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翼6㍍ 史上最大の鳥 米で2000万年前の化石

翼6㍍ 史上最大の鳥 米で2000万年前の化石

 米ブルース博物館(コネチカット州)は7月8日、米サウスカロライナ州で発掘された二千数百万年前の鳥類の化石が、飛べる鳥としては史上最大となる翼を持っていたことが判明したと発表した。翼を広げると端から端までの長さが6~7㍍になり、現在最大であるアホウドリの一種と比べ約2倍の大きさ。恐竜が絶滅した後の2800万~2500万年前に生息した巨大な海鳥とみられていたが、体が大きすぎて飛べるかどうか疑問視されていた。

秀吉が使った陣羽織を修復 18年ぶりに一般公開

秀吉が使った陣羽織を修復 18年ぶりに一般公開

 京都市の高台寺(東山区)は、豊臣秀吉が使ったと伝わる「鳥獣文様綴織陣羽織」(重要文化財)の、約2年2カ月にわたる修復を終え7月9日、報道陣にお披露目した。

 陣羽織は身丈約99㌢、肩幅60㌢。16世紀、当時のイランの宮廷工房で制作され、日本に渡った綴れ織を裁断し、武将が具足の上からまとう陣羽織に仕立てたとみられるという。獅子やクジャクなど様々な動物が描かれており、傷みが目立っていたことから、修復に入っていた。高台寺掌美術館で7月20日~8月3日、18年ぶりに一般公開する。

川端康成が学生時代、婚約者に宛てた恋文見つかる

川端康成が学生時代、婚約者に宛てた恋文見つかる

 ノーベル文学賞授賞作家、川端康成(1899~1972年)が学生時代、婚約者の伊藤初代に宛てた未公開の手紙が7月8日までに、神奈川県鎌倉市の川端邸で見つかった。遠く離れて、岐阜市に住む恋人への熱い思いを訴える哀切に満ちた内容。恋愛、孤独・死をテーマにした川端文学の出発点を示す資料として、専門家も注目する。16日に岡山県立美術館で公開される。

 今回発見された手紙は計11通。10通は伊藤初代から川端宛て。1通は川端が1921年秋、22歳のときに書いたものの、投函されなかったもの。川端は「毎日毎日心配で心配で、ぢつとして居られない」「恋しくつて恋しくつて、早く会わないと僕は何も手につかない」などと、会えないもどかしさを、ストレートに吐露している。恋人の初代は当時、川端と出会った東京・本郷のカフェを辞め、岐阜市の寺院に養女として預けられていた。

 2人の恋はその後、初代が「ある非常」という理由で結婚を断る手紙を送り、破局した。川端はこの失恋を題材に「非常」などの初期小説を発表。代表作「伊豆の踊り子」も影響を受けたとされる。

 

京都で室町時代に流通の銅銭約4万枚入ったつぼ

京都で室町時代に流通の銅銭約4万枚入ったつぼ

 発掘調査会社イビソク(岐阜県大垣市)などは7月8日、京都市下京区貞安前之町で、15世紀(室町時代)に流通した銅銭約4万枚が入ったつぼが見つかったと発表した。銭は唐の「開元通宝」や明の「永楽通宝」など約50種類。400万円相当という。文献によると、出土場所には河原で染色などをしていた職能集団の屋敷があった。備前焼のつぼは高さ66㌢、幅53㌢。銭がつぼに納められたままの状態で見つかるのは珍しいという。

 

長崎市の8100万年前の地層からよろい竜の化石

長崎市の8100万年前の地層からよろい竜の化石

 福井県立恐竜博物館(同県勝山市)と長崎市教育委員会の共同研究チームは7月7日、長崎市にある約8100万年前の白亜紀後期の地層から、よろい竜の歯の化石1つと、肉食恐竜の歯の化石2つを発見したと発表した。よろい竜の化石が見つかるのは、長崎県で初めて。

 よろい竜は4本足で歩き、背部から尾にかけて骨の装甲を持つ草食恐竜で、白亜紀の北半球を中心に栄えた。恐竜博物館によると、国内ではこれまで、足跡を含めて北海道、富山県、兵庫県、熊本県の計4カ所で化石が見つかっている。

 よろい竜の歯は幅約10㍉、高さ約9㍉の薄くて幅広い形。植物を食べるため前後に突起がある。歯だけで全体の大きさや種類まで絞り込むのは難しいという。肉食恐竜の歯は幅約7㍉、高さ約14㍉と、幅約5.5㍉、高さ約7㍉。     

不明の重要文化財27都府県・109件に 文化庁調査

不明の重要文化財27都府県・109件に 文化庁調査

 文化庁は7月4日、国の重要文化財指定を受けた美術工芸品のうち、国宝の刀剣1件を含む27都府県の109件が所在不明になっているとの調査結果を発表した。指定美術工芸品の全国調査は初めて。

 109件のうち59件は工芸品で、刀剣が52件と大部分を占めた。仏像など彫刻は不明17件のうち、14件が盗難によるものだった。所在不明の重要文化財の9割以上が個人または社寺の所有だった。

 109件のうち35件は、2013年11月の緊急調査で所在が不明だったが、今回の調査で新たに74件の重要文化財の所在が分からないことが判明した。

谷崎潤一郎 戦時中「細雪」掲載中止の不安詠んだ俳句

谷崎潤一郎 戦時中「細雪」掲載中止の不安詠んだ俳句

 作家の谷崎潤一郎(1886~1965年)が太平洋戦争中に代表作となった、小説「細雪」の雑誌掲載を中止され、不安な心境を詠んだ俳句の書かれたはがきが見つかった。谷崎の俳句は珍しく、奈良市の帝塚山大で7月8日から始まる展示「谷崎潤一郎・耽美の世界~肉筆と稀〇本を中心に~」で初めて公開される。

 はがきは親しい人に宛てたもので、「提灯にさはりて消ゆる春の雪」などと2つの俳句が書かれていた。俳句は1944年ごろ詠まれ、戦時中の暗い世相をちょうちんになぞらえて、「細雪」を「春の雪」で表したとみられる。

 細雪は旧家の4姉妹をめぐる物語。43年に雑誌「中央公論」で掲載が始まると、優美な世界が「時局をわきまえない」との理由で掲載中止となった。しかし、谷崎は密かに執筆を続け、翌年、自費で上巻約200冊をつくり、親しい人に配った。はがきは本の引換券として使われたとみられる。

平城京遷都で埋め立てた旧秋篠川の跡見つかる

平城京遷都で埋め立てた旧秋篠川の跡見つかる

 奈良文化財研究所は7月4日、平城京遷都(710年)に伴う造営工事で、奈良市の秋篠川の流路を現在の位置に付け替えるために埋め立てた旧流路が見つかったと発表した。埋め立てた際、地盤や盛り土を補強するため、樹木の枝を敷き詰める古代の土木技術「敷棄工法」が使われていた。同研究所は「平城京の造営に伴う土木工事の実態が分かる重要な調査結果」としている。

 調査では北西から南東へ流れる旧流路跡(幅28㍍以上、長さ55㍍分)と厚さ最大1.2㍍の黒色土層を確認。土層からは7世紀末~8世紀初めの土器破片や瓦片が出土した。旧流路を埋め立てた際の造成土とみられる。

      

没後110年記念イベント、ギリシャに小泉八雲資料館 

没後110年記念イベント、ギリシャに小泉八雲資料館 

 『耳なし芳一』などの「怪談」などの作品で知られる明治の作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の没後110年記念イベントが7月4日、生誕地のギリシャ・レフカダ島で始まった。

 島内の文化センターには八雲の作品や写真を展示した資料館もオープン。八雲の原稿や妻セツへの手紙、写真など展示品の一部は松江市や熊本市など八雲のゆかりの地からも寄贈された。ひ孫の小泉凡さん(島根県松江市在住)らが出席し、式典が執り行われた。イベントは7月7日まで。

 松江市出身の俳優、佐野史郎さんやギタリストの山本恭司さんによる朗読会や熊本県の清和文楽の公演などが行われる。   

平安前期の「悲田院」「施薬院」の名記した木簡出土

平安前期の「悲田院」「施薬院」の名記した木簡出土

 京都市埋蔵文化財研究所は7月2日、「悲田院(ひでんいん)」「施薬院(せやくいん)」の名を記した平安時代前期(9世紀)の木簡が京都市内で出土したと発表した。悲田院、施薬院は貧しい人々の救済施設で、出土したのは死亡した収容者の氏名などを記した報告書や、全国から送付された薬の原料の荷札などで、施薬院関連の木簡がまとまって出土したのは初めて。活動の実態を示す貴重な史料という。

 木簡が見つかったのはJR京都駅の約200㍍南で、平安京の東南隅にあたる地点。記録によると、周辺に施薬院の御倉(倉庫)や高級貴族の別宅があったとされている。出土した木簡は17点。うち1点は弘仁6年(815年)3月10日の日付が入った報告書で、死亡した収容者2人の氏名や年齢、裏面に施薬院の田畑を耕すために雇っていた4人が死亡したことが記してあった。

 「武蔵(東京都や埼玉県など)」「讃岐(香川県)」などの地名と、薬の材料として用いられていた「蜀椒(しょくしょう=サンショウ)」「猪脂」などと記した荷札も出土。悲田院から施薬院への上申文書とみられる木簡もあった。

 

850万年以上前に生息した世界最古のマイルカの化石

850万年以上前に生息した世界最古のマイルカの化石

 早稲田大や秋田大などの研究チームは7月2日、北海道新十津川町で発見されたイルカの頭骨の化石を再調査した結果、少なくとも850万年前の世界最古のマイルカ科の化石であることが分かったと発表した。これまではイタリアで発見された530万年前の化石が最古とされていた。

 この化石は1961年以前に発見され、77年のマイルカ科スジイルカ属として記録されたが、骨の形などから疑問が持たれていた。同チームは文献調査で化石があった地層の年代が850万~1300万年前であることを確認。クリーニング作業をやり直して骨の形を調べ、他のイルカの骨の特徴と比較したところ、マイルカの中でも既存の分類に当てはまらず、最も古いことが分かった。

    チームはこのイルカの学名を「(新十津川町周辺を示す)樺戸地域から産出した暁のイルカ」という意味の「エオデルフィス・カバテンシス」と名付けた。現代ではバンドウイルカやシャチなどがマイルカ科に含まれる。          

北海道むかわ町で新種のアンモナイトの化石

北海道むかわ町で新種のアンモナイトの化石

 北海道むかわ町の穂別地域で、白亜紀末約7200万年前の地層から化石で発見されたアンモナイトが新種と分かり、7月1日付の学会誌に発表された。穂別は北海道の中でも多くの化石が見つかることで知られ、新種のアンモナイトが確認されたのは今回で25種目。化石は直径約6㌢、厚さ約2㌢。

 アンモナイトは約6600万年前、恐竜とともに絶滅しており、今回の種はその直前に存在していたことになる。当時の海洋環境を解明する手掛かりにもなりそうだ。発表したのは国立科学博物館(東京)の重田康成研究主幹と町立穂別博物館の西村智弘学芸員。

前祭(7/17)・後祭(7/24) 今年から変わる祇園祭

前祭(7/17)・後祭(7/24) 今年から変わる祇園祭

 日本三大祭の一つで、京都の夏を彩る祇園祭が今年大きく様変わりする。ハイライトの「山鉾巡行」が49年ぶりに前(さき)祭(7/17)、後(あと)祭(7/24)に分離。これに伴い、宵山も2回ある。前祭は23基、後祭は10基のそれぞれ山鉾が巡行する。また、後祭では150年ぶりに「大船(おおふな)鉾」が復興する。

 幕末まで後祭の巡行の最後を飾っていたのが、古代神話に登場する神功皇后などをご神体として祀る大船鉾。室町時代に造られたとされるが、蛤御門の変(1864年)で大部分が焼けた。ところが2009年9月、大船鉾を含む「京都祇園祭の山鉾行事」がユネスコの無形文化遺産に登録され、復興の機運が高まった。

 大船鉾再興には1億円を超える資金が必要だったが、町衆の祭りだけに大企業にはあえて協力を求めず、地元の実業家や全国の有志から約1000件の寄付を集め、他の山鉾町などの支援も加わり、今回復興が実現した。          

大阪・藤井寺市の林遺跡で釣鐘の鋳造跡

大阪・藤井寺市の林遺跡で釣鐘の鋳造跡

 大阪府藤井寺市教育委員会は6月27日、同市の林遺跡で大小2基の釣鐘の鋳造跡が見つかったと発表した。出土した土器や瓦の年代から7世紀末から8世紀前半(飛鳥~奈良時代)に使われていたとみられる。

  大きい釣鐘の遺構は長辺3.5㍍、短辺3㍍の穴が掘られ、底には平瓦が並べられていた。同市教委によると、近くに7世紀後半に創建された拝志廃寺があったことから、同寺で使う鐘がつくられていた可能性があるという。

大仏次郎の生原稿発見 当時の編集者宅で

大仏次郎の生原稿発見 当時の編集者宅で

 小説『鞍馬天狗』などの作品で知られる作家の大仏次郎(1897~1973年)が59年に執筆したノンフィクション「パナマ事件」の生原稿や手紙が当時の編集者、秋山範義さん(故人)宅で見つかり、6月25日までに大仏の養女、野尻政子さん(85)=神奈川県鎌倉市=に返却された。

 野尻さんは24日、それらを大仏次郎記念館(横浜市)に寄贈。同館で近く公開される見通し。返却されたのは、週刊誌「朝日ジャーナル」創刊時に掲載され、後に単行本化された『パナマ事件』全27回分の生原稿。このほか、風間完さん(1919~2003年)の挿絵、ノンフィクション『パリ燃ゆ』の粗筋が書かれた生原稿、その取材のために赴いたパリからの手紙なども見つかり、寄贈された

富岡製糸場 世界遺産登録が正式決定 産業遺産で初

富岡製糸場 世界遺産登録が正式決定 産業遺産で初

 カタール・ドーハで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第38回世界遺産委員会は6月21日、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)の世界文化遺産への登録を正式決定した。委員会は遺産群について「国際的な技術交流を示す貴重な存在だ」と高く評価した。日本の世界遺産登録は18件目で、近代の「産業遺産」としては初めて。

 富岡製糸場と絹産業遺産群は富岡製糸場(群馬県富岡市)、近代養蚕農家の原型「田島弥兵旧宅」(伊勢崎市)、養蚕教育機関「高山社跡」(藤岡市)、蚕の卵の貯蔵施設「荒船風穴」(下仁田町)の計4資産で構成する。

    1872年に官営で操業開始。1893年に三井家、1902年に原合名会社、1939年に片倉工業へと経営は移り変わったが、施設はほぼ原型のまま引き継がれた。そして、1987年に操業停止した片倉工業は2005年に富岡市に寄贈するまでの18年間、「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げて、年間1億円をかけ維持管理に努めた。

          

軍艦島を国史跡に 世界遺産登録目指し保全枠組み

軍艦島を国史跡に 世界遺産登録目指し保全枠組み

 文化審議会は6月20日、端島(通称・軍艦島)や高島を含む幕末から昭和期の炭鉱跡で構成する「高島炭鉱跡」(長崎市)など9件を史跡に指定するよう下村博文文部科学相に答申した。端島などは「明治日本の産業革命遺産」の一部として、政府が2015年の世界文化遺産登録を目指しており、保全の枠組みが整う。また、45万年前のワニ類の化石「マチカネワニ化石」(大阪府豊中市)など6件を登録記念物とするよう求めた。近く答申通り告示され、史跡は1733件、登録記念物は88件となる。

与謝野晶子の未発表短歌 愛知の飲食店で発見

与謝野晶子の未発表短歌 愛知の飲食店で発見

 歌人の与謝野晶子(1878~1942年)の直筆で、全集などにも載っていない未発表の短歌2首が、愛知県津島市の飲食店で見つかっていたことが6月16日、分かった。津島市立図書館によると、未発表作は「くれなゐの牡丹咲く日は大空も地に従えるここちこそすれ」と、「春の夜の波も月ある大空もともに銀糸の織れるところは(あるいは「ところぞ」)」。いずれも晶子の署名がある。

    飲食店「まのや」で直筆の短歌5首が書かれた短冊が入った箱が見つかり、図書館に鑑定依頼があった。図書館や、晶子の生地、堺市にある堺市立文化館与謝野晶子文芸館が、筆跡鑑定や文献調査などを行い直筆と判明。うち2首が歌集や雑誌に掲載されていないことが確認された。

    晶子は1935年10月、津島高等女学校(現県立津島高)の創立20周年記念式典で講演するため津島市を訪問。「まのや」で食事をした際に書かれたという。箱の中には、歌人柳原白蓮の短冊もはいっていたが、別の機会に白蓮が名古屋市を訪れた際に詠んだとみられる。

白色鮮やかな新生「白鷺城」改修の囲い撤去

白色鮮やかな新生「白鷺城」改修の囲い撤去

 兵庫県姫路市の世界遺産・姫路城で、大天守を覆っていた改修作業用の囲いが6月14日までに、ほぼ撤去され、鮮やかな白色に塗り直された「白鷺城」が再び姿を現した。改修は2009年10月にスタート。囲いは10年12月に完成して大天守が見えなくなっていた。屋根の修理としっくいの塗り替えが終わり、囲いの撤去が進められていた。今後は石垣に残る囲いや基礎の撤去し、2015年3月27日から内部公開される。           

函館港で新島襄渡米150周年式典 不変の建学精神

函館港で新島襄渡米150周年式典 不変の建学精神

 同志社大学の創立者として知られる新島襄が北海道函館市から米国に渡って150周年になるのを記念した式典が6月14日、函館港で開かれた。新島は1864年6月14日、現在はその記念碑が立つ岸壁から米国船に密航して渡米。米国で天文学や物理学を学んで帰国後、京都に同志社英学校(現在の同志社大学)を設立した。

 式典では学校法人同志社の水谷誠理事長が「新島の建学の精神は変わらず生き続けている」旨、あいさつ。参加した130人は、海外渡航禁止を破ってでも米国で学ぼうとした進取の志を、改めてしのんだ。

東寺百合文書、シベリア抑留資料を記憶遺産候補に

東寺百合文書、シベリア抑留資料を記憶遺産候補に

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の国内委員会は6月12日、重要な歴史文書などの保存を目的とする記憶遺産の登録候補として、国宝「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」と、戦後のシベリア抑留と引き揚げに関する資料の2件を決定した。6月中にユネスコに通知、登録の可否2015年夏ごろに決まる見通し。東寺百合文書は京都市南区の東寺に伝わる約2万5000点の古文書。1997年に国宝に指定された。シベリア抑留に関する資料は抑留体験記や抑留者が描いた絵画など570点で、舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)に収蔵されている。舞鶴市が申請していた。

 

京都府などが「琳派400年記念祭委員会」を設立

京都府などが「琳派400年記念祭委員会」を設立

 京都府、京都市、公益財団法人京都文化交流コンベンションビューローなどは6月2日、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始したとされる琳派の魅力を発信するため、「琳派400年記念祭委員会」を設立した。

 2015年は光悦が徳川家康から京都市北区鷹ヶ峰の地を拝領してから400年にあたる。京都の美術館や博物館で展覧会などを開く。琳派のデザインを生かした工芸品の展示やファッション展を企画し、食品などの開発にも協力する。

 同委員会の代表を務める村田准純一・同コンベンションビューロー理事長は「文化的な価値を世界に伝えていく」と語っている。琳派は江戸時代に発展した絵画などの流派で、大胆な構図や金や銀を使った装飾的な画風が特徴。代表的な作品として宗達の「風神雷神図」などが知られている。

奈良・大淀町で横帯分割型文様の銅鐸見つかる

奈良・大淀町で横帯分割型文様の銅鐸見つかる

 奈良県・大淀町の民家に所蔵されていた弥生時代中期ごろの銅鐸(どうたく)が、瀬戸内東部で出土例が多い「横帯分割型」であることが桜井市纏向学研究センターの調査で分かった。横帯分割型は、斜めの格子文様と渦巻き文様が上下セットで横帯として配置されている。神戸市の「生駒出土袈裟襷(たすき)文銅鐸」など、これまでに和歌山や岡山、香川など瀬戸内東部で約10例出土しているが、奈良で見つかるのは初めて。           

興福寺 300年ぶりに再建中の中金堂上棟式

興福寺 300年ぶりに再建中の中金堂上棟式

 世界遺産に登録されている興福寺(奈良市)で5月24日、約300年ぶりに再建中の中金堂の上棟式が行われた。信徒総代や宗教関係者ら約650人が完成に向けて工事の節目を祝った。2018年に落慶法要の予定。中金堂は710年の造営以来、戦火や落雷などで7回焼失。1717年に焼けた後は小規模な仮堂でしのいできたが、文献や絵画、発掘調査などを基に、創建当時の構造をほぼ忠実に復元する。

明治9年撮影の最古の箸墓古墳の写真保存

明治9年撮影の最古の箸墓古墳の写真保存

 宮内庁書陵部によると、卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中ごろ~後半)など同県の天皇陵や皇族墓計44カ所を1876年(明治9年)に撮影した写真と原板が宮内庁に保存されていることが5月18日、分かった。日本で最古の古墳写真という。明治政府が奈良県に依頼し、官民合同の奈良博覧会社が撮影した。目的は不明。写真は計59枚あり、「大和御陵写真帖」と題するアルバムにまとめられていた。

   最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳は、特異な4段構造の墳丘や後円部頂上に築かれた巨大な円壇(直径45㍍、高さ5㍍)が写っていた。箸墓古墳は明治20年代に植樹されて樹木が密集しているが、撮影当時は木が少なく、墳丘本来の姿を鮮明に捉えた唯一の写真。謎の多い大王墓の構造を知る資料になるとみられる。退色が進んだため、書陵部が2011年度に原板のガラス湿板をデジタル化、画像を復元した。早ければ2015年にも宮内公文書館で一般に公開する。

 

「宝永」級地震は7000年で16回発生していた

「宝永」級地震は7000年で16回発生していた

 高知大の岡村真特任教授のチームは5月26日、東海、東南海、南海地震の3連動で起きたとされる宝永地震(1707年、推定マグニチュード8.6)に匹敵する巨大地震が、過去7000年の間に少なくとも16回起きていたことを示す津波堆積物を高知県土佐市の池で確認したと発表した。

 岡村氏らは南海トラフ付近での巨大地震や津波の発生間隔を研究するため、2006年から土佐市の蟹ヶ池で地層を調査し、2013年1月には過去六千数百年で少なくとも15回の巨大地震による津波痕跡を確認したと発表。その後も調査を続け、7000年前の地層に当たる池底約8.5㍍の深さまで到達。6500年前ごろにも津波を伴う地震があったことが分かった。

約55㌔の「弘法大師の道」復活 高野山開山1200年

約55㌔の「弘法大師の道」復活 高野山開山1200年

 奈良県と吉野山・金峯山寺、高野山・金剛峰寺などが、青年時代の空海が両山の間を歩いたとされる道のりの調査を終え、「弘法大師の道」として復活させた。ルートは約55㌔で、ほとんどが険しい登山道。弟子がまとめた詩文集などから当時の地理を踏まえてルートを推定した。関係機関でつくる実行委員会が5月28日から開山修業として実際に歩くという。2015年は空海が高野山を開いて1200年、大きな節目の年を迎える。    

鳥獣戯画全巻 33年ぶり今秋展示公開 修理完了

鳥獣戯画全巻 33年ぶり今秋展示公開 修理完了

 京都国立博物館は、京都市の高山寺に伝わる国宝絵巻「鳥獣人物戯画」(甲乙丙丁の4巻)の修理完成を記念し、5月27日までに修理過程の成果を紹介する展覧会「国宝 鳥獣戯画と高山寺」を今秋開くと発表した。同博物館が4巻を同時に展示するのは、1981年以来、33年ぶり。同展の会期は10月7日から11月24日まで。

 今回の修理の過程で、鎌倉時代の作とされる丙巻が全4巻の中で唯一、人物画と動物画が並んでいた謎が解明。もとは1枚だった和紙の表と裏に描かれていたものを剥がし、つなぎ合わせて一つの絵巻物に仕立てたことなどが判明していた。

アルゼンチンで史上最大40㍍、80㌧の恐竜

アルゼンチンで史上最大40㍍、80㌧の恐竜

 南米アルゼンチンのエヒディオ・フェルグリオ純古生物博物館は、パタゴニア地方のチュブト州で史上最大とみられる草食恐竜の化石が白亜紀後期(約9500万年前)の地層から見つかったと発表した。同館ホームページによると、竜脚類ティタノサウルスの一種で、全長40㍍、体重80㌧に達すると推測され、これまで最大と考えられてきた「アルゼンチノサウルス」を10㌧近く上回る可能性があるという。                 

平安装束が都大路彩る 京都で葵祭り

平安装束が都大路彩る 京都で葵祭り

 京都三大祭の最初を飾る葵祭が5月15日、京都市内で催され、平安装束をまとった王朝行列が都大路を練り歩いた。馬や牛車を引き連れた武官や女官など総勢500人余りは、京都御所を出発。全長700㍍にも及ぶ行列となって下鴨、上賀茂両神社に向かい、約8㌔の道のりを進んだ。

大坂城の採石跡発見 西宮市が3D測量

大坂城の採石跡発見 西宮市が3D測量

 兵庫県西宮市は5月16日、江戸時代に再建された大坂城の石材が切り出された「徳川大坂城東六甲採石場」(西宮市甲山町など)から石の露天掘り跡とみられるくぼみを複数見つけたと発表した。上空から3次元(3D)測量して判明。同市は国の史跡指定を目指す方針。採石場は東西約6㌔、南北約2㌔。直径20㍍以上のくぼみもあった。

正倉院 100年ぶり修理終え新たな姿に

正倉院 100年ぶり修理終え新たな姿に

 宮内庁正倉院事務所(奈良市)は5月16日、約100年ぶりの大修理を終えた国宝・正倉院を報道陣に公開した。工事用に覆っていた素屋根が取り外され、2011年の修理開始以来、真新しくなった平成の正倉院が姿を現した。外観公開は11月に再開する予定。

本願寺御影堂と阿弥陀堂を国宝に 9件重文に

本願寺御影堂と阿弥陀堂を国宝に 9件重文に

 文化審議会は5月16日、本願寺(京都市)の御影堂と阿弥陀堂を国宝に、神戸女学院(兵庫県西宮市)や旧馬場家牛込邸(東京都新宿区)など9件の建造物を重要文化財に、それぞれ指定するよう下村博文文部科学相に答申した。また、宮城県村田町の土蔵造りの街並みなど2地区を重要伝統的建造物群保存地区に選定することも求めた。近く答申通り告示される。これにより、建造物分野の重要文化財は2419件(うち国宝220件)、保存地区は108地区になる。

適塾 再び「開校」耐震改修終え7カ月ぶり公開

適塾 再び「開校」耐震改修終え7カ月ぶり公開

 江戸時代後期、蘭学者で医師の緒方洪庵が主宰し、大村益次郎、佐野常民、橋本左内、福沢諭吉らを輩出した私塾「適塾」(大阪市中央区)の耐震改修工事が終わり、管理している大阪大が5月14日、記念式典を開いた。15日から7カ月ぶりに一般公開されている。

 適塾は木造2階建ての町家で、国の史跡・重要文化財に指定されている。改修工事は外見を変えないよう配慮し、壁の内部に鋼板パネルを組み込んだり、柱と梁を補強材で結合したりして、震度7の揺れにも耐えられるようにした。

 適塾を管理する大阪大学の平野俊夫総長は記念式典で、「洪庵の精神を受け継ぎ、歴史的重要性を社会に示していきたい」とあいさつした。 

ナスカにリャマの地上絵17点 山形大が確認

ナスカにリャマの地上絵17点 山形大が確認

 山形大は5月9日までに、世界遺産「ナスカの地上絵」で知られるペルーのナスカ市街地から北に約1㌔の近郊で、ラクダ科のリャマとみられる地上絵を少なくとも17点確認したと発表した。絵の内側にある地表の小石を面的に取り除く手法などから、紀元前400~同200年の間に描かれたとみられ、ハチドリやクモといった有名な地上絵よりも古いという。

 地上絵は、当時から家畜として使われていたリャマの全身や一部が描かれ、最大のものは全長約15㍍。約1㌔四方の範囲で4つのグループに分かれている。このうち3つのグループの地上絵は初めて確認され、残る1つのグループは先行研究で存在が知られていたが、数や正確な位置が不明だったと説明している。

 

埼玉の遺跡で国内最古の漆の採取跡 縄文中期

埼玉の遺跡で国内最古の漆の採取跡 縄文中期

 さいたま市は5月8日、同市の南鴻沼(みなみこうぬま)遺跡で、漆の樹液を採取した跡が残る木が出土し、年代測定の結果、4903~4707年前で、国内最古となる縄文時代中期後半の漆の木と発表した。これまでの例を500年以上遡る発見。市によると、漆の木は長さ113㌢、太さ2.5~3.5㌢。表面に10~15㌢間隔で1周するように計9本の筋状のかき傷があり、石器で採取したとみられる。同時期に作られた漆器も出土した。

香川・善通寺で開創1200年を記念し大法要

香川・善通寺で開創1200年を記念し大法要

 弘法大師空海が平安時代の815年に開いたと伝えられる四国八十八カ所霊場の開創1200年目を記念し、空海の生誕地跡があったとされる善通寺(香川県善通寺市、75番札所)で5月9日、「記念大法要」が営まれた。

札所88カ所の住職が四国各地から集結。法要にあわせて、四国八十八ヶ所霊場会が企画した「歩き遍路」で、空海の像や護摩木を担いだ一行約250人が、全札所約1400㌔を回り終える「結願(けちがん)」を迎え、法要に加わった。各札所今年、開創1200年を記念し、秘仏や宝物を公開するなどしており、大法要はそのメーン行事。

吉宗が命じた測量図「享保日本図」の基見つかる

吉宗が命じた測量図「享保日本図」の基見つかる

 広島県立歴史博物館(広島県福山市)は5月9日、8台将軍徳川吉宗が1725年ごろ(江戸時代中期)に作らせた地図「享保日本図」の基になったとみられる測量図が見つかったと発表した。鑑定した東亜大の川村博忠客員教授は、享保日本図について書かれた江戸幕府の記録と地図の地名が一致しており、同時期に作られたとみて間違いない。当時の測量方法を示す貴重な資料-と評価している。

 測量図は縦152㌢、横336㌢、縮尺21万6000分の1で、北海道の南部から九州・種子島までの地名を記載していた。江戸幕府は計6回、日本地図を作製。各地で書かれた絵図をつなぎ合わせていたため、不正確な部分もあったが、5回目にあたる享保日本図では、和算家が指揮して測量結果をまとめ、今回見つかった図面ができあがったとみられる。

 測量図の余白に肥前平戸藩(長崎県)の藩主・松浦静山の文章と印が記され、収集家として知られる静山が1785年に入手したと推測される。

 

富岡製糸場に5万人 連休中の見学者は13年の3倍

富岡製糸場に5万人 連休中の見学者は13年の3倍

 世界文化遺産に登録される見通しとなった富岡製糸場(群馬県富岡市)への観光客は急増、同市によると、4月26日から連休中の見学者数は過去最多の計5万600人だった。2013年の人出は約1万7000人で3倍近くに上った。登録勧告が判明した4月26日から連日午前9時の開場前から列ができ、3時間近く前から並ぶ人の姿もみられた。統計を取り始めた2005年以降の最多記録更新が続き、5月4日には8142人が訪れた。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ:偉人たちの上に聳え立つ万能の天才 

レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンス期の偉人たちの上に聳え立つ万能の天才 

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、西洋絵画史における最大の芸術家であり、独創的な科学者・技術者としてよく知られている。彼は私生児として生まれたが故に、記録によるといわゆる正当な教育を受けていない。この正当な教育を受けていないことと関係があると指摘する見方もあるが、彼は左利きで、多くの鏡面文字で書かれた書面を残している。鏡面文字は鏡に映った文字であり、一見しても何が書かれているのか、容易に判読できない。彼にはその幅広い領域の作品に多くの不明な点があるが、彼がどうしてこの鏡面文字を書けるようになったのか、またなぜ鏡面文字の書面を残したのかなど、謎は多い。

 しかし、彼は絵画はもとより、彫刻、建築、土木はじめ、人体その他の科学技術に通じ、航空についても高い関心を持ち、驚くことに幅広い領域で後世に現実化する、地に足のついた、確実に実現可能な「未来予想図」を数多く書き残している。どうしてそのようなことができたのか。彼は、まさにイタリア・ルネサンス期に出現した、数多くの偉人たちの上に、さらに高くそびえ立つ、万能の天才だった。生没年は1452~1519年。

 レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリア北部トスカーナ地方の首都フィレンツェから20km余のヴィンチという小さな村で私生児として生まれた。父はセル・ピエロ・ヴィンチ、母は村娘カテリーナ。家は代々、13世紀以来公証人を務め、暮らしは楽な方だった。父ピエロは当時は独立して、フィレンツェの裁判管区の公証人となっていた。25歳の彼はカテリーナと呼ぶ村娘と恋におち、レオナルドが生まれたのだ。しかし、ピエロはカテリーナと別れ、同じ身分の娘アルビエーラと結婚した。一方、カテリーナもヴィンチ村の農夫に嫁いだ。したがって、レオナルドは父ピエロとカテリーナの”かりそめの恋”によってこの世に生を受けたわけだ。

 父ピエロは才覚があり、その後、着々と地位を築き財産を増やしていったものの、なぜか芸術的才能はほとんどなかった。カテリーナは名もない村娘にすぎなかった。そんな両親から、どうして天才ダヴィンチが生まれたのか、全く謎としかいえない。余談だが、父ピエロは第一、第二の妻とは子をもうけなかったが、50歳の超えてから結婚した第三、第四の妻とは一ダースに近い子女をもうけるほどの絶倫男ぶりをみせた。これに対し、レオナルドは一生を独身で通し、およそ女性とは縁がなかった。

 ところで私生児と聞くと、何か暗い運命を連想しがちだ。が、レオナルドの場合、私生児故に日陰者になるとか、世間からつまはじきされるとかいった心配はなかった。ルネサンス時代のイタリアでは、そういう出生は別に恥辱とは考えられなかったのだ。多くの著名な家門はじめ芸術家にも、なんらかの不純な血筋が入り、あるいは私生児というケースも決して少なくなかった。当時のイタリアでは個人の価値と才能が、他の西欧諸国の法律や習慣よりも幅を利かしていた。ヴィンチ村で幼少期を過ごしたレオナルドは、1466年ごろ画才を認められ、花の都フィレンツェのヴェロッキョの工房で修業することになる。レオナルド14歳ぐらいのときのことだ。このとき仲介したのが父ピエロだった。レオナルドの画才を知った父が、かねがね懇意のヴェロッキョを訪ね作品を見せ、レオナルドの並々ならぬ才能を認めたヴェロッキョが受けいれたからだ。

 ヴェロッキョは優雅で洗練された技巧を示し、フィレンツェ派の頭目の一人で、彫刻家のほか画家、金細工師としても名を成し音楽や数学にも通じる万能人だった。したがって、彼の工房はさながら芸術家養成所の観を呈していた。ここでは顔料の科学的製法、油絵絵具の改良、衣服のひだの研究、青鋳銅造法などの新しい試みが行われ、明暗法や遠近法の研究も進んでいた。この工房には先輩格でボッティチェリ(1444~1510年)らも出入りしていた。フィレンツェ芸術文化の一端を担い、活気に満ちた工房に入ったことは、レオナルドの修業にどれほど寄与したことか、計り知れない。

 レオナルドはヴェロッキョの工房で徒弟としてあらゆる基礎的技能を修め、1472年に徒弟時代を終えて、フィレンツェ画商組合に加わった。しかし、独立は難しく、1478年までは引き続き工房にいて仕事を手伝った。この助手時代にレオナルドは早々と天稟(てんびん)を現した。例えば、1473年8月5日の日付け入りの「風景素描画」だ。故郷ヴィンチ村付近のアルノ渓谷を写生したものと思われるが、右手の断崖絶壁の物凄さ、流れ落ちる滝の勢い、滝つぼの奔流、左手の堡塁(ほうるい)を巡らされた町の佇まい、その間を蛇行する川、遥かに展望される平野の趣きなど、これらすべてがレオナルドの周到な自然観察を示しているのだ。中世の型にはまった風景画、人物の単なる添えものとしての風景ではなかった。

 師ヴェロッキョとの共作と伝えられる「キリスト洗礼図」にも、レオナルドならではの新鮮な手法がみられるのだ。例えば左端の天使の衣服のひだ。レオナルドはこの衣服のひだに特別の関心を払い、多くのデッサンを残している。また、豊かで美しい天使の髪だ。彼は美しい毛髪に異常なまでの愛着を持ち、毛髪美を表現するために工夫に工夫を重ねた。これは、写実的で15世紀の様式に従っているヴェロッキョの天使と比べると、その違いが際立つ。ヴェロッキョはこの絵を描いてからは、自分の本来の領域である彫刻に専心し、絵らしい絵は描いていない。彼は年少の弟子のレオナルドの天分にショックを受けたのだ。

 1482年、レオナルドはフィレンツェからミラノへ移る。30歳のときのことだ。ミラノ公国を治めるスフォルツァ家の当主・ルドヴィーコ・スフォルツァ宛てに、レオナルドは自分が軍事技術者で発明家であることをアピールする自己推薦状を書き、これを受け容れたルドヴィーコに17年間にわたり仕えた。画家・芸術家は当時、低くみられていたため、幅広い才能に恵まれたレオナルドはあえて画家を前面に出さなかったのだ。その後、次々と出される軍事技術上の発明研究命令に応えたレオナルドは、スフォルツァ家当主の信頼を得て、友人扱いを受けるようになった。

 1499年、ルイ12世率いるフランス軍の侵攻でミラノが陥落。やむなくレオナルドは1500年にマントヴァへ、さらにヴェネツィアに、そして暮れにフィレンツェに戻った。1502年8月からレオナルドは、ローマ教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の庶子)の軍事顧問兼技術者として働いた。しかし、8カ月程度でフィレンツェに戻り、アルノ川の水路変更計画やヴェッキォ宮殿の壁画「アンギアリの戦い」(未完)などの仕事に従事した。

 1506年、スイスの傭兵がフランス軍を追い払うと、マクシミリアン・スフォルツァが治めるミラノに戻った。そこで、後に生涯の友人となり、後継者ともなったフランチェスコ・メルツィに出会った。1513~1516年ごろはミラノ、フィレンツェ、ローマをたびたび移動していたと思われる。当時、ローマにはラファエロやミケランジェロが活動していた。ただ、ラファエロはレオナルドの絵を模写し、影響を受けているが、ミケランジェロとの接触はほとんどなかったとみられる。

 1515年に即位したフランス王フランソワ1世は、同年ミラノを占領した。このときレオナルドはボローニャで行われたフランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平交渉の締結役に任命され、フランソワ1世に出会った。運命的な出会いだった。以後、レオナルドはよほどの信頼を得たのか、このフランソワ1世の庇護を受けることになる。1516年からは王の居城、アンボワーズ城に隣接する、フランソワ1世が幼少期を過ごしたクルーの館に招かれ、年金を受けて余生を過ごした。そして3年後の1519年、レオナルドはそのフランスのクルーの館で亡くなった。享年67歳。

 完成したものは極めて少ないが、レオナルドは絶え間なく仕事をした。しかも、前人未到のものばかりだ。芸術分野以外では建築・土木、科学技術などに通じていたが、まだほとんど触れていない人体・解剖学について少し記しておきたい。

 レオナルドが解剖学に興味を持ったのはヴェロッキョの工房にいたときからだが、第一ミラノ時代にかなりの研究が進み、多くのスケッチを残した。絵画を描く前提を通り越して、解剖学そのものが課題となったのだ。1489年には頭蓋骨についての研究を行い、90年代には循環器系の図や縦断面による男女性交図まで描いた。サンタ・マリア・ヌボア病院を利用して老人の死体を解剖し、老人の血管、動脈硬化、肝臓の硬化について克明なノートを書いた。

 第二ミラノ時代はフランス王の保護で生活が落ち着いたので、水力学と並んで解剖学の研究に打ち込んだ。また、ミラノの解剖学教授マルカントニオ・デルラ・トルレに会って教えを受けた。この期には骨と筋肉との運動、胸と胴の器官、心臓および血流、発生などの研究が中心課題となった。

 最後にレオナルドの二大名作について、少し記しておく。

<最後の晩餐>レオナルドがいつごろから描き始めたか、正確には分からない。絵のあるサンタ・マリア・デルレ・グラツィエ修道院はミラノ城の近くにあり、ルドヴィーコ・スフォルツァは1492年に修道院の食堂を改築するようにブラマンテに命じ、この食堂の後壁にロンバルディア派の凡庸な画家モントルファノ(1440~1504年)がキリスト磔刑図を描いた。これは1495年に完成された。そこで食堂の前壁にレオナルドが「最後の晩餐」を描くように命じられたのだ。したがって、制作の開始を1495年ごろと推定できる。

 「最後の晩餐」の主題は周知のとおり、『ヨハネ伝』第十三章第二十一節以下にみえる。イエスが弟子たちのうちの一人が、イエスを裏切ることを告げるくだりだ。この劇的な瞬間は、レオナルド以前にも多くの画家たちによって描かれた。しかし、レオナルドはそれらとは根本的に違った。

 レオナルドは二つの点で伝統から離れた。彼はユダを孤立から取り出し、それを他の人々の列の内に置き、次いでヨハネが主の胸に横たわるというモチーフから解放されている。そして、中央に他の何人とも似ない主宰的人物、キリストを配置し、十二人の使徒を左右にそれぞれ二つの三人のグループを形作った。まさにレオナルドの新機軸だった。中央のキリストはもはや死を覚悟してか、従容としている。これに反して、他の使徒たちはあるいは驚き、怒り、悲しみ、疑っている。実際、レオナルドほど人間心理の表れである、笑う、泣く、怒る、絶望するなどの表情をつぶさに観察した画家はいない。「最後の晩餐」には、この観察眼が見事に結実しているのではないか。

 ところで、西洋絵画史上屈指のこの名画くらい、数奇な運命にもてあそばれたものはない。絵が完成したとき、人々はどんなに感嘆したことだろう。修道院食堂の壁に描かれた横9m、高さ4mの壮大な晩餐図は、色彩といい、明暗といい、構図といい、すべてが画期的だった。だが、その画期的試み故に、修道院食堂の外部条件の故に、さらには後世の放置や破壊の故に、レオナルド畢生の傑作は無残にも損傷されていった。

 元々、修道院は湿地に建てられていたことに加え、壁が硝石を含む石からできていた。そのため、湿気が絵を侵し、画面を傷つけていったのだ。その結果、油絵の微妙な色調とかやわらかな味を台無しにした。その後も16世紀から18世紀にかけて数度にわたる戦火をくぐり、また無能な修正が行われるなど、この名画には全く不似合いな、悲惨な状況に遭遇し続けた。

<モナリザ>モナリザはレオナルドの代表作であるばかりでなく、世界中の人が知っている西洋絵画史上の最高傑作の一つであることはいうまでもない。それでいてなぜか、この絵には不明な点が少なくない。モナ・リザ(リザ夫人の意)は、リザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーニという長い名の、ナポリの上流階級出の夫人だ。フィレンツェの富裕な市民フランチェスコ・デル・ジョコンダの三度目の妻となった。それ以外のことは一切分からない。

 レオナルドはチェザレ・ボルジアのもとから戻った1503年初めに、肖像画に着手した。当時24、25歳だったと思われる。マントヴァのゴンザガ侯妃で、当時世界第一等の女性といわれたイザベッラ・デスケの懇願にも応じなかった彼が、「モナリザ」の制作を引き受けたのは、何か特別な理由があったのか。レオナルドにとって夫人が理想の女性と映ったのか、その点も判然としない。ともかく彼は「アンギアリの戦い」制作の合い間にも、「モナリザ」に手を加え、ミラノに赴くまで絵筆を置かなかったし、フランスにも持参したくらいだ。黒いヴェールを被り、眉毛のない顔、横向きの姿勢など、この肖像画ではすべてが中央のモナリザの微笑に集中するといっていい。この微笑が何を表そうとしているのか。その解釈は古来、様々だ。

 いずれにせよ「モナリザ」がレオナルドの創作の頂点を成し、ゴシック初期以来300年にわたって西欧の芸術発展の核心に迫る作品だったことは誰もが認めるところだ。完成作ではなかったが、会心の作だった。この絵はフランスのフランソワ一世が直接レオナルドから買い上げ、以後フランスの所有となった。しかし、度々の洗滌や修理で亀裂が生じ、原作の繊細な描写を消してしまった点が惜しまれる。

(参考資料)西村貞二「レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンスと万能の人」

藤原薬子 平城天皇の威を借り、兄と背後から政治をろう断した悪女?

藤原薬子 平城天皇の威を借り、兄と背後から政治をろう断した悪女?

 藤原薬子は平城(へいぜい)天皇が皇太子(安殿親王)のとき、長女を皇太子に仕えさせるため、付き添いとして宮中に上がったところ、母の薬子も皇太子の目にとまり、愛を受けるようになってしまう。彼女は中納言藤原縄主との間に三男二女と5人の子を産んでいたのにだ。相当、魅力にあふれた、すばらしい中年女性だったのだろう。

 最初は父で時の桓武天皇の怒りに触れ、薬子は宮中から追放される。ところが、延暦25年(806)3月、桓武天皇が崩御すると宮廷の女官の資格を取ったうえで再び宮中に復帰、後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ)に就任する。 安殿親王は延暦25年(806)5月即位し、年号を大同と改め平城天皇となった。その翌日、平城天皇の12歳年少の同母弟、賀美能親王を皇太子に立てた。平城朝がスタートすると、薬子は天皇の威を借りて傍若無人の振る舞いに出る。薬子の兄の藤原仲成までもが勝手な行動に出て、大いに周囲のひんしゅくを買った。薬子が天皇の寵愛を一身に集めているのをよいことに、仲成は伊予親王事件に揺れる南家を尻目に藤原式家の繁栄を図った。

 平城天皇は生来病弱で、藤原氏内部の抗争などにも翻弄されたが、桓武天皇が都の造営や蝦夷征討によって国家財政を逼迫させたのを受けて、財政の緊縮化と公民の負担軽減とに取り組んだ。また官司の整理統合や冗官の淘汰を進め、官僚組織の改革に先鞭をつけた。この間、天皇は何度か転地療養を試みたが、その効なく在位3年余りにして大同4年(809)4月、皇位を賀美能親王(嵯峨天皇)に譲り、平城旧京へ隠棲した。

 ところが、嵯峨朝がスタートしてほどなくすると、平城上皇の健康はにわかに回復へと向かい、いまだ30代という若さも手伝って国政への関心を示し、上皇の命令と称して政令を乱発するありさま。当然のことながら、側近の薬子や仲成も政治の舞台への未練を捨てきれず、遂に平城上皇に重祚するよう促した。   上皇方の動向を苦々しく思っていた朝廷も、当初は摩擦を避けるため薬子らの横暴にじっと耐えてきたが、その結果「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態に立ち至った。

 強気の上皇方は大同4年11月、平城京に宮殿を新たに造営しようとした。そして翌5年、上皇から平城京への遷都を促されるに及んで、遂に嵯峨天皇の朝廷は「二所の朝廷」といわれる事態を打開しようと立ち上がった。朝廷は仲成を捕縛するとともに、正三位の薬子の官位を剥奪した。事態の急変に慌てた上皇は東国への脱出を試みたが、朝廷の命を受けた坂上田村麻呂の軍勢によって行く手を阻まれ、失意のうちに平城京に戻って剃髪し、出家した。薬子は毒を仰いで自殺して果て、仲成も射殺された。

 この「薬子の変」により、嵯峨天皇の皇太子だった平城天皇の第三皇子、高岳(たかおか)親王は廃太子となり、代わって大伴皇子(後の淳和天皇)が立太子し、上皇の系統と悪しき側近政治はここに絶たれた。

 藤原薬子が本当に悪女だったのか、平城天皇を心から愛し続けた一途な女性だったのか、ドラマチックな彼女の真の人生を書き残したものがなく、本当のところは分からない。

(参考資料)永井路子対談集「藤原薬子」(永井路子vs池田弥三郎)、北山茂夫「日本の歴史4/平安京」、杉本苑子「檀林皇后私譜」                   

クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

 クラウゼヴィッツは、プロイセン軍隊の創設、軍制の確立に尽力し、対ナポレオン戦争の経験を元に、戦略・戦術に関する名著『戦争論』を著したことでよく知られている。その思想は世界の軍人や革命家たちにも大きな影響を与えたといわれる。生没年は1780~1831年。

 カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン王国のマクデブルクで生まれた。父はマクデブルクの王室収税官だった。1792年、12歳のときにポツダムのフェルディナント親王歩兵連隊に入隊し、1794年にラインラントにおけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。少尉に任官した15歳からの6年間はノイルッピンで過ごす。このとき所属していた連隊の連隊長の考課表によると、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。

 クラウゼヴィッツは1801年、ベルリンの士官学校に入り、そこでシャルンホルストの下で軍事学を学んだ。1803年、プロイセン軍アウグスト親王の副官に任命され、6年間にわたって副官としての業務を行いながらも、軍事学の文献だけでなく、外交・文化・歴史・文学についての文献を多読し、マキャベリやモンテスキュー、カントの影響を受けて、独自の思考様式を育んだ。そして、ナポレオン戦争に従軍して1806年に親王とともにフランス軍の捕虜となるまで、多くの戦史研究や戦略論、政治評論などを執筆している。

 1807年、ティルジット講和条約が締結された後、クラウゼヴィッツは捕虜交換により釈放され、その後、フランス軍占領下にあったベルリンに帰還した。1809年、クラウゼヴィッツは陸軍省に勤務し、皇太子の軍事教育も担当した。1812年、フランス軍に対抗するため、一時期ロシア軍に軍籍を置きながら、参謀としてフランス軍と戦った愛国的な軍人でもあった。ナポレオン戦争終結後にはベルリンの陸軍大学校の校長として勤務している。『戦争論』の原稿はこの頃に執筆されたものだ。

 クラウゼヴィッツは1830年に校長を辞任して、七月革命の余波を受けたポーランドでの暴動を鎮圧するために派遣されるが、1831年にコレラで病死した。

 『戦争論』の思想は大モルトケをはじめとする後世の軍人たちや、レーニンをはじめとする革命家たちにも大きな影響を与えた。日本も例外ではない。クラウゼヴィッツの思想は、1867年に始まった明治維新による日本の国家建設以来、軍事のあらゆる分野に様々な影響を与えている。しかし、日本の軍人は『戦争論』に最も明確に述べられている戦争の本質について学ぶことよりも、ドイツを手本として軍事行動を計画し、実行する方法を学ぶことに熱心だった。

 日本陸軍は、ドイツ第二帝政期の初期におけるドイツの軍事思想を通じて、クラウゼヴィッツの思想を主として間接的に学んだ。彼らは師団レベルの基礎的な戦術と応用戦術に関する教育を受けた。その教育の特色は、クラウゼヴィッツが重視した理論と実際の統一にあった。この教育の成果は非常に大きかったので、このような教育法は陸軍大学の誇るべき伝統として、第二次世界大戦までそのまま継承された。

(参考資料)広瀬隆「クラウゼヴィッツの暗号文」、寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

 一般にはモーゼと呼称されることが多いが、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる、紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者モーセは、ここに取り上げる人物たちとかなりスケールは異なるが、紛れもなく大怪人といっていいのではないか。彼はユダヤ教、イスラム教、キリスト教など多くの宗教において、最も重要な預言者の一人とされる。

 『旧約聖書』の『出エジプト記』によると、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、イスラエル人が増えすぎることを懸念したファラオは、イスラエル人の男児を殺すよう命令した。こうして殺される運命にあったモーセは出生後、しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。そこへファラオの王女が通りかかり、彼を拾い、水から引き上げたので、マーシャー(引き上げる)から、「モーセ」と名付けられたという。

 成長したモーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見てエジプト人を殺害。ファラオの追討軍の手を逃れてミディアンの地(現在のアラビア半島)に住んだ。モーセはミディアンでツィポラという女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴の中から神(エホバ)に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(現在のパレスチナ周辺)へ導く使命を受ける。こうして彼の預言者としての活動が始まる。

 エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、イスラエル人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶、なかなか許そうとしなかった。そのため「十」の災いがエジプトにくだり、ようやくイスラエル人たちはエジプトから出ることができた。それでもファラオは心変わりして軍勢を差し向けるが、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができたが、ファラオの軍勢は海に沈んだ。映画『十戒』でも最大のダイナミックなシーンとして、リアルに表現されていただけに、ご承知の人も多いはずだ。その後、モーセはシナイ山で神から石版2枚の十戒を受けた。

 『レビ記』『民数記』『申命記』によると、その後のモーセはイスラエル人を導いて荒野を通って土地の王たちとの戦いを経つつ、カナンの地へ至った。しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課した。モーセもメリバの泉で神の命令に従わなかったことにより、カナンの地へ入ることを許されなかった。そして、40年の期間が満ちたとき、モーセは民に別れの言葉を残した。その後、モーセはビスガの山頂で約束の地カナンを目にしながら、世を去ったという。没年齢は120歳。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

 王制、帝政、そして日本の武家社会などを含め統治形態は異なっても、トップの後継争いは常に血みどろの争いが付き物だ。古代ローマ帝国の場合も全く例外ではない。強い母の導きと画策で帝位に就いた第5代皇帝ネロは、キリスト教徒を迫害し、後世“暴君”の代名詞とされたが、果たして、等身大の皇帝ネロの姿はどうだったのだろうか。

 皇帝ネロは小アグリッピナ(母)と、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(父)の息子として生まれた。母は初代皇帝アウグストゥスの孫、大アグリッピナとゲルマニクスの娘だった。ネロの生没年は37~68年。皇帝在位は54~68年。生まれたときの名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。

 40年、ネロが3歳のとき父グナエウスが死去。その翌年にカリグラが帝位に就くが、まもなくカリグラによって母が追放された。そのため、ネロは叔母に育てられた。しかし、その3年後カリグラが暗殺され、伯父のクラディウスが擁立され第4代ローマ皇帝になると、彼によって母はローマに戻ることを許された。この時点では初代皇帝の孫、ネロの母もようやくローマ市民に戻ったにすぎなかった。

 第4代皇帝クラディウスはメッサリナを妃として迎えており、すでに後継者ブリタンニクスがいた。ところが、メッサリナは48年に不義の咎で殺害され、幸運にも後妻としてネロの母がクラディウスと結婚、皇妃となったのだ。まさに人生の歯車がうまく回転し始めたわけだ。そして、その母の采配でブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そこで、年少のブリタンニクスよりも後継者にふさわしいとみられるようになり、ネロをブリタンニクスよりも先に王位に就ける確約を得た。

  ここまできたら、あとは待っていればいいようなものだが、権力志向の強いネロの母は動きをみせる。54年、信じがたいことだが、その母が第4代皇帝クラディウスを暗殺してしまう。クラディウスが死ぬとネロが第5代皇帝に即位し、1年も経たないうちに、今度はネロがブリタンニクスを毒殺したのだ。

 ところで、暴君の代名詞のようにいわれる皇帝ネロだが、治世初期は予想外に、“名君”の評判もあったほど良かった。それは家庭教師で哲学者セネカと親衛隊長官セクトゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐によるものだ。しかし、そのメッキは徐々に、そして確実に剥がれていく。ネロはまず59年に母を殺害する。これは公私にわたり強引に干渉してくる母が疎ましくなったためだった。また、62年には妻オクタヴィアを、姦通罪(冤罪)を理由に殺害してしまう。そして、人妻だったポッペア・サビナと強引に結婚するのだ。無茶苦茶としかいいようがない。

   62年に側近の一人、親衛隊長官ブッルスが急死。この頃からもう一人の側近セネカも遠ざけられて、ネロの統治は破綻していく。64年にローマで大火が発生するが、人々はネロが自分の宮殿を建てるために、街に放火したと噂したという。真偽のほどは分からないが、そこでネロは、こうした噂を打ち消すべくキリスト教徒に罪を着せて、迫害する挙に出る。恐らくネロのこうしたやり方に、側近だったセネカが強く苦言を呈して諌めたためだろう。65年にはそのセネカが自殺させられているのだ。

 あとは坂道を転げ落ちるように、皇帝ネロの治世は暗転していく。68年にタラコンネシス属州の総督ガルバらによる反乱が起こり、各地の属州総督がこれに同調。遂には元老院から、ネロは“国家の敵”とされてしまう。ここまできてはさすがのネロもなすすべなく、同年自ら命を絶ち、30年の生涯を閉じた。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

 「ナチのファシストで独裁者」アドルフ・ヒトラーは第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパ全土を恐怖に陥れた「狂信的殺人鬼」とも称された。そんな巨悪なイメージとは別に、青年時代のヒトラーは純粋な芸術に取り組む小人物だったという。それが、どうして、どこで、数多くの“虐殺”を行っても動じない“独裁者”に変わったのか。

 アドルフ・ヒトラーは、ドイツとの国境近くのオーストリアの小さな町、ブラウナウで税関吏の子として生まれた。父アロイスは小学校しか出ていなかったが、税関上級事務官になった努力家だった。アドルフはアロイスの3番目の妻クララとの間に生まれた。名前のアドルフは「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗っている。認知した父の姓は「ヒドラー」だったが、「ヒトラー」と改姓。ヒトラーの生没年は1889~1945年。

 父アロイスは厳格で自分の教育方針に違反した行為をすると、情け容赦なく子供たちに鞭を振るった。少年時代のヒトラーは成績が悪く、2回の落第と転校を経験しており、リンツの実業学校の担任の所見では「非常な才能を持っているものの、直感に頼り努力が足りない」と評されている。歴史や美術など得意教科は熱心に取り組むが、数学、フランス語など苦手教科は徹底して怠ける性質だったという。

 ヒトラーは若くして両親を失い、ウィーンで画家になろうとして失敗し、同市の公営施設を常宿として絵を描いて売ったり、両親の遺産に頼ったりして生活した。その間に下層社会や大衆の心理について見聞、体験したことが、後に政治活動するうえで役立った。

 1913年、オーストリアで兵役につくことを嫌ってドイツのミュンヘンに逃れた。第一次世界大戦が始まるとドイツ軍に志願兵として入隊し、とくに伝令兵として功を立てて、一級鉄十字章を受けた。ドイツ革命(1918~19年)の後、ミュンヘンの軍隊内で軍人のための政治思想講習会に出席して、民族主義思想を固めた。

 ヒトラーは1919年、ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス)という国家主義と社会改良主義を結び付ける小党に入党した。そして、1921年に党首となった。1923年、ミュンヘン一揆を起こすが、失敗。それ以後、ワイマール共和制打倒・ベルサイユ条約打破・反ユダヤ主義を主張し、議会制民主主義の制度的枠組みの中で党勢を拡大していき1933年、首相に就任した。就任すると直ちに、ワイマール憲法に基づく緊急命令の発動や授権法の制定によって、権力基盤を固めた。そして翌年、大統領を兼ねて総統となった。

 政権掌握までの過程は民主的だった。しかし、政権掌握後に「指導者原理」を唱えて、民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたことが、その後の“暴走”を招いたわけだ。以後、ヒトラーは再軍備宣言(1935年)・ラインラント進駐(1936年)・スペイン内乱への介入(1936年)・ミュンヘン会談(1938年)と軍備を拡張する中で積極外交を展開した。そして1939年、ポーランド侵攻によって第二次世界大戦への勃発を招き、ヨーロッパを広範な戦禍に巻き込むとともに、ドイツを敗北に導いた。1944年には保守派がヒトラーの暗殺を含むクーデター計画を実行したが、失敗に終わった。ヒトラー自身はベルリン陥落寸前の1945年4月30日、ベルリンの首相官邸の地下壕で、前日、結婚式を挙げた17歳の花嫁、エヴァ・ブラウンと「心中」、ピストル自殺した。

 ヒトラーの思想は『わが闘争』の中に見い出される。アーリア人種が文化創造の主体であるという生物学的な人種理論を唱える一方で、「民主主義、議会主義、マルクス主義、拝金主義などがユダヤ人の世界支配の陰謀に基づく」という「反ユダヤ主義」を主張し、「民俗共同体」を人種的生存の核として位置付けた。

 秘密国家警察(ゲシュタポ)や強制収容所の存在が象徴するように、ヒトラー独裁の下では国民の自由は抑圧され、またユダヤ人が迫害された。だが、他方で失業問題の克服や社会的階層秩序の流動化、そしてなによりも外交上の成功によって、少なくとも1937~38年ごろまでのヒトラーが国民の相当程度の支持を得ていたことも見逃せない。

 

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

大阪・中之島で「天下の台所」支えた土蔵跡4棟出土

大阪・中之島で「天下の台所」支えた土蔵跡4棟出土

 大阪市教育委員会と大阪市博物館協会大阪文化財研究所は5月2日、同市北区中之島の蔵屋敷跡発掘調査で、江戸時代の土蔵跡4棟分が見つかったと発表した。蔵屋敷内に少なくとも4棟の土蔵が所狭しと建ち並んでいたことが分かり、担当者は「大坂の繁栄を支えた蔵屋敷の構造の一例を知ることができた。『天下の台所』の具体的な姿を復元するうえで、重要な手掛かりになる」としている。

 江戸時代後期の19世紀の大坂・中之島には120ほどの蔵屋敷が建ち並んでいた。今回の調査は、中之島西部にある約2100平方㍍が対象。2014年1月に発掘調査を開始し、基礎に石積みを用いた建物跡が見つかった。石積みは3~4段ある堅牢な構造で、幅は8.2㍍、長さは34.7㍍。蔵1棟の床面積は約286平方㍍と想定できるという。                  

唐招提寺の金堂回廊は東西78㍍ 西面で遺構発見

唐招提寺の金堂回廊は東西78㍍ 西面で遺構発見

 奈良県立橿原考古学研究所は5月1日、奈良市の唐招提寺の金堂(国宝、奈良時代末ごろ)の西面回廊の遺構が初めて見つかり、回廊全体の東西規模が約78㍍だったと判明したと発表した。回廊は全周にわたり、中央を壁で仕切って内外の両側に廊下を設けた「複廊」だったとみられる。創建時の姿を探る貴重な手掛かりという。複廊は東大寺や興福寺などでみられる形式。唐招提寺は鑑真が創建した私寺だが、大規模な官寺と同様の構造と風格を持っていたことが分かった。

吉井勇の再婚を祝福、うらやむ斎藤茂吉のはがき

吉井勇の再婚を祝福、うらやむ斎藤茂吉のはがき
 歌人・斎藤茂吉(1882~1953年)が友人の歌人、吉井勇(1886~1960年)に送ったはがきが京都府立総合資料館(京都市左京区)で見つかった。再婚をうらやむ歌が記されており、吉井の研究者からは作風の違う2人の親交の深さが分かる資料として注目されている。資料館からは、1937年から戦後にかけて、茂吉から届いた24通が見つかった。2人の交友は知られていたが、やりとりが直接確認できる資料は未発見だった。
 不倫騒動を起こした妻と別れ、長く思いを寄せていた女性と再婚した吉井を祝福するはがきも。日中戦争の南京陥落よりも君の新生活が喜ばしいという意味の「勝鬨(かちどき)のうづもよけれど南なる君が家居もにくからなくに」との歌が記されている。消印の日付は37年12月20日。このころは茂吉の妻も不倫騒動を起こし、別居中の茂吉が愛人と温泉旅行に行った直後。斎藤茂吉記念館では「茂吉のこのころの複雑な心境がうかがえる。妻の不倫という共通の体験が仲を深めたのだろう」と話している。

十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫に 

十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫とした女性 

 古代、万葉の頃は数奇な運命に導かれるように薄幸の生涯を送った女性は様々いるが、十市皇女(とおちのひめみこ)ほど身を裂かれるような、悲劇的な選択を迫られた女性は極めて少ないだろう。彼女は、古代日本の最大の内乱「壬申の乱」(672年)を両軍の最高指揮官として戦った大海人皇子(おおあまのみこ)と大友皇子を、それぞれ父と夫に持った女性だった。父と夫が戦う事態はまさに異常としか言いようがない。

 十市皇女の動静はほとんど記録に残っておらず、まさに謎だらけだ。生年にもいくつかの説がある。653年(白雉4)や648年(大火4年)など確定しない。没年は678年(天武天皇7年)だ。天武天皇の第一皇女(母は額田王・ぬかだのおおきみ)であり、大友皇子(明治期に弘文天皇と遺贈された)の正妃。

 父の大海人皇子が、兄の天智天皇から大田皇女、鵜野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)の2人の皇女を娶ったことから、両者の関係を緊密にする意味も加わって、大海人皇子の方からは妻・額田王との間に生まれた皇女=十市皇女が天智天皇の長子、大友皇子の妻として迎えられた。このことが彼女にとって、冒頭に述べた通り後に大きな悲劇を生むことになった。

 既述のとおり、彼女の生涯は詳らかではない部分が極めて多く断定できないのだが、彼女の人生にとってぜひ記しておかなければならないのが、天武天皇の皇子(長男)、高市皇子(たけちのみこ)との悲恋に終わった恋だろう。高市皇子は天武天皇存命時は皇子の中では草壁皇子、大津皇子に次ぐNo.3の座にあったが、天武天皇が亡くなった後、大津皇子、そして草壁皇子が亡くなるとNo1に昇り詰め、690~696年は太政大臣を務め持統天皇政権を支えた有力な皇子だ。相手としては何の問題もない。したがって、政略結婚として大友皇子のもとに嫁ぐことがなければ、彼女はきっと高市皇子との恋を成就させたのではないか。

 それを裏付けるのが相手の高市皇子の動静だ。高市皇子は詳らかなところは分からないが、実は当時の皇族としてはかなり異例の年齢まで正妃を持たず、独身だったからだ。恐らく高市皇子は愛しい十市皇女を想い続け、妻を迎える気にならなかったのではないかとみられるからだ。まさに相思相愛だったのだ。

 そんな彼女だったからか、大友皇子の正妃としての境遇に心底馴染めない側面があったのか、父母への思慕が勝っていたのか、こんな説が残っている。『宇治拾遺物語』などでは、十市皇女が父・大海人皇子に夫・大友皇子の動静を通報していたことが記されている。大海人皇子にとって、迫りくる娘婿・大友皇子との雌雄を決する決戦「壬申の乱」に至る過程で敵方、近江大津京の情報は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。その役割を彼女は主体的に担ったのかも知れない。

 彼女には、その死についても謎がある。詳しい経緯はわからないが、彼女は未亡人であったにもかかわらず、泊瀬倉梯宮(はつせくらはしのみや)の斎宮となることが決まる。通常は斎宮といえば未婚の女性が選ばれるのだが。そして678年(天武天皇7年)、まさに出立の当日、4月7日朝、なぜか彼女は急死してしまう。王権をめぐって自分の父と夫が戦うという、非情の運命を背負わされた女性の悲しすぎるエンディングだ。

 『日本書紀』は「十市皇女、卒然に病発して宮中に薨せぬ」と記されている。7日後の4月14日、亡骸(なきがら)は大和の赤穂の地に葬られた。彼女はまだ30歳前後だ。この不審な急死に対し、自殺説、暗殺説もある。

 1981年、「比売塚(ひめづか)」という古墳の上に建てられた比売(ひめ)神社に、彼女は祀られている。この比売神社は現在、奈良市高畑町の一角にある。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、豊田有恒「大友皇子東下り」

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位859年ぶり 女帝

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位した859年ぶりの女帝

 第百九代・明正(めいしょう)天皇は、徳川二代将軍秀忠の娘、東福門院和子(まさこ)を母に持つ、第百八代後水尾(ごみずのお)天皇の第二皇女で、奈良時代の第四十八代称徳(しょうとく)天皇以来、実に859年ぶりの女帝として即位した。この徳川氏を外戚とする唯一の天皇の誕生を機に、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の朝廷に対する介入が本格化したのだ。ただ、明正天皇の治世中は、将軍家の度重なる強い圧力を嫌って突然退位した前天皇、父の後水尾による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷において実権を持つことは何ひとつなかったという。彼女自身、幕府と朝廷=母の実家と父帝の板ばさみとなり、ある意味で悲劇のヒロインだったともいえる。

 明正天皇の幼名は女一宮(おんないちのみや)、諱(いみな)は興子(おきこ)。明正天皇の在位は1629(寛永6)~1643年(寛永20年)、生没年は1624(元和9)~1696年(元禄9年)。奈良時代以来の女帝、明正天皇の誕生は、今日、後水尾天皇による「俄の御譲位」事件として記録されている。父の後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け、興子内親王として践祚(せんそ)。わずか数え年7歳のときのことだ。

 幕府による後水尾天皇への圧力として象徴的だったのが、無位無官の女性=春日局の参内だった。春日局は本名・山崎福、明智光秀の重臣、斎藤利三の娘、応募して徳川三代将軍家光の乳母となった気丈な女性だ。お福は将軍の代参として伊勢両宮に参詣の途次、京都に立ち寄り、参内したいと申し出た。しかし、無位無官の女性が参内するなどいうのは、前代未聞のことだ。そのため、公卿の誰かの子として、禁裏に招かれる体裁をとるということになった。だが、お福は老女なので、養家となるべき相応の公卿が見当たらない。そこで、やむなくとられた手段は、伝奏・三条西実条の姉妹分という扱いだった。ちなみに、春日局とは室町時代の将軍家の乳人(めのと)の称で、このときお福はそれに倣って、「春日局」の称号を許されたのだ。

 こうした体裁を整えたうえでお福は予定通り参内、禁中御学問所で天皇と対面し、西の階(きざはし)近くに召されて勾当内侍(こうとうのないし、長橋局)の酌で天盃(てんぱい)を受けた。『大内日記』によると、このときお福は、後水尾天皇の中宮和子(明正天皇の母)のいる中宮御所で、京都所司代・板倉重宗と落ち合い、そこから伝奏・実条の案内で参内したらしい。いずれにしても、お福は上首尾に天盃を賜り、面目を施したのだ。しかし、地下(じげ、無位無官)の女性が幕府の威光を背に強引に参内したというので、公卿らの憤懣はうっ積した。

 後水尾天皇の退位のきっかけとなった事件として指摘されるのが紫衣(しえ)事件だ。これは幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝廷・幕府間の対立事件で、江戸時代初期の両者の最大の不和確執だ。事の始まりはこうだ。幕府は1613年(慶長18年)、「勅許紫衣並 山城大徳寺 妙心寺等諸寺入院の法度」、1615年(元和元年)に「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。しかし、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。

 これを知った徳川三代将軍家光は1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして、多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じたのだ。この事件をきっかけに、こうした介入に承服できない後水尾天皇は、退位の決意を固めたといわれる。

 幕府には無断で、突然ではあったが、譲位を迫る将軍家の強引な仕儀に屈する形で、後水尾天皇は後継に幼女を据え、退位した。しかし、このことは後を託された明正天皇にとって、きわめて悲しい運命を科されたことをも意味した。それは、古代より天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない-という不文律があったからだ。

 この不文律は元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主要な意図だった。だが、後水尾天皇はこの不文律を利用し、徳川将軍家に対して反撃に出たのだ。皇室から徳川家の血を絶やし、後世までその累が及ばぬようにするという意図をもって、娘に白羽の矢を立て、明正天皇を即位させたとの見方があるのだ。後水尾天皇は将軍家の、天皇家に対する無礼な振る舞いに立腹、一時的な感情に支配されて退位したように見せながら、実際にはしたたかに計算したうえで明正天皇を誕生させたともいえるのだ。幕府の意向を十分汲みながら、皇室から徳川の血を排除するという、一石二鳥の妙手だったわけだ。事実、後水尾天皇は明正天皇への譲位後も朝廷内においては院政を敷き、引き続き実権は握っていたのだから。院政は本来、朝廷の法体系の枠外のしくみで、「禁中並公家諸法度」ではそれを統制できなかったのだ。

 明正天皇は1643年、21歳で異母弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位。以後54年間、女性の上皇として宮中にあった。崩御後、古代の女帝、第四十三代・元明(げんめい)、第四十四代・元正(げんしょう)両天皇の一字ずつを取って明正院と号した。

(参考資料)今谷 明「武家と天皇- 王権をめぐる相剋」、笠原英彦「歴

      代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」