care のすべての投稿

徳川慶喜・・・ 膨大な数の幕臣を見殺しにし、敵前逃亡した最後の将軍

 徳川慶喜といえば幕末、英明で知られた徳川十五代将軍だ。それだけに、このシリーズに加えることに違和感を持たれる人がいるかも知れない。しかし、最高司令官としての慶喜がきちんと対応していれば、幕府軍の官軍との戦いは、まだまだ互角以上の勝負が可能であった。にもかかわらず、彼は鳥羽・伏見の戦いに敗れると、敗兵を置き去りにして、こっそり大坂城を抜け出して海路、真っ先に江戸に戻ってしまった。

これはトップとして恥ずべき最大の汚点だ。「敵前逃亡」だ。慶喜は膨大な数の幕臣を、ある意味で見殺しにしてしまったのだ。組織のトップとしては、完全に“失格者”だったといわざるを得ない。トップにはトップの者として、その立場に合った、幕臣が納得する、ふさわしい引き際があったはずだ。

 徳川慶喜は、確かに徳川の歴代将軍の中では知性も教養も備え、幕政改革にも取り組む、最後まで可能性を探し続けた「徳川日本株式会社」(幕府)の“経営者”だった。慶喜がやろうとしたのは、単なる財政再建ではなく、“勢威”の回復にあった。つまり、将軍を核にした徳川幕府の勢威を昔日に戻そうとしたのだ。

そのため、彼は軍制、財政、組織の三改革を実施した。組織改革では老中以下の合議制を改め、「省」制を導入した。内務、外務、陸軍、海軍、財、農、商、土木、司法、教育、宗教などに分けた。また、横須賀造船所を建設した。

 そして、西南雄藩を中心とする反対勢力の伸長に対抗、彼は突然、ウルトラCの逆転戦法に出た。「大政奉還」だ。諸藩の有力者に対し、“ポスト徳川”の運営がお前たちにできるのか?やれるならやってみろ-との気持ちが強かったと思われる。つまり、彼は本気でトップの座を降りる気はなかったのだ。彼は“時代の空気”を読みそこなった。彼の目算では、討幕勢力は四百万石という徳川クラスの“大企業”経営の経験がない連中だけに、すぐに音を上げて投げ出してしまうだろうと、たかをくくっていたのだ。

 ところが、西南雄藩の連中は音を上げるどころか、十分やる気で、天皇を担ぎ出し「今後、日本の経営は天皇が行う」と宣言した。「王政復古」だ。この奇襲に慶喜も完全に足をすくわれた格好だ。そして、鳥羽・伏見の戦いでの敗戦で彼は、取り返しのつかない、決定的なミスを犯してしまった。側近のみを伴っての敵前逃亡だ。哀れなのは置き去りにされた、膨大な数の幕臣たちだ。

 歴史に「たら」「れば」は無意味ということを承知で、敢えて大坂城で一戦していれば、と考えてしまう。負けてもいい。負けたら江戸で一戦すべきだったのではないかと思う。大坂城では軍備も戦力もあった。江戸でも戦う人々はたくさんいたのだ。そうすれば佐幕派の諸藩や旗本ら幕府軍も結末はどうあれ納得できただろう。江戸の庶民もそうだ。

 しかし、慶喜は江戸に戻って後、ひたすら恭順の姿勢を取る。京都や大坂にいて幕政改革の陣頭指揮を執った、あのエネルギッシュでダイナミックなトップの面影は全くない。この落差がどうにも理解しにくいところだ。“朝敵”の汚名は何としても返上したい-の思いは確かにあったろうが、もうすこし、常識的に対応すれば、こんな追い込まれ方はしなかったのではないか。

 徳川慶喜の生没年は1837(天保8)~1913年(大正2年)。江戸・小石川の水戸藩邸で第九代藩主・水戸斉昭の七男として生まれた。幼名は七郎麻呂。斉昭の命で徹底した英才教育を受け、水戸弘道館で学んだ後、1847年(弘化4年)一橋家を継いで慶喜と改名した。内大臣。従一位勲一等公爵。

(参考資料)司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」
      奈良本辰也「歴史に学ぶ」、杉本苑子「残照」

藤原兼家・・・初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物

 藤原兼家は、藤原氏の中でも初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物だ。天皇の外戚となり、権謀術数の限りを尽くして地位を確立した藤原氏は、兼家の子、道長の時代に絶頂期を迎える。兼家は、その道長の全盛時代の礎をつくったのだ。兼家の生没年は929(延長7)~990年(永祚2年)。
 藤原兼家は藤原北家の流れ、藤原師輔の三男で、母は藤原経邦の娘盛子。道隆、道兼、道長、道綱らの父。妻の一人に『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母がいる。

兼家は円融天皇のとき、長兄の伊尹(これただ)が早世すると、次兄兼通と摂関の地位をめぐって激しく対立した。兼家は次の関白を望んだが、結局敗れ、その地位は兼通に奪われてしまった。ここから兄弟による、ちょっと信じがたいほどの対立状態が続き、兼家にとって不遇の時代が続いた。関白となった兼通は兼家を憎み、ことごとく兼家の出世の邪魔をし、死に際には兼家を大納言から治部卿に降格させることまでやった。どうして?そこまでやるか?くらいの意地の悪さだ。

 なぜ、兄弟間のこんな陰湿な対立が生まれたのか?それは、ずばり弟の兼家が兄の兼通の官位を超えて出世してしまったからだ。967年(康保4年)、冷泉天皇の即位に伴い、兼家は兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌968年(安和元年)には兼通を超えて従三位に叙された。969年(安和2年)には参議を経ずに中納言となった。蔵人頭は通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし兼家は従三位に達し、さらに中納言就任直後までその職に留まった。

これは長兄伊尹が自己の政権基盤確立のため企図したもので、宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられる。そして、これが「安和の変」に兼家が関与していたとされる説の根拠とされている。その後、伊尹が摂政になると、兼家はさらに重んじられた。伊尹は兼家が娘の超子を入内させるのを黙認しただけでなく、972年(天禄3年)には兼家を正三位大納言に昇進させ、さらに右近衛大将・按察使を兼ねさせた。その結果、兼家の官位が兼通の上となり、このため兼通の兼家に対する恨みが増幅した形となったのだ。

 972年(天禄3年)伊尹が重病で辞表を提出すると、当然兼家は関白を望んだ。しかし兼通がこの事態を黙ってみているわけはなかった。そして兼通は「関白は宜しく兄弟相及ぶべし(順番に)」との円融天皇の生母安子の遺言を献じたのだ。孝心篤い天皇は遺言に従い、兼通の内覧を許し、次いで関白とした。兼通の勝利だった。

 兼通に妬まれていた兼家は不遇の時代を過ごすことになった。兼家の娘・超子が冷泉上皇との間に居貞親王を産むと、兼通はこれを忌んで円融天皇に讒言した。また、兼家が次女の詮子を女御に入れようとすると、兼通はこれを妨害した。兼家の官位の昇進も止まってしまった。『栄華物語』によると、兼通は「できることなら(兼家を)九州にでも遷してやりたいものだが、罪がないのでできない」とまで発言している。

 兼通の、兼家に対する憎しみは死を前に爆発する。きっかけは、兼通の勘違いだった。977年(貞元2年)、重体に陥った兼通が邸で臥せっていたとき、兼通の門前を通りかかった兼家の車が当然、見舞いにきたものと思っていたが、実はそうではなく、通り過ぎて禁裏へ行ってしまったことを激怒したのだった。そこで兼通は、病身をおして参内して最後の除目を行い、関白を藤原頼忠に譲り、兼家の右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げした。兼通は最後の力を振り絞って、兼家にできる限りのダメージを与えることに執念を燃やしたのだ。そして満足したか、程なく兼通は死去した。

 兼家の出世にとって最大の“障害”だった兼通が亡くなったことで、あとは策略と処世術に長けた兼家自身が、外戚の立場を最大限に活かし、着実に階段を昇るだけだった。兼通の死後は右大臣に任じられ、次第に朝廷内での権勢を得ていった。そして、寛和2年6月には息子、道兼を使い策略によって花山天皇を出家させ、退位させた。そして娘が産んだ一条天皇の擁立に成功。986年、念願の摂政に就任した。その後、兼家の家系が摂政を独占することになった。

 ただ、兼通・兼家の兄弟の間に憎しみにも似た争いがあったように、勝者の兼家の息子・孫の世代でも争いは繰り返されている。中でも兼家の末っ子、道長と長兄道隆の子供(伊周ら)たちとの官位争いだ。両家一族挙げての対立は、ほとんど手加減なしの想像以上に激しいものだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

北条高時・・・田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った執権

 鎌倉幕府最後(第十四代)の執権となった北条高時は、田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った。『太平記』『増鏡』『鎌倉九代記』など後世に成立した記録では闘犬や田楽に興じた暴君、暗君として書かれている。いずれにしても、執権としての自覚に乏しく、酒色におぼれ、政務を疎かにしたことは間違いない。高時の生没年は1303(嘉元3)~1333(元弘3年/正慶2年)。

 杉本苑子氏は、北条氏は不思議な氏族だという。鎌倉時代のおよそ130年、北条氏は十六代にわたる執権家、とくに得宗と呼ばれた宗家嫡流の権力保持には、どすぐろい術策の限りを尽くした。その結果、後世の人々には陰険な氏族として毛嫌いされているほど。それにもかかわらず、執権を務めた人物一人ひとりの生き方は、権位にありながら、珍しいほど清潔だった-と杉本氏。ただ、これには例外があった。北条氏の執権を務めた中に一人、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した人物がいた。それがここに取り上げた十四代・北条高時だ。

 北条高時は第九代執権・北条貞時の三男として生まれた。成寿丸、高時、崇鑑と改名した。日輪寺(にちりんじ)殿と呼ばれた。1316年(正和5年)、14歳で執権となった。したがって、まだ執権としての器量にも欠けていたため、実権は舅の時顕や執事の長崎高資が握っており、高時に政務の出番はなかった。ただ、飾り物としての執権職に嫌気したか、彼は成長してからも真面目に職務に就くことは少なかったようだ。

 高時の道楽の極め付けが闘犬だった。諸国に強い犬、珍しい犬はいないかと探し求め、これが高じて遂に国税あるいは年貢として徴収し出す始末だった。公私混同も甚だしい。また、気に入った犬を献上した者には惜しみなく褒美を与えた。こうなるとめちゃくちゃだ。こうした闘犬狂いの高時のご機嫌を取ろうとして諸大名や守護、御家人たちは競って珍しい犬を飼っては献上するので、当時、鎌倉に4000~5000匹の犬がいたという。月に12度も「犬合わせの日」が定められていたというから、少なくとも3日に1度は闘犬にうつつを抜かしていたというわけだ。この高時の闘犬狂いは地方にも波及し、地頭や地侍までが闘犬に夢中になったと伝えられている。

 1326年(正中3年)、病のため高時は24歳で執権職を辞して出家した。後継をめぐり高時の実子、邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こった。いったんは金沢貞顕が執権に就くが、すぐに辞任。赤橋守時が就任することで収拾した。

 1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出して、伯耆国の船上山で挙兵。ここから事態は急展開。足利高氏、新田義貞らが歴史の表舞台に登場し、鎌倉幕府の命運は危うさを増していく。

 高時の放蕩三昧でタガの緩み切った鎌倉幕府に、新しい勢力の流れを阻止する力は残っていなかった。同年、新田義貞が鎌倉に攻め込んできたときには、緩み切った鎌倉幕府もさすがにこれには対抗、烈しい死闘を演じた。だが、結局6000人もの死者を出し、鎌倉幕府は滅亡、高時は東勝寺で自刃した。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」、司馬遼太郎「街道をゆく26」、杉本苑子「決断のとき」

藤原信西・・・博覧強記で、信念に沿った行動が敵視され“悪役”に

 日本人は合理的に物事を考え処理していく人物をあまり好まない。そのため頭が切れ、眼識が鋭く、決断力に富み、毀誉褒貶を意に介さず、信念に沿って行動するタイプの人間はややもすると敵視され、“悪役”に仕立て上げられるケースが少なくない。当世無双の博覧強記といわれ、「諸道に達する才人」といわれたこの藤原信西などはその代表的な例かもしれない。信西の生没年は1106(嘉祥元)~1160年(平治元年)。

 藤原信西は平安末期の貴族・学者・僧侶。信西は出家後の法名。俗名は藤原通憲(みちのり)。信西の家系は曽祖父藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父藤原季綱は大学頭だった。ところが1112年(天永3年)、父藤原実兼が蔵人所で急死したため、幼少の通憲は縁戚の高階経敏の養子となった。このことが後の彼の生き方を大きく左右することになった。

 通憲の願いは曽祖父、祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会のしくみでは、高階家の戸籍に入ってしまった通憲には、その時点で実範・季綱を世襲する資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていたのだ。これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。

 鳥羽上皇はこれを宥めようとして1143年(康治2年)、正五位下、翌年には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、さらに息子・俊憲に文章博士、大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年出家して「信西」と名乗った。
 鳥羽上皇は信西の才能に注目し『本朝世紀』の選者とした。これは官選の国史『六国史』の後を受けて、宇多帝の御宇から近衛帝までおよそ250年間にわたる宮廷内でのできごとを、外記・日記をはじめ諸家の記録を参照し、年代を追いつつ整理編纂したもので、史学史上、重要な文献となっている。

 『法曹類林』の述作も、地道な業績のひとつといえよう。明法家・司法学者らの意見、実施に適用された令法上の慣例などを、古書・古文献を丹念に渉猟して、事項別に分類・収集した法律書だ。全230巻におよぶ大部なものだから、当時の官界・学界に大いに活用されたばかりでなく、現在なお、平安朝時代の法例・法理を考察するうえで貴重視されている。

 また信西自身、自分の家系が朝廷内で出世の見込みが薄いことで、傍目にはとても皇位に就く可能性が低い鳥羽上皇の第四皇子、雅仁親王に目をつけた。ただ、それは決して自暴自棄になって選択したのではなかった。成算を見込んでのものだったのだ。そして、彼は政治状況や天皇家の内紛、人間関係などを冷静に観察、分析して、雅仁親王こそ天皇になれると見抜き、接近した。

 1155年(久寿2年)近衛天皇が崩御すると、幸運にも妻朝子が乳母となっていた雅仁親王がその見立て通り、後白河天皇として即位。信西はその信頼厚い権力者の地位を得た。1156年(保元元年)、鳥羽上皇が崩御すると、その葬儀の準備を行い、「保元の乱」が起こると源義朝の献策を積極採用して、“夜襲”作戦を断行。後白河天皇方に勝利をもたらした。

 信西は乱後、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、新制七カ条を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど絶大な権力を振るった。また、大内裏の再建や相撲節会の復活なども信西の手腕によるところが大きかった。

 しかし、強引な政治の刷新は反発を招き、二条天皇が即位し後白河上皇の院政が始まると、当時、後白河の寵臣となっていた藤原信頼と対立。徐々に歯車が狂い始める。その一方で、保元の乱をきっかけに、さらに力を持った信西は源義朝が申し入れてきた婚姻関係を断り、平氏の娘と自分の息子で婚姻血縁関係を結んだ。このことは後に大きな禍根を残すことになった。源義朝は保元の乱の時の活躍を正当に評価されなかった不満と、信西に持ち込んだ婚姻関係を断られたことに怒り、信西と対立した勢力と結んで1159年(平治元年)、「平治の乱」を起こしたのだ。

 信西は源義朝・藤原信頼の軍勢に追われ、伊賀の山中で切腹した。だが、後に源光保によって地中から掘り起こされ、首を切り取られ都大路に晒されたという。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

藤原純友・・・京での貴族社会から脱落し、開き直って官位を持つ海賊に

 藤原純友は平安時代中期、朝廷に対し海賊の頭領として西国で反乱を起こし、同時期に関東で平将門が起こした反乱と合わせ呼称される「承平・天慶の乱」<935(承平5)~941年(天慶4年)>の首謀者として知られる。純友は将門のように神や英雄として崇められることも少ない。また、純友に関する伝説や史料は乏しい。純友は将門を語るうえで無視できない西国の「敗者」なのだ。純友の生年はよく分からないが、893年(寛平5年)ごろと推察される。没年は941年(天慶4年)。

 藤原純友は右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の三男。当時の朝廷の権力の中心を占めていた藤原北家に生まれている。曽祖父は陽成天皇の外祖父、贈太政大臣・藤原長良であり、大叔父には最初の関白・藤原基経がいる。しかし、ここに異説がある。純友は伊予の豪族高橋家の生まれで、藤原良範が伊予守となっていたと思われることから、その縁で良範の養子になったというものだ。いずれにしても、近い一族に高位の有力者がいたことは間違いない。

 ところが、純友の人生を狂わせることが起こる。それは父が若くして死んでしまったのだ。そのため、様々な人脈の伝手で可能であったろう仕官の“芽”が摘まれてしまったわけだ。都での出世が望めなくなった純友は、地方官となった。当初は父の従兄弟の伊予守藤原元名に従って「伊予掾」として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあった。「掾」は地方官として三番目の官で、伊予は上国だから従七位上相当官だ。しかし、元名帰任後も帰京せず、伊予国(現在の愛媛県)に土着した。

 ところで、純友が活躍したのは瀬戸内海だが、このころの瀬戸内海沿岸や無数の島々はどんな状態になっていたのか。瀬戸内海に海賊が横行していたことは、紀貫之の『土佐日記』の記述でよく分かる。彼は土佐守の任期がきて帰京するのに、絶えず海賊襲来の噂に怯えつつ航行している。貫之が土佐から帰京した934年(承平4年)末から935年(承平5年)初めのことだ。『三代実録』にも、海賊が跳梁跋扈し、一向にやまない状況を嘆き、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐などの国々に海賊を追捕するよう命じた-とある。

 さらに、その後、播磨・備中・備後などの国々から相次いで、海賊を捕らえたとの報告がきているが、賊勢は一向に衰えた様子はない。噂によると、これは各国の国司らが責任逃れに汲々として、自分の管轄内だけの平穏を保つため、捕らえて退治しようというのではなく、追い払うだけだからだ-と『三代実録』にある。朝廷が海賊対策に躍起になっているのに、沿岸諸国の国司らが責任逃れだけのいいかげんなことをしていることがよく分かる。

 さて、京での出世の見込みがないと判断し土着した純友は、完全に開き直り、立場を180度変えてしまった。海賊を鎮圧する側ではなく、海賊そのものになったのだ。推定42歳ころのことだ。従七位・伊予掾の官位は盗賊の中では異色で、彼はまもなく頭角を現し、936年(承平6年)ころまでには海賊の頭領となった。伊予の日振島(現在の愛媛県宇和島市)を根城として1000艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を広げた。

そして、一大勢力となった彼は攻勢に出る。朝廷に対し叛乱を起こしたのだ。当初は各地で官軍を撃破し優勢だったが、次第に劣勢となり追い詰められ、941年(天慶4年)、藤原国春に敗れ、九州大宰府に敗走した。なおも追討軍の小野好古らの追撃を受け、その後、伊予・日振島に脱出するが、伊予国警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)の手で逮捕された。遠保は純友を京に護送するつもりでその身を禁固したが、獄中で死亡した。その死因は不明だが、自害かも知れない。

 純友らはなぜ叛乱を起こしたのか?純友らの武装勢力は、純友と同様、元は海賊鎮圧にあたった者たちで、鎮圧後も治安維持のため土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層だ。とくに親分株の者は氏素姓のある連中だった。彼らは親の世代の早世などによって、保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者たちだった。しかし、彼らは自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのだ。こうしてみると、この叛乱は律令国家の腐朽と弱体を白日の下に晒したものだった。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」

藤原仲麻呂・・・自分の栄達だけを考えた野心家の“脆さ”を露呈

 藤原仲麻呂は、温厚な兄、藤原豊成とは異なり、自身の栄達だけを考えて、次から次へと抜け目なく行動する野心家で、孝謙天皇との強いきずなを利用して、邪魔者を次々と抹殺していった。その結果、孝謙天皇からは「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を賜り、異例のスピードで出世し、重く用いられ頂点へ昇りつめたが、あっけなく滑り落ちた。藤原各家の争いと兄弟との出世争いがからみ、彼には悪役イメージが色濃い。現代風に表現すれば、出世頭のサラリーマンが最後の詰めを誤って失敗し、株主総会で罷免されてしまった人物-というイメージか。

 藤原仲麻呂は南家・藤原武智麻呂の第二子。彼が藤原京の邸に生まれたのは706年(慶雲3年)、祖父藤原不比等が48歳の大納言の頃だった。兄豊成は3歳、父武智麻呂は27歳で大学助から頭(かみ)になった年だ。そして、一家が平城京に引っ越したのが仲麻呂5歳のときだ。仲麻呂は幼い頃から頭がよく、勉強もよくしたらしい。「史書」や「漢書」など中国の史書も好きで、母方の親戚の大納言阿倍宿奈麻呂の邸に通って、算術も学び得意だったようだ。3つ違いの兄豊成に対して、常に次男としてのハンディを感じつつ育った。その感覚が兄を巻き返すエネルギーを生んでいき、自分がのし上がる手立てを模索するようになる。

 聖武天皇の死後、他の貴族たちがあたふたとしている間に、仲麻呂は光明皇后、阿倍内親王・皇太子に近づき、二人を常に激励することによって信用を得ていた。749年(天平勝宝元年)大納言となり中衛大将を兼ね、さらに光明の皇后宮職が拡大強化されて「紫微中台(しびちゅうだい)」という新しい機関が設置され、彼はその長官・紫微令に任じられた。この紫微中台は、単に孝謙天皇の後見役をするための役所ではなく、実質的に国政の中心となっていった点が重要なポイントだ。つまり、紫微令・藤原仲麻呂は、太政官の上に立つ絶対的な権限を握ることになったのだ。そして、以後ここを基盤として勢力を広げていった。

 758年(天平宝字2年)、孝謙天皇は大炊王(おおいおう)に譲位し太上天皇となった。大納言、藤原仲麻呂はこの大炊王に亡き息子、真従(まより)の未亡人、粟田諸姉(あわたのもろあね)を娶らせ、自邸の田村第に住まわせていた。その関係で、この大炊王=即位後の淳仁天皇は事実上、仲麻呂の計略によって擁立された天皇だったから、実権はことごとく仲麻呂の掌中に握られることになった。そして、仲麻呂は太政大臣同等の大師に任じられ種々の特権を賦与され、遂に正一位にまで昇りつめた。

 仲麻呂は淳仁天皇を自由自在に動かして専横を極めたが、光明皇太后の薨去と僧侶道鏡の出現によって事態は次第に緊迫し、その権勢にもかげりが見え始めた。琵琶湖畔の保良離宮で静養していた孝謙太上天皇は看護禅師、道鏡と次第に親密な関係になっていった。淳仁天皇がこれを見咎めると、上皇は激怒して762年(天平宝字6年)、平城京に戻ると法華寺に出家して、天皇は小事のみ行うべきであり、国家の大事と賞罰は自らがこれを行うと命じたのだ。

 そうした事態の急転に驚き、仲麻呂は反乱を企てたが、まもなく発覚。上皇方から追討の兵を向けられるとともに、官位や藤原の姓、職分や功封も剥奪されることになった。すべてを失った仲麻呂は近江へと敗走、越前に入ろうとしたが、764年(天平宝字8年)、近江国高島郡で一族ともども捕えられ、妻子とともに殺害された。野心家の仲麻呂は、攻めには強かったが、いったん守勢に回ると焦りまくり、“墓穴”を掘った。そんな、あっけない転落だった。

それだけでは済まなかった。中宮院にあった淳仁天皇も捕えられ、仲麻呂との共謀を指弾されて淡路へと流された。そのため、天皇は淡路公、あるいは淡路廃帝と称される。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、村松友視「悪役のふるさと」、黒岩重吾「弓削道鏡」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

源 通親・・・権謀術数を駆使し厚顔に世渡りした汚辱の政治家

 源通親(みなもとのみちちか)は後白河天皇、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇、土御門天皇の七朝に仕え、没後に従一位を賜るほどの働きを成し、村上源氏の全盛期を築いた、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家政治家だ。ただ、裏を返すと彼は節操もなく、七朝にもわたって仕えた変節の政治家で、収賄の大家だった。時の権力者にすり寄り、その都度、権力者の係累と婚姻関係を結んで勢力を伸ばすというやり方で、まさに権謀術数に長けた腐敗政治家だったのだ。

そして、こうした汚辱にまみれた公家政治家の印象とは対極にあるが、曹洞宗の開祖・道元禅師の父でもある。源通親は「土御門通親」、曹洞宗では久我(こが)通親と呼ばれている。彼の生没年は1149(久安5)~1202年(建仁2年)。

 源通親は村上源氏、父雅通は(まさみち)は内大臣、祖父は右大臣になっているから、まずかなりの家柄といっていい。しかし、摂政関白の座に就いて政治を左右し得る藤原氏の嫡流グループからみれば、明らかに一段劣り、たかだか伴食大臣の座にありつくといった役どころだ。10歳で叙爵、17歳で従五位上、19歳で右少将となり、ごく普通の出世ぶりだった。叙爵の2年前に保元の乱(1156年)が起こり、11歳で平治の乱(1159年)をみている。物心ついたとき、すでに争乱の時代は始まっていたのだ。乱が収束すると同時に、平清盛がめきめき頭角を現してきたのも見逃せないことだった。

 いつの時代も名門の子弟には二つのタイプがある。最初から勝負を投げて出世を諦めてしまうのと、ひどく抜け目なく立ち回って要領よく割り込んでしまうタイプだ。そして、後者の場合は小面憎いほどの技巧を駆使してみせる。通親はもちろん後者だ。公家社会のしくみも、その泣きどころも心得たうえでの、彼の巧妙な作戦は、右少将になる以前からすでに始まっていたようだ。

彼の最初の作戦計画は、大物・実力者の娘にターゲットを絞ったラブハントだ。彼がまず狙ったのは大納言花山院(藤原)忠雅の娘だが、忠雅はやがて内大臣から太政大臣へと昇進する。その意味では通親は見事に出世株の娘を手に入れたわけだ。

 既述の通り、通親は変節の政治家で、収賄の大家だった。また、節操もなく恥を知ることもない権謀術数の腐敗政治家だった。彼は平家が勢いを得はじめると最初の妻を簡単に捨てて、清盛の姪(清盛の弟・教盛の娘)を妻に迎え、清盛の庇護の下に政界にその勢力を伸ばし、高倉天皇の側近の地位を築いた。そして1179年(治承3年)、蔵人頭になって平家と朝廷のパイプ役として知られるようになった。同年の清盛による後白河法皇幽閉と、その後の高官追放(治承三年の政変)の影響を受けて参議に昇進。以仁王の乱の追討・福原京遷都ではいずれも平家とともに賛成を唱え、摂関家の九条兼実や藤原定家を代表とするその周辺と対立した。

 ところが、一転、平家が総帥・清盛の死後、落ち目になると、今度もまた二度目の妻を捨てて、高倉範子(はんし)を妻とし、後白河法皇の側についたのだ。彼には人としての“情”というものがなかったのか、見事というか、浅ましいというか、あきれるばかりの変わり身の早さだ。

 そして、驚くことにこの範子が高倉天皇の第四皇子、尊成(たかひら)親王の乳母だったのだ。この皇子・尊成こそ平家とともに都を離れた安徳天皇の後を襲って皇位に就いた後鳥羽天皇だった。やはり、彼には時代を見る目の鋭さがあったのか。以後、彼は後鳥羽天皇の忠実な側近として、廟堂の奥深くにじわじわと食い込んでいく。

 その後、後鳥羽天皇が譲位し、土御門天皇の御代になると、しばらくして通親は内大臣となり、後鳥羽院の別当を兼ねるのだ。これまでの廟堂のいざこざは、天皇側と上皇側の間の円滑さを欠くことから起こったものだが、彼は院と天皇と両方の権力を掌握してしまったのだ。事実上いまやすべての権力を彼が握ってしまった格好だった。

 さて、そこから次に彼がやろうとしていたことは何だったのか?残念なことに、縦横無尽の彼の活動に終止符が打たれるため、この先はない。頓死だった。53歳だった。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界 西国の権謀家たち」、永井路子「絵巻」

山城屋和助・・・維新後、名を変え陸軍省の長州人脈に暗躍した政商

 山城屋和助は明治維新後、名を変え、陸軍省の長州人脈に深く入り込み、軍需品納入で大儲けするようになってからの政商的商人としての名前だ。彼の本名は野村三千三(みちぞう)。後年、陸軍省から預かった公金で生糸相場に失敗。預かり金65万円を返済できず、陸軍省内で割腹自殺した。これが、彼が引き起こしたと一般的にいわれる山城屋事件だが、この事件の全貌については、彼の経歴・活動とともに謎に包まれた部分が多い。生没年は1837(天保8)~1872年(明治5年)。

 野村三千三は周防国(山口県)玖珂(くが)郡山城荘(やましろのしょう)本郷村で、医師、野村信高(玄達)の四男として生まれた。8~9歳のとき母、父を相次いで失った。1851年(嘉永4年)ごろ萩の浄土宗の寺、竜昌院に預けられ、その後出家、僧侶となって諸国を遍歴した。

 文久年間(1861~1864年)に帰郷。1863年(文久3年)に還俗して長州藩士高杉晋作が組織した「奇兵隊」に入隊。下関砲撃事件に参加。戊辰戦争には山県有朋の部下として参戦、越後口へ出征し小隊長として活躍、密偵としても行動していたといわれる。ここまでが野村三千三としての人生だ。
 明治維新後、野村はどのような経緯があったのか定かではないが、山城屋和助と名を変え、志を転じて商人となる。横浜に店舗を構えて、幕末、「奇兵隊」入隊以降、親交のある山県有朋を介して長州人脈と結びつく。この人脈を活かした、軍需品納入の商売は大繁盛した。陸軍省からの預かり金を基礎に生糸の輸出貿易に着手、陸軍の御用商人となった。さらには諸省の用達となって、明治初期の政商の代表格として巨富を得たのだ。

 政商として大いに自信をつけた山城屋和助の欲望には、もう際限がなくなっていた。山城屋は1871年(明治4年)、貿易のことでアメリカやフランスに行き、翌年帰朝した。1872年(明治5年)、山城屋は山県ら長州系の官僚に陸軍省公金15万・を借り、生糸相場に手を出す。長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている。

 しかし、山城屋は不運にも、普仏戦争勃発の影響によるヨーロッパでの生糸価格の暴落で大きな損失を出してしまう。そこで山城屋は陸軍省からさらに公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとしてフランスに渡った。ところが、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使、鮫島尚信が日本の外務省に報告。これにより、山城屋への総額65万円に上る公金貸し付けが発覚したのだ。世にいう山城屋事件だ。

 陸軍省では当時、長州閥が主導権を握っていた。これを好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾する。山城屋と最も緊密だった山県有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、山城屋にはもはや借りた公金を返済する能力がないことだけが明らかになっただけだった。その結果、山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を絶った。

窮地に立たされた山城屋は、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山県への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は万策尽きたと判断し、陸軍省内部の一室、教官詰所で割腹自殺し、波乱に富んだ人生を終えた。1872年(明治5年)のことだ。この自殺により山城屋事件の真相は究明されないまま終わった。ただ山県への疑惑は強く、司法卿・江藤新平の厳しい糾明もあって非難が収まらず、同年遂に山県は陸軍大輔をも辞任して責任を取った。明治初期の軍部の腐敗ぶりを反映した汚職事件だ。

(参考資料)井上清「日本の歴史 明治維新」

柳沢吉保・・・綱吉の寵愛受け大老格に大出世、引き際鮮やかな策士

 柳沢吉保は、初めは小身の小姓だったが、徳川第五代将軍綱吉の寵愛を受けて、異例の大出世を果たし、元禄時代には大老格として幕政を主導した。その出世の裏に何かからくりがあったのか。柳沢吉保に“悪役”の世評が多いのはなぜか。

 吉保の悪役イメージの一つは、忠臣蔵ドラマで事件の黒幕・悪役として描かれることが多いためだ。事実、1701年(元禄14年)の江戸城松の廊下での吉良上野介に対する浅野長矩の刃傷事件の、幕府の裁断には綱吉はもちろん、綱吉の側用人だった吉保の意向が関係していたといわれる。また、彼には側室をめぐって、主君綱吉との間で尋常ではない噂もあったからだ。

 柳沢吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれた。母は安忠の側室・佐瀬氏。彼は房安、佳忠、信本、保明、吉保、そして保山と頻繁に改名を繰り返している。別名として十三郎、弥太郎(通称)とも呼ばれた。長男だったが、父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫(父安忠の娘婿)、柳沢信花が養嗣子となって継いだ。吉保は館林藩主を務めていた徳川綱吉に小姓として仕えた。このことが、後の出世のきっかけになる。

 柳沢吉保が異例とも言える“出世街道”を走ることになるのは、1675年(延宝3年)、家督相続し、これを機に保明(やすあき)と改名してからのことだ。1680年(延宝8年)、徳川四代将軍家綱の後継として、弟の綱吉が将軍となるに随って保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられた。その後、綱吉の寵愛を受け頻繁に加増され、1685年(貞享2年)には従五位下出羽守に叙任。1688年(元禄元年)、将軍親政のために新設された「側用人」に就任。禄高も1万2000石とされて、遂に大名に昇ったのだ。

 そして1690年(元禄3年)に老中格、1698年(元禄11年)には大老が任ぜられる左近衛権少将に転任した。1701年(元禄14年)は彼にとって極めてエポックメーキングな年となった。主君・綱吉の諱の一字を与えられ吉保と名乗ることになったのだ。出世はまだ続く。1704年(宝永元年)、綱吉の後継に甲府藩主の徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲府藩(現在の山梨県甲府市)15万石の藩主となった。甲府は江戸防衛の枢要として、それまで天領か徳川一門の所領に限られていた。それだけに甲府藩主になったということは、綱吉が吉保をほとんど一門も同然とみなすほど、激しく寵愛していたことを如実に物語っている。

 吉保にも誇るべき閨閥があった。側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から、朝廷にも影響力を持ち、1702年(元禄15年)、将軍綱吉の生母、桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白・近衛基煕など朝廷重臣たちへ根回しをしておいたお陰だった。綱吉の“引き”と、こうした功績がものをいったか、1706年(宝永3年)には遂に大老格に昇りつめたのだ。

 しかし、“幸運児”吉保にも陽の当たらなくなるときがくる。1709年(宝永6年)、吉保の権勢の後ろ楯ともいうべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。吉保に代わって、新将軍家宣の側近、間部詮房(まなべあきふさ)、儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは急速に失われていった。こうした状況を敏感に察知して吉保は自ら幕府の役職を辞するとともに、長男の吉里に家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。その結果、その後、吉里の領地は甲府藩から郡山藩に移されたものの、柳沢家15万石の知行が減封されることはなかった。吉保の見事な引き際のお陰ともいえる。綱吉近臣派でも、その地位に留まろうとした松平輝貞や荻原重秀らは、新井白石らと対立して、免職のうえ減封の憂き目に遭っているだけに、極めて対照的だ。

 俗説によると、吉保の側室の染子はかつて綱吉の愛妾で、綱吉から下された拝領妻だという。そして、一説には吉里は綱吉の隠し子だともいわれる。もちろん、真偽のほどは定かではない。ただ、幕閣で権勢を誇った重臣で、次の将軍の下で生き抜くことや、家督を継いだ子供の世代に全く減封されることもなく、務め上げられるケースは少ないだけに、その背景・仔細を勘ぐりたくなる。前将軍・綱吉の近親者なら…と納得するところだが、事実は闇の中だ。

(参考資料)池波正太郎「戦国と幕末」

弓削道鏡・・・称徳天皇の支援のもと、法王にまで登り詰めた異例の怪僧

 弓削道鏡は761年(天平宝字5年)、近江保良宮で孝謙女帝の病を治して寵を得て以後、政界に進出。764年(天平宝字8年)、恵美押勝が失脚し、女帝が重祚して称徳天皇となると仏教政治を展開。彼は僧侶でありながら臣下として最高の地位である太政大臣に相当する、太政大臣禅師という前例のない地位に就き、766年(天平神護2年)には法王にまで昇り詰めた。

法王などというのは、それ以前に聖徳太子が後世の人たちから称せられた以外に例はない。待遇としては天皇に準ぜられる地位なのだ。そして、さらに道鏡は、宇佐八幡神の神託によって、皇族以外がなったことのない天皇の地位に、あわや手が届こうとするところまでいってしまったのだ。そんな道鏡という人物が、実際にはどれほどの人物だったのか?孝謙女帝との関係の真相はどうだったのか?宇佐八幡の神託事件は誰によって仕組まれたのか?

 孝謙天皇は749年(天平勝宝元年)、31歳の、夫のない処女の身で即位した。それは父、聖武天皇に皇位を継ぐべき男子がなかったためだ。この点、皇后であったり、皇太子が幼かったり病弱だった場合、皇太子が即位し得る条件が整うまで皇位に就いた、それまでの女帝(推古・皇極=斉明・持統・元明・元正)とは明らかに異なる特殊なケースだった。

 坂口安吾の作品「道鏡」によると、孝謙天皇は即位の後に、皇后職を紫微中台と改め、その長官に登用した大納言藤原仲麻呂に恋をした。50歳を過ぎた仲麻呂に対する、40歳近い女帝の初恋だった。母光明皇太后が死ぬまでは、それでも自分を抑えていた。しかし、母の死後は歯止めがなくなり、仲麻呂を改名して「恵美押勝」と名乗らせ、貨幣鋳造、税物の取り立てに、恵美家の私印を勝手に使用してよろしいという、政治も恋も区別のない、でたらめな許可を与えた。すべては愛しい男、藤原仲麻呂=恵美押勝に惹かれていたからだ。

 一方、道鏡は河内国弓削郷の豪族・弓削氏の出身で、安吾によると幼時、義淵(ぎえん)について仏学を学び、サンスクリットに通達していた。青年期には葛城山に籠って修法錬行し、看病薬湯の霊効に名声があった。下山後は東大寺に入り、内道場に入った。

 当時の僧は宮中の高貴な女性たちがいるところまで入り込んで、病気を治す祈祷をし、マッサージや揉み治療までもして、薬の知識も持っている。つまり、医者と薬剤師と祈祷師と坊さんとを兼ねた存在だったのだ。道鏡は、初めは女帝の病気を治すために宮中へ招かれた。761年、孝謙天皇の病を治してからは、にわかに政界に進出。そんな道鏡に惹かれるのに反比例して、女帝の中での押勝像が歪んでいく。押勝は、女帝と道鏡の結びつきを怖れ、女帝を怨み、嫉妬心に苛まれ失脚を怖れ、狂っていった。その果てに企てたクーデターが失敗し、死んだ。

 女帝(孝謙上皇)は淳仁天皇の後を襲い、法体のまま重祚して称徳天皇となり、道鏡は大臣禅師という前代未聞の官職に就いた。さらに翌年、太政大臣禅師となり、二年後法王となった。これに伴い、地方の中小豪族に過ぎなかった弓削一族も中央政界に進出した。道鏡と女帝との関係は単なる寵臣以上のものがあったとみられ、ここから女帝が道鏡を皇位に就けようとする事態に発展した。この計画は藤原百川らを中心とする律令貴族の暗躍と、和気清麻呂の儒教的倫理観によって失敗したが、女帝にとって道鏡はそれほどに重く、愛しい存在だった。

 しかし、770年(宝亀元年)、女帝が53歳で崩御すると道鏡の命運も尽きた。彼は罪を問われ、まもなく下野国薬師寺別当として流され没した。弓削一族も枢要な地位にあった者は土佐に流された。

(参考資料)黒岩重吾「弓削道鏡」、村松友視「悪役のふるさと」、杉本苑子「対談 にっぽん女性史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

由比正雪・・・巷にあふれた浪人救済計画が、なぜか“謀反の挙”に

 由比正雪は、丸橋忠弥らと謀って徳川幕府を転覆させようとした謀反人だとされている。徳川三代将軍家光の頃には、関ヶ原の合戦において生まれた浪人が全国津々浦々にいた。幕府はこうした浪人が反幕府の力として結集せぬよう心を砕いた。浪人の取り締まりも厳しいものがあり、由比正雪はこれら浪人に対する幕府のやり方に反発し1651年(慶安4年)、それを正すために謀叛の挙に出たというわけだ。これが「由比正雪の乱」ともいわれる「慶安の変」で、この事件を起こしたことで、彼の“悪役”像がつくられることになったのだ。

 由比正雪は江戸時代初期の軍学者。「油井正雪」「由井正雪」「油比正雪」「遊井正雪」「湯井正雪」など様々に表現される場合もある。生没年は1605年(慶長10年)~16051年(慶安4年)。駿河由比の農業兼紺屋の子として生まれたといわれる。幼名は久之助。幼い頃より才気煥発で、17歳で江戸の親類に奉公へ出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になると、その才能を発揮し、やがてその娘と結婚し、婿養子となった。

楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「油井民部之助橘正雪(ゆい・かきべのすけ・たちばなの・しょうせつ/まさゆき)」と名乗り、やがて神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」(中国の名軍師、張良と孔明にちなむ)を開いた。大名の子弟や旗本なども含め、一時は3000人の門下生を抱え、絶大な支持を得たという。まずは順風満帆な軍学者としての生活を送っていたとみられる。

 こうした環境にあって、なぜ正雪が幕府転覆計画を立てた首謀者として追及されることになるのか?軍学塾の主宰者として、巷にあふれた、行き場のない浪人たちを目の当たりにして、立ち上がざるを得なかったのか、学者として理論と実践の重要さを門下生に教えるためだったのか?そこに至る経緯はよく分からない。しかし1651年(慶安4年)、三代将軍家光が没し、四代将軍家綱が11歳で将軍に就いたが、大名の取り潰しなどで多数の浪人が出て、社会は騒然とした状況にあった。

正雪は宝蔵院流の槍術家、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義などとともに、浪人の救済と幕府の政治を改革しようと計画。1651年(慶安4年)7月29日を期して江戸・駿府・京都・大坂の4カ所で同時に兵を挙げ、天下に号令しようとしたが、事前に同志の一人が密告、この計画が発覚する。「慶安の変」と呼ばれる事件だ。正雪は移動途中の駿府梅屋町の旅籠で奉行の捕り方に囲まれ、部下7名とともに自刃した。享年47。しかし、幕府はさらに追及して、連累者2000人、うち1000人を断罪して決着をつけた。だが、一説によると、これは幕府の陰謀で、浪人弾圧の口実をつくるため、デッチあげたのだという。

正雪の意図は、天下を覆すことではなく、幕府の政道を改めようとし、そのため徳川御三家をも利用しようとしていた。このことは、真偽のほどは分からないが、徳川御三家・紀州徳川家の家祖、徳川頼宣(家康の十男)の印章文書を偽造していたという嫌疑がかかったことでも明らかだ。このため、一時は頼宣も共謀していたのではないかとの疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。頼宣は、後に紀州から出て徳川八代将軍となった吉宗の祖父だ。

 正雪のこうした目論見を、幕府の「知恵伊豆」といわれたマキャベリスト、松平伊豆守信綱が反乱事件として拡大、歪曲し、一挙に旧大名の残党を掃討し、徳川体制の不安を取り除いたのだという見方もある。だが、真相は分からない。

(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、山本周五郎「正雪記」、 武田泰淳「油井正雪の最期」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、安部龍太郎「血の日本史」、小島直記「無冠の男」

安積親王・・・藤原一族による“排除の標的”となり、毒殺?される

 安積親王(あさかしんのう・あさかのみこ)は、都が奈良・平城京にあった時代、皇太子の基皇子が亡くなった年に生まれ、聖武天皇の唯一の皇子で皇太子の最有力候補のはずだった。だが、当時権勢を誇った藤原氏によって退けられ、あっけなく17歳の若さで死去した。死因は定かではなく、藤原仲麻呂に毒殺されたという説もある。いずれにしても、藤原氏の意向がその死と深く関わり、その背景にあることだけは確かだ。安積親王の生没年は728(神亀5年)~744年(天平16年)。

 安積親王は聖武天皇の第二皇子として、幼少の皇太子・基皇子が亡くなった年に生まれた。そのため聖武天皇の唯一の皇子であり本来、彼は皇太子の最有力候補のはずだった。ただ一点、問題があった。わずか一点だがそれが極めて大きな、死命を制する問題だった。彼の母が県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)で、当時、揺るぎのない権勢を誇った藤原四卿(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の氏族の出ではなかったことだ。

 当時、藤原氏の権勢がいかに強大だったか。臣下の身分で異例にも皇后となった光明皇后との間にもうけられた聖武天皇の第一皇子、基皇子は生まれて間もなく立太子している。その基皇子は夭折したが、738年(天平10年)、光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子されたのだ。史上初の女性皇太子の誕生だ。藤原氏にはそれまでのルールや慣例を無視し、あるいは覆して、内親王をゴリ押しで立太子させるだけの権勢があったわけだ。唯一の皇子=安積親王の存在も容易に退け、有無を言わせないだけの、圧力をかける力があったといわざるを得ない。

 とはいえ、藤原氏にとって安積親王の存在は目障りだったことは間違いない。それまでのルールや慣例に従うならば当然、唯一の皇子(安積親王)が即位することになる。それでは、藤原氏の血をひかない天皇が誕生することになる-との思いだ。そうした心配のタネは、一日も早く摘み取っておかなければならないというわけだ。

それだけに、藤原一族は虎視眈々と安積親王を“始末”する機会を狙っていたのだ。744年(天平16年)閏1月11日、聖武天皇は安積親王を伴って難波宮に行幸する。その際、安積はその途中に桜井頓宮で脚病になり、恭仁京(くにきょう)に引き返すが、2日後の閏1月13日、17歳の若さでその生涯を閉じたとされている。詳細は定かではないが、そのとき恭仁京の留守を守っていたのが藤原仲麻呂であり、その仲麻呂に毒殺されたという説もある。それほどあっけない死で、いずれにしても藤原氏がその死にからんでいる可能性が高い。

 藤原氏の謀略で起こされた冤罪事件「長屋王の変」、そして大宰で起こった「藤原広嗣の乱」など血なまぐさい権力闘争が繰り広げられた時代。次代を背負う存在だったはずの安積親王の実像は、なかなか見えにくい。史料そのものが少ないのだ。『大日本古文書』によると、736年(天平8年)、すでに斎王になっていた姉の井上内親王のために写経を行い、743年(天平15年)には恭仁京にある藤原八束の邸で宴を開いていることが記されている。この宴には当時、内舎人だった大伴家持も出席し、そのとき詠んだ歌が『万葉集』に残されている。

(参考資料)杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」

大伴家持・・・藤原氏との対立の中で死後も含め時代に翻弄された人生

 大伴家持は「万葉集」の編纂に大きく関与し、「万葉集」に収められた作品も最も多い奈良時代後期の代表歌人・政治家だ。半面、彼の生涯は時代に翻弄される、波乱に満ちたものだった。家持の赴任地の足跡をみると、南は薩摩から北は陸奥多賀城まで、当時の日本国のほぼ両辺に及ぶ。いかに地方生活が長かったかを物語っている。

名門大伴氏の家名を挽回しようと意欲に満ちた、誇り高い青春時代から、大伴・藤原両氏対立の中で政争に巻き込まれて、失意の中年期を経て、晩年の復活と、死後の一族の悲惨-。信じがたいことだが、死後、家持はある事件に連座させられて、806年(大同1年)まで官の籍を除名されていたのだ。生没年は718(養老2)~785年(延暦4年)。古代、名門豪族だった大伴氏の本拠地は、大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)だったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。

 大伴家持は大納言大伴旅人の長男、大納言大伴安麻呂の孫。母が旅人の正妻ではなかったが、大伴の家督を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻、大伴郎女(いらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられた。だが、その郎女とは11歳のとき、父の旅人とは14歳のとき死別。さらにたった一人の弟、書持(ふみもち)とも29歳のとき死別している。いずれにしても、大伴氏の跡取りとして貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、みっちりと身につけさせられていた。

しかし、出世の道は遠かった。745年(天平17年)にやっと従五位下。751年(天平勝宝3年)少納言。その後、長い地方生活を経て770年(宝亀1年)民部少輔、左中弁兼中務大輔、21年ぶりで正五位下に昇叙した。そして諸官を歴任して781年(天応1年)、右京大夫兼春宮(とうぐう)大夫となり、785年(延暦4年)中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍となった。長かった不遇の時代を経て、家持にもようやく春が巡ってきたかにみえた。しかし、彼にはもう残された時間はなかった。同年、任地先の陸奥で、68歳で病没したのだ。

 ところが、これで終わりではなかった。死者に鞭打つ残酷なできごとが起こったのだ。家持の死後20日、葬儀も終わらぬうちに、彼は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が跡取りの永主とともに隠岐に流されるという事態に発展したのだ。無茶苦茶な裁きだったといわざるを得ない。冤罪などというものではない。藤原氏の謀略にはめられてしまったわけだ。そして、家持が晴れて無罪として旧の官位に復したのは、21年後の806年(大同元年)のことだ。

 「万葉集」の中で、大伴家持の作品は最も多く、長歌46、短歌425(合作首を含む)、旋頭歌1首、合計472首に上り、万葉集全体の1割を超えている。ほかに漢詩1首、詩序形式の書簡文などがある。防人歌(さきもりのうた)の収集も彼の功績だ。平安時代の和歌の先駆を成す点が少なくない。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

足利義昭・・・うぬぼれ、過信が招いた足利最後の将軍のヘマ人生

 自分の力を過信し、オレが指示すれば世の中どうにでもなる-と思い込み、天下の策士を任じているが、実はその実力はゼロに近い。悲劇といえば悲劇、いや傍からみれば喜劇というべきかも知れない。そんな、うぬぼれの強かった人物が足利家の最期の将軍、足利義昭だ。

 足利義昭は、室町幕府の第十二代将軍足利義晴の次男として生まれた。母は近衛尚通の娘で、この女性は義昭の兄、義輝も産んでいる。父義晴は、義昭を仏門に入れることにした。仏門に入れば俗世との縁は切れるが、貴種として尊重され出世も早い。まして大寺院の勢力は、衰えた将軍家よりはるかに強かったといっても過言ではない。そこで、義昭は関白・近衛植家の猶子(養子扱い)として、奈良興福寺の一乗院門跡、覚誉(かくよ)の弟子として入門した。6歳のときのことだ。彼の弟、妹も後に仏門に入っている。こうして彼は覚慶(かくけい)と名を改め、30歳まで僧侶として日々を送ることになった。

 そんな彼の一生を一変させる事件が起こった。1565年(永禄8年)、29歳のときのことだ。父の後を継いでいた兄の第十三代将軍・足利義輝が松永久秀や三好三人衆のために暗殺されたのだ。覚慶は強大な力を持つ興福寺の保護下にあったからか、幸い殺されずに済んだ。しかし、彼は一乗院に監禁状態となり、行動の自由を奪われることになった。

 その後、義昭は前将軍の近臣だった細川藤孝らの手で救い出され、あちこち放浪の末、織田信長の支援を受けて、やっと都に戻って第十四代将軍となった。ところが、将軍になった彼は途端に、自分はオールマイティな人間だと思い込んでしまう。自分のことを都入りさせてくれた織田信長とも、瞬く間に仲が悪くなる。というのも信長は恩人だが、彼の態度からは将軍である自分に絶対服従してくれないと感じたからだ。

 そこで、義昭は信長を凌ぐ実力を持つ上杉謙信や武田信玄に、上洛して織田信長を討て-と頻繁に手紙を書くのだ。全く勝手気ままな人物としかいいようがない。ただ、こんな手紙が届いたからといって、海千山千の上杉や武田がそう簡単に動くはずもないのに、自分自身としては大いに権謀術数を尽くしたつもりになっているのは、少しこっけいでもあり、哀れでもある。

 結局、義昭は画策した“手紙”作戦が明るみで出て、怒った信長に都を追い出されることになる。そして、信長の在世中はとうとう帰京できなかった。柄にもない小細工をしたのが祟ったのだ。しかし、困ったことに彼自身は、案外そうは思っていない。自分が信長を制圧できなかったのは、頼みにしていた武田信玄、上杉謙信らが次々死んで、計画が実行に移せなかったからだ-としか考えない。だから、性懲りもなく別の大名に働きかける“手紙”作戦をやめなかった。

 怒った信長は遂に実力行使に出る。義昭は亡命した。いったんは紀州に逃れたが、やがて備後(広島県)鞆の港に落ち延びた。鞆の港は父祖尊氏が京都から追われたときに、院宣を得て南朝の新田義貞に対する討伐軍を挙げたところだ。いってみれば都落ちする足利家が再興のきっかけにした地域だ。義昭もそのことを知っていた。

 このうぬぼれやの、ほとんど実力のない将軍だからか、どうにもやること成すこと、少しずつピントが外れているのだ。だが、この義昭は強運の持ち主でもあった。“宿敵”信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺されたために、彼は自分で手を下さずに、憎い信長を討つという望みを達したのだ。

(参考資料)井沢元彦「神霊の国 日本」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、

有間皇子・・・中大兄皇子の謀略にはめられ、謀反人に仕立てられ抹殺

 有間皇子は父・孝徳天皇の死後、次の天皇の候補者として浮かび上がり、結果的に「大化改新」の立役者であり、当時の事実上の最高権力者、中大兄皇子と対立。有間は謀略にはめられ、19歳の若さで処刑され、その生涯を閉じた。中大兄皇子の存在に脅威を覚え、狂人のふりをしてまで皇位継承争いから降りようとした有間だっただけに、狡猾に人を配して謀反人に仕立て上げられ、抹殺された最期は悲しく哀れをさそう。

 有間皇子は孝徳天皇の皇子で有力な皇位継承者の一人だった。孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟にあたり、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係だった。640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、皇子に「有間」と名付けたといわれる。有間皇子の生没年は640(舒明天皇12年)~658年(斉明天皇4年)。

 悲劇の序章は、中大兄皇子の強引な遷都要求を聞き入れなかった孝徳天皇および息子の有間皇子の一族だけを難波宮に残して、飛鳥に戻ってしまったことにあった。653年(白雉4年)、中大兄皇子が奏上して都を大和に遷そうとしたが、孝徳天皇は前年完成したばかりの難波長柄豊碕宮を放棄しようとせず、これを拒否した。

ところが、皇太子の中大兄は引き下がるどころか、母の皇極前天皇、妹・孝徳天皇の間人皇后、弟の大海人皇子らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に遷った。そして、驚くことに公卿、百官らはみなこれに随行したのだ。皇太子・中大兄の独断専行に業を煮やした孝徳天皇が、威信をかけて拒否したわけだが、公卿・官僚たちは天皇ではなく、中大兄の顔色だけをうかがっていたのだ。

 孝徳天皇が無念の思いを抱き、寂しくこの世を去ってから、いよいよ孝徳天皇のたった一人の遺児、有間皇子に刻一刻、危機が迫る。そのため、18歳の有間は周囲の疑いを免れようと狂人を装ったといわれる。日本書紀にも記されていることだ。

 そして、運命の歯車が動き出す。658年、斉明天皇が中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温泉(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に行幸中のことだ。都に残って留守をあずかる蘇我赤兄が、有間皇子を訪ね、天皇の失政をあげつらい、挙兵、謀反するようそそのかす。これに対し、有間はこの謀略を見抜けず、赤兄の口車に乗せられて「わが生涯で初めて兵を用いるときがきた」などと応じた。そのため、赤兄に言質をとられる格好となり捕えられて、天皇のいる牟婁の温泉へ送られてしまった。

 紀の国へ護送される途中、有間皇子が詠んだ有名な句が二首ある。

 家にあれば 笥に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(歌意は、我が家にいれば器に食べ物を盛るのに、今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)

磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む

(歌意は、磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたら、またこれを見よう)

 しかし、有間は藤白坂(和歌山県海南市藤白)で処刑された。19歳の若さだった。
 遠山美都男氏は、有間皇子を謀略に陥れられた哀れなプリンスと見做すのは大いに疑問として、実は有間皇子の大胆な挙兵計画があったとの説を打ち出している。斉明天皇らに牟婁温泉行きを勧め、天皇一族が都を留守にするという状況を意図的に作り出そうとしたのは有間自身だったという。そして、母の出身、阿倍氏が「軍拡」を推進し、有間皇子の背後にその勢力が結集していた。したがって、有間の挙兵計画も、船団を組織して淡路海峡を封鎖し、天皇一族の帰路を遮断するという大規模で実に用意周到なものだった-とかなり踏み込んだ説を提起している。こうして有間皇子は軍事行動を起こして、ライバルの中大兄皇子を倒し、斉明天皇に譲位を迫り、自ら即位しようと企てたとみるが、果たしてどうだろうか。現時点ではあくまでも少数派の仮説にすぎない。

 毎年11月、和歌山県海南市・藤白神社で若くして悲運に散った万葉の貴公子、「有間皇子まつり」が開催される。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、神一行編「飛鳥時代の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

大津皇子・・・皇位継承めぐり対抗勢力の謀略にかかり23年の生涯閉じる

 大津皇子は文武両面、そして人格的にも優れた人物だったが、幼少時、母を亡くしていただけに、後ろ楯となっていた父帝、天武天皇崩御後は、皇位継承が俎上にのぼると、対抗勢力のターゲットとなり、皇后・持統ら草壁皇子擁立派による謀略にかかり、わずか23年の生涯を閉じた。生没年は663(天智称制12)~686年(天武15年)。

 大津皇子は天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の長女、大田皇女。同母姉に大伯(おおく)皇女。妃は山辺皇女(天智天皇皇女)。異母兄に高市皇子、草壁皇子、異母弟に忍壁皇子らがいる。幼少時は学問を好み、そして成人後は武芸に長じ、文武両道に優れていたため、人気があった。大津の名は生地である那大津(現在の博多港)に因むと、また近江大津宮に因むともいわれる。

672年の「壬申の乱」に際しては、高市皇子らといち早く近江京を脱出し、大分君恵尺(おおきだのきみえさか)らとともに、伊勢の鈴鹿関で父、天武天皇(当時はまだ大海人皇子)と合流した。大津皇子10歳のときのことだ。大海人皇子が即位し、天武天皇の御世となった後、皇后の皇子、草壁が皇太子となるが、大津皇子は父帝からの信頼が厚かったらしく683年、太政大臣となり朝政を委ねられた。大津21歳のことだ。父天武天皇が皇后との間にもうけた草壁を皇太子とし期待を寄せたことは間違いないが、多くの皇子たちの中で、あるいはそれ以上に期待したのが大津だったようだ。685年(天武天皇14年)の「冠位四十八階」制定の際には草壁皇子の「淨広壱」に次ぎ、「浄大弐」に叙せられたことでも分かる。

 しかし、大津皇子の人生のピークはこのあたりにあったといっていい。大津皇子が父帝から信頼され、人気が高まれば高まるほど、彼は皇位後継者の有力候補者に擬せられ、大津皇子自身の思いや意識とは全く別に、反草壁皇子勢力が大津皇子のもとに結集しそうな事態となっていた。そのため、持統皇后ら草壁皇子擁立派は大津皇子に対する警戒を強めていた。

 いまや朝廷内に大津皇子のいる場所はなくなった。いや、それよりも陰謀を企む対抗勢力の首謀者として、敵対する立場に追いやられた。それでも、大津には持統皇后の疑惑を解くすべがなかった。そこで天武の死後、大津皇子がとった行動は、同母姉の大伯皇女を訪ねて、密かに伊勢に下ったのだ。このとき、大伯皇女は斎宮(いつきのみや)として伊勢神宮に仕えていた。

なぜ、この時期に大津皇子が天皇崩御後の本来、喪に服す禁を破ってまで都を離れたのだろうか。そこまで精神的に追い詰められていたのか、身に迫った危険を感じて、愛する姉に別れを告げに行ったか、それとも謀反を決意し、その旨を密かに伝えたのか、それは分からない。史料は何も語っていない。ただ、万葉集には大津皇子と別れる大伯皇女の愛惜の歌が残されているだけだ。

大津皇子の悲劇はまもなくやってきた。686年(朱鳥元年)、天武天皇の崩御後、わずか1カ月も経たないうちに、大津皇子が皇太子・草壁皇子に対して謀反を企てたとして、一味30人とともに捕えられたのだ。「懐風藻」によると、大津皇子の謀反を密告したのは川嶋皇子だったという。

大津皇子は逮捕された翌日、死刑を言い渡され、訳語田(おさだ)の自邸で自害した。24歳の若さだった。妃の山辺皇女(天智天皇皇女)は髪を振り乱し、裸足のままで駆けてきて、遺体にとりすがって号泣、後を追って殉死したという。

(参考資料)黒岩重吾「天翔ける白日」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

柿本人麻呂・・・身分は?刑死?か、数多くの謎に包まれる歌聖の人生

 日本の詩人というと、多くの人が頭に思い浮かべるのが、柿本人麻呂と松尾芭蕉だろう。そして、この二人を歌聖、俳聖と称えた。芭蕉については、とくに後半生、旅の生活については『奥の細道』をはじめとする彼の多くの紀行文などによってほぼその全容を知ることができる。それにひきかえ、柿本人麻呂の場合は違う。彼の歌は万葉集に数多く残されて多くの人々の心を捉えるが、その人生は数多くの謎に包まれている。いやむしろ、明確に分かっていることが少ないといった方が的を射ている人物なのだ。

 柿本人麻呂の出自、生没年には諸説あり、多くの部分が定かではない。後世の文献によると、柿本氏は第五代孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流にあたる。父は柿本大庭、兄を柿本_(佐留)とする。人麻呂の生没年は660年ごろ~720年ごろ。人麻呂は人麿とも書く。姓は朝臣。人麻呂以降、子孫は石見国美乃郡司として土着。鎌倉時代以降、益田氏を称して、石見国人となったとされる。いずれにしても同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは分からない。

 人麻呂の経歴は『続日本紀』などの史書にも書かれていないから、定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに付随する題司・左注などが唯一の資料だ。一般には680年(天武天皇9年)には出仕していたとみられ、天武朝(673~686年)から歌人としての活動を始め、主要な作品が集中している持統朝(686~697年)に花開いたとみられることが多い。700年(文武天皇4年)作の明日香皇女(あすかのひめみこ)の挽歌が作歌年時の分かる作品として最後のものになる。ただ、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝(現在の滋賀県)にも出仕していたとする見解もある。

 各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、身分・官位を含めその生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を詠むという仕事の内容や重要性からみても高官だったと受け取られていた。

 ところが、契沖、賀茂真淵らが史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱え、以降、現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
1.五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名前は正史にみられない。

2.律令には三位以上は「薨」、四位と五位は「卒」、六位以下は「死」と表現することになっているが、『万葉集』の人麻呂の死をめぐる歌の詞書には「死」と記されている。
 人麻呂は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が収められている。讃歌、挽歌、そして恋歌があり、その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使した格調高い歌が特徴だ。代表作を挙げると、

・あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
・東(ひむがし)の野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
・近江の海(み)夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

などがある。
 梅原猛氏は柿本人麻呂についての力作『水底の歌 柿本人麿論』を著している。
この中で同氏は大胆な論考を行い、人麻呂は高官だったが、政争に巻き込まれて刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、大きな話題となった。また、梅原氏は柿本人麻呂=猿丸大夫の可能性を指摘している。ただ、学界においてはいずれもまだ受け入れられるには至っていない。

(参考資料)梅原猛「水底の歌 柿本人麿論」、井沢元彦「猿丸幻視行」

孝明天皇・・・攘夷にこだわり、批判勢力のターゲットとなり毒殺されたか

 孝明天皇の崩御をめぐっては、『孝明天皇紀』にも肝心の死因についての記載がなく、毒殺説をはじめ多くの疑問がある。幕末、朝廷・公家、幕府・諸藩・志士たちを含めた開国派と攘夷派の対立は激化。攘夷の意思が強く、公武合体により、あくまでも幕府の力による鎖国維持を望む孝明天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出ようになった。こうした人たちの勢力が天皇を追い込み、毒殺を謀ったのか?天然痘が原因なのか。その死因は謎だ。

 第121代・孝明天皇は仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘、藤原雅子(新待賢門院)。幼名は煕宮(ひろのみや)、諱は統仁(おさひと)。正妃は九条尚忠の娘、九条夙子。孝明天皇の生没年は1831(天保2)~1867年(慶応2年)。在位は1846(弘化3)~1867年(慶応2年)でこの間、幕府は十二代将軍家慶、十三代家定、十四代家茂、十五代慶喜の四代にわたっている。

 1840年(天保11年)に立太子。1846年(弘化3年)、父・仁孝天皇の崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格で、その遺志を継いで公家の学問所、「学習院」を創設した。また、1853年(嘉永6年)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への積極的な関与を強め、1858年(安政5年)、40年にわたって朝政を主導してきた前関白鷹司政通の内覧職権を停止して、落飾に追い込み、さらに2カ月後、現関白・九条尚忠の内覧職権も停止して朝廷における自身の主導権確保を図った。

さらに、孝明天皇は幕政に発言力を持ち、1858年(安政5年)、日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際、これを拒否。大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶと、これに不信を示し、退位の意向も示した。そして、攘夷強硬派の公卿に動かされ、水戸藩に幕政改革を求める「密勅」を発したほど、攘夷の立場で幕府を強く指導した。1863年(文久3年)攘夷勅命を下した。これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。

 しかし、「八月十八日の政変」(1863年)にあたっては攘夷派公卿と袂を分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。そして、異母妹、和宮親子内親王を第十四代将軍家茂に降嫁させたのをはじめ徳川慶喜、松平慶永、山内容堂ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目指し、岩倉具視ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的だった。それだけに、家茂が上洛してきたときは攘夷祈願のため石清水八幡宮などに行幸、京都守護職・会津藩主松平容保への信頼はとくに厚かった。

 こうした尊皇攘夷派・開国派による権力をめぐる争いに巻き込まれ、孝明天皇個人の権威は低下していくことになった。公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するようになったのだ。薩摩藩はじめ岩倉具視や、薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房までもが天皇に批判的な動きをするようになった。

 1866年(慶応2年)、第二次長州征伐中に将軍家茂が急死すると、孝明天皇は征長の停止を幕府に指示。これに伴い、幕府の統制力の崩壊は決定的となった。そして、第十五代将軍に慶喜が就任した直後、孝明天皇は急逝したのだ。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復を狙い、薩長による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。公式には天皇が痘瘡(天然痘)に罹っていたことは発表されたが、それが直接の死因だとするには、全く説得力がなかった。

 孝明天皇は長年の間、悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外ではいたって壮健だったという。公家・政治家の中山忠能の日記にも、「近年、御風邪の心配など一向にないほど、ご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた」との感想が記されている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、安部龍太郎「血の日本史」

花山天皇・・・藤原兼家・道兼父子の謀略で在位わずか2年で退位

 第65代花山天皇は父の冷泉天皇と同様、藤原元方の怨霊にとりつかれ、乱心の振る舞いがあったと伝えられるが、藤原一家の策謀により、在位わずか二年で退位させられた人だ。少し奇異な所業が目立ったにしろ、荘園整理令の布告など革新的な政治路線も打ち出しており、無事ならまだまだ善政が敷かれていたはずだ。生没年は968(安和元年)~1008年(寛弘5年)。

 花山天皇は冷泉天皇の第一皇子。母は太政大臣正二位藤原伊尹(これただ)の娘、懐子(かいし)。諱は師貞(もろさだ)。984年(永観2年)、円融天皇の譲位を受けて即位した。17歳のことだ。即位式において、王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨てるといった振る舞いや、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとしたとの逸話がある。こうした所業が直ちに表沙汰にならなかったのは、天皇に仕えた賢臣、権中納言藤原義懐(よしちか)と左中弁藤原惟成(これしげ)の献身的な支えによるところが大きい。

 関白は先代から引き続き藤原頼忠(よりただ)だったが、実際の政治は義懐や惟成ら新進気鋭の官僚により推進されていた。饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引き締めを図り、902年(延喜2年)に出されて以来、布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領らの間で高まってきていた荘園生理の気運を政策化したもので、以後、頻出する整理令の嚆矢となった。

 花山天皇については様々な多くのスキャンダルが聞かれるが、中でも大納言藤原為光の娘、女御・_子(きし)への寵愛ぶりはとくに知られている。そのため_子はほどなく懐妊したが、その後体調を崩して遂に妊娠8カ月の身で他界した。天皇の落胆ぶりは大きく、いかに神に祈祷すべきか悩みぬいていた。

 この様子を見て陰謀をめぐらせたのが右大臣、藤原兼家だ。兼家は天皇の不安定な心理状態を利用し、天皇に出家を勧めて、一日も早く外孫懐仁(やすひと)親王へ譲位させようと謀ったのだ。「大鏡」によると986年(寛和2年)、藤原兼家の次男、蔵人・道兼が言葉巧みに花山天皇を連れ出し元慶寺へ向かう。そのころ兼家の長男の道隆と三男の道綱は清涼殿に置かれていた神器を皇太子・懐仁親王の部屋へ移す。

いったんは出家を納得した花山天皇だったが、心変わりしそうな雰囲気に、道兼は涙ながらに自分もともに剃髪、出家するからと天皇を説き伏せ剃髪させてしまう。そして、次は道兼の番になったが、道兼はどこにもいない。花山天皇が騙されたと思ったころには、“役者”の道兼は丸坊主になった花山天皇を残して藤原家に帰ってきていた。そのころには兼家の末子、道長が関白、藤原頼忠(兼家の従兄弟)に天皇行方不明の報告をしていた。そこで懐仁親王(当時7歳)が即位して一条天皇となり、兼家は念願の外祖父となったのだ。

 こうして兼家・道兼父子の謀略によって、無念の思いで皇位を追われた花山上皇はその後、仏門修行、そして和歌と女に明け暮れたといわれる。とくに歌人として優れており、多くの和歌を残している。

(参考資料)永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「百人一語」

孝徳天皇・・・わが国最初の生前譲位で即位したが、実権を甥に握られる

 孝徳天皇は、形式的には実姉からわが国史上初の譲位により即位したにもかかわらず、その存立基盤は極めて脆弱だった。それは645年(皇極天皇4年)の、蘇我本家(蝦夷・入鹿)を滅亡に追い込んだ「乙巳(いっし)の変」により、この企ての推進者であった中大兄皇子が、“補佐役”の中臣鎌足の助言を入れて辞退したことと、“対抗馬”と目された古人大兄皇子が急遽、出家し僧形となったため、消去法で残った候補者(=軽皇子)が即位したという事情があるからだ。そのため天皇となってからも基盤が弱く、実権は甥にあたる、同母姉の皇極上皇の子、中大兄皇子が握っていた。このことが後の様々な悲劇を産むことになった。

 孝徳天皇は敏達天皇の孫で、押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男。母は欽明天皇の孫、吉備姫王(きびつひめのおおきみ)。諱は軽皇子(かるのみこ)。その在位中には「難波長柄豊碕宮」に宮廷があったことから、後世その在位時期を難波朝(なにわちょう)という別称で表現されることもある。孝徳天皇の生没年は596年(推古天皇4年)~654年(白雉5年)。

孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とした。新政権の立役者、中臣鎌足には大錦の冠位を授け、内臣(うちつおみ)とした。また、僧旻(みん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)を国博士(くにのはかせ)とした。

 皇極天皇4年は大化元年に改められた。これが年号使用の始まりだ。孝徳天皇は皇極上皇の娘、間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后に立て二人の后妃を迎えた。一人は阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の娘、小足媛(おたらしひめ)で、その間に有間皇子をもうけ、もう一人は蘇我倉山田石川麻呂の娘、乳娘(ちのいらつめ)だ。

 蝦夷・入鹿の蘇我本家を葬った「乙巳の変」は通常、中大兄皇子と中臣鎌足らが謀って起こしたクーデターということになっているが、異説もある。遠山美都男氏は、経緯はどうあれ、軽皇子が即位している事実から見るならば、クーデターの首謀者は軽皇子とその一派と見るのが最も妥当-としている。軽皇子一派とは、軽皇子の宮があった後の和泉国和泉郡やその周辺に何らかの拠点あるいは権益を保有していたとみられる蘇我倉山田石川麻呂、阿倍内倉梯麻呂、巨勢徳太、大伴長徳らだ。

 船史恵尺(ふねのふひとえさか)はクーデターの最終局面、蘇我蝦夷の自殺の現場に居合わせ、蝦夷によって蘇我氏累代の財宝とともに焼かれようとしていた『天皇記』『国記』のうち『国記』を持ち出したという。『天皇記』『国記』編纂のため日頃より蝦夷邸に出入りしていた恵尺は、クーデター派の命令で密偵的な働きをしていたのではないか、と遠山氏は見ている。

 遠山氏は中臣鎌足についても極めて興味深い見方をしている。鎌足は恐らく、摂津・河内・和泉の各地に居住した中臣氏同族から、軽皇子との関係を仲介され、早い段階から軽皇子に仕える立場にあったというのだ。鎌足は中臣氏の若い族長候補として、これら中臣氏同族を統括する立場にあった。彼らとの交流を通じて、鎌足は和泉国和泉郡に宮を構える軽皇子と深く知り合うことになったのだろう-という。

 遠山氏の見解は、クーデターの首謀者は中大兄皇子と中臣鎌足とする『日本書紀』の著述内容とは明らかに矛盾する。しかし、『日本書紀』のこの件は、藤原氏の始祖である鎌足の功績を顕彰するためにつくられた書物をもとにしているからだ。クーデターの勝者で、その後の政治の激動の最終的な勝者である鎌足や藤原氏のサイドに立って書かれた史料の陳述を鵜呑みにできないというわけだ。

 遠山氏の見解に近い姿で軽皇子が即位したのだとすると、軽皇子=孝徳天皇の悲劇の度合いは幾分、薄らぐ。しかし、653年(白雉4年)、不思議なことが起こった。皇太子の中大兄皇子は、天皇を難波宮に残したまま、母の皇極上皇や弟の大海人皇子(後の天武天皇)をはじめ、公卿・大夫・百官を引き連れて、突如、飛鳥川のほとりの川辺(河辺)行宮(かわべのかりみや)に移ってしまったのだ。

ショッキングなことにこのとき、孝徳天皇の皇后の間人皇女(はしひとのひめみこ)までが、夫の天皇を捨てて、中大兄皇子と行動をともにしているのだ。それは、中大兄皇子と間人皇后が近親相姦の関係にあったからだ。つまり、中大兄皇子はタブーを犯して同母妹の間人皇后と愛情を通じるようになり、叔父の孝徳天皇から奪ったのだ。それでも、孝徳天皇は黙って見ているほかなかった。天皇に実権はなかったのだ。ひとり取り残された天皇は654年、失意のうちに崩御した。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

弘文天皇・・・明治政府により追号された大友皇子 壬申の乱の敗者

 江戸時代まで公式には弘文天皇は存在しなかった。あるいは、削除されていた。明治政府により「弘文天皇」と追号されたのは1870年(明治3年)のことだ。しかし、そのおよそ1200年前、大友皇子が671~672年のわずか2年弱だが、天智天皇崩御後、近江朝廷にあって実権を握り、事実上皇位にあったとする見解が今日、有力視されている。生没年は648(大化4)~672年(天智天皇11年)。

 天智天皇の崩御後、672年、皇位をめぐるわが国古代最大の内乱「壬申の乱」が起こり、大海人皇子率いる吉野側が勝利したため、その即位が疑問視され、在位を認めない見解もある。少なくとも「日本書紀」は弘文天皇紀を記しておらず、同天皇を一代と見做していない。これは同紀の編纂にあたった舎人親王が父、天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうと大友皇子即位を省いたとされている。

それでも、事実上大友皇子が皇位を継いでいたとする様々な史料が残っている。「水鏡」や「扶桑略記」などでは、天智天皇崩御後の二日後に皇位を継いだとされている。また、徳川光圀も「大日本史」でほぼ同様の見方をしている。

 弘文天皇は天智天皇の第一皇子で、名は大友皇子、伊賀皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。日本最古の漢詩集「懐風藻」によると、皇子は風貌たくましく、頭脳明晰だったとされている。博識で文武両道を究め、詩文にも優れていたと伝えられている。皇妃は大海人皇子と額田王(ぬかだのおおきみ)との間に生まれた十市(とおち)皇女。皇女には葛野(かどの)皇子、与多王(よたのみこ)の子があった。

 天智天皇には8人の妃がいたが、皇子が誕生したのは4人。だが、1人は8歳で亡くなり、残る3人のうちの最年長が大友皇子だった。しかし、大友皇子が皇位を継ぐことは、当時の慣習からいえば困難だった。皇位を継承できる資格は、まず第一に皇族出身の皇后・皇妃を母とする皇子であり、第二は大臣の娘で后妃となっているうちに生まれた皇子でなければならなかった。この習慣は蘇我氏がつくりだしたものだ。だが、大友皇子の母は伊賀国山田郡の国造家の娘だ。他の2人の皇子も同じような身分の母から生まれていた。慣例に従えば、大友皇子は皇位継承の資格がなかったのだ。
 にもかかわらず、天智天皇はこの大友皇子に深い愛情を注ぎ、皇位を託そうと思うようになった。大友皇子が聡明で、ひとかどの人物だったからだ。ところが、天智天皇には皇太子として弟の大海人皇子がいた。いうまでもなく、皇太子は次期皇位継承者のナンバー1だ。たとえわが子とはいえ、即座には後継者にできない。それには周囲の承認がいる。

そこで671年、大友皇子は太政大臣に任ぜられた。太政大臣が官職として正式に登場するのはこれが初めてで、大友皇子に権威をつけさせるため、新しいポストを作ってまで大友を政治の中枢に置いたのだ。大友23歳のことだ。そしてこの前後に、障害となる皇太子の大海人皇子の地位を奪い、政界から排除する方向にあったとみられる。このときの大海人皇子の推定年齢は36歳だ。

こうして本来ならば最有力の皇位継承者である大海人皇子は働き盛りの年齢で、地位を奪われ、近江王朝の中で孤立し、大友皇子と敵対する立場に追いやられたのだ。大海人皇子は何の失政・失態を犯したわけでもないのに、理由もなく失脚させられたわけだ。

 天智天皇のこうした強引なやり方に反感を抱き、また非情な権力者、天智天皇を快く思わない連中は、当然ながら大海人皇子を支持したのではないだろうか。それが天智天皇自身の死後、朝廷から離反、多くの親・大海人皇子勢力をつくりだしていくことにつながったのではないか。そして、その決着点が「壬申の乱」での近江朝の敗北だったのだ。

(参考資料)豊田有恒「大友皇子東下り」、黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説・壬申の乱」、神一行編「飛鳥時代の謎」 、遠山美都男「中大兄皇子」

早良親王・・・藤原種嗣暗殺事件の関係者の嫌疑で幽閉・配流、怨霊に

 早良(さわら)親王は第50代桓武天皇の弟で、皇太子の座にあったが、ある事件の関係者あるいは首謀者の嫌疑をかけられ、一言の弁明もできないまま幽閉され、配流の途中、衰弱して亡くなった悲劇的な人物だ。この後、桓武天皇はこの早良親王の怨霊に怯え続けることになった。そのため、早良親王の霊を祀るとともに、延暦19年、同親王に崇道(すどう)天皇を追号した。早良親王の生没年は750?(天平勝宝2?)~785年(延暦4年)。

 このきっかけとなったのは、桓武天皇が平城京へ赴いている最中、785年(延暦4年)に起こった長岡京造営の最高責任者、藤原種継暗殺事件だ。この事件は反桓武天皇勢力=早良皇太子の役所、春宮に仕える人々が長官、大伴家持の死後、暴発して起こしたものとみられる。桓武天皇は、自分が信頼し朝政の中枢を担っていた種継が暗殺されたことに怒り、大伴継人(つぐひと)など関係者数十人を捕縛、ただちに処刑した。この事件の背景には種継主導の下の遷都や人事などをめぐって、藤原氏と大伴・佐伯両氏との根深い対立があったとされる。

とりわけ問題を大きくしたのは、この事件の関係者の中に、春宮坊(皇太子の御所の内政を担当)の官人ら皇太子の側近が混じっていたためだ。その結果、嫌疑が早良皇太子にまで及んだ。その中には、万葉歌人として名高い大伴家持も加わっており、家持はすでに亡くなっていたが、官位を剥奪される憂き目に遭った。捕えられた早良親王は、皇太子を廃され、一言の弁明も許されないまま乙訓(おとくに)寺に幽閉された。そして、淡路への配流処分となった。早良皇太子は無実を訴えるため、自ら飲食を絶って、配流の途中、衰弱して河内国高瀬橋付近で憤死したとされている。

 早良親王は母が百済系の卑母だったので、幼いときに出家している。761年のことだ。奈良の寺に入れられ親王禅師と呼ばれていた。781年、兄、桓武天皇の即位と同時に父・光仁天皇の勧めで還俗し、皇太子に立てられている。平穏なら桓武天皇の後を受けて、皇位に就いていたはずなのだ。

 藤原種継暗殺事件に早良親王が関与していたかどうかは不明だ。だが、東大寺の開山、良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(=早良親王)に後事を託したとされること、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたことなどが伝えられている。種継が中心となって推進していた長岡京造営の大きな目的の一つが、東大寺、大安寺などの南都寺院の影響力排除だったため、南都寺院とつながりの深い早良親王が、遷都阻止を目的として種継暗殺を企てたとする見方もできるわけだ。

 さらに、早良親王が種継暗殺を企てる可能性を示唆する伏線もあった。桓武天皇の治政下、大事は天皇自身が決したが、平常の事務は皇太子と藤原種継に委ねていたのだ。そして、長岡京造営が進むと皇太子と種継との間に確執が生まれ、二人の仲は次第に険悪になっていたともいわれる。

 一方、桓武天皇側にも早良親王を皇太子の座から外し排除したいとの思惑もあった。父、光仁天皇から譲位された際、父の強い要望で僧籍にあった弟、早良親王を還俗させてまで皇太子に立てたが、できることなら可愛い自分の息子たちを跡に据えたい思いが強かったのだ。

 早良親王の死後、皇太子には新たに桓武天皇の長子、安殿(あて)親王が立てられたが、その後、天皇の身辺では忌まわしいできごとが頻発した。藤原百川の娘で天皇の夫人だった藤原旅子が年若くして他界し、天皇の母、高野新笠、皇后の藤原乙牟漏らが次々と発病してこの世を去った。安殿皇太子も体調がすぐれず、陰陽師に占わせたところ、早良親王の祟りと出た。

桓武天皇はこれを聞き、早良親王の怨霊をとくに恐れた。そこで人心の一新を図るべく794年、平安京に遷都した。平安遷都は怨霊ゆかりの地である長岡を退去することが目的だったが、遷都後も長く天皇は早良親王の怨霊に怯え続けた。そのため、早良親王に崇道天皇を追号した。また、種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復も図られたのだ。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史/平安京」、永井路子「王朝序曲」、永井路子「続 悪霊列伝」

塩焼王・・・帝位目前に非業の最期を遂げた、藤原氏に対抗した反骨の王

 塩焼王(しおやきおう・しおやきのおおきみ)は、天武天皇の孫だ。天武天皇の子・新田部(にたべ・にいたべ)親王を父として生まれた、皇位をも望める血筋で、聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた不破内親王の夫となった人物だ。彼は、隆盛を誇った藤原四兄弟(宇合・武智麻呂・房前・麻呂)の死後、以前の勢いを失ったとはいえ、いぜんとして権勢を持つ藤原氏に対抗、皇位を奪取しようと目論んだとみられている。しかし、その企みはあっけなく露見し、官位を奪われ、最終的に配流されてしまう。『続日本紀』にはその事実だけが記され、その理由は何一つ書かれていない。したがって、詳しいことは分からない。ただ、様々な類推が可能な情報は記されている。その後、復帰し栄達するが、担ぎ出されて帝位を目前に、非業の最期を遂げた。

 塩焼王の生年は不詳、没年は765年(天平宝字8年)。母は不明。758年(天平宝字2年)、「氷上真人」の氏姓を与えられて、臣籍降下し、「氷上塩焼」と称した。官位は従三位、中納言。
塩焼王は732年(天平5年)、親王の子に対する蔭位として無位から従四位下に叙された。740年(天平12年)、従四位上の昇叙。同年10月には聖武天皇の伊勢行幸に御前長官として供奉。同年11月には正四位下に昇叙。時期は不明だがこの間、中務卿に任ぜられている。当時の皇族の最長老、新田部親王の子としてはまず順調な出世の途を歩んでいた。

 ところが、742年(天平14年)女嬬4人とともに塩焼王は投獄され、伊豆国に流されたのだ。真相は不明だが、皇位継承問題などの政争に巻き込まれたものと推測されている。冒頭に述べた皇位奪取の目論見が露見したためと思われる。ただこの際、彼がどの程度、主体的な役割を果たしたのか、あるいは担ぎ上げられて巻き込まれたのか、詳細は分からない。

 しかし3年後の745年(天平17年)、赦免されて帰京、746年(天平18年)には官位も正四位下に復している。恐らくは、それほど主体的な役割は演じていないものと判断されたことと、妻の不破内親王が聖武天皇の皇女だったことから特赦されたとの見方が強い。ただ、これにより新田部親王の旧宅は没収され、勅によって鑑真に与えられて戒院とされ、のち「唐招提寺」となった。

 永井路子氏は塩焼王が伊豆に配流になった要因として、藤原氏に対抗して、県犬養広刀自一家の“祈り”にも似た意向を受けて、塩焼王がもっと積極的に皇位奪取の意志があったとみている。そして、藤原氏・聖武天皇に、彼にそう思わせる状況があったと指摘する。

 それは、聖武天皇が情緒不安定で、ノイローゼに陥ったことと、隆盛を誇った藤原四兄弟が疫病で相次いで急死し、宮廷内での藤原氏族の勢力が低下したためだ。また聖武天皇自身が藤原氏との関係に深入りし、先に讒言を信じ込み、結果的に藤原氏の策謀に乗せられて、左大臣で朝廷内きっての実力者、長屋王 一家を冤罪で自決に追い込んだ負い目も加わって、藤原氏を襲った相次ぐこれらの不幸を、気弱な聖武天皇は“祟り”と捉えて恐れたからだ。この後、聖武天皇が難波・恭仁・紫香楽と遷都、行幸を繰り返すのも、呪われた地、藤原氏の本拠・奈良を逃れたいとの思いからだったとみる。

 こうした状況を見た塩焼王が、いまがチャンスと思ったのも無理はない。彼には聖武王朝は崩壊寸前に見えたことだろう。これを支える藤原氏に昔の力がない今なら…。政権は自分の手の届くところにある。血の気の多い、この20代の皇族は暗躍を開始する。彼は聖武天皇を帝位から降ろし、義弟の安積親王(聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた不破内親王の弟)を皇位に就けようとしたのか、自分自身が自ら帝位に就き、妻の不破内親王を皇后にしようと考えたのかは分からない。

 757年(天平宝字元年)、弟の道祖王が皇太子を廃されると、塩焼王は藤原豊成・永手らによって後任の皇太子に推されたが、かつて聖武太上天皇に無礼を責められたことがある(伊豆配流のことか)との理由で、孝謙天皇に反対され、実現しなかった。

 その後、恵美押勝(藤原仲麻呂)に接近して栄達を図った塩焼王は、765年(天平宝字8年)、その頼みの押勝が追い詰められて武装反乱を起こすと、押勝により天皇候補に擁立されて「今帝」と称された。だが、押勝の敗走に同行して、孝謙太上天皇方が派遣した討伐軍に捕らえられ、近江国で押勝一族とともに殺害された。

(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、杉本苑子「穢土荘厳」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

蘇我倉山田石川麻呂・・・中臣鎌足と中大兄皇子の卑劣な謀略で抹殺される

 蘇我氏一族の中で、馬子直系の氏族は大臣(おおおみ)として権力を独占、蝦夷・入鹿父子は我が世を謳歌したが、同族内で陽の目を見ず、これに不満を持っていた有力者がいた。それが蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)だ。蘇我入鹿暗殺事件の際、中臣鎌足(後の藤原鎌足)に引き込まれ、彼が朝鮮使の上表文を読み上げ、これを合図に決行するという重要な役割を演じている。石川麻呂はクーデター成功後、その報酬として右大臣ポストを得ている。

そして、これを機に鎌足の仲立ちで、彼は娘を中大兄皇子の妃に送り込み、天皇家との結びつきを強くしている。これにより先々、これまでの蘇我本家に代わり、分家の蘇我倉家が隆盛期を迎えたかに思われた。ところが、大化の改新が一段落ついたところで、今度は彼の異母弟を使った、鎌足と中大兄皇子の卑劣な謀略によって抹殺されたのだ。蘇我倉山田石川麻呂の生年は不明、没年は649年。

 蘇我倉山田石川麻呂の父は蘇我馬子の子、倉麻呂。したがって、彼は馬子の孫だ。本宗家の蝦夷は伯父、入鹿は従兄弟にあたる。兄弟に日向(ひむか)・赤兄(あかえ)・連子(むらじこ)・果安(はたやす)らがいる。本宗家討滅計画に加わり、娘の造媛(みやっこひめ)、遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)を葛城皇子(中大兄皇子)の妃に入れた。また、娘の乳娘(ちのいらつめ)は軽皇子(孝徳天皇)の妃とした。こうした閨閥づくりは後に花開くことになる。遠智娘は大田皇女(大伯皇女、大津皇子の母)、_野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)、姪娘は御名部皇女(高市皇子の妃<長屋王の母>)、阿閉皇女(後の元明天皇、草壁皇子の妃)をそれぞれ産んでいる。

 蘇我入鹿暗殺のクーデターの翌日、早くも新政権樹立の準備が始まり、皇極天皇の後継に年長の軽皇子が決定、孝徳天皇となった。当時、軽皇子は50歳、中大兄皇子は20歳だ。大化改新を推進するにあたって、クーデターで動揺している宮廷を治めるにも、こうした長老を立てておくのが人心を収拾するには上策だ。そして、従来の大臣・大連に代わって設置されたのが左大臣・右大臣だ。左大臣に元老格の阿倍内麻呂(倉梯麻呂)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が就任した。

 しかし、石川麻呂は左大臣・阿倍内麻呂の死後、649年(大化5年)異母弟の蘇我日向に、石川麻呂に謀反の疑いがあると讒言され、これを信じた中大兄皇子の追討を受ける破目になった。難波から2子、法師(ほうし)・赤猪(あかい)を連れて、大和の山田寺へ逃げ帰った石川麻呂は、追討軍に周囲を取り囲まれた。それでも石川麻呂は天皇から遣わされた勅使の審問に応じず、天皇に直接対面して事の真相を語りたいと申し出た。だが、これは受け入れられず、石川麻呂は従容として死を受け入れようと、集めた一族に語りかける。長子の興子(こごし)らは抗戦を主張したが、石川麻呂はこの意見を退け、妻子らとともに自決した。連座した者のうち斬殺された者14人、絞刑に処せられた者15人に上ったという。この事件、実は中大兄皇子による謀略だったのではないか。

石川麻呂の異母弟、日向はまんまと中大兄皇子にいいように踊らされ、兄殺しを手伝わされた格好だ。
 石川麻呂の死後、彼の潔白が証明され、中大兄皇子は讒言した日向を筑紫に追放した。

(参考資料)関裕二「大化改新の謎」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」、遠山美都男「中大兄皇子」

聖徳太子・・・厩戸皇子=聖徳太子かを疑問視 事績に虚構の疑いも

 聖徳太子といえば、様々な事績を挙げるまでもなく、日本人なら幅広い世代の間で最も認知されている、賢人・貴人の代表格の人物だ。しかし近年の歴史学研究ではこれまで聖徳太子の事績と考えられていたことを否定する文献批判上の検証や、太子の実在を示す『日本書紀』などの歴史資料としての信憑性の低さから、聖徳太子自体を虚構とする説もある。

廐戸皇子が実在したのは確かだが、廐戸皇子=聖徳太子かどうかが疑問視されているのだ。事実、廐戸皇子の事績で確実だといえるのは「十七条憲法」と「冠位十二階」のみだ。随書にも記載されている事柄だが、その随書には、推古天皇のことも廐戸皇子のことも一切記載されていないのだ。『日本書紀』にも廐戸皇子のことは記載されていない。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女、穴穂部間人皇女。太子の生没年は574(敏達天皇3)~622年(推古天皇30年)。本名は廐戸(うまやど)、別名は豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ、一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「廐戸皇子」の呼称に変更している教科書もある。

 聖徳太子についての記述は日本最古の正史『日本書紀』をはじめ、いまは存在しないが最古の太子伝といわれる『上宮記(じょうぐうき)』、平安中期に完成した『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』、『上宮聖徳法王帝説』、また『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(ほうりゅうじ がらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)』や『四天王寺本願縁起』などにみられる。

 教科書ではこれらの文献をもとに、聖徳太子の人物像や事績を史実として紹介し、誰もがそれを紛れもない事実として受け止めてきた。父・用明天皇、母・穴穂部間人皇女の間に生まれた太子は、生まれるとすぐに言葉を話し、わずか3歳で合掌しながら「南無仏」と唱え、また幼少の頃から10人あるいは20人の声を同時に聞き分けることができたという。まさに超人的な聡明ぶりだ。
蘇我氏と物部氏が皇位継承をめぐり壮絶な戦いを繰り広げていた際も、蘇我氏に勝利の祈願を依頼されていた聖徳太子は、望み通り蘇我氏を勝利に導くことに成功した。弱冠14歳のときのことだ。また、高句麗や百済の知識人に帝王学を学び、天皇中心の中央集権国家が理想だと考えるようになったという。
 593年、19歳のときには、叔母で日本初の女帝、推古天皇の皇太子・摂政となり、内政の改革に努めた。また、607年には小野妹子を第二回遣隋使として隋に派遣し、隋との外交も進めている。飛鳥から、斑鳩の地に構えた新しい宮殿に移ってからは、世界最古の木造建築、法隆寺、四天王寺などの寺院を建立したほか、経典の注釈書『三経義疏』の著述をはじめ数々の歴史書の編纂を行うなど、様々な功績を残した-とされてきた。私生活では4人の妻をめとり、14人の子供をもうけている。そして622年、49歳で生涯を閉じた。

史実として語り継がれるこうした数々の事柄は、果たして事実なのだろうか。確かに、文献の中には過度に脚色されている部分があるが…。例えば聖徳太子は、伝えられる4回にわたって遣隋使を本当に派遣したのか?冠位十二階、十七条憲法は本当に聖徳太子によって制定されたのか?一つ一つ検証していくと、随書との食い違いは多く、謎は深まるばかりなのだ。聖徳太子はいなかったとする方が、無理がなく自然な部分さえあるのだ。また歴史上、廐戸皇子は、推古天皇の摂政として活躍したとされているが、その当時、摂政という官職はなかったとされている。

 もし実在しなかったと考えるなら、どうして「聖徳太子」という人物をつくり上げる必要があったのか?聖徳太子が日本書紀でつくり上げられたものだと仮定すると、責任者として編集に携わっていた藤原不比等の名前がクローズアップされてくる。不比等は日本書紀を編集する際に、自分にとって都合のいいように書き加える必要があったと思われる。

当時はもちろんのこと、後世の評価はどうあれ、藤原氏隆盛の原点ともいえる「大化の改新」を正しいものだと見せる必要がある。中大兄皇子と藤原鎌足の手柄をよく見せるためには、この二人によって滅ぼされた蘇我氏を悪者にしなければいけない。そのため、入鹿に滅ぼされた山背大兄王や、その父の廐戸皇子を聖徳太子としてつくり上げて、善人にしなければならなかったのではないか。
 不比等は藤原一族に次々と襲いかかる不幸なできごとは、蘇我氏の祟りではないかと考えた。そのため、蘇我氏の魂を鎮めなければならず、日本書紀という歴史書で蘇我氏の働きを褒め称え、魂を慰めようとしたわけだ。ところが、そうすると鎌足と中大兄皇子は蘇我氏を滅ぼした悪者になってしまうのだ。そこで、蘇我一族の善人としてシンボル的存在の、架空の人物=聖徳太子をつくり上げる必要があったのだ。これによって、藤原一族のメンツも立ち、蘇我氏の供養もできるのだ。こうして聖徳太子伝説ができあがったというわけだ。

 伝説とは別に、聖徳太子にまつわる説の一つに、聖徳太子=非日本人、具体的にいえばペルシャ人説がある。その根拠として歴史学者、小林惠子氏は聖徳太子が新羅征伐のためにつくらせ、今日まで法隆寺夢殿に伝承されてきた軍旗、四騎獅子狩文錦を挙げている。四騎獅子狩文錦はササン朝ペルシャの流れを汲む文様が最大の特徴で、翼の生えた馬、すなわちペガサスに乗って獅子を倒そうとするペルシャ人らしき騎士の姿が描かれたものだ。また、騎士が被っている冠はササン朝ペルシャの王、ホスロー2世のものと酷似しているばかりでなく、夢殿に安置されている救世観音像の冠の飾りとも同じデザインなのだ。救世観音像は聖徳太子をモデルにしたといわれており、聖徳太子=ペルシャ人説を裏付けている。

さらに小林氏は、聖徳太子は北朝鮮からイラン北部を征服していた遊牧騎馬民族、突厥人であり、しかもその中の英雄、頭達(たるどう)だとしている。突厥については『随書』の突厥伝に詳しく記載されている。有名人物の生死の記録はほとんど例外なく歴史書に残されているにもかかわらず、頭達は599年の戦いの記録を最後にぷっつりと歴史上から姿を消している。

頭達が姿を消したのとほぼ同時期、今度は日本で聖徳太子が登場する。これが頭達説根拠の一つだ。599年に消息を絶った頭達は実は翌年600年に北九州に上陸、北上して播磨(現在の兵庫県)の斑鳩寺に本拠地を置いたという。その証拠に、その際持ち込まれた西突厥製と思われる、いびつな形の地球儀が今でも斑鳩寺に残されている。また、ゴビ砂漠周辺にはカイルガナ(モンゴルひばり)と呼ばれる鳥が棲息しているが、斑鳩という名称もここからつけられたのではないかと推測されている。斑鳩は斑(まだら)の鳩と訳すことができ、実はササン朝ペルシャの女神、アナーヒターの使い鳥も鳩なのだ。

 聖徳太子の死もまた多くの謎に包まれている。621年、母の穴穂部間人皇女が死亡。翌年、聖徳太子が病に伏してしまう。太子を看病していた妃の膳大郎女が疲れから622年先立つとその翌日、聖徳太子も49歳の生涯を閉じ、3人は同じ墓に葬られたのだ。死因については一切解明されていない。恐らく3人とも異常死だったのではないかと推察されるが、研究が待たれるところだ。

(参考資料)黒岩重吾「聖徳太子」、黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、小林惠子「聖徳太子の正体」、神一行編「飛鳥時代の謎」

崇峻天皇・・・当時最大の権力者・蘇我馬子に殺害された唯一の天皇

 第一代の神武天皇から第百二十五代の平成天皇まで、様々な個性あふれた天皇がいたが、実在を確認できない天皇はともかく、第三十二代の崇峻天皇ほど不運な天皇はいない。なぜなら、崇峻天皇は当時、政治の実権を握っていた大臣、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手で殺害されたのだから。崇峻天皇の生年は不明で、没年は592年。

 崇峻天皇は欽明天皇の第12子で、母は蘇我稲目の娘、小姉君(おあねのきみ)。「古事記」には長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)とあり、「日本書紀」には泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)とみえる。崇峻天皇は大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。崇峻は馬子の娘、河上郎女を嬪としており、馬子にとって崇峻は女婿でもあった。

 崇峻天皇が皇位に就くまでに、実は大豪族間の駆け引き・抗争が熾烈を極めた時期があった。蘇我氏と物部氏の主導権争いだ。第三十一代・用明天皇(聖徳太子らの父)が崩御すると、皇位は穴穂部皇子を押し立てた大連(おおむらじ)・物部守屋と、これを阻止しようとする大臣(おおおみ)・蘇我馬子率いる豪族および泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)ら皇族連合軍との戦いとなった。

当初、連合軍は劣勢だった。ところが、厩戸皇子が戦いに勝利できたならば四天王の像を造り、寺を建立するという誓い立て、仏に祈った効果があったか、戦いは連合軍の勝利となった。

 こうして泊瀬部皇子が即位し、崇峻天皇となった。587年のことだ。激しい物部氏と蘇我氏の対立時代を経て、物部氏の没落によって、第二十九代・欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着がつき、崇峻天皇は法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの造寺事業を積極的に行った。しかし、皇位に就いた後も、政治の実権は常に馬子が握っており、崇峻は次第に不満を感じ、反感を抱くようになった。

 そして592年、崇峻天皇の運命の歯車が急回転し始める。10月に猪を奉る者があったが、このとき崇峻は「いつの日かこの猪の頸を斬るがごとく、自分の憎いと思うところの人(=蘇我馬子)を斬りたい」と思わず、胸の内を語ってしまったのだ。これが天皇自身の生死を決する決定的な言葉となってしまった。

崇峻天皇の胸の内を知った馬子が手をこまねいてみているわけがない。馬子にとっては、相手が天皇であろうと、自分が押し立て皇位に就けた、単なる皇子の一人に過ぎなかった。翌11月、馬子は配下の側近、東漢直駒に命じ、天皇を殺害した。ただ、狡猾な馬子のこと、その時期には非難の眼が少ないと思われるタイミングを待っていたフシがある。任那再興のため新羅を討つべく大軍を筑紫に向かわせた留守を狙った犯行だった。

 これは、崇峻天皇に限らず、厩戸皇子をはじめこの時代を生きた皇族および有力豪族らのすべてが感じていたことだろうが、蘇我氏の権勢がそれほどに強大で、とりわけ王権さえ軽視し、政治をほしいままにしていた馬子に、意見を言える者などいなかったのだ。あの厩戸皇子さえ、馬子の権勢をよほど恐れていたのではないかと思われる史料が数々ある。今日、聖徳太子の名で、様々な善政として知られる諸施策も、すべて馬子の承諾なしに推し進められたものはないはずだ。もっといえば、聖徳太子が天皇にならなかった、あるいは天皇になれなかったのも、蘇我馬子の存在を抜きには語れない。

(参考資料)黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」、黒岩重吾「磐舟の光芒」、豊田有恒「崇峻天皇暗殺事件」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

平 宗盛・・・武家の大将の器量に欠ける、妻子への愛情深い家庭人

 平清盛の没後、平家政権は惣領=内大臣の平宗盛を中心に、宮廷内の外交は時忠(宗盛の叔父、清盛の正室時子の兄弟)が補佐し、知盛が軍事の指導権を掌握する形で再編成された。つまり、源平争乱の決戦に向けた平家の布陣は、この宗盛を総帥として組まれ、差配されることになった。突き詰めていえば、権勢を誇り栄華を極め、並ぶ者のなかったはずの平家一門の不運は、この点にあった。一門滅亡の最大の要因ともいえよう。

平宗盛は清盛の正室・時子の長子として優遇されて育てられ、精神的な逞しさはなかった。そのため、源氏を筆頭とする東国武士団との闘いにおいて、総帥の宗盛は再三の挽回の機会を取り逃がし、最悪の道を選択してしまう。「平家物語」の表現を借りれば、宗盛はあくまでも妻子への愛情深い家庭人であって、武家の大将たる器ではなかったのだ。

 平宗盛は平清盛の三男。正室・時子の子としては長男で安徳天皇の母・建礼門院徳子は同母妹。官位は従一位内大臣。母が異なる重盛は10歳年上で、当初から重盛の小松家とは対立の芽が内包されていた。平安時代末期、後白河天皇-二条天皇-六条天皇-高倉天皇-安徳天皇および、「治天の君」の後白河院を主君とした。後白河の寵妃、平滋子(建春門院、宗盛の生母、時子の異母妹)の側に一貫して仕え、妻に滋子の妹、清子(高倉天皇の典侍)を迎えている。

生没年は1147年(久安3年)~1185年(元暦2年)。
 「平家物語」は平重盛賛歌の書であって、父清盛も好意的には書かれていない。とくに宗盛は優れた兄重盛との対比として愚鈍なうえ、傲慢な性格で思い上がった振る舞いが多く、そのため他氏族の反感を買う行為ばかりしていた愚かな人物として戯画化されている。

 また「玉葉」では妻清子の死後、宗盛は政治への意欲を失い、権大納言・右大将の官職を返上してその死を嘆き、その妻の遺児(宗盛にとっては第二子・能宗)を乳母に預けず、自分の手で育てている。複数の妻を持つのが当たり前の、平安時代のセレブの貴族社会に照らして考えてみると、高級官僚としては失格だし、どれだけ亡き妻を思ってのこととしても、ちょっと異常としか言いようがない体たらくだ。

 究極は、源氏との最終決戦となった壇ノ浦の戦い以降の宗盛の行動。敗色濃くなった時点で、母時子が夫清盛とともに築いたこの時代の一門の最後の幕引きをするかのように、幼い安徳天皇を抱いて入水。以下、平家の武将や女人たち、要人が次々に自決、入水するなかで、総帥の宗盛は伊勢三郎能盛に生け捕りにされ、息子の清宗とともに、一度は京都へ送られて、次いで鎌倉に護送されていることはどうにも理解できない。どうしてそこまで生き恥を晒すのか?潤色はあるかも知れないが、「吾妻鏡」に書かれている宗盛は愚鈍で、哀れを誘う。彼は勧められた食事も摂らず、泣いてばかりいて、源頼朝との対面では弁明もできず、ひたすら出家と助命を求め、これが清盛の息子かと非難されている。そして、助命嘆願が受け容れられず処刑の直前、「平家物語」によると、宗盛の最期の言葉は「右衛門督(宗盛の長子、清宗)もすでにか」とわが子を思うものだった。ここには、平家の総帥の姿はカケラもない。ただ、子を思う一人の親の顔があるだけだ。宗盛39歳、子の清宗はわずか15歳。父子の首はその後、京都六条河原に晒された。

(参考資料)永井路子「波のかたみ-清盛の妻」、加来耕三「日本補佐役列伝」

徳川忠長・・・兄・家光派勢力のリベンジに遭い、28歳で失脚・自決

 徳川忠長は徳川二代将軍秀忠の次男という確かな血筋で、一時は駿河・遠江・甲斐国の計55万石を領有、「駿河大納言」とも呼ばれた。だが一転、領国すべてを没収され、逼塞処分となり、幕命により28歳の若さで自害、悲劇的な最期を遂げた。果たして、その背景には何があったのか。忠長の生没年は1606(慶長11)~1634年(寛永10年)。極位極官は従二位権大納言。

 徳川忠長(国松)は幼少時、兄・家光(当時の竹千代)より父(秀忠)・母(浅井長政・お市の娘のお江)に寵愛され、次期将軍に擬せられる存在だった。兄が病弱で吃音(きつおん=どもり)だったのにひきかえ、彼が容姿端麗・才気煥発な少年だったからだ。そして、それらに起因する竹千代、国松それぞれの擁立派による次期将軍の座をめぐる争いがあったとされる。結局この争いは、竹千代派の春日局による家康への直訴により、竹千代派の勝利に終わった。

 国松は将軍位こそ逃したが、1618年(元和4年)、甲府藩23万8000石を拝領し、甲府藩主となった。後に信州の小諸藩も併合されて領地に加えられた。1620年(元和6年)、家光とともに元服し、名を忠長と改めた。1623年(元和9年)、家光の将軍宣下に際し、中納言に任官。1624年(寛永元年)には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿・遠・甲の計55万石を領有(小諸藩領は除外)する大身に出世した。

 忠長は1626年(寛永3年)に大納言となり、後水尾天皇の二条行幸の上洛にも随行した。また、1629年(寛永6年)には父・秀忠と、父の唯一の隠し子だった保科正之の初めての親子の面会の実現にも尽力した。ここまでは将軍の弟にふさわしい待遇を得、行動していたといえよう。
 ところが、何があったのか、そのわずか2年後の1631年(寛永8年)、不行跡を理由に甲府への蟄居を命じられる。その不行跡の中身がよく分からない。家臣を手討ちにしたとされるのだが、藩主がそれなりの理由があれば、家臣を手討ちにすることは普通にあったことだ。

 将軍の座を争ったという因縁があるだけに、兄・家光との折り合いが悪かったという背景があったにしろ、いきなり全領地没収のうえ蟄居、逼塞処分を科すというのは、どうみても極端すぎる。そして、確かな理由を示す史料がないまま、忠長には将軍の実弟という甘えからも粗暴な振る舞いが多かったという、抽象的な理由が示されているだけなのだ。兄弟の仲はどうあれ、秀忠は忠長さえ立ち直ったら、時期をみて許すつもりだったに違いない。

 忠長も黙って事態を見ていたわけではない。蟄居を命じられた際、秀忠側近の金地院崇伝らを介して赦免を乞うが許されず、翌年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたが、これも許されなかった。側近の壁に阻まれて会うことができなかった。そして遂に秀忠の死後、改易となり、領国のすべてを没収され、上州高崎城主・安藤重長に預けられる形で高崎国(上野国)に幽閉されたのだ。間髪を置かず最後のカードがきられる。翌年、1633年(寛永10年)、忠長は幕命により自害して果てた-の記録があるだけだ。

 幕府が編纂した『徳川実記』さえ、忠長処罰の不当を訴えている。単純に考えれば、忠長に死に値するような理由はなかったが、“屈辱”の幼少年時代があるだけに、リベンジに燃えた春日局の強い意向も加わって、家光にとっては忠長がとにかく嫌いで、顔も見たくなかった。だから死を与えた、それだけなのかも知れない。だとすれば、それは忠長本人だけの責任ではなく、両親にもそう仕向けた責任があるはずだが…。真実は闇の中だ。

(参考資料)徳永真一郎「三代将軍家光」安部龍太郎「血の日本史」

高岳親王・・・父と叔父の権力争いの巻き添えで人生を狂わせられる

 高岳(たかおか)親王は第51代平城(へいぜい)天皇の第三皇子で、桓武天皇の孫。平穏な時代なら皇太子から、第52代嵯峨天皇のあとを受けて皇位に就いていたはずだ。ところが、父・平城天皇が寵愛した藤原薬子、そして重用した薬子の兄・藤原仲成の二人が行った、天皇の威を借りての傍若無人な振る舞いと、810年、二人がそれに続く「薬子の変」を起こしたことで、父・平城上皇が失脚、出家。そのため、高岳親王は廃太子となり、この後、彼はイバラの道を歩まざるを得なくなってしまったのだ。

高岳親王はまさに、父・平城上皇と叔父・嵯峨天皇(平城上皇の弟)の権力争いの巻き添えに遭い、人生を狂わせられた悲劇の人物だといえる。子に在原善淵らがおり、子孫は在原氏を称した。だが、彼が無事なら後の在原氏の姿も随分違ったものになったはずだ。在原氏一族の活躍の場が格段に広がっていたろう。在原氏の中では、わずかに知名度の高い在原業平は甥にあたる。高岳親王の生没年は799(延暦18)~865年(貞観7年)。

 高岳親王は822年、四品の位を受け、名誉回復が成されるが、その後、東大寺に入り「真如」という法名を与えられて皇族で最初に出家した親王となった。真如親王は空海に弟子入りして密教を学び、阿闍梨の位を受け、弘法大師の十大弟子の一人となった。

 “苦行親王”と呼ばれるほど、求道心に燃えた真如親王は、60歳のときに密教の奥義を究めようと入唐を朝廷に願い出る。しかし、そのころ遣唐使船は23年前の第17次を最後に派遣されていなかった。そこで、日本へ貿易のためにきていた唐の商人に頼んで便乗させてもらうことにした。真如親王の一行29人は861年、奈良から九州へ向かい、そこで一年間滞在した後、862年、大宰府を出発。順風に乗り、寧波の港に無事着いた。そこから越州に向かい、そこで一年間滞在し864年、唐の長安に到着した。

 当時の唐の長安は100万人の人口を擁する世界一の大都市だ。長安には在留40年の留学僧円載(えんさい)がいて、真如親王を西明寺に迎えた。あの空海が逗留した寺だ。この円載は877年、帰国の途中、乗った船が難破して溺死している。

 真如親王は、空海のように中国で優れた師に会うことができなかった。それでも求道の思い断ち難い真如親王は、海路でインドへ渡った義浄のように商船に乗るために長安で天竺へ渡航する許可を得る。865年、天竺を目指して広州から商船に乗り出発した。しかしその後、真如親王の消息は3人の従者とともに、全く分からなくなってしまった。消息不明になってから16年後に、唐の留学僧から朝廷に手紙が届いた。それによると、真如親王は羅越(らえつ)国で78歳で死去された-とあった。羅越国はマレーシア半島の南端という説が有力で、現在のシンガポール・ジョホール付近にあたる。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、永井路子「王朝序曲」

伴善男・・・藤原氏の政治力に敗れ、応天門炎上事件の首謀者として流罪に

 866年(貞観8年)、平安京の応天門が放火・炎上する怪事件が起こった。果たして真犯人は誰だったのか?経緯は後で詳しく述べるとして、この事件の首謀者として紀豊城(きのとよき)ら4人とともに流罪に処せられたのが、ここに取り上げた大納言・伴善男だ。しかし、この事件には真犯人の真偽よりも、「藤原氏北家の隆盛と他氏排斥」という、当時の政情が複雑にからんでおり、簡単には結論付けられない部分があるのだ。この事件後、伴氏は政界から葬り去られたが、伴善男への同情は後に様々な伝説を生んでいる。伴善男の生没年は811(弘仁2)~868年(貞観10年)。

 伴善男は平安時代前期の有能な政治家だった。父大伴(のち伴)国道は参議に昇ってからも陸奥出羽按察使等を兼ねて活躍した能吏だ。その5男に生まれた善男は仁明天皇に信任されて蔵人と弁官を兼ね、848年(承和15年)38歳で参議兼右大弁となり、次いで検非違使別当・式部大輔・中宮大輔・民部卿等も兼ねて歴任。さらに860年(貞観2年)50歳で中納言、864年(貞観6年)には大納言にまで栄進した。出世街道を突き進んだ。

 その間、伴善男は846年(承和13年)、法隆寺の僧善_(ぜんがい)の裁判事件で法理を争い、左大弁正躬王をはじめ同僚の5人の弁官を失脚させた。また、『続日本後紀』の編集(855年)にあたり、民部省の政務運営などにも携わり活躍している。彼の人生はまさに順風満帆だった。

 ところが、藤原氏北家が巧妙に仕掛けた企てに遭い、善男の人生の歯車が狂い出す。866年(貞観8年)大内裏の応天門が炎上、焼失すると、善男はまず、それを左大臣源信の犯行だとして告発した。源信を失脚させようとの目論見からだった。だが、頼みとした太政大臣・藤原良房の裁定で源信は無罪となり、善男は逆に長男、右衛門佐中庸(うえもんのすけ なかつね)に命じて放火させたものだと告訴されてしまう。善男は再三、無実を主張しても認められず、結局死一等を減じて遠流に処された。善男は伊豆、中庸は隠岐、紀豊城は安房、伴秋実(あきざね)は壱岐、伴清繩(きよなわ)は佐渡へそれぞれ流された。そして、その2年後、不幸にも善男は配流先の伊豆で没した。

 伴善男の出世街道はどうして挫折、そして政界から葬り去られなければならなかったのか。その理由の一つは家系にある。彼は当時、時めいていた藤原氏でも源氏でもない。大伴氏だ。伴という姓に変わったのは淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)が大伴だったので、それを憚って改姓させられたのだ。823年(弘仁14年)のことだ。もとはといえば、万葉の歌人、大伴旅人や家持とも同族なのだ。

 大伴氏は悲運を背負った一族だった。まず曽祖父の古麻呂は奈良時代に橘奈良麻呂の叛乱計画に同調したとして捕らえられ、拷問を受けて非業の死を遂げている。祖父の継人は、桓武天皇の長岡京遷都に反対し、これを推進していた藤原種継を暗殺した首謀者として斬刑に処せられている。父はこれに縁坐して佐渡に流されていたが、20年後許されて都に戻り、官吏として遅いスタートを切りながら、参議までたどり着いた努力家だった。それだけに、善男は自分だけは必ず成功者の道を歩んでみせる、との思いだったに違いない。家柄のハンデは逆に彼を勝気にし、学問に人一倍精進させることになった。そして、彼は用意周到に人脈づくりを進めたはずだった。

 だが、藤原氏北家が推し進めていた他氏排斥の“刃”は、躊躇することなく大納言伴善男にも振り向けられ、巧みな人脈も全く力を発揮することなく、伴一族の夢をあっさり砕いた。

 善男については、後に様々な伝説が生まれた。その一つに彼が死後疫病神になったというのがある。ある年、天下の咳病(しわぶきやみ)-咳の病が流行したとき、ある夜一人の下級官人の前に、赤い衣装を着けた気高く恐ろしげな人物が現れ、自分は伴善男で、いま疫病神になっている、と告げ「本来ならたくさんの人が死ぬのだが、自分も朝廷から恩を蒙っているので、咳の病に変えたのだ」と語ったという。政争のあおりを受けて失脚したものが怨霊になる、という考え方が当時あった。この後、悲運の道をたどった菅原道真がその典型だ。こうした伝説は、力なき民衆の形を変えた権力批判ともいえる一面がある。

(参考資料)永井路子「歴史の主役たち-変革期の人間像」、永井路子「悪霊列伝」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

徳川家重・・・障害抱え廃嫡されかけたが、「長子相続」に救われた将軍

 徳川家重は生来、虚弱体質のうえ脳性マヒを患っていたと伝えられている。そうした障害があったため言語が不明瞭で、彼の言葉を理解できるのは、ごく一部の限られた側近だけだったという。そんなコンプレックスからか、彼は幼少から大奥に籠もり勝ちで、酒色に耽って健康を害した。こんな家重とは対照的に、次弟の宗武は文武に長けていたことから、家重は将軍後継には不適格とみられた。事実、一時は廃嫡されかけたこともあった。しかし、徳川の御法「長子相続」に救われ、第九代将軍に就いた。しかし、そのことが彼にとってよかったのかどうか。家重の生没年は1712(正徳元)~1761年(宝暦11年)。

 徳川家重は御三家紀州藩の第五代藩主・吉宗(後の徳川第八代将軍)の長男として赤坂の紀州藩邸で生まれた。母は大久保忠直の娘(お須磨の方・深徳院)。幼名は長福丸(ながとみまる)。父吉宗に正室との間に子がいなかったため、当然のように世子と目された。弟に宗武、宗尹(むねただ)がいた。

 家重は、父吉宗が第八代将軍に就任すると同時に江戸城に入り、1725年(享保10年)に元服する。ところが、家重には決定的な弱味があった。彼は生来、虚弱なうえ脳性マヒを患っていたといわれる。そんな障害のため言語が不明瞭で、ほとんどの人間には彼の言葉は理解できなかった。そこで、彼は大奥に籠もり勝ちで、酒色に耽って健康を害することも少なくなかった。また、彼は猿楽(能)や将棋を好み、文武を怠った。それにひきかえ、次弟の宗武は文武に長け、兄との違いを見せ付けた。家重の言葉を唯一理解できたのは側用人・大岡忠光だ。大岡忠光は越前守・大岡忠相の親戚だったという。

 こうした兄弟の姿を眼の辺りにして、当然のことながら周囲は家重を将軍後継者として不適格と見る向きが多かった。そのため、父吉宗や幕閣を散々、悩ませたとされている。事実、一時は老中、松平乗邑(のりむら)によって廃嫡されかけたこともあったのだ。しかし、彼はまさに徳川の御法に救われた。「長子相続」だ。

徳川幕府の初期、第二代将軍秀忠の在任時、将軍後継に兄・竹千代(後の第三代家光)と弟・国松(後の大納言忠長)がライバルとして比されたことがあった。当時も、素直で聡明さをみせた弟の国松を推す声が、幕閣の中でも優勢だったことがあった。このとき、大御所・徳川家康が天下泰平の時代に入り、これからは「長幼の順」が基本だと明言、将軍後継に兄の竹千代を指名したのだ。これが以後、徳川の御法となった。

家重は1731年(享保16年)、伏見宮邦永親王の娘、比宮(なみのみや)増子を正室に迎えた。家重は21歳、比宮増子は17歳だった。増子は利口な女だった。家重の言語不明瞭を承知で嫁にきただけあって、初めから覚悟が違っていた。彼女が自分以外に家重の言葉を理解してやれる女性はいないのだと思ったとき、彼女はすでに家重の言葉を半ば理解していた。結婚後半年経つともう分からないことは何一つなかった。家重にとって大変な収穫だった。だが、京都から迎えた嫁は健康に恵まれなかった。そして、不幸なことに江戸に来て3年目の1733年(享保18年)、増子は亡くなった。

 吉宗は才気煥発の弟、宗武や宗尹よりも、欠点だらけの家重を不憫にも思い、弟たちよりはるかに愛したようだ。1745年(延享2年)、吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第九代将軍に就任した。しかし、1751年(宝暦元年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。長子相続の御法は守りつつも、吉宗はじめ幕閣が家重だけに権限が全面移譲されることに不安を覚えた結果だ。家重が将軍後継に推された理由は既述の通り、長子相続によるのだが、いま一つ指摘されている点がある。それは、家重の長男、家治(後の第十代将軍)が非常に利発だったことがある。

 ところで、将軍職に就いた家重の、“家重排除派”に対する恨みは相当深かったようだ。老中・松平乗邑は罷免、弟の徳川宗武も3年間登城停止処分としたことが、如実にそのことを物語っている。
 1760年、家重は亡くなるが、跡継ぎの家治に父として「田沼意次の能力は高いからぜひ使いなさい」と普通に遺言もしている。田沼意次の人物評については「良・悪」分かれるところだが、脳性マヒを患っていたと伝えられる割には、きちんとした観察眼を持っていたのかも知れない。

(参考資料)新田次郎「口」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、津本陽「春風無刀流」、大石慎三郎「吉宗とその時代」

徳川家継・・・新井白石らを後見に、徳川歴代最年少の4歳で将軍職に

 徳川家継は、徳川歴代将軍15人の中で、わずか4歳という最年少で将軍職に就いた人物だ。しかもたった7歳で霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王と婚約もした。これにより江戸時代初めて、将軍家と天皇家の縁組が実現することになった。しかし家継は生来、病弱だったこともあり、風邪を悪化させ、わずか8歳で亡くなった。これにより、幕府としては期待の大きかった、八十宮吉子内親王の降嫁は実現しなかった。家継の生没年は1709(宝永6)~1716年(正徳6年)。

 徳川七代将軍家継は、六代将軍家宣の四男として生まれた。母は側室で浅草唯念寺住職の娘、月光院(お喜代)。幼名は世良田鍋松。父家宣は48歳という徳川歴代将軍の中で最も高齢で将軍に就任したことや、元来体が弱かったこともあって子宝に恵まれず、正室・近衛煕子、側室おこうの方、お須免の方らとの間に生まれた女子・豊姫、男子・家千代、大五郎、虎吉らがことごとく早世するという不幸に遭った。その結果、四男の家継(鍋松)だけが生き残ったのだ。

 ただ、幼少の家継を将軍職に就けることには父家宣もためらい、側用人の間部詮房(まなべあきふさ)、顧問格の新井白石らに、いくつかの遺言を残したといわれる。1712年(正徳2年)のことだ。その主なものが「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。家継の処遇は吉通に一任せよ」というものと、「家継を将軍にして、吉通を家継の世子として政務を代行せよ」というものだ。これは新井白石が後年、著した『折りたく柴の記』に記されている。

しかし、尾張藩の吉通を迎えることになれば、尾張からやってくる家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねないと考え、白石らは自分たちがしっかり後見することで家継を将軍職に就けると判断、家宣の遺言を無視する形で“幼少将軍”を断行したのだ。

もちろん、この結論を得るまでには異論も少なくなかった。幕閣では「鍋松君は幼少であり、もし後継ぎなく亡くなられたら、どうするおつもりか」という反対意見もあった。しかし、新井白石は「そのときはそれこそ御三家の吉通公を(将軍に)迎えればよい」と説得したという。

 家継は白石から帝王学を受け、政務全般は側用人の間部らが主導、家継がそのまま追認する形で運営、家宣の遺志を継ぎ「正徳の治」が続行された。家継は聡明で性格的にも穏やかだったようだ。室鳩巣の手紙によると、家継は聡明仁慈で振る舞いも静かで上品だったという。

 この時期、幼少将軍に似つかわしくない話題が幕閣・大奥を賑わしている。真偽のほどは定かではないが、若く美しい未亡人だった家継の生母・月光院と独身の側用人・間部詮房の間にはスキャンダルの噂が絶えなかったのだ。それだけ、将軍の実母の月光院の大奥における権勢が大きくなったことの裏返しとも取れた。これに伴い、一触即発の形勢となったのが大奥の権力闘争だ。先代将軍の家宣の正妻・天英院と、家継の母・月光院の間の激しい対立がそれだ。そのうちの代表的なものが「絵島生島事件」だった。

 こんな生々しいスキャンダルや、醜い権力闘争を横目に、幼少将軍・家継は短い生涯を閉じる。死因は風邪が悪化したためという。享年8。家継の死により、二代将軍秀忠の系統は断絶し、後継の八代将軍に紀州の吉宗が迎えられることになった。吉宗は家継にとっては、はとこ大おじにあたる。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、杉本苑子「絵島疑獄」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

源 実朝・・・母北条政子と北条氏の“操り人形”で、実権のない将軍

 源実朝は鎌倉幕府の第三代征夷大将軍だが、その実態は母北条政子と北条氏の“操り人形”であって、実権の伴わない将軍職を担ったに過ぎなかった。そのため、実朝は政治と関わりの薄い世界、中でも和歌の世界に精力を注ぎ多くの優れた作品を残した。また、京都風の文化と生活を享受することに楽しみを覚え、朝廷に対し官位を望み1218年、武士として初めて右大臣に任ぜられた。だが、不幸にもその翌年、鶴岡八幡宮で兄頼家の子、公暁に襲われ亡くなった。これにより、源氏の将軍は三代で絶えた。

ただ、この事件には謎の部分が多いのだ。公暁をそそのかして実朝を襲わせた首謀者は誰なのか?単刀直入にいえば北条義時の影が垣間見られるのだが…。ただ、もう少し俯瞰でこの事件をみてみると、三浦氏の存在もクローズアップされてくる。実朝の生没年は1192(建久3)~1219年(建保7年)。

 源実朝は頼朝の次男として生まれた。幼名は千幡。別名は将軍家、鎌倉殿、右大臣など。鎌倉幕府の開祖、偉大な父頼朝の健在時は何不自由なく過ごしていたが、1199年(正治元年)父が急死すると、周囲の情勢は一変した。実朝8歳のときのことだ。頼朝亡き後、その主導権をめぐって、重臣梶原景時をはじめ兄頼家の長子一幡、比企能員、さらに畠山一族、和田一族らが、次々と実朝の母政子と、外戚の北条氏の手によって殺戮されていったのだ。

 そんな状況の中で実朝は多感な少年期を過ごした。そして1203年(建仁3年)、第二代将軍・兄頼家が将軍職を失い伊豆国へ追放されると、跡を継ぐ。当時の千幡に朝廷から実朝の名を賜り、征夷大将軍に任ぜられた。実朝12歳のときのことだ。しかし、幕府を支える重臣たちの間では争いが続き、とりわけ北条氏による陰湿な策謀、粛清が繰り返され、政治は北条氏による独裁化へ進みつつあった。そのため、実朝の政治への出番はなく、彼は北条氏の操り人形に過ぎず、実権のない三代将軍を演じることを余儀なくされた。

 そんな実朝が生きがいとしたのが和歌の世界だった。彼は藤原定家に師事し和歌を学んだ。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿が、京都風の文化と生活を享受することに楽しみを覚え、1204年(元久元年)京より坊門信清の娘を正室に迎えたのだ。そんな鎌倉殿をみせられて、関東武士たちの間で失望感が広がっていった。

 こうした状況の中で、実朝暗殺事件は起こった。この事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。

その根拠の一つが乳母(めのと)の問題だ。当時実朝の乳母は母政子の妹の阿波局で、実朝を暗殺した甥の公暁の乳母は三浦義村の妻だった。阿波局の背後にはもちろん北条氏がいる。当時の習慣として、養君は乳母一族の「旗」だった。その「旗」があるからこそ、乳母たちは権力を振るえるのであって、「旗」を潰してしまっては元も子もなくなる。また、将軍はあくまでも貴種であって、執権がその座に就くことはできないのだ。

こうした権威と権力の密接なつながりと、超え難い溝がはっきり認識できれば、北条氏が実朝を殺す理由がないことが分かるのではないか。実朝暗殺事件の真相は公暁・三浦氏連合の実朝・北条氏連合に対する挑戦だったとみるのが妥当だ。ただ、このとき公暁側は大きなミスを犯した。目指す実朝は殺したが、義時と思って別人の源仲章を殺してしまったのだ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

源 義経・・・軍事の天才も、兄が目指す武家社会を理解できず敗北

 源義経は周知の通り、天性の戦上手で平家との合戦に連戦連勝し、壇ノ浦に平家を討ち滅ぼし、源氏の中でも最大級の戦功を挙げた。ところが、兄・頼朝の許可を得ずに朝廷より官位を受けたことや、戦上手であるが故に独断専行によって頼朝の怒りを買い、不幸にも頼朝と対立。遂には理不尽にも朝敵とされるに至る。そして、最期は庇護を求めた奥州藤原氏の時の当主・藤原泰衡に攻められ、自刃し果てた。

源氏の、そして武士団の御世をつくるために大きな功績を残しながら、正当な評価を得ることなく、わずか30年の生涯を閉じた義経は、多くの同情を引き、“判官びいき”という言葉まで生まれるほど幅広い世代に人気が高い。また、それゆえに多くの伝説、物語を生んだ。奥州平泉で討たれ、鎌倉に送られた義経の首は本物だったのか?義経は、本当は逃げ延びて大陸に渡ったのではないか?果てはモンゴルへ渡り、ジンギスカンになった、等など。

源平の争乱を制し、新しい時代への扉を開いた源頼朝・義経兄弟。革命家と軍事の天才による、理想的な協同体制は、なぜ兄による弟殺害という悲劇とともに崩壊したのか?何が二人を引き裂いたのか。

 源義経は清和源氏・源為義の流れを汲む源義朝の九男として生まれた。母は常盤御前。鎌倉幕府を開いた兄頼朝の異母弟。幼名は牛若丸、以後、遮那王、義経などに改名。別名は九郎、判官。生没年は1159(平治元)~1189年(文治5年)。
 義経は「平治の乱」で父・源義朝が敗死したことで、幼少の彼は京都・鞍馬寺に預けられる。だが成長して、自分の立場を理解した彼は僧侶になることを拒否。武芸に励み、16歳のとき鞍馬寺を出奔。父義朝が敗死した地で元服。そして奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主で鎮守府将軍・藤原秀衡に庇護を求めた。ここ平泉で義経は逞しく成長する。

 1180年(治承4年)、兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)と、義経は武蔵坊弁慶はじめ側近とともに平泉から馳せ参じ、1185年までの平家との戦いを主導。一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、義経はその最大の功労者となった。

だが、この先が問題だった。義経はその勝利の恩賞として、後白河法皇から従五位下、検非違使左衛門尉(けびいしさえもんのじょう)に任じられたのだ。このとき頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことが、取り返しのつかないミスとなったのだ。また、義経は組織の軍事的統率者としては極めて優秀だったから、平家との戦いにおける独断専行も多かった。こうした温床もベースにあって、東国武士団の総大将・頼朝と現地司令官・義経の対立は、決定的なものになっていった。

 そもそも頼朝は平家攻めの出陣にあたって、朝廷に申し入れをしているのだ。恩賞については後に一括申請しますので、個々に対して与えないでください-と。また、頼朝は出陣する東国武士団にも「朝廷から恩賞の沙汰があっても受けてはいけない。まとめて申請してもらってやる」と申し渡している。その際、恩賞は公平でなければならない。その公平な恩賞の“裁定役”が頼朝の役だったのだ。

 義経の無断任官は鎌倉勢の大前提を突き崩す、明らかなルール違反だった。そのため頼朝は激怒した。現実に義経のマネをして、朝廷から官位をもらう抜け駆け組がぞろぞろ出てきた。組織力と団結力を頼みとする東国武士団の中に、明らかに動揺が起こったのだ。

 残念ながら、義経は全くこの点が分かっていなかった。義経は、平家を打倒し親の仇を討った。その結果、朝廷からわが家(源家)の名誉として官位いただいたのだ。何も悪いことはしていない-と思っていた。だから、何を兄・頼朝は怒っているのだと。生い立ちの違いもあって、この対立は宿命的なものだったのだ。弟・義経は、懸命に新しい武士の時代に求められるルールづくりを進めている革命家の兄・頼朝を全く理解していなかった。

 頼朝・義経の対立を喜ぶ、いやもっと積極的に対立を煽るように企んだ人物もいた。後白河法皇だ。権謀家の後白河は頼朝と義経を対立、分裂させる目的で、半ば強引に官位を義経に与えたとみられる。その企みに簡単に義経が乗ってしまったというわけだ。後白河の軍略が功を奏したのだ。この部分だけをみれば、頼朝・義経の対立は兄弟げんかのように映るが、実は政務には全く疎い義経を頼朝が排除したというのが実態なのではないか。そして、冷静な頼朝は、弟・義経の断罪を、自分たちがつくる新しい武士の時代は、ルールを守らなければ、弟さえも排除する、極めて大事なことなのだぞ、という厳しさをみせつける“最大効果”を狙って断行したことなのかも知れない。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「はじめは駄馬のごとく」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「義経」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、安部龍太郎「血の日本史」

明智光秀・・・“逆賊”とは異なり、領国では様々な善政を敷いた名君

 明智光秀にはどうしても主君、織田信長を討ったダーティなイメージがある。この点については非難の声が大きく、近代に入るまで“逆賊”としての評価が圧倒的に多かった。とくに儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では「本能寺の変」の当日、信長の周辺には非武装の供廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、本能寺の変後に神君徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。しかし、光秀の実像はかなり違うようだ。生没年は1526~1582年。

 明智氏は美濃の守護土岐氏の庶流とされるが、光秀の前半生は判然としない。光秀は公家の社会・しきたりにも明るい知性・教養派でありながら、一時は織田勢の有力武将のなかでも1、2を争うまでに武功を上げている優れた武将だった。足利義昭が信長と対立し始めたのを機に、義昭と袂を分かち信長の直臣となり各地を転戦。1571年(元亀2年)頃、比叡山焼き討ちの功績を認められ近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築いて居城とした。

1575年(天正3年)に惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守(ひゅうがのかみ)の官職を与えられ、惟任日向守と称した。城主となった光秀はさらに、石山本願寺や信長に背いた荒木村重と松永久秀を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略を担当。1579年(天正7年)、横山城主・小笠原大膳を自害に追い込んで平定した。横山城をわが物とすると、光秀はさっそく改築に取り掛かった。近郷の墓石や五輪塔をかき集めて石垣とし、これを福智山城と名付けた。「智」が「知」となったのは、1728年(享保13年)のことだ。

その丹波で光秀は領主として様々な善政を敷いている。彼は由良川という暴れ川に堤を作って、農民を水害から救った。また、農民が領主に収める税の一部を吸い取ってしまう地侍を退治、農民を助けた。このため、現在でも丹波で、地侍の子孫の中には光秀を悪くいう人がいるが、一般には評判が良く、広く敬われている。彼が民政を重視した結果だ。

また、丹波と山城の国境にある老ノ坂に差し掛かる手前に位置する亀岡市。かつては亀山といったが、伊勢亀山と区別するため明治2年に亀岡と改められたのだが、この亀山の発展のそもそもは光秀の治政によるものだ。

丹波を平定して、丹波29万石を領有することになった彼は、1573年(天正元年)から1年半かけて城を築いた。三重の堀に囲まれ、三層の天守閣を持つ亀山城は、東西1.5・、南北800・に及ぶ城下町を持っている。彼は丹波一国に近江の坂本を合わせた自分の領国の本拠地、いわば司令部をこの亀山に置こうとしたのだろう。わずか6万石の領内にしては破格な規模の城下町の佇まいだ。それだけに領民の誇りも高く、優れた光秀の民政力と相まって、亀山は繁栄の地となった。

本能寺の変の際も、明智軍1万3000はこの亀山城で戦備を整えて出発していったのだ。無念の最期を遂げた彼の、それまでの善政を慕う領民が、その霊を祀っている。こうしてみると、明智光秀は“主君弑逆”で民政手腕を評価されない“悲劇の名君”といえよう。

(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、井沢元彦「明智光秀の密書」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「決断のとき」、海音寺潮五郎「武将列伝」

大久保彦左衛門・・・武功派・幕府窓際族で、『三河物語』は不満の書

 大久保忠教(おおくぼただたか)、通称・大久保彦左衛門といえば江戸庶民から“天下のご意見番”と呼ばれ、幕政に対する庶民の怒りや不満を代弁した『三河物語』を著し、無条件に庶民の味方と思われがちだが、これらは明らかに虚構であり、現実とは全く違うのだ。本当の大久保彦左衛門は庶民の味方でも何でもなかった。彼は徳川幕府創業のために、家康・秀忠父子を前面に押したて、戦闘してきた武功派の人物だった。自分を含む“武功派”の味方であり、家光の時代になって、いまや冷や飯を貰うのさえ容易ではなくなってきた“幕府窓際族”の代弁者に過ぎなかった。そして、『三河物語』は徳川成立史に名を借りた武功派の不満の書だった。

 もし、江戸市民のすべてが字が読めて、『三河物語』をつぶさに読めば、庶民の政治に対する怒りや不満を書いた箇所はそのかけらもない。大久保彦左衛門は徹底した支配者側の人間であり、しかも自分の知行については相当勘定高い人間であることを知るはずだった。

 1624年(寛永元年)から10年あまりの間、徳川幕府は幕閣の整備を急いだ。戦争しか知らない武功派は退けられ、民生、経済、外交などに優れた実務能力を持つ新官僚が続々と登用された。現代の閣僚ともいうべき老中、若年寄に起用された家光側近の松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、三浦政次、太田資宗、阿部重次などは、すべて20代、30代の青年であった。戦争を知らないこの世代は、戦争しか知らない武功派には目もくれなかった。「徳川戦争史」はどんどん風化し、同時に武功派の武功そのものも風化していった。

 彦左衛門の『三河物語』は、この“風化”に対する抵抗だった。徳川戦争史の復元であり、その戦争を戦い抜いた武功派の存在意義の主張だった。それは、愚痴と嘆きに満ちた“恨み節”だったが、不満旗本群は揃ってこの怨歌に共感し、書き写して他に回した。これが『三河物語』が隠れたベストセラーになった理由だ。
 大久保彦左衛門は三河松平家の直臣として、三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)で、由緒深い大久保家の八男として生まれた。幼名は平助。一時忠雄とも名乗った。子に大久保忠名、包教、政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。生没年は1560(永禄3)~1639年(寛永16年)。父は忠員(ただかず)といい、1582年(天正10年)に死んだ。長兄の忠世(ただよ)は家康の側近として鳴らし、西方からの有事に備えて、江戸への関門、小田原城を委ねられて6万5000石の大名に取り立てられた。二男忠佐(ただすけ)も沼津城主だ。このころの徳川家がいかに大久保家を大事にしていたかが分かる。
 彦左衛門は17歳のとき兄・大久保忠世とともに、遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。1590年(天正18年)小田原征伐の後、主君徳川家康が江戸に移封され、兄忠世およびその子で甥忠隣が相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられた。1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いでも、家康本陣で槍奉行を務め活躍した。

 忠隣が大久保長安事件に連座して失脚、改易となると、それに連座して彦左衛門も改易されてしまう。その後、駿府へと召し出され、家康直臣の旗本として三河国額田に1000石を拝領し復帰した。1614年(慶長19年)、大坂夏の陣も槍奉行として従軍。その後、二代将軍秀忠の上洛に従い、三代将軍家光の世になって、旗奉行となっても武士としての生き方を貫いた。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」

恩田木工・・・藩士領民の意識改革に力点置いた改革は後世へ受け継がれる

 恩田木工(おんだもく)民親は信州松代藩六代藩主真田幸弘の家老として、財政危機に陥っていた藩財政の再建を任され、徹底した倹約令、殖産興業、綱紀粛正、文武奨励などを推進。とりわけ全藩士・領民の意識変革に力点を置いた、その意思や姿勢は後世へ受け継がれ、同藩の藩政改革への道筋をつけた。

 恩田木工は松代藩家老として1000石を知行する恩田民清の長男として、松代(現在の長野市松代町)に生まれた。幼名は佐吉。生没年は1717年(享保2年)~1762年(宝暦12年)。1735年(享保20年)家督を相続。1746年(延享3年)家老となった。恩田木工は1757年(宝暦7年)、藩主真田幸弘から勝手方御用(=藩政改革)を命じられた。恩田40歳のことだ。

 松代藩は5代藩主真田信安時代、原八郎五郎、田村半左衛門の2人に藩財政再建に当たらせたが、いずれも失敗。汚職が横行し、藩内の風紀は乱れていた。そこで、恩田は財政再建にあたり松代藩に全権の委任を求め、殖産興業、俸禄制度の改善、文武奨励などを勧めていった。また、質素倹約を励行し贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組んだ。1758年(宝暦8年)には藩校「文学館」を開き、文武の鍛練を奨励した。

 恩田が藩主から勝手方御用を命じられたとき、藩に提出した誓紙がある。それには「決して私曲は致しませぬ。もし不忠不義の行為があったときには、どんな重罰に処せられても少しも恨みませぬ」と書かれていたという。恩田は「嘘は言わぬ」と心に誓い、親類、家族、家来を集め、「大役を仰せつかった。自分一生の浮沈に関わることゆえ、親類には義絶、妻は離縁、子供は勘当、家来には暇を出す」と爆弾宣言した。

何故、どうしてと説明を求められて恩田は、自分は嘘は言わぬと誓ったが、親類や家族が嘘を言えばすべて水の泡だ。これからは衣食は粗末に、すべてを倹約第一にするが、家族や家来が不満をいうようでは何にもならぬ、だから離縁するのだ-と説く。そして「これまで通り嘘を言いたかろう。おかずも食べたかろう。木綿を着るのは嫌であろう」と妻を責める。そこで妻は「嘘は言いませぬ。飯と汁のほかは食べませぬ、木綿を着れば離別なさらずともお邪魔にはならんのでしょうか」、「その通り」、「ではそう致しますから、このまま置いてください」、「だが、家来に暇を出すから無人になる。水汲み、飯炊き、みんなやらねばならぬのだぞ」、「水も汲みます、飯も炊きます」、「まことか」、「誓詞でございます」、「それなら離縁はしない。だが子供は勘当だ-」。こういうふうに、妻から子供、子供から家来と順送りに責め立てたから、家内の仕置きが治まった。重役一同の前にも決意のほどを披瀝、自分の命令に背かぬことを誓紙にして提出せよと命じた。これは江戸で藩主から許されたことだったのだ。

倹約は藩主の真田幸弘はじめ、衣食住すべてにわたり、細かい指示を出した。それは、具体策を講ずるというよりは、全藩士・領民の意識変革に力点を置いたものだった。また、恩田自身は私事を捨てて懸命に仕事をする、辛苦勉励、謹厳実直を絵に描いたような人物だった。

こうした諸施策にもかかわらず、実は恩田の財政改革はほとんど成功せず、逼迫した藩財政自体は改善しなかった。だが、1762年(宝暦12年)、恩田木工の死(享年46)後も、彼の意思は藩主真田幸弘や、木工の妻の弟、望月治部左衛門により受け継がれた。

 恩田木工民親の藩政改革の事績を描いたものに「日暮硯(ひぐらしすずり)」がある。書かれたのは1761年(宝暦11年)で、最初の活字版は明治41年に出た。

(参考資料)奈良本辰也「日本史の参謀たち」、池波正太郎「真田騒動 恩田木工」

上野彦馬・・・日本の写真術の開祖の一人で、貴重な資料を後世に伝える

 上野彦馬は日本の写真術の開祖の一人で、日本初のプロカメラマンだ。彼はその生涯を通じて日本の写真術の確立とその発展に尽力し、幕末から明治にかけての激動の時代を、カメラを通して切り取り、結果として多くの貴重な資料を後世に伝えた。生没年は1838(天保9)~1904年(明治37年)。

 上野彦馬は長崎の蘭学者、上野俊之丞の次男として生まれた。父・俊之丞は長崎奉行所の御用時計師で、火薬材料や更紗の開発も手がけ、1848年(嘉永1年)、オランダから発明当初の写真術ダゲレオタイプの機材一式をいち早く輸入したことで知られている。ダゲレオタイプの写真術はフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって発明され、1839年にフランス学士院で発表されたもの。銀板上にアマルガムで画像が形成される。1回の撮影で1枚の写真しか得ることができず、でき上がった写真は左右逆像だ。

 1850年に俊之丞が没し、彦馬は12歳で家督を相続。1852年、大分日田の 広瀬淡窓の塾、咸宜園(かんぎえん)で漢学を学んだ。1856年(安政3年)、長崎へ帰り、オランダ語を通詞・名村八右衛門に伝授される。さらに1858年、長崎海軍伝習所の医官を勤めていたオランダ人軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトの医学伝習所で舎密学(化学)を学ぶうち、写真術に関する記述を見い出して興味を覚え、津藩士、堀江鍬次郎とともに写真術の研究を始めた。しかし、当時の日本では感光材として必要な薬品の入手さえままならず、それに加えて世間の無理解による中傷も激しく、その苦労、苦心はひと通りではなかった。

 1861年(文久1年)、彦馬らは津藩主・藤堂高猷(たかゆき)の出資で、フランスから最新の写真機材と感光材の薬品を取り寄せ、江戸の津藩邸で藩主の肖像撮影に成功。1862年(文久2年)、堀江の協力を得て津藩藩校の有造館の化学教科書「舎密局必携」を著し、同書中の「撮形術ポトガラヒー」の項で写真技術の詳細について述べている。ちなみに、この「舎密局必携」は明治の学制改革まで日本全国で化学の教科書として使われた。

 様々な困難を乗り越えた彦馬は写真技術の修得に取り組み、1862年(文久2年)、長崎で日本の最初の写真館「上野撮影局」を開業した。彦馬の写真技術は評判で、撮影料が現在の価格に換算すると1枚につき2~3万円という高価なものにもかかわらず、多くの才人たちが彦馬の写真館を訪れている。この中には坂本龍馬、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文といった幕末の日本を動かした大物たちや、フランス人文学者ピエール・ロチ、清国提督、丁汝昌、ロシア皇太子ニコライ二世など歴史上の人物もいた。

 明治期に入っても彦馬は写真師として旺盛な活動を続け、1874年(明治7年)、金星の太陽面通過を観測した日本最初の天文写真を撮影。1877年(明治10年)には長崎県令・北島秀朝の委嘱により、西南戦争の戦跡を記念撮影。陸軍参謀本部に提出されたそれらの写真は、現存する日本写真史上最初の戦争写真の一つとして知られている。1890年(明治23年)には上野撮影局支店をロシア沿海州のウラジオストクや中国の上海、香港にも開設。国際的な視点でみても、現代ではちょっと考えられないほど写真術の技量の高さを証明してみせた。

(参考資料)小沢健志 編「幕末 写真の時代」

大塩平八郎・・・民衆とともに蜂起するも、組織の巨悪にはめられ自決

 大塩平八郎は天保の大飢饉の際、貧困に苦しむ人たちを救うためとはいえ、門人、民衆とともに武装蜂起した犯罪人だ。だが、奉行所与力時代の功績や、武装蜂起に至る経緯を詳細に検証すると、奉行所与力時代に彼が行った摘発に対する逆恨みや、奉行所の組織=巨悪にはめられ、潰された側面が強い。彼の清廉潔白さが災いしたのだ。

 大塩平八郎は陽明学を学び、理論と実践、知行合一を信奉した江戸時代後期の儒学者で、大坂町奉行所与力を務めた。代々与力として禄を受け、彼の父も与力を務め、初代の六兵衛成一から数えて八代目。生没年は1793(寛政5年)~1837年(天保8年)。

奉行所時代は清廉潔白な人物として不正を次々と暴き、とくに西町奉行同心弓削新左衛門の汚職事件では、上司の東町奉行・高井実徳の強力なサポートもあって内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集め、その後も活躍した。しかし1830年、上司の恩人、高井の転勤とともに、38歳という働き盛りの若さで奉行所を辞職。養子の大塩格之助に跡目を譲った。この後、平八郎は自宅で「洗心洞」という私塾を開き、引き続き頼山陽などとも交際を持った。

徳川時代を通して、米の生産力が一番高い時期は元禄時代だ。その元禄の頃を中心として年貢が考えられる。一番上昇期に達した水準で年貢を考えているわけで、ちょっと不作になると、すぐそれが百姓の生活に降りかかってくるのだ。四公六民、あるいは五公五民の年貢を取られると、飢饉になるとたちまち多くの人間の死に直結する。

南部藩などは24万人の人口のうち、天明の飢饉で6万4000人、約4分の1が死んでいる。その後にもう一度飢饉に襲われて、同じくやはり6万人ぐらい死ぬ。だから人口がたちまち半分ぐらいに減ってしまった。そうなると結局、生産力ががたっと下がってしまう。

1836年(天保7年)の頃は、飢饉で米が入ってこない。とくに京都はひどかったようだ。当時の記録をみると、京都では米一升250文とある。平年だったら大体60文から70文だ。70文としても3倍以上だ。しかも死者は毎日70人に上るありさまだ。丹波からは例年の5分の1程度、亀山(亀岡)からは40分の1程度しか米が入ってこない。大坂からは全く入ってこない-とある。これは大坂の城代、あるいは町奉行が禁止しているからだ。こうしたことが、平八郎が乱を起こす原因になっていく。

平八郎は天保の大飢饉の際、幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価吊り上げを狙った米の買い占めによって大坂の民衆が飢饉にあえいでいることに心を痛め、当時の東町奉行、跡部良弼に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請した。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商・鴻池善右衛門に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と20数名の門人の禄米を担保に1万両を貸してほしい」と持ちかけた。だが、鴻池善右衛門に相談された東町奉行の跡部が、平八郎に含むところがあるだけに、「断れ」と命令したため、平八郎の救済策は実現しなかった。

そうした中、飢えた人々を救う手はほとんど打たれなかったから、大坂や京の街には餓死者の数が日に日に膨れ上がっていった。平八郎はその後、蔵書を処分するなどして得た、金600両の私財を投げ打った貧民救済活動を行うが、万策尽きたことを実感。「仁・義のすたれた世をこのまま傍観してはおられぬ。陽明学を学んだものの宿命として、起つ時がきた。もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に、根本的解決は望めない」と判断。

門人に砲術を中心とする軍事訓練を行った後、1837年(天保8年)に門人、民衆とともに蜂起した。これが大塩平八郎の乱だ。しかし、門人の密告(奉行所が送り込んだスパイという説もある)によって奉行所に発覚、すぐ鎮圧された。

逃亡生活中、四ツ橋あたりで刀を捨て、靱のとある商家の蔵に隠れていたが、数カ月の後、所在が発覚、養子の格之助とともに火薬を用いて自決した。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、童門冬二「私塾の研究」、安部龍太郎「血の日本史」

江川太郎左衛門・・・ 韮山塾で西洋砲術を教え、国防を考えた西洋流兵学家

 江川太郎左衛門は幕末、欧米先進国の強大な武力の前に危機を憂い、これに対抗すべく当時、先鋭的な反射炉を造った、“国防の巨人”といわれた西洋流兵学家だ。また、兵糧確保のため日本で初めて、保存の利く西洋のパンを焼いたことでも知られている。その製法は当時、江川邸にきていた砲術修行の若者たちを通じて全国に広まった。生没年は1801(享和元年)~1855年(安政2年)。

 江川太郎左衛門英毅の次男として生まれたが、兄が早逝したため、父の死後、1835年(天保6年)、伊豆韮山代官職を継いだ。初名は芳次郎、邦次郎、のち太郎左衛門。太郎左衛門の生まれた伊豆韮山の江川家は世襲の代官職で、代々の当主は、みな太郎左衛門と名乗った。ここに取り上げる太郎左衛門は、その三十六代目で、名を英龍、号を坦庵といった。

支配地は駿河、伊豆、相模、武蔵、甲斐の5カ国にわたり、管理する土地は約7万石に及んでいたという。また、海からの侵略を防ぐ重要な地点が多かった。そのため、英龍も早くから幕府に様々な提案を行って海の守りの重要性を説いていた。このため、蘭学を修めて渡辺崋山、高野長英らと近づき、外国事情にも深い関心を寄せていたのだ。

 後年、英龍は「韮山塾」を主宰したが、様々な著名な人物がこの塾で学んでいる。老中の阿倍正弘をはじめ真田幸貫、本多忠寛などの大名、旗本の松平近直、川路聖謨(かわじとしあきら)などがいわば名誉門人であり、佐久間象山、橋本左内、桂小五郎、斎藤弥九郎、後に大山巌、黒田清隆などがいる。英龍が教えたのは西洋砲術だ。英龍の師は、長崎の町年寄で、長崎奉行直轄の鉄砲方の仕事もしていた高島秋帆だった。高島はオランダから西洋の鉄砲を買い込んで、門人たちに西洋式の砲術や兵学を教えていた。

 1837年(天保8年)、1隻の国籍不明の外国船が江戸湾の奥深く侵入してきた。外国の船はすべて打ち払うという幕府の政策に則り、浦賀奉行がこれを砲撃して、追い帰してしまった。後で分かったことだが、これは日本人の漂流民を送ってきたアメリカの商船モリソン号だった。この事件に驚いた幕府は、外国の脅威に対する備えを固めるため、江戸湾一帯の調査、測量を行うことにした。1838年(天保9年)、この巡検隊に目付・鳥居耀蔵、代官・江川英龍が任命された。

 1839年(天保10年)、巡検隊は出発。測量船はまず浦賀の沿岸から始まり、房総半島に及んだ。鳥居耀蔵は部下の小笠原貢蔵に実際の仕事を任せた。小笠原はかつて蝦夷地の調査に従い、測量の助手を務めたことがあった。一方、英龍は尚歯会の指導者、渡辺崋山の推薦を受け、高野長英の弟子、内田弥太郎と奥村喜三郎をメンバーに加えた。調査は終わった。「蛮社の獄」の2カ月前だ。

 英龍はかねてから、外国事情の調査を渡辺崋山に依頼していた。崋山は諸国建地草図や西洋事情書を書き送ってこれに答えた。英龍はこれらを参考にして江戸湾の海防計画を立案し、でき上がった測量図に添えて幕府に提出した。鳥居耀蔵もまた報告した。ところが、鳥居の使った小笠原貢蔵が旧式の測量術でやった地図と、西洋式の新知識でやった英龍のものとではできばえが全然違ってしまって、鳥居は大恥をかいてしまう。このときの鳥居の個人的な遺恨が、あの「蛮社の獄」という洋学者への大弾圧に発展することになった。

 江川英龍は1840年(天保11年)、鳥居耀蔵らの反対する、高島秋帆の兵制改革を支持。高島秋帆に兵学・砲術を学び、許しを得て韮山に反射炉を築き、鉄製大砲を鋳造。1841年(天保12年)、洋式鉄砲方、1853年(嘉永6年)、ペリー来航のとき、海防掛となる。先に鳥居耀蔵の執拗な報復によって「蛮社の獄」に連座させられ、幽囚となっていた高島秋帆の赦免を願い自分の属吏とし、中浜万次郎も招いて属吏とした。江戸湾防備を献策し、品川砲台建設を監督した。

 勝海舟が幕臣でありながら幕府を突き抜けて、日本の国というものに考えが及んでいたのと同様、英龍も幕府保守派を退けて、「国防」を考えていたのだ。ただ、残念なことに品川の砲台も反射炉も、まだその完成を見ないまま、英龍は亡くなった。明治維新までのカウントダウンが始まっていた。

(参考資料)高橋_一・榛葉英治「日本史探訪/開国か攘夷か」、童門冬二「私塾の研究」

大鳥圭介・・・適塾出身ながら佐幕の道を突っ走り、戊辰戦争を転戦

 人の運命を決定づける要因の一つとして出身地を挙げるなら、大鳥圭介の場合、まさにその典型といっていいのではないだろうか。分かりやすい例を挙げると、大鳥圭介は適塾の先輩、大村益次郎と同じく村医者の子だった。蘭医方を学ぶうちに西洋兵学へ転じたという経歴も共通している。ところが、時勢はその後の両者の進路を正反対のものとし、幕末の政局が決定的な段階を迎えたとき、益次郎が倒幕派の軍事指揮官の地位にあったのに対し、圭介は歩兵奉行として幕府陸軍の要衝を占めていた。

両者の運命がこれだけ分かれたのは、出身地の違いを主要因の一つに挙げていい。圭介がもし倒幕派雄藩の出身だったら、益次郎と倒幕作戦を主導していたかも知れない。だが、現実の圭介は幕府の登用を受けると、中央政権の備える圧倒的な吸引力に巻き込まれ、佐幕の道を突っ走った。生没年は1832(天保3年)~1911年(明治44年)

 大鳥圭介は播州赤穂の北方、岩木七カ村のうちの一番奥の細念(さいねん)村、村医者大島直輔の長男として生まれた。幼少時の圭介は、初め祖父純平にについて四書の素読などを受けていたが、1845年(弘化2年)、細念村に隣接する岡山藩の名君池田光政が創設した閑谷(しずたに)学校に入学。圭介はここで足掛け5年間勉学に努めた。授業の内容は漢籍で朱子学だった。成績も良く、父親からは跡継ぎとして医業の勉強をせよとせきたてられた。そんなとき、父と懇意の町医者中島意庵から、蘭学こそこれからの時代に必要とされる学問だと教えられ、一大決心する。

こうして勇躍、圭介は大坂に向かった。1852年(嘉永5年)のことだ。この年、適塾には圭介を含めて34名が入塾している。住み込みの内塾生は60名に近かった。同年、橋本左内が退塾しており、圭介の入門はそれと入れ替わりといった形だ。塾頭は伊藤慎蔵だった。適塾で2年、原書を読みふけって語学は上達したものの、肝心の医業の方は全くおろそかにしていて、家業を継ぐなどとてもおぼつかない状況だった。

そこで、圭介は1854年(安政元年)、親には無断で適塾を退き、江戸へ出た。あてなどない、若さに任せたずいぶん乱暴な江戸行きだった。そして、浜松町の坪井忠益塾に入門した。坪井忠益は元の姓を大木といい、師事した坪井信道に見込まれてその養子となった人物だ。かつて緒方洪庵もその下で学んだことがあった。そうした縁で圭介は入門するとすぐ、塾頭に挙げられた。適塾のレベルがそれほど高かったのだ。
 当時は欧米列強の開国要請を受けて、軍備を洋式に改めるべく、坪井塾にも洋式兵備に関する調査依頼が、諸藩江戸屋敷からたびたび持ち込まれるようになった。その場合、適塾で兵書に親しんでいた圭介の右に出る者はいなかったから、それらの調査以来を取り仕切ったのは塾長の圭介だった。こうして西洋兵学に深入りするにつれ、圭介の医学に対する関心は急速に薄れていった。圭介の内部において、医学から兵学への転身が決定的となったのは、江戸に出て3度目の春が過ぎた1857年(安政4年)のことだった。

 この年、圭介は西洋兵学の分野で先覚的な役割を果たした江川太郎左衛門が開いた「江川塾」から、西洋兵学の教授に就任してほしいとの招聘を受けた。このことで圭介は自信を得て、これからの人生は医者ではなく西洋兵学者として生きることを決心する。彼は江川塾が用意した長屋に移り住み、講義のかたわら、自らも砲術などの学習に勤しんだ。圭介の講義を受けていた人々の中には後年、薩閥の有力者となる黒田清隆や大山巖らの顔も見えていた。いまや新進の西洋兵学者として圭介の名は高まるばかりだった。

 1866年(慶応2年)、遂に幕府から開成所の洋学教授として召し出された。圭介34歳のことだ。それからまもなく、幕府内開明派の小栗上野介らの発議に基づき、幕府陸軍にフランス式操練を施すことが決まり、圭介は募集に応じて集まった1000人ほどの一隊を機動力ある精兵に鍛えあげた。これがいわゆる伝習隊だ。

 時勢は急テンポの展開をみせ、慶応4年、鳥羽伏見の戦いが勃発。この後、幕府の大勢が恭順に傾き、佐幕派諸藩ないし親幕府派諸藩が新政府軍と対峙。各地で戊辰戦争に敗れ、函館・五稜郭戦争に至る。圭介は江戸を脱出、旧幕府艦隊の総帥榎本武揚らと合流。北海道に渡り、「蝦夷共和国」の陸軍奉行に就任したが、6カ月後あえなくその幕を閉じた。

 圭介は2年有余、獄舎にあったが、明治5年罪を解かれ、開拓使御用掛として明治政府に出仕。以後、学習院校長、朝鮮公使、枢密院顧問官などを歴任した。

(参考資料)百瀬明治「『適塾』の研究」

江藤新平・・・ 新国家の骨格・近代司法体制づくりに大きな役割果たす

 江藤新平は1874年(明治7年)、西日本で起こった不平士族の反乱の一つ、「佐賀の乱」の首領として不本意にも斬罪されたが、彼がわが国の近代司法体制づくりに果たした役割は大きい。江藤の先見性と理論性は黎明期にあった新政府にとって必要欠くべからざる才能であり、明治初期の混乱期にあたり、とくにその才能は新国家の骨格づくりや民法、憲法など法令の整備に遺憾なく発揮された。生没年は1834(天保5年)~1874年(明治7年)。

 江藤新平は佐賀藩下級武士、江藤助右衛門の長男として生まれた。名は胤雄(たねお)、号は南白(なんぱく)。16歳で藩校弘道館に入学して猛烈に勉強に励んだ。副島種臣の兄で尊王攘夷論を唱道していた国学者、枝吉神陽(えだよししんよう)に師事。神陽が結成した「義祭同盟」に大隈重信(後に内閣総理大臣を2回歴任、早稲田大学創設者)、副島種臣(後に外務卿)、大木喬任(後に初代文部卿、第2代司法卿)らとともに参加した。

その後、時勢の変遷を的確に見据えた江藤は開国通商による富国強兵を主張するに至り、23歳のときに作成した意見書「図海策」では、民衆生活の尊重を立論の根拠とした意見を理路整然と展開した。その後、時局が混乱を極める中、1862年(文久2年)脱藩して京に上り、桂小五郎や伊藤博文、公卿姉小路公知、三条実美(さねとみ)らと交わり、積極的に京都の情勢視察を行い「京都見聞」を著した。28歳のときのことだ。しかし、結局帰藩を命ぜられ、永蟄居に処せられた。

ところが、江藤は幸運にも1867年(慶応3年)、大政奉還を機に直ちに赦免されて郡目付となり、明治政府に登用された。戊辰戦争では東征軍に軍艦として従軍した。江戸遷都を強く主張した。その後は江戸府判事、江戸鎮台判事として民政兼会計営繕の任にあたり、1871年(明治4年)文部大輔、次いで左院副議長の座を手に入れた。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの信任を得た結果だった。ここで、江藤新平のその後の進路を決定づける業務に就く。

 江藤はフランス流の民法典編纂に従事、1872年(明治5年)現行の法務大臣・最高裁長官・国家公安委員長に相当する権限を持つ初代司法卿に就任。行政から独立した全国統一の司法権を構築。また警察制度の統一に尽力、「改定律例」(明治初年のころの刑法典)の制定を実現した。以後、江藤は司法制度を整備するとともに、司法権の自立と法治主義確立のため奔走した。

だが、江藤は1873年(明治6年)その任を解かれ、参議に任ぜられ、新政府の中心で働くことになった。そして西郷隆盛、板垣退助らとともに征韓論を主張して敗れ、下野した。1874年(明治7年)、「民撰議院設立建白書」には板垣退助、副島種臣らとともに署名している。

 江藤は副島、後藤象二郎らの帰郷を思いとどまるようにとの説得にもかかわらず離京。ほどなく佐賀へ向かい憂国党の島義勇と会談し、佐賀征韓党首領として擁立された。数日後、憂国党が武装蜂起し、士族の反乱「佐賀の乱」が勃発する。しかし、やがて大久保利通が直卒する東京、大阪の鎮台部隊が続々と九州に到着し、佐賀軍は敗走に次ぐ、敗走を重ねる。

 江藤は密かに戦場を脱出し、征韓論で同様に下野した同志、鹿児島・鰻温泉に湯治中の西郷に会い、薩摩の旗揚げを請うが断られ、次いで高知の林有造、片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くが、いずれも容れられなかった。このため、江藤は最後の手段として岩倉具視への直接意見書陳述を企図して、東京への上京を試みる。

しかし、その途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され、佐賀へ送還された。手配写真が出回っていたために速やかに捕えられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が1872年(明治5年)に確立したもので、皮肉にも制定者本人が被適用者第1号となった。
数日後、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下だった河野敏鎌によって裁かれ、数日後処刑、梟首された。梟首された際の写真は全国の県庁に掲示された。これは、司法卿としての江藤が禁じたはずの刑罰だった。その後、江藤系の人物はことごとく司法省を追われた。

 江藤新平は「人民の権利を守り、弱き民のために改革する」精神をもって近代的な法体系の導入や、地代、家賃の値下げ、問屋仲買の独占の廃止など民衆の要求を反映した近代化政策を推進した。こうした考え方のもとに、彼は身内の西南雄藩の出身政治家・官僚たちにも厳しくメスを入れた。山県有朋、井上馨の二人の汚職事件を糾明、彼らを辞職に追い込んだのも彼だ。裏表のない彼の性格が“裏目”に出た。新政府の中には汚職に狎れた官僚も少なくなかったから、厳しすぎる江藤のやり方が反感を招いた部分もあったに違いない。

(参考資料)司馬遼太郎「歳月」

大原幽学・・・農村改革運動を指導したが、幕府から嫌疑受け失意の自殺

 大原幽学は天保・嘉永・安政期の混乱した世相の中、下総国香取郡長部村(現在の千葉県旭市)を拠点に、房総の各地をはじめ信州上田などで農民の教化と農村改革運動を指導し、大きな事績を挙げた人物だ。1838年、世界で初めて「先祖株組合」という農業協同組合を創設したほか、道徳と経済の調和を基本とした性楽(せいがく)を説き、農民や医師、商家の経営を実践、指導した。

しかし、急激な性学運動の発展と、農民が一村を越えて労働と学習を共にしたことが、幕府の怪しむところとなり、不幸にも幽学は幕府の取り調べを受けた末、理不尽にも有罪となり、失意のうちに自殺、62歳の生涯を閉じた。幽学の生没年は1797(寛政9)~1858年(安政5年)。

 大原幽学の出自は定かではない。ただ、武士階級の出身だったことは間違いないとみられ、尾張藩の重臣、大道寺直方の次男として生まれたとの説もある。18歳のとき、故あって勘当され、関西・四国を長く放浪していたという。1831年(天保2年)、房総を訪れ「性学」という、儒学を基礎とする独自の実践道徳を講ずるようになり、門人を各地に増やしていった。

性学とは、欲に負けず、人間の本性に従って生きる道を見つけ出そうとする学問のこと。門人は道友(どういう)と呼ばれ、長部村に招かれ腰を落ち着けた幽学は、性学道友の農民を指導。農村の再興を図り、農民が協力し合って自活できるように、各種の実践仕法を行って成果を挙げた。

 農村の立て直しおよび組織化に貢献したのが「先祖株組合」だ。これは、今日の信用組合のようなものの前身と考えていいものだが、しかしその根本的な考え方は家族制度を維持するための預金とその運用にあった。そして、さらにいえば、それは家を中心にしているだけに、団結の強いものだった。これに集まる人々は、次のような誓約を交わしていた。

<連中誓約之事>
一.博打
一.不義密通
一.賭 諸勝負
一.職業二種
一.女郎買
一.強慾
一.謀計
一.大酒
一.訴訟発頭
一.狂言或は手躍、浄瑠璃、長唄、三味線之類、人の心の浮かるる所作

 かくの如く誓約致すの上は、私共若し右体無道の行ひ仕る事之れあるに於ては、何程厳敷(きびしく)御誡(おいさめ)下され候とも、御受け申し、急度相慎み申すべく候、万一其の御誡を相背(そむ)くに於ては、道友衆中より破門なされ候共、聊(いささ)かも御怨み申すまじく候
-というのだ。このような誓約を持っている組合は強い。

 幽学は「先祖株組合」の創設のほかに農業技術の指導、耕地管理、質素倹約の奨励、博打の禁止など農民生活のあらゆる面を指導した。「改心楼」という教導所も建設された。1848年(嘉永元年)、長部村の領主清水氏は長部村の復興を賞賛し、領内の村々の模範とすべきことを触れている。

 しかし、門人の急増、教導所「改心楼」の建設などが「関東取締出役」の嫌疑を受け、不幸なことに幽学は幕府評定所の取り調べを受けることになる。評定所の役人たちはなかなか判断が下せず、幽学の罪を断ずるのに7年余りもの歳月を費やしてしまった。

その結果、1857年(安政4年)、幕府の判決が下り、理不尽にも彼は「百日押込(おしこめ)」の刑を申し渡され、江戸にて謹慎の身となる。改心楼は取り壊し、先祖株組合の解散も決まった。翌年、刑期を終えて長部村に帰村した幽学は、失意のうちに村の共同墓地で、古式の通りに腹を切って喉を突き、見事な最期を遂げた。

 主な著作に「微味幽玄考」「性学趣意」などがある。
(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、童門冬二「私塾の研究」

大江広元・・・中年になって下級貴族から鎌倉幕府の高級官吏職に転職

 中年になってからの転職にはかなり勇気がいる。新しい職場が設立間もないところであればなおさらだ。平安時代末期から鎌倉時代初期、大江広元はこの転職を見事にやってのけた。広元は、初めは朝廷に仕える下級貴族だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所・初代別当を務め、幕府創設に貢献したのだ。大江広元の生没年は1148(久安4)~1225年(嘉禄元年)。

 大江広元の出自は諸説あり、その詳細は分からない。『江氏家譜』では藤原光能の息子で母の再婚相手、中原広季のもとで養育されたという。しかし、『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原氏系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。

 中原氏にしろ、大江氏にしろ、代々実務官僚を務める学問の家で、彼もかなり学識はあったとみられる。しかし、彼の生まれた平安末期は、現代と違って学歴はあまり役立たない世界だった。学歴よりも毛並み・家格-つまり、いい家柄の息子でなければ出世できないというしくみになっていた。いってみれば、広元は仕事はできる、頭もいい。官僚機構の裏表に通じていながら、行き止まりは見えているという感じの人生だった。

 ところが、1180年(治承4年)、一大変革が起こった。源頼朝が伊豆で旗揚げし、鎌倉に本拠を構えたのだ。以来、日本には公家政権と武家政権が重なり合って存在することになる。だが、このできたての鎌倉政権は荒くれの坂東武者ばかりで、行政、外交の能力は全く不足していた。そして、このときスカウトされて東国に下り、行政機関の責任者として迎えられたのが広元だったのだ。

 話は相前後するが、その経緯をみるとこうだ。広元の兄、中原親能は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。1183年(寿永2年)、源義経の軍勢とともに上洛し、1184年(元暦元年)、再度入京して頼朝の代官として万事を奉行、貴族との交渉で活躍した。その兄、親能の縁で1184年に広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、公文所の別当となった。広元が36歳ごろのことだ。冒頭に述べた、中年官僚の転職がこれだ。

 さらに、頼朝が二品右大将となり、公文所を改めて政所としてからは、広元はその別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与した。彼はまさに鎌倉の“知恵袋”となったのだ。なにしろ長年の下積み生活で、京都の公家政権の弱味は知り尽くしている。勘どころの押さえ方には狂いがないのは当たり前だ。『吾妻鏡』の1185年(文治元年)の条(くだり)によると、頼朝が史上有名な「守護・地頭」を設置したのも大江広元の献策によるものだという。

 1199年(正治元年)の頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与した。「承久の乱」(1221年)の際は、嫡男、大江親広が官軍についたため、親子相克する事態となった。武家の出なら割り切るところだが、下級貴族の出の親子だけに思い悩む場面だ。しかし、老境に入った広元に迷いはなかった。この戦いはある意味では、後鳥羽上皇と広元との戦いでもあったが、かつての中級官僚は、旧体制を向こうに回して堂々としていた。『吾妻鏡』は広元の対応を高く評価し伝えている。広元はあくまで鎌倉方に立って、主戦論を唱えた北条政子に協調。朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して、幕府軍を勝利に導いた功労者の一人と記している。

 大江広元は、朝廷の中級官僚から、相対する鎌倉幕府の征夷大将軍の側近への転職を見事にやってのけたのだ。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人史」

沖田総司 ・・・激務の新選組・一番隊を率い、冷徹で惨殺者の顔も

沖田総司は天然理心流の近藤勇(後の新選組局長)が主宰する近藤道場・試衛館で剣技を磨き、10代で免許皆伝に達するほど、剣では天才的な人物だった。しかし、性格的には優しいイメージで語られることが多く、しかも労咳(結核)を患い、わずか20数歳という短い、幸薄い人生だったのではないかと考えられている。だが沖田には、新選組の一番隊を率いて活躍した男の冷徹で、斬殺者としての“顔”があったことも事実だ。果たして、沖田総司の実像とは?

沖田総司房良(おきたそうじかねよし)は、陸奥白河藩士、沖田勝次郎(足軽頭)の長男として武蔵国江戸(東京都)で生まれた。幼名は沖田惣次郎、藤原春政(ふじわらのしゅんせい)。容姿は背が高く、浅黒い方でヒラメ顔。少し猫背だったといわれているが、写真が残っていないので何ともいえない。声は細く、甲高かったといわれている。生没年は1842(天保13)~1868年(慶応4年)。ただ生年には天保15年説もあり、定かではない。

沖田は8、9歳のとき江戸市谷にあった、近藤周助(近藤勇の義父)が主宰する天然理心流の近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。剣の資質に恵まれていたのだろう、剣技は天才的で19歳のとき免許皆伝に達し、1861年(文久元年)には試衛館の塾頭を務めている。優しいイメージのある沖田だが、剣を教えるときは、人が変わったようにとても乱暴で、門弟たちからは近藤よりも恐れられていたという。

沖田の剣の得意技は「突き」で、彼が使う技は必ず「三段突き」だった。この三段突きの三本仕掛けが、一本にしか聞こえないほどの速さだったというのは有名な話だ。このことからも沖田が“無類の天才剣士”と呼ばれた一端がうかがわれる。
浪士組、新選組への参加は自分の意志だったのかどうか、近藤勇、土方歳三など試衛館のメンバーと行動をともにしたに過ぎないのか?はっきりしていることは、剣の師であった近藤勇を慕っていたことで、それが動機の一つだったことは間違いないだろう。新選組時代の沖田は副長助勤から一番隊長と撃剣師範を兼任。一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争うほど多くの人を斬ったといわれる。

池田屋事件では討幕派数人を斬り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れたとされているが、その後も活躍していることから、このとき本当に肺結核を発症したのかどうか、確実なことは分からない。ただ、1867年(慶応3年)の終わり頃には病状が悪化、沖田が第一線で活躍することがなくなった。したがって、鳥羽・伏見の戦いには参加できず、鳥羽・伏見の敗戦後、隊士とともに海路江戸へ戻り、以後は新選組と親交のあった、幕府御典医を務めた松本良順により、千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養生活に入ったとされている。

1868年(慶応4年)、沖田は一カ月前の近藤勇の処刑を知らされぬまま、一人で逝った。というのは、周囲の者は近藤の死に関しては固く口止めされていたからだ。そのため、沖田は死ぬ間際まで師の近藤の安否を気遣っていたと伝えられている。
沖田は一般に新選組の副長、土方歳三とは兄弟のような関係だったかのように思われているが、これは司馬遼太郎、子母澤寛の創作(小説)によるところが大きく、現実は違う。

(参考資料)三好徹「沖田総司」、司馬遼太郎「燃えよ剣」

大久保長安・・・家康に“忠”ではなく“能力”で仕えたが死後、晒し首に

 大久保長安は自己の能力を信じて行動した合理主義者で、武田氏、徳川氏に仕え、一時は徳川家康のブレーンとなり、日本の金銀を次々と掘り出し、家康に膨大な富をもたらした。ところが、長安は家康に使い捨てられただけでなく、死後、死体に刑を加えられ、遺児7人は全員処刑され、財産も没収されるという憂き目に遭った。生没年は1545(天文14)~1613年(慶長18年)。

 大久保長安は、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれた。長安の祖父は大和国春日神社で奉仕する猿楽(現在の能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。ただ、長安の両親については不明な点が多く、一説には秦氏の子孫だったともいわれ、確かなことは分からない。

 長安は甲斐の武田信玄に仕えたが、それは猿楽師としてではなく、建築、採鉱、道路づくり、税務などの技術を一身に備えていたからだという。武田家が勝頼の代で滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになった。当時は「忠臣は二君に仕えるものではない」という考え方が厳然としてあったが、長安は自分は能力で武田家に仕えていたので、決して忠などという感覚で仕えていたのではない。家康に対しても「知識」と「技術」でお仕えするのだ-と割り切っていた。

 長安は組織づくりの名手だった。その組織も目的ごとに適した人材を集め、目的が実現されると解体してしまうソフトなつくり方をした。現代でいうプロジェクトチームだ。家康から命ぜられた仕事を完成すると、彼は非情にもその組織を潰した。同時に彼もまた未練なく次の任地へとぶ。そしてそこでまた、新しいプロジェクトチームをつくるのだ。

 長安の様々な功績の中で、とりわけ家康を狂喜させたのは、彼が日本の各地から金や銀を掘り出して家康に献じたことだった。石見国(島根県)の銀山、伊豆の金・銀山、そして佐渡の金・銀山の発掘は有名だ。彼は鉱山を発見すると、すぐプロジェクトチームを組んだ。それも極力、牢人(浪人)を採用した。能力主義に徹した。彼の採掘法は、日本の旧来のたて穴掘りをよこ穴掘りに変え、鉱石の洗浄、蒸留の方法に特別な手法を施す、外国の宣教師から学んだアマルガム法を採用していた。

この新技法を駆使し、プロジェクトチームで仕事を進める長安は、どこに行っても仕事を楽しくした。チーム員の給与や待遇を破格なものにし、生活を豊かなものにするために諸国から各種商人を呼んだ。遊女屋も盛んにした。長安は生涯、一つの土地にしがみつかなかったし、精神面でもしがみつきを嫌った。彼にとって永遠とか絶対というものは存在しなかった。こんな生き方は特異なものだった。それだけに、組織型人間からは疎まれ、やがて排除されることになる。官僚組織は統制に服さないものを憎む。憎むだけでなく、潰しにかかる。

 ただ、なぜか長安は生きているうちは攻撃を受けず、死んだ後、大弾圧をうける。生前、長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたという嫌疑をかけられたのだ。その結果、長安の7人の男児は全員処刑され、親交のあった大名、旗本も連座して改易などの憂き目に遭った。長安に大久保の姓を与えた大久保忠隣(ただちか)らも失脚した。そして、処分はこれだけでは済まなかった。家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して、晒し首にしているのだ。

 近年では、長安の不正蓄財疑惑は冤罪で、当時幕府内で権勢を誇っていた本多正信・正純父子の陰謀説とみるのが有力だ。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」

荻原重秀・・・慶長金銀の改鋳で悪評生むが、経済通で日本初の財務官僚

 荻原重秀は出自こそ卑しかったが、大変な経済通で、恐らく日本で最初の政策官僚と呼ぶにふさわしい人物だった。とくに五代将軍徳川綱吉の後期に行われた通貨改革では、彼の発議と責任で「慶長金銀」の改鋳が行われ、後に悪評を生む原因となった半面、その高い見識と才能が遺憾なく発揮された。

 荻原重秀は荻原十助種重の二男で、父ももちろん勘定所の下役だった。重秀は1674年(延宝2年)、勘定所に出仕するようになり、150俵の給米をもらっている。1677年(延宝5年)、幕府は畿内一円の大検地を行うが、重秀はこの検地に派遣されて参加。また、1681年(天和元年)失政を問われて改易された、沼田城主真田信利の領地請取役として現地に出張している。こうした実績を積み重ねる中で、勘定方に荻原重秀ありという声は早くから高かったようだ。

 1695年(元禄8年)、幕府はそれまで通用していた「慶長金銀」を改鋳し、それに比べて金で約33%、銀で約20%品位の劣る「元禄金銀」を発行した。これは、荻原重秀の発議と責任で行われたものだが、この改鋳が後に重秀の悪評の原因となっている。というのも、この改鋳は重秀が銀座商人たちから賄賂をもらって行ったもので、幕府自身は出目(改鋳差益金)を稼いで、一時的に財政難をしのぐことができたが、庶民はそのために引き起こされた物価高に苦しんだ-といわれるからだ。実際のところはどうだったのか。

 本論に入る前に、理解を深めるために江戸時代の通貨制度を簡単にみておこう。江戸時代の基本通貨は金・銀・銭の三つだ。金は貴金属の金を主成分とした鋳造貨幣で、両・分・朱による四進法で計算されていた。銀は秤量(ひょうりょう)貨幣で、幕府の認可を得て銀座でつくった銀の塊を、秤で計ってそれを貨幣として使っていた。したがって、重さの単位の貫・匁が、貨幣としての銀の呼称単位に使われていた。銭は普通「寛永通宝」という名で知られている鋳造貨幣で、銅を主成分としており(鉄の場合もある)、貫文(かんもん)単位で計算されていた。

 金・銀・銭の三貨のうち金は主として関東を中心として東国圏で使われ、銀は京・大坂など上方を中心とした西国・裏日本で使われていた。銭は庶民が日常の買い物などに使う小額貨幣だった。この金・銀・銭はそれぞれ独立した通貨で、同一体系に組み込まれた通貨ではなかったため、これら三者の交換を円滑にするため毎日相場が立ち、その比率は絶えず変動していた。幕府は1609年(慶長14年)に金1両=銀50匁=銭4貫文という公定相場を決め、三貨がそのような相場で通用することが望ましいとしている。ただ、この公定相場は荻原重秀によって1700年(元禄13年)に金1両=銀60匁と改訂されている。

 江戸時代の通貨は、金は金座、銀は銀座、銭は銭座の特定の商人たちにその発行を請け負わせるのだ。彼ら鋳造請負人は分一(ぶいち)といって、鋳造高の何分の一といったように、一定の比率で手数料を取り、それが彼らの主たる収入になっていた。したがって、鋳造量が鋳造請負人ら商人の収入の多寡に直結していたことは確かだ。

 さて元禄の改鋳は、物価騰貴を引き起こして、果たして庶民の生活に大きな影響を与えたのだろうか。結論からいえば農民、職人、商人の生活より、厳しい影響を受けた階層があった。武士だ。武士は収入が固定していて増えないうえに、幕府の定めた規定に従って、その家禄に応じた数の家来を私費で養い、また下男・下女を一定数抱えて、家格相応の生活を保っておく義務があった。彼らの労賃が上昇しても、武家には商人・職人のようにそれを他に転嫁するところがなかったため、その被害をもろに受けたのだ。

 いずれにしても元禄の改鋳を終えた荻原重秀は、その功績もあって1696年、勘定奉行に栄進、2000石に加増され従五位下近江守に叙せられた。わずか150俵の給米取りの勘定方の下僚から出発した者としては破格の出世だった。

しかし、将軍綱吉が死亡、六代将軍家宣の代になると、事情が少し変わってくる。家宣は重秀の才能を認めていたが、執拗な重秀罷免運動に動く人物が出てきた。新井白石だ。重秀が行った銀の一方的な品位の切り下げは、上方に本拠を置く日本の巨大資本には我慢ならないことだった。そして、恐らくその意向(利害)を代弁したのが新井白石だったと思われる。1712年(正徳2年)、遂に重秀はその座を追われ、翌年死亡している。獄中で自殺したとも、殺されたとも、諸説あって定かではない。

(参考資料)堺屋太一「峠から日本が見える」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

第十三回 貝原益軒・・・ 『養生訓』は幸福な長寿を楽しむ人の大きな指標

 実証医学の祖といわれる貝原益軒。彼が今から300年ほど前、死の前年、実に84歳で書き著した『養生訓』は、高齢者問題が重大となってきた今日、幸福な長寿を楽しもうとする人々にとって、大きな指標となっている。

 『養生訓』には飲食物の食べ方、飲み方、体のいろいろな器官の働き、住まいや衣料のあり方、排泄から入浴の注意、病時の心得、医者の選び方、薬の飲み方、鍼灸の用い方から、高齢者や幼児の養い方に至るまで-今日でいう予防医学を内容として、心と体の安定法を懇切丁寧に説いている。

 とくに老年にある人の健康法として『養生訓』の多くの部分は、今日も役立つ。何よりも精神の平静を保つことに心がけること、日々楽しみを見つけて生きること、日常の起居に激動を避けながらも、体を動かすように努めること、大食しないこと、食事を淡白にすること、熱い湯には入らぬこと、少量の酒をたしなむこと、病気になってもいきなり薬をのまないこと-などは、多くの高齢者にあてはまる。

 益軒が『養生訓』を著した当時は、体は精神の奴隷みたいなもので、心さえしっかりしていればいいなどという考え方が横行した時代だ。そんな時代に益軒は一人の人間の命は大事である。絶対にこれが人間社会の基本である-といったわけだ。体を精神と同じレベルに持っていく。そして精神と体を一つにした、一人の人間の持って生まれた体を大事にして、どこまでも健康で長生きしていく。そして本当の幸福な老後というか、一生を送らなければならないという。益軒は人生の楽しみとして、健康と長生きと、人に気を使ったりしないで自由に生きること、この三つを挙げている。これが、いろいろな項目に分かれてかかれているのが『養生訓』なのだ。

 貝原益軒は江戸時代の本草学者、儒学者。筑前国(現在の福岡県)の福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれた。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。生没年は1630(寛永7年)~1714年(正徳4年)。

 福岡藩に仕えたが、二代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送る。三代藩主光之に赦される。藩費による京都留学で本草学や朱子学などを学ぶ。この頃、木下順庵、山崎闇斎、松永尺五らと交友を深める。帰藩後、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂した。

 益軒は幼少の頃から読書家で、非常に博識だった。ただし、書物だけにとらわれず、自分の足で歩き、目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っていた。
 70歳で役を退き、著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』『和俗童子訓』『五常訓』。思想書の『大擬録』。紀行文には『和州巡覧記』がある。
 
(参考資料)貝原益軒/松田道雄訳「養生訓、」杉靖三郎「日本史探訪/国学と洋学」

清河八郎・・・傲慢な性格が権謀術数に頼らせ、志半ばで死を招く

 清河八郎の元の名は斎藤元司だ。生国の出羽国庄内藩領清川村(現在の山形県東田川郡庄内町)に因んで、清河八郎を名乗ったのだ。同じように生国に因んで名乗った雲井龍雄とともに、東北から出た維新前夜の傑物だった。清河八郎の生没年は1830(天保元)~1863年(文久3年)。
 清河八郎は出羽国庄内藩領清川村の郷士の斎藤豪寿の子として生まれた。幼名は元司。諱は正明、本名は斎藤正明。贈正四位。

 1843年(天保14年)、八郎は清川関所役人の畑田安右衛門に師事し、勉学に勤しんだ。14歳のときのことだ。1846年(弘化3年)には後の天誅組総裁、藤本鉄石と会い親交を深めた。1847年(弘化4年)、18歳のとき江戸に出て古学派の東条一堂に師事。才を認められて東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞。安積艮斎の塾へ、転塾。その傍ら、北辰一刀流の開祖、千葉周作の玄武館で剣を磨き、免許皆伝を得、江戸幕府の学問所、昌平○でも学んだ。その後、1854年(安政元年)、当時ここだけという、学問と剣術を一人で教える、清河塾を開設した。

 話は前後するが、清河八郎は1848年(嘉永1年)、東海道から京都・大坂を経て山陽地方を歩き、1851年(嘉永3年)には北陸路から中国・九州、1854年(嘉永6年)には奥州から蝦夷地を経て、常野房総の各地を遊歴。1861年(文久1年)には京都から九州、土佐にかけて遊説したのだ。この間における各地の地理的風俗の見聞や志士たちとの交際によって、彼が風雲児といわれるまでの骨格が形成されたとみられる。

 八郎が交わった人物の一部をみると、江戸では幕末の三舟で知られた山岡鉄舟、高橋泥舟、大和天誅組の安積五郎、京都では寺田屋事件の田中河内介、九州では熊本の河上彦斎、松村大成、筑前の平野国臣、筑後久留米の真木和泉守、薩摩の伊牟田尚平、越後の本間精一郎、土佐では間崎哲馬ら、ひとくせある人物ばかりだった。

 万延年間、時勢が切迫し清河八郎の塾を訪れる諸藩の志士たちとの往来が激しくなり、八郎のもとで同志が会合することも多く、その行動について幕府からも目を付けられていた。そして、偶然にも八郎が町人を無礼討ちにしたことから、幕府の捕縛の手がのびてくる結果になった。遂に八郎は公儀のお尋ね者となってしまった。

 幕吏の手が回ったのを知ると、清河八郎はすぐに山岡鉄舟、高橋泥舟の力添えで東北から越後、甲州路を経て京都に入り、志士たちの「伏見の挙兵」計画に参加し九州路への遊説に向かった薩摩の島津久光を擁して大芝居を打とうという計画だったが、「寺田屋騒動」が起こり、失敗に終わった。そこで、東国に引き返し、まもなく組み立てたのが幕府を煽り、「浪士組」を募集するという策だ。
 ひょうたんから駒ではないが、尊皇攘夷の志士に手を焼いていた幕府は、八郎が上申した策を採用し、「浪士組」募集が聞き届けられるとともに、八郎は自由の身となったのだ。ところが、予想外のことが起こった。ひとまず50名だけ尊王攘夷の浪士を募り京都へ上らせようという計画に対し、234人もの応募があり、幕府も面食らった。幕府の予算は1人宛に50両、50人で2500両ということだった。そのために予算面で大きな狂いが出てしまった。

しかし、1863年(文久3年)、ひとまず将軍(十四代将軍徳川家茂)上洛の前衛警護の目的で、八郎は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め、本当の目的は将軍警護ではなく、尊王攘夷の先鋒にあると説いた。これに反対したのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らだった。彼らは八郎と袂を分かち、壬生浪士となり、後に、新選組へと発展していった。近藤らを除く200名の手勢を得た八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て、幸運にも受理された。

 こうした浪士組の動静に不安を抱いた幕府は、浪士組を江戸へ呼び戻す。八郎は江戸に戻った後、浪士組を動かそうとするが、京都で幕府と対立していたため、狙われていた。彼は幕府側の意を体した刺客、佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名によって、麻布一ノ橋で討たれ首を斬られた。北辰一刀流、千葉周作道場の免許皆伝の腕前も、覚悟を決めた6人を相手にしては敵わなかった。享年34。
 幕末~維新にかけて、浪人志士には様々な人物がいた。だが、いずれも薩摩や長州など大藩の力を借りて志を述べている。そうするより他はなかったのだ。例えば真木和泉は長州藩を頼り、坂本龍馬は薩摩と長州の両藩を頼り、平野国臣は薩摩藩を頼っている。ただ一人、ここに取り上げた清河八郎だけが、どこの藩にも頼らない。ほんのしばらく薩摩藩に頼ろうとしたが、すぐやめている。彼は傲慢に過ぎたのだ。頭を下げることが嫌だったのだ。権勢に対する飢餓感がありながらだ。よほど傲慢だったと言わざるを得ない。

 あの時代、強力な背景なしに、志を述べようとすれば、勢い権謀術数に頼らざるを得ない。しかし、大きなバックボーンを持てない清河八郎は、そのために人の警戒心を呼び、思惑通りに事が運ばず、志を成就することなく死んだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、藤沢周平「回天の門」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「幕末」

後藤象二郎 幕府に大政奉還を建白した功績大だが、尻すぼみの人生

 後藤象二郎は幕末、土佐藩前藩主・山内容堂の信任を受けて、坂本龍馬が立案した新国家構想「船中八策」をもとに1867年10月3日、「大政奉還」を幕府に建白、土佐藩の存在感を示した。当時は薩長両藩が武力倒幕を画策しており、龍馬が考え出した、血を見ずに革命を実現させる大政奉還は、薩長両藩を出し抜く、まさに妙案だった。将軍慶喜は同年10月13日、諸藩の重臣に大政奉還を諮問、翌日朝廷に奏上し、ここに徳川幕府による政治が終わりを告げたのだ。

ここに取り上げる後藤象二郎は、その新しい歴史の一ページを開く突破口をつくったわけだ。
 後藤象二郎は土佐藩の上士、馬廻格・後藤助右衛門(150石)の長男として、高知城下片町に生まれた。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、幼名・保弥太、のち良輔。雅号は暢谷。幼いときに父と死別、少年期に叔父(姉婿)の吉田東洋に養育され、その小林塾で学んだ。後藤の生没年は1838(天保9)~1897年(明治30年)。

 1858年(安政5年)、後藤は東洋の推挙により、幡多郡奉行、1861年(文久元年)には御近習目付、その後は普請奉行として活躍する。ところが、出世の道筋をつけてくれた東洋が、土佐勤王党に暗殺されると失脚。しかし1863年(文久3年)、藩政に復帰し、前藩主・山内容堂の信頼を得るとともに、江戸の開成所で蘭学や航海術、英学も学んだ。1864年(元治元年)、大監察に就任した。こうして後藤は、公武合体派の急先鋒として、土佐勤王党の盟主、武市半平太(武市瑞山)らを切腹させるなど、土佐勤王党を弾圧した。
 1867年(慶応3年)、政治姿勢を攘夷論に転換。尊皇派の坂本龍馬と会談し、龍馬の提案とされる「船中八策」に基づき、第十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還を提議。これを山内容堂にまで上げ土佐藩の藩論とし、あの歴史的役割を演じることになるのだ。

 後藤の生涯を語るとき、やはり一際、異彩を放っているのがこの時期だ。この時期の土佐藩や国政に関わった功績だ。後藤が龍馬の大政奉還策を容堂に進言し、藩論として仕上げ、大政奉還の実現に寄与したことは紛れもない事実だ。ただ、彼はこの大政奉還策が龍馬の発案である旨を述べなかったことから、龍馬の功績を横取りしたという汚名を被っている部分もある。

しかし、後藤の立場に立って考えると、度し難い身分格差のある土佐藩にあって、下士出身で、脱藩罪まで犯している龍馬より、上士の自分の名で提議した方が、容堂も取り上げ、この策を実現しやすいと考えたのではないか。とすると、後藤が龍馬や容堂、慶喜のパイプ役を担って、明治維新への原動力となった点を考慮すれば、十分評価に値する。
 後藤は維新後、政府に入り参与・外務掛・工部大輔・参議を歴任するが、征韓論をめぐる政変で西郷隆盛、板垣退助らとともに退官。翌年、板垣と民選議院設立を建白し、憲政史上に一期を画した。その後、黒田清隆内閣、第一次山県有朋内閣、第一次松方正義内閣で第二代逓信大臣を、そして1892年、第二次伊藤博文内閣で第十代農商務大臣を務めた際に、取引所設置問題に不正ありとされ、弾劾された。

以降は再起の機会に恵まれなかった。自由民権運動や実業界へ転身しても、幕末期のあの“輝き”は完全に失ってしまっているのだ。とにかく活動に一貫性がない。とくに自由民権運動では政府の買収に応じるなど、自由民権運動の活動家を何度も失望させ、彼の評価を下げる一因となっている。
奈良本辰也氏は後藤について、終始策士としてあり続けた男で、生涯を通じて醜聞がつきまとい、第一級の政治家として終わりを全うすることはできなかった。凄腕、切れ者の評価は勝ち得たけれど、大看板にはなれなかった-としている。

もちろん、後藤に限らず維新の元勲たちに中にはカネにルーズで、ダーティなイメージの持たれている人物も少なくない。だが、彼が維新後、岩崎弥太郎への利益供与と同等の、不明朗な仕置きなどを含め、そうした部分を差し引いても特筆される事績を残せなかったからなのか、いわゆる“尻すぼみ”の印象は拭えない。このため維新の元勲の中では知名度も低く、評価も高くない。徳川慶喜に大政奉還を建白したときのあの“熱”や“覇気”はどこへいったのか。惜しい気がする。

(参考資料)奈良本辰也「日本史の参謀たち」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、豊田穣「西郷従道」