『歴史を彩ったヒロイン』

中西君尾 勤皇・佐幕派を問わず様々な人物とつながりを持った芸妓
 幕末、京都祇園の芸者だった中西君尾(なかにしきみお)は、高杉晋作を介して、井上聞多、品川弥二郎など多くの長州藩士とつながりを持ち、彼らの心を癒した。とくに井上聞多の命を救った贈り物の逸話は知られているが、桂小五郎と幾松のように、君尾と井上は結ばれることはなく、結果的に君男は祇園で多くの勤皇の志士のために手助けをすることになる。君尾の生没年は1843(天保14)〜1918年(大正7年).

 中西君尾は京都府船井郡八木町に生まれた。本名はきみ。19歳で祇園の置屋、島村屋から芸妓となった。主に縄手大和橋の御茶屋『魚品(うおしな)』で後の明治時代に元老となる井上聞多(後の井上馨)と出会い、親密な間柄となった。元治元年、井上が長州藩内で敵対する俗論党に、山口・湯田温泉で襲われ、虫の息の彼が止めの刃を胸に受けたとき、懐の鐘に切っ先があたり死を免れた話が残っている。これは、これより数年前井上がロンドンに向かうときに、井上が自分の小柄と交換した君尾の鐘で、彼がずっと肌身離さず持っていたものだったという。

 君尾は芸妓という立場上、当然ともいえるが勤皇・佐幕派を問わず、実に様々な人物とつながりを持った。彼女はまず長州の寺島忠三郎に頼まれ、スパイとして志士弾圧の急先鋒だった島田左近の“思われもの”になったこともあるといわれ、この後、島田は天誅第1号として斬殺されている。
 近藤勇も祇園の『一力』の座敷で君尾と出会ったことがあるが、近藤が口説いたところ、君尾は「禁裏様のお味方をなさるなら、あなたのものになりましょう」といい、近藤は「我々は会津に従う。(だから、お前の)言葉には従えぬ。無礼は許せ」と酒を一気に呑み干し、席を立ったという話が残されている。

 また、鴨川の川座敷で桂小五郎、久坂玄瑞、鳩居堂の主人らと酒を酌み交わしかえる途中、新選組隊士に壬生の屯所に引き立てられ拷問にかけられるが、君尾は気丈にも同席者の名や話の内容など肝心なことは口を割らなかった。そのため、近藤は「新選組は無茶な殺生はしない」と駕籠を呼んで送り返してやったという。まだある。君尾はまた追われていた中村半次郎(後の桐野利秋)を匿ったり、会津藩士に踏み込まれた勤皇の青年を裏から逃がしたり、多くの志士たちを救っている。

 長州の品川弥二郎もその一人だ。君尾は弥二郎と恋仲になった。慶応4年に東征軍が進発のときに歌った「宮さん、宮さん〜」のトンヤレ節は品川の作詞といわれる。また曲をつけたのは君尾だとされている。君尾は品川の子供を宿し、その子、巴は祇園の役員になった。
 明治時代になっても、君尾はずっと祇園の芸妓を通した。そして維新で高官となった、かつての志士たちと昔語りをするのを楽しみにしていたという。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」
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