『悲劇の貴人』

徳川家重 障害抱え廃嫡されかけたが、「長子相続」に救われた将軍

 徳川家重は生来、虚弱体質のうえ脳性マヒを患っていたと伝えられている。そうした障害があったため言語が不明瞭で、彼の言葉を理解できるのは、ごく一部の限られた側近だけだったという。そんなコンプレックスからか、彼は幼少から大奥に籠もり勝ちで、酒色に耽って健康を害した。こんな家重とは対照的に、次弟の宗武は文武に長けていたことから、家重は将軍後継には不適格とみられた。事実、一時は廃嫡されかけたこともあった。しかし、徳川の御法「長子相続」に救われ、第九代将軍に就いた。しかし、そのことが彼にとってよかったのかどうか。家重の生没年は1712(正徳元)〜1761年(宝暦11年)。

 徳川家重は御三家紀州藩の第五代藩主・吉宗(後の徳川第八代将軍)の長男として赤坂の紀州藩邸で生まれた。母は大久保忠直の娘(お須磨の方・深徳院)。幼名は長福丸(ながとみまる)。父吉宗に正室との間に子がいなかったため、当然のように世子と目された。弟に宗武、宗尹(むねただ)がいた。

 家重は、父吉宗が第八代将軍に就任すると同時に江戸城に入り、1725年(享保10年)に元服する。ところが、家重には決定的な弱味があった。彼は生来、虚弱なうえ脳性マヒを患っていたといわれる。そんな障害のため言語が不明瞭で、ほとんどの人間には彼の言葉は理解できなかった。そこで、彼は大奥に籠もり勝ちで、酒色に耽って健康を害することも少なくなかった。また、彼は猿楽(能)や将棋を好み、文武を怠った。それにひきかえ、次弟の宗武は文武に長け、兄との違いを見せ付けた。家重の言葉を唯一理解できたのは側用人・大岡忠光だ。大岡忠光は越前守・大岡忠相の親戚だったという。

 こうした兄弟の姿を眼の辺りにして、当然のことながら周囲は家重を将軍後継者として不適格と見る向きが多かった。そのため、父吉宗や幕閣を散々、悩ませたとされている。事実、一時は老中、松平乗邑(のりむら)によって廃嫡されかけたこともあったのだ。しかし、彼はまさに徳川の御法に救われた。「長子相続」だ。

徳川幕府の初期、第二代将軍秀忠の在任時、将軍後継に兄・竹千代(後の第三代家光)と弟・国松(後の大納言忠長)がライバルとして比されたことがあった。当時も、素直で聡明さをみせた弟の国松を推す声が、幕閣の中でも優勢だったことがあった。このとき、大御所・徳川家康が天下泰平の時代に入り、これからは「長幼の順」が基本だと明言、将軍後継に兄の竹千代を指名したのだ。これが以後、徳川の御法となった。

家重は1731年(享保16年)、伏見宮邦永親王の娘、比宮(なみのみや)増子を正室に迎えた。家重は21歳、比宮増子は17歳だった。増子は利口な女だった。家重の言語不明瞭を承知で嫁にきただけあって、初めから覚悟が違っていた。彼女が自分以外に家重の言葉を理解してやれる女性はいないのだと思ったとき、彼女はすでに家重の言葉を半ば理解していた。結婚後半年経つともう分からないことは何一つなかった。家重にとって大変な収穫だった。だが、京都から迎えた嫁は健康に恵まれなかった。そして、不幸なことに江戸に来て3年目の1733年(享保18年)、増子は亡くなった。

 吉宗は才気煥発の弟、宗武や宗尹よりも、欠点だらけの家重を不憫にも思い、弟たちよりはるかに愛したようだ。1745年(延享2年)、吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第九代将軍に就任した。しかし、1751年(宝暦元年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。長子相続の御法は守りつつも、吉宗はじめ幕閣が家重だけに権限が全面移譲されることに不安を覚えた結果だ。家重が将軍後継に推された理由は既述の通り、長子相続によるのだが、いま一つ指摘されている点がある。それは、家重の長男、家治(後の第十代将軍)が非常に利発だったことがある。

 ところで、将軍職に就いた家重の、“家重排除派”に対する恨みは相当深かったようだ。老中・松平乗邑は罷免、弟の徳川宗武も3年間登城停止処分としたことが、如実にそのことを物語っている。
 1760年、家重は亡くなるが、跡継ぎの家治に父として「田沼意次の能力は高いからぜひ使いなさい」と普通に遺言もしている。田沼意次の人物評については「良・悪」分かれるところだが、脳性マヒを患っていたと伝えられる割には、きちんとした観察眼を持っていたのかも知れない。

(参考資料)新田次郎「口」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、津本陽「春風無刀流」、大石慎三郎「吉宗とその時代」

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