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小林多喜二の獄死前後の様子記した書簡見つかる

小林多喜二の獄死前後の様子記した書簡見つかる

「蟹工船」「不在地主」などの作品で知られるプロレタリア作家、小林多喜二が1933年に築地署(東京都)で獄死する前後の様子を、同時期に収監されていた生物学者、石井友幸(1903~72年)が記した書簡が見つかった。拷問で口を利くことができなくなっていたことや、死亡後に人工呼吸が施されたとみられると書かれている。

書簡は、石井が多喜二と交流のあった小説家、江口渙(かん)に宛てた計3通で、400字詰めの原稿用紙計5枚とはがき1枚。1962~67年に、やり取りがあったとされる。文学館によると、多喜二の死の前後については、遺言をしていたり、監房で死亡していたりと諸説ある。書簡は栃木県にある江口の旧宅を調査していた郷土の歴史研究会が発見した。多喜二は1903年に秋田県で生まれ、4歳で小樽市に移住した。銀行に就職後、「蟹工船」などを発表。特高警察の拷問を受けて死亡した。

神戸で出土の「桜ヶ丘12号」と茨木出土の銅鐸の鋳型一致

神戸で出土の「桜ヶ丘12号」と茨木出土の銅鐸の鋳型一致

神戸市立博物館によると、1964年に神戸市で見つかった「桜ヶ丘12号銅鐸」(弥生時代中期、国宝)と、茨木市の東奈良遺跡で出土した「第1号流水文銅鐸鋳型」(重要文化財)の大きさや形状がほぼ一致することが分かった。12号銅鐸は青銅器づくりの一大拠点とされる東奈良遺跡で制作された可能性があり、銅鐸の流通を解明する手掛かりとして注目される。

12号鐸は高さ31㌢、重さ約2.6㌔。鋳型に彫られた銅鐸の型は高さ約31~32㌢とほぼ同じで、本体の曲線部分なども一致した。しかし本体と鋳型の模様は異なっており、この鋳型から12号鐸がつくられた可能性は低い。この点、鋳型を作る際、大きさや形にある程度の規格があり、模様だけ変えていたのではないか–と同博物館ではみている。

明日香村・西方遺跡で飛鳥時代の建物跡 近江京陣営か

明日香村・西方遺跡で飛鳥時代の建物跡 近江京陣営か

奈良県明日香村教育委員会は2月5日、飛鳥寺西方遺跡(明日香村)で、飛鳥時代の建物跡が見つかったと発表した。簡易な構造から仮設の建物だったとみられ、日本書紀に記述がある「壬申の乱」(672年)の陣営だった可能性もあるという。今回見つかったのは、国内最古の本格的寺院・飛鳥寺の約80㍍西側で建物跡2棟分の柱穴。南北の幅は2棟とも4.8㍍、東西に延びる長辺は16.7㍍と17.5㍍。2棟は約6㍍離れて東西に並んで配置されていた。

飛鳥寺西方遺跡は、大化の改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻(つき)の木の広場」と考えられており、この広場は日本書紀に度々登場。古代の最大の内乱、壬申の乱の際、近江京・大友皇子側の陣営が置かれたと記され、天皇が蝦夷や隼人ら当時の辺境の人々を招いた際に供宴を催したという記述もある。ただ、総合的に考えると壬申の乱の陣営の一部と変える方が合理的という。現地説明会は2月8日午前10時~午後3時。少雨決行。

大阪・難波宮跡近くで「五十戸」を記した木簡出土

大阪・難波宮跡近くで「五十戸」を記した木簡出土

大阪博物館協会大阪文化財研究所は2月3日、大阪市の難波宮跡近くで地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土したと発表した。「日本書紀」には難波宮に遷都した孝徳天皇が646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。木簡は長さ15.5㌢、幅3.4㌢。「玉作五十戸俵」と記されていた。玉作という地名は陸奥(青森など)や土佐などにあり、地方から五十戸単位で税として米を収めた際の荷物とみられている。五十戸と記した史料はこれまで天智天皇の時代の660年代のものが最古で、孝徳天皇の時代に遡る可能性があり、同研究所ではこのころ「五十戸」があった証拠になるかも知れない-としている

高山右近没後400年 2000人が参加し神戸でミサ

高山右近没後400年  2000人が参加し神戸でミサ

江戸時代に幕府の禁教令で国外追放され、1615年フィリピン・マニラで死亡した、敬虔なキリシタン大名として名を残した高山右近の没後400年を記念し、日本カトリック司教協議会が2月3日神戸市でミサを開いた。同協議会は大名の地位を捨て、信仰に命を捧げた殉教者として右近をカトリックで「聖人」に次ぐ「福音」に設定するよう、ローマ法王庁(バチカン)に申請している。ミサには2000人が参加した。

「琳派」誕生400年祝う 1年かけ展覧会など開催

「琳派」誕生400年祝う 1年かけ展覧会など開催

美術や工芸など幅広い分野に影響を与えた「琳派(りんぱ)」の誕生400年を祝う記念祭の開幕記念フォーラムが1月31日、京都市下京区の京都劇場で開かれた。記念祭は琳派の祖とされる本阿弥光悦が徳川家康から、洛北の鷹峯(たかがみね)に土地を与えられた1615年を誕生年と定め、これから約1年かけて展覧会や講演会などを開催する。フォーラムは絵師・俵屋宗達の「風神雷神屏風図」をイメージした尺八、和太鼓、箏(こと)の演奏で幕開け。山下裕二・明治学院大教授らが影響を受けた現代の美術作品やデザインを解説し、金剛流若宗家の金剛龍謹(たつのり)さんが能「山姥(やまんば)」を上演した。