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中国に「尖閣は日本領」認識の地図集 71年以前

日本政府の「領土・主権展示館」(所在地:東京・霞が関、以下、領土館)や、中国の政府機関が1971年以前に発行した公式地図や機関紙などによると、中国は尖閣諸島(所在地:沖縄県石垣市)は1971年以前は、日本領だと認識していたことが分かった。
なぜ、中国がその後、突然尖閣は中国の領土だと主張し出したのかといえば、1960年代後半に東シナ海に石油資源が大量に埋蔵されている可能性が指摘されたためだ。これを機に中国の認識が一変。石油資源の確保を巡り、尖閣に対し領有権を初めて公式に主張し出した。1971年12月のことだ。
中国の、日本でいう国土地理院にあたる中国の「国家測絵総局」(当時)直属の地図出版社が発刊した「世界地図集」をみると、明確になる。地図集の1960年版では、尖閣は日本の地図を示すページに記載されていた。ところが、1972年版になると日本のページから削除され、中国のページに追加されている。また、1960年版は尖閣の「魚釣島」をその名称のまま表しているが、手のひらを返したように1972年版になると中国政府が現在使っている「釣魚島」に変更しているのだ。
領土館はいま既述した、中国側の資料を含めた、こうした実態を詳細に理解できる資料の展示を行っている。

滋賀・長浜市で和楽器の弦用絹糸「繭の糸取り」最盛期

滋賀県長浜市木之本町・大音地区で三味線や琴など和楽器の弦に使われる絹糸を繭から紡ぎ出す伝統的な”糸取り”作業が最盛期を迎えている。
糸取りは毎年、蚕が繭をつくる6月下旬から7月上旬までの3週間ほどの作業。工房では、まず90℃ほどの熱湯に繭を浮かべ、ホウキのような道具で繭球をほぐした後、湯気が上がる中、細い糸を絡め取り、35本程度を束にして拠り合せる。そして、これを電動式の糸繰り機で巻き取ると絹糸ができ上がる。
戦前70軒前後を数えたこうした工房は、化合繊系の弦の大量流通により、現在では1軒しか残っていない。
作業は7月10日ごろまで行われ、地元の和楽器に使う弦の製造会社に出荷される。

京都・高台寺で七夕飾りのライトアップ始まる

七夕を前に7月3日夜、京都・東山区の高台寺で七夕飾りのライトアップが始まった。豊臣秀吉の糟糠の妻ねねゆかりの高台寺では毎年この時期、七夕飾りを参道に設置し、地元の子どもたちが願い事を書きとめた短冊の飾り付けを行っている。今年もライトアップされ、親子連れなどが見守る中、色とりどりの短冊や笹の葉を幻想的に映し出していた。

縄文時代の人骨にサメに咬まれた痕 世界最古

京都大学の研究グループは、岡山県笠岡市の縄文時代の遺跡、津雲貝塚でおよそ100年前に発掘され、京都大学が保管してきた人の骨にサメに咬まれた痕が残されていたことが分かったと発表した。
骨はおよそ3,000年前の縄文時代の中年の男性のものとみられ、右足や左手など以外はほぼ残されていて、全身のおよそ800カ所に傷があることが確認された。傷は引っかいたように平行に残されていたうえ、いずれもV字型の溝のようになるなど、サメが咬んだ痕と特徴が一致したという。
サメに襲われた痕がある人の骨としてはプエルトリコで見つかった、およそ1,000年前の人骨がこれまで最古とされてきたが、今回の発見でこの記録をさらに2,000年ほど遡ることになる。襲ったのは体長4m以上の大型のサメと推定され、当時の日本周辺の海の環境からホオジロザメやイタチザメと考えられるという。

岸和田だんじり祭 今年は無観客で一部地区が実施へ

大阪府岸和田市のだんじり祭が、今年は一部の地区で実施されることになった。昨年は新型コロナの影響で中止された。
だんじり祭は、岸和田市内で毎年8月から9月にかけて8つの地区でそれぞれ行われている。大勢は今年も中止もやむなしだったが、このうちの一つの地区が「2年連続で中止すれば祭りの伝統の継承に支障をきたす」として、今年は実施することを決めた。
ただ、地区外から人を呼ばず、無観客で実施。祭り前後の会食を禁止するなど新型コロナウイルスの感染防止を徹底するとしている。
だんじり祭は、五穀豊穣を願って江戸時代から300年以上にわたり続く伝統の祭りで、力強い掛け声とともに、勇壮にだんじりをひく”やりまわし”で知られる。

平城宮跡に大型建物遺構 天皇別邸の可能性

奈良文化財研究所は6月30日、奈良市の平城宮跡・東院地区で、8世紀半ば~後半の大型建物跡を確認したと発表した。大きさは同地区で最大級の東西約27m、南北約12m。内裏正殿(東西約27m、南北約15m)に匹敵する規模で、天皇の別邸だった可能性が高いとしている。また、時期的には孝謙天皇の即位後、母の光明皇太后が藤原仲麻呂を長官に据えて設置した政治・軍事組織「紫微中台(しびちゅうだい)」とも考えられる。
約1~1.8m四方の柱穴50基が約3m間隔で格子状に並ぶ遺構を確認。同地区の中軸線上にあり、宮殿の中心的建物と考えられる。出土している土器などから推定年代は749~770年で孝謙、淳仁、称徳(孝謙の再即位)の各天皇の時代にあたる。