『歴史を彩ったヒロイン』
吉備内親王 冤罪事件で一家全員自殺に追い込まれた長屋王妃
吉備内親王は元明女帝の愛娘の一人で、天武天皇、持統女帝の孫にあたり、母方の血筋をたどれば、天智天皇の孫にもあたる華麗な家系の女性だ。さらにいえば姉(氷高皇女=元正天皇)、兄(文武天皇)も即位した。天皇にならなかったのは、即位を前に早逝した父の草壁皇子と、この吉備内親王ぐらいなのだ。そんな“セレブ”な家系の彼女が、どうしたことか、一時は政府首班を務めた長屋王の妃にはなったものの、周知の「長屋王の変」で夫、そして子供たちとともに自殺に追い込まれているのだ。どうして、彼女がそんな非業の死を遂げねばならなかったのか。
吉備内親王の生年は不詳、没年は729年(神亀6年)。彼女は長屋王に嫁ぎ、膳夫王・葛木王・鉤取王を産んだ。そして、715年(和銅8年)には息子たちが皇孫待遇になった。また、彼女自身も同年、元号が神亀となった後に三品に叙された。さらに724年には二品に叙された。ここまでは、彼女の家系にふさわしい、心穏やかな幸せに満ちた年月を過ごしていたといえよう。
ところが、729年(神亀6年)、思いがけない事件で吉備内親王の人生は暗転する。既述の後世「長屋王の変」と呼ばれる事件だ。結論を先に言えば、これは藤原一族が仕掛けた、長屋王追い落としのための謀略であり、冤罪事件だ。藤原一族が仕掛けたとみられる「長屋王謀反の企て」の顛末はこうだ。長屋王の使用人だった漆部造君足(ぬりべのやっこきみたり)と中臣宮処東人らにより、左大臣長屋王が密かに左道(妖術)を行い、国家を傾けようとしている−との密告があった。
そして、どうしたことか、この密告に聖武天皇が“過剰”反応してしまったのだ。なぜ冷静に、時間をかけて真相究明することに考えが及ばなかったのか。不思議だ。天皇は直ちに鈴鹿、不破、愛発(あらち)の三関所を固め、式部卿・藤原宇合、衛門佐(えもんのすけ)・佐味朝臣虫麻呂らを遣わして長屋王の邸を包囲した。そして翌日、舎人親王、新田部親王らを派遣して、長屋王を追及した。これに対し、長屋王はなんら弁明する余地もなく、自刃して果てたのだ。そして、まもなく妻子らも後を追って殉死した。この事件は後に讒言だったことが明らかになり、長屋王の名誉は回復される。しかし、死後では何にもならない。殉死した吉備内親王らはもう戻ってこない。
繰り返すがこの事件、不可解な点が多い。最大の“汚点”は聖武天皇の行動だ。事実だけをつなぎ合わせれば、天皇が根拠のない密告を簡単に信じて、政府首班の要職にあった長屋王を死に追い込んだのだ。天皇自身が、側近の藤原一族にいいようにコントロールされ、藤原一族に都合のいい情報だけを天皇の耳に入れていた結果、チェック機能が働かないまま、こうした悲劇が起こったとの見方もある。あるいは精神的に弱かった、脆かった天皇につけ込んで、藤原一族が謀った極めて巧妙な企みだったともいえる。いずれにしても、こうして藤原一族は、自分たちに堂々と異論を唱えてくる、邪魔な存在の長屋王を葬ったわけだ。そして、吉備内親王は悲劇のヒロインとなった。
ただ長屋王ではなく、この吉備内親王が、「巫蠱(ふこ)の術」(祈祷によって人を殺す呪術)を使って、生後間もなく亡くなった藤原氏の期待の皇子、基皇子を呪い殺したのではないかとの嫌疑がもたれていたのではないか−との憶測もある。こうした術を使えるのは、霊力に富んだ巫女や皇女に限られていたのだが…。
(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、永井路子「美貌の大帝」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」