宝永地震の「大坂の死者2万1000人超」幕府の記録
新潟大の調査によると、江戸時代中期の1707年に発生した宝永地震(マグニチュード8.6)で、大坂(現・大阪)市中の津波などによる死者は2万1000人を超えたとする記録が残っていたことが分かった。この記録は地震直後に、尾張藩士が幕府の報告書を写したもので信頼性が高く、宝永地震の被害見直しを迫る史料となりそうだ。宝永地震は有史で最大級の南海トラフ地震だが、被害実数が分かる史料は少なく、大坂の死者は数千~1万人、全国で計2万人との推計が通説だった。
「天下の台所」と呼ばれ、物流拠点として栄えていた大坂の人口は当時約35万人。死亡率は6%に達し、全国最多だったとみられる。新潟大の矢田俊文教授は、宝永地震では今の大阪市中心部の大半が浸水し、多くの橋が落ちた。将来の防災に生かしてほしい-と話している。津波の直撃を受けなかった内湾沿いの大坂でも、南海トラフ地震で死者が2万人を超えたという記録は衝撃的だ。
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カンボジアでアンコールワットより古い巨大遺跡発見
カンボジアでアンコールワットより古い巨大遺跡発見
筑波大はじめカンボジア、フランス、英国などの国際研究チームは6月29日までに、カンボジア北西部のアンコール地区で熱帯林に隠れた巨大遺跡を見つけたと発表した。12世紀前半に建設された世界遺産のアンコールワットより古く、9世紀ごろの建設されたクメール帝国の首都とみられる。灌漑が整備されていたことも分かった。同チームは昨年4月、ヘリコプターからレーザー光で密林370平方㌔㍍を調査し、発見した。802年ごろに建設されたとされるクメール帝国の首都マヘンドラパルバタの遺跡とみている。これまで碑文などで存在するとされていたが、証拠となる構造物は見つかっていなかった。
マヘンドラパルバタはアンコールワットから北東に約40㌔離れた山中にあり、面積は30平方㍍以上あったと考えられるという。調査では東西に走る道路や水路、寺院など土木構造物の痕跡も見つかった。クメール帝国中期のアンコールワットやアンコールトム(12世紀後半)で、これまで未発見だった道路や運河の跡も見つかっている。
平城宮跡からウリやキイチゴなどの種8万粒見つかる
平城宮跡からウリやキイチゴなどの種8万粒見つかる
奈良文化財研究所は7月2日、平城宮跡(奈良市)で役所が集中していた地区にあった8世紀の穴の跡から、ウリやキイチゴなど推定8万粒以上に及ぶ大量の種が見つかったと発表した。平城宮でこれほど多くの種が見つかるのは初めてで、役人の生ごみや糞便とみられる。奈良時代の役人の食生活を物語る貴重な資料といえそうだ。
穴は1辺70㌢、深さ30㌢。採取したコンテナ4箱分(乾燥状態で約12㍑)の土を調査したところ、1箱から野菜や果物など約40種類の種実が約2万粒確認された。総数は4箱で8万粒を超えるとみられる。
トイレットペーパー代わりの木片や、丸のみしにくいカキやアケビなどの種もあった。当時の記録にはないシソやイチジク属のイタビカズラも出土。平安時代の法令集「延喜式」に貢ぎ物として記されている珍しいムベ(アケビの一種)も見つかっている。
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「薩長土肥連合」で観光PR 2018年に明治維新150年
「薩長土肥連合」で観光PR 2018年に明治維新150年
5年後の2018年に明治維新150年を迎えるのを機に、維新を推進し明治政府を担う多くの人材を輩出した鹿児島(薩摩)、山口(長州)、高知(土佐)、佐賀(肥前)の各県が観光客誘致で連携に動き始めた。共同でキャンペーンを展開したり周遊ルートを設けたりして、各地を訪れる旅行者を増やす起爆剤にする考えだ。
維新の歴史を前面に出した観光PRで連携し、旅行会社や交通機関などと組んでゆかりの地を訪れる旅行商品を企画するという。西郷隆盛、大久保利通らを生まれ育った地、鹿児島県・加治屋町、木戸孝允、高杉晋作らにゆかりのある山口県の萩市や下関市、坂本龍馬や板垣退助らが生まれた高知市などを巡るルートが想定される。4県で協力し連合組織の設立も検討、東京や大阪など大都市圏で共同イベントを開催したいとしている。
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イランで最古級の農耕跡 メソポタミア文明起源の手掛かり
イランで最古級の農耕跡 メソポタミア文明起源の手掛かり
ドイツのチュービンゲン大の研究チームは7月4日、中東のチグリス・ユーフラテス川流域の「肥沃な三日月地帯」東端に位置する現在のイランで、1万2000~9800年前の新石器時代の農耕遺跡を見つけたと米科学誌サイエンスに発表した。流域で最も古いとされるシリアやイラク、トルコの農耕跡と大きく変わらない時期。流域の農耕が同時に複数の地域で発達したことを示す証拠-と同研究チームは指摘している。同チームは2009~10年にザグロス山脈の麓にあるイラン西部の遺跡で、当時の人々が野生の大麦や小麦などを農作物として利用し、ひき臼やすり鉢を使って食用に加工していたことを遺物やもみ殻などから確認した。定住は2000年以上の長期間に及び、野生種が農耕に適した種に変化していったことも分かった。これにより、メソポタミア文明につながる農耕技術がどのように発達したかを知る手掛かりになりそうだ。
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邪馬台国の有力地「纏向遺跡」を国の史跡に 文化審答申
邪馬台国の有力地「纏向遺跡」を国の史跡に 文化審答申
文化審議会は6月21日、邪馬台国畿内説の最有力地とされる「纏向(まきむく)遺跡」(奈良県桜井市)など11件を史跡に、旧城山国民学校校舎など4件の「長崎原爆遺跡」(長崎市)を含む13件を登録記念物にするよう下村博文文部科学相に答申した。このほか「披雲閣(ひうんかく)庭園」(高松市)など2件を名勝に、「新湯の玉滴石産地」(富山市)など3件を天然記念物に、「酒谷の坂元棚田および農山村景観」(宮崎県日南市)など3件を重要文化的景観にそれぞれ指定するよう答申。近く答申通り告示され、史跡は1719件、名勝376件、天然記念物1008件、登録記念物78件、重要文化的景観38件となる。
纏向遺跡は3世紀初頭に出現し、4世紀初めまで営まれた大規模な集落跡。整然と配置された建物跡や、東海地方など他地域の土器が出土。周辺には卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳もあり、古代国家形成期の重要な遺跡と評価した。長崎原爆遺跡は、被爆の跡が残る旧城山国民学校校舎のほか、爆風で落下した浦上天主堂旧鐘楼、位置がずれた旧長崎医科大学門柱、片方の柱が吹き飛んだ山王神社二の鳥居の計4件が登録の対象となった。
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棺を飾る石製の胸像は被葬者の「遺影」パルミラ遺跡
棺を飾る石製の胸像は被葬者の「遺影」パルミラ遺跡
奈良県橿原考古学研究所は6月26日、シルクロードの中継地として栄えたシリアの古代都市、パルミラ遺跡で、2世紀に造られた地下墓から出土した頭骨を復顔したところ、棺を飾る石製の胸像が被葬者の「遺影」と分かったと発表した。当時の葬送の様子を探る重要資料という。奈良県は1990年からパルミラの地下墓を調査。今回、91~92年に出土した男性の頭骨2体の復顔をロシアと日本の専門家に依頼。復顔した像どちらも顔の輪郭や目の形などの特徴が胸像と一致した。パルミラは同国を代表する古代遺跡で、世界文化遺産に登録されている。内戦で被害を受け、6月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「危機遺産」に指定された。
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「御堂関白記」「慶長遣欧使節関係資料」世界記憶遺産に
「御堂関白記」「慶長遣欧使節関係資料」世界記憶遺産に
文部科学省は6月19日、歴史的に貴重な文書や絵画を対象としたユネスコの「世界記憶遺産」に400年前に仙台藩主・伊達政宗がスペインなどに派遣した使節に関する「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館所蔵)と、平安時代の貴族、藤原道長の自筆日記「御堂関白記」(京都市の陽明文庫所蔵)が登録されることになったと発表した。国内からは2011年の「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」に次ぐ登録となる。
「慶長遣欧使節関係資料」は、日本・スペイン両政府の共同推薦によるもので、仙台藩士・支倉常長が持ち帰ったローマ市公民権証書、常長とローマ法王パウロ5世の肖像画など。「御堂関白記」は栄華を誇った藤原道長が政権を握った長徳元(995)年から記し始め、何回かの中断を経た後、寛弘元(1004)年から継続的に書き続けた、日々の政務や生活の様子を綴った日記だ。現存するものは長徳4(998)年から治安元(1021)年の間の記事だ。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本十四巻、古写本十二巻が伝わり、国宝に指定されている。
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童謡「サッちゃん」創作ノート 作詞・阪田さんの遺品
童謡「サッちゃん」創作ノート 作詞・阪田さんの遺品
作家で詩人の阪田寛夫さんが童謡「サッちゃん」を作詞した際の創作ノートが遺品から見つかった。3番までの歌詞が万年筆で書かれているが、手直しの跡は1カ所のみで、一気に書き上げた様子がうかがえる。歌詞はすべて仮名表記だが、創作時は漢字交じりだったことも分かった。阪田さんが小学部を卒業した帝塚山学院(大阪市)が遺族から寄贈された原稿や書簡、ノートなどを整理中に発見した。
「サッちゃん」の誕生は1959年。朝日放送に勤めていた阪田さんが、いとこで作曲家の大中恩(おおなか・めぐみ)さんの依頼で歌詞を書いた。NHKのラジオ番組で「うたのおばさん」として親しまれた松田トシさんに若手作曲家が新作童謡を贈ったもので、阪田さんにとって初の童謡だった。
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歌舞伎座の復元に巨大図面が一役 明治からの伝統継承
歌舞伎座の復元に巨大図面が一役 明治からの伝統継承
1889年に開場し、今春立て替えられた東京・銀座の”五代目”歌舞伎座。ファンから「前と変わらないね」といわれる、明治から継承する伝統的な外観の復元には、実は福井県の宮大工棟梁(とうりょう)、山本信幸さん(55)がつくった実物と同じ寸法の巨大な設計図「現寸図」が活用されていた。現寸図は通常の設計図より具体化し、各部位を実物大で描いた巨大な図面。建築物の各部位を詳細に確認でき、社寺の細かな装飾の設計に用いられてきた。
山本さんは実物の瓦や5000枚以上の写真などを使い、歴代の歌舞伎座を計測。そのデータを基にコンピューターによる設計(CAD)を駆使し、約5カ月で新たな歌舞伎座の図面を作製した。福井県内の鉄工所跡に、現寸図を使った作業をする約180平方㍍の「現寸場」を設置。CADが作製した図面を分割してプリントし、床にびっしりと並べ、瓦や軒の形状、天井の勾配、装飾と壁の隙間など、より精確に、歌舞伎座の伝統的な外観を復元したのだ。その作業量は、一般的な寺院の本堂5棟分だったという。
山本さんにはこれまで、首里城正殿(沖縄県)や五稜郭の箱館奉行所(北海道)などの復元に携わった経験があった。こうした実績を踏まえ、2010年、大手ゼネコンから今回の歌舞伎座の復元依頼が舞い込んだ。
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八角形で5段構造 宮内庁が「野口王墓古墳」の復元案
八角形で5段構造 宮内庁が「野口王墓古墳」の復元案
宮内庁は5月24日、天武・持統両天皇の合葬陵として管理する奈良県明日香村の野口王墓(のぐちおうのはか)古墳について、7世紀の天皇陵に特有とされる八角形で、5段構造だったとする詳細な復元案を初めて公表した。根拠となる発掘時の写真なども公表。同古墳は古墳時代終末期を代表するひとつだが、陵墓は宮内庁が管理し、一般の立ち入りを原則禁じ、実地調査に基づく詳しい情報をこれまでほとんど公表していなかった。
同庁の復元案では、墳形は最下段の一辺が約15㍍、対角辺約40㍍、正八角形。高さは約7.7㍍。表面は切り石で覆われ、5段構造の最上段は高さ約3㍍と他の段より高く、仏塔のような形だったと推定している。この復元案などは明日香村教育委員会が5月25日に発売する「牽牛子塚(けんごしづか)古墳発掘調査報告書」に収録される。
大王墓は6世紀までは前方後円墳だったが、7世紀に即位した舒明天皇(天武天皇の父)から八角形になったとされる。舒明天皇陵とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)や天智天皇(天武天皇の兄)陵とされる御廟野古墳(京都市)は墳丘の八角形部分が2段で、大型で色の異なる岩が使われている。
奈良・牽牛子塚古墳造営には延べ2万人が従事か
奈良・牽牛子塚古墳造営には延べ2万人が従事か
奈良県明日香村教育委員会が刊行した牽牛子塚(けんごしづか)古墳発掘調査報告書によると、同古墳造営には延べ2万人程度が従事したとみられる。同古墳は天皇陵特有とされる八角墳で、飛鳥時代の女帝、斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)の合葬墓との見方が強い。同村教委は今回、墳丘に使われた石材の総重量を約276㌧と推定。産出地は大阪府と奈良県の境にある二上山などとみられ、石の切り出しに延べ1056人、運搬に延べ1万3780人が必要などと推計している。ちなみに、同古墳の墳丘は対角辺約22㍍、高さ約4.5㍍以上。巨大な岩をくり抜いた石槨(せっかく)を持ち、表面は切り石で装飾されていた。
天理市で幻の廃寺「内山永久寺」の扁額見つかる
天理市で幻の廃寺「内山永久寺」の扁額見つかる
奈良文化財研究所(奈良市)の調査によると、平安時代末期に建立され、江戸時代には大和国屈指の寺院として栄えながら、明治期の廃仏毀釈で廃寺となった「内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)」(奈良県天理市)の扁額が天理市内の民家で見つかった。扁額は門戸などに掲げられる額で、今回見つかったのは長さ約84㌢、幅約43㌢で、寺の院号とされる「金剛乗院」と書かれている。鎌倉時代の書家、藤原教家が1247年に書き、同寺の真言堂に掲げられたものと結論付けた。鎌倉時代の扁額の発見は極めて珍しく、実態が不明な永久寺の解明や書道史の研究に役立つ一級史料として注目される。
内山永久寺は東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ大和国屈指の大寺院で、平安時代の永久年間(1113~1118年)、鳥羽天皇の勅願で建立され、近世の最盛期には60近い坊があったとされる。
京都・伏見の寺田屋の女将・お登勢の生家に石碑 大津市
奈良県桜井市で国内最古の祭祀用の木製仮面見つかる
奈良県桜井市で国内最古の祭祀用の木製仮面見つかる
奈良県桜井市教育委員会は5月30日、同市の大福遺跡で2世紀後半の仮面と見られる木製品が見つかったと発表した。同市教委では木製仮面では国内最古といい、祭祀(さいし)に使用したとみられる。見つかった仮面はほぼ中央で割れており、残存部は長さ23.4㌢、厚さ5㍉。目を表す穴と、ひもを通したとみられる穴があった。
同遺跡やその周辺では、弥生時代の祭器である銅鐸(どうたく)を破砕して他の青銅器に再生した跡が見つかっている。いずれも弥生時代から古墳時代への移行期で、同市教委は祭祀などが移り変わる様子を物語る重要資料としている。国内では仮面は縄文時代の土面が知られているが、木製は大福、纏向(まきむく、3世紀前半)両遺跡の2点以降、7世紀のものまで見つかっていない。
ジョン万次郎の漂流記 写本100年ぶり戻り5/18から展示
ジョン万次郎の漂流記 写本100年ぶり戻り5/18から展示
ジョン万次郎の漂流記「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」の写本の一つが、米国から約100年ぶりに日本に戻り、5月18日から7月19日まで「『漂巽紀略』に見る万次郎の世界展」で、万次郎に関する資料などとともに、高知県立坂本龍馬記念館(高知市)で展示されている。
「漂巽紀略」は江戸時代末期、遭難の末に米国に滞在したジョン万次郎(中浜万次郎)が1851年に帰国した際、本人から聞き取った話を基に、土佐藩の絵師、河田小龍が様々な挿絵・図を施しながら執筆。万次郎が救助されたときの様子や米国での生活や文化が書かれている。原本は、当時の土佐藩・山内容堂に提出されたが、その行方は分かっていない。龍馬記念館によると、幕末に作られた写本は6つあり、このうち1つは記念館が保管。新たに展示されるのは別の写本で、米国のボストン港などの絵が多く含まれている。
全教科「甲」宮沢賢治の成績簿 母校の花巻小で発見
全教科「甲」宮沢賢治の成績簿 母校の花巻小で発見
岩手県出身の詩人で童話作家、宮沢賢治(1896~1933年)の小学校時代の成績簿が、母校の花巻小学校(同県花巻市)で見つかった。成績は「甲」「乙」「丙」の3段階で評価されている。3、4年時は修身(道徳)、国語、算術、体操、操行(品行)の5教科すべてが最も優れた「甲」評価、5、6年時は日本歴史、地理、理科、図画、唱歌を加えた10教科がいずれも「甲」だった。1、2年時の記録は学校の火災で失われたとみられる。
成績簿の内容は「校本 宮沢賢治全集第14巻」(筑摩書房、77年発行)にも掲載されているが、原本の確認は初めて。賢治没後80年の今年8月に花巻市の宮沢賢治記念館で公開される予定。賢治は1909年に花巻小の前身、花巻尋常高等小学校を卒業した。
平安時代の瓦に「西寺」の押印 京都・八幡の窯跡で発見
平安時代の瓦に「西寺」の押印 京都・八幡の窯跡で発見
京都府埋蔵文化財研究センターは5月20日、京都府八幡市の美濃山瓦窯跡(8世紀~9世紀前半)で「西寺」と押印のある平安時代の瓦が1点見つかったと発表した。西寺は平安時代初めに東寺とともに平安京に建立された「国立寺院」。嵯峨天皇から空海に東寺、守敏に西寺が与えられたが、西寺は鎌倉時代には廃れたため、幻の官寺といわれる。
西寺跡(京都市南区)から出土した瓦片の押印と同じで、窯はもともとすぐそばの寺の瓦を焼いていたが、約15㍍離れた西寺のためにもつくっていたらしい。見つかった瓦は幅約17㌢、長さ約15㌢、厚さ約1.3㌢。「西寺」の押印がある瓦は、官営工房とされる坂瓦窯(大阪府枚方市)でもつくられていたが、今回出土したものとは書体が違う。

