『悲劇の貴人』

長屋王 政界の重鎮となるが藤原氏によって仕組まれた陰謀の犠牲者に


 現代でも真犯人ではないのに、濡れ衣を着せられる冤罪事件が多く発生している。この長屋王も、そうした犠牲者の一人だったと思われる。長屋王は奈良時代、とくに元正天皇の御代には皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏によって仕組まれた陰謀といわれる「長屋王の変」で、一族とともに悲劇的な最期を遂げた。生没年は684年?(天武天皇13年?)〜729年(神亀6年)。

 奈良文化財研究所の発掘調査で1988年(昭和63年)、奈良時代の貴族邸宅址が大量の木簡(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した。敷地の広さは四町(約6万平方。)で、これは東京ドームの1.34倍にあたるという。その敷地の中に「沓縫」「琴作工」「奈閉(なべ=鍋)作」「腰帯師」といった長屋王家専属の職人たちの屋敷(工房)も建てられていた。

 この発掘調査で重要なことが発覚した。発見された木簡によって、これまで知られていなかった新しい事実が出てきたのだ。長屋王ではなく「長屋親王」と書かれたものや、本来天皇に献上されるべき大贄(おおにえ)が、長屋王のところに届けられていることを示すものもあり、もっと深い意味が隠されているように思われる。本来、天皇の子供ないし兄弟は親王と呼ばれるが、その親王の子供を王といっている。長屋王の場合でいえば、天武天皇の第一皇子に高市(たけち)皇子がおり、高市皇子は親王で、その高市皇子の子が長屋王なのだ。仮に高市皇子が皇位に就いていれば長屋王は長屋親王となる。

しかし歴史的事実としては、高市皇子は天皇となっていない。なのに、何故「長屋親王」なのか?それは端的に言えば、長屋王が朝廷内きっての実力者で、客観的に見て長屋王が皇位を望み得る地位にあったからではないか。長屋王は719年に従二位、右大臣に任ぜられ、政権首班となり、724年(神亀1年)に左大臣になり、最右翼の実力者になっている。

これに対し、それまで朝廷内を牛耳ってきた藤原氏の総帥、藤原不比等が720年(養老4年)に亡くなっているのだ。長屋王が皇位に就きたいという意思をもっていたかどうかは別にして、長屋王に皇位が回るようなことがあってはならないと考える勢力=藤原氏・不比等の息子、四兄弟(武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂)が危機感を募らせたことが、長屋王にとっての悲劇の始まりだったわけだ。

 現実にその伏線はあった。長屋王の変が起こる2年前のことだ。聖武天皇に初めての皇子が誕生した。母は藤原不比等の娘の光明子(後の光明皇后)だった。藤原一族は大喜びで、誕生後わずか1カ月でこの皇子を皇太子としている。このままこの皇太子が成長していれば長屋王の悲劇は起こらなかっただろう。この皇子が翌年死んでしまったことで、すべての歯車が狂いだしたといっていい。しかも、藤原一族にとって間の悪いことに、聖武天皇のもう一人の夫人である県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が皇子(安積(あさか)親王)を産んだのだ。当然、藤原一族は焦り出した。このままでは、藤原の血をひかない天皇が即位することになる−と考えたのだ。

 そこで、藤原一族は一つの方法を考え出した。光明子を皇后にしようというものだ。皇后にしておけば、いざというときには、中継ぎの天皇として即位させ、藤原系の皇子の誕生を待てばいい−という論理だ。これは、それまでのルールを根底から覆す提起だった。ほかの廷臣たちは、藤原一族に恐れをなして異論を唱えないだろうが、長屋王だけは反対するであろうことは予想された。
というのは、以前にも藤原氏の専横に長屋王がストップをかけた経緯があったからだ。それは、724年に聖武天皇が即位したとき、その母宮子に「大夫人」の尊称を与えようとしたところ、長屋王が「公式令(くしきりょう)」の規定に違反する−と指摘したことを指している。

 藤原氏にとって、長屋王は皇位継承の候補というだけでなく、次第に邪魔な存在となっていった。長屋王に“不穏分子”というレッテルを張る企ては、この光明子を皇后にするというもくろみと同時進行の形で進んでいったものと考えられる。729年(天平1年)、恐らく藤原氏の意を受けて動いたと思われるが、塗部造君足と中臣宮処連東人が、長屋王が左道(呪詛)を行い、国家を傾けようとしている−と讒言してきた。

その夜、聖武天皇は藤原宇合に長屋王の逮捕を命じ、宇合は六衛府の兵を率いて長屋王の屋敷を囲んだ。長屋王は全く抵抗せず、翌日、妃の吉備内親王や王子とともに自害してしまった。あっという間の早業だった。こうして藤原氏の恐るべき陰謀がまかり通った。だが、「続日本紀」は長屋王が無実の罪だったことを明記している。

 長屋王は皇族政治家で、正二位左大臣。天武天皇の孫。父は高市皇子。母は天智天皇女(むすめ)御名部皇女。御名部皇女は元明天皇の同母姉だ。妃は草壁皇子女、吉備内親王、夫人に藤原不比等女がいた。長屋王は文雅を好み、自邸「作宝(さほ)楼」に文人を集め、しばしば詩会を開いた。「懐風藻」に詩三篇、「万葉集」に和歌五首が残っている。

(参考資料)豊田有恒「長屋王横死事件」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、
永井路子「美貌の大帝」、永井路子「悪霊列伝」、杉本苑子「穢土荘厳」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」
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