『悲劇の貴人』

聖徳太子 厩戸皇子=聖徳太子かを疑問視 事績に虚構の疑いも

 聖徳太子といえば、様々な事績を挙げるまでもなく、日本人なら幅広い世代の間で最も認知されている、賢人・貴人の代表格の人物だ。しかし近年の歴史学研究ではこれまで聖徳太子の事績と考えられていたことを否定する文献批判上の検証や、太子の実在を示す『日本書紀』などの歴史資料としての信憑性の低さから、聖徳太子自体を虚構とする説もある。

廐戸皇子が実在したのは確かだが、廐戸皇子=聖徳太子かどうかが疑問視されているのだ。事実、廐戸皇子の事績で確実だといえるのは「十七条憲法」と「冠位十二階」のみだ。随書にも記載されている事柄だが、その随書には、推古天皇のことも廐戸皇子のことも一切記載されていないのだ。『日本書紀』にも廐戸皇子のことは記載されていない。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女、穴穂部間人皇女。太子の生没年は574(敏達天皇3)〜622年(推古天皇30年)。本名は廐戸(うまやど)、別名は豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ、一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「廐戸皇子」の呼称に変更している教科書もある。

 聖徳太子についての記述は日本最古の正史『日本書紀』をはじめ、いまは存在しないが最古の太子伝といわれる『上宮記(じょうぐうき)』、平安中期に完成した『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』、『上宮聖徳法王帝説』、また『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(ほうりゅうじ がらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)』や『四天王寺本願縁起』などにみられる。

 教科書ではこれらの文献をもとに、聖徳太子の人物像や事績を史実として紹介し、誰もがそれを紛れもない事実として受け止めてきた。父・用明天皇、母・穴穂部間人皇女の間に生まれた太子は、生まれるとすぐに言葉を話し、わずか3歳で合掌しながら「南無仏」と唱え、また幼少の頃から10人あるいは20人の声を同時に聞き分けることができたという。まさに超人的な聡明ぶりだ。
蘇我氏と物部氏が皇位継承をめぐり壮絶な戦いを繰り広げていた際も、蘇我氏に勝利の祈願を依頼されていた聖徳太子は、望み通り蘇我氏を勝利に導くことに成功した。弱冠14歳のときのことだ。また、高句麗や百済の知識人に帝王学を学び、天皇中心の中央集権国家が理想だと考えるようになったという。
 593年、19歳のときには、叔母で日本初の女帝、推古天皇の皇太子・摂政となり、内政の改革に努めた。また、607年には小野妹子を第二回遣隋使として隋に派遣し、隋との外交も進めている。飛鳥から、斑鳩の地に構えた新しい宮殿に移ってからは、世界最古の木造建築、法隆寺、四天王寺などの寺院を建立したほか、経典の注釈書『三経義疏』の著述をはじめ数々の歴史書の編纂を行うなど、様々な功績を残した−とされてきた。私生活では4人の妻をめとり、14人の子供をもうけている。そして622年、49歳で生涯を閉じた。

史実として語り継がれるこうした数々の事柄は、果たして事実なのだろうか。確かに、文献の中には過度に脚色されている部分があるが…。例えば聖徳太子は、伝えられる4回にわたって遣隋使を本当に派遣したのか?冠位十二階、十七条憲法は本当に聖徳太子によって制定されたのか?一つ一つ検証していくと、随書との食い違いは多く、謎は深まるばかりなのだ。聖徳太子はいなかったとする方が、無理がなく自然な部分さえあるのだ。また歴史上、廐戸皇子は、推古天皇の摂政として活躍したとされているが、その当時、摂政という官職はなかったとされている。

 もし実在しなかったと考えるなら、どうして「聖徳太子」という人物をつくり上げる必要があったのか?聖徳太子が日本書紀でつくり上げられたものだと仮定すると、責任者として編集に携わっていた藤原不比等の名前がクローズアップされてくる。不比等は日本書紀を編集する際に、自分にとって都合のいいように書き加える必要があったと思われる。

当時はもちろんのこと、後世の評価はどうあれ、藤原氏隆盛の原点ともいえる「大化の改新」を正しいものだと見せる必要がある。中大兄皇子と藤原鎌足の手柄をよく見せるためには、この二人によって滅ぼされた蘇我氏を悪者にしなければいけない。そのため、入鹿に滅ぼされた山背大兄王や、その父の廐戸皇子を聖徳太子としてつくり上げて、善人にしなければならなかったのではないか。
 不比等は藤原一族に次々と襲いかかる不幸なできごとは、蘇我氏の祟りではないかと考えた。そのため、蘇我氏の魂を鎮めなければならず、日本書紀という歴史書で蘇我氏の働きを褒め称え、魂を慰めようとしたわけだ。ところが、そうすると鎌足と中大兄皇子は蘇我氏を滅ぼした悪者になってしまうのだ。そこで、蘇我一族の善人としてシンボル的存在の、架空の人物=聖徳太子をつくり上げる必要があったのだ。これによって、藤原一族のメンツも立ち、蘇我氏の供養もできるのだ。こうして聖徳太子伝説ができあがったというわけだ。

 伝説とは別に、聖徳太子にまつわる説の一つに、聖徳太子=非日本人、具体的にいえばペルシャ人説がある。その根拠として歴史学者、小林惠子氏は聖徳太子が新羅征伐のためにつくらせ、今日まで法隆寺夢殿に伝承されてきた軍旗、四騎獅子狩文錦を挙げている。四騎獅子狩文錦はササン朝ペルシャの流れを汲む文様が最大の特徴で、翼の生えた馬、すなわちペガサスに乗って獅子を倒そうとするペルシャ人らしき騎士の姿が描かれたものだ。また、騎士が被っている冠はササン朝ペルシャの王、ホスロー2世のものと酷似しているばかりでなく、夢殿に安置されている救世観音像の冠の飾りとも同じデザインなのだ。救世観音像は聖徳太子をモデルにしたといわれており、聖徳太子=ペルシャ人説を裏付けている。

さらに小林氏は、聖徳太子は北朝鮮からイラン北部を征服していた遊牧騎馬民族、突厥人であり、しかもその中の英雄、頭達(たるどう)だとしている。突厥については『随書』の突厥伝に詳しく記載されている。有名人物の生死の記録はほとんど例外なく歴史書に残されているにもかかわらず、頭達は599年の戦いの記録を最後にぷっつりと歴史上から姿を消している。

頭達が姿を消したのとほぼ同時期、今度は日本で聖徳太子が登場する。これが頭達説根拠の一つだ。599年に消息を絶った頭達は実は翌年600年に北九州に上陸、北上して播磨(現在の兵庫県)の斑鳩寺に本拠地を置いたという。その証拠に、その際持ち込まれた西突厥製と思われる、いびつな形の地球儀が今でも斑鳩寺に残されている。また、ゴビ砂漠周辺にはカイルガナ(モンゴルひばり)と呼ばれる鳥が棲息しているが、斑鳩という名称もここからつけられたのではないかと推測されている。斑鳩は斑(まだら)の鳩と訳すことができ、実はササン朝ペルシャの女神、アナーヒターの使い鳥も鳩なのだ。

 聖徳太子の死もまた多くの謎に包まれている。621年、母の穴穂部間人皇女が死亡。翌年、聖徳太子が病に伏してしまう。太子を看病していた妃の膳大郎女が疲れから622年先立つとその翌日、聖徳太子も49歳の生涯を閉じ、3人は同じ墓に葬られたのだ。死因については一切解明されていない。恐らく3人とも異常死だったのではないかと推察されるが、研究が待たれるところだ。

(参考資料)黒岩重吾「聖徳太子」、黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」、井沢元彦「逆説の日本史A古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、小林惠子「聖徳太子の正体」、神一行編「飛鳥時代の謎」

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