『歴史を彩ったヒロイン』
天秀尼 豊臣秀頼の子で、駆け込み寺の守護女神
天秀尼(=奈阿姫、なあひめ)といっても馴染みがない人がほとんどだろう。実は淀君の孫娘、豊臣秀頼の娘だ。ただ、母は有名な正室、千姫ではない。側室の小石の方(こいわのかた、成田五兵衛の娘)だ。名は千代姫ともいった。出家後の名が天秀尼(てんしゅうに)。兄の豊臣国松とは異腹。千姫とは義理の親子だったが、仲がよかったとされる。この天秀尼、三百数十年前、かよわい女性の身で、救いを求めてきた何人かの女性の命を助けた、女神のような存在だったのだ。
生没年は1609年(慶長14年)〜1645年(正保2年)。
奈阿姫は大坂城で生まれ、何不自由なく育った。1612年(慶長17年)4月頃から徳川家と豊臣家の関係が悪化。1615年(元和元年)、大坂夏の陣での豊臣方の敗北は彼女を、いわば戦災孤児へ突き落とした。兄の国松は斬殺されたが、千姫が奈阿姫を自らの養女としていたために特別に助命され、出家して縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺に入った。
もともとこの寺は格式の高い尼寺で、代々、毛並みのいい女性が住持になる習わしで、罪を犯した人やその家族をかくまう、いわば治外法権的な権力を持っていた。身分は高いが戦犯の娘で、しかも孤児となった彼女には、極めてふさわしい住み家だったといえよう。
天秀尼が東慶寺に入ったのは8歳のとき。後に師の跡を継ぎ、その20世住職となる。彼女が30歳前後のとき、後世に彼女の名が残る事件が起こった。会津若松40余万石の城主、加藤明成と家老の堀主水の妻子が救いを求めて転がり込んできたのだ。夫の主水が主君と意見が合わず、一族ともども会津を出奔したという。主水は主君の非を幕府に訴えるつもりだったが、それより早く、怒った明成が追ってきたので、兄弟揃ってとりあえず高野山に逃げ込んだ。ところが高野山は女人禁制。そこで何卒、私どもだけ、この寺におかくまいください−と主水の妻は訴え、天秀尼の法衣にすがりついた。
ただ、当時は「主君に忠」が憲法第一条の時代だ。いかに主水の言い分が正しくても、主君に背くのは憲法違反の重罪だ。高野山も昔から罪人をかくまう治外法権的な特権を持っていたのだが、徳川の全国統一によって次第に力が薄れ、このときは明成の脅しに遭うと、あえなく腰砕けになって、遂に主水兄弟を引き渡してしまう。勝ち誇った明成は彼らを斬殺、今度は東慶寺に妻子を引き渡せと言ってきた。ここで天秀尼は、徳川の忠君憲法と、明成の強情の前に厳しい選択を迫られることになった。堀主水の妻子を助けるか助けぬか−。
天秀尼は、昔からここに逃げ込んだものは、決して引き渡さないという掟があるのをご存知ないのですか−と悩んだ末に遂に堀主水の妻子をかくまう道を選んだ。そして、明成の非を養母の千姫を通じて三代将軍家光に訴えた。無礼者明成をつぶすか、この寺をつぶすか、二つに一つでございます−と。捨て身の彼女の訴えに、幕府は彼女の言い分を聞き入れ、明成の40余万石は没収、代わりに1万石を与えて家名だけを継がせることにした。千姫という後ろ楯があったにせよ、天秀尼は見事に勝ったのだ。天下の高野山が守りきれなかった憲法違反者の妻子の命を女の細腕で守り通したのだ。こうして同寺は「縁切り寺」「駆け込み寺」として広く認知され、夫や姑に虐待されても自分の方から離婚を申し立てられなかった当時の女性にとって、長く救いの場所になったのだ。
彼女の死去により、豊臣秀吉の直系は断絶した。
(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」