東京大学史料編纂所によると、豊臣秀吉が、養子の秀次が切腹する3カ月ほど前に、その息子を要職に就かせると発言していたことを示す書状が新たに見つかった。これは文禄4(1595)年、秀吉の側近、木下吉隆が毛利輝元に送った書状の中に、豊臣秀次の息子を大和(いまの奈良県)の国主にするという秀吉の発言が記されていたことで分かったもの。秀吉と秀次は、この2年前に秀吉の実子、秀頼が生まれたことをきっかけに、不仲になったというのが通説。実際にこの書状が書かれた3カ月ほど後に、秀次は謹慎、切腹させられ、妻子も処刑された。しかし、今回の見つかった書状により、両者の冷えた関係は秀頼の出生直後からのものではなく、同編纂所では「豊臣家に人がいなくなってしまうと、滅亡につながってしまうと考え、秀吉は簡単に秀次一家を潰そうつはしていなかったのではないか」とし、この書状はかなり重要な、意味のある発見だと指摘している。
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持統天皇の生涯を漫画作品で紹介 明日香村で展覧会
奈良県明日香村の県立万葉文化館で、飛鳥時代の女性天皇、持統天皇の生涯を、里中満智子さんの作品に沿って紹介する展覧会が開かれている。9月23日まで。このうち古代日本最大の内乱「壬申(じんしん)の乱」(672年)の後、勝利した夫の大海人皇子(後の天武天皇)の即位および親政を経て、天武天皇の死後、皇后が持統天皇として即位するまでの期間を描いた漫画の原稿およそ160点あり、パネルなども添えて詳しく紹介されている。また、里中さんの作品の構想のもととなった日本書紀など考古学資料も一緒に展示されていて、作品への理解や実際の歴史を楽しく学ぶのに役立っている。壬申の乱は天智天皇崩御後、その皇太子、大友皇子と天智天皇の弟がその覇権を争い、いわば反乱者が勝利した稀有な例。それだけにその後、日本の律令政治の基礎をつくっていった天武~持統天皇の足跡を詳しく、そして分かりやすく紹介している。
昭和天皇「国民が退位希望するなら躊躇せぬ」拝謁記で心情明らかに
民間出身の初代宮内庁長官、田島道治(たじまみちじ)氏が、昭和天皇との対話を克明に記した「拝謁記」から、敗戦後~東京裁判後の当時の天皇の、揺れ動く心情が明らかになった。そして、この中で天皇が「国民が退位を希望するなら、少しも躊躇せぬ」と語るなどこの間、退位の可能性にたびたび言及していたことが分かった。 分析にあたった専門家は「皇室が本当に国民に認められるかどうかがすごく気になっていて、存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘している。昭和天皇の退位をめぐる問題は、これまでの研究で昭和23年の東京裁判の判決に際し、昭和天皇が連合国軍最高司令官マッカーサーに手紙を送り、退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えたことで、決着したとされてきた。しかし、現実には皇室の今後を見据え、退位をも辞さない覚悟を含めた葛藤があった。田島道治氏は戦後制定された日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり宮内庁や宮内府のトップを務めた。在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していた。
「二・二六事件」推移克明に記録した海軍極秘文書見つかる
陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」(1936年2月26日発生)について、暴徒として鎮圧されるまでの4日間の事件の推移を分単位で克明に記録した海軍の極秘文書が見つかった。陸軍のではなく、海軍のこうした文書が存在したこと自体が驚きだ。そして、この事件の際、これまで断固鎮圧の姿勢を貫いたとされていた昭和天皇の、揺れ動く思いのさまが垣間見える記録だ。この中で昭和天皇は、海軍の作戦を統括する軍令部のトップ、皇族将校の伏見宮・軍令部総長とのやり取りで、①海軍の青年士官がこの企てに合流することはないか②事件鎮圧に出動する海軍の陸上部隊の指揮官は、部下を十分掌握できる人物を選任せよ-などと、事件の拡大を懸念する発言をしていたことが記録されていて、専門家は当時の天皇と軍の関係を知るうえで、極めて貴重な資料と指摘している。この事件の後、日本軍部は戦争への道をまっしぐらに進み、わずか5年後の1941年に太平洋戦争勃発、そして1945年の敗戦へと突き進む。
古都の夜空に浮かぶ火文字・形 京都五山送り火
京都のお盆の伝統行事「京都五山送り火」が8月16日、行われた。今年は台風10号の影響で、本来の前日からの準備ができず、この日朝5時ごろからの作業に追われたという。それでも午後8時には予定通り、まず京都市左京区の大文字山の火床に一斉に火が灯され、山の斜面に大きな「大」の文字が浮かび上がった。続いて、京都の街を囲む5つの山々に「妙法(みょうほう)」、「船形(ふながた)」、「左大文字(ひだりだいもんじ)」、「鳥居形(とりいがた)」の順で、ほぼ5分おきに点火された。すると、炎で描かれた文字と形が、古都の夜空に浮かび上がった。市内中心部のビルの屋上をはじめ、市内各所で見物客がそれぞれの思いを胸に、この幻想的な風景に見入っていた。京都五山送り火は、お盆に迎えた先祖の霊を送る京都の伝統行事。
滋賀・長浜城跡で石垣発見、石材の技法から築城は豊臣期
滋賀県長浜市は8月14日、長浜城跡(所在地:同市公園町)の試掘調査で石垣の一部が見つかったと発表した。石材の形状などから豊臣期(1574~1590年)に造られた可能性があるという。石垣は、大きさが不揃いの石材8個が連なった長さ4.5mで、深さ1.4mの地中から見つかった。1600年以降の徳川期の城郭にみられる、くさびを用いて石材を割る「矢穴技法」が使われておらず、同市は豊臣期の石垣と考えられるとしている。長浜城は羽柴(豊臣)秀吉が築いたことで知られているが、その後、家臣の山内一豊ら城主が4人交代。大坂夏の陣(1615年)で豊臣氏滅亡後、徳川政権が安定した後、廃城となり、資材は彦根城の築城に再利用されたと伝えられており、この時代の遺構はこれまではっきりと確認されていなかった。