戦後シベリア抑留からの最初の引き揚げ船が京都府舞鶴港に入港した日にちなんだ、10月7日の「舞鶴引き上げの日」を知ってもらおうと、舞鶴市で特別展が開かれている。会場の舞鶴市役所では、抑留と引き揚げの歴史が写真や絵を交えたパネルで紹介され、雪の降り積もった極寒のシベリアで、日本人が重い丸太をひく様子や、配給の食料を囲む様子などが披露されている。また、日本に戻ってきた人たちが船から降りる際に使った桟橋の模型も、当時撮影された写真とともに展示されている。この特別展は10月7日まで開かれている。舞鶴市は昨年、シベリア抑留と引き揚げの歴史を次の世代に継承しようと、条例で10月7日を「舞鶴引き揚げの日」と制定した。
「川中島の戦い」巡る上杉謙信の新たな書状、新潟で発見
戦国武将、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が戦った「川中島の戦い」に関する新たな書状が、このほど新潟で見つかった。専門家の鑑定で、この書状は花押などから原本と確認された。これにより、通説で5回の合戦が繰り広げられた、信濃の領土を巡る川中島の戦いは、その後も合戦があったことがうかがえる貴重な記録だ。 見つかった書状は戦国時代の永禄年間(1558~1570年)に、上杉謙信が自分の領土だと考えていた、現在の長野県北部、北信濃の7人の武将に宛てたもの。新潟大学名誉教授で郷土史に詳しい冨澤信明さんが、およそ15年前に骨董品を扱う関係者から購入し、保管したままになっていた。書状の文面には「皆々在陣あり、堅固の仕置専一に候」(みんな陣所のそれぞれの持ち場でしっかり守るように)と指示した内容が記されている。
「むかわ竜」は新種恐竜、学名「カムイサウルス・ジャポニクス」に
エチオピアで380万年前の猿人の頭蓋骨ほぼ完全な形で見つかる
奈良・桜井茶臼山古墳から出土の木棺 初公開
奈良県橿原考古学研究所で8月21日から、古代ヤマト王権を率いた王の墓ではないかという説がある桜井市の桜井茶臼山古墳から見つかった木製の棺(ひつぎ)が、初めて一般に公開されている。公開は平日、10月末まで。この木棺は70年前、同古墳の石室から見つかり、4年前から腐食を防ぐため保存処理が施されていた。木棺のサイズは長さ4.9m、幅75cm。高野槇(こうやまき)という針葉樹の丸太を削ってつくられたもので、両側の損傷は激しいものの、中心部分の保存状態は比較的よく、説明パネルには大量の銅鏡の破片も一緒に見つかったことや、合成樹脂を使って保存処理したことなどを写真付きで紹介している。桜井茶臼山古墳は、古墳時代前期に築造されたとみられる全長200mの前方後円墳で、国の史跡に指定されている。
秀次の息子を「要職に」秀吉の新たな書状見つかる
東京大学史料編纂所によると、豊臣秀吉が、養子の秀次が切腹する3カ月ほど前に、その息子を要職に就かせると発言していたことを示す書状が新たに見つかった。これは文禄4(1595)年、秀吉の側近、木下吉隆が毛利輝元に送った書状の中に、豊臣秀次の息子を大和(いまの奈良県)の国主にするという秀吉の発言が記されていたことで分かったもの。秀吉と秀次は、この2年前に秀吉の実子、秀頼が生まれたことをきっかけに、不仲になったというのが通説。実際にこの書状が書かれた3カ月ほど後に、秀次は謹慎、切腹させられ、妻子も処刑された。しかし、今回の見つかった書状により、両者の冷えた関係は秀頼の出生直後からのものではなく、同編纂所では「豊臣家に人がいなくなってしまうと、滅亡につながってしまうと考え、秀吉は簡単に秀次一家を潰そうつはしていなかったのではないか」とし、この書状はかなり重要な、意味のある発見だと指摘している。