祇王御前 栄耀栄華を誇った平清盛に寵愛された白拍子の名手 

祇王御前 栄耀栄華を誇った平清盛に寵愛された白拍子の名手 

 祇王御前(ぎおうごぜん)は白拍子の名手で、『平家物語』によると当時、栄耀栄華を誇った平家の総帥・相国入道平清盛に寵愛された女性だ。祇王御前は近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲町)で生まれたとされている。生没年は不詳。都で評判となった舞と美貌を権力者の清盛が聞き付け、邸に招かれた。そして、祇王はたちまち清盛の寵愛を受ける身となった。祇王17歳ころのことだ。これを知った祇王の母の刀自(とじ)は、娘の“玉の輿”を大変喜んだ。

 祇王がどれだけ清盛の寵愛を受けていたかを示す逸話がある。祇王の出身地、野洲は毎年ひどい干害が起こるところだった。そこで、祇王は清盛に野洲の干害を何とかしてほしいと頼んだ。清盛は愛する彼女の頼みを聞き入れ、野洲川から水を通すために溝を掘らせ、干害対策を施した。このとき掘られた溝は祇王井川と呼ばれ、現在も残っている。

 ところで、祇王が清盛に仕えて2年が過ぎたある日、西八条御殿の清盛の邸に、加賀国生まれの「仏」と名乗る白拍子が訪ねてきた。侍者がこのことを清盛に取り次ぐと、清盛は「白拍子が招きもしないのに、訊ねてくるとは怪しからん」と怒り、追い返そうとする。しかし、同じ白拍子の祇王は仏御前を不憫に思い。彼女を邸に入れてあげるよう取り成した。邸に入ることを許された仏御前は、今様(当時の流行りの歌)を歌うよう命じられ、

 君を初めて見る折は 千代も経ぬべし 姫小松

 お前の池なる亀岡に 鶴こそ群れゐて 遊ぶめれ

と、3回繰り返して歌った。

 この歌を聴いた清盛は仏御前に興味を示し、次は舞を舞うように命じた。すると、彼女は清盛の前で美しい舞を披露したため、大いに気に入られ、邸に留められることになった。

 仏御前が邸に来てからは、清盛の関心は祇王から彼女に移った。祇王のお陰で邸に入れてもらった仏御前は、そのことを心苦しく思っていた。それを察した清盛は、祇王が邸にいるから仏御前の気持ちが沈んでしまうのだと考える。そして、思いもかけない事態が起こる。何と清盛は祇王を邸から追い出してしまったのだ。同じ白拍子の身で不憫に思ってかけた情けが、完全に仇となったわけだ。

 祇王は邸を出る前に、忘れ形見として障子に、次の和歌を残したと伝えられている。

 「萌え出づるも 枯るるも同じ野辺の草 いずれか秋に あはで果つべき」

 歌意は、追い出す仏も、追い出される私も、いずれも野辺の草。秋が来れば飽きられて捨てられる運命にあるのですよ。

 その後、祇王は母と妹の祇女と一緒に出家し、嵯峨野に草庵(=往生院)を結んでひっそりと暮らすことにした。だが、『平家物語』は祇王の物語に劇的な展開を用意している。清盛は、嵯峨野で隠棲している祇王を呼び、仏御前の無聊(ぶりょう)を慰めるために舞うよう命じる。

 仏も昔は凡夫なり 我らも終(つひ)には仏なり

 いずれ仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

 悔し涙をこらえながら、祇王は歌い舞った。祇王の舞は相変わらず美しく、人の心を揺さぶるものだった。仏御前には身につまされた。程なく、髪を下ろし出家姿で、祇王らの嵯峨野の草庵を訪れた女性は、あの仏御前だった。彼女も現世の無常を感じ、清盛のもとを去り、出家することにしたのだった。

 現在、往生院は祇王寺と呼ばれている。その境内には祇王、祇女、刀自の墓とされる宝筐院塔と平清盛の供養塔の五輪塔がある。また、祇王寺の仏間には清盛、祇王、祇女、刀自、仏御前の木像が安置されている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

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