよ」と命じられ、踏み台に登ったときに、目が眩んで倒れた。それがための流産だった。

 右衛門佐局、御手附ながら事務方の最高位の大奥総取締の役に就いた。三代将軍家光の側室の「お万の方」の例に倣ったものだが、より実質的な役割だったといえよう。大奥という職場で仕事をしたキャリアウーマンという意味では、むしろ春日局に近い実績を残した女性だった。 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、朝日日本歴史人物事典

伊 勢 時の最高権力者やその子息たちが通った魅惑のヒロイン

伊 勢 時の最高権力者やその子息たちが通った魅惑のヒロイン

 伊勢は、その妻の座に就くことはなかったが、初め藤原仲平そして兄・時平、次いで宇多天皇、さらに宇多天皇の第四皇子・敦慶(あつよし)親王と恋人を変えた情熱的な女流歌人だった。時の最高権力者や、その子息たちが、彼女のもとに通った。ということは、伊勢がいかに美しく魅力に富んだ女性だったかという証だろう。これらの恋人の他にも言い寄る男は多かったが、相手にしなかったようだ。

 伊勢は伊勢守・藤原継蔭(つぎかげ)の娘で、この父の官名を呼び名にしていた。父・継蔭は藤原氏北家・真夏の流れで四代の孫にあたる。真夏は、嵯峨天皇の信頼を受け左大臣にまで昇った冬嗣の兄だが、政治的には平城(へいぜい)天皇側についていたので失脚。そのため子孫も権力から遠く、継蔭も文章生(もんじょうのしょう)から身を起こし、三河守、伊勢守、大和守など受領職を歴任した。

    父が伊勢守の任期を勤め上げた直後、伊勢は宇多天皇の中宮・温子(おんし=藤原基経の娘)に仕えた。中宮が父・基経の喪のため里邸に下がっていた折、中宮に付き添っていた伊勢は、そこで中宮の兄・仲平(後に左大臣、当時右衛門佐)と愛し合うようになった。そのころ、仲平との恋を詠んだのが『新古今和歌集』『小倉百人一首』に収められている次の歌だ。

 「難波潟みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世をよとや」

 歌意は難波の潟に生えているあおの芦の短い節ほどの、わずかな間でも、恋しいあなたに逢わないで、私たち二人の間を過ごしてしまえというのですか。それはあんまりです-という、恋人に対する思慕と怨恨の情を詠んでいる。

    しかし、伊勢の父は身分違いということもあって、娘のこの純情な恋に危惧を感じていた。案じた通り、仲平はまもなく権門の娘と結婚することになって遠ざかった。傷ついた伊勢が、心変わりした仲平に贈った歌が、次の歌だ。

「三輪の山いかに待ち見む年ふとも たづぬる人もあらじと思へば」

 この後、伊勢は仲平の兄・時平(後に左大臣、当時参議)と恋に落ち、さらに宇多天皇の寵愛を受け、行明親王を産んだので、「伊勢の御(ご)」とか「伊勢の御息所(みやすどころ)」と称された。まさに、恋多き女性だった。恐らく美しい女性だったのだろうが、同時に歌の巧みさが美しさを、さらに引き立てていたのだろう。

    伊勢の『古今和歌集』入集歌は女流歌人中トップで、『古今和歌集』以下の勅撰集に184首が収められ、とくに三代集では女流歌人で最も多い。紀貫之と並び称されたが、技巧の中に情熱を秘めた歌風は、和泉式部の先輩格といえるかも知れない。伊勢は美人で、気立ても優しく、華やかな宮廷生活を送ったが、後には不遇な境涯にあったようだ。彼女の晩年は落ちぶれて、遂に住む家まで売るようなところまで追い詰められたらしい。そのとき、柱に書き付けたという歌が『古今和歌集』に収められている。

 「飛鳥川淵にもあらぬわが宿も 瀬に(銭)変わりゆくものにぞありける」

    平安時代の女流文学者のほとんどには、その生涯の公的な記録がない。伊勢の場合も同様だが、彼女の家集「伊勢集」には、自伝的色彩の濃い詞書が多く、そのためある程度の生涯と生活は推定されてきた。伊勢の生没年は875(貞観17)~939年(承平9年)。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

阿仏尼 定家の嫡男の側室となり冷泉家の祖・為相を産んだ女性

阿仏尼 定家の嫡男の側室となり冷泉家の祖・為相を産んだ女性

    阿仏尼は『十六夜日記』の著者だが、出家した後、30歳ごろ結ばれた藤原定家の嫡男・為家の側室となった。そして、その為家から息子の為相(ためすけ、後の冷泉家の祖)に播磨国の所領を譲り受けた。だが、為家の死後、異腹の長男・為氏(ためうじ)との所領争いが発生。この問題解決に彼女は、はるか鎌倉に赴いて幕府に提訴するしたたかさを見せたのだ。『十六夜日記』は、そんな阿仏尼の鎌倉への旅日記なのだ。阿仏尼は、安嘉門院(あんかもんいん)に仕えて越前(えちぜん)、右衛門佐(うえもんのすけ)、四条などと称した。

 阿仏尼は、若き日に奔放な恋の遍歴を重ね、恋に絶望して出家したらしい。こうした経緯が日記『うたたねの記』に綴られている。その後、藤原定家の嫡男・為家と巡り合い、遂に為家と結ばれ、彼の側室となり、定覚(じょうがく)、為相、為守の3人の子をもうけた。1252年(建長4年)ごろのことだ。二人は嵯峨で同棲した。彼女が30歳のころ、為家はすでに50の半ばを超えていた。

    為家は若い彼女に夢中になり、家に代々伝えられた多くの書物を彼女に譲り渡したばかりか、いったん長男・為氏に譲られた播磨国細川庄(現在の兵庫県三木市細川町)を、彼女の息子の為相に与えるという約束を彼女に与えたのだ。そのため、彼女は御子左家伝来の文書を、自らの本居「持明院の北林」に移すような事件も起こした。

 為家が死ぬと当然、このことが紛争の対象になった。この場合、当然、彼女は弱い立場で、引き下がりがちになるところだ。しかし、彼女はそんなヤワではなかった。いや彼女は強かった。彼女は自分の主張を押し通した。そして、1279年(弘安2年)この細川庄の所領相続問題の解決のために彼女は、はるか鎌倉に行き、幕府に提訴したのだ。ここまで頑強に、さらに攻勢に出てくることは、為氏にとっては、恐らく想定外のことだったのではないか。

 『十六夜日記』は阿仏尼の鎌倉への旅日記だ。この日記は旅行記としては平凡だ。だが、梅原猛氏は阿仏尼は単なる旅行記を書いたのではなく、あくまでも訴訟を有利にするため政治文書として著したとみている。そうした視点でみると、彼女は自己の文学的才能を十二分に発揮し、この細川庄が彼女の子・為相の領地であることを、都および鎌倉の知識人に十分印象付けることに成功したとみられる。

 『十六夜日記』によると、阿仏尼は為家と結婚する前に名も知らぬ男との間に娘をもうけた。この娘は、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の次女・公子、すなわち後深草院の中宮・東二条院(亀山天皇の中宮・藤原位子の説もある)に仕えたが、後深草院(亀山天皇)の手がつき皇女をもうけた。恐らく阿仏尼はこの娘を使って院(天皇)に取り入り、わずか9歳の為相を侍従にし、その弟の為守までも大夫(たいふ)にしたとみられる。

 さらに、阿仏尼のしたたかさをうかがわせることがある。彼女がしきりに機嫌を取っている人物だ。それは、為家の三男の藤原為教(ためのり)の娘で、西園寺実氏の長女・●子(後嵯峨天皇の中宮・大宮院)に仕えた藤原為子と、その弟・京極為兼(ためかね)だ。為教は阿仏尼が鎌倉へ出発する1279年(弘安2年)の5月に亡くなったが、阿仏尼の鎌倉行きはこの為教一家の応援のもとに行われたと思われるのだ。つまり、阿仏尼は鎌倉幕府と親しい西園寺家の力を借りるとともに、為教一家を抱き込んで嫡男の為氏を孤立させようとしたのではないだろうか。

 阿仏尼は判決を待たず1283年(弘安6年)亡くなったが、彼女が打った手は無駄ではなかった。細川庄は為相に譲られ、彼を祖とする冷泉家は、為氏の二条家、為教の京極家が滅びた後も和歌の家として現在も保存されているからだ。母の力は偉大だった。

(参考資料)梅原 猛「百人一語」

お登勢 幕末、龍馬ら志士たちを保護した京都伏見・寺田屋の気丈な女将

お登勢 幕末、龍馬ら志士たちを保護した京都伏見・寺田屋の気丈な女将

 お登勢は京都伏見の船宿「寺田屋」の女将だ。坂本龍馬はこのお登勢と懇意で、寺田屋を定宿としていた。龍馬はお登勢について、姉の乙女宛ての手紙で「学問があり、侠骨(きょうこつ)を具(そな)えた気丈夫な女性」と表現し、龍馬は彼女のことを土佐風に「おかァー」と呼んだと伝えられている。それほど、龍馬にとってお登勢は近しい存在だった。後に龍馬の妻となったお龍が、この寺田屋で働くようになったのも、元をたどれば戦で焼け出され、家族とともに住まいを失い、働き場も失ったお龍の身の上を案じて、龍馬がお登勢に働けるように頼み込んだからだった。また、別にお龍はお登勢の養女だったとの説もある。

 お登勢は大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。お登勢の生没年は1829年ごろ(文政12年ごろ)~1877年(明治10年)。18歳のとき、京都伏見の「寺田屋」第6代目の主人、寺田屋伊助に嫁ぎ、一男二女をもうけた。だが、夫の伊助は放蕩者で、旅館の経営を顧ず、酒を飲みすぎ、それがもとで病に倒れ35歳の若さで亡くなった。そのため、寺田屋の経営は以後、彼女が取り仕切った。

 伏見の寺田屋が歴史上の事変の舞台となったことは二回ある。初めは1862年(文久2年)、薩摩藩の内紛、尊皇派藩士同士の鎮撫事件だ。これは薩摩藩主・島津忠義の父で当時の藩の事実上の指導者だった島津久光が●千の兵を率いて上洛するのに合わせて突出、藩論を倒幕へ舵を切らそうとする有馬新七らの説得に失敗したため、久光の指示で、大山綱良、奈良原繁ら、とくに剣術に優れた尊皇派藩士を、有馬らの集合場所であり、薩摩藩士の京の定宿でもあった寺田屋に差し向け、事態を鎮撫しようとした事件だ。この際、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直次郎ら6名が死亡、田中謙介、森山新五左衛門の2名が重傷を負った。

    二回目が「薩長同盟」を企図し、両藩の橋渡し役を演じた坂本龍馬捕縛ないし暗殺のため宿泊先の寺田屋を1866年(慶応2年)深夜、急襲したときだ。この「寺田屋事件」で、長州藩から派遣された龍馬の護衛役、三吉慎蔵とともに、伏見奉行・林肥後守配下の捕り方を迎え撃った龍馬は、死線をさ迷うほどの深傷を負った。だが、龍馬は幸運にもこの危難をくぐり抜けることができた。

    寺田屋を舞台にした、この悪夢のような災禍をお龍とともにつぶさに見ていたのが、女将のお登勢だった。薩摩藩からの救援隊の到着が遅れていたら、龍馬の人生はここでピリオドを打っていたかも知れない。とすれば、この後の大政奉還も、「世界の海援隊」もなかったのだ。桂小五郎の求めに応じて、龍馬が薩長連合の約定書=薩長同盟の裏書を書いたのは、彼が寺田屋で遭難し、九死に一生を得た直後のことだった。

 お登勢は人の世話をすることが大好きだった。龍馬をはじめ、幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを数多く保護した。このため、幕府から一時は危険人物と見なされ、入牢されそうになったこともある。気丈な名物女将だった。

(参考資料)宮地佐一郎「龍馬百話」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

平 時子 ごく普通の女性が最期は平家一門を担う存在に

平 時子 ごく普通の女性が最期は平家一門を担う存在に
 平清盛の妻、時子はごく普通の女だった。その彼女が一門の棟梁となる清盛に嫁いだがゆえに、本人の意思とは関係なく、好むと好まざるとに関わらず、権謀渦巻く政治の世界に投げ込まれ、激動の時代を生き、様々な体験を積んでしたたかな女になっていった。
 時子は当時、公家社会で一般的だった妻訪い婚ではなく、徐々に行われるようになった嫁入り婚で嫁いできた。そこで、夫の周辺に女の影が見えるたびに嫉妬の炎を燃やす平凡な女性で、夫の浮気に関わりなく妻の座が安定していることに困惑し、ふさぎ込んだりすることもある。
後年、従三位という女として高い地位にも就いた時子だが、精神的には現代の女性とも相通ずるものが流れている女性だったのだ。
 保元・平治の乱を経て平家の勢力が台頭、清盛は8年の間に正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて太政大臣となった。また清盛は時子を二条天皇の乳母とし、時子の妹滋子を後白河天皇のもとに上げる。そして後白河と滋子(建春門院)との間に生まれた皇子が即位して高倉天皇となり、そのもとに清盛は娘の徳子を入内させる。
やがて徳子は後の安徳天皇を出産。思惑通り外祖父となった清盛は、年来の夢を懸けた海の王宮、福原への遷都を決行。新都を構えた平家一門は隆盛の絶頂期を迎えた。
 しかし、それは転落の序章でもあった。東国では源頼朝の武士団が日増しに勢力を拡大。高倉帝の病状悪化で福原から半年で還都。やがて高倉帝に続いて清盛が急死。清盛亡き後、平家の総帥となった宗盛は再三の挽回の機会を取り逃がし最悪の道を選択してしまう。
その結果、源氏に追われた平家一門は西国流転の途をたどる。京から福原へ。屋島へ、そして壇ノ浦へと移った平家は東国武士団の組織力の前に敗退を重ねていく。
 ここで、平家一門の運命は時子の双肩にかかる。帯同する、建礼門院となった娘の徳子に安徳帝を守る判断力がなかったことも、彼女をしたたかな女にしたことだろう。時子は、清盛が築いたこの時代をともに生きた自分とその子供たちは、それぞれの運命を分け持って生きてきた。
そして、その最後の幕を引くのは自分しかいない-と判断。母親の建礼門院(徳子)を措いて、祖母の時子が8歳の安徳帝を抱き、三種の神器とともに瀬戸内の海に身を投げ生涯を閉じる。鮮烈な最期だ。その時子の辞世がこれだ。
 いまぞ知るみもすそ川の流れには 波の下にも都ありとは
海の底にも都があってほしい-という彼女の切実な願望が込められている。

(参考資料)永井路子「波のかたみ-清盛の妻」

 

 

 

 

静御前 義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子

静御前 義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子
 静御前は源義経の妾。ただ、この当時は妻妾の区別がつけられないので、妻が何人もいて、静はその一人と考えた方が的を射ている。生没年不詳。平安時代末期~鎌倉時代初期の女性。白拍子、磯禅師の娘で、彼女も白拍子。鎌倉時代の事跡を書き綴った「吾妻鏡」によれば、京都で人気抜群の白拍子と、平家を壇ノ浦に追討した凱旋将軍・義経との恋だった。年齢は静が10代後半、義経は20代後半のことだ。
ただ、二人が幸福だったのは極めて短い間だった。義経が、後白河法皇から勝手に任官を受けたことなどから、兄頼朝の不興を買って謀反人扱いされたことによって急転直下、悲劇の主人公になってしまう。京都を追われ、都落ちした義経らとともに西国へ向かうが、女人禁制の大峰に入れず、義経と別れて京都へ帰る途中、捕らえられる。
そして、いまや謀反人となった義経探索の参考人として鎌倉に送られる。このとき彼女は義経の子を身ごもっていた。
 鎌倉に着いた静御前は源頼朝・北条政子夫妻に強要され、鶴岡八幡宮で舞を舞う。そのとき彼女は次のように詠った。
 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
“しづのをだまき”とは麻糸を真ん中が空洞になるようにくるくる巻いたものをいう。しづのおだまきをいくらくるくる巻いても、昔は戻ってこない。どこかへ行ってしまった義経様が恋しい-という意味だ。
もう一句ある。
 吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
吉野山(静御前が義経と別れた場所)の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい-という意味。
 静御前のひたむきな(あるいはなりふり構わぬ)義経への恋慕の表明にとくに政子は胸を打たれ、激怒する頼朝に助命を請い、静は何とか許される。そして、頼朝は生まれてくる子が女なら助けるが男なら殺すと命じる。不運にも、このとき生まれた赤ん坊が男だったため、そのまま由比ヶ浜に流されて殺されてしまった。これらのことを含めて考えると、「しづやしづ…」には静の深い哀切の情が満ちている。
『吾妻鏡』では、静御前の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。
 この後、静御前は許されて京へ帰る。ただ、『吾妻鏡』では静御前が京都に旅立った後、いっさい登場しない。このあとどこへ行って、何をしたか、ようとして行方知れず。それだけに、哀れでいとおしさも一層深まる。

(参考資料)永井路子対談集「静御前」(永井路子vs安田元久)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

県犬養橘三千代・・・藤原不比等を支えた後宮の実力者

 県犬養氏は一族に壬申の乱の功臣、大伴氏を持ち、その縁からか三千代は天武朝の女官となった。初めは敏達天皇四世の子孫、美努王(三野王)と結婚し、葛城王(後の左大臣・橘諸兄)と佐為王ら三子を産んだ。詳細は不明だが、10代の後半で妻となり、10代の末ぐらいに最初の子を産んだのではないか。しかし、新しい時代の律令政治に戸惑いをみせる美努王との生活が破綻。生年は定かではない。665年(天智4年)ごろ?か。没年は733年(天平5年)。

三千代は命婦として宮中に仕え、軽皇子(後の文武天皇)の乳母として養育にあたり、持統女帝および阿陪皇女(後の元明女帝)の信任を得て、次第に後宮の内部に地歩を固めていった。
 697年(持統11年)8月1日、後宮の長・三千代の最大の願いだった15歳の皇太子・軽皇子が皇位に即位、文武天皇となった。そして、持統女帝は太上天皇に就く。そして美努王が大宰帥として筑紫に赴任したこの頃、三千代は美努王と離婚し、藤原不比等の妻となり、安宿媛(後の光明皇后)を産んだ。

707年(慶雲4年)、不運にも25歳という若さで亡くなった文武天皇の後を受けた元明女帝(文武天皇の母)は、後宮に長く仕えた重鎮の三千代を深く信頼。即位の大嘗祭の宴で盃に橘を浮かべて、その功をねぎらい、「橘宿禰」の氏称を賜与した。したがって、三千代は橘氏の実質上の祖というわけだ。715年に三千代は尚侍(ないしのかみ)となって女帝に仕え、後宮の実力者として君臨した。
後の“藤原摂関政治”の礎を築いたのは不比等だが、それは、三千代の存在を抜きには決して語れない。不比等に対する皇族の厚い信頼のもと、後宮を完全に掌握していた三千代との二人三脚があってこそ、初めて実現したものだったのではないだろうか。

 不比等の先妻が産んだ宮子(文武天皇の夫人)の子・首皇子(後の聖武天皇)を皇位継承者とするために、表では夫・不比等が、裏では三千代が擁護した。翌年には娘の光明子を首皇子に嫁がせたが、これも彼女の発言力がものをいったのだろう。藤原不比等の孫(首皇子=後の聖武天皇)が夫に、不比等と三千代との間にできた子(光明子=後の光明皇后)が妻になったわけだ。

 不比等の死後、次男の房前が参議・内臣となり、朝廷内の実力者となるが、房前には先夫との間の牟漏女王が嫁いでおり、ここでも三千代の庇護が好影響を及ぼしているとみられる。
 三千代は721年(養老5年)、正三位に叙せられ、同年の元明天皇の危篤に際し出家。733年(天平5ねん)死去。死後、同年従一位、760年(天平宝字4年)正一位と大夫人の称号を贈られた。
 持統・元明・元正と三代の女帝に仕えた彼女は、江戸時代の徳川三代将軍家光の乳母で、大奥を取り仕切った春日局のような後宮の実力者だったのだろう。

(参考資料)黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、神一行「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」、梅原猛「海人と天皇」

大奥大年寄・絵島・・・江戸城内の幕閣の権力争いのスケープゴートに

 江戸時代中期、徳川七代将軍家継の生母、月光院(六代将軍家宣の側室、左京局)に仕えた大年寄(大奥女中の総頭で、表向きの老中に匹敵する地位)を務めた絵島は、当時名代の歌舞伎役者、生島新五郎との恋愛沙汰が露顕して、“絵島生島事件”として後世に長く伝えられる、大きなスキャンダルを起こし、失脚したといわれる。絵島は果たして、本当に“禁断の恋”に走るほど奔放な恋多き女性だったのか?

 今日に伝えられる絵島生島事件は、錦絵に描かれ、新作歌舞伎で演じられ、大年寄絵島は隠れもなき美男、生島新五郎との悲恋のヒロインとして粉飾されたものだ。そのため、この事件の真相は、禁を犯した、あたかも大奥女中と歌舞伎役者の情事に決定的な原因があったように印象付けられている。

 だが、江戸・木挽町の芝居小屋、山村座での芝居見物はただ一回のことだったし、絵島と生島新五郎の二人の情事を裏付けるような史料はない。また当時、大奥女中の芝居見物は“公然の秘密”として、通常は見逃されていた。それがなぜ、大年寄絵島をはじめとして、その由縁の人多数が斬首、流罪、追放に処せられなければならなかったのか?

 結論からいえば、大奥を含めた江戸城内の幕閣の権力争いが背景にあり、絵島はその争いに巻き込まれ、いわば“スケープゴート”にされたのだ。具体的には、幼少の七代将軍家継を擁立して権勢を振るう月光院や新参の側用人、間部詮房(まなべあきふさ)、家継の学問の師・新井白石らの勢力と、譜代の大名、旗本や六代将軍家宣の正室、天英院らの勢力との対立だ。大奥では絵島が属する月光院側が優勢だった。そこで、この“絵島生島”事件が天英院側の勢力挽回策としてつくり上げられたのだ。いわゆる“正徳疑獄”と称されるものだ。したがって、通常でさえほとんど罪状としていないことを、針小棒大に表現、疑獄として構築された、あるいは事件としてでっち上げられた部分も少なくないだろう。対抗勢力に決定的なダメージを与えることに目的があるのだから、それも当然だ。

 事件は1714年(正徳4年)、絵島らが月光院の名代として上野寛永寺および芝増上寺に参詣した折、その帰途に木挽町の山村座に遊び、帰城が夕暮れに及んだことに端を発する。これにより、絵島は同僚、宮路ともども親戚に預けられ、目付、大目付、町奉行の糾問を受けることになった。このとき女中7人も押込(おしこめ)となっている。評定所の判決が下り、絵島は死一等を減じ遠流(おんる)とされ、月光院の願いによって高遠藩主、内藤清枚(きよかず)、頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移された。罪状は、その身は重職にありながら、御使、宿下(やどさがり)のときにゆかりもない家に2晩も宿泊したこと、だれかれとなくみだりに人を近づけたこと、芝居小屋に通い役者(生島新五郎)と馴れ親しんだこと、遊女屋に遊んだこと、しかも他の女中たちをその遊興に伴ったこと-などだ。

 相手の生島は三宅島に流罪、絵島の兄の白井勝昌は死罪に処せられた。旗本、奥医師、陪臣など連座するものは多数に上り、刑罰も死罪、流罪、改易、追放、閉門などに及び、大奥女中は67人が親戚に預けられた。この後、絵島は高遠の囲屋敷で27年の歳月を過ごし、1741年(寛保1年)61歳の生涯を閉じ、生島はその翌年赦されて江戸に帰った。絵島の“禁断の恋”に擬せられた芝居見物の代償は何と大きかったことか。

(参考資料)杉本苑子「絵島疑獄」、平岩弓枝「絵島の恋」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、安部龍太郎「血の日本史」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

小野小町・・・六歌仙の一人で平安前期を代表する女流歌人

 小野小町は平安前期9世紀頃を代表する女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。生没年は809年(大同4年)ごろ~901年(延喜元年)。ただ、詳しい系譜は不明だ。系図集「尊卑分脈」によると、出羽郡司小野良真(小野篁の息子とされる人物。他の史記には全く見当たらない)の娘とされている。しかし、小野篁の孫とするならば、彼の生没年を考え合わせると、上記の年代が合わないのだ。

 「小町」は本名ではない。通称だ。「町」とはもともと仕切られた区画という意味。したがって、後宮に仕える女性だったことは間違いない。仁明天皇の更衣で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説が多いが、それらは小野小町がその時代の人物である在原業平や文屋康秀と和歌の贈答をしているためだ。しかし、それ以上、詳細のことは分からない。

 小野小町は非常に有名だ。歴史には疎いという人でも名前だけは知っている。そして絶世の美人だったという。だが、確かな証拠は全くない。ただ伝説として有名な話がある。小野小町に深草少将という貴族が惚れて「おれの女になれ」と迫った。そこで、小野小町は「百日百夜私のもとに通って来てください。そうしたらいうことを聞きましょう」と答えたので、深草少将は毎日毎晩、風の日も嵐の日も通ったという。そして、99日目に疲労のあまり死んでしまった。現代風に表現すれば、さしずめ過労死してしまったというところだ。

 この伝説は何を物語っているのか。小野小町は、男に従うような素振りを見せて、結局死ぬほどひどい目に遭わせた、とんでもない女だというわけだが、逆に男に99晩も通わせるほど魅力のある女だったということだろう。
 歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉・柔軟艶麗だ。「古今和歌集」序文において、紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。

 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に

などの歌はよく知られているところだ。
 生まれには多数の説がある。秋田県湯沢市小野という説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、茨城県新治郡新治村大字小野とする地元の言い伝えなど、生誕伝説のある地域は全国に点在している。京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。栃木県下都賀郡岩舟町小野寺には小野小町の墓などがある。福島県喜多方市高郷町には小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野小町の供養等がある。

米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車の愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものだ。

(参考資料)井沢元彦「歴史不思議物語」、井沢元彦「逆説の日本史」

幾松・・・幕末、桂小五郎を庇護し、体を張って支えた木戸孝允の妻

 幾松(いくまつ)は芸妓時代の名で、明治維新後、木戸孝允の妻となり「木戸松子」となった。幾松は文久年間以降、京都にあって桂小五郎が命の危険に晒されていた、最も困難な時代の彼を庇護し、文字通り体を張って必死に支え続けた。新選組局長近藤勇に連行され、桂の居場所を聞かれたこともあったと伝えられている。幾松の生没年は1843(天保14)~1886年(明治19年)。

 幾松は京都三本木(現在の京都市上京区三本木通)の芸妓として知られ、桂小五郎(後の木戸孝允)の恋人。幼少時の名は計(かず)もしくは計子(かずこ)。幾松=木戸松子の生い立ち、幼少期、芸妓時代に関しては諸説あり、定かではない。父は若狭小浜藩士、木崎(生咲)市兵衛(きざきいちべい)、母は三方郡神子浦の医師、細川益庵(ほそかわえきあん)の娘、末子。兄弟姉妹に関しても諸説あるが、磯太郎、由次郎、計、里など四男二女(または三女)あり、計は長女と思われる。

 嘉永元年ごろ、小浜藩に農民の騒ぎで奉行が罷免される事件があり、市兵衛もその際、職を辞し行方知れずとなった。母の末子は、男子は親戚に預け、計と里を連れ実家細川家を頼るが、5年後に京都加賀藩邸に仕える市兵衛の消息を知り、里だけを連れて京へ上り、ともに藩邸で暮らすことになった。市兵衛は生咲と改名していた。細川家に残されていた計は、魚行商人の助けにより独りで京へ向かい父母の元に無事たどり着き、一家四人で京都市中に借り住まいを始めた。しかし、まもなく市兵衛が病に伏し生活苦のため、計は口減らしに公家九条家諸太夫の次男、難波恒次郎のところに養女に出された。

 恒次郎は定職も持たず放蕩三昧で三本木の芸妓幾松を落籍して妻としており、実家に寄生するその日暮らしをしていたが、遊ぶ金が底をつくと計を三本木の芸妓にし、安政3年の春、14歳の計に二代目幾松を名乗らせた。
 嘉永7年、ペリー来航以来、尊皇攘夷、討幕を唱える勤皇志士たちが京に集まり、盛んに遊里を使うようになっていた。御所に近い三本木にも多くの志士が出入りし、その中に長州の桂小五郎もいた。そのころ幾松は笛と舞の名手で、美しく頭もいい名妓として評判になっており、桂と出会ったころにはすでに旦那もいたといわれ、桂は金と武力で奪い取ったという話もある。
二人の出会いは文久元年または2年ごろといわれる。幾松は実家と養家の生計を担っており、落籍には多大の金がかかったが、長州の伊藤博文の働きがあったようだ。このとき幾松20歳、桂は30歳だった。木屋町御池上る-に一戸を構え、桂の隠れ家としても使い、落籍後も幾松は芸妓を続け、勤皇志士のために宴席での情報収集に努めた。幾松のこうした同志的活動と内助の功があって、桂の長州藩におけるポジションも優位なものになっていったともいえよう。

 桂小五郎は長州藩主毛利敬親の命により、木戸貫治と改名し、その後、木戸準一、さらに維新後、孝允となった。幾松も松子と改め、長州藩士岡部利済の養女として入籍し、木戸と正式な夫婦となった。その後、木戸が明治政府の要人となるために明治2年、東京に移り住んだ。

(参考資料)南条範夫「幾松という女」、司馬遼太郎「幕末」

恵信尼・・・苦労を一身に背負い込み、親鸞の布教を支えた糟糠の妻

 恵信尼は浄土真宗の開祖・親鸞の妻。越後の豪族、三善氏の出。寿永元年(1182)誕生。建仁元年(1201)、親鸞との結婚生活に入る。確実な文献・記録はないが、残されている恵信尼の手紙などからみると、越後のような交通不便で文化の低いところでは不可能なほど高い教養を身につけていたのは、越後に九条家の荘園があって、それを管理していたのが三善氏という関係から考えて、京の関白・九条兼実の屋敷に上がっていたためと思われる。

 親鸞は戒を破って妻帯を公にした最初の僧だけに、非難中傷も多く、その結婚生活は苦難の連続だったと想像される。親鸞はおのれを語らなかった人で、史料は極めて少ない。その死後、恵信尼が娘の覚信尼に送った手紙十通が、大正10年に本願寺の宝蔵から発見されるまでは恵信尼はもちろん、親鸞の存在さえ長い間、疑問視されていた。ただ、それでも不明な点は依然として多い。

 親鸞と恵信尼の二人が知り合ったのが京都か越後か?ここでは流罪以前の京都説を取ったが、不詳だ。承元元年(1207)親鸞は越後の国府に流罪とされる。恵信尼は越後で一子をもうけ以後、流罪がとけた親鸞とともに、建保2年(1214)常陸国に移住、さらに数人の子をもうけた。親鸞・恵信尼一家は先妻の子、善鸞をはじめ、印信、明信、道性、覚信尼、小黒女房、高野禅尼の四男三女の七人までは確認されているが、それ以外にもいたという説もある。親鸞が寺を持たない主義だったから、恵信尼の苦労は並大抵のものではなかった。食うや食わずの生活が一生続いた。あまりの貧乏で使用人が逃げ出すほどの生活だった。

 最後に許されて京に戻ってからも、食えなくて何人かの子供が越後に移り、続いて恵信尼も夫や末娘の覚信尼と別れて越後・国府に戻らなければならなかった。親鸞82歳、恵信尼72歳のことだ。関東時代の弟子がお金を送ってきたといっても一家の生活を支えるには足りなかったようだ。その点、越後には三善家の相続財産である家や土地の管理などの問題もあるからではなかったか。ただ越後に帰ってからも、着るものもろくになかったようだ。

とはいえ、恵信尼は決して厭世的になることも、卑屈になることもない。京にいる覚信尼から着物を送ってもらって大変喜んで、「死出の旅の着物にする」と手紙を書いている。このときはもう80歳を過ぎている。貧窮の中でも、いつまでも女らしさを忘れない、とてもかわいい女性だった。家庭的な苦労をいっさい引き受けて、陰で夫の布教活動を支えた。そのうえ健康で、最後の子供を産んだのは42~43歳というバイタリティーのある人だったのだ。

 悲しみを誘うのは食べていけなくて、京の親鸞と別れて越後に帰ったまま、恵信尼は二度と夫に会うことがなかったという点だ。越後で親鸞の死の知らせが届いたとき、心を静めてから娘・覚信尼に宛てた手紙がある。痛切な、心に響きわたるような文面だ。

 恵信尼は晩年14~15年を越後で過ごし、親鸞の死後6年間存命、87歳で亡くなった。残された彼女の手紙の中で、87歳のときのものが最後だから、亡くなるその歳まで手紙を書いた、かくしゃくとした女性だった。

(参考資料)永井路子対談集「恵信尼」(永井路子vs丹羽文雄)、早島鏡正「親鸞入門」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」
              

お龍 日本で最初の新婚旅行をした坂本龍馬の妻

 坂本龍馬の妻、お龍は、正確には楢崎龍(ならさきりょう)といい、この時代の女性としては珍しいくらい自由奔放な性格だった。そんな女性を気に入り坂本龍馬は妻とした。二人は薩摩藩の重臣、小松帯刀の誘いで、薩摩藩の温泉に湯治を兼ねて旅行を楽しんでおり、これが日本で最初の新婚旅行だったといわれている。お龍の生没年は1841(天保12)~1906年(明治39年)。

 お龍は京都の町医師の楢崎将作の長女として生まれた。一般におりょう(お龍)と呼ばれることが多い。父の将作は青蓮院の侍医で、漢学を貫名海屋に学び、梁川星厳らの同門だった。また頼三樹三郎や池内大学らとも親密で、お龍が幼いときから行き来があり、彼女自身にも勤皇の思想が備わっていたと思われる。そんな父だっただけに、不幸なことに井伊直弼による安政の大獄に連座して捕らえられ、獄死している。

このため、お龍と母、そして幼い弟妹は生活に困窮。長女のお龍は家族を養うため旅館、扇岩で働いた。しかし、まもなく旅館を辞めて天誅組残党の賄いとなった。その後、天誅組が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになった

 このとき、坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られて愛人となり、その世話を受けて寺田屋に奉公することになった。1866年(慶応2年)、薩長同盟の成立を悟った新選組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、裸で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる。

その直後に、中岡慎太郎の仲人、西郷隆盛の媒酌で二人は結婚し、小松帯刀の誘いで新婚旅行を楽しんだというわけだ。
 1867年(慶応3年)、夫の龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたとき、お龍は下関の豪商・伊藤助太夫のもとにいたため、難を逃れた。龍馬の死後、三吉慎蔵が面倒をみていたが、1868年(慶応4年)にはお龍を土佐の坂本家に送り届けている。龍馬の姉、坂本乙女の元に身を寄せたが、まもなくそこを立ち去る。このとき龍馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係のない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまっている。

 その後、お龍は土佐から京へ行き、近江屋を頼ったり、また西郷隆盛や海援隊士を頼り東京に出たりした。転々としながら横須賀へ流れ、30歳のとき旧知の商人、西村松兵衛と再婚した。晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛にこぼしていたという。龍馬、松兵衛いずれの夫との間にも子供はなかった。

 ただお龍は、信じ難いことだが、これだけ思いの深かった龍馬が何をしていたのか、ほとんど知らなかったという。龍馬は無条件に大好きだが、彼の業績には全く興味がなかったのだ。すべてを知るのは、明治政府から伝えられたときだったという。細かいことに捉われない、こんな女性だったからこそ、龍馬は気に入ったのだろうが、ここまでいくと同じときを過ごした男(龍馬)の立場からみると、少し寂しい思いがするのではないか。

(参考資料)司馬遼太郎「竜馬が行く」、宮尾登美子「天璋院篤姫」

和泉式部・・・為尊・敦道両親王との恋に身をやつした多情な情熱の歌人

 和泉式部の情熱的で奔放な恋の歌は、同時代の誰しもが認めるものだった。紫式部は『紫式部日記』で和泉式部について、彼女の口から出任せに出る歌は面白いところがあるが、他人の歌の批評などは全く頂けず、結局歌人としても大したものではないとけなしているが…。

 和泉式部が紫式部の持たない能力を持っていたことは確実だ。一口で言えば、恋の、もっと言えば好色の能力だ。紫式部は好色の物語『源氏物語』を書いたが、彼女自身、好色の実践者ではなかった。その点、和泉式部は見事なまでに好色の実践者だった。女性として好色の実践者であるためには、美しい肉体を持ち、自らも恋に夢中になるとともに、男を夢中にさせる能力が必要だろう。

 『和泉式部日記』は、彼女がどのように帥宮敦道(そちのみや あつみち)親王を彼女に夢中にさせたかの克明な記録だといってもいい。敦道親王は冷泉天皇の第四皇子だが、母は関白・藤原兼家の長女・超子で、優雅な風貌を持ち、時の権力者・藤原道長が密かに皇位継承者として期待を懸けていた親王だった。

 『和泉式部日記』はこの敦道親王が、その兄の故弾正宮為尊(だんじょうのみや ためたか)親王が使っていた童子を使いに立てて和泉式部に手紙を届けるところから始まる。和泉式部は為尊親王の恋人だったが、親王は式部らへの「夜歩き」がたたって、疫病にかかって死んだ。

その亡き兄の恋人で、好色の噂が高い和泉式部に好奇心を抱いたのだろう。こうして二人の間にはたちまちにして男女の関係ができ、やがて天性のものと思われる彼女の絶妙の手練手管によって、親王は遂に彼女の恋の虜となる。親王は、一晩でも男性なくして夜を過ごせぬ多情な彼女が心配で、和泉式部を自分の邸に引き取るのだ。だが、このことでプライドを大きく傷つけられた親王の正室が家出してしまうのだ。

 一夫多妻制の当時のことだけに、男性が同時に何人の女性と恋愛関係を持とうが、それは誰からも非難されるところではなかったが、女性の立場からみれば複雑だ。夫が外で恋愛関係を持った女性を自分の邸に引き取ることは、正室の女性にはショックで、それが家柄のいい女性の場合、やはり耐え難いことだったに違いない。

 『和泉式部日記』は親王の北の方(正室)が親王のつれない仕打ちに耐え切れず、親王の邸を出るところで終わる。和泉式部は完全な恋の勝利者になったわけだ。『栄華物語』は、世間を全くはばからない二人の大胆な恋のありさまを綴っている。衆知となった二人の恋も長くは続かず、敦道親王はわずか27歳で死んだ。和泉式部は30歳前後だったと思われる。

 当時、和歌に秀でていることは男性の場合、出世に大きく関わる才能でさえあった。天皇や高級官僚が主催する歌合(うたあわせ)では、その和歌の優劣が、その人の評価=出世につながることさえあったのだ。女性の場合も、今日のように外でデートできない時代のことだけに、和歌に対する素養や表現の仕方ひとつで、男性の心をわし掴みにすることもできたのだ。もっといえば、和歌の世界なら身分の差は関係なく、男女は五分五分だったのだ。

 和泉式部は生没年不詳。越前守、大江雅致の娘。996年(長徳2年)、19歳ぐらいでかなり年上の和泉守・橘道貞と結婚。夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。夫道貞との婚姻は、為尊親王との熱愛が喧伝されたことで、身分の違いの恋だとして親から勘当され、破綻したが、彼との間にもうけた娘、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。

 1008~1011年、一条天皇の中宮、藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父、藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。恋愛遍歴が多く、道長から“浮かれ女”と評された。真情にあふれる作風は恋歌・哀傷歌などに最もよく表され、ことに恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人、藤原公任にも賞賛され、男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。

 1025年(万寿2年)、娘の小式部内侍が死去した折には、まだ生存していたが、晩年の詳細は分からない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。

(参考資料)鳥越碧「後朝(きぬぎぬ)-和泉式部日記抄」、梅原猛「百人一語」

お市の方・・・二度の落城・夫の切腹に立ち会った、淀君らの母

 戦国時代に生きた女性は、いずれも決まったように政略結婚の道具にされ、運命にもてあそばれて生涯を閉じているが、織田信長の妹、「お市の方」もその一人といえる。
しかし、お市の方は、後の歴史に名を残す立派な姫君を産んでいる。後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀君)をはじめ、幾度も政略結婚の犠牲となって、最終的には徳川秀忠に嫁いで徳川家光や千姫を産むお江(ごう)、それに京極高次に嫁いだお初(はつ)の三人姉妹の母なのだ。このお市の方がいなかったら、秀頼も生まれない、家光も存在しないことになるわけで、ずいぶん歴史は変わっていたことだろう。

また、お市の方は二人の男の子を産んでいる。ただ、敗将・浅井長政との間の子だっただけに、不幸な運命をたどり、長男の万福丸は殺害され、二男の万寿丸は出家させられた。
 お市は戦国時代の女性だが、生年は1547年(天文16年)(?)と定かではない。没年は1583年(天正11年)。市姫とも小谷の方とも称される。『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。父は織田信秀、信長の妹。

18歳で近江・小谷山城主、浅井長政に嫁ぎ、そして36歳のとき兄信長が本能寺で明智光秀に殺された後、信長の重臣の一人、25歳も年上の柴田勝家と再婚した。しかし、二度とも男の論理によって引き起こされた合戦の結果、落城と夫の切腹という悲惨な状況に立たされた。
二度目の越前北ノ庄城落城の際、お市の方は遂に生き抜くことの悲しみに絶えかね、勝家と運命をともにする。しかし、三人の娘だけは道連れにせず、秀吉のもとへ送り届けている。このとき詠んだのが次の辞世だ。

 さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな
 越前北ノ庄城での合戦の際の敵は秀吉だ。秀吉はお市の美しさに惹かれていたという説がある。落城のとき夫・勝家が勧めたように、城を出て生き延びようと思えば生きられたはずだが、なぜか夫に殉じて死を選んでいる。

戦国時代でも一番の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、兄信長にもかわいがられたお市の方の生涯。私欲のため美貌を売り物ともせず、三度同じような流転の生涯をたどることをきっぱりと拒否したきれいな生き方には、とてもさわやかなものを感じさせられる。

 ただ近年、お市の方の出自に?が付けられ、彼女は信長の実の妹ではなかったのではないかとの説が出されている。実は信長とお市は男女の関係にあり、信長がお市の嫁ぎ先の浅井長政のもとを訪ねた折の、様々な不自然な行動などが槍玉に挙げられている。その後、信長が浅井長政を攻めた際のお市の対応も、少し不自然な部分があるとか、確かな論拠には欠けるが、不可思議な点があるのだ。いずれにしても、お市の方は越前北ノ庄城で夫・柴田勝家とともに紅蓮の炎の中で、その生涯を閉じたことは確かだ。

(参考資料)永井路子対談集「お市の方」(永井路子vs円地文子)、司馬遼太郎「巧名が辻」

今川寿桂尼・・・今川義元を育てた女戦国大名

 今川寿桂尼は今川氏の七代目、今川氏親の妻だった。これはもちろん、夫氏親が大永6年(1526)に病没してしまった後、髪をおろし出家してからの名前だ。残念ながら、それ以前の彼女の名前は分からない。

 今川氏は足利氏からの分かれだ。足利氏から吉良氏が出、吉良氏から今川氏が出ている。初代今川範国が南北朝内乱の時代、足利尊氏にしたがって各地で戦功を上げ、しかもその過程で兄弟5人中、出家していた1人を除き、範国以外全員討ち死にしてしまったため、兄たちの恩賞も全部含まれて、駿河・遠江二カ国の守護に任命され、引付頭人といった幕府の要職にも就いた。その後、遠江の方は三管領の一家の斯波氏にとって代わられたが、以来十代目の今川氏真が武田信玄、徳川家康に攻められて滅びるまで、およそ230年余にわたって東海地域に覇を唱えた名門中の名門だ。

 寿桂尼は、京都の公家中御門宣胤の娘だった。中御門氏は甘露寺氏や万里小路氏などと同様、藤原北家勧修寺派の一つで、鎌倉時代の後期に坊城家より分かれたもの。寿桂尼の父中御門宣胤は権大納言になっており、権大納言のお姫様が地方の戦国大名に嫁いだというわけだ。

とはいえ、京都の公家が応仁の乱後、生活が困窮して経済援助が期待できるなら、どんな家にでも嫁がせるというわけではなかった。落ちぶれたとはいえ、京都の公家もそれなりの家格はみていたのだ。その点、今川氏は代々、京都志向が強く、今川了俊・今川範政など文化面で業績を残した人物も輩出した、教養の高い文化人大名として知られていた。中御門宣胤が娘を氏親に嫁がせたのはこうした点を踏まえたうえでのことだったのだろう。

彼女が氏親といつ結婚したのか分からない。永正10年(1513)に長男氏輝を産み、同16年(1519)には五男の義元を産んでいる。氏親には、はっきりしているだけで6人の男子、4人の女子がいたが、そのうち何人が寿桂尼の子で、何人が側室の子かは分からない。五男義元が生まれて少しして、一つのアクシデントに見舞われる。氏親が中風になってしまったのだ。大永元年(1521)頃のことだ。氏親51歳、寿桂尼の30代前半のこと。これは、結果的に彼女にプラスになることだった。病床に就いた夫を手助けしながら、実地に「政治見習」をすることができたからだ。

戦国大名今川氏といえば分国法、すなわち戦国家法の「今川仮名目録」が有名だ。これについても重要な役割を果たしたようだ。夫氏親の死が近いことを悟った寿桂尼が中心になってこの策定作業をしたのではないかとみられる。この「今川仮名目録」が制定された大永6年(1526)4月14日から、わずか2カ月後の6月23日、氏親は死んでいるのだ。そして、氏親の死後、形の上では後を子の氏輝が継いだことになっているが、それから2年間、実質的に今川家の当主は寿桂尼だったという。

氏輝にやっと政治を任せられるようになったと思った矢先、その氏輝が24歳の若さで死んでしまったのだ。氏輝は結婚していなかったらしく、子供もいなかった。そこで、夫と一所懸命築き上げた今川家を、寿桂尼は自分の産んだ子に後を継がせるべく差配する。義元より年上の玄広恵探を推すグループとの家督争いでこれを退け、義元を第九代当主の座に就けるのだ。京都の公家のお姫様だった彼女が、さながら“女戦国大名”として見事に力を発揮したわけだ。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

お江与・・・3度目の嫁ぎ先で徳川二代将軍秀忠の正室の座射止める

 お江与は、度々女としての不幸に出くわしながら、幸運にも3度目の嫁ぎ先で後世に広く知られる存在となった。徳川二代将軍秀忠夫人、正室の座を射止めたのだ。とはいえ、この結婚、全くのシンデレラ・ストーリーというものではない。それは彼女自身の血筋が良かったから可能だったといえる。彼女は、豊臣秀吉の側室となり、権勢を誇った淀君の二人目の妹なのだ。

 お江与は1573年、近江小谷城主・浅井長政と織田信長の妹、お市の方との間に生まれた。上に兄・万福丸、姉・茶々、初の二人がいた。彼女は江(幼名=ごう)、達子(みちこ)、徳子、小督(こごう)など、多くの名で呼ばれている。母お市の方は、当時のミス日本ともいうべき美貌の持ち主だったほか、姉の茶々もそれに劣らぬ美人だったようだ。だが、お江与には美人だったという言い伝えも史料も全く残っていない。

 冒頭でお江与は度々不幸に出くわしたと述べたが、それはもう尋常なものではない。父の死、母の死、夫の死なのだ。既述の通り、父は小谷城の主、浅井長政、母はお市の方だ。彼女の悲劇は物心つくかつかないうちに始まった。父の居城・小谷城が、母の兄織田信長に攻められて落城。父は自刃、母とともに彼女は信長に引き取られた。ところが、その信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺され、庇護者を失った母は柴田勝家と再婚。それに従って越前へ行くが、今度はその勝家が豊臣秀吉に攻められて敗死し、母も世の無常を感じ遂に勝家に従って自害してしまったのだ。

父も母も失い孤児となった三姉妹のうち、初めに縁談がまとまったのが、姉茶々に比べると器量のよくなかったお江与だった。16歳のときのことだ。彼女の最初の夫は尾張の小大名、佐治与九郎一成だった。彼女の伯母、お犬(お市の姉)が佐治家に嫁いでもうけた子だから、従兄にあたる。この縁組をまとめたのは羽柴秀吉だ。彼はこの後、お江与のすぐ上の姉のお初と京極高次の縁談もまとめている。つまり、秀吉の狙いは茶々を手に入れることで、茶々の周りの妹たちが邪魔だったのだ。

 そんな秀吉の魂胆はさておき、お江与は大名の格としては三流でも、マイホーム型の良き亭主、与九郎との間で愛を育み、幸せなときを過ごし、見違えるような「女」に成熟したようだ。だが、皮肉にもその変貌した美しさのために、彼女の不幸が始まる。その頃、姉の茶々は秀吉夫人となって秀頼を産んでいる。そのお祝いも兼ね、茶々を訪ねたお江与は、秀吉にも久しぶりに対面した。その道にかけては抜け目のない秀吉は、どうにかしたいものと考え、密かに佐治与九郎に離婚を命じる。しかし茶々の手前、自分の側室にすることは無理と判断した秀吉は、甥の羽柴秀勝の妻にしてしまう。この強引な離婚は、お江与本人の知らぬ間に進められ、有無をいわさず秀勝の妻にされてしまったというのが実態だったようだ。ともあれ、彼女はいまや関白さまの甥の妻となったのだ。ただ、この結婚は彼女に幸せをもたらしはしなかった。新しい夫の秀勝が朝鮮戦役に出陣して1592年、彼の地で亡くなったのだ。20歳ぐらいの年齢で、二度目の夫にも死別するという夫運の悪さだ。

 そこで、またも秀吉は彼女の嫁入り口を探し出す。今度の相手はライバル徳川家康の嫡男・秀忠だった。秀勝の死後3年経った1595年(文禄4年)お江与は秀忠に嫁した。この結婚は茶々(=淀君)の妹という身分を最大に政治的に利用した、実力者・徳川家との婚姻政策だったことは間違いない。
それにしてもこの結婚は世にも奇妙な組み合わせだった。新婦のお江与は23歳で二回離別の身だったのに、新郎は初婚の、それもたった17歳の少年だった。一見、不似合いな結婚は彼女に幸せをもたらした。関ケ原、大坂の陣での豊臣方の敗北と徳川方の勝利。姉の茶々(=淀君)の無残な死と引き換えに、彼女はトップレディーにのしあがるのだ。そして、いま一つ幸運だったのは夫の秀忠が、徳川歴代将軍の中で異例ともいえるカタブツだったことだ。

 徳川家に嫁してからお江与は千姫(豊臣秀頼夫人)、子々(ねね)姫(または珠姫)、勝姫、初姫と女子ばかり産んだが、1604年(慶長9年)、結婚10年目にしてようやく嫡子を産む。これが三代将軍家光だ。その後もお江与は秀忠との間に次男忠長、五女和子を産んでいる。この和子が後水尾天皇に嫁ぎ、後の明正天皇を産み、徳川家と天皇家を結ぶ絆になっている。お江与は出家した後、崇源院となり、1626年(寛永3年)江戸城で没。54歳だった。

(参考資料)永井路子「乱紋」、永井路子「歴史をさわがせた女たち 日本篇」

右京大夫 私家集で二人の男性との恋を公表した文学者

 正式には、建礼門院右京大夫はその名の通り、後白河法皇の子・高倉天皇の中宮、建礼門院平徳子に右京大夫として仕えた女性だが、終生、建礼門院徳子の側に仕えていたわけではない。そして彼女の本性は、「建礼門院右京大夫集」の私家集に表れている。当時、隆盛の平家一門の貴公子、平資盛、そして歌人・画家として有名な藤原隆信という二人の男との恋に生きた、情熱的な文学者だった。

 右京大夫は1157年(保元2年)頃に生まれ、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての活躍し、1233年ごろ没。父は藤原伊行、母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。1173年(承安3年)、高倉天皇の中宮、建礼門院徳子に右京大夫として出仕。しかし、中宮の甥・平資盛との恋や平家一門の没落などもあって、6年足らずで辞している。そして資盛の死後、供養の旅に出たという。

 傷心が癒えたものか、1195年(建久6年)頃、後鳥羽上皇に再び出仕、その生母、七条院と合わせ20年以上仕えた。建礼門院のもとを辞してから再出仕するまでの16年ほどの間、彼女は私家集に収められた歌を詠み、恋の追憶に浸っていたということなのだろう。

 彼女の私家集「建礼門院右京大夫集」は鎌倉時代初期に成立した歌数約360首を収めた作品。前半は源平の戦乱が起こる以前、1174年(承安4年)のできごとに起筆。中宮のめでたさや平家の栄華を讃えながら、年下の貴公子、平資盛との恋愛を主軸に据え、花をめで、月を愛し、優雅な歌を交わす耽美的な生活を描く。また、歌人・画家として有名な藤原隆信とも交渉を持った経過を述べている。
後半は耽美的な生活が突然崩れ、1183年(寿永2年)、一門とともに都落ちする資盛との別離に始まる。この運命の変化を彼女は、「寿永元暦などの頃の世のさわぎは、夢ともまぼろしとも、あはれともなにとも、すべてすべていふべききはにもなかりしかば、よろづいかなりしとだに思ひわかれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ、今までもおぼゆる」 と表現する。

それは「夢とも幻とも、哀れとも何とも言うべき言葉もないありさまであり、どうなっていくのか分からない、思い出したくもないこと」だった。彼女は夢とも幻とも言えないと表現するが、それは夢でも幻でもなく、まさに現実そのものだった。 

源氏との戦いに敗れた平家の滅亡に殉じて、資盛が壇ノ浦の海の藻屑と消えた後、ひたすらその追憶に生きた日々を描いている。
 現代風に表現すれば、これはまさに大評判を呼ぶ“告白本”といえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

大浦 慶・・・亀山社中の面倒をみた女商人,前・後半生で明暗を分けた人生

 大浦慶(お慶)は、長崎で若くして大胆にも外国貿易商と組んで茶商となり、とくに対米輸出で大成功を収め、有数の茶商としての地位を築いた。その後、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、とりわけ坂本龍馬率いる亀山社中の面倒をみたといわれる。そんな充実した日々から一転、騙されて3000両(現在の貨幣価値にして3億円)もの借財を背負った後半生は、どんなにか悲惨なものだったに違いない。前半生と後半生、きれいに明暗を分けたドラマチックな人生の一端をみてみたい。

 文政11年、シーボルト事件が発覚した年、お慶は長崎の町人で中国人相手の貿易商だった油屋、太平次の一人娘として生まれた。16歳のとき大火で店が焼けるが、すでに父は亡く、店の再興のために翌年、幸次郎を婿養子に迎える。この幸次郎という人物、番頭だったとも、蘭学修行にきていた書生ともいわれるが、定かではない。そんな婿養子だったが、お慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日追い出してしまったという。

 当時、日本は鎖国下にあり、禁を破れば死刑も免れない。しかし、嘉永6年、お慶は出島のオランダ人に頼み、茶箱に詰め込まれ、インドに密航したという話が残されている。お慶の後世の出世により生まれた作り話との説もあるが、お慶自身も晩年、上海への密航の話を語っていたという。いずれにせよ、お慶は外国貿易商と組んで茶商となり、中国の動乱に紛れて日本の茶を輸出しようとして、国際流通に目を向けたことは確かだ。嘉永6年、長崎出島に在留するオランダ人テキストルに頼んで、嬉野茶の見本を英・米・アラビア3国に送ってもらった。お慶26歳のときのことだ。

 3年後、英国の商人オルトがお慶の前に現れ、12万斤(72トン)ものお茶を注文した。お慶は嬉野だけでは賄いきれず、九州全土を走り回り、その3年後、安政6年、長崎港からアメリカへ初のお茶輸出船が出航する。このときにお慶が集めた茶はやっと1万斤だったが、それでも大成功を収めたこととなり、お慶の茶商としての地位は築かれた。

 この時期、長崎には多くの志士が集まってきており、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、資金援助に奔走し、志士たちの面倒をみた。彼女が一番世話したのが坂本龍馬率いる亀山社中(後の海援隊)の若者たちだったといわれる。このころがお慶の人生の絶頂期だったのかも知れない。

 維新後、志士たちは長崎から姿を消し、お慶もめっきり寂しくなった。ぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちに包まれていた、そんなとき、熊本藩士遠山一也が現れる。遠山はお慶に巧みに取り入り、オルトとタバコの売買契約を結ぶ。そして手付金を受け取ると、彼は姿をくらましてしまったのだ。遠山は輸入反物の相場に失敗し借金返済のために、お慶を騙したのだ。保証人になっていたお慶は家を抵当にこの3000両、いまでいえば3億円もの借財を被り、膨大な裁判費用まで払う破目になった。結局、お慶は明治17年、57歳で亡くなるまでにこの借財をすべてきれいに返済していたという。膨大な金額だけに、全く見事としかいいようがない。

 若くして才気立っていろいろな仕事をし、志士たちを助けたが、明治の元勲となった者たちからの見返りもなく、借財を払って終わった人生だった。だが、その起伏に富んだ、ドラマチックな生きざまは魅力にあふれている。
 明治になって元米国大統領グラント将軍来日の際は、事業の失敗にもかかわらず、お慶は長崎県の名士の一人として、長崎県令とともに軍艦に招待されたという。

(参考資料)白石一郎「江戸人物伝 女丈夫大浦お慶の商才」

加賀千代女・・・芭蕉門下の各務支考に認められ全国に名が知れ渡る

 加賀千代女(かがのちよじょ)は、江戸時代中期の女流俳人だ。代表的な句の一つ、「朝顔に つるべ取られて もらい水」など、朝顔の句を多く詠んだことで知られている。
千代女の出身地の松任市(現在の白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。千代女の生没年は1703(元禄16)~1775年(安永4年)。

 加賀千代女は加賀国松任で、表具師、福増屋六兵衛の長女として生まれた。号は草風。法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。母方の実家は町方肝煎の村井屋で、当時の松任御旅屋文書には村井屋小兵衛の署名捺印が多く残っており、福増屋も比較的恵まれた家庭だったと推察される。白山市中町の聖興寺に遺品などを納めた遺芳館がある。

 千代女は幼いころから、一般の庶民にもかかわらず、俳諧を嗜んでいたという。石川郡誌によると、12歳のころには本吉町(現在の美川町)の町方肝煎を務めていた北潟屋半睡(大睡)に師事したと伝えられている。

17歳のころ諸国行脚をしていた人に、松尾芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)が諸国行脚して、ちょうどここにきていると聞き、各務支考がいる宿を訪ねた。このことが、その後の彼女の生き方を決めることになる。

千代女はそこで、弟子にさせてくださいと頼むと「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められた。彼女は、俳句を夜通し詠み続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明けにけり」という句で、遂に各務支考に才能を認められた。そのことから、千代女の名を一気に全国に広めることになり、彼女は生涯にわたり句作に励むことになった。

 1720年(享保5年)、18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽、福岡弥八に嫁いだ。このとき「しぶかろか しらねど柿の 初ちぎり」という句を残した。しかし20歳のとき、不運にも夫に死別し、松任の実家に戻った。
30歳のとき京都で中川乙由(なかがわおつゆう)に会った。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳のときに剃髪し、素園と号した。72歳のとき、与謝蕪村の「玉藻集」の序文を書いた。1775年(安永4年)、73歳で没したが、そのとき「月も見て 我はこの世を かしく哉」の辞世の句を詠んでいる。
 生涯で1700余の句を残したといわれ、句集『四季帖』『千代尼句集』『松の声』などがある。代表的な句に

○朝顔に つるべ取られて もらい水
 (35歳のとき、「朝顔や」と詠み直されている)
○月も見て 我はこの世を かしく哉
○蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら
○起きて見つ 寝て見つかやの 広さかな
などがある。

 千代女の郷里、白山市では今も俳句が盛んで、同市で開催される「全国俳句セミナー」や「千代女全国俳句大会」には日本中から多くの俳句愛好者が訪れる。

(参考資料)ホームページ「千代の里 俳句館(石川県白山市殿町)」ほか

元正天皇・・・独身で即位した初の女性天皇 中継ぎ以上の務めを全う

 第四十四代・元正天皇は日本の5人目の女帝だが、あまりにも“中継ぎ”の天皇が強調されて、最も知名度は低いかも知れない。だが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃だったのに対し、彼女には結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇だった。また、歴代天皇の中で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇でもある。但し、父親は男系男子の皇族、草壁皇子のため、男系の血統は維持されている。元正天皇の生没年は680(天武天皇9)~748年(天平20年)。

 元正天皇の父は草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)、母は元明天皇。25歳の若さで亡くなった文武天皇(第四十二代天皇)の姉。即位前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。
歴史に「たら」「れば」をいってみても仕方がないのだが、それを承知で敢えていわせてもらうなら、文武天皇があと15~20年健在だったら、後を継いだ母・元明天皇、そして姉・元正天皇、両天皇の時代は完全に存在しなかっただろう。文武天皇は25歳で亡くなっているから、あと20年生きていてもまだ45歳。だから、十分あり得る推論なのだ。

 ところが、氷高皇女は弟、文武天皇の子、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)がまだ幼かったため、母・元明天皇から譲位を受け、即位し元正天皇となったのだ。皇室が求める「不改常典(ふかいのじょうてん)」の論理と藤原不比等らの政治的思惑とが相互に作用して、一見強引とも思える母から娘への皇位継承が円滑に行われたようだ。

 中継ぎの天皇といっても、この元正天皇は19年間の在任期間に、朝廷の中核的存在だった藤原不比等と折り合いをつけ、大過なく務めている。717年(養老元年)、藤原不比等らが中心となって「養老律令」の編纂を始め、翌年編纂業務を完了している。720年(養老4年)に『日本書紀』が完成。また、この年に藤原不比等が亡くなっている。

そこで翌721年(養老5年)、長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任され、長屋王政権を成立させている。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫だった。それだけに、元正天皇にとって心強い政権の誕生だった。それも、朝廷の中核、藤原不比等がなくなったからこそ、遂に実現したのだ。ちなみに、不比等亡き後、藤原氏の朝廷内の布陣は長男の武智麻呂(むちまろ)は中納言、次男房前(ふささき)はまだ参議だった。

 豪族の土地所有を否定した律令制度の導入によって「公地公民制」へ転換、実現されるはずだったが、現実には様々な問題があり、崩壊の兆しをみせ始めていた。723年(養老7年)制定された「三世一身法(さんぜいっしんほう)」がそれだ。これは田地不足を解消するため、新しい灌漑施設を伴う開墾地は3代、旧来の灌漑施設を利用した開墾地は本人1代のみ私有を認める-というものだった。これによって開墾は進んだが、いずれは国に土地を返さなければならないため、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。

 724年(神亀元年)元正天皇は皇太子・首皇子(聖武天皇)に譲位し、上皇となった。中継ぎ天皇ならここで務めは終わるはずだった。ところが、元正上皇の場合、退位後、20年近くも経ってから、その役割を果たさなければならない時期が到来した。聖武天皇が病気勝ちで職務を行えなくなったこと、あるいは平城京から、恭仁京(くにきょう)、紫香楽京(しがらききょう)、難波京(なにわきょう)と目まぐるしく遷都、行幸を繰り返すなど、情緒不安定だったためで、上皇は聖武天皇に代わり橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたとみられる。

(参考資料)永井路子「美貌の大帝」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」

川上貞奴・・・明治の元勲たちからひいきにされた日本一の芸妓

 日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった川上貞奴(かわかみさだやっこ)は、時の総理、伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲からひいきにされ、名実ともに日本一の芸妓となった。自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した後、アメリカ興行に同行した彼女は、一座の女形が死亡したため、急遽、代役を務め、日本初の“女優”となった。欧米各地で公演を重ねるうち、エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得たという。川上貞奴の生没年は1871(明治4)~1946年(昭和21年)。

 川上貞奴は東京・日本橋の質屋、越後屋の12番目の子供として生まれた。本名は川上貞(旧姓小山)。生家の没落により、7歳のとき葭町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となった。伝統ある「奴」名をもらい、「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがり、多くの名立たる元勲のひいきを受け、名実ともに日本一の芸妓といわれた。

 そんな貞奴が1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし、当初は苦労も多く、夫の音二郎が二度も衆議院選挙に落選したことで、資金難に陥った。貞奴にしてみれば明らかに想定外のことだったに違いない。

 日の当たる場所から身を引いた貞奴だったが、どういうめぐり合わせかスポットライトを浴びるときがくる。1899年、貞奴は川上音二郎一座のアメリカ興行に同行、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため、急遽この代役を務めることになったのだ。日本初の“女優”の誕生だ。ところが、ここで思いもかけない不幸が一座を襲う。公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀なくされた。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着。極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が観客に大うけしたのだ。何が幸いするか分からない。

 1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年パリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場で公演を行った。7月4日の初日の公演には彫刻家のロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。

 8月には当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、着物風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソらは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立した。1911年、音二郎が病で死亡。遺志を継ぎ公演活動を続けたが、演劇界やマスコミの攻撃が激化。ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い「日本の近代女優第一号」として舞台から退いた。

 福澤諭吉の娘婿で、「電力王」の異名をとった福澤桃介(旧姓岩崎)との関係も話題を呼んだ。長い別離を挟み結ばれた二人は、仲睦まじく一生を添い遂げた。

(参考資料)小島直記「まかり通る」、小島直記「人材水脈」

建礼門院徳子・・・安徳天皇の国母で平家滅亡後、一門の菩提弔う

 建礼門院徳子は、平家の天下を一代で築き上げた太政大臣・平清盛と、桓武平氏の宗家(堂上平氏)の娘・平時子(清盛の死後の二位の尼)の間の娘(次女)で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母だ。壇ノ浦で源氏との戦いに敗れ平家一門は滅亡し、母の二位の尼や安徳天皇は入水。ところが、徳子は生き残り京へ送還され、尼になり、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えた。59歳だった。

 保元の乱、平治の乱に勝利して、武家(軍事貴族)ながら朝廷内で大きな力を持つようになり、平氏政権を形成した父の清盛の意思で、藤原氏と同様、天皇の外戚となるため、1171年(承安元年)17歳の徳子は11歳の高倉天皇のもとに入内、中宮となった。清盛は徳子のほかに8人の娘があったが、いずれも権門勢家に嫁がせて勢力を強めていった。入内7年後の1178年(治承2年)24歳になった徳子は安徳天皇を産み、国母と称された。

 清盛は皇子降誕を心待ちにしていたが、皇子が誕生すると今度は早く即位させようと躍起になった。一方、後白河院は自身退位後、二条天皇、六条天皇を立てて傀儡化し、強大な力で院政を敷いていた。しかし、この院政も次第に平氏の台頭により大きな制約を受けることになった。

 1179年(治承3年)、清盛はクーデターを断行し高倉天皇の父、後白河法皇の院政にとどめを刺し、天皇は譲位し上皇となり、安徳天皇はわずか3歳にして即位した。しかし、実父の後白河法皇と岳父、清盛との確執や福原への遷都、平氏による東大寺焼き討ちなどが続き、こうした心労が重なって、高倉上皇は病床に伏し1181年(養和元年)、21歳の若さでこの世を去ってしまう。

 その後、建礼門院徳子は源氏に追われ都落ちする平家一門とともに生きながら、数々の苦しみを経験する。壇ノ浦では硯石や焼石(カイロ代わりの石)を懐に詰めて後を追うが、そばの船にいた源氏の武者に熊手で髪をからめられ、助けられる。源氏に捕われの身となってから、髪を落として、京都の大原にある寂光院に隠棲した。1186年、後白河法皇の大原御幸があり、法皇と親しく対面。この後、それまでの波乱万丈の生涯とはうって変わって、ひたすら平家一門の菩提を弔う静かな生活を続けたといわれる。

 それにしてもこの徳子、周知の通り悲劇のヒロインとして人気がある。清盛の野望の犠牲者とも考えられるが、ほとんど何も自分ではせず、自分の意思というものがあったのかどうか分からない。結婚生活をみても、子づくりには執着せず、成長した高倉天皇が他の女性に子供をつくってしまう。最初の相手は30歳の乳母で、次が小督局。驚くことに小督を天皇に薦めたのは徳子だといわれている。自分の夫が他の女性と浮気し、子供をつくっても平気だとは、とても考えられない話だ。高倉天皇が亡くなったときも徳子は嘆き悲しんだ様子がうかがわれない。彼女には愛というものが希薄だったことは間違いない。

(参考資料)対談集 永井路子vs 福田善之 

川島芳子・・・清朝皇族の血ひく、日中双方で人気の“男装の麗人”

 川島芳子(本名・愛新覚羅顯●<王偏に子、以下同>)は清朝の皇族・粛親王の第十四王女だが、日本人の養女となった。日本では“男装の麗人”としてマスコミに取り上げられ、新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を巻き起こした。日本軍の工作員として諜報活動にも従事し、第一次上海事変を勃発させたともいわれたため、戦後まもなく中華民国政府によって「漢奸」として逮捕され、銃殺刑に処された。だが、処刑された遺体が実際に芳子だったのか、謎や疑問点も少なくない。そのため、日中双方での根強い人気を反映して、現在でも生存説が流布されている。

 川島芳子の字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。川島芳子の生没年は1907~1948年。愛新覚羅氏は満州(中国東北部)に存在した建州女真族の一部族名で、中国を統一し清朝を打ち立てた家系。アイシンとは彼らの言葉で「金」を意味する。清朝滅亡後、愛新覚羅氏の多くが漢語に翻訳した「金」姓に取り替えた。清朝建国にあたってとくに功績の大きかった八家が他の皇族とは別格とされ、八大王家(のちに四家が加わり十二家に)と呼ばれた。川島芳子もこの八大王家の中から出た女性だ。

 中国で1911年、辛亥革命が起こり、1912年、宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位。袁世凱を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が建国されたのに伴い、袁世凱の政敵でもあった粛親王が北京を脱出。日本の租借地だった関東州旅順に、家族とともに亡命した。旅順では粛親王一家は関東都督府の好意により、日露戦争で接収した旧ロシア軍官舎を屋敷として提供され、幼い顯●も日本に養女にいく前の一時期をそこで過ごした。この際、一家亡命の橋渡し役を務めたのが、粛親王の顧問だった川島浪速だ。

粛親王が復辟運動のために、日本政府との交渉人として川島浪速を指定すると、川島の身分を補完し、両者の親密な関係を示す目的で、顯●は川島浪速の養女となり芳子という日本名が付けられた。
 1915年に来日した芳子は当初、東京・赤羽の川島家から豊島師範付属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学した。やがて川島の転居に伴い、長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学した。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したという。1922年に実父、粛親王が死去し、葬儀参列のため長期休学したが、復学は認められず松本高女を中退した。

 芳子は17歳で自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになった。断髪の原因は、山家亨少尉との恋愛問題とも、養父・浪速に関係を迫られたためともいわれているが、その詳細は明らかではない。断髪した直後に女を捨てるという決意文書を認め、それが新聞に掲載された。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、本人のもとに取材記者なども訪れるようになり、この時期のマスコミへの露出が、後に“男装の麗人”像となり、昭和初期の大衆文化の中に形成される大きな要因となった。

 芳子の端正な顔立ちや清朝皇室出身という血筋は、世間で高い関心を呼び、芳子のマネをして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を起こしていた。

 1927年にパプチャップ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャップと結婚したが、3年ほどで離婚した。その後、上海へ渡り、同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれている。だが、実際に諜報活動をしたのかどうか、その実態は謎に包まれている。

(参考資料)西沢教夫「上海に渡った女たち」、園本琴音「孤独の王女 川島芳子」

光明皇后・・・皇族以外で初めて皇后位に就いた女性

 光明皇后は16歳で聖武天皇の妃となり、後に皇族以外では初めて皇后位に就いた藤原“摂関政治”のいわば看板娘だ。彼女は病気がちの聖武天皇に代わって、東大寺や国分寺の建立を進めたり、孤児収容の悲田院や、貧民のための医療施設である施薬院をつくるなど、有為な政治家だったと伝えられる。ただ、異説を唱える人もあり定かではない。

 彼女の生没年は701~760。父は「贈正一位太政大臣」藤原不比等、母は「贈正一位」県犬養橘三千代、名は安宿媛・光明子。孝謙天皇の母。
 天平勝宝元年(749)、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、ここに孝謙天皇(女帝)が誕生する。しかし、この天平勝宝年間(749~757)から天平宝字4年(760)、光明皇太后が没するまでの約10年間の事実上の政治の実権者は光明皇太后だった。

これにはいくつかの証拠がある。その一つは『続日本紀』にある孝謙天皇の「詔」の中で、彼女が「朕がはは」光明皇太后を「オオミオヤノミカド(皇太后朝)」と呼んでいる点だ。皇太后朝というのは、一種の天皇だ。とすれば光明皇太后は、この孝謙帝の時代から実際の天皇だったといわねばならない。彼女は元明・元正女帝などより、はるかに強い権力を持っていたのだろう。

しかし、彼女は藤原氏出身だ。藤原氏の出身の前皇后が次の天皇となることはできない。それでやむなく、彼女は「紫微中台」にとどまった。「紫微中台」というのは、言葉の上でも実際の天皇を意味する。つまり、彼女は「女帝」だったのだ。

幼い時から藤原一門の期待を担って、彼女には“皇后学”ともいうべき教養が与えられたが、それはインターナショナルな中国の文化を核とするものだったろう。そんな彼女にとって留学帰りの僧玄_と下道真備、後の吉備真備の二人は唐文化の理念的知恵・仏教と実際的知恵・儒教と律令の知識そのものだった。

光明皇后は、この二人を重く用いれば国家は十分治まると思ったに違いない。天平9年の兄の4兄弟、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の相次ぐ死で、自身の権力を支える大きな後ろ楯を失った彼女は心に深い不安を抱えていただけに、玄_と真備の存在には救われる思いすらあったのではないか。

その“のめり込み”が高じて、玄_が彼女の恋人として選ばれたのも当然の成り行きだったかもしれない。皇后と、天下に名だたる高僧だったとしても、生身の女と男、その間に肉体関係が生まれたとしても不思議はない。

 (参考資料)梅原猛「海人と天皇」、杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子対談集「光明皇后」(永井路子vs竹内理三)