鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

 鏡王女(かがみのおおきみ)は、額田王(ぬかだのおおきみ)の姉だから、近江の豪族・鏡王の女(むすめ)だ。とはいえ、これには異説があり、第三十四代舒明天皇の皇女とも皇妹ともいわれる。鏡王女の名を一般的に眼にするのは、中大兄皇子の妃だった彼女が、懐妊中、大化改新で貢献した功臣・中臣鎌足に下された件(くだり)だ。感激した鎌足は、鏡王女を正妻として遇したが、そのときの子が、藤原不比等だ。困ったことに、これにも異説があって、不比等の母は車持の与志古娘(よしこのいらつめ)ともされる。だが、父・鎌足が賜った藤原姓を、中臣氏の中で不比等の系統のみが継ぐことになったのは皇胤だからとする解釈も根強い。

 いずれにしても、中大兄皇子の鏡王女に対する気持ちはすでに冷めていた。だから、鎌足への下賜につながるのだ。鏡王女にとっては悲しい現実にさらされたわけだ。ただ、名ばかりの妃でいるよりは、正室として迎えられ、普通に言葉を交わせる鎌足との生活が、女性にとって幸せだったのではないかとの見方もできる。鏡王女の生年は不詳だが、没年は683年(天武12年)だ。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。鏡女王とも呼ばれた。彼女の少女時代のことは何も分からない。額田王ほどではないが、代表的な万葉歌人の一人といわれる。史料によると、夫・鎌足の病気平癒を祈り、669年(天智天皇8年)に山階(やましな)寺(後の興福寺)を建立した。

 鏡王女が紛れもなく皇族の一員だったことが分かる件がある。『日本書紀』に天武天皇12年7月、王女を天武天皇が見舞いにきたことが記されているのだ。『万葉集』には4首の鏡王女の歌が収められ、天智天皇、額田王、藤原鎌足との歌の問答が残されている。

 「風をだに恋ふるはともし風をだに 来むとし待たば何か嘆かむ」

 これは、鏡王女がまだ中大兄皇子(天智天皇)の妃の一人だったとき、妹の額田王が

 「君待つとわが恋ひをればわが屋戸の 簾動かし秋の風吹く」

と歌ったのに対して返したものだ。額田王が中大兄皇子を待つ満ち足りた心を歌ったのに対し、鏡王女はすでに皇子の寵が去った自分のところには風さえ来ないと、妹をうらやましい気持ちで歌ったわけだ。鏡王女自身が感じていたように、中大兄皇子の自分への気持ちは冷めていた。だから、冒頭で述べたように、鎌足への下賜につながるのだ。

 鎌足が中大兄皇子から下賜された鏡王女に対して詠んだ、情熱的?なこんな歌が『万葉集』に収められている。

 「玉くしげみむろの山のさな葛 さ寝ずは遂にありかつましじ」

 『万葉集』独特の枕詞や飾りの言葉が入っているので分かりにくいが、彼のホンネは下の句にある。現代風に表現すれば、「あなたと寝ないではいられないだろうよ」ということだ。この歌は、鏡王女の次の歌に対して答えた歌だ。

 「玉くしげ覆ふを安み明けていなば 君が名はあれど我が名し惜しも」

 歌意は、化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってから、お帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の良くない評判が立つのが惜しいですわ。

 鎌足には天智天皇から手厚い恩賞として、采女の安見児をもらったとき詠んだこんな歌がある。これも『万葉集』にある歌だ。

 「吾はもや安見児えたり皆人の得がてにすとふ安見児えたり」

 歌意は、俺こそ采女の安見児(やすみこ)をわがものにしたぞ。みんなが結婚できないという安見児を、我が妻にした-と手放しで喜んでいる。

 中大兄皇子=天智天皇の生涯は波乱を極めたが、鎌足は常に側近にあって活躍した。それだけに鎌足に対する天智の信任は絶大で、位人臣をきわめ、手厚い恩賞も与えられた。そして、異例中の異例のことだが、実は鏡王女の下賜も、破格のご褒美の一つなのだ。

 普通、豪族は天皇家に対する忠誠の証として娘を、天皇家の側女=采女として差し出す。その意味で、その女性は人ではなく、世話をする個人(天皇や皇子)の所有物、つまりモノと同じなのだ。だから、一見、中大兄皇子=天智天皇の取った行動は非人間的なものに思われ勝ちだが、本来的にはその女性本人の意思や気持ちがどうであろうと斟酌されることはないのだ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人 胡女(こじょ)」

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