『歴史を彩ったヒロイン』
坂本乙女 龍馬を育て力づけ励まし続けた、文武両道の女丈夫
坂本乙女は坂本龍馬の三番目の姉で、幼いときに病気で母をなくした龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術など様々なことを教え、後の龍馬を育てた女丈夫だ。坂本乙女の生没年は1832(天保3)〜1879年(明治12年)。
坂本乙女は豪商・才谷屋の分家の、土佐藩郷士、坂本八平と幸の三女だ。城下でも屈指の富豪だから、乙女は家事などは手伝わず、気ままに遊芸を習うことができた。17、18歳のころは義太夫では玄人はだしの腕になり寄席を買い切って高座に上ったこともある。三味線、一弦琴、謡曲、舞踊、琵琶歌まで習い、そのいずれもが素人離れしていた。
とくに自慢は剣術と馬術で土佐藩の恒例行事の正月の「乗初(のりぞめ)」式に女ながらも藩に無断で出場し、栗毛の肥馬に乗り男袴をはき、十尺の薙刀(なぎなた)を振り回して人を驚かせた。このほか弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったといわれる。
乙女は、身長五尺八寸(約174cm)・体重三十貫(約112kg)という当時はもちろん、現代的にみてもかなり大柄な女性だった。そのため力が強く、米俵を二表らくらくと両手に提げて歩くことができた。城下では「坂本のお仁王さま」と異名された。それだけに1846年、病弱だった母親、幸が亡くなった後、乙女は龍馬の母親代わりを務めた。龍馬に書道・和歌・剣術などを教え、当時龍馬が患っていた夜尿症を治したともいわれている。
それほど諸芸に堪能な彼女が、炊事と裁縫だけはできなかった。ただ彼女の場合、できないというより、その種の仕事を嘲弄していたふしさえあった。龍馬の盟友だった武市半平太の夫人は富子といい、小柄で温和で貞淑という点では典型的な武家家庭の主婦だった。乙女はこの富子に「あなたも家事以外のことで夢中になってみてはいかがですか。例えば薙刀や馬術などに」と、女仕事からの謀反を勧めている。
乙女は晩婚で1856年、兄の友人の典医・岡上樹庵と結婚して一男一女(赫太郎・菊栄)をもうけた。岡上は長崎で蘭学を修めた人物だったが、身長が五尺そこそこしかなかった。そして、10年余の結婚生活の後、乙女は岡上と話し合い、二人の子供を置いて坂本家に戻った。家風の相違や夫の暴力、浮気などが原因で、姑の経済観念と、乙女の大らか過ぎる家計のやりくりとが合わないといったことも、その理由だったらしい。1867年のことだ。ただ、その後も息子や娘が坂本家に遊びにきているところをみれば、乙女はごくさわやかに、この離婚問題を処理していたと思われる。
坂本家に戻った乙女はその後、龍馬の良き理解者として、龍馬が国事に奔走するのを力づけ相談に乗ったり、励ましたという。乙女は自分も国事に尽くそうと上洛を望み、龍馬の迎えの便りを待っていたが、頼みの龍馬が暗殺され、志を果たせなかったという話がある。
ただ、龍馬の妻、おりょうとは不仲だったようだ。これは、乙女に対するおりょうの接し方にも問題があったのかも知れないが、しっくり行っていなかったことは確かだ。龍馬が京都で暗殺された後、おりょうは坂本家の乙女のもとに身を寄せたのだが、程なくしてここを去り、身寄りのないおりょうは各地を放浪したという経緯がある。
晩年は独と改名し、養嗣子の坂本直寛とともに暮らした。1879年、コレラが流行した際、感染を恐れて野菜を食べなかったためか、壊血病に罹り死去した。享年48。
(参考資料)司馬遼太郎「歴史の中の日本」