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勝海舟・・・ 「党派をつくるな、子分をもつな」

 勝海舟が遺した言葉には様々な名言があるが、これは『氷川清話』に出てくる言葉だ。
その件(くだり)を引用すると

「なんでも人間は子分のない方がいいのだ。見なさい。西郷も子分のために骨を秋風にさらしたではないか。おれの目でみると、大隈も板垣も始終自分の定見をやり通すことができないで、子分にかつぎ上げられて、ほとんど身動きもできないではないか。およそ天下に子分のないのは、おそらくこの勝安芳一人だろうよ。それだから、おれは、起きようが寝ようが、しゃべろうが、黙ろうが、自由自在、気随気ままだよ」

人を食ったような、皮肉たっぷりな口ぶりで語っている。
確かに、勝海舟は徒党を組んで事を運ぶということはなかった。幕末~明治維新の大きな節目の一つとなった江戸城の“無血開城”にしても、幕府軍すべての実権を掌握、軍事取り扱いに昇進した海舟が、西郷隆盛との会談でまとめあげたものだ。

当時は慶応4年(明治元年、1868)鳥羽伏見の戦いに幕軍を撃破し、勢いに乗る官軍が江戸城総攻撃を叫んでいたわけで、西郷に対する相手が海舟だったからこそできたことといわざるを得ない。
 とはいっても海舟は幕臣であり、生涯“一匹狼”的に行動したわけではない。海舟のもとに様々な人が群がり集まった時期もあった。万延元年(1860)正月、海舟は軍艦咸臨丸の艦長として太平洋を横断、米国へ渡った。帰国後海舟は14代将軍家茂の信任を得て軍艦奉行並、従五位下安房守となり、神戸海軍操練所を建設。

こんな幕府海軍きっての高官で、当代随一の海外新知識の持ち主である海舟のもとに勤皇・佐幕を問わず様々な人材が集まった。坂本龍馬、吉村寅太郎、桂小五郎(木戸孝允)などで、中には“人斬り以蔵”の異名で恐れられた土佐の岡田以蔵までやってきて、結局は海舟に説かれて心服し、彼の身辺警護を務めるという時期もあったほど。

しかし、海舟は彼らと“党派”を組むこともなければ、誰かを“子分”にすることもなかった。大胆かつ沈着冷静な進言により、抜擢・登用と失脚を繰り返した幕臣、海舟。彼は最終的に「西南戦争」で散った盟友、西郷に対し、「西郷も、もしあの弟子がなかったら、あんなことはあるまいに、おれなどは弟子がないから、このとおり今まで生きのびて華族様になっておるのだが、もしこれでも、西郷のように弟子が多勢あったら、独りでよい顔もしておられないから、何とかしてやったであろう」と人間の弱さを認めつつ、「なんでも人間は子分のない方がいいのだ」と子分を持つことを戒めている。

(参考資料)「氷川清話」(勝海舟 勝部真長編)、「男 この言葉」(神坂次郎)
      「江戸開城」(海音寺潮五郎)、童門冬二「小説 海舟独言」

河村瑞賢・・・「なすところはみな夢幻にして、実相を悟るべし」

 これは河村瑞賢が晩年、その著書『農家訓』の中で語っている言葉の一節だ。長いので中略して主旨部分を記すと「夢幻の身を以って夢幻の身を養い、夢幻の身を育て夢幻の身を厭い、なすところはみな夢幻にして、不思議(思考を超えた)の法門に入り、すなわち実相(真理)を悟るべし。(略)すみやかによろしく有縁(仏法に縁のある)の教法によって、未来の解脱(現世の苦しみから解放され絶対自由の境地に入る)を得るべし」だ。

 徳川・元禄時代、天下有数の政商となり、旗本にまでのし上がった瑞賢にしては、ずいぶん気弱な無常観に満ちた言葉だ。これが功成り名遂げた人間がたどりついた、枯れた境地なのか。
 瑞賢は元和4年(1618)伊勢国度会郡東宮村の貧しい農夫太兵衛の長男に生まれた。通称を十(重)右衛門。生活の道を求めて13歳で江戸へ。だが、江戸での車力(車曳き)暮らしに絶望した彼は、やがて都落ちする。その失意の道中の小田原宿で、彼は旅の老僧に諭され、再び江戸へ引き返して行く。そして品川の海岸まで来たとき、折から盂蘭盆過ぎで浜辺には仏前に供えた、おびただしい量の胡瓜や茄子が打ちあげられていた。「これだ」と感じた彼は、乞食たちに銭をやり、それを拾い集めさせ漬物にして売り出し、大もうけした。一般によく知られている瑞賢の出世譚の一つだ。 

こうして稼いだカネを資金に、大八車を買い求め車曳きたちを集め車力業の第一歩を踏み出した。大江戸開発ブームの花形である車両運送の親方になった十右衛門は、稼ぎ集めたカネを投入して材木商となり、さらに普請と作事、つまり土木と建築の請負業へと転進する。 

 そして明暦3年(1657)江戸城をはじめ江戸市街の大部分を焼き尽くした未曾有の大火が起こる。「いまだっ」と感じた瑞賢は手元にあった10両を懐中にして木曾へ走った。江戸大火の風評も届かぬ先に木曾にたどりついた彼は、山林王といわれる屋敷の門に駆けつけ、庭先で遊んでいたその家の子供を見ると、懐から小判3枚を取り出し、小柄で穴を開けこよりを通してガラガラ玩具をこしらえて与えた。

子供がもらった小判の玩具に驚いた主人は、瑞賢をよほどの分限者(富豪)と思い、後からカネを持ってくる番頭を待っているという瑞賢を信用し、持ち山すべての材木を売り渡す証文に印を捺した。そして、瑞賢が雇った人夫たちが伐り出してきた材木に「河村」の刻印を打っているころ、ようやく江戸の材木商たちが木曾材の買い付けになだれ込んできた。

 が、もう遅い。彼らは瑞賢から彼の言い値で高価な材木を買うしかなかった。材木商たちに売却した代金で山林王への支払いを済ませ、残りの大量の材木を江戸に運んだ瑞賢は、他の材木商よりはるかに安い材木を売り出し、すべて売り尽くして巨利を博したという。抜群の知恵者、瑞賢の一端を示すエピソードの一つだ。

 ディベロッパーとしての瑞賢の偉大さも見落とせない。彼は「幕府御用」の金看板のもとに海運界の地方分権(諸国大名領)を解体し、幕府のお声がかりの事業として奥州(福島、宮城、岩手、青森)からの東廻りの航路、そして近世海運史上画期的ともいう出羽(山形)からの西廻り航路を開発したのだ。この航路の出現によって、江戸、大阪はもとより諸国の都市に飛躍的な繁栄をもたらした。

(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」、神坂次郎「男 この言葉」

                             

黒田官兵衛・・・ 「分別過ぐれば大事の合戦はなし難し」

 これは、黒田官兵衛が臨終の床で紫の袱(ふくさ)に包んだ草履片方、木履片方と溜塗の面桶(弁当箱)を形見として嫡子長政に与え、語った言葉の一部だ。全体を記すと、「軍(いくさ)は死生の界なれば、分別過ぐれば大事の合戦はなし難し」だ。戦さは生きるか死ぬかの大ばくちゆえ、思慮が過ぎては大事の合戦はできぬ。時によっては草履と木履を片々にはいても駆け出す心構えがなくてはならぬ。また、食物がなければ何事もできぬものなり。ゆえに金銀を使わず、兵糧を貯え、一旦緩急の軍陣の用意を心がけておけ-そう語ったという。

 黒田官兵衛(孝高・号して如水、1546~1604)。幼名を万吉といい、播磨国(兵庫県)御著(ごちゃく)城の主、小寺政職の猶子(養子)、美濃守職隆の子。黒田家の出自は、戦国大名の多くがそうであるように、はっきりしたものではないが、近江国伊香郡黒田だといわれている。黒田氏が近江から備前国福岡に転じたのは永正のころで、戦乱を逃れてさらにそこから播磨の御著に移り住んだ。この地で黒田家は家伝の目薬「玲珠膏」を商い、小地主になった。官兵衛の父のころになると、近隣に鳴り響くほどの大地主にのし上がり、黒田家の郎党、下男は200人にも及んだという。こうして彼は小寺官兵衛の名で歴史の舞台に登場する。

 中国攻めの軍を率いて播磨に下向した当時の羽柴秀吉を姫路城に迎えた官兵衛は、秀吉に三つの策を献じている。いずれも卓越した策だった。この智謀に舌を巻いた秀吉は官兵衛と誓書を交わし、兄弟の約を結んだといわれる。以来、官兵衛は秀吉の参謀の竹中半兵衛とともに、帷幄(本陣)の謀臣として数々の卓絶した作戦を展開した。

中でも京都・本能寺の変に接したときの官兵衛の策は見事だった。ただ、少しやりすぎた。本能寺の変の飛報を受けて秀吉が呆然としているのを見て、官兵衛は微笑を浮かべて「ご運の開かせ給うべき時が来たのでござりまする。この機を逃さず、巧くおやりなされ」と囁いた。秀吉は自分の心中の機微を苦もなく見抜いた官兵衛の鋭さに驚き、以後、警戒し心を許さなくなったという。

秀吉が官兵衛ほどの天下第一流の参謀に生涯、豊前中津で12万2000石の小禄しか与えなかったのは、このことがあったからとだといわれる。後に官兵衛は、このことを秀吉が側近の者に洩らしたという噂を耳にするや、髪を下ろして隠居し、如水を号し、家督を嫡子の長政に譲ってしまった。さらに官兵衛は、秀吉の疑心を避けるために側近を離れず参謀として小田原征伐、朝鮮の役に従っている。官兵衛の芸の細やかなところだ。

秀吉の死後、官兵衛は家康に与したが、心底では「あわよくば天下を」と虎視眈々、野心を燃やし続けた。関が原の争乱に乗じ、豊前中津を打って出て豊後、筑前、筑後など手当たり次第に攻略し、我が手に納めるという怪物ぶりを発揮した。そして、官兵衛の心中はこうして九州全土を制圧したうえで、徳川家康と石田三成が戦い疲れたころを見計らって中央に進出し、天下を掴もうという魂胆だったという。しかし、世の形勢が家康に動いていると見るや、関が原の戦後、いままでの謀反気など全くなかったかのように、ぬけぬけと家康に祝いを述べ、息子の長政のために筑前福岡52万石をちゃっかりせしめている。戦国の勝負師、黒田官兵衛の面目躍如といったところだ。

(参考資料)司馬遼太郎「播磨灘物語」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」

西行・・・ 「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」

 この歌は西行が62~63歳のころ詠んだものといわれるが、後世、その辞世の歌と喧伝されるようになった。きさらぎ(陰暦2月)の望月(満月)のころ-釈迦の命日-に満開の桜の下で死にたい-の意。建久元年(1190)2月16日、南河内の弘川寺において、享年73歳で西行はその数奇に富んだ生涯を閉じているから、冒頭の歌の通り、10年後ほぼ望みどおりの死を迎えたといえる。

 西行は俗名を佐藤義清といい、元永元年(1118)、武門の伝統を誇る検非違使・佐藤康清の嫡男として生まれた。同年、平家の総帥となる平清盛も生まれている。義清の佐藤氏は平将門の乱を平定した“俵藤太”こと、藤原秀郷の流れで、義清の祖父・佐藤季清も、出雲国に狼藉を働いた源義親(義家の子)の処刑に立ち合うなど、その名を知られた人物だった。父・康清も検非違使の宣旨を受け、白河院(第七十二代天皇)の「北面の武士」にも召されている。

 この「北面」は白河院の時に設置された制度で、御所の北面に詰める警備の者。下級官人の子弟から厳選され、弓・馬術に優れているのはもとよりのこと、容姿端麗で詩文・和歌・管弦・歌舞の心得も必須であり、官位は五、六位と低かったものの、宮廷の花形として注目を集める役職だった。義清も北面の武士にやがて選抜されるが、任官まで苦労し時間がかかった。父が若くして急逝したため、父の功績によっての任官が叶わず、当時盛んに行われていた財物によって官職を買い取る道-「年給」、「成功(じょうごう)」-によらねばならなかったからだ。18歳の時一族、必死の「成功」に応募、やっとの思いで「兵衛尉」へ任官した。これだけ苦労した末の任官だったが、保延6年(1140)、名を「西行」と改め23歳の若さで出家してしまう。

 西行の実家は紀伊国に「田仲庄」という荘園を持っていた。家庭は裕福である一方、西行の母は「監物源清経の女(むすめ)」(尊卑分脈)とあり、この清経は今様の達人として世に聞こえた粋人だった。西行はこの祖父にも薫陶を受けていた。その結果、西行は蹴鞠では世に聞こえた使い手だった。また騎馬・弓術の精華といわれる「流鏑馬」にも熟達。文武を極めた彼の前途は洋々たるものがあったはずだが、突然、世の栄達を捨て出家した真相は明らかではない。

 西行はまず洛外の嵯峨に草庵を結んだが、仏法修業と和歌に励みながら陸奥、四国、中国、九州と諸国へ漂泊の旅を繰り返した。彼は平清盛の全盛期、その主催の法会にも参加し、平家一門とも親しく付き合っている。治承4年(1180)伊勢に居を移し、平家滅亡後、平重衡が焼いた東大寺復興の勧進にも携わり、奥州・平泉に藤原秀衡を訪ねる途中、鎌倉で源頼朝と語り明かしている。

 西行の遺した秀歌は数多いが、伊勢参宮の際の歌を取り上げておこう。
 なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
この歌は日本人の自然観、宗教観を歌った名歌だ。五十鈴川の清冽な流れを見て、聳え立つ杉並木の参道を歩む時に、恐らく万人が感じるであろう敬虔な気持ちがそのまま表れている。

(参考資料)辻邦生「西行花伝」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、加来耕三「日本創始者列伝」

                             

渋沢栄一・・・ 「一物に接するにも必ず満身の精神を以てすべし」

 これは渋沢栄一が生涯の信条とした家憲三則の「処世接物の綱領」の条のごく一部の言葉だ。主な部分を抜き出してみよう。

一. 凡そ一事を為し、一物に接するにも必ず満身の精神を以てすべし。瑣事(さじ)たりとても之をゆるかせ(おろそか)に付すべからず。
一. 富貴に驕るべからず、貧賤を患(うれ)うべからず、唯知識を磨き徳行を修め          
  て、真誠(まこと)の幸福を期すべし。
一. 口舌は禍福の因って生ずる処の門なり、故に片言隻語と雖も、必ずこれをみだりにすべからず。
一. 人に接するには必ず敬意を主とすべし、宴楽遊興の時と雖も、敬礼を失うこ          
  とあるべからず。
一. 益友を近づけ、損友を遠ざけ、苟(いやしく)もおのれにへつろう(諂う)者を友とすべからず。

 渋沢栄一は天保11年(1840)2月、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれた。本家では、当主は代々市郎右衛門と名乗った。父の市郎右衛門美雅は晩香と号するような雅人だったから、子供の教育には熱を入れた。物心がつくと栄一はこの父から孝経、小学、大学、中庸、そして論語を学んだ。7歳になると、父は栄一の従兄弟に当たる尾高惇忠という学者に学問を習わせた。惇忠は、福沢諭吉と同じように「士農工商」という身分制に激しい怒りを抱く、かなり激しい思想の持ち主で、単なる学者ではなかった。論語をテキストの中心に置いていたが、頼山陽の『日本外史』など日本の歴史に関する本も副読本として使っていた。

 栄一は24歳のとき、尾高惇忠と従兄弟の渋沢喜作とともに69人の同士を集め武装蜂起して「高崎城乗っ取り、横浜焼き打ち」の一大攘夷計画を企てる。が、幕吏の知るところとなり、計画は頓挫。彼は血洗島村を出奔、江戸に向かう。この後、彼は人生の大転換を迎える。一橋家の用人、平岡円四郎の勧めで攘夷論を捨てた栄一は、一橋慶喜の御用談下役として出仕するが、たちまち算勘の才を認められ一橋家の財務を預かる御勘定組頭となる。2年後の慶応2年(1866)一橋慶喜は徳川宗家を継ぎ十五代将軍に。家臣の栄一もまた幕臣となる。

翌年、慶喜の命を受けた栄一は、パリ万国博に向かう慶喜の弟、徳川昭武に随行して欧州各国を巡歴することになった。この西欧視察の旅で栄一は、攘夷思想の無意味さと、欧州の工業や経済制度の重要さを、嫌というほど思い知らされた。そして、これからの日本は「一に経済、二に経済」だと、経済の仕組みや金融制度、株式制度の知識の吸収に没頭する。こうして明治元年(1868)11月、徳川昭武一行は帰国。が、この間、日本は大きく変わっている。徳川幕府はすでに瓦解し、将軍慶喜は静岡の地で謹慎の身だった。

その静岡藩に勘定組頭として出仕した渋沢栄一は、わが国最初の「共力合本法(株式会社制度)」組織の商事会社、商法会所(取引所)を設立した。この成功がやがて明治新政府の知るところとなり、大蔵省に招かれた栄一は、租税正(局長クラス)として大蔵省の実力者、井上馨の右腕となって活躍する。が、政府内部の各省と意見が合わず、井上とともに辞職し、野に下った。以来、60年、合本主義の旗手として実業界に乗り出し「経営の指導者」「会社づくりの名人」として彼が果たした役割は極めて大きい。

第一国立銀行を設立し頭取となり、続いて国立銀行条例の改正、銀行集会所の設立、日本銀行の設立…。彼が着手した事業で成功しなかったものはないといわれたくらい、経営の世界における彼の洞察力と指導力は卓絶していた。渋沢栄一が関わった業種は500余り、日本の産業すべてが網羅されているといっても言い過ぎではない。
 
(参考資料)城山三郎「雄気堂々」、童門冬二「渋沢栄一 人間の礎」、神坂次郎「男 この言葉」                            

菅原道真・・・ 「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」

 これは延喜元年(901)正月、菅原道真が政敵、藤原時平一派の讒言、策謀にはめられ九州・太宰権帥に降され、出発するときに詠んだ有名な歌だ。この数日前に九州への配流が決まった時、宇多法皇に哀訴した歌が次だ。

 流れ行く我は水屑となりはてぬ 君柵(しがらみ)となりてとどめよ
 老齢で病を持つ道真は、すっかり打ちのめされ抵抗するすべもなく、恐らく出発する直前まで宇多法皇の執り成しによる窮状打開を期待していたことだろう。しかし、それは結束した時平一派のクーデターの前に叶わず、道真は無念の思いで太宰府への旅程についた。任官していた子息たちも左遷されて、それぞれ任地に下向した。その後の大宰府での幽閉に等しい生活をうかがわせるものに、道真自身の手で編まれた『菅家後集』という詩文集がある。この中から一首を次に掲げる。

  家を離れて三四月。
  涙を落とす百千行。
  万事皆夢の如し。
  時々彼蒼(大空)を仰ぐ。

延喜3年(903)2月、道真は失意のうちに大宰府で病死した。59歳だった。
 桓武天皇の孫を母として生まれ、藤原氏とは全く血縁関係がない宇多天皇と、道真の敵は摂関政治を独占する藤原氏だった。寛平3年(891)1月、太政大臣で、人臣で最初の「摂政」となった藤原基経が没すると、英邁な宇多天皇はこれを千載一遇の好機ととらえ、讃岐守だった道真を起用。蔵人頭(天皇の秘書官長)に抜擢し、政界にデビューしたのが3月29日。そして4月11日には佐中弁、翌年の12月には左京大夫と昇進し、次の年の2月には公家会議に参加できる参議にまで出世するのだ。道真49歳のことだ。現代の会社に置き換えて表現すれば、係長がわずか2年で取締役になるのと同じようなものだろう。この出世の早さはやはり異常だ。バランス感覚を欠いた“ひいき”と映ったことは間違いない。そして、道真は51歳で中納言に昇任する。

寛平9年(897)7月、宇多帝は31歳の壮年でありながら、敦仁親王(13歳)に譲位。この折も帝は道真ただ一人と相談したといわれている。目指すは“天皇親政”の復活だった。宇多上皇と道真は二人で醍醐帝を教導し、その治世中に権門藤原氏を排除し、律令政治本来の姿へ、朝廷を戻そうと考えたわけだ。昌泰2年(899)2月、左大臣となった時平は29歳。一方の道真はこの時、すでに55歳になっていた。
 道真をめぐる形勢は延喜元年(901)正月に急変する。時平一派が醍醐天皇に対して道真追放の工作を開始したからだ。時平は道真が天皇を廃し、皇弟で自分の女婿の斎世親王を皇位に立てようと企み、すでに宇多法皇の同意を得ていると述べた。時平は年少の天皇の不安感に鋭く触れて、道真の陰謀なるものを認めさせることに成功した。天皇はことの真否を法皇に質すいとまはなかった。その25日に詔を発して道真の行動に非難を加え、これを貶して太宰権帥とした。

こうして時平一派のクーデターが遂行された。
 ところで、道真がなぜ学問の神様である天神様に祀り上げられたのか。現在でも全国各地に天神様を祀る社は1万2000もあるという。道真の死後、京の都では異変が続出。まず彼を死に追いやった時平が6年後に39歳の若さで死去し、気象は荒れ放題で都では旱魃や飢饉が続いた。さらに死後20年後の923年に皇太子の保明親王が亡くなったことで、誰もが道真の怨念を感じたのだ。930年には左遷を認めた醍醐天皇までもが急死し、怨霊は「御霊」と呼ばれるようになり、恐怖が貴族たちに蔓延する。
そこで、霊を鎮めるための御霊会が始まるのだ。これは次第に公のものとなり政府が主催することにもなり、天暦元年(947)には京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られる。だが、時代を経るにしたがって、怨霊は人々によって別の解釈がされるようになった。菅原氏が多くの学者を輩出したこともあり、学問の神様に変化していくのだ。さらに、それは発展し書道や文学の神様としても崇められるようになる。神様は皮肉にも藤原氏によって作り出されたのだ。波乱の人生を歩んだ道真は、その後没落していく藤原氏とは対照的に、1000年以上の時の中を生き続け、21世紀の現代でも学問の神様として毎年受験生たちの心の支えとなっている。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史4 平安京」、加来耕三「日本補佐役列伝」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」

                    

高杉晋作・・・「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」

 これは肺結核で明治維新直前の慶応3年(1867)4月14日に29歳で死んだ高杉晋作の辞世だ。正確に言えば、晋作が詠んだのは「おもしろきこともなき世をおもしろく…」までだ。ここで彼は息苦しくなり、筆を置いてしまった。そこで枕頭にいた野村望東尼が下の句を「すみなすものは心なりけり」と続けると、彼はにっこりとうなずいて息を引き取ったという。

ただ、動乱期を破天荒な生き方をした人間だっただけに、上の句だけで切れていても、いや切れているからこそ彼らしいのではなかったかという気がする。おもしろくするのは心次第だ-というような常識的な下の句がつけられると、一気にその世界が小さくまとまってしまったかのような印象を受ける。

 吉田松陰の門人の中で最も波乱に満ちた生涯を送ったのが高杉晋作だ。彼が作った「長州奇兵隊」が事実上の維新の原動力になったといっていい。彼は毛利家譜代の家臣で禄高150石の中士ともいうべき家系に生まれた。しかし祖父や父が、蔵元頭人役や小姓役として藩主の側近く仕えていたので、家計はかなり裕福だったようだ。

 晋作は14歳で藩校明倫館に通うようになるが、型にはまった学校の教育に幻滅。学問はなかなか好きになれず、19歳の頃まで剣の道に勤しみ、柳生新影流の免許皆伝を得た。そんな彼に学問の面白さを教えたのが吉田松陰の「松下村塾」だ。松陰の烈々たる憂国の情に惹かれて真っ先に入塾した久坂義助(玄瑞)に誘われたのだ。この出会いが彼の一生を決めた。

とはいえ、松下村塾に通うそのこと自体が大変なことだった。松陰は萩の城下では危険思想の持ち主と見られていたし、晋作の家は保守的だった。だから、彼が松下村塾に通っていることを知ると、何日も彼は家の中に閉じ込められたほど。それでも松陰の人格や識見が晋作を惹きつけて放さなかった。彼は親や家族の目を盗んでは松下村塾に通い続けた。その結果、彼の才能は一挙に花開いていく。
 晋作は師、松陰の死、結婚、軍艦修業、武者修行などを経て一回りも二回りも大きくなった。とくに信州松代に師、松陰の師でもあった佐久間象山、越前福井に招かれていた横井小楠という当時、一頭地を抜いた学者であり、卓見の二人に会えたことは大きかった。

 文久2年(1862)、24歳の晋作は清国に派遣される幕府使節の随員となり、長州藩を代表して上海に赴くことになった。この上海渡航は、その後の彼の人生に、計り知れない大きな意味を持つことになった。彼が上海に行ったときは、太平天国の乱の最中だ。書物で勉強するだけでは得られない、近代戦争の実態を初めてそこで見ることになったからだ。

 晋作が奇兵隊を組織したのは、文久3年(1863)6月、下関を舞台に展開された馬関攘夷戦の最中だった。戦闘は長州藩の惨憺たる敗北で終わった。敗れた長州軍の中で、最も勇敢に戦ったのが彼の組織した独創的な軍事組織、奇兵隊だった。以来、日本で最初の組織的な国民軍、奇兵隊は長州四境戦争、鳥羽・伏見の戦い、そして奥羽北越の戊辰戦争に至るまで長州藩最強の軍団として、転戦していくことになる。

 もし高杉晋作という青年がいなかったら、幕末の長州藩はよほど違った針路を取っただろう。また、晋作の行動が革命の原動力となったことについては、吉田松陰の思想を抜きにしては考えられない。幕府は松陰を斬首したが、その思想までを殺すことができなかったのだ。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命」、同「幕末維新の志士読本」、三好徹「高杉晋作」、「日本史探訪/幕末の日本を操った鍵人間 高杉晋作」(大岡昇平・奈良本辰也)、司馬遼太郎「世に棲む日日」

田中正造 ・・・「自ら善と信じ利と認むる点を、遂行し収拾する時に当たりては聊(い ささ)か奪ふべからざる精神を有す」

 田中正造は日本の近代化過程で起こった「公害」第一号の「足尾鉱毒事件」 の告発者として、天皇に直訴したことで広く知られているが、鉱毒垂れ流しに よって農地を汚染され、大きな被害を受けた農民救済に後半生を捧げた。冒頭 のこの言葉は1895年(明治28年)、当時55歳の田中正造が読売新聞に連載し た自叙伝『田中正造昔話』にある一説だ。

 彼は下野小中村(現在の栃木県佐野市小中町)の名主の子として生まれた。 17歳の時、父の跡を継いで名主となり、まもなく主君六角家をめぐる騒動に巻 き込まれ、主君の権威を傘に着て私服を肥やす林三郎兵衛という悪党の退治に 全力を挙げ、入獄・追放などあらゆる苦難を経験した。この六角家の問題は、 結局「明治維新」により、正造らの勝利に帰したが、そのために正造は全財産 を失った。

また、正造は1870年(明治3年)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市に 下級官吏として赴いたが、そこで上司の木村新八郎殺害の嫌疑を受け、3年の 獄中生活を送った。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の 性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
 1874年(明治7年)、無罪釈放となった正造は郷里に帰るが、今度は自由民 権運動の影響を受け1880年(明治13年)栃木県県会議員となった。1882年(明 治15年)、立憲改進党が結党されると入党。福島県令・三島通庸が栃木県令を 兼ねて、住民の意向を無視して、大規模な土木工事を起こし強引に近代化を進 めようとしていた。これに対して正造は徹底的に抗戦しつつ、政府に上訴し、“悪 党”を追放しようとする作戦を取った。この「三島事件」は三島が異動によっ て栃木県を去ると解決。

正造は1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に初当選する。ここで直面したのが「足尾鉱毒事件」だった。これは今日的に表現すれば、国家発展を優先するのか?正義を貫くのか?の問題だった。すなわち明治政府が積極的に推進した富国強兵策の一環として、鉱業の開発は必須で、足尾銅山の開削は近代国家としての日本の発展には欠かせないものだった。しかし、この足尾銅山は多量の鉱毒を渡良瀬川に流すことになり、この鉱毒の垂れ流しで渡良瀬川下流の農地は汚染され、農民は大きな被害を受けた。

 正造は、農民を困苦に陥れて何が国家の発展か!と判断、「公害」を国家発展の必要悪と見る明治政府と戦ったのだ。正造は議員を辞職し、天皇に直訴したが、失敗。巧妙な政府の分断政策により孤立した下流の谷中村に、正造は敢えて移り住み、村に残った農民とともに抵抗し続けたが、1913年(大正2年)73歳で死亡した。そして4年後、谷中村は遊水池の中に消えた。この事件は長い間忘れられていたが、高度成長の過程で「公害」が大きな社会問題となってから、再び注目されるようになった。

(参考資料)城山三郎「辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件」、梅原猛「百人一語」
      奈良本辰也「男たちの明治維新」、三好徹「獅子吼」

田沼意次・・・ 「貯えなきは、事ある時の役に立たず」 進歩的政治家

武家社会においては、凡夫のトップに代わって毀誉褒貶を一身に浴びねばならない場合も少なくなかった。徳川九代将軍家重、十代将軍家治の二代に仕えた田沼主殿頭意次もその一人だ。唯一の庇護者であった将軍家治の死後、失脚した田沼意次に浴びせかけられたデマや中傷、ワイロ伝説は、彼の卓越した政治手腕に対する保守派門閥大名や旗本たちの嫉妬と憎悪によるものだ。

江戸時代を通じて、ワイロにまみれた代表的な“汚れた政治家”の一人に挙げられる田沼意次だが、近年の様々な角度からの研究で彼が執った、それまでの米経済を軸とする重農主義を、貨幣経済を軸とする重商主義に切り換えた大胆な経済政策を評価。偉大で進歩的な政治家の一人ともいわれるようになっている。

今回の田沼の言葉は唯ひとつ子孫のために残した家訓とも言うべき遺書にある処世信条で、財政問題について『勝手元不如意にて貯えなきは、一朝事ある時の役に立たず、御軍用に差し支え、武道を失い、領地頂戴の身の不面目、これに過ぐるものなし』とあるものだ。武士の収入は予定以上に増えることはない。凶作による収入減、不時の出費、それらが重なれば憂うべき結果を招くものだ。したがって、『常に心を用い、いささかの奢りなく、油断せず要心すべし』と格別の注意を与えている。
ワイロはいつの時代にもあった。例えば平安貴族は国司になるために権門の筋に莫大なワイロを贈って、その職を得るための猟官運動が盛んだった。中世では、国司になると任期中は莫大な富が得られ、都に戻ってからも生涯を安泰に暮らせたという。それは江戸時代も同様で全国(藩)でまかり通っていた。究極的な例を挙げると、あの清廉潔白をもって鳴った白河藩主・松平定信が、四位の官位の依頼に田沼邸を訪れているのだ。

では、そのワイロの額は?江戸時代、大老や老中職の場合はよくわからないが、長崎奉行職は2000両、目付職は1000両と相場が決まっていたといわれる。
猟官運動にこれほどのワイロが動いたのは、他の時代と比べるとやはり少し異常といわざるを得ない。しかし、それは幕府の創始者であった徳川家康の「権力の持てる譜代大名の給与は安く、権力の持てない外様大名の給与は多くする」という統治法にこそその温床があった。江戸城で老中その他の要職に就いた者の給与は、ほとんどが数万石であり、家重の小姓から異例の大出世を果たし大名にまで上った田沼自身にしても、遠江相良藩の6万石にすぎない。

“ワイロ”政治ともいわれた田沼のどこが特別で他と異なっていたのか?田沼は収賄を決して悪事だとは思っていなかった。彼自身が言っていることを意訳、換言すれば、「収賄は正当なもの。そして、それに報いるために請託をうけるのも当たり前」と言っている。現代の感覚でいえば呆れた話だが、徳川期の基準でいえばそれは異常ではなかったのだ。徳川時代における武士の収賄は構造的なものであって、田沼個人の私意に基づくものではないということだ。

だからこそ、そのことに何のうしろめたさも感じることなく、それまでタブーとされていた様々な諸施策を打ち出せたのだ。まず「米経済」にこだわらず、貨幣経済を進行させている連中=商人と手を組んだことだ。彼は「士農工商」の最も劣位に置かれ課税対象外の存在だった商人に、新しい税「運上」と「冥加金」を課した。次に本来的には鎖国の下だが、フカヒレ・イリコ・アワビ・コンブなどの海産物をはじめ地域産品の付加価値を高めて積極的に外国(中国・オランダ)と交易する施策を打ち出す。また漢方薬の国産化を図り、平賀源内に日本国内での薬草探しを命じている。

このほか、中国の本以外は読むことが禁じられていたが、田沼はオランダの本を読むことを許可した。これが杉田玄白や前野良沢らの翻訳本「解体新書」となる。これは彼の失脚によって実現しなかったが、下総(千葉県)の印旛沼と手賀沼の干拓、そして蝦夷開発(北海道に116万町歩の開拓、7万人移住の計画)、千島・樺太の開発にも関心を寄せた。広い視野からのこうした大構想は、当時の諸大名や旗本たちにはとても思いもつかぬ施策であったし、ただ妬ましさを覚えるだけだった。この鬱屈が失脚後の“田沼バッシング”を増幅させたわけだ。

(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」 神坂次郎「男 この言葉」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」

徳川吉宗・・・ 「苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし」

 徳川幕府中興の祖、八代将軍吉宗が晩年、座右の銘として寝所の壁に貼り付けていたと伝えられる言葉を記す。

一、 苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし。
一、 主と親は無理な(ことを言う)者と思え、下人(下級の使用人)は(考えが)足らぬ者と知るべし。
一、 掟に怖じよ、火に怖じよ、分別無き者に怖じよ、恩を忘れることなかれ。
一、 欲と色とを敵と知るべし。
一、 朝寝すべからず、話の長座すべからず。
一、 少なることも分別せよ、大(きな)事とて驚くべからず。
一、 九分は足らぬ、十分はこぼるると知るべし。
一、 分別は堪忍にあると知るべし。
                          (「享保世話」)

 これを見る限り決して難しいことを言っているわけではない。今日でも十分通用する、説得力のあることばかりだ。度量の大きな吉宗だったからこそできた、幕府政治の大改革を担った当時の心情が込められていると読むこともできる。将軍の座にあること30年。彼が断行した「享保の改革」(1716)は江戸時代で最もスケールの大きい、成功した改革だった。後年、松平定信の「寛政の改革」(1787)、水野忠邦の「天保の改革」(1841)がいずれも失敗しただけに、特筆されよう。

 吉宗は貞享元年(1684)、紀州徳川家の二代藩主・光貞の四男として生まれている。この年は後世、天下の悪法として伝えられた五代将軍綱吉の「生類憐みの令」が発せられた前年に当たる。吉宗の母はおゆりという城内奥の湯殿番の婢女であったが、彼はいくつもの幸運に恵まれ遂に八代将軍にまで上りつめた。

 その幸運のスタートが将軍綱吉のお声がかりで越前丹生(福井県北部)三万石の藩主の座についたこと。吉宗(当時は頼方)、14歳のことだ。2番目の幸運は三代藩主の長兄が死に、4カ月後に四代藩主の次兄も急死したこと。思いもかけない偶然が22歳の吉宗を一躍、紀州徳川家55万5000石の五代藩主の座に押し上げてしまった。まだ終わりではない。藩財政の再建に取り組み、成果を挙げた吉宗のもとに3番目の幸運が舞い込み、八代将軍になる。33歳のときのことだ。

この裏には、将軍家と尾張徳川家の不運が重なり合っていた。六代将軍家宣の子で、わずか5歳で七代将軍となった家継が8歳で死去し、次の将軍候補に推されていた御三家筆頭の尾張徳川家の吉通はすでに3年前25歳の若さで逝き、その子の五郎太も続いて死亡したからだ。こうして彼は普通ならまず望むべくもなかった栄光の座に就いたのだ。

将軍職に就いた吉宗は・上げ米の令・目安箱の設置・小石川養生所の設置・町火消しの制度を設け、民家の屋根を瓦葺きに・足高(役付手当)の制で人材登用・西欧の学問(蘭学)の奨励-など様々な施策を打ち出し、骨太の改革に取り組んだ。人事面では間部詮房・新井白石ら、六代将軍家宣以来、幕閣の枢要を占めてきた権力者=補佐役たちを排除した。また、普請奉行・大岡越前守忠相の江戸南町奉行への抜擢なども行った。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、加来耕三「日本補佐役列伝」

二宮尊徳 ・・・「多く稼いで、銭を少く遣うは富国の達道」

 この言葉は『二宮夜話』にあるもので、正確にはその一部だ。この件の全体を記すと、「多く稼いで、銭を少く遣い、多く薪を取って焚く事は少くする。是を富の大本、富国の達道という。然るに世の人是を吝嗇といい、又強欲という、是心得違いなり」だ。

 二宮金次郎、実名を尊徳(たかのり)、世間での名は“そんとく”。農政家としての尊徳が救った村は605カ町村、彼独自の仕法をもって根本から建て直したもの322カ村、一人の困窮民も借財もなく村を再生させたもの200カ村を超える。

 尊徳がユニークなのはその卓抜な金銭感覚だ。一枚の田から何石の米がとれるか、その米を換金すればいくらになるか。「米倉に米俵を積み上げ、何年持っていても米は増えぬ」。が、この米を売った金を巧みに運用すれば、二倍も三倍もの利息が稼げるのだ-と説く。「農民たち個々の零細な金でも、まとまれば大きくなる」。それを貸し付け、利に利を生ませ、その利益を村に還元し農地を改良し…と尊徳は、農民信用金庫への構想を熱っぽく語り続けてやまない。今から140年前のことだ。

 尊徳の仕法は「勤労」「分度」「推譲の精神」に徹することによって実行される。推譲の精神とは、「人間の勤労には欲がある。それが当然だ。欲があればあるほど、働き甲斐があり、また得られるものも多い」としながら、「しかし、得られたものを自分のためだけに使うのは、自奪というべきで、決して褒められたことではない。成果が得られたら、今度はそれを他人に譲るべきで、他人のために用立てるべきだ」ということだ。だから、推譲というのは、働いて得られた益を譲るということで、ただあるものを譲るということではない。尊徳の推譲の前提には、勤労ということがはっきり据えられている。勤労のない譲与など意味がないということだ。

 武家の家政の建て直しを乞われて、尊徳が行った独自の仕法を端的に表現したものが次の言葉だ。「推譲の道は百石の身代の者、五十石の暮しを立て、五十石を譲ると云。この推譲の法は我が教え第一の法にして則ち家産維持かつ漸次増殖の方法なり。家産を永遠に維持すべき道は、此外になし」(『二宮夜話』)。

 また、1000両の資金で1000両の商売をするのは危ないことだ。1000両の資本で800両の商売をしてこそ堅実な商売といえる。世間では100両の元手で200両の商売をするのを働きのある商人だとほめているが、とんでもない間違いだ-という。バブル経済のなかで狂奔していた虚業家たちはもとより、金融ベンチャー企業の事業家たちにとくに聞かせたい言葉だ。

 二宮金次郎は戦前、小学校の校庭にあの銅像、薪を背負い歩きながら本を読んでいる苦学少年といったイメージが強い。しかし、その実家は相模国栢山村(神奈川県小田原市栢山)の裕福な農家で、二町三反の地主でもあった。ところが、父の代でまたたく間に財産を減らし、酒匂川の氾濫で田畑は濁流にのみこまれ、後に残されたのは石河原だけだった。二宮家が貧乏のどん底に叩き込まれ、薪を背負った少年「二宮金次郎」が登場するのはこのころのことだ。14歳で父を、16歳で母を失った金次郎は母の実家に引き取られた弟二人と別れ、伯父のもとで働くことになった。これが苦学少年イメージの原点だ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「小説 二宮金次郎」、神坂次
      郎「男 この言葉」、奈良本辰也「叛骨の士道」                              

藤原道長・・・「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

 これは天皇の后を三代続けてわが娘で独占した=“一家三后の栄”を実現した藤原道長が、自邸で開催された華やかな祝いの宴で、即興で詠んだといわれる有名な「望月の歌」だ。 幸せの絶頂期と思われるこの時期、53歳の道長はすでに当時の不治の病に冒されていたのだ。今日でいう「糖尿病」や心臓神経症などを患う身であった。さらに晩年には「白内障」と思われる病状にも襲われていた。

 奈良時代を代表する政治家が藤原鎌足-不比等の父子二人であったとすれば、平安時代を通しての第一人者は、その子孫、藤原道長だといっても異論はないだろう。ただ、その個性、あるいは人間性といった面ではかなりタイプが違う。新しい時代を自らの手で切り拓いていった前二者に比べ、平安朝の故実先例を尊ぶ時代の、道長の政治は受け身に終始した消極的な印象が強い。また、彼は身分の高い、年上の女性に好かれて出世の階段を昇った人でもあった。

 康保3年(966)、道長は後に摂政・関白となる藤原北家の主流、名門・藤原兼家の四男として生まれた。名門の出自だが、兄が三人(道隆・道兼・道綱)で、一族には他にも男子が多い。摂政・関白の独占は道長の後継者からで、この時点で尋常に考えれば、政権の座が道長に回ってくること自体、不可能なことだった。

 ところが長徳元年(995)、30歳の道長に将来を決定づける思いがけない異変が起こった。朝廷政治をあずかる公卿14人のうち、実に8人までが流行の麻疹にかかって、次々とこの世を去っていったのだ。この時、道長の兄三人も相次いで病死。政権を担う候補として、長兄で関白を務めていた道隆の子・伊周とともに、体力堅固な道長の存在がクローズアップされることとなる。道長は姉の詮子を後ろ楯として、伊周に打ち勝って右大臣の地位を得た。翌年7月左大臣となった道長は、一条-三条の二帝(66代、67代)の治世、あくまで最高行政官=左大臣としての地位を貫いていく。

 長保2年(1000)2月、道長は13歳になったばかりの長女・彰子を一条天皇の中宮として内裏へ送り込む。寛弘5年(1008)、彰子は待望の皇子・敦成親王を産む。3年後、一条帝が崩御し、三条帝が立つと、敦成親王は皇太子となった。道長はなお攻め手を緩めず、三条帝には次女の妍子を入内させる。孫の敦成親王を天皇とし、「みうち人」とすることで、権勢を名実ともに得ることが狙いだった。
三条帝との激しい攻防戦の末、遂に長和5年(1016)正月、三条帝は退位した。この時、孫で新帝となった後一条天皇(第68代)は9歳。道長は50歳となっていた。後一条天皇の即位から1年後、寛仁2年(1018)10月16日、道長の邸内で三番目の娘・威子が、天皇の「中宮」となったことを祝う宴が開催された。冒頭の歌はこの時のものだ。

道長は万寿4年(1027)12月、屋敷の隣に建立していた東大寺を凌ぐ規模の法成寺の阿弥陀堂の中で、その62年の生涯を閉じた。背中にできた腫れ物が悪化し、死ぬ直前までその痛さに苦しむ呻きの声が聞こえたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、永井路子「この世をば」

                             

正岡子規・・・ 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

 この言葉は1898年(明治31年)正岡子規が書いた『歌よみに与ふる書』に書かれているものだ。子規は日本の最も伝統的な文学、短歌の世界で革命を断行し成功させた。子規以後の歌人は、彼の理論に大きく影響された。また、彼は俳句・短歌のほかにも新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたり、創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。

 革命は伝統的権威を否定することだ。短歌でいえば「古今集」がその聖書(バイブル)だった。子規はこの古今集の撰者であり代表的歌人である紀貫之を「下手な歌よみ」と表現、古今集をくだらぬ歌集と断言したのだ。子規は貫之だけでなく、歌聖として尊敬された藤原定家をも「『新古今集』の撰定を見れば少しはものが解っているように見えるが、その歌にはろくなものがない」と否定している。賀茂真淵についても『万葉集』を賞揚したところは立派だが、その歌を見れば古今調の歌で、案外『万葉集』そのものを理解していない人なのだとしている。これに対して子規は、万葉の歌人を除いては、源実朝、田安宗武、橘曙覧を賞賛している。

 子規の言葉は激越だが、そこには彼の一貫した論理が存在している。彼の革命はまさに時代の要求だったのだ。『歌よみに与ふる書』は日清戦争が終わって、戦争には勝利したのに列強の三国干渉に遭い苦渋を味わされた。それだけに、強い国にならなければならない。歌も近代国家にふさわしい力強い歌でなくてはいけない-というわけだ。

子規は、主観の歌は感激を率直に歌ったもの、客観の歌は写生の歌であるべきだと主張した。言葉も「古語」である必要はなく、現代語、漢語、外来語をも用いてよいと主張した。この主張は多くの人々に受け入れられ、子規の理論が近代短歌の理論となった。子規の弟子に高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らが出て、左千夫の系譜から島木赤彦、斎藤茂吉など日本を代表する歌人が生まれた。

子規は伊予国温泉郡藤原町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、妻八重の長男として出生。生没年は1867年(慶応3年)~1902年(明治35年)。本名は常規(つねのり)、幼名は処之介(ところのすけ)、のちに升(のぼる)と改めた。1884年(明治17年)東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学、同級に夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉などがいる。軍人、秋山真之は松山在住時からの友人だ。子規と秋山との交遊を描いた作品に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がある。
1892年(明治25年)帝国大学文科国文科を退学、日本新聞社に入社。1895年(明治28年)日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血。この後、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。病床の中で『病床六尺』、日記『仰臥漫録』を書いた。『病床六尺』は少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視した優れた人生記録と評価された。

野球への造詣が深く「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳したのは子規だ。
辞世の句「糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな」「をととひの へちまの水も取らざりき」などから、子規の忌日9月19日を「糸瓜(へちま)忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

(参考資料)「正岡子規」(ちくま日本文学全集)、梅原猛「百人一語」、小島直記「人材水脈」、小島直記「志に生きた先師たち」

松尾芭蕉・・・ 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」

 これは周知の通り、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の冒頭の言葉だ。単純に考えると、「月日」も「年」も旅人だというのは、冒頭の言葉に続く、次の「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」遂に奥の細道の旅に出た、という言葉を導くための前口上のようなものと思われる。しかし、俳諧の天才、芭蕉はこの言葉をもっと奥深い言葉として表現しているのではないか?

梅原猛氏によると、月日は目に見えるが、年は決して目に見えるものではない。ところが、それは厳然として存在する。「年」にもまた「春夏秋冬」すなわち生死があるという。つまりこの芭蕉の言葉は、目に見える天体「月日」も永遠に生死を繰り返す旅人で、目に見えぬ「年」という宇宙の運行そのものもまた、永遠に生死を繰り返す旅人という意味なのだ-と分析する。

このように考えると、芭蕉の宇宙論は地球を固定して考える天動説でもなく、太陽を固定して考える地動説でもなく、すべての天体を含む宇宙そのものを永久の流転と考える宇宙論なのだ。そして、この宇宙論は最近、現代科学が展開した宇宙論に似ており、芭蕉はまさに時空を超えた宇宙論を持っていたとも考えられる。

また、この「奥の細道」には多くの謎が隠されている。詳細にこの旅行記を分析した歴史家たちの間では、実は芭蕉は諜報員だったのではないかという説がささやかれている。この説には3つの根拠がある。1.「奥の細道」で訪ね歩いた場所が、ほとんど外様大名がいる藩2.芭蕉の生まれ育ちが伊賀3.同行した弟子の河合曾良が毎日几帳面につけていた日記から浮かび上がる芭蕉の不可解な行動-だ。「奥の細道」は芭蕉が45歳のとき、奥州地方と北陸地方を150日間かけ2400km近くを歩いて回った経験をもとに、3年後の元禄5年に書かれたものだ。

全国統治のため、徳川幕府が各藩の大名の行動や考え方を知るには、幕府お抱えの諜報員たちに実際に調べてもらうしかない。幕府の諜報員たちは薬売りなど商人に姿を変えたりして、全国各地を飛び回った。だが、地方分権に近い当時は治安維持のために藩内のどこにでも誰もが近づけるわけでもなく、ましてよそ者が好き勝手に行動することなどできなかった。

諜報員としての理想の条件は、どこにでも行ける旅の目的があり、藩内を自由に動ける権限を与えてくれる高官や、地元に詳しい人物とのコネを持つ人間だった。著名な俳人である芭蕉は、その条件にピッタリなのだ。

「奥の細道」と曾良の日記とは実に80カ所も日時と場所が異なっている。それは2日に1度の割合で違いをみせており、どちらが本当の行動なのか多くの歴史家が首をひねっている。互いに別々の宿に泊まっていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に2人が一緒ではなかったことが明らかだ。芭蕉は何か別行動を取る必要があったのか?

旅のペースも不思議だ。何かを追いかけるように急いだり、あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留している。「奥の細道」の記述をもとに類推すると、芭蕉はまるで忍者のように頑健な体力の持ち主なのだ。こうしてみると、芭蕉への謎は深まるばかりだ。

松尾芭蕉は伊賀国(現在の三重県伊賀市)で松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれた。松尾家は農業を生業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。生没年は1644年(寛永21年)~1694年(元禄7年)の江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、“俳聖”と呼ばれた。

 弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。
 芭蕉の“俳聖”の顔と、裏の諜報員の顔、十分両立する気もするが、果たして現実はどうだったのか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」

三井高利・・・「単木は折れ易く、林木は折れ難し」

 これは『三井八郎兵衛高利 遺訓』の一節だ。この部分を正確に記すと、「単木は折れ易く、林木は折れ難し、汝等相恊戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏(きょう)を図れ」というものだ。1本の木は折れやすいが、林となった木は容易に折れないものだ。わが家の者は仲睦まじく互いに力を合わせ家運を盛り上げ固めよ-という意味だ。 

 伊勢松坂の越後屋、三井高俊の女房(法名を殊法)は、連歌や俳諧などにうつつをぬかして家業を省みない夫に代わって、毎朝七ツ(午前4時)に起きて酒、みその販売と質屋を切り回し、四男四女のわが子を育てるというスーパー女房だった。この四男が三井財閥三百年の繁栄の基礎を築いた三井八郎兵衛高利(1622~94)だ。少年期の高利は、この松坂の店で母から商家の丁稚として厳しくしつけられている。

 当時の商人の理想は「江戸店持ち京商人」だった。江戸時代、最大の商品である呉服(絹織物)を日本第一の生産地、京都に本店をおいて仕入れ、大消費都市江戸で売りさばくため店を構える。これが商人の念願でもあった。商才にたけた殊法は当然、長男の俊次(三郎右衛門)を江戸に送り本町四丁目に店を開かせた。

 高利は14歳になったとき、母の殊法から江戸の兄の店で商売を習ってきなさい-と修業に出される。が、彼は江戸で長兄の俊次が舌を巻くほどの商才を発揮する。長兄から店を任された高利は、10年間で銀百貫目ほどだった江戸店の資金を千五百貫目(約2万5000両)に増やしているのだ。俊次はこんな知恵のよく回る弟が空恐ろしく、将来高利が独立して商売敵になれば、自分の店はおろか、わが子たちはみな高利に押し潰されてしまう-と頭を抱えた。そんなとき、松坂にいて母と店をみていた三男の重俊が36歳の若さで急死してしまった。次男弘重は上野国(群馬県)の桜井家へ養子に行っていたので母と店をみる者がいない。そこで、俊次は高利に松坂に帰って母上に孝養を尽くしてくれと、江戸から追い払った。俊次にとって格好のタイミングで厄介払いできたわけだ。

 以来、高利は老母に仕え店を守り、江戸での独立の夢を抱きながら鬱々として20余年の歳月を過ごすことになる。江戸の俊次が死んだとき、高利はすでに52歳になっていた。しかし、彼のすごいのはこれからだ。かねてからこの日のために、わが子十男五女のうちから、長男の高平、次男の高富、三男の高治と3人の息子を江戸に送り、俊次の店で修業させていた。その息子たちを集めると、本町一丁目に呉服、太物(綿織物)の店を開き、故郷の屋号を取って越後屋と名付けた。後年の三井財閥の基礎となる巨富は、晩年の高利のこの店で稼ぎ出されたものだ。
雌伏20余年、高利が練りに練った、当時としては誰も思いいつかなかった卓抜な商法が次から次へと打ち出される。その頃の商人の得意先を回っての、盆暮れ二度に支払いを受ける“掛売り”(“屋敷売り”)商売ではなく、“現銀掛値なし”つまり定価による現金販売の実施だ。そして得意先を回る人件費を節約した「店売り」であり、今まで一反を単位として売っていたものを、庶民にも買えるように「切り売り」をしたのだ。この店頭売り商法は大当たりした。

そんな状況に“本町通りの老舗”の商人たちは越後屋に卑劣な嫌がらせに出る。そこで高利はつまらぬ紛争に巻き込まれることを避け、駿河町へ移った。駿河町でも高利の商法は江戸の人々に受け入れられ、巨富を築き上げていく。その繁昌ぶりをみると、井原西鶴の「日本永代蔵」には享保年間(1716~36)、毎日金子百五十両ずつならしに(平均して)商売しける-とある。新井白石の「世事見聞録」には文化13年(1816)、千人余の手代を遣い、一日千両の商いあれば祝をする-とある。まさに巨富としか表現のしようがない。

天和3年(1683)、高利は駿河町南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店とした。これが後の三越百貨店、三井銀行となった。

(参考資料)童門冬二「江戸のビジネス感覚」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神坂次郎「男 この言葉」

                             

吉田松陰・・・「身はたとい武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂」

 これは安政6年(1859)10月27日、江戸・伝馬町の牢内で斬首された吉田松陰の“最期の言葉”辞世の句だ。もう一つある。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」だ。これは安政元年(1854)正月、米艦六隻を率いたペリーが、前年に続いて浦賀港に現れた時、この米艦に乗り込み嘆願書を渡し、密航を企て交渉しようとして失敗。自首して江戸の獄に下る時に詠んだものだ。両句とも「大和魂」で結ばれているように、日本という国の行く末を見つめた“憂国の心情”があふれている。

わずか30年の生涯を閉じた吉田松陰は、日本の教育者の中でもまれにみる魂のきれいな学者だった。彼が開いた松下村塾が輩出した数々の門人たちが、明治維新の立役者となったことは周知の通りだ。教育現場の荒廃が叫ばれる今日、彼の生き方と彼が遺したものの一端を見てみたい。

 松陰、吉田寅次郎は、1830年8月4日、長門国萩松本村護国山の麓、団子岩に生まれた。父は家禄26石、杉百合之助常道。母は児玉氏、名は滝。幼名を虎之助といい、杉家七人兄妹の二男だった。杉家から数百歩離れた所に父の弟、玉木文之進が居を構えていた。虎之助に対する基礎的な教育は、父以上に封建武士に特有な精神主義者のこの叔父に負うところが多かったようだ。松陰は父と同時に、この叔父の大きな影響を受けて成長した。

 松陰が養子に入った吉田家は、長州藩の山鹿流軍学師範を家職としていた。世襲制である。したがって、吉田家の当主が早く死んだ後は、幼い松陰がこの家職を引き継いだ。天保6年(1835)6歳の時のことだ。厳格な叔父の、年齢を無視した求道者的な教育を受け、早熟な彼は11歳のときにすでに藩主の前で講義を行っているほど。

 松下村塾は松陰が開いたものではない。叔父の玉木文之進が開いたのだ。やがて、この塾を叔父から引き継ぐ。松陰は藩に正式な手続きを取らないで、東北など日本各地を歩き回った。その罪に問われて牢に入れられた。牢から出た後も、今後は一切他国を出歩いてはならないと禁足処分となった。そうした制約を加えられて、門人を教えることを許されたのだ。

 八畳と十畳の二間しかないこの狭い塾から高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、寺島忠三郎、井上馨、山県有朋、伊藤博文、野村靖、品川弥二郎、前原一誠、山田顕義、山尾庸三、赤根武人など、錚々たる人材が育っていった。また、驚くのは松陰がこの塾で若者たちを教えた期間がわずか2年にも満たないことだ。こんな短い期間に、あれだけ多くの英才が輩出したのだ。まさに奇跡といっていい。こんな指導者はどこにもいないだろう。

 松陰は死学ではなく、生きた学問を教え、「人を育てつつ、自分を育てる」ということを実行。そして、彼には私利私欲というものが全くなく、「人間は生まれた以上必ず死ぬ。だからこそ生きている間、国のため、人のためになるような生き方をしなければならない」と考えていた。弟子たちは松陰のそういうところに心を打たれ、敬慕の念を募らせたのだろう。

(参考資料)奈良本辰也「吉田松陰」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、童門冬二「私塾の研究」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

浅野総一郎・・・並外れた体力で、廃物利用に目をつけたセメント王

 浅野総一郎は、自ら創設した株式会社の数は浅野セメント(後の日本セメント)はじめ30数社に上り、いまなお設立した会社の数において、わが国最多記録保持者の地位を維持している。
 総一郎は1848年(嘉永元年)、富山県氷見郡(現在の氷見市)で町医者の長男として生まれた。成人して後、事業に手を出し、失敗して養子先を離縁され、明治4年、24歳で借金取りに追われるように京都、次いで東京に出奔した。以後、大熊良三の偽名を使い債鬼の眼を逃れつつ、廃物利用産業に狙いを定め、遂にセメント王と称されるようになった。巨財を掌中にしてから畢生の大モニュメント「紫雲閣」を東京・港区の田町に築いた。巨富を手にしてからも質素、倹約の生活に徹し、好物は汁粉とうどんだけ。晩年も夫婦揃ってセメント工場内に職工たちが履き捨てた下駄を拾い集め、再生利用したといわれる。

 総一郎が手掛けた数多い事業の主柱は、何といってもセメントだ。その頃、セメントは煉瓦と煉瓦をくっつける接着剤程度にしか使われていなかったが、彼はセメントそのものが建築材料として大量に使われる日がくるし、そうあらねばならぬと主張。国の財産を保護するためにも、セメント製造を見限ってはならぬと説いた。

彼が渋沢栄一の引き立てをバックにして、官営セメント工場の払い下げを受け、後年の「セメント王」への端緒をつかんだのは、明治16年、36歳の時だった。この頃の総一郎は、朝は5時からセメント工場に入り、夜は12時過ぎまで。製造も販売もやった。一日、職工たちと一緒にセメントの粉にまみれて働いてから、夜は王子製紙の支配人について簿記を習い、夜更けまでかかって一切の記帳を自分でやった。さらに午前2時にまた起き、カンテラを提げて工場内を見回った。

従業員の気持ちをも引き締めた。出勤時間に背いた者は、懲罰の意味で黒板に名を書き出した。事務員には会計も購買も製品の受け渡しもやらせる。製造係に販売もやらせるといったふうに、一人二役にも三役にも働かせたが、その半面、従業員優遇法として社内預金による積立金制度を設けたりした。

 一日4時間以上寝ると、人間バカになる。20時間は労働すべきだと総一郎は考えていた。そんな彼がとうとう血を吐いた。そこで医師はかれに「あなたは命と金とどちらが欲しいのですか?」と詰め寄った。彼は平然と「命も金も両方とも欲しい」と答えた。医者は苦笑してサジを投げた。
 妻のサクも総一郎に負けず頑張った。彼女は総一郎が竹皮屋を始めた頃、布団を借りていた貸し布団屋の女中だった。総一郎は早朝から夜更けまでのなりふり構わぬ彼女の働き振りに惚れて結婚した。彼女は4人の子持ちになっても、なお工場に出て総一郎を助けた。当時のセメント工場は床土が焼けてくるため、職工たちは下駄を履いて仕事していたが、鼻緒でも切れると、すぐセメントの山の中に捨ててしまう。彼女はそのセメントの中から下駄を拾い、きれいに洗って鼻緒をすげ直し、また職工たちに履かせたという。

 総一郎が「セメント王」になった秘密は、廃物に目をつけた商才にあるが、いまひとつ忘れてはならないのが、並外れた体力だ。60歳を超えても体力はいささかの衰えもみせず、若い頃からの習慣である早朝4時起床、入浴、訪問客との商談、そしてオートミールと味噌汁の朝食を済ませると、6時には飛び出していくという日課を変えなかった。しかも60、70歳になっても性力が旺盛だった。好みの女を見つけると、即座に手を握って離さない。顔の方はどうでもよく、ただ太った女でさえあれば、目の色が変わってしまうくらいだった-との旧側近の懐古談があるほど。まさに絶倫男だったのだ。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

伊藤忠兵衛・・・現在の伊藤忠商事・丸紅の前身をつくった近江商人

“足で稼ぐ”をモットーとする近江商人の家に生まれた伊藤忠兵衛(当時栄吉)は、11歳から行商に出され、麻絹布の「出張卸販売」で成功。明治5年、29歳で大阪に呉服反物店・紅忠(現在の「伊藤忠商事」・「丸紅」の前身)を開店。晩年は海外進出にも力を注いだ。生没年は1842(天保13年)~1903年(明治36年)。

 近江国犬上郡豊郷村の呉服太物を商う紅長こと五代目伊藤長兵衛家に1842年(天保13年)、二人目の男児が出生。後の忠兵衛、当時の栄吉だ。紅長は店売りもしたが、近隣各地へ盛んに行商に出かけていった。栄吉も11歳になったとき、兄・万治郎のお供をして商いに行かされた。父は、次男の栄吉はいずれ家を出て独立するのだから、早くから商いに慣れた方がいいと判断したのだ。

兄の万治郎は持っていった荷を楽々と売りさばいたので、栄吉はこれくらい自分ひとりでもできると軽く考え、次は一人で行商に行ったが、ほとんど売れなかった。商売は難しいことを痛感する。難しさが分かってこそ本物の修業が始まる。

 1858年(安政5年)、15歳になった栄吉は名を忠兵衛と改め、いよいよ持ち下り商いに乗り出した。彼は麻布50両分を伯父の成宮武兵衛から出してもらい、最初なので伯父に連れられて豊郷村を後にした。荷持ち2人を連れ船で大津へ、そして京都伏見から大阪へ。八軒屋に着いて、常宿にしている問屋で荷を開いて客を待ったが、折からの激しい雨で買い手が一向に姿を見せなかったので、やむなく和泉から和歌山へと足を延ばして、ようやく57両の売り上げを得た。純益は7両だったが、初商売としてはまずまずだった。

 これに気を良くした忠兵衛は、伯父に頼んで次は山陽山陰と西国の旅に出かけた。そして、下関で紅毛人との交易で賑わう長崎の噂を耳にした忠兵衛は、伯父の制止を振り切って長崎へ向かった。物情騒然たる幕末の長崎に近づく商人はほとんどいなかったため、現地では品薄で、忠兵衛は大いに歓迎されて思わぬ利を拾った。

 ところで、忠兵衛の九州での麻布の持ち下り商いに立ちはだかったのが「栄九講」という一種の同業者組合だ。同じ近江商人でも神崎郡や愛知郡の持ち下り商人たちがお互い結束して、他地域の商人を締め出そうと組織したものだ。そこで、忠兵衛は真正面から「仲間に加えてもらえませんか」と乗り込んでいった。栄九講の仲間たちは当然の如く拒否した。

それでも忠兵衛はめげず、栄九講の宴会に飛び込み、反感と敵意に満ちた視線を一身に浴びつつ、「同じ近江の新参者です。皆様の後について商いの道を学ばせていただきたいと存じます。どうかよろしくお願いします」と臆せず、堂々と熱弁を振るった。その姿に栄九講の幹部たちは遂に新規参入を認めることに決めた。そして、忠兵衛は1年後には栄九講の代表に選ばれたという。彼の優れた資質が発揮されたのだろう。

 その後、持ち下り商いの商圏を長兄の万治郎改め長兵衛に譲って、1872年(明治5年)、忠兵衛は大阪・本町二丁目に呉服、太物店を開いた。それは大きな岐路であり選択だった。その頃、明治新政府が誕生して中央集権が実現。近江商人の持ち下り商いもその存在価値を失い、行商をやめ、定着化が始まった。忠兵衛は仲間より一歩先に動いたのだ。忠兵衛30歳のことだ。

 忠兵衛は近江から招いた羽田治平を支配人として、合理的な経営法を志した。画期的な褒賞制度をつくって、販売成績のよい者に歩合を出すことにした。店員は近江の出身者が多く、採用すると豊郷村にある自邸に住み込ませて、掃除や使い走りをさせつつ、読み書き算盤を習わせて、十分仕込んでから大阪の店へ送り出した。忠兵衛はいち早く丁髷を切って、店員とともにザンギリ頭とした。

 その後も・月に6回夕食会を開き、支配人・番頭・丁稚といった身分の垣根を取り払って自由に意見をたたかわせた・従来の習慣を改め、明治20年代から商業学校出身者を採用した・大阪ではこれまであまり扱わなかった関東織物を大量に仕入れて京物とともに売りさばいた・明治17年頃から現金取引を主義とした・英国、ドイツとの外国貿易に取り組んだ-など数々の斬新な経営手法を打ち出し成功させた。

 伊藤忠財閥の二代目当主、二代目伊藤忠兵衛(1886、明治19~1973年、昭和48年)は16歳で事業を継承。父である初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した「伊藤忠兵衛本店」を発展させ、「伊藤忠商事」と「丸紅」という2つの総合商社の基礎を築いた。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

岩崎弥太郎・・・地下浪人から身を起こした三菱財閥創設者

 三井、住友は江戸時代からの富商だったが、三菱は明治になってから台頭した新興勢力だ。この三菱の創業者が地下(じげ)浪人から身を起こした岩崎弥太郎だ。彼は明治の動乱期、藩吏時代の人脈をフルに活用。経済に明るかったことと、持ち前の度胸のよさで政府高官を強引に説き伏せ、海運業の雄となり、政商として巨利を得た最も有名な人物だ。生没年は1834(天保5)~1885年(明治18年)。

 岩崎弥太郎は、土佐国安芸郡井ノ口村一の宮に住む地下浪人、岩崎弥次郎と妻美輪との間に生まれている。つまり、土佐藩で幕末まで動かし難い階級・身分格差が厳然と存在した被差別階級の生まれなのだ。地下浪人とは郷士の株を売った者のうち、40年以上郷士だった人に与えられる称号で、実際は名ばかりで、禄高もゼロ。何らかの職に就ける望みもほとんどなかった。

そのため、岩崎家も極貧を絵に描いたような生活ぶりで、わずかな農地を耕して飢えをしのいでいた。7人家族に手拭いが2本、傘などなくて、冬になると、破れ布団一組を弟弥之助と引っ張り合って眠るという貧乏暮らしだった。

 普通ならこの時点で、生涯の出世の幅は限られ、ほぼ決まったも同然のはずだった。ところが、岩崎弥太郎は身分にふさわしくないほどの上方志向を持ち続けていた。それに加え、あるときは粘り強く、あるときは強引に、後藤象二郎をはじめとする藩の主流派上層部の人脈に取り付き、現代ではあり得ないほどの“運”をわがものとしたのだ。そして、驚くことに彼は一代で後の三菱財閥の基礎をつくった。

 弥太郎が21歳のとき、こんな悲惨な生活から脱出するチャンスが訪れた。藩士奥宮慥斎(ぞうさい)の従者となって江戸へ行く機会を得た。1855年(安政2年)のことだ。江戸では高名な安積艮斎(あさかごんさい)の門に入った。

 ところが、入門間もなく郷里から急報が届いた。父が入獄したという。驚いた弥太郎は師に別れを告げて土佐へ戻ることになった。もう二度と江戸へ出てくるチャンスはないだろう。だから、これで出世の道は閉ざされてしまった。そんな悔しさ、情けなさを振り払うかのように彼は、不眠不休で東海道五十三次を踏破。そして土佐の井ノ口村まで三百余里を17日間で歩いて実家へ戻った。しかし、庄屋に憎まれていた父弥次郎の救出も覚束ない状況で、郡役所に抗議に出かけていった弥太郎まで役人を誹謗したかどで、父の代わりに今度は彼が入牢させられてしまった。

 出牢後、弥太郎は高知城の郊外で寺子屋を開いた。その頃、土佐藩の執政だった吉田東洋が一時、役を退き開いていたのが少林塾。その塾に学んでいたのが後藤象二郎で、弥太郎は後藤の論文の代筆をして東洋に近づいた。後日、藩政府に東洋が返り咲いて、弥太郎は西洋事情を調べよと長崎出張を命じられる。ここで彼は、これまでの貧乏暮らしの中で抑圧されていた欲望が頭をもたげ、藩金百両余りを使い込むという大失態をしてしまう。ようやく藩の役人になれるかという好機に、自ら招いた過失で見事に失敗したわけだ。

 その後、一時、藩政を握ったかにみえた、武市半平太を盟主とする土佐勤王党が弾圧され、旧吉田東洋派が浮上。弥太郎は藩庁から召し出され、長崎にある「土佐商会」の主任を命じられた。同商会は土佐藩の物産を外国へ売って、必要な汽船や武器を購入するためのいわば交易窓口だった。藩の執政となった後藤象二郎が長崎へやってきて、汽船や大砲を手当たり次第に買っていったため、弥太郎はその尻拭いに走り回って外国商会から多額の借り入れを行っていた。坂本龍馬が脱藩の罪を許され、「海援隊」が土佐藩の外郭機関となると、弥太郎は藩命により隊の経理を担当した。

 この頃、歴史の舞台は大きく変わった。徳川幕府が倒れて、明治新政府が誕生した。長崎で知り合った薩摩の五代才助(後の友厚)、肥前の大隈重信、長州の井上馨、伊藤博文、それに土佐の後藤や板垣退助などは江戸改め「東京」に移った新政府の要人となって大活躍していた。ところが、弥太郎はすっかり取り残されて、土佐藩の藩吏となって財政の一翼を担っているに過ぎなかった。

ただ、幸運の女神は弥太郎を見捨ててはいなかった。明治2年、少参事に任じられ、土佐藩の大阪藩邸を取り仕切るまでに出世。すると、大阪にありながら、弥太郎は藩の財政に関わって、物産の販売と金融といった経済面を担当することになったわけで、外国商会からの大金借り入れなどは一手に引き受けていた。その結果、彼は思わぬ昇進を勝ち取ったのだった。

 弥太郎は廃藩置県後の1873年(明治6年)、後藤象二郎の肝いりで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となった。

 最初に弥太郎が巨利を得るのは維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出したときのことだ。各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを、事前に新政府の高官となっていた後藤象二郎からの情報で知っていた弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を買い占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得た。今でいうインサイダー取引だ。

 後藤象二郎が様々な面で、岩崎弥太郎に肩入れし利益供与に近い、土佐藩の資財・資金、そして情報を与えた点について、司馬遼太郎氏は「その理由は維新史の謎に近い」と記している。弥太郎が藩政を預かる後藤に、相当額の裏リベートを支払ったうえでのことだったのか、なぜ、後藤が弥太郎にほとんど誰にでも分かる利益供与をしたのか。それほど不可解なのだ。

こうして彼は持ち前の度胸のよさと、藩吏時代の人脈をフルに活用。多くの政府御用を引き受け、武士上がりで経済に弱い新政府の高官たちを強引に説き伏せ業容を急拡大、現在の三菱グループの礎を築いた。彼の死後、彼の事業と部下たちは、弟弥之助の手によって新三菱社に引き継がれた。

(参考資料)三好徹「政商伝」、津本陽「海商 岩橋万造の生涯」、邦光史郎「剛腕の経営学」、城山三郎「野生のひとびと」、司馬遼太郎「街道をゆく37」

大倉喜八郎・・・鉄砲屋から一大財閥を築いた御用商人

 大倉喜八郎は幕末、鉄砲屋から身を起こし、明治維新後は軍の御用商人、日清・日露戦争では軍需産業…と、巧みに、そしてしたたかに時の権力に密着しつつ事業を拡大し、遂にその数20数社に及ぶ企業集団・大倉財閥を築き上げた。大倉の事業の隆盛を妬んだ世間から“奸商(かんしょう)”とか“死の商人”と蔑称を浴びせられたが、一向にひるむことなく、ひたすら蓄財に励んだ。

こうしたあくどい商法の反面、費用を惜しまず帝国ホテルを建設。また、私財を投じて創立した商業学校をはじめ各種教育機関や美術館を造って社会に供するなど、文化事業にも貢献した。
 大倉喜八郎の金銭哲学について、内橋克人氏はユダヤ人の商法に一脈通じるものがあるという。1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで、鉄砲店「大倉屋」を開業していた喜八郎は、官軍、幕府軍の双方に鉄砲を売りまくったという伝説がある。

商売は商売という彼の徹底した商法は、第二次世界大戦中、敵国ドイツに火薬を売ったアメリカのユダヤ系財閥を連想させる。商売のコツもユダヤ商人との共通点が多い。喜八郎が重視したのは「現金主義」で、鉄砲売買はむろんのこと、あらゆる取引にキャッシュの原則を押し通した。ユダヤ人も2000年の迫害の歴史から、現金以外の何者も信じない。

 しかし、商売にはあくどいが、儲けたカネはスパッと使う。ユダヤ人は慈善事業などに思い切ったカネのつぎ込み方をするが、喜八郎も明治の初めからしばしば社会事業団体「済生会」などに、寄付献金を重ねている。
 大倉喜八郎は1837年(天保8年)、新潟県北蒲原郡新発田(現在の新発田市)の名主の家に三男として生まれ、18歳で江戸に出た。鰹節店の住み込み店員をしながら、乏しい俸給を貯え、21歳のとき独立、乾物店を開業。さらに鉄砲店を開店し、それが文字通り出世に火をつけた。

 ところで、「子孫に美田を残さず」という“金言”があるが、喜八郎は逆に子孫に事業を残そうと努力した数少ない成金事業家の一人だ。事業を継がせるべき長男の側に当時の帝大出の俊才を配し、巧みな人材活用法で、大倉財閥百年の体制を固めた。第二次世界大戦後、財閥解体の痛手を受けたものの、現在も大倉商事、大成建設、ホテルオークラなど20数社が大倉グループを形成している。一代限りで事業も巨財も雲散霧消させるタイプの多かった明治・大正時代の一群の成金たちとは、かなり趣を異にしている。

 喜八郎のタフネスぶりは超人的というべきで、84歳で妾に子供を産ませている。どんな多忙なときでも、ゆっくり時間をかけて食事を楽しむという主義で、昼食はいつもウナギの蒲焼きと刺し身、それにビールがついていたという。働くために食うのではなく、食うために働く。そして長生きが義務という、そのあたりの生活感覚も日本人離れしている。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」
      三好徹「政商伝」、小島直記「人材水脈」

紀伊國屋文左衛門・・・材木問屋を営み巨富を築いた?江戸前期の豪商

 江戸時代の成功者、成金の代表者の一人として挙げられるのが、この紀文こと紀伊國屋文左衛門だ。しかし、紀文の実像、いやもっといえばその実在性を示す文献資料さえ見つかっておらず、謎に包まれている。

講談や浪花節によると、暴風雨で荒天続きの熊野灘を乗り切って、紀州みかんを江戸へ運んで巨富を築いたということになっているが、この話も実は実証できていない。ただ太平洋戦争前に、紀州有田出身のある実業家が伊勢のある神社に奉納されていた、文左衛門のものと推定できるみかん船のひな型を発見した。有田みかんの歴史は古く室町時代に、みかんを九州から導入し栽培増殖したのが始まりという。江戸時代に入り、紀州徳川家がみかん産業を保護奨励した。1634年(寛永11年)からみかんの江戸出荷が始まり、まもなくわが国の出荷組合第一号ともいうべき蜜柑方(みかんがた)が作られた。文左衛門のみかん船の話が事実だとすると、貞享年間、彼が20歳前後で、この冒険物語は実現可能だ。

また、文左衛門は振袖火事の時、木曾の木材をわずかな手付け金で買い占めてボロ儲けしたとも伝えられる。ところが、明暦の振袖火事の際、木曾の木材を買い占めて巨利を博したのは河村瑞賢だ。紀文ではない。こうなると、果たして紀文は実在したのか、疑わしくなる。

ただ、周辺にはモデルになったのではないかと思われる人物はいる。一般に流布されている紀文物語によると、紀文は幼名を文平といい、有田郡湯浅で生まれたという。その湯浅町栖原(すはら)の出身で、栖原角兵衛(かくべい)、略して“栖角”という大成功者がいるのだ。栖角は房総から奥州へ手を伸ばして漁場を開き、後に江戸へ進出して鉄砲洲に薪炭問屋の店を持った。さらに深川で材木問屋を始めるなど多角経営で事業を広げている。

紀文が活躍した貞享から元禄期は、生活ばかり派手になって手元に金のない、いわば欲望過多の時代だった。そんな時代背景が、「いてもおかしくない」という思いも加わって、講談や浪花節の世界にしろ、瑞賢と栖角を足した架空の人物を生み出したのではないだろうか。

紀文のモデルに加えられた人物がまだいる。奈良屋茂左衛門だ。紀文とともに遊郭、吉原で贅を尽くしたという挿話を記した「吉原雑記」に名を残している豪商だ。江戸の当時の家屋は、竹と土と紙とでできているので燃えやすく、ちょっと風が強いとすぐ火事が起こった。大火事があると当然材木屋が儲かる。だから、江戸初期の富商は木材問屋が大部分を占めていた。ただ、木材は投機性の強い商品で、いったん的中すると儲けは莫大なものになったが、狙いが外れると厖大なストックを抱えて四苦八苦しなくてはならない。そんな浮き沈みの多い木材問屋の中でも、儲け頭は奈良茂こと奈良屋茂左衛門だった。

奈良茂は日光修復の工事入札で、普通の業者の半分にも満たない安値を入れて落札した。しかし、本来そんな値で木材を揃えることなどできるはずがない。ところが、ここに奈良茂のしたたかな計略があったのだ。まず奈良茂は江戸一の木曽ヒノキの問屋柏木屋へ行き、木材を売ってくれといった。だが、むろん柏木屋は頭から断った。すると、奈良茂は恐れながらと訴え出て、柏木屋に木材を売るように命じてほしいと願った。そこで、役人が柏木屋へ行き、木材はないのかと問うと、船が入らないのでと、通り一遍の口実を使った。ところが、それこそが奈良茂の思う壺だった。同業の事情に明るい奈良茂は、いえそんなはずはありません、柏木屋の木材の隠し場所へご案内しましょう-といって、貯木場へ案内した。最初、体よくあしらわれた役人はカンカンに怒って、柏木屋の隠し場所にあった木曽ヒノキを片っ端から焼印を捺して奈良茂に下げ渡した。そして柏木屋の当主と番頭は、三宅島へ送られてしまった。奈良茂はライバルを没落させたばかりか、日光修復の工事用木材をタダ同然で手に入れ、しかもなお2万両分の余剰木材が残ったという。半ば伝説の主人公、紀文にふさわしい逸話だ。

実際は、紀文はもっと地味な商売人で、こうしたモデルになったともみられる豪商ほど詳細は分からない。だが、材木商としての地歩を固めた紀文が、当時の幕府の“大物”、勘定奉行の荻原重秀を抱き込み、幕府の土木事業の指名を受けたことは確かなようだ。中でも幕府が行った上野寛永寺の中堂建設の材木を一手に引き受けて、50万両の儲けをはじき出したという。彼が紀文大尽として、吉原の大門を締め切って、傾城(けいせい)を買い切りにしたなど、“勇名”を馳せるのはこれからのことだ。

(参考資料)津本陽「黄金の海へ」、邦光史郎「豪商物語」、南原幹雄「吉原大尽舞」、中田易直・南條範夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

鴻池新六・・・十人両替商の筆頭で大名並みの権威持った江戸の大富豪

 江戸時代を通して、豪商と呼ばれたのが鴻池家だ。全国一の富豪で、諸大名に何千万石もの大金を貸し付け、その各大名から扶持をもらって、合わせると一万石を超え、大名並みの権威を持っていたといわれる。現在の銀行業務を行っていた十人両替商の筆頭として知られた鴻池家の始祖が新六幸元だ。生没年は1570年(元亀元年)~1650年(慶安3年)。

 鴻池の姓は、摂津国伊丹在鴻池村に住んだことに由来する。元は山中姓だったという。それも、尼子十勇士を率いた尼子の家老、山中鹿之介幸盛の子が新六だと伝えられている。新六は幼時、大叔父にあたる山中信直に養われたが、この大叔父が没して後は大叔母に育てられた。15歳で元服して幸元と名乗ったが、武士の身分を隠すため、名前も新右衛門と変え、両刀を捨てた。豊臣秀吉の天下となって、彼の身の上はかえって処世の妨げとなったのだ。

 摂津国鴻池は古来、酒造の地で、やがて新六もその仲間の一人になることができた。当時の酒は今でいう濁り酒だ。ある時、新六に叱責されて、それを恨んだ使用人が仕返しのため、酒桶の中に、灰汁を投げ込み、そ知らぬ顔をして主家を出て行った。翌朝、いつものように新六が酒造場の見回りにいくと、大桶の酒が、どうしたことか、濁り酒から清酒に変わっていたので驚いた。調べてみると灰汁桶が空になっていて、清酒に変わった酒桶の底に、灰汁が残っていた。そこで、あの男のしわざと気付いた。ところが、この美しく澄んだ酒をすくってみると、香気があって、味がいい。不思議なことだ。使用人にも試飲させると、皆に評判がいい。

そこで実験を重ねて、清酒づくりに励み新製品を売り出すことになった。これが鴻池の「諸白(もろはく)」と称された清酒だ。この清酒は評判を呼んだので、新六は江戸ヘ出すことを決めた。当時、江戸は人口100万人に達し、ロンドン、パリを抜いていた。この100万人の人口の半数は旗本や諸大名の家臣とその家族、つまり消費するだけの武士階級だ。しかも江戸近辺は当時、米さえ作れない乾いた土地が多く、酒はすべて伊丹や伏見から送っていた。

新六はこの「諸白」を、初めは馬で、次には船でどんどん江戸へ大量輸送し、売れに売れたのだ。そこで、鴻池は自ら廻船問屋を開業するに至った。こうして新六は酒造家として成功した。
新六は妻・花との間に10人(8男2女)の子に恵まれた。次男と三男は分家して、別の酒造家となり、1619年(元和5年)、新六も鴻池村を出て、大坂城下の内久宝寺町に店を開いた。鴻池村の本宅は七男が継ぎ、大坂の店舗は後に、八男正成が相続するようになった。その頃の鴻池家は約240坪の敷地に、酒造蔵と米蔵それぞれ2棟を持ち、年間1万7000石の清酒を醸造していた。

新六は64歳のとき海運業を始めた。天下の台所と称された大坂は、様々な物産の出船入船千艘という一大商都となって、物流手段として船への需要が大きくなるとの判断だった。初め、自家製の酒を江戸へ運んでいるだけだった鴻池の船も、江戸の帰りに大名から頼まれた参勤交代用の荷物を運ぶようになり、やがて大名家出入り商となって、米を扱うようになった。やがて、大名の蔵元となり、大名貸しする両替商となっていくのだ。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

五代友厚・・・関西財界の基礎確立に貢献 大阪財界の父

 五代友厚は大阪株式取引所、大阪商法会議所などを設立した、大阪財界の父といってよい働きをした。渋沢栄一が関東で商工会議所や株式取引所を設立して、多くの事業を生み育てていったのと並び称された。

 五代は天保6年(1835)12月26日、薩摩国鹿児島の城下町で生まれた。幼名は才助。五代家の先祖は島津18騎の一人で“銀獅子”と称していた。その五代家の五代目、秀堯と妻やす子との間に生まれた次男が、後の友厚だった。兄徳夫、姉広子、妹信子といった兄弟とともに生まれ育った家は松林の中という静かな環境で、父は儒学者として知られ、藩内にあっては町奉行を務めていた。ただでさえ質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学んだ。

 14歳になった時、琉球公益の係を兼ねていた父親が、帰宅すると奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。それは、藩主がポルトガル人から入手した輿地図だった。父が兄の徳夫に声をかけなかったのは、兄がコチコチの保守主義者で、外国の話をすると真剣に怒り出すからだった。その点、友厚は早くから異国の文物に興味を持って、これが世界地図だと知ると、食い入るように眺めていた。 

そして、その地図には薩摩はおろか日本も載っていないことを教えられる。それなのに、国内ではやれ薩摩だ、やれ長州だといって互いに相争っている。どうして力を一つにして外国に負けないような国力と技術力をつくろうとしないのだろうか-と疑問を持つ。

 藩主が父に申し付けたこの地図の模写を、友厚は一人で引き受け二枚分を一気に筆写した。そして一通を藩主に献上して、残る一枚を自室の壁に掲げた。地球は丸いというので、直径2尺(60・)ばかりに球体を作って、そこに世界地図を貼り付けた。そしてそれに彩色をした。球体にしてみると、さらに世界の様子がよく分かった。

 16歳になった友厚は藩候に建白書を出して、海運の隆盛を図って、学生を遊学させるべしと主張した。その願いが聞き届けられ、友厚は長崎出張を命じられた。当時幕府は長崎に海軍伝習所をつくって、オランダ人教官を雇って若い武士たちに航海術を学ばせようとした。そこには幕臣勝海舟、榎本武揚、佐賀の大隈重信、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎、長州の高杉晋作、井上馨、紀州の陸奥宗光、福井の由利公正など各藩の英才が集まっていた。これらは後に明治を背負って立つ傑物となった人たちで、彼らは藩の枠を越えて交友を持った。友厚の青春の舞台はこの長崎だった。

 慶応2年(1866)2月、イギリス、ベルギー、ドイツ、オランダを歴訪して、各種の工場や病院などの施設を視察し帰国した五代は、産業振興と富国強兵のニューリーダーとなった。そして御納戸奉行格に任じられて、藩の産業経済の中枢に位置する身となった。まだ32歳の時のことだ。明治維新が成立すると、彼は西郷隆盛や大久保利通とともに新政府の参与に任じられた。薩摩が実行してきた産業立国と富国強兵策を、今度は中央政府にあって断行することとなり、大いに意欲を燃やした。

 明治2年、五代は大久保と協議のうえ実業の道を進むことを伝え大阪へと向かう。大富豪、山中善右衛門(鴻池)、殿村平右衛門、広岡久右衛門たちを集めて、まず銀行の前身ともいうべき為替会社と通商会社を大阪に設立することを要望した。ちょうどその頃、大蔵省をやめた渋沢栄一も銀行をつくって、実業界のリーダーとして出発している。その後、五代は鉱山業、紡績業などに乗り出したほか、天和銅山(奈良)、半田銅山(岩手)など4銅山を経営、たちまち鉱山王となった。

 五代は堂島米商会所の組織化、大阪株式取引所の開設、大阪商法会議所の創設などに次々取り組み、商法会議所が生まれると彼は初代会頭に推された。現在の商工会議所の前身がこれだ。明治13年、彼は現大阪市立大学の前身の大阪商業講習所を設立し、商家の子弟に、近代的な経営学を教えることにした。続いて大阪製銅所、馬車鉄道、関西貿易社、共同運輸会社、阪堺鉄道、大阪商船などの事業化に参画して、さながら会社づくりの神様の如く、多くの経済組織と企業づくりを行った。

 明治18年6月、糖尿病を患った五代は、9月25日、東京の自邸で永眠した。51歳だった。商業家というよりも商工業界のリーダーとして関西財界の基礎づくりに功績を残した五代は、いまも鹿児島と大阪商工会議所にその銅像が遺されている。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

小林一三・・・鉄道事業経営とエンタテインメントをコラボ

 小林一三は阪急電鉄・阪急百貨店・阪急東宝グループの創業者で、阪急ブレーブス、宝塚歌劇団の創始者としても知られる。鉄道沿線の住宅地開発、百貨店経営など幅広く関連事業を経営し、沿線地域を発展させながら、鉄道事業のとの相乗効果を上げた。今日の私鉄経営のビジネスモデルの原型をつくった人物の一人だ。また東京電燈会社の経営改革にも携わった。第二次近衛内閣で商工大臣、終戦後は幣原内閣で国務大臣をそれぞれ務めた。生没年は1873(明治6)~1957年(昭和32年)。

 1月3日に生まれたので、一三と名付けられたが、母きくのが同年8月22日に急死してしまったため、養子だった父は離縁。一三と姉の竹代は、両親を失って孤児となってしまった。とはいえ、祖父母や一族に育てられ、何不自由なく成長していった。彼の生家は山梨県巨摩郡韮崎町(現在の韮崎市)で、韮崎は甲州街道の宿駅で、甲州と信州のコメが集まり、豪商が軒を並べる土地柄だった。小林家は屋号を布屋といって、酒造と絹問屋を兼ね、豪商中の豪商として知られた家柄だった。
 祖父小平治は一三が2歳のとき、彼のために別家をつくって家督を継がせた。その翌年7月に三井銀行が開業し、2年後に西南戦争が起こっている。

 一三は15歳で慶応義塾を受験して、即日入学を決めた。彼が最も打ち込んだのが芝居見物で、麻布十番にあった3軒の芝居小屋で連日のように入り浸っていた。明治25年、慶応義塾を卒業し三井銀行に入った。本店秘書課勤務だったが、仕事の中身が不満で少しも気が乗らない。そこで、大阪支店行きを志願。明治26年、大阪に赴任。ただ高麗橋の大阪支店に勤務してからも、道頓堀の芝居小屋に通って、もっぱら上方情緒に浸っていた。

月給は13円だが、韮崎の小林家から毎月100円くらい送金があるので、生活はゆったりしたものだった。文人とつきあって小説を書いたり、芝居通いしているうちに、一三はすっかり大阪に根を下ろしてしまった。ただ、勤務の方は大阪支店から名古屋支店、大阪支店、東京支店と変わったが、希望に反することが多く不遇だった。また結婚したが、早々に離婚、再婚した。

そして、明治39年、33歳のとき一三は三井銀行を退職。箕面有馬電気軌道株式会社設立に参画、様々な、紆余曲折はあったが、一三が専務、北浜銀行の頭取・岩下清周が社長で箕面電車が誕生。一三は電鉄経営者への道を選んだ。彼は“もっとも有望な電車”というパンフレットを出して、当時としては珍しいPRに乗り出し、今ではどの電鉄会社もやっている住宅街の造成を行って、沿線の繁栄を図った。いずれも当時としては、先駆的な手法であり、事業戦略だった。池田に分譲住宅を造ったり、箕面に客寄せの動物園を開設するなど、一三の奮闘は続いた。

大阪から宝塚まで線路を延ばすには何か客寄せが必要というので、宝塚に新温泉をつくって、そこに温水プールを開設した。しかし当時の規則では、男女別々に分けるべしというので、想定したほど客が集まらず、そこで考えついたのが少女歌劇だった。当時、三越で少年音楽隊が出演して人気を得ていたことから、一三が思いついたもので、素人の少女を集めて、今でいうオペレッタを演じさせようというものだった。大正2年に始めたときは、女子唱歌隊と称していた。大正3年4月1日、500人収容の劇場ができ上がって、いよいよ処女公演を行った。この公演は2カ月間大入りを続けた。この成功で年4回の公演に踏み切った。

一三は北銀事件を機に、借金し自社株を買い取りオーナー経営者となった。大正7年、社名を阪神急行電鉄と変更、同9年に神戸線30.3・が開通した。47歳となった一三は、経営者としてようやく独創的な手腕を発揮するようになった。彼は5階建ての阪急ビルを建設。その2階に食堂を開設、これまで一流レストランでしか食べられなかった洋食を、30銭均一で食べさせた。とくにコーヒー付き30銭のライスカレーは大好評だった。また、1階を白木屋に貸して、日用雑貨の販売をさせた。この後、一三は阪急電車梅田駅に乗降客を吸引する新しいターミナル百貨店を誕生させた。

一三は既成概念に捉われず、従来の高料金興行とは違ったやり方による演劇や映画の経営を始めて、東宝王国をつくり上げた。その経営手腕を買われて、彼は東京電燈会社の経営改革にも起用された。

(参考資料)邦光史郎「剛腕の経営学」、小島直記「福沢山脈」

下村彦右衛門・・・「現金正札販売」をモットーに成功した大丸の始祖 

 大丸百貨店の始祖、下村彦右衛門は、京都伏見で生まれた。下村家はもともと摂津の国、山田村の郷士の出身だと伝えられているが、祖父の代には伏見の町で古着問屋を営んでいた。当初、曽祖父の住んでいた河内を記念して、“河内屋”を屋号としたが、祖父が京の五山の送り火、大文字に魅せられ“大文字屋”と改称した。祖父・久左衛門の三男・三郎兵衛が二代目を継いだが、これが彦右衛門の父だ。三郎兵衛の子供たちのうち、長男が早死にしてしまったので、次男の長右衛門が跡を継いだが、彼は優柔不断で怠け者だった。そのため家運は次第に傾いていった。元禄12年(1699)頃のことだ。

大文字屋は京都の色街の一つ、宮川町に質屋と貸衣装の店を出した。三男彦右衛門は父の言いつけで、この店を手伝った。彼は人並み外れて背が低かった。そのうえ頭ばかり大きくて、福助人形そっくりだと、人にからかわれたが、じっと我慢して、いつもニコニコと人に接した。19歳になった頃、彦右衛門は祖父の跡を継いで古着屋を引き受けた。毎日、大風呂敷に古着を包んで背に負うと、とことこと京都の市中まで運んで行って売るのだ。それは実入りが少ない割に、辛くて果てしのない労働だった。休みなく働き続けて23歳のとき、勧める人があって村上光と結婚して、一男をもうけたが、5年後に離婚している。

享保2年(1717)、苦労の末、伏見の一隅に小さな店を開いた。これがいわば大丸の誕生だった。そのとき、壁に掛かった柱暦に記されていた文字をヒントに、○の中に大と書き、これを商標とすることに決めた。○は宇宙を表し、大は一と人とを組み合わせたもので、それなら天下一の商人を意味することになると彦右衛門は解釈した。

彼は店の者を集めてよく教え諭した。“商人は諸国に交易して、西の産物を東に流通させ、北の商品を南に送って、生活の資を商い、それによって自分も応分の利を得て、その身を養うものである。だから決して自分の都合中心に考えてはいけない。必ず世間のためになり、人様の生活に役立つ品を商わなくてはならん。世のため人のためになってこそ、はじめて商いが発展するのである”

「現銀正札販売」、それが彦右衛門の商法の中心だった。享保11年(1726)、彼は大坂の心斎橋に共同出資の店を出し、2年後には名古屋店、続いてその翌年には京都柳馬場姉小路に仕入店を開設した。当時の商人は、「江戸店持京商人」といって、江戸に販売店を開いて、京都に本店あるいは仕入店を置くことを理想としていたからだ。これは人口100万人と世界一、二の人口を擁しながら、江戸はその半数が武士階級で、その他にも職人や商人が多く非生産者がほとんどを占めていた。そこで一大消費地江戸に販売店を開いて、当時最大の呉服の生産地京都に仕入店を置くというのが商人の理想とされていたのだ。

 現金掛け値なしという正札販売は先輩の三井越後屋が最初に行ったものだが、
大丸屋の彦右衛門はいいことを見習うのに遠慮は要らないとばかり、大いにアイデアを模倣した。三井越後屋の貸し傘宣伝法もちゃっかり取り込んで“大丸マーク”入りの傘を雨の日に貸し出して、江戸の街々に大丸印の傘を氾濫させた。神社や寺院に手拭いを寄進して、手洗い場に吊るしてもらった。

店員には賭け事を一切禁じていたが、お客には福袋を売り出して、一等賞に振袖を賞品として進呈した。こうした才智と才覚による新商法は大いに当たって、大丸はやがて江戸でも評判の呉服商店の一つに加えられた。

 大丸は繁栄に繁栄を重ねたが、創業者の下村彦右衛門はまだ56歳だというのに、早くも隠居を宣言した。50代から先は大丸屋の運営を支配人に託して、彦右衛門は半ば隠居の心境だった。茶の湯や謡曲を楽しみつつ、もっぱら家訓をつくって子孫への戒めとしようとした。
彼はたとえその人が目の前にいなくても、得意先を呼び捨てにするようなことを許さなかった。客に上下をつけるな、たとえ子供が買いにこようとも、大名がこようとも同じく客として扱うべし、目先だけの商いを決してするなと戒めた彦右衛門は、商いに誇りを持っていた。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

                   

高島屋飯田新七・・・百貨店・高島屋の始祖、屋号は滋賀県高島郡から

 幼名を鉄次郎といった新七が越前敦賀の生家を出て、京都三条大橋東入ルの角田呉服店に丁稚奉公したのは文化11年(1814)、12歳の時だった。新七は明けても暮れても呉服の荷を背負って大津、膳所、草津と近江の町々を行商に歩いたが、思うように売れなかった。主家も衰運とみえ、新七が奉公して3年足らずで、遂に主家は倒産してしまった。

そこでまた別の呉服屋に再就職して、コマネズミのようによく働いた。すると捨てる神あれば拾う神ありで、烏丸通松原上ルに米屋をしていた飯田儀兵衛が、よく働くというので目をかけてくれた。そして、新七を婿養子に迎えたいと申し込んできた。飯田儀兵衛は、滋賀県高島郡の出身なので屋号を高島屋と称していた。そこで、新七は飯田姓を名乗り、高島屋の後継者となった。
 
 養子になった翌年、隣家に空き家ができたのをきっかけとして、古着屋を開くことにした。このとき、彼はこれまでの奉公で貯めた2貫500匁で店を借りたり補修を済ませたりしたので、仕入れのカネがなかった。やっと店はできたが、並べる品物がないと考え込んでいる夫の前へ、妻・お秀はたんすの引き出しを開いて、嫁入用の着物を差し出した。「これを並べておいてください」と。着物は四季それぞれ一着あれば間に合います。それにまたいつか買って頂けるでしょう。それまでどうかこれをお店に並べて売ってください-という。

お秀は跡取り娘だというのに、よくできた妻だった。それ以来、彼は仕入れてきた古着や綿服を肩にして、また江州通いを始めた。それは昔の姿と変わらなかったが、以前はただの奉公人、いまは小さくても一家の主だった。彼はその頃、四つの戒めを考えて、信条とした。

その一、確実な品を廉価に販売して自他の利益を図るべし。
その二、正札掛値なし。
その三、商品の良否については、明白に顧客に告げ、いささかも虚偽あるべからず。
その四、顧客の待遇はすべて平等にして、いやしくも貧富貴賎によりて差をつけるべからず。

客の選り好みをせず、誠実第一を心がけるべしと、彼は自らに言い聞かせた。
 天保元年(1830)、烏丸通松原上ル西側、北から3軒目の借家を、家賃月1歩 2朱200文で借り受けた新七は、10年目の再出発を図った。この店が、いわば 今日に至る高島屋の出発点となったものだが、この店を彼は3年ほどで買い取 った。時の老中水野忠邦が節約政策を打ち出した頃のことだ。新七は早朝の6 時に大戸を開いて、一家揃って掃除に励んだ。そのため高島屋よく気張るとい って評判を呼んだ。この評判がやがて信用のもととなった。古着を主体とした 商いは1年、1年と信用がつき顧客も増えていって営業規模が大きくなってきた。 嘉永4年(1851)、娘のお歌に婿養子を迎えた。花婿は寺町今出川に住む上田家 の次男直次郎で、少年期から呉服商に奉公していた実直な26歳の青年だった。 養父となった初代新七はこのとき50歳、直次郎は新次郎と改名して、新七とと もに家業に精を出した。

 時代は幕末、大きく変わろうとしていたときだった。新七父子は、いろいろ 世間の声を聞いた結果、高島屋は木綿と呉服を扱うことにした。新次郎は仕入 れのため北河内、中河内と歩き回り、現金払いで木綿地を買い求めた。仕入れ 現金払いが新七の方針だったが、現金払いは資金の手当が大変だった。また、 幕府の土台が揺らぎ始めた時期でもあり、なかなかモノが売れない時代に突入 していた。

 文久3年(1863)、薩摩・会津藩と長州藩との間で激しい戦闘となった「蛤御 門の変」のあおりで大火災に遭った飯田新七一家はまず家財道具を本圀寺へ運 んだ。二代目の新次郎は丁稚たちを督促して、土蔵内に全商品を運び込んだ。 一晩中続いた火災の翌日、焼失町は811町に上り、京都の中心部の大部分が焼 け野原と変わっていた。ところが、新七の指示で土蔵の中央に風呂桶を据えて 水を張り、要所要所に水を満たした四斗樽を何本か配しておいたのが奏功、土 蔵も商品も無事だった。

高島屋は土蔵前に急ごしらえの店をつくって、焼け残った衣料品を売り出し
た。すると着の身着のままの人もおおかったから、あっという間に売れ、二代目が大量に買い込んで困っていた木綿地も含め売れに売れた。初代63歳、二代目39歳のことだ。

 二代目は53歳の働き盛りで急逝したが、二代目夫人の男勝りの見識と統率力 によって、高島屋は存亡の危機を切り抜け、この後、明治時代の呉服商として 見事に発展していった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」
                   

高田屋嘉兵衛・・・蝦夷地開拓のため幕府御用を勤め、漁場開く

 高田屋嘉兵衛(幼名は菊弥)は明和6年(1769)、わずかな田畑を耕す貧農の家に生まれた。彼が生まれる200年以上も前のことだが永禄年間、先祖は武士だった。昔は武家のなれの果てというわけだ。父の弥吉は病弱で、その割には子だくさんだった。嘉兵衛を頭にして嘉蔵、善兵衛、金兵衛、嘉四郎、嘉十郎と男子だけ数えても6人いた。

 嘉兵衛は村医について文字を学び、12歳の頃、家を出て都志浦の和田喜十郎に奉公した。遠縁にあたる和田屋はいわば万屋で日用雑貨から魚に至るまで、売ったり買ったりと商売を実地に学ぶことになった。そのうえ、漁業も教えられた。後に彼が示した商才や漁師としての腕前はこの時代に培ったもので、何事もおろそかにしないで、よく学びよく働いた彼の努力が、後に大きな果実を結んだ。
嘉兵衛は10年後の22歳になった時、摂津兵庫の湊へ転職することになった。そこに母方の親類で樽廻船の船頭堺屋喜兵衛が住んでいた。喜兵衛は喜十郎の弟で、妻は嘉兵衛の母方の伯母にあたっていた。そこで、嘉兵衛は海で働くことを決意、義理の伯母に頼んで樽廻船の船子(水夫)となった。頭がよくて機転の利く嘉兵衛のこと、たちまち認められて、寛政7年(1795)、27歳にして和泉屋伊兵衛の船を預かる沖船頭となっている。

 しかし、彼の望みは高い。北前船を持つような船持ち船頭になりたいものだと。そのためには金が要る。彼は沖船頭の職をやめると、熊野灘へ出かけていって鰹を獲った。これを消費地、大坂へ持っていって売った。商才のある彼は3年ほどの間に500両の金を貯めた。さらに、北前船の船頭になった彼は酒田港で六代目栖原角兵衛と知り合い夢を語るうち、新造船を担保として1500両もの大金を借り受けられることになる。早速、酒田港の造船業者に発注して、1500石積みの大船、辰悦丸をつくりあげる。

 栖原角兵衛の勧めもあって嘉兵衛は新興の箱館へ進出、同地の廻船業者、白鳥屋と組んで兵庫から運んで行く物産の売りさばきを任せる。その後箱館に支店を開いて、弟の金兵衛を支配人として派遣、わずか2年のうちに持ち船も5隻に増え、いよいよ高田屋の看板を掲げて海運業者の仲間入りを果たした。

 この頃、ロシアの南下に対応して、幕府が蝦夷地の地理や現地の事情調査のために、まずエトロフ島への案内役として高田屋嘉兵衛を起用することを決める。このとき、幕府の蝦夷地勘定役、近藤重蔵と知り合った。重蔵30歳、嘉兵衛32歳のことだ。享和元年(1801)、幕府は嘉兵衛に微禄だが3人扶持を与え、蝦夷地御用船の船頭(船長)とした。これは公儀(幕府)御用という金看板を与えたことを意味する。こうなると一商人として交易のために蝦夷地を航海するというだけでなく、常に幕府の威光を背負っていることになって、その威力は絶大だった。建造を願い出て許された2隻を含め、辰悦丸をはじめとする8隻の大船は、大砲こそ備えていないが艦隊のような威圧感を与えた。各船、日の丸と吹抜きとを帆柱に翻し、辰悦丸には嘉兵衛が、続いて弟の嘉蔵、金兵衛、嘉四郎、嘉十郎がそれぞれ大船の船頭となって、高田屋船団を組んでの北海遠征だった。こうしてエトロフに米、塩、木綿、漁具などの官物を運び込んだばかりか、十カ所の漁場を開いた。この年の夏、弟の嘉蔵は高田屋の持ち舟貞宝丸に、幕府の天文地理を担当している間宮林蔵を乗せてカラフトヘ赴いた。

 当時、幕府はロシア軍艦の南下に伴って、しばしば砲撃や襲撃を受けたので、カラフトに600名、千島のエトロフに1400名の仙台藩兵を送り込み、宗谷には会津藩兵900名が配備につくという物々しさだった。その翌年、間宮林蔵はカラフトから黒竜江下流へと調査旅行を試みて、カラフトが半島ではなく島であることを突き止めた。そのため「間宮海峡」と世界の地図にその名前と功績の跡を残すことになった。

 文化9年(1812)8月、ロシアの軍艦ディアナ号のリコールド副長はエトロフのシベフ漁場付近で、日本船を見つけて拿捕した。この650石積みの観世丸は高田屋の手船で、嘉兵衛が乗っていてエトロフで獲れた魚類を、箱館へ運ぶ途中だった。船員4人とともに嘉兵衛はカムチャッカへ護送された。彼らは極寒のシベリアでの越冬を余儀なくされ2人の船員を死なせたが、翌文化10年9月、2年余り前の文化8年(1811)6月千島沿岸で捕えたディアナ号艦長ゴローニン少佐との人質交換でようやく解決した。翌年幕府は再び蝦夷地定御雇船頭に命じた。

 しかし、カムチャッカの囚人生活ですっかり体調を崩していた嘉兵衛は、久方ぶりに兵庫の邸へ帰った。ここで療養し、50歳になったのを機に隠居を宣言して、故郷の淡路島に引き籠もった。幕府は彼の功績を賞して、年間70俵の知行を贈っている。これまで無理を続けてきた体にガタがきて病床に臥すことが多くなり、家業全盛がせめてもの慰めだったが、文政10年(1827)4月5日、都志本村の自邸で永眠した。59歳だった。そして、全盛を誇った高田屋も嘉兵衛の没後4年にして、ロシア船と密貿易をしたという疑いをかけられ没落。持ち船のすべてを没収されたうえ、金兵衛は箱館から追放された。

(参考資料)司馬遼太郎「菜の花の沖」、邦光史郎「豪商物語」、邦光史郎「物語 海の日本史」 
                    

茶屋四郎次郎・・・徳川家康と親しかった、京都三大富豪の一人

 茶屋家の当主は代々四郎次郎を称している。ここに取り上げるのは三代目清次だ。彼はとりわけ徳川家康と親しく、そんな間柄を示す様々なエピソードが伝えられている。1616年(元和2年)、大坂夏の陣で豊臣家を壊滅させ、ようやくほっとした徳川家康(75歳)。そんな家康が隠居する駿府(静岡)へ茶屋四郎次郎がやってきて、「近頃、都では何が人気じゃ」と問われた彼は、「天麩羅(てんぷら)」を紹介する。食通だった家康は、早速賄い方に申し付けて茶屋四郎次郎がいう、魚に衣をつけて油で揚げる、その鯛の天麩羅を食べる。そして、あまりの美味に思わず二枚も平らげてしまった。高齢の身でもあり、これが原因で胃腸を悪くし、この年、家康は他界したという。

 この頃の京都の三長者は角倉了以、後藤庄三郎、そして茶屋四郎次郎こと中島四郎左衛門明延(あきのぶ)の3人だった。明延の父、宗延(むねのぶ)は武士だったが、討死したため子の明延は大和へ引き籠って、商人を志した。大和の奈良芝という商人と親しくなって、その庇護のもとに商いの道に入ったといわれる。やがて四条新町のあたりに店を営み、そこへ足利将軍義輝が立ち寄って、茶を所望したので、茶屋の屋号が生まれたという。

明延の子清延の頃、徳川家に近づいて、その御用達となった。清延は家康に付き従って三方が原の戦い(1572年)、長篠の戦い(1575年)など53回も戦陣に参加、軍功もあったというから、商人というよりもう立派な武人だ。茶屋家は橘の家紋を用いているが、これは三方が原の戦いの後で、家康から褒美としてもらったものだ。清延は江戸へ入府した家康が目指した城下町建設に協力し、本町二丁目に屋敷を賜った。

 清延は天下の覇権取りを目指す家康の意を受けて、宮廷工作を行っている。長年にわたって勧修寺晴豊を窓口として宮廷にアプローチ、天皇の母に当たる新上東門院に取り入っていた。また、彼は豊臣秀吉に取り入って、朱印状を手に入れ、安南(ベトナム)国・南部の交趾(こうち)地方との海外貿易にも取り組んだ。普通、オーナー自ら船に乗り込むようなことはないが、武人であり商人という彼は自ら指揮して朱印船に乗り込んだ。

 1582年(天正10年)、織田信長が明智光秀に弑逆された、本能寺の変をいち早く家康に告げたのも清延だった。そして家康を、冷静に危機を間一髪で脱出させたのも、彼の武略と機転に富んだ的確な指示だったという。そんな茶屋四郎次郎の名声は高いが、その活躍期は意外に短かった。1596年(慶長元年)清延は享年52歳をもって世を去っている。病によるものか、何の記録も残っていない。死後、その子清忠が後を継いで二代目と称したが、まだ結婚もしないうちに病死して、その跡は弟の又四郎清次が継ぐことになった。それが三代目茶屋四郎次郎だ。

 茶屋四郎次郎は四代、五代と、代々四郎次郎を名乗っていた。ただ、その中でも家康の信任を得て、海外に出かけるほどの大きな商いをしたのは三代目清延と五代目清次だった。通称を又四郎といった清次は、1585年(天正13年)、清延の次男として生まれ、兄清忠が二代目を継いだが、病弱のため1603年(慶長8年)に死亡したので、清次が三代目を襲名することになった。彼は当初長崎奉行だった長谷川左兵衛藤広の養子となって、長崎へ行っていた。そこで彼もまた純粋な商人というより、武人にして商業に従事した者といってよく、武士として交易や長崎の監察業務に携わっていた。商人としては茶屋四郎次郎を、武人としては中島四郎二郎を名乗って、茶屋家の当主たちは巧みに武人の顔と政商の顔を使い分けている。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣では家康の陣営に侍して御用を務め、和平工作のため大坂城へ入ったという。この年、家康の命で長谷川の養子という身分を離れた清次は、茶屋家三代目の当主となって、三代目茶屋四郎次郎を襲名した。

 清次は生糸の輸入と販売をする糸割符仲間の代表となった。彼は家康の側近に仕えて立場を固めて得た、この特権によって財を成した。彼は一般商人と違って、武士として生活しながら特権商人として稼いでいたのだ。さらに、生糸や呉服だけでなく、軍需品や武器も扱っていたともいわれる。しかし、1622年(元和8年)、彼は37歳という若さで世を去ってしまった。そこで長男の道澄が後を継いだが、その日から茶屋の凋落と縮小が始まった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

奈良屋茂左衛門・・・一代で三井高利の2倍の資産を築いた元禄期の豪商

 奈良屋茂左衛門というと、彼がまだ商人としては駆け出しの頃、日光東照宮の修復工事にからんで、町奉行の権力をバックに利用し、大店の木曽檜問屋を巧妙な策略にかけ、ひとかどの材木商に伸し上がったという逸話がある。この話の真偽は定かではないが、商人にとって度胸や度量の大きさが必要だということが痛感させられる。

 奈良屋茂左衛門の生涯は、同時代の豪商、紀伊國屋文左衛門と同様、ほとんど定かではない。だが、『江戸真砂』はじめ各種の史料を総合すると、およそ次のようなことが分かる。茂左衛門は江戸霊岸島の裏長屋に住む車力の子供だといわれ、また材木の小揚げ人足の子供という説もあるが、はっきりしない。

生来の利発者で、そのうえ字も上手だったので、宇野という材木屋に雇われ勤めていたが、28歳のとき独立してわずかばかりの丸太・竹などを置く小さな店を開いた。ちょうどそんなとき、1683年(天和3年)、日光大地震があり、東照宮修復工事と関連して御用檜の入札があった。

 この入札で茂左衛門は見事に一大出世のきっかけを掴む。当時、江戸茅場町に柏木という木曽檜問屋があって、御用木の規格に合うような檜の良材をほとんど独占していたので、応札者はみな柏木家を頼って相場の倍ほどの値段を入れたが、茂左衛門一人は大胆にもその半値で入札した。当然、札は茂左衛門に落ちる。彼は翌日、できる限り立派に衣服を整えて柏木家に行き、事情を話して檜材を分けてくれるように頼むが、柏木家の方は、材木の手持ちがないと、彼の頼みを断る。

 ここからが度胸と知恵のみせどころだ。柏木家の出方を予期していた茂左衛門はさっそく町奉行所に出頭。柏木家が檜材を買い占めていて、日光修復の御用木にとワケを話して頼んでも、品物がないといって分けてくれないので、何とかしてほしい-と訴え出たのだ。奉行所の召し出しにはゼロ回答というわけにいかず、柏木家はようやく20~30本の檜材を渡した。

しかし、それくらいではどうにもならないことから、茂左衛門は再び奉行所に行き、町役人を案内して、かねがね調べておいた柏木家の貯木場に行き、そこにあるだけの檜材に全部刻印を打ってしまった。その数が御用材入用分よりはるかに多かったので、不届き千万というので柏木家は闕所(家財没収)のうえ、主人・太左衛門は伊豆の新島へ、手代は三宅島・神津島へそれぞれ流罪になった。
こうして、まんまと茂左衛門の思惑通りの流れになって、彼は出世の糸口を掴んだのだ。彼はその檜材で無事、日光御用を務め、それでもなお残木が金高にして2万両ほどあったという。まさに、度胸と知恵あるいは、人間的な器量の大きさがこうした幸運を呼び込んだといえよう。

 柏木太左衛門は7年後に許されて島から帰るが、自分を陥れた茂左衛門が盛大にやっているのを見て、よほど悔しい思いをしたのか、恨みに思ってのことか、食を断って死んでしまった。そのため日光御用材の代金も受取人がなく、自然に茂左衛門のものとなり、ますます奈良屋は盛んになったという。
 この話の真偽のほどは定かではない。ただ、元禄期に奈良屋茂左衛門が、名前の知られた大材木商になっていたことは、史実にある。徳川林政史研究所には、茂左衛門が津田平吉を願い人に立てて、尾張藩に木曽檜材都合3100本を金2万3146両2分余で払い下げてくれるよう願い出た史料が残っている。

 茂左衛門は1714年(正徳4年)に死ぬが、一代で築いた資産は総額13万2530両と、9000両ほどの道具類だ。これは銀に換算すると約9100貫目となり、単純比較すると、三井高利の遺産の2倍を上回る巨大な金額となる。ただ、この間に通貨改鋳があるので、正確な比較は難しい。
 茂左衛門はこれを妻・総領・二男・親類・家来出入りの者の五者に配分している。そして遺言状の中で、たとえ手代がどんなに勧めても、商売事や公儀事には一切手を出さぬよう、また店賃や金利がかなりあるはずだから、その半分は火事などの非常に備え、残る半分で無駄を省いて質素に生活するように-と指示している。

しかし、『奈良茂旧記』によると、この指示にもかかわらず、この巨額の遺産はその子供と孫との二代でほぼ使い果たし、父から譲られた1万5000両もする屋敷も手放している。あの世の茂左衛門にとっては、不肖の子供たちよ-と、歯ぎしりする思いだったに違いない。皮肉にも、この屋敷を買い取ったのは三井八郎右衛門だった。

(参考資料)大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

広瀬宰平・・・住友財閥の基礎固めをした実業家で関西財界に貢献

 広瀬宰平は住友400年余の歴史の中で、中興の元勲と称えられている人物で、明治の住友の初代理事となった。また、安治川下流の改修に尽力、関西財界の基礎確立に貢献した五大友厚らと大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪商船会社を創設した。

 宰平は1828年(文政11年)、近江国(現在の滋賀県)野洲郡八夫(やぶ)村(現在の中主町八夫)に住む北脇理三郎の次男として生まれた。幼名は駒之助。北脇家は元武士の出身で土地の名家だった。宰平の姉の田鶴子は、武佐村の代官伊庭正人に嫁いで伊庭貞剛を産んでいる。この貞剛が後に叔父宰平に勧められて当時泉屋と称していた住友へ入って二代目総理事となった。宰平自身、父の弟、叔父治右衛門が住友にいたため、住友家に勤めることになったのだった。

 宰平は1836年(天保7年)、9歳のとき、叔父に伴われて伊予国(愛媛県)に赴き、11歳のとき別子銅山の勘場(事務所)に奉公することになった。そのときの泉屋の家長(当主)は九代友聞(ともひろ)だった。以来、彼は友視、友訓、友親、友忠、登久、友純と、57年間に七代の家長に仕えることになる。

 当時の住友の家業は、別子銅山の経営と製銅業、現代風に表現すれば精錬製銅業を営んでいた。別子銅山は1690年(元禄3年)に発見され、初めは4000尺の山頂に、純銅の塊がゴロゴロしているのを拾ってくるだけでよかったが、以来150年ほどの間に出銅率がすっかり落ち、どんどん坑道が深くなって、坑内に水がたまり、この水抜きに苦しんで、さらに別の坑道を掘るというように、経営が苦しくなってきた。

そして別子銅山は、第十代友視の頃は毎年1万両という巨額の赤字を生み出す厄介ものになっていた。そのうえ飢饉が続き世の中が不景気で、鉱夫の給金も払えなくなってきた。そんな頃、宰平がこの別子銅山へ奉公したのだ。

 別子銅山の勘場には4000人の男女が暮らしている。支配人以下住友系から派遣されてきた店員が詰め、給料の計算や出銅量の記録や食料の配給、資材の手当てその他の事務一切を処理している。11歳の駒之助は支配人の甥なので、古株社員や悪童たちも表面は遠慮しているが、裏ではさんざんしごきや意地悪をされた。その厳しさに耐えて、彼はよく働いた。

26歳になったとき、当主友視のお声がかりで、大坂から嫁をもらうことになった。さらに結婚後は、家長の意向で江戸店の支配人、広瀬義右衛門の養子となって広瀬家を継ぐことになっていた。最初の妻とは死別。1860年(万延元年)、義右衛門は町子と再婚した。

 米騒動が起こるなど幕末の動乱期、別子銅山の舵取りを任されたのが広瀬宰平だ。38歳と若い総支配人だった。折から二度目の妻とも死別するという家庭的な不幸を忘れるためにも広瀬は献身的な働きで別子銅山の危機に立ち向かった。1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いに勝った薩長軍が大坂・住友本店の吹所(精錬所)に封印、銅蔵の製品を没収してしまった。また、別子銅山も川田小一郎(後の日銀総裁)を隊長とする一隊が接収にきた。

こうした窮状に住友本店の番頭たちが会議し、別子銅山の売却を当主に進言。当主もやむなくこれを受け入れようとしたとき、広瀬が熱弁を振るう。そして「住友が今日あるのは別子銅山のお陰、別子は当家の大黒柱です…」などと説き、当主を翻意させたのだ。
 その後、広瀬はフランスから技師を招くなど改善と近代化を進めて別子銅山を蘇らせ、五代友厚とともに大阪財界の発展に貢献した。

(参考資料)佐藤雅美「幕末『住友』参謀 広瀬宰平の経営戦略」、邦光史郎「豪商物語」

藤田伝三郎・・・維新後に藤田組を設立、大阪財界の指導者として活躍

 明治新政府は、一口にいって藩閥政治といわれている。この時代、政府高官となった同藩出身者の実業家とが互いに協力し合って、様々な事業を興していったケースが少なくない。いわゆる「政商」だ。土佐藩の岩崎弥太郎(三菱の創始者)がそうだ。そして、長州藩を代表する政商が藤田伝三郎だ。

藤田伝三郎は天保12年(1841)、長州藩で酒造業を営む藤田半右衛門の四男に生まれた。16歳になると父の方針で、長兄が投げ出した醤油醸造業を引き受けて独立することになった。3年間で赤字の店を立派に建て直した。そして、国事に身を捧げる決心をした。

元治元年(1864)、京都に上った伝三郎は志士たちに混じってよく働いた。高杉晋作が組織した、身分制度の枠を取り払った奇兵隊に参加した伝三郎は、そこで山県有朋や井上馨といった、後に大物となった人たちと知り合った。明治新政府が生まれると、山県や井上は政府に入って高官に出世した。ところが、伝三郎は奇兵隊でよく働いたのに、少しもその功績が認められないので、不満の余り勝手に隊を離れて大阪へ向かった。

大阪で一頓挫あった後、伝三郎は大賀幾助を頼って、その店員となって製靴業を始めた。当時陸軍は輸入した靴を兵隊に支給していたが、あまり高くつきすぎるので、何とかして国産に切り替えたいと望んでいた。兵部大丞の山田顕義はかつての先輩だった。そうした伝手をたどって軍用品の製造を始める手がかりを得た伝三郎は、身を寄せていた大賀幾助の業務を継承して製靴業に乗り出した。

そこへ、かつての幕府の上級武士で、明治維新となって斎藤辰吉から中野梧一に名を改めて、新政府に登用されていた中野が、官を辞して大阪に来て、再びめぐりあう。中野は米相場で巨万の富をつかんだところだった。ともに西南の役の軍需品を調達して大いに儲けることになったが、明治初年はまだ政情不安で、佐賀の乱や神風連の乱などが相次いだから、軍靴などは製造が追いつかないくらいだった。伝三郎は中野と組んで征討軍の物品調達を引き受け、軍靴はむろんのこと軍服や糧食や革鞋まで納めて、藤田組という企業体をつくり上げるまでに成長していった。軍需品よりまだ儲かったのは軍夫の斡旋だった。

西南戦争の儲け頭は岩崎弥太郎で、政府から新式の汽船を10隻も買ってもらったばかりか、多額の輸送費を支払われて“戦争成金”となった。東の岩崎と並ぶ西の戦争成金は藤田伝三郎で、軍靴、軍服、紺足袋といった衣類のほか、人夫、軍夫の請負、周旋で大いに儲けた。月収5円か6円で暮らせた時代に約300万円の巨富を得たから、世間の羨望の的となった。

明治14年、初代会頭五代友厚の後を受けて、伝三郎は大阪商法会議所の会頭に就任、関西財界のリーダーの一人となった。彼は関西において大阪硫酸会社、太湖汽船、大阪紡績会社、南海鉄道会社(現在の南海電鉄)などの運営や設立・参画、さらに欧米式の大阪商品取引所の設立、初代理事長なども務めた。明治45年、彼の死後、彼の事業は甥の久原房之助が継承した。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」              

益田 孝・・・三井物産の創始者で、三井財閥の発展に尽力

 益田孝は、戊辰戦争を徳川の直属軍の士官として官軍と戦った経歴を持ちながら、明治に入って大蔵省に勤務し後、日本型商社、三井物産を誕生させ、三井合名会社理事長に就任するなど三井財閥の発展に尽くした。生没年は1848~1938年。

 益田の生家は佐渡金山の地元役人で、父親の鷹之助は計数に強かった。佐渡奉行所で勘定方を務め有能だった。そのため箱館奉行所にスカウトされ支配調役の下役として転任した。1858年(安政5年)、この父とともに箱館へ移住した11歳の益田孝は奉行所内の学塾へ通って剣道槍術、馬術、漢学などの教育を受けた。また箱館ではこれから必要になるというので、英語も学んだ。まもなく父が外国奉行の下役として江戸詰めになり、一家は下家に住んだ。

孝も外国語修得見習生となり、試験に合格し正式に任官、幕府の役人の末席に連なることになった。彼は14歳で元服し、通弁御用の下役として出仕した最初の日に福沢諭吉、寺島宗則に茶を汲んだという。

1863年(文久3年)、益田はフランスへ派遣された幕府の池田使節団の一員として、父親とともに渡欧した。8カ月ほどの洋行だったが、実際にヨーロッパ文明に触れたことは、16歳の孝にとってすべてが驚きであり勉強だった。ナポレオン三世の招待で大演習を見学したり、製鉄所を視察した。
帰国後、孝は横浜税関勤務となり、まもなく新設された騎兵隊に入って少尉に任官した。わずか21歳で騎兵隊の隊長になったが、肝心の幕府の屋台骨が揺らいで、遂に瓦解してしまった。明治新政府の誕生だ。

いち早く両刀を捨て、丁髷(ちょんまげ)を切った孝は横浜に移住して、これからは商業の時代だと考えた。彼は紹介されて高島嘉右衛門という商人と知り合った。後に易断で有名になった高島も当時は貿易商だった。孝にとってラッキーだったのは、その頃の横浜にはまともな英語を話せる日本人がほとんどいなかったことだ。外国商館は中国人を雇い、中国人は日本人の引き取り屋(今の輸入商)と筆談で取引していたのだ。孝はアルバイトで通訳の仕事を引き受けた。こうした中で彼は、アメリカ人のウォールシ・ホールと親しくなった。この人物はアメリカ一番館という商館を経営していた。生糸を扱っているウォールシ・ホールのクラーク(番頭)となった孝は、得意の英語を操って、貿易実務のABCを学び、騎兵隊の隊長から貿易商の番頭に変身した。

明治5年、共同で事業をする約束になっていた岡田平蔵と所用で東京へ出かけた際、大森で当時の政府高官で長州閥有力者、井上馨と知り合う。この井上の勧めで孝は官界に入り、大蔵省四等出仕の辞令をもらって、いきなり造幣権頭(長官代理)に任じられた。ところが明治6年、台湾遠征問題をめぐって薩長間に対立が起こり、さらに井上馨と佐賀閥の江藤新平の間に予算をめぐる争いが生じて、遂に井上は大蔵大輔を辞めることになった。親分が辞めてしまったのでは孝だけとどまってはいられない。幕臣の出身だけに官僚の世界は住みづらかった。

ただ、井上との関係はまだまだ続く。浪人中の孝に井上から先収会社をつくって貿易をやりたい。ついては3万円の資本金を出すから、後は運営をやってくれと一任される。孝は社長として腕を振るうが、最大の資本家で大阪支店の責任者でもあった岡田平蔵の急死で頓挫。同社は井上や伊藤博文らと、とくに関係の深かった三井に引き継がれることになった。井上がいち早く三井の大番頭、三野村利左衛門と話をつけたのだ。とはいえ、井上は社主こそ三井武之助だが、これはお飾りで、全権は社長と決まった。そのうえで、孝に社長を任せる-という。その一言で孝の腹は決まった。この会社は三井の物産方という意味で「三井物産」と名付けられた。

この後、事業家益田孝は三野村利左衛門の商法を模範として、政府がらみのビッグビジネスをものにし飛躍。三井合名の理事長となり、団琢磨、藤原銀次郎、武藤山治など優れた後継者を育てた。

(参考資料)三好徹「明治に名参謀ありて」、邦光史郎「豪商物語」、小島直記「三井物産社長」

安田善次郎・・・日本最初の民間銀行の発足など安田財閥の創始者

 天保9年(1838)10月、富山藩の下級武士、安田善悦の家に、長男岩次郎が誕生した。後の安田財閥の創始者、安田善次郎である。父は武士とはいえ、先祖伝来の武家ではなく、士分の株を金で買ったもので、それも御長柄と呼ぶ最下位の身分だった。 安田岩次郎は、上級武士と出くわして雪の中に土下座する父の姿と、上級武士を駕籠脇に従えた、大名貸ししている大阪の両替商の店員の姿をみて、金を儲けて何が何でも千両分限(資産家)になるぞと決意。そして、商人として成功するにはやはり江戸へ出る必要がある-と密かに決心した。

 彼は跡取り息子なので、とても親の許しが得られまいと考え、こっそり家を抜け出した。しかし一度目は失敗してすごすごと帰ってきた。だが2年間、岩のように黙って働いたが、やはり江戸へ出たいという思いは募る一方だった。しかしいくら頼んでも許されないので、二度目の家出を敢行した。安政3年(1856)、江戸市中に入った岩次郎は、その巨大さに目をみはった。想像を絶する家数の多さと人口の巨大さと驚くほどの繁盛ぶりに圧倒された。しかし、それだけにここなら稼げるという思いも深まった。彼はかねてから目をつけていた富山出身の銭湯主を訪ねて、手伝いをさせてほしいと頼み込んだ。銭湯を手伝っているうちに、日本橋の乾物屋の小僧に就職した。ところが、富山出身者を頼ったため、郷里の父にたちまち居所が知れてまたもや連れ戻されてしまった。

しかし三度目の正直で、安政5年(1858)、今度は父を説き伏せて、ようやく晴れて江戸へ旅立った。今度は玩具問屋に奉公した。毎日、岩次郎は天秤棒を担いで得意先へ玩具を卸して回った。足掛け3年勤めてやっと慣れたところで、主人夫婦に娘婿に望まれ、自分が跡取り息子なのでこれを断り、日本橋小舟町の広田屋に再就職した。広田屋は両替と海産物の販売を兼ねていた。両替といっても金銀貨を銅貨や鉄銭と引き替えて手数料をもらうという、いわゆる銭両替商で細かい商売だった。ここでもよく働いたが、3年経つと彼は考えた。このまま奉公していたのでは千両分限はおろか、十両の金も貯まらない。といって、手元にある3両の金では資本金になりそうになかった。

そこで彼は煙草をやめ、これまで趣味で集めていた煙草入れを売り払った。広田屋の退職金と持ち金合わせた25両で、横浜の町で見かけたスルメの山に賭けた。博打のようなものだったが、これを江戸へ運び売り、17両儲けた。その結果、42両の資本金となった。ここで彼は三つの誓いを立てた。
その一、他人を頼らず、一日も早く独立して商人として身を立てること。

その二、虚言を排し、正直に世渡りすること。
その三、生活費は収入の八割をもって充て、残金は貯蓄すること。

彼は日本橋の表通りに露店を出すと、戸板の上に小銭を並べて、道行く人の両替を引き受けた。元治元年(1864)3月、ようやく乗物町に間口三間半、奥行き五間半の小店をみつけて一カ月二分一朱の家賃で借り受けた。いよいよ一軒の店を持つ身になったので、父の名を一字もらって善次郎と改名した。安田善次郎の誕生だ。

慶応2年(1866)、彼は年間4000両の利益を上げ、その2年後には番頭と手代7人、下女3人を雇う江戸有数の両替商にのしあがって、2000両の資産家となっていた。当時、多くの富商・名家が明治維新の“大波”に足許をすくわれ、回収不能のため業績を落とし、どんどん脱落していった。これに対し、善次郎は巧みに変動期を利用し、財を成した。

明治12年(1879)3月、大蔵省出納局収税預り人となり、明治13年1月には安田商店を改組、国立銀行条例によらぬ日本最初の民間銀行、安田銀行を発足させた。先にスタートさせた第三銀行とは組織が違うが、その違いを巧みに使い分けて伸びていく。

安田はまた、朝野新聞主筆の成島柳北らとともに共済五百名社をつくった。日本での生命保険会社だ。銀行と保険会社を揃え、いよいよ金融資本としての体制を固めた。そして、これを機に東京商法会議所(いまの商工会議所)議員と府会議員をやめた。このとき安田は43歳。普通ならそろそろ名誉職や公的なポストがほしくなる頃だが、安田は仕事師として徹するために社外の役職から降りたのだった。明治12年11月、日本最初の貿易金融機関である横浜正金銀行(後の東京銀行、いまの三菱東京UFJ銀行)を発足させた。

 こうして一流実業家の仲間入りをすると、築き上げた財産をいかに子孫に遺すべきか考え、明治45年、資本金1000万円の合名会社“安田保善社”を設立して、全関係事業の統括機関とした。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、邦光史郎「剛腕の経営学」

秋山真之・・・日露戦争でロシア艦隊を全滅させた天才・参謀

 明治37~38年(1904~1905)の日露戦争、日本の連合艦隊司令官は東郷平八郎、この海戦に完勝したことによって、アドミラル・トーゴーの名は世界中に喧伝され、イギリスの名将ネルソンと並んで東郷は海戦の歴史を語るうえで欠かすことのできない英雄になった。東郷は確かに傑出した提督だった。ただ、彼を司令長官に任命したのは海相山本権兵衛で、実際の作戦を立案指導したのは、一参謀だった秋山真之だった。

極言すれば司令長官が別人でも、その人が秋山に作戦を委ねていれば、ほぼ同じ結果を得たのではないだろうか。何故ならこの日本海海戦でロシア艦隊を全滅させ、日本海軍の損害は小さな水雷艇三隻のみという、奇跡的な圧勝をもたらしたのだから。昭和20年までの軍部の歴史の中で、これほどの先見性と洞察力を持った軍人は、秋山一人だった。

 秋山家は子だくさんで、男5人女1人に恵まれた。二男と四男は他家へ養子に行き、三男の好古は陸軍に入り、日露戦争のときは騎兵部隊の指揮官として大いに活躍した。海軍に入った真之は明治元年(1868)3月20日、松山藩士秋山久敬の五男として生まれ、大正7年(1918)2月に病死した。享年50歳。武士は明治維新後の廃藩置県で、いわば失業したようなものであり、秋山家も生活は苦しかった。

 陸軍士官学校に入って軍人となった好古が卒業後に任官し、15歳の真之を呼び寄せ、大学予備門に入れた。この学校は後の第一高等学校だ。つまり東京帝国大学へ入ろうとするものは、予備門に入ることが多かった。真之は松山以来の友達の正岡子規と一緒に下宿して予備門に通ったが、19歳のときに海軍兵学校を受験して、55人の合格者のうち15番目の成績で入校した。大学へ行くには学資が必要で、それを好古に負担させまいとしたのだ。軍隊の学校なら、衣食住の全部が支給されるし、少額でも給与がつく。真之は明治22年に海軍兵学校をトップで卒業した。入校したときは15番だったが、それ以外は毎学年、彼は常にトップだった。

 明治36年6月、秋山真之はアメリカ留学の辞令をもらい渡米する。学校での授業は退屈で、得るものは少ない。そこで彼は戦術の大家として知られたマハン提督を訪ね個人的にレッスンを受ける。この中で海戦だけでなく、陸戦も含め古今の実戦を詳しく調べ徹底的に研究することを教えられた。また海図に将棋の駒のような軍艦の模型を配置して行う兵棋演習で、実戦の疑似体験を積む方法があることを知った。さらに、アメリカとスペインがキューバの独立をめぐって戦争を始め、幸運にも秋山は観戦武官として従軍した。この戦争のあとイギリス出張を経て帰国し、海軍大学の教官になった。

 明治37年2月10日、ロシアに対し宣戦布告。秋山は東郷司令長官の下で作戦主任参謀だった。彼の上に参謀長がいるが、作戦の立案は彼に任されていた。旅順のロシア艦隊は戦力的には日本とほぼ対等だったが、本国のバルチック海に旅順艦隊と同程度の艦隊を持っていた。当面は旅順艦隊対連合艦隊の戦闘になるが、もしバルチック艦隊が極東へ回航してくれば、ロシアの戦力は日本の2倍ということになる。したがって、日本としては同等戦力のうちに旅順の敵艦隊を全滅させ、やがて到着するはずのバルチック艦隊に備えておく必要があった。それも、旅順艦隊とは損害ゼロで完勝することが求められた。

 味方が砲撃される機会を減らし、相手を砲撃する時間を増やす。このテーマに答えて考え出されたのが、山屋他人中佐の半円戦法だった。一列に進んでくる敵に対し、こちらは右へ半円形を描いて展開する。秋山はこの半円戦法を改良して「丁字」戦法を考え出した。丁の字、あるいはカタカナの「イ」の字でもよい。一列に進んでくる敵に対して、その進行方向を遮るように進むのだ。丁字戦法は敵の行く手を遮るから、双方が遠ざかるということはない。その代償として、味方の先頭艦が一列になった敵艦から集中砲火を浴びる危険があった。ただ、それを通り越してしまえば、横一列に展開した味方の各艦から、敵の旗艦に砲火を集中できる。ある意味で皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切る戦法だった。

(参考資料)吉村昭「海の史劇」、生出寿「知将 秋山真之」、三好徹「明治に名参謀ありて」、加来耕三「日本補佐役列伝」                    

小林一茶・・・ “不幸の塊”52歳で初めて妻帯した忍従の俳人

 俳人・小林一茶は“不幸の塊”のような人物だった。3歳で実母に死に別れ、8歳のときやってきた継母にいじめ抜かれ、この母に子供が生まれてからは、ますます折り合いが悪くなった。そのため、15歳のとき江戸に奉公に出された。江戸では「わたり奉公」して食いつなぐ生活の連続で、暮らしが楽であるはずがない。父が病気になったので見舞いに帰郷するが、継母や義弟とはうまくゆかず、父の死後は遺産のことでゴタゴタし、この問題は長く尾を引いた。やっと遺産問題が決着し、一茶が故郷へ戻るのは50歳のときだ。妻を初めて迎えたのはその2年後、52歳のときのことだ。

生涯、一つの考え方にこだわって妻帯することなく過ごした英傑は少なくない。だが一茶の場合、そうではない。世間一般の親子揃っての、慎ましやかな暮らしさえできず、故郷でようやく落ち着いた暮らしができると思い、初めて妻を迎えたとき、世間的に表現すれば人生の大半を終わっていたということなのだ。

 小林一茶は信濃北部の北国街道柏原宿(現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原)の貧農の長男として生まれた。本名は小林弥太郎。生没年は1763(宝暦13)~1828年(文政10年)。3歳のとき生母を失い、8歳で継母を迎えた。この継母に馴染めず、15歳のとき江戸へ奉公に出された。江戸では「わたり奉公」で食いつなぐ、苦難の生活を続けた。25歳のとき、二六庵小林竹阿に師事して、俳諧を学んだといわれる。ただ、この点については確かな史料は全くない。
 29歳のとき、故郷に帰り、翌年から36歳まで俳諧の修行のため、近畿・四国・九州を歴遊する。39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが、1カ月ほど後に父は死去。以後、遺産相続の件で、継母と12年間争った。この間、一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつ、遺産相続権を主張し続けた。

 50歳で再度、故郷に帰り、その2年後28歳の妻「きく」を娶り3男1女をもうけるが、悲しいことにいずれも幼くして亡くなっている。その妻「きく」も痛風がもとで、37歳の生涯を閉じている。2番目の妻、田中雪を迎えるが、老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。3番目の妻「やを」との間に1女「やた」をもうけた。ただ、「やた」は一茶の死後に生まれたもので、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。

 1827年(文政10年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活するようになり、同年その土蔵の中で、“不幸の塊”のような、65年の生涯を閉じた。
 一茶の俳諧俳文集『おらが春』は1819年(文化2年)、一茶が57歳のときの一年間、故郷での折々のできごとに寄せて詠んだ俳句・俳文を、没後25年になる1852年(嘉永5年)に白井一之(いっし)が、自家本として刊行したものだ。『おらが春』は時系列に沿って書き記された日記ではなく、刊行を意図して構成されたものだ。さらに一茶自身、改訂や推敲を重ねたが、未刊のままに留まっていたものだ。表題の『おらが春』は白井一之が本文の第一話の中に出てくる「目出度さもちう位也おらが春」(めでたさも ちゅうくらいなり おらがはる)から採って名付けたものだ。一茶の代表的な句として、よく知られている

・我と来て遊べや親のない雀(われときて あそべやおやのないすずめ)
・名月を取ってくれろとなく子哉(めいげつを とってくれろとなくこかな)
などはこの作品の中に収められている。

(参考資料)藤沢周平「一茶」

大隈重信・・・政治的力量・人間的魅力を備えた実力派の政治家

 大隈重信は政治家と教育者の2つの顔を持っている。政治家としては大久保利通没後、参議筆頭となって殖産興業政策を推進、いわゆる大隈財政を展開し、第八代および第十七代内閣総理大臣を務めた。また彼は周知の通り、早稲田大学(当時の東京専門学校)の創設をはじめ終生、教育事業に力を尽くした。国書刊行会、大日本文明協会の設立、『新日本』『大観』などの雑誌の主宰、『開国五十年史』『開国大勢史』の著述など広く明治文明の推進者としての功績を持っている。大隈の生没年は1838(天保9)~1922年(大正11年)。

 大隈重信は肥前国・佐賀城下会所小路(現在の佐賀市水ヶ江)に佐賀藩士の大隈信保・三井子(みいこ)夫妻の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は知行400石の砲術長を務める上士の家柄だった。大隈は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色の『葉隠』に基づく儒教教育を受けた。だが、これに反発し、1854年(安政元年)同志とともに藩校の改革を訴えた。1856年(安政3年)佐賀藩蘭学寮に転じた。のち1861年(文久元年)鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

 1865年(慶応元年)、佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)で、副島種臣とともに教頭格となって指導にあたった。また、フルベッキに英語を学んだ。このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きな影響を受けた。そして、京都や長崎に往来して尊王派として活動した。

薩長土肥、明治維新に功績があった4つの藩だ。このうち、薩摩と長州は武力討幕を打ち出し、そのための政治活動をした。だが、土佐と肥前は違う。土佐は、戊辰戦争が始まる直前まで徳川氏擁護で動いていたし、肥前藩は政治的な動きは全くしていなかった。その土佐と肥前が、薩長と並び称されるようになったのは、戊辰戦争になってからの役割が大きかったからだ。

明治政府が本格的な仕事を開始すると、土佐藩の比重はまたあやしくなってくるが、肥前は出身者個々人の政治的力量によって、新政権の中で次第に重きを成していった。ここに取り上げる大隈重信はじめ、江藤新平、副島種臣らはみな抜群の政治的力量の持ち主だ。とりわけ大隈重信は財政や外交手腕と政治的包容力とで、薩長出身者をも配下に抱え込むほどの一大勢力を形成した。

大隈がその存在感を発揮したのがキリスト教処分問題だった。彼はこの問題で、英公使パークスと堂々とわたり合い談判したのだ。パークスは41歳。フランス公使ロッシュは徳川方にかけ、パークスは倒幕派にかけた天下のバクチで勝ったうえに、列国に先んじて明治政府を承認した功労者だ。半面、このことを恩に着せて、ことごとに先輩面、保護者面、指導者面で横車を押そうとするところがあった。ところが、フルベッキ宣教師についてすでにキリスト教と万国公法を学んでいた大隈はいささかもたじろがず、昼食抜きで6時間もの大激論をやり抜いた。

このとき通訳を務めたシーボルトが、後に三条実美や岩倉具視に「パークスもきょうの談判には大いに愕いて、これまで日本で大隈のような男と談判したことはない、といって、日本の外交官に少し尊敬の気持ちを加えたようです」と語ったのだ。そこで、大隈の評価が高まり、その後抜擢され出世していったというわけだ。

また、「築地梁山泊」とも呼ばれた大隈邸には井上馨、五代友厚、山県有朋、中井弘、大江卓、土居通夫、山口尚芳、前田正名、古沢滋など、ひと癖もふた癖もある豪傑たちが集まっていた。木戸孝允や大久保利通なども、ここに集まる連中の動向を大いに気に病んでいたという。ともかく、これほど癖のある人物たちをも引き付けるだけの人間的魅力が、大隈にあったということだ。
 大隈は、岩倉具視一行の遣欧中の留守政府内では西郷隆盛らの征韓論に反対の立場を取り、次いで大久保利通の下で財政を担当しつつ秩禄処分、地租改正を進め、大久保没後は参議筆頭となって殖産興業政策を推進した。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、三好徹「日本宰相伝 葉隠嫌い」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

折口信夫・・・「折口学」で、「あの世」を明らかにしようとした巨人

 折口信夫は「あの世」とは何か?を考え、明らかにしようとした異様な人物であり、巨人だった。彼は「折口信夫」の名で国文学、民俗学、宗教学の論文を書き、「釈迢空(しゃくちょうくう)」の名で詩や歌や小説を書いた。折口の成し遂げた研究は「折口学」と総称される。芸能史、国文学を主な研究分野としてはいるものの、折口の研究領域は既存の学問の範疇に収まりきらないほど広範囲にわたっている。したがって、折口の研究および思想を一つの学問体系とみなしたものが「折口学」なのだ。折口の生没年は1887(明治20)~1953年(昭和28年)。

 彼は書くものにより、折口信夫と釈迢空の二つを使い分けた。漠然と学問的な著述には折口を、文学上の創作には釈を用いた。だが、彼の仕事の二つの方面が明解に分かれているわけではなかった。この二つを区別し難いところに、彼の発想の特異さがあった。学問において、彼の詩人的な想像力が実証の方法の届かない隅にまで浸透して、不思議なまでにまざまざと古代的世界を再現してみせる。だから、その学問といえども、彼の豊かな想像力の産物に違いなかった。

 折口信夫は大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。生家は医者と生薬(きぐすり)、雑貨を売る商家を兼ねていた。中学生のころから古典を精読し、友人の武田祐吉らとともに、短歌創作に励んだ。1905年(明治38年)、天王寺中学を卒業し、国学院大学に進んだ。国学院では国学者、三矢重松(みつやしげまつ)から深い恩顧を受けた。卒業して大阪の今宮中学の教員となったが、2年余で辞して上京。国文学の研究と短歌の創作に情熱を注いだ。歌人島木赤彦を知って「アララギ」に入会。また、民俗学者柳田国男を知って深い影響を受け、進むべき道を見い出した。

 折口は1919年(大正8年)、国学院大学講師となり、のち教授として終生、国学院の教職にあった。1920年、中部・東海地方の山間部を民俗採訪のため旅行。1921年「アララギ」を退会、この年と1923年の二度にわたって沖縄に民俗採訪旅行した。折口の古代研究はこの時期の採訪旅行によって開眼した。1923年、慶應義塾大学講師となり、のち教授として没年まで勤めた。

折口は1924年、前年亡くなった三矢重松の「源氏物語全講会」を継承して開講。またこの年、古泉千樫(こいずみちかし)、北原白秋らの短歌雑誌「日光」に同人として参加した。1926年、長野県、愛知県山間部に花祭、雪祭を採訪調査。1930年(昭和5年)とその翌年、東北地方各地を旅した。1932年、文学博士となった。1948年(昭和23年)、第1回日本学術会議会員に選ばれ、翌年歌会始選者となった。

 「常世」「貴種流離譚」「宮廷歌人」など、折口によって初めて提唱され、定着した概念は多い。しかし、折口学において最も重要かつ広く知られる概念は「客人(まれびと)」と「依代(よりしろ)」だ。冒頭に述べた「あの世」とは何かを解き明かすため、折口は語っている。ただ、難解で非常に理解しにくい。梅原猛氏によると、「あの世」の人は依代を目印に天からこの地上に降りてくる。その依代は「まとい」であり、「のぼり」だった。「あの世」の人はどういう形で「この世」にやってくるのか。それは「まれびと」すなわち客人としてやってくる。「まれびと」は遠い遠い彼方の「あの世」からやってきて、「この世」の人に恩恵を与えて、また「あの世」へ帰っていく。「あの世」とは地下の黄泉(よみ)の国であり、あるいは海の彼方の「ニライカナイ」だった。

 そして梅原氏は、折口自身が少なくとも「まれびと」が乗り移る依代であり、「まれびと」の言葉を語る能力を持っていた人ではないか-としている。折口の小説「死者の書」の中に出てくる。主人公・大津皇子が殺されて二上山に葬られ、その肉体は腐っていくのに、その霊は目覚めて、“言葉”を語る。大津皇子の霊にとって、それは“声”だったが、普通の人には聞こえない。そういう普通の人には聞こえない、声でない言葉がいつまでも続いている-とある。

「死者の書」は奈良・当麻寺の曼陀羅にまつわる中将姫伝説に題材を得た小説だ。大津皇子が死んで神となり、次いで仏となり、恋人・耳面刀自(みみものとじ)の生まれ変わりである中将姫を二上山へ呼び寄せ、死霊としての阿弥陀仏と生霊である中将姫との交わりによって、あの有名な「当麻曼陀羅(たいままんだら)」という芸術を生み出すという物語だ。難解だが、折口の異様さの一端が分かるのではないか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小島直記「逆境を愛する男たち」、「日本の詩歌/釈迢空」

安積艮斎・・・学派を超え自由な学風を貫き、多くの著名な門人を輩出

 安積艮斎(あさかごんさい)は、ペリー来航時のアメリカからの国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わった、幕末の朱子学者だ。ただ、艮斎の功績はそれだけにとどまらない。むしろ図抜けた教育者としての功績が圧倒的に大きい。

艮斎が開いた私塾「見山楼」の門人には小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、木村芥舟(摂津守)、秋月悌次郎、岩崎弥太郎、川路聖謨(かわじとしあきら)、栗本鋤雲、間崎哲馬、斎藤竹堂、谷干城、清河八郎、福地源一郎、中村正直、権田直助など、2282人の名前が門人帳に記されており、幕末・明治の動乱期に活躍した人物に与えた影響は大きい。

したがって、私塾「見山楼」は今日風に表現すれば、“超”有名私立大学で、ここに籍を置くことがある意味でステータスだった側面があったのかも知れない。門人帳にはそれほど、後世に名が残る人材がきら星のごとく名前を連ねている。艮斎の生没年は1791(寛政3)~1861年(万延元年)。
 安積艮斎は陸奥・二本松藩の郡山(現在の福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれた。幼名は兵衛、名は重信、通称は祐助。字は思順(しじゅん)・子順(しじゅん)とも。号は艮斎(ごんさい)。別号は見山楼。

 艮斎は幼いころから学問に興味を持っていた。5歳から11歳ごろまで約6年間、二本松藩の寺子屋で学問に励んだ。16歳で婿入りしたが、容貌がよくなく、日夜読書に耽るので妻に嫌われ、実家に戻った。恐らく、落ち込んだことだろうが、その後の切り替えがやはり違う。17歳で学問を志して江戸に出奔。当初、日蓮宗妙源寺の日明和尚のもとで生活した。その日明和尚の紹介で、当時一流の学者だった佐藤一斎の学僕・門人となって、苦学した。そして20歳から一斎の師、将軍家顧問格の学者だった大学頭・林述斎の門下生となり朱子学を学んだ。林述斎は幕政顧問として、当時の文教政策を取り仕切る大物だ。

 1814年(文化11年)、24歳で江戸駿河台の小栗忠高邸内に長屋を借りて私塾「見山楼」を開いた。この小栗忠高の子が小栗忠順(のちの小栗上野介)で、この13年後に出生する。艮斎は門弟の教育と学業研鑽に励んだ。そして、41歳のとき『艮斎文略(ごんさいぶんりゃく)』を出版、艮斎の名は天下に知られるようになった。この間、塾は何回か移転するが、小栗邸の塾を残して続けられた。小栗剛太郎(上野介の幼名)は数え年9歳のとき入門している。このとき艮斎46歳だった。

 艮斎は1843年(天保14年)、二本松藩・藩校敬学館の教授、そして1850年(嘉永3年)には幕府の昌平○教授に任命された。艮斎60歳のときのことだ。
幕府の公的学問所の教授となったことで、艮斎は幕末の動乱期の外交文書にも様々な形でタッチすることになった。まず、1853年のペリー来航時のアメリカからの国書の翻訳だ。また、プチャーチンが持参したロシア国書に対する返書の起草などにも携わった。

 艮斎は朱子学者だったが、陽明学など他の学問や宗教を排することなく、学派を超えてよいものを取り入れようという自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺崋山、高野長英ら開明的な学者や幕臣が会した尚歯会にも出入りした。1848年(嘉永元年)には『洋外紀略(ようがいきりゃく)』を著し、世界史を啓蒙、海外貿易の必要性を説いている。

 このほか、艮斎は開国か鎖国かと世論が分かれる中、幕府に対して、外交に関する意見書として『盪蛮彙議(とうばんいぎ)』を提出した。
 艮斎は、師の佐藤一斎とともにアカデミズムの頂点に立つ学者として知られ、没する7日前まで講義を行っていたと伝えられている。
 著書に上記のほか、『艮斎詩略』『史論』『艮斎間話』などがある。

(参考資料)

石田三成・・・外征めぐり豊臣政権下、No.2同士の抗争で千利休に勝利

 豊臣政権下、豊臣秀長と千利休による両輪補佐の体制が、秀長の死に伴って崩壊した。そして利休も、まもなく切腹に追い込まれる。当然、秀吉は将来の政権維持のため石田三成ら、将来を嘱望される奉行職に期待し、70歳の高齢者利休を見捨てたとの見方もできるが、果たしてそうなのか。そして、その石田三成の「補佐役」としての力量は?

 石田三成は石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で生まれた。幼名は佐吉。生没年は1560(永禄3年)~1600年(慶長5年)。石田村は古くは石田郷といって、石田氏は郷名を苗字とした土豪だったとされている。

三成は秀吉が近江長浜城時代、しきりに近江周辺で新規の家臣を募った際にスカウトされた若手人材の一人だった。他に増田長盛、長束正家、前田玄以らが“近江閥”を形成していた。この流れには大谷刑部(吉継)、小西行長らも含まれた。これに対し、利休の拠って立つ基盤は“尾張閥”で、この方の家臣団グループには加藤清正、福島正則、浅野長政らが属し、少し距離はあったが加藤嘉明、山内一豊、黒田長政なども同類と見做せた。近江閥のバックボーンが淀君であり、尾張閥のバックボーンがいうまでもなく秀吉の正妻おね(北政所)だ。この両派閥の対立がこの後、歴史の端々に顔をのぞかせることになる。

 正妻と側室(愛妾)の対立は、歴史を動かす確かな要因だ。つまり、利休は全く意識していなかったとしても、三成の側からは政敵と看做されていた可能性は高いのだ。そのためか、三成は秀吉にどれだけ勧められても、利休の茶の湯に馴染むことなかったという。

 尾張閥と近江閥の対立に加えて、加来耕三氏は各々の派閥に別個の商人グループが荷担していた事実があると指摘している。利休-(尾張閥)-堺商人、三成-(近江閥)-博多商人の両グループの対立だ。利休は茶人で秀吉側近であると同時に、その出身が堺で、堺を代表する納屋衆の一人となった人物だ。これに対し、三成と博多商人との強い結びつきは、九州征伐のあと、戦火で荒廃した博多の復興のために、秀吉が三成・長束・小西らを奉行に任じたときから始まっていたのだ。

利休切腹の半年後、1591年(天正19年)、秀吉は朝鮮、明国への出兵決意を正式に表明した。実はこの決定までに両グループから、水面下で利権にまつわる凄まじい駆け引きがあったはずだ。大陸貿易の独占を目指す博多商人と、南蛮貿易すなわち東南アジアへのルートを強化し、かつての“黄金の日々”を取り戻したいとする堺商人の思惑がせめぎ合っていたことだろう。

 朝鮮出兵は、秀吉のいくつかの選択肢の一つだった。少し遅れて徳川家康が呂宋(ルソン)攻略を真剣に計画したように、この時代、国内統一を完成しつつあった豊臣政権は新たな領土獲得、市場確保のためにも海外進出をしなければならない強迫観念に襲われていた。後に無謀な侵略と失敗を反省し、渡海しなければよかったといったものの、その準備段階では九州の大名たちは嬉々として、この無謀な計画に参画しているのだ。

 秀吉の外征が、朝鮮半島から中国大陸へのルートに決まるか、それとも琉球、台湾、ルソンの東南アジアに決定するか、各々の方面に独自の利権を持つ博多商人と堺商人は最も関心を寄せていた。しかし、秀長が病死し、孤立した利休では勝負にならなかった。利休は三成に、政治的駆け引きに敗れ、遂にはその死生を制されたのではないか。つまり利休の唐突な死は、将来を展望した際、必要と思われた外征をめぐる、豊臣政権下、ナンバー2(補佐役)同士の抗争に敗れた結果、招いた悲劇だったのだ。

(参考資料)堺屋太一「巨いなる企て」、藤沢周平「密謀」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

太田道灌・・・力量・声望・実績がありすぎて、主君の妬みを買い葬られる

 京都の大半を焼け野原と化し、奥州・関東・東海を除く日本の至るところで、11年も続いた「応仁の乱」は終息したが、関東の騒乱はむしろ文明8年頃から激しさを増していく。そして、それが扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌の名を天下にとどろかせるとともに、またその実力がありすぎたがゆえに、後の悲劇を生むことにもつながった。

主君の「補佐役」の地位を運命付けられていたとはいえ、もし道灌に“下克上”に徹する思い切りがあれば、北条早雲が名を成すより早く、関八州を制圧できたに違いない。彼にはそれだけの力量、声望・実績があった。ところが道灌は、育った環境からか、思い切りがなかった。動かなかった。そのため反対に、主家の妬みを買い、トップに葬られてしまった。

 太田道灌は扇谷上杉家の家宰・太田資清の長子として相模国(現在の神奈川県)に生まれている。幼名は鶴千代。元服して源六郎持資、後に資長と称した。道灌は入道してからの号。江戸城を築城した武将として有名。生没年は1432(永享4年)~1486年(文明18年)。

 「関東管領」は京都にあった室町幕府の出先機関で、初代の関東管領は足利尊氏の四男・基氏が任ぜられている。その後、この出先機関が重きを成し歳月の経過とともに、その権威は肥大化。京都に対して“関東御所”“関東公方”などと格上げして呼ばれるようになり“管領”は執事として実務を総攬してきた上杉家の呼称となった。上杉家は山内・扇谷・詫間・犬懸の四家に分かれ、適宜、有能な人物が出て関東公方を補佐した。

 古河公方-堀越公方-関東管領・上杉家の3者は、その権威と実力で関東を3分していた。もっとも、武力による限りは関東管領=山内上杉氏が他の2者に隔絶している。四上杉家の中でも犬懸は先に滅亡。詫間は山内と友好関係にあり、扇谷は領地も軍勢もはるかに山内に劣っていた。それでも山内上杉家の人々は心底、扇谷に不安を抱いていた。扇谷上杉家の家宰・太田資清・持資(道灌)父子が、領内にくまなく善政を敷き、人材を育成して登用するなど、内実は侮り難い成果を挙げていたからだ。中でも持資=道灌の器量は、広く世に知られていた。

 道灌は9歳から11歳まで、鎌倉五山の寺院で学問を修めていた。戦国武将にあって、北条早雲などとともに秀でた学識を持つ、数少ないインテリだった。1455年(康正元年)、24歳で家督を継いだ道灌は、その頃はまだ武州(東京都)の荏原品川にいた。居館は御殿山あたりで、それを古河公方(足利成氏)との対抗上、江戸に移したのは翌年のことだ。江戸城は1年でほぼ完成している。平地に自然の地形と人工の堀をうがち、土居(土塁)を築き複雑な曲輪を組み入れ、防衛力を飛躍的に向上させた斬新な城だった。

 道灌は戦いの場においても、領内の施政においても打つ手が鮮やかで手際がよすぎた。力量、声望・実績がありすぎた。そのため、主家は道灌の存在が恐ろしくなり、疑心暗鬼に陥ってしまった。ここに悲劇の“温床”があったのだ。「道灌謀反」の噂はまたたく間に関東全域に広がり、山内、扇谷の両上杉が結託した。1486年(文明18年)、道灌は招かれた糟屋の扇谷上杉家の別館で暗殺された。「補佐役を」失った扇谷上杉氏は瞬時に機能を停止し、山内上杉氏との間では団結はおろか不和が表面化。両家の対立抗争は間断なく続き、遂には両家とも衰亡の途をたどることになった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、安部龍太郎「血の日本史」

安倍晴明・・・「式神」を自在に操り、闇の世界を制した希代の陰陽師

 安倍晴明の生涯は謎に包まれている。『尊卑分脈』所収の安倍氏系図によると、右大臣安倍御主人(みうし)から九代目の大膳大夫益材(ますき)の子という。『公卿補任』大宝3年(703)の項に、閏4月1日、右大臣阿倍御主人が69歳をもって_じたことが記され、「安倍氏陰陽先祖也」と記されている。また、『続日本紀』巻三・大宝3年閏4月1日の条に、「この日、右大臣従二位阿倍朝臣御主人が_じた」と記されている。「阿倍」と「安倍」の表記の違いはあるが、阿倍御主人を安倍晴明の祖と考えてよい。

 晴明がどこで生まれたのか、実は全くわからない。ただ、没年と享年は分かっている。そこから逆算すると、生年は延喜21年(921)、没年は寛弘2年(1005)。享年は、当時としては驚異的な長寿といえる84歳。生地には3つの説がある。讃岐国(香川県)由佐、常陸国(茨城県)猫島、摂津国(大阪府)阿倍野の3カ所だ。この中では阿倍野説が有力視されている。

 後世の伝承によると、晴明は「式神」と呼ばれる精霊や神々を自在に操り、京の都に災いをなす悪鬼や悪霊を次々に退治したという。また時の権力者だった御堂関白、藤原道長にかけられた呪詛を打ち破り、自らも並ぶ者がないほど強い呪術力を持っていた。さらに「反魂(はんごん)の秘術」「生活続命(しょうかつぞくめい)の法」を操り死者を蘇らせ、あるいは「式占(ちょくせん)」を用いて都に起こる数々の異変を予言したとされている。

 『今昔物語集』巻第二十四「安倍晴明随忠行習道語」第十六は、天才陰陽師、晴明の並々ならぬ力のほどを見せてくれる。この説話は・少年時に鬼と出会った話・晴明の力を試そうとした老僧の話・蛙を殺した話・式神を使役していた話-の四話から構成されている。また、『宇治拾遺物語』も晴明の異能ぶりを伝えている。

 生前に彼が築いた権威は子孫に受け継がれ、後にそこから土御門家という一族が生まれた。土御門家はやがて従来、朝廷に仕える陰陽師の頂点に立っていた一族、賀茂家を圧倒し、陰陽道の宗家として君臨する。さらには、陰陽道と神道を習合させた土御門神道=安倍神道も成立した。そして晴明は、こうした後の信仰の象徴として神格化されていくのだ。

 陰陽道は古代中国で起こった「陰陽五行説」を土台にしている。陰陽五行説とは、対立する陰と陽の2つの気、そして木・火・土・金・水の五行によって、森羅万象を説明する思想のことだ。日本へは、古代律令国家が建設された時に中国の知識や技術とともに移入された。7世紀後半にはすでに「陰陽寮」と呼ばれる機関が設置され、陰陽五行説の研究、教育が行われていたらしい。

(参考資料)志村有弘「陰陽師 安倍晴明」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、加来耕三「日本創始者列伝」

上杉謙信・・・仏道に帰依し信義に厚い家風をつくった越後の国主

 上杉謙信は、自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる、戦国時代の越後国の有力武将だ。室町幕府の重職、関東管領を務めるとともに、足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大、戦国大名・甲斐国の武田信玄とともに、同時代の武名を二分した。生没年は1530(享禄3)~1578年(天正6年)。

 上杉謙信は、越後守護代、長尾為景の四男(三男との説もある)として春日山城で生まれた。近世上杉家・米沢藩の祖。本姓は平姓、長尾氏。幼名は虎千代。初名は長尾景虎。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。後に関東管領、上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職、関東管領に任命された。また、後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて、最終的には上杉輝虎と名乗った。号は宗心。渾名は越後の虎、越後の龍、聖将、軍神。1570年(元亀元年)から不識庵(ふしきあん)謙信と名乗った。

 謙信は7歳で寺に預けられ、その年に父と死別、以後7年間みっちりと禅や武道を学んだとみられる。14歳のとき初陣、15歳で元服し景虎を名乗った。19歳で兄、晴景から家督を引き継ぎ、長尾景虎として名実ともに越後の国主となった。その後、24~34歳までの10年間に川中島の合戦を五回も繰り返し、ことに四回目の合戦では武田軍と凄まじい死闘を演じ、わずか半日で双方6000人近い死者を出し、それでも勝負がつかなかったという。

 このとき、武田の軍旗“風林火山”に対して、上杉軍が掲げたのが毘沙門天の“毘”と懸乱竜の“籠”の旗だ。これは毘沙門天に代わって世の中の邪悪な者を懲らしめる正義の軍であり、一度戦えば天から風を呼ぶ竜の如く雄々しく勇ましい軍であることを示したものといわれる。

 謙信は27歳のとき出家を志して高野山に登るが、臣下に思いとどまらせられ、40歳になったとき法号「謙信」を称した。そして45歳で剃髪、法印大和尚に任ぜられるまで常に仏道を修し、その後も49歳で病に倒れるまで、生涯その道を離れることはなかった。

 織田信長が岐阜を根拠地として京都を押さえ、畿内を平定し始めたころ、彼以上の実力を持つといわれる者が、少なくとも二人いた。上杉謙信と武田信玄だ。司馬遼太郎氏は、「信長はこの二人を宥めるために人間の知恵で考えられる限りの策謀と外交の手を打ち続けた。ときには卑屈窮まる言辞をも使った」と記している。文献によると、京にいた信長は謙信に対し、あなたが京へ上ろうとなさるのなら、この信長は京を出て、瀬田のあたりまでお出迎えして、御馬のくつわを取ります-とまでの態度を取ったほど。そのころの信長にとって、謙信はそれほどに大きな、超え難い存在だったのだ。

 そのうち、二強の一角、信玄が死に、謙信が残った。当時、謙信は300万石の経済力と日本での最強の軍団を持っていた。このころ信長は、狩野永徳の作と伝えられる「洛中洛外屏風図」六曲一双を謙信に贈っている。1574年(天正2年)のころのことだ。

 謙信亡き後、上杉家は景勝が国主のとき、豊臣政権のもとで会津に移封され大身となったが、「関ヶ原の戦い」で西軍につき辛酸を舐め、米沢の地で細々と徳川幕府に仕えたが、謙信を祖とするその信義に厚い家風は代々受け継がれた。

(参考資料)海音寺潮五郎「天と地と」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」

大村益次郎・・・蘭方医学より西洋兵学に通暁した上野戦争の官軍総司令官

 江戸と呼ばれていたこの町が東京に生まれ変わろうとする戦争があった。上野戦争だ。この時、この町は大きな戦災を被ってもおかしくなかった。ところが、戦火から救うべく唯ひとり作戦に苦しみつつ、それを見事成し得た一人の戦術家がいた。大村益次郎だ。

 益次郎は文政7年(1824)、現在の山口市鋳銭司の、のどかな農村で生まれている。父、村田孝益は医業のかたわら、田3反を耕す村医者だった。益次郎も18歳で近くの蘭医、梅田幽斎に学び、続いて九州日田の広瀬淡窓の塾に入った。そして弘化3年(1846)21歳の時、全国にその名を知られていた大坂、適塾の緒方洪庵の門を叩く。嘉永2年(1849)彼はここでは塾頭をも務め、オランダ語などは、師をも凌ぐほどだったといわれる。

ところが、彼は所期の目的である蘭方医学よりも西洋兵学の研究に熱中し始める。軍制、砲術、築城…と、適塾所蔵の洋書のうち、彼が親しむようになったのは、西洋兵学に関する書物だった。彼はどうして、医学とは一見縁遠い兵学にのめりこむことになったのか。それは、彼一流の時勢認識で、これからの時代に最も必要とされるのは医学よりもむしろ西洋兵学だということを、明敏に見抜いたのだ。この点、彼は抜群の語学力に恵まれていた。

だが、彼は一介の村医者に過ぎない。したがって、彼の才能を生かす場も手がかりもなかった。5年後、彼は洪庵に才能を惜しまれつつ故郷に舞い戻り、村人相手の医者の生活にひたってしまう。当時、わが国でも最高の医術や蘭学を修めていた益次郎も、村医者としては失格だった。自分を誇るふうでもなく、人にこびずはよしとしても、人付き合いのまずさだけは終生変わることがなかったからだ。嘉永6年(1853)、30歳の益次郎は逃げ出すようにして故郷の鋳銭司村を去った。

 その後、益次郎は家業を捨て、緒方洪庵の勧めもあって蘭学の才能を買った伊予宇和島藩に出仕する。藩主・伊達宗城は高禄をもって彼を遇した。この時、彼は百姓身分から村田蔵六を名乗る侍となったのだ。ちょうど30歳、ペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航した嘉永6年(1853)のことだ。宗城の命を受けた益次郎は、ここで日本人では最初ともいうべき蒸気船を造り上げ、人々の度肝を抜いた。そのかたわら西洋兵書の翻訳にも手を染め、独自の兵法を編み出し、兵学者として頭角を現すのだ。
 安政3年(1856)、藩主・宗城の参勤に従って江戸へ上った益次郎は、宇和島藩に在籍のまま彼に目をつけた幕府に雇われ、幕府の洋学所、蕃書調所の助教授、さらには講武所の教授手伝も兼ね、西洋兵学者としての名が高まっていく。ちなみに、講武所の教授陣には勝海舟、高島秋帆らが名を連ねていた。そうなると、今度は長州藩が放ってはおかなかった。長州藩では洋式学所(博習堂)の改組などに取り組んでいたが、どうしてもリーダーの人材が足りない。そこで、もともと藩領内出身の益次郎の存在が注目されることとなり、ぜひ我が藩で召し抱えて能力を発揮させるべきだ-との声が高まり、益次郎の召還が藩議決定をみる。

 益次郎の長州藩帰属が正式に実現したのは、桜田門外の変の翌月、万延元年(1860)4月のことだ、ただ、長州藩が提示した報酬は百姓同様の極めて低いものだった。それにもかかわらず、幕府の要職や宇和島藩の高禄を未練もなく捨て、彼は長州藩の士分に列し、郷国のために尽力することになる。
 益次郎が仕える間もなく、長州は疾風怒涛、動乱の時代を迎える、文久3年(1863)、八・一八の政変、翌年の蛤御門の変、外国艦隊との下関戦争…など。慶応元年(1865)、幕府の第二次長州征伐の噂が高まったその年、益次郎は木戸孝允の推挙により軍務大臣に抜擢された。そして藩命により、村田蔵六を改め、大村益次郎を名乗ることになる。翌慶応2年、四境戦争、いわゆる第二次長州征伐の折りは、海軍・高杉晋作、陸軍・益次郎がすべての作戦を立てた。

2年後の慶応4年(1868)、益次郎は大政奉還で開城した江戸城にいる。上野彰義隊攻撃の総司令官とされているのだ。これは西郷隆盛や木戸孝允の英断によるものだったが、この時までほとんどの官軍首脳たちは、まだ益次郎の能力を信じていなかったといわれる。アームストロング砲を主力に、十数藩による完璧の布陣と、江戸の市中が戦火にかからぬことを第一とした益次郎の綿密な作戦により、上野戦争はわずか一日で終わった。

その後、箱館戦争に至る戊辰戦争の全戦線の平定を終えた彼は新国家の建設に取りかかる。明治2年(1869)9月、益次郎は京都木屋町で突然刺客に襲われ、2カ月後、この傷が悪化し46歳の生涯を閉じた。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、司馬遼太郎「花神」、「日本史探訪/22 上野戦争の官軍総司令官 大村益次郎」司馬遼太郎

阿部正弘・・・身分に捉われない人材登用など「安政の改革」を推進

 江戸幕末期の第7代備後福山藩主・阿部正弘は、以前はその内政、外交姿勢から「優柔不断」あるいは「八方美人」な指導者とみられ、評価は低かった。しかし、当時の幕政および、黒船来航に始まる海外列強の開国・通商要請など時代背景を重ね合わせると、個人のリーダーシップに帰し難いものがあり、近年は相対的に人物評価が高まっている一人だ。1854年に日米和親条約を締結。身分に捉われない大胆な人材登用を行い、品川沖に台場を築き、大船建造の禁を解くなど、「安政の改革」と呼ばれる幕政改革を推進した。生没年は1819(文政2年)~1857年(安政4年)。

 阿部正弘は1843年(天保14年)、25歳で老中となり、1845年(弘化2年)、「天保の改革」の際の不正を理由に罷免された水野忠邦の後任の老中首座に就いた。そして、第十二代家慶、第十三代家定の時代の幕政を統括した。老中在任中は度重なる外国船の来航や中国のアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。

 阿部は、幕政においては1845年(弘化2年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。薩摩藩の島津斉彬、水戸藩の水戸斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、江川英龍(太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努めるとともに、筒井政憲、川路聖謨、岩瀬忠震、ジョン万治郎などを起用、大胆な人材登用を行った。

 また、人材育成のため1853年(嘉永6年)、備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館(せいしかん)」に改め、身分に関係なく学べるよう教育改革を行った。このほか講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などを創設。また西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など「安政の改革」に取り組んだ。

 ただ阿部には、老中首座としてリーダーシップに欠けた人物との評価がある。実際にペリー艦隊来航から日米和親条約締結に至るまで1年余りの猶予があったにもかかわらず、朝廷から全国の外様大名まで幅広く意見を募ったあげく、何ら対策を打ち出せず、いたずらに時間の引き延ばしを図っただけだったというのがその論拠だ。

 しかし、これは阿部のリーダーシップ云々より、これこそが当時の幕府の体質といえるもので、その証拠に前任の水野忠邦は方法が過激すぎると反発を受け失脚、阿部の後を受けて強攻策を取った井伊直弼は、幕閣どころか朝廷や国内各層の反感を買って国内を大混乱に陥れている。

 こうしてみると、阿部の協調路線は幕政を円滑に運営する有効な方策だったといえ、幕府の威光よりも混乱回避を優先した姿勢は、それなりに評価され得るものだったとみられる。また、前記した通り、慣習に捉われない人材登用については評価され、阿部の政策を「安政の改革」として、いわゆる「三大(享保・寛政・天保)改革」に次ぐものとして扱うこともあり、39歳という早世を惜しむ声も多い。

(参考資料)童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」

歌川広重・・・フランス印象派の画家に影響与えたヒロシゲブルー

「東海道五十三次」の名所風景画で知られる歌川広重。彼の作品はヨーロッパやアメリカでは大胆な構図などとともに青色、とくに藍色の美しさで評価が高い。この鮮やかな青を欧米では「ジャパンブルー」あるいは「ヒロシゲブルー」とも呼ばれて、19世紀後半のフランス印象派の画家たちや、アールヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与え、当時ジャポニズムの流行を生んだ要因の一つともされている。
 歌川広重は、江戸・八洲河岸(八重洲河岸)の火消し同心の安藤家に生まれた。幼名は徳太郎。長じて重右衛門といった。13歳で家督を継ぎ、その後、27歳で同心の役職を退くまで画家と公務の両立を果たしていたといわれる。「安藤広重」の名で紹介されることがあるが、この名で残された作品は見当たらない。画人としては歌川派の歌川広重が正当だ。広重の生没年は1797(寛政9)~1858年(安政5年)。
 広重は当初、初代歌川豊国に弟子入りを請うたが、門弟が多く叶わなかった。そこで、15歳のとき同門の歌川豊広に入門した。翌年、師・豊広から「広」の一字を受け、「広重」と名乗った。
 広重の入門は叶わなかったが、初代歌川豊国が中心となって発展させた浮世絵師の最大勢力・歌川派で、幕末に活躍した三代豊国、国芳、そして広重は歌川三羽烏と称された。それぞれ、豊国は似顔絵、国芳は武者絵、広重は名所絵を得意とし、評価されていた。
 そんな名所絵・広重のきっかけとなったのが、「東都名所」だ。1831年(天保2年)、葛飾北斎が「富嶽三十六景」を発刊したとき、広重はその「東都名所」を発表し、風景画家としての評価を受けたのだ。このとき北斎72歳、広重は35歳だった。翌年、幕府の八朔の御馬進献の儀式図調整のため、広重はその行列に参加して上洛。東海道を往復した際に、その印象を克明に写生。それが、翌年シリーズとして発表する「東海道五十三次絵」に生かされた。
 この「東海道五十三次絵」は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々が憧れた外の世界を垣間見る手段としても大変好評を博した。
 当時、広重は教えを請うため、尊敬していた北斎のもとをよく訪れていたといわれる。40歳近くも年の離れた先輩、北斎老人に広重は何を学ぼうとしたのだろうか。技法だったのか、何か精神的なものだったのか。
 その後、作品「東海道五十三次」で人気を得た広重は、風景・名所のシリーズものを刊行する。「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」などを次々と発表。60歳で制作を開始した「名所江戸八景」を完成させた1858年(安政5年)、62歳で永眠したと伝えられる。死因は、当時大流行したコレラといわれる。
 広重の作品はヨーロッパやアメリカで、その大胆な構図と、とくにブルーの美しさで評価が高い。色鮮やかな青は「ジャパンブルー」とも「ヒロシゲブルー」とも呼ばれ、19世紀フランス印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与えた。
(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」

大山巖・・・西郷の影響受けた日清・日露両戦争で功績大の「陸軍の大山」

 大山巖は軍人として華麗な一生を送った。日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。ともに日本の勝利に大きく貢献した。元老としても重きを成したが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられることを終始避け続けた、この時代にあっては珍しい清廉な人物だ。生没年は1842(天保13)~1916年(大正5年)。

 大山巖は薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)で薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。大山が生まれた家は、西郷隆盛の家の筋向いの家の裏にあった。西郷隆盛・従道兄弟とは従兄弟にあたり、西郷家とは生涯にわたって親しく、とくに従道とは親戚以上の盟友関係にあった。

 大山の風貌には西郷隆盛に通ずるところが多い。人間的度量においても両者共通する大きさを感じさせ、大山は西郷の偉大さに影響を受けている。藩内の有馬新七らに影響されて過激派に属し、倒幕運動に参加したが、1862年(文久2年)、寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国、謹慎処分となった。また前年の生麦事件の報復として1863年(文久3年)起こった「薩英戦争」では西欧列強の軍事力に強い受け、幕臣・江川太郎左衛門の塾で砲術を学んだ。「弥助砲」と呼ばれる大砲を開発するなど戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽伏見や会津などの各地を転戦。討幕運動に邁進した。

 明治維新後の1869年(明治2年)、大山は渡欧して普仏戦争などを視察。1870(明治3年)~1873年(明治6年)の間はジュネーブに留学した。陸軍では順調に栄達し、西南戦争はじめ相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。西南戦争では政府軍の指揮官として、従兄の隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰ることはなかったという。

日清・日露の両戦争では日本の勝利に大きく貢献し、同じく薩摩藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」といわれた。大山は元帥陸軍大将として頂点を極めた。
 明治中期から大正期にかけて、第一次伊藤博文内閣から第二次松方正義内閣まで、陸軍大臣を長期にわたって務め、また参謀総長、内務大臣なども歴任。元老としても重きを成し、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、終始、総理候補に擬せられることを避け続けた。当時としては稀有な、清廉な人物だった。

 周知の通り、真の西郷隆盛の肖像画というものは残っていない。もちろん写真もない。西郷の肖像画として紹介されているものは後にモデルを使って描かれたものだ。大山はその何点かある西郷の肖像画のモデルとなった人物の一人だ。また大山夫人は、日本人女性で最初に大学を卒業し、「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれた女性、旧姓山川捨松だ。

(参考資料)文藝春秋編「翔ぶが如くと西郷隆盛」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

新井白石・・・幕政改革の理想に燃えた当時並ぶ者なき偉大な学者政治家

 新井白石は江戸中期、六代将軍徳川家宣、七代将軍徳川家継に仕え、幕政改革の理想に燃えた、“鬼”の異名を取った稀代の学者政治家だ。その学識の高さは、その当時における、というより江戸時代を通じてすら、比較すべき者の少ない学者だった。

 白石が儒者として俸禄四十人扶持(年72石)で甲府藩に召抱えられたのは元禄6年。彼が37歳の時だ。そして、それ以前の白石は久留里藩の土屋家、古河藩の堀田家と2度も浪人し、20歳代から長い間貧しい生活を強いられ、37歳のその時は本所で私塾を開いていた。この間、白石の器量を見込んでか、富裕な商家から二つも縁談があった。その一つは相手が河村瑞賢の孫娘だったので、承知すれば豪商の家の婿に納まることもできたわけだったが、白石は断った。甲府藩に仕えることができたのは、学問の師である木下順庵の推挙によるものだった。

元禄15年12年に200俵20人扶持に引き上げられた。加増の理由はこの年3月、起草してからほぼ1年余を経て完成、藩主・網豊に献じた『藩翰譜』の成功に対する褒賞ではないかと思われた。藩翰譜は、儒者というよりは歴史家としての白石の本領を示した労作で、12巻18冊、ほかに凡例総目次1巻を加えた大著だった。ここに書きとめられた諸家の数は333家におよび、これを記すのに紙1480枚を費やしたが、草稿、浄写の作業に写し損じを加えれば費やした紙数は3000枚に上ったろう。いずれにしても、ようやく白石は貧しさを気にしなくて済む身分になった。

 五代将軍綱吉の死後、白石は側用人・間部詮房とともに、六代将軍家宣となった藩主の天下の治世に乗り出していく。「勘解由(白石)を経書を講ずるだけの儒者とは思っておらぬ。政を助けよ。意見があれば、憚りなく申せ」という将軍家宣の篤い信頼のもとに、白石は「政治顧問」的な立場で様々な下問に対し、先代までの慣例や事績にこだわらない、あるべき意見も含め献策する。

「生類憐れみの令」の停止およびその大赦考、改鋳通貨「宝永通宝」の通用停止、武家諸法度新令句解などがそうだ。こうした出仕が評価され、白石は200石加増され、従来の200俵20人扶持を300石に直し、計500石とされた。

 白石は宝永6年(1709)11月、江戸小石川茗荷谷の通称切支丹屋敷で、ヨーロッパの学問16科を修めたというイタリア人、ジョバンニ・バチスタ・シドッチと会い、尋問する。シドッチは薩摩・屋久島に流れ着いた宣教師だ。白石はこの尋問の前に、あらかじめカトリックの教義について予備知識を得たいと思い数冊の書物を読んだ。

白石が西洋人に接したのは初めてであり、最初シドッチが何を言っているのか分からなかったが、次第に分かってきた。他の日本人には全く分からなかったが、白石はシドッチの日本語に近畿地方や山陰、九州の方言が入り混じっていることに気付いた。発音にもシドッチのクセが出る。そのクセは当然、一定の法則性のようなものがある。それを白石は見抜いた。これらに照らして理解していけば、シドッチの日本語が自然と分かってくるのだ。白石の頭脳が、シドッチの不思議な日本語を理解させたのだ。白石はシドッチの持っている知識を貪婪に吸収した。白石はこれを『西洋紀聞』に書いたが、シドッチの母国語までは理解するには至らなかった。イタリア語を吸収できるほどの時間的余裕がなかったからだ。しかし、白石が行った尋問で、結果として彼自身の学識の高さを示すことになったことは確かだ。

 ・貨幣の改鋳の停止・裁判の公正・長崎貿易の見直し-など白石の献策は、それまでの幕府官僚の施策とは明らかに異なり、本質的には的を射たものだった。が、白石はやはり学者で潔癖でありすぎた。そのため“鬼”の異名と取ることになり、周囲に煙たがられた。そして、彼の得意時代はそれほど長くは続かなかった。正徳2年、10月14日、家宣が享年51歳で亡くなり、嫡子鍋松(家継)がわずか4歳で将軍職を継いだが、家継も8歳で亡くなってしまったのだ。結局、白石が幕政にタッチしたのは7年ほどで、紀州藩から入った八代将軍吉宗が登場すると、即、更迭され、彼の「善政」はすべてご破算になってしまう。

 ただ、白石はこれからが凡人とは違った。60歳から死ぬまでの9年間、『折りたく柴の記』をはじめ数々の名著を執筆するのだ。彼が政治家として得意の時代を続けていたら、これらの名著は生まれなかったかも知れない。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、司馬遼太郎「歴史の中の日本- 白石と松陰の場合」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」                    

歌川国芳・・・“武者絵の国芳”と称され人気を博した反骨の浮世絵師

 葛飾北斎、歌川(安藤)広重らの人気絵師が活躍した江戸時代末期。実は同時代に活動したのがここに取り上げる歌川国芳だ。しかし、国芳は彼ら人気絵師に比べ、日本における知名度や評価は必ずしも高いとはいえなかった。ただ、“武者絵の国芳”と称された彼の作品が一世を風靡したことは間違いない。ことに幕府政治を風刺した数々の作品を発表。その反骨精神は旺盛で、老境に入ってからも新シリーズへの意欲をのぞかせた。とはいえ、彼がこうした作品を残した、江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人として、あるいは「幕末の奇想の絵師」として注目され再評価されるようになったのは、20世紀後半になってからのことだ。

 2008年、富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、これを購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の「色」の復元が始まっている。

 歌川国芳は江戸日本橋の染物屋の息子として生まれた。本名は井草芳三郎。風景版画で有名な歌川広重とは同年の生まれで、同時代に活動した。国芳の生没年は1798(寛政9)~1861年(文久元年)。

 国芳は1811年(文化8年)、15歳で初代歌川豊国に入門した。豊国は華麗な役者絵で人気を博した花形絵師で、弟子に歌川国貞がいる。国芳は入門して3年後、1814年(文化11年)ごろから作品を発表。すでに歌川派を代表していた兄弟子、国直の支えもあって腕を磨いた。国芳が広く世に知られるのは師・豊国没後の1827年(文政10年)ごろに発表した『水滸伝』のシリーズで、これが評判となった。これを機に“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りをした。

 ところが、国芳が45歳のとき運命は一変する。老中水野忠邦による「天保に改革」が断行されたからだ。質素倹約、風紀粛清の号令の下、浮世絵も役者絵や美人画が禁止とされるなど大打撃を被ることになった。幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子、国芳は浮世絵で精一杯の皮肉をぶっつけた。1843年(天保14年)に発表した『源頼光公館土蜘作妖怪図』だ。表向きは平安時代の武将、源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか、妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて、実は十二代将軍家慶だ。国家危急のときに、惰眠をむさぼっているとの痛烈な批判が込められていた。このほか、絵の至るところに隠されている悪政に対する風刺があったのだ。江戸の人々は、国芳がこの作品に込めた謎を解いては、溜飲を下げて大喜びした。

 しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳は懲りず、禁令の網をかいくぐり、幕府を風刺する作品を描き続け、江戸の人々に大喝采を受けた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。ユーモアとウィットに富み、粋でいなせ、そして豪快で頑固な国芳に江戸中が夢中になった。

 やがて老中水野忠邦が失脚。国芳は待ってましたとばかりに、江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出していった。1848年(嘉永元年)~1854年(安政元年)にかけて国芳が描いた『宮本武蔵と巨鯨』は、浮世絵3枚分に描かれた、まるで大スペクタクル絵画。武蔵の強さを表現するのに、相手が人間では物足りない。ケタ違いの鯨と戦わせることで、ヒーロー武蔵の強さを伝えたのだ。またもや会心の作だった。

 武者絵で大成功を収める一方で、国芳は西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究にも積極的に励んだ。そして、これらの技法を採り入れた新シリーズの製作に取り掛かった。国芳56歳のときのことだ。このシリーズは47人の志士が揃う忠臣蔵。ただ、新しい西洋画の技法で忠臣蔵を描くには制約が多すぎた。公儀に逆らった赤穂浪士を称えることはご法度だ。そのため、舞台で演じられる役柄として、写実的に描くしかなかった。しかし、それでは彼の派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとっては、全く異質のものであって、受け入れられず、すぐに新シリーズは打ち切りとなった。彼の新しい挑戦は失敗に終わったのだ。
 国芳が赤穂浪士を描いた翌年、1853年(嘉永6年)、浦賀沖にペリーの黒船が来航した。まさに「泰平の眠りを覚ます蒸気船…」だった。ひとつの時代が終わり、新しい時代の幕開けをイメージさせるできごとだった。こうした時代の流れに合わせるかのように、国芳の時代は終焉を迎えたのだった。

(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」

岡倉天心・・・日本美術の発展と、大観らを育て美術教育に大きな功績

 岡倉天心は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として日本美術の発展に大きな功績を残した。その活動には日本画改革運動や古美術の保存、「東京美術学校(現在の東京藝術大学)」の設立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、多岐にわたり目を見張るものがある。「日本美術院」の創設者としても著名だ。また、東京美術学校の第二代校長時代の天心は、美術教育にとくに力を注ぎ、後年の大家、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てたことで知られる。生没年は1863~1913年。

 岡倉天心は元越前福井藩士で、生糸の輸出を生業とする石川屋、岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として横浜に生まれた。本名は覚三(かくぞう)。幼名は角蔵。父が貿易商で、幼い頃から英語に慣れていた。1875年(明治8年)東京開成所(のち官立東京開成学校、現在の東京大学)に入所し、政治学、理財学を学んだ。英語が得意だったことから、同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。また、天心は1882年(明治15年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生たちを鼓舞した。1890年(明治23年)、27歳の若さで東京美術学校の第二代校長となり、当時気鋭の青年画家、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てた。

 急進的な日本画改革を推し進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになる。とくに学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により1898年(明治31年)、校長の職を退いた天心は、その半年後、彼に付き従った橋本雅邦をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設した。
 横山大観、下村観山、菱田春草らの日本美術院の青年画家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのだ。その創立展には「屈原(くつげん)」(横山大観)、「闍維(じゃい)」(下村観山)、「武蔵野(むさしの)」(菱田春草)などの話題作が出品された。

 天心の指導を受けた横山大観、菱田春草らの日本美術院の作家たちは大胆な没線(もっせん)描法を推し進めたが、その作品は「朦朧体(もうろうたい)」「化物絵」などと激しい非難を浴び、世間に受け入れられなくなった。こうした中で日本美術院の経営は行き詰まり、天心の目はインド、アメリカなど海外へ向けられていく。1904年(明治37年)、天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らはニューヨークはじめ各地で展覧会を開き好評を博した。また、天心は自筆の英文著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど国際的な視野に立って活動した。

 1906年(明治39年)、天心は経営難に陥った日本美術院を再建するため、これを改組し、その第一部(絵画)を1903年(明治36年)に土地と家屋を買い求めておいた茨城県北茨城市・五浦に移転。この地で新しい日本画の創造を目指し、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らを呼び寄せた。以後、ここを本拠に生活上の苦境に耐えながらも五浦の作家たちは、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、1907年(明治40年)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に近代日本画史に残る名作を発表していった。
(参考資料)小島直記「人材水脈」

板垣退助・・・戦後、百円紙幣に肖像が用いられた自由民権運動の主導者

 板垣退助は周知の通り、自由党総理として「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を遺し、自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。没後も、日本民主政治の草分けとして人気が高く、太平洋戦争後、50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

 ただ板垣退助は、人柄は誠実でまじめだが、反体制ぶりは徹底していない。また生来、人が良く、もっといえばお人好しの側面があった。政治の世界でのお人好しは致命的な弱味となる場合がある。そのため、彼は自由民権運動の主導者と持てはやされ、国民的人気が高かった割には、政治的力量がなかったというか、少なくともそれにふさわしい評価を受けるには至らなかった。位階勲等は従一位勲一等。爵位は伯爵。板垣退助の生没年は1837(天保8)~1919年(大正8年)。

 板垣退助は土佐国・高知城下中島町(現在の高知市)に土佐藩士・乾(いぬい)栄六正成の長男として生まれた。幼名は猪之助、退助は元は通称で、諱は初めは正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)と改めた。号は無形(むけい)だが、如雲(じょうん)とも号した。乾家は220石取りの馬廻役(上士身分)であり、同じ土佐藩士、後藤象二郎とは幼馴染みだ。坂本龍馬らの郷士(下士身分)よりも恵まれた扱いを受けていた。

 幕末、藩主・山内豊信(容堂)の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。倒幕運動に参加し、武力倒幕を主張。土佐藩が大政奉還論に傾く中、薩摩藩の西郷隆盛らと倒幕の密約を結ぶが、土佐藩は後藤象二郎の主導により「薩土盟約」を締結。しかし両藩の思惑の違いにより、短期間に破綻。後藤・容堂主導により、「大政奉還の建白」が成された。慶喜がこれを受けいれるが、薩摩藩を中心とした倒幕派はこれに飽き足らず、「王政復古の大号令」に伴う「小御所会議」で慶喜の辞官納地を決定。反発する旧幕府側の兵により、「鳥羽伏見の戦い」が勃発する。

 戊辰戦争では退助は、土佐藩軍指令、東山道先鋒総督府参謀として従軍した。天領(旧幕府領)の甲府城の掌握目前の美濃大垣に着いた1868年(慶応4年)、武田信玄の重臣、板垣信方の没後320年にあたるため、甲斐源氏の流れを組む板垣氏の後継であるとの家伝を示して、甲斐国民衆の支持を得ようと先祖の旧姓とする板垣姓に改姓した。この後、退助の目論見どおり甲斐国民衆の支持を受け、甲州勝沼の戦いで近藤勇率いる新選組を撃破した。

 征韓論をめぐり政府で大分裂が起きた際、西郷隆盛が退助に宛てて出した手紙がある。その中で西郷は「朝鮮への使節には私が単身乗り込みたい。そうすれば、きっと殺されるだろう。一国を代表する使節が殺されたとなれば、戦争する名文は十分に立つ。戦争になってからのことは、一切あげて貴君にお任せする。だから、私が使節になる案を支持していただきたい」という意味のことを書いている。この手紙をもらった退助は、西郷を朝鮮に派遣する案を全面的に支持した。参議の会議でも西郷派遣案を決定した。

 ところが、外遊から帰ってきた大久保利通や木戸孝允が真っ向から反対し、右大臣で臨時太政大臣代理となった岩倉具視が、大久保と組んで参議の決議とは正反対の意見を上奏し、天皇はそれを採可した。参議の決議は踏みにじられた。西郷は直ちに辞表を出し、続いて退助も後藤象二郎、肥前の江藤新平、副島種臣らと参議を辞めた。

 退助は翌1874年(明治7年)「民選議院設立建白」を出した。自由民権運動の始まりだ。土佐立志社系の有志たちとの運動だった。そして1881年(明治14年)、退助は自由党を創立、総理となるが党内左派の激化などにより、党を解散する。「板垣死すとも自由は死せず」という退助の有名な言葉がある。このあたりが退助の絶頂期だった。

 国会開設後は目立った事績は残せなかった。第一次大隈内閣で1898年6月30日~11月8日、第十七代内務大臣を務めたことくらいだ。

板垣退助の反体制ぶりは徹底していない。だからといって不誠実なわけではない。まじめな人柄だ。まじめすぎるといってもいいだろう。それが、ある場合には真価を発揮したが、裏目に出たことも多い。板垣が人に騙されやすいお人好しの側面があったことが、明治の反体制運動を一本に絞れなかった大きな要因の一つだ。政治の世界でのお人好しは致命的な弱味となるといっても過言ではない。国民的人気がたかった割には、政治信条としては一定せず、ブレがあり、政治的力量にも欠けたとみるのが妥当だろう。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」