和泉式部・・・為尊・敦道両親王との恋に身をやつした多情な情熱の歌人

 和泉式部の情熱的で奔放な恋の歌は、同時代の誰しもが認めるものだった。紫式部は『紫式部日記』で和泉式部について、彼女の口から出任せに出る歌は面白いところがあるが、他人の歌の批評などは全く頂けず、結局歌人としても大したものではないとけなしているが…。

 和泉式部が紫式部の持たない能力を持っていたことは確実だ。一口で言えば、恋の、もっと言えば好色の能力だ。紫式部は好色の物語『源氏物語』を書いたが、彼女自身、好色の実践者ではなかった。その点、和泉式部は見事なまでに好色の実践者だった。女性として好色の実践者であるためには、美しい肉体を持ち、自らも恋に夢中になるとともに、男を夢中にさせる能力が必要だろう。

 『和泉式部日記』は、彼女がどのように帥宮敦道(そちのみや あつみち)親王を彼女に夢中にさせたかの克明な記録だといってもいい。敦道親王は冷泉天皇の第四皇子だが、母は関白・藤原兼家の長女・超子で、優雅な風貌を持ち、時の権力者・藤原道長が密かに皇位継承者として期待を懸けていた親王だった。

 『和泉式部日記』はこの敦道親王が、その兄の故弾正宮為尊(だんじょうのみや ためたか)親王が使っていた童子を使いに立てて和泉式部に手紙を届けるところから始まる。和泉式部は為尊親王の恋人だったが、親王は式部らへの「夜歩き」がたたって、疫病にかかって死んだ。

その亡き兄の恋人で、好色の噂が高い和泉式部に好奇心を抱いたのだろう。こうして二人の間にはたちまちにして男女の関係ができ、やがて天性のものと思われる彼女の絶妙の手練手管によって、親王は遂に彼女の恋の虜となる。親王は、一晩でも男性なくして夜を過ごせぬ多情な彼女が心配で、和泉式部を自分の邸に引き取るのだ。だが、このことでプライドを大きく傷つけられた親王の正室が家出してしまうのだ。

 一夫多妻制の当時のことだけに、男性が同時に何人の女性と恋愛関係を持とうが、それは誰からも非難されるところではなかったが、女性の立場からみれば複雑だ。夫が外で恋愛関係を持った女性を自分の邸に引き取ることは、正室の女性にはショックで、それが家柄のいい女性の場合、やはり耐え難いことだったに違いない。

 『和泉式部日記』は親王の北の方(正室)が親王のつれない仕打ちに耐え切れず、親王の邸を出るところで終わる。和泉式部は完全な恋の勝利者になったわけだ。『栄華物語』は、世間を全くはばからない二人の大胆な恋のありさまを綴っている。衆知となった二人の恋も長くは続かず、敦道親王はわずか27歳で死んだ。和泉式部は30歳前後だったと思われる。

 当時、和歌に秀でていることは男性の場合、出世に大きく関わる才能でさえあった。天皇や高級官僚が主催する歌合(うたあわせ)では、その和歌の優劣が、その人の評価=出世につながることさえあったのだ。女性の場合も、今日のように外でデートできない時代のことだけに、和歌に対する素養や表現の仕方ひとつで、男性の心をわし掴みにすることもできたのだ。もっといえば、和歌の世界なら身分の差は関係なく、男女は五分五分だったのだ。

 和泉式部は生没年不詳。越前守、大江雅致の娘。996年(長徳2年)、19歳ぐらいでかなり年上の和泉守・橘道貞と結婚。夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。夫道貞との婚姻は、為尊親王との熱愛が喧伝されたことで、身分の違いの恋だとして親から勘当され、破綻したが、彼との間にもうけた娘、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。

 1008~1011年、一条天皇の中宮、藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父、藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。恋愛遍歴が多く、道長から“浮かれ女”と評された。真情にあふれる作風は恋歌・哀傷歌などに最もよく表され、ことに恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人、藤原公任にも賞賛され、男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。

 1025年(万寿2年)、娘の小式部内侍が死去した折には、まだ生存していたが、晩年の詳細は分からない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。

(参考資料)鳥越碧「後朝(きぬぎぬ)-和泉式部日記抄」、梅原猛「百人一語」

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