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私説 小倉百人一首 No.28 源宗干朝臣

源宗干朝臣

山里は冬ぞさびしさまさりける
       人目も草もかれぬとおもへば

【歌の背景】冬の山里を詠んだもの。春、夏、秋は草木や花の彩りもあり、都から離れて一人でいても自然の慰めを楽しむこともできる。しかし、冬になると人の往来もなくなり、山野の姿も灰色に塗り込められ、いわば寂寥の世界となる。そんな冬の山里の寂しさを歌った。

【歌 意】山里はどの季節でも寂しいけれど、冬は殊更に寂しさを増す。春、夏、秋は草木や花、もみぢなどそれなりに愉しみもあり、人も行き来する。しかし、冬になると人の姿もだんだん少なくなり草木も枯れてしまうので。

【作者のプロフィル】光孝天皇第一皇子の一品式部卿是忠親王の子。一説に仁明天皇の御子本康親王の御子ともいう。寛平6年源姓を賜った。官途では恵まれず、没年に正四位下に進んだのみ。朱雀天皇の承平3年に右京大夫になった。天慶2年(939)に没。

私説 小倉百人一首 No.29 凡河内躬恒

凡河内躬恒
※父祖は不明。

心あてに折らばや折らむ初霜の
       置きまどはせるしら菊の花

【歌の背景】初霜が降りた晩秋の白菊の花を詠んだもの。正岡子規が『歌よみに与うる書』で酷評して以来、評価がた落ちの一首。

【歌 意】白菊を折ろうかと思うのだが、何とか見当をつけて折るほかない。思いがけず早い初霜が一面に降りて、その白さでどれが花だか霜だかわからなくなってしまった。

【作者のプロフィル】父祖は不明。家柄はよくなく、貧乏でもあったが、歌が上手だったので、寛平年間に甲斐少目となり醍醐天皇に召され、御所所に出仕し丹波権目、淡路権掾を経て、和泉大掾になり六位を授けられた。寛平・延喜の古今集時代に活躍したが、生没年ともわからない。「古今集」の撰者に加えられており、歌人としては他の撰者と同列にあったが、歌学者としては貫之に一歩譲っていた。

私説 小倉百人一首 No.30 壬生忠岑

壬生忠岑

有明のつれなく見えしわかれより
       あかつきばかり憂きものはなし

【歌の背景】当時の男女は、男が宵に女の家に行き、一夜を過ごして翌朝に帰ってくるというものだった。後朝(きぬぎぬ)の別れのとき、女がいかにも冷淡によそよそしくしていた。つらい思いで帰ろうとして暁の空を見ると、そこには有明の月が残っていたが、その光がいかにも白々しく、すげなく思われた。それ以来、暁になるとそのことが思い出されてたまらなくつらい気持ちになる。そんな気持ちを詠んだもの。

【歌 意】夜明けにまだ残っている有明月のように、私の思いはまだ残っているのに、あなたは前夜のことを忘れたかのように冷たかった。あれ以来、私にとって暁ほどつらいものはない。

【作者のプロフィル】安綱の子、忠見の父とされるが、壬生氏についてはよくわからない。古代の皇族の養育に関わった乳部(みぶ)に通じるのか?生没年についても不明。右衛門府生、御厨子所預などを経て、六位摂津権大目になった。身分は低かったが、躬恒と同様、和歌が上手だったので「古今集」の撰者になった。陽成・光孝・宇多・醍醐の四朝に仕えた。

私説 小倉百人一首 No.31 坂上是則

坂上是則
※坂上田村麻呂から4代目の好蔭の子。

あさぼらけ有明の月と見るまでに
       吉野の里に降れるしらゆき

【歌の背景】是則が大和の吉野へ旅して、旅寝の朝見た、有明の月の光と見まごうばかりの雪が真っ白に降った朝の感動を歌ったもの。

【歌 意】夜明けごろ、有明の月が出て照らしているのではないかと思ったら、吉野の里に降り積もった白雪ではないか。本当に真っ白で美しいなあ。

【作者のプロフィル】征夷大将軍坂上田村麻呂から四代目の好蔭の子。坂上氏の先祖は応神天皇の時にに帰化した後漢の霊帝の曾孫阿知使主だという。延喜8年大和権少掾になり、21年大内記、延長2年(924)正月、従五位下加賀介になり、醍醐・朱雀両天皇に仕えた。没年不明。

私説 小倉百人一首 No.32 春道列樹

春道列樹

山かはに風のかけたるしがらみは
       流れもあへぬもみぢなりけり

【歌の背景】山城国から如意岳を越えて近江国の志賀山を行くと晩秋のもみぢが美しい。山路一面に、そして山中を流れる谷川には流れようとして流れられないほどのもみぢを浮かべている。その様子をまるでしがらみのようだと歌ったもの。 

【歌 意】志賀越えの山道から見ると、谷川の激しい流れをせき止めて、おびただしいもみぢがたまっている。あれは(志賀越えの名に因み)人ならぬ風がかけたもみぢのしがらみだ。

【作者のプロフィル】従五位下歌の雅楽頭だった新名宿禰の子。延喜10年(910)文章生に補せられ、のち太宰大典、延喜20年(920)に壱岐守に任ぜられたが、任地に向かう前に没したという。

私説 小倉百人一首 No.33 紀友則

紀友則
※紀 有友の子。貫之とはいとこの関係。

ひさかたの光のどけき春の日に
       しづ心なく花の散るらむ

【歌の背景】春、そして花を詠んだ定番ともいえる名歌。古今和歌集中の秀作で、平安朝の代表作として愛される。

【歌意】うららかな日の光が射している春の日に、どうしてこんなに慌しく桜の花は散るのであろうか。

【作者のプロフィル】紀有友の子。貫之とはいとこの関係。紀氏は名族だが、友則の官歴は不遇であった。延喜4年(904)に大内記となったのが記録に残る最後の官職。翌年61歳でなくなったとみられる。

私説 小倉百人一首 No.34 藤原興風

藤原興風

たれをかも知るひとにせむ高砂の
       松もむかしの友ならなくに

【歌の背景】高砂の松を自分と同じように老いて孤独の身と見立て、彼となら友になれるかと訪ねてみたが、松は人間ではない。また昔からの知己でもない。一体誰を友とすればいいのだろうと、老年の寂しさを歌ったもの。

【歌 意】かつて親しく交わった友人たちはみんな死んで、私一人が老いて孤独に残っている。さてこれからは一体誰を自分の友としようか。あの高砂の松なら友になってくれるかと訪ねてみたが、もともと人間ではないし、昔からの知己でもない。今さら、それを友だちにするわけにもいかないのだ。

【作者のプロフィル】参議浜成の曾孫。正六位相模掾道成の子。院の藤太と号した。昌泰3年、相模掾になり、従五位下を授けられた。官位は低かったが、歌人として名を得た。管弦も巧みで、とくに琴をよくした。没年不明

私説 小倉百人一首 No.35 紀貫之

紀貫之

ひとはいさ心も知らずふるさとは
       花ぞむかしの香ににほひける

【歌の背景】貫之が奈良の長谷の観音に参るたびに定宿にしていたところへ、しばらくぶりに行くと、その宿の主人が「このようにちゃんと宿はございますのに、本当にしばらくぶり(お見えになりませんでした)ですね」と皮肉を込めて言った。そこで彼は、そこの梅の花を一枝折り取って詠んだ歌。宿の詰問に対して即興で詠んだもの。

【歌意】人の心はさあどうであろうか、わからない。しかし昔なじみのこの里の梅の花だけは、昔の通り変わらない香を放って美しく咲いていることだ。
   
【作者のプロフィル】出自は異説が多く不詳。歌人としてはもちろん能書家、評論家として活躍。土佐守として赴任、任期を終えて京に上る途中書いた日記が「土佐日記」。
   醍醐天皇の勅を奉じて、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑らと勅撰和歌集の第一集「古今和歌集」二十巻を撰進。その仮名序を書き、歌人たちを論評した。明治までは万葉集の柿本人麻呂と並ぶ歌人とされた。

私説 小倉百人一首 No.36 清原深養父

清原深養父
※「枕草子」の作者、清少納言の曽祖父。

夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 
       雲のいづこに月やどるらむ

【歌の背景】夏の月は秋の夜長のしみじみした情趣とは違った趣がある。その夏の月に見惚れて思わず夏の短い夜を寝ずに明かしてしまったときの感懐を詠んだもの。

【歌 意】夏の夜は短くて、まだ宵の口だと思って月を眺めているうちに夜が明けてしまって、気が付くと肝心の月は見えなくなってしまっている。いったい雲のどこに宿って隠れているのだろう。

【作者のプロフィル】筑前介海雄の孫で、豊前介房則の子。「枕草子」の作者清少納言の曽祖父。清原元輔の祖父にあたる。延長年間に内蔵大允となった。山城国愛宕の小野の里に補陀落寺を建立して、そこに隠棲した。紀貫之らとも交わりがあった。

私説 小倉百人一首 No.37 文屋朝康

文屋朝康
※文屋康秀の子といわれている。

しらつゆに風の吹きしく秋の野は
       つらぬきとめぬ玉ぞ散りける

【歌の背景】秋の野の草一面の露が風の吹きしきるままに飛び散って、まるで真珠を散らしたように見える。そんな光景を鮮明に詠んでいる。

【歌 意】草一面においた白露に風が吹いている秋の野は、ちょうど糸を通さない水晶の玉が散り乱れているようで、その白露がはらはらと散って美しい。

【作者のプロフィル】文屋康秀の子。「古今集」に先立つ時代の歌合で活躍したようだ。官位も駿河掾を経て大舎人大允で終わった。伝記はあまり確実には分からない。

私説 小倉百人一首 No.38 右 近

右 近
※右近衛少将、藤原季綱のむすめ。

わすらるる身をば思はず誓ひてし
       人のいのちの惜しくもあるかな

【歌の背景】右近が、永遠の愛を誓い合った相手の男が、自分を顧みなくなってからその男に贈った歌。どれだけ愛を誓い合っても、心変わりするのは男の習いである。この点は今も昔も変わらない。それを神かけて誓い合ったのだから、誓いを破った男に神罰が下らぬかと心配しているさまは、素直に解すると捨てられてもなお相手に正面から恨み言を言わず、間接的にしか抗議できない女の哀れさが表現されている。また、もう少し深く読むと、女は男の身勝手を脅し文句スレスレでからかっている歌ともとれる。

【歌意】私はあなたに忘れられる身であったのに、そのことを考えもしないで、いつまでも人の心は変わるまいと神かけて誓っておりました。でも、あなたはその誓いを破ってしまった。そのために(神罰を受けて命を失うのではないかと)あなたの命が惜しまれてなりません。

【作者のプロフィル】右近衛少将藤原季綱のむすめで、醍醐天皇の中宮、七条の后穏子の女官であったので、その女房名として父の位の「右近」を呼び名としていた

私説 小倉百人一首 No.39 参議 等

参議 等
※源 等

浅茅生の小野のしの原しのぶれど
       あまりてなどか人のこひしき

【歌の背景】「古今集」の読み人知らずの「浅茅生の小野の篠原しのぶとも人知るらめや言う人なしに」を本歌としたもの。こらえてもこらえ切れない恋心の切なさを歌っている。

【歌 意】茅がまばらに生えている小野のしの原の“しの”という名のように、恋の思いを心に忍びこらえているけれど、それもこらえ切れず、どうしてこんなにあなたが恋しく思われるのでしょう。

【作者のプロフィル】源等は、嵯峨天皇の皇子大納言弘の孫。中納言源希の次男。近江権少掾を皮切りに、参河守、丹波守、山城守などを歴任、左中弁、右大弁などを経て、天慶元年(938)参議となり、正四位下に叙された。天暦5年(951)72歳で没

私説 小倉百人一首 No.40 平 兼盛

平 兼盛

忍ぶれど色に出でにけりわが恋は
       ものや思ふと人の問ふまで

【歌の背景】忍ぶ恋の歌。恋の思いは人目に隠そうとすればするほど、素振りや顔色にそれが表れて、ついに人に不審に思われる。平安朝時代を代表する秀歌の一つ。

【歌 意】誰にも気付かれないようにと、必死にこらえてきたけれど、とうとう外(顔色・態度など)に出てしまったなあ私の恋は。何か物思いをしているのかと、人が不審に思って(どうしたのかと)尋ねるくらいに。

【作者のプロフィル】光孝天皇の皇子是忠親王の曾孫。太宰少弐篤行の第三子。和歌が上手で漢学に優れ文才があったので、天皇に認められた。天暦4年(950)に平姓を称した。赤染衛門の父ともいわれるが、定かではない。諸国の国司などを経て天元2年駿河守になった。正暦元年(990)12月没。

私説 小倉百人一首 No.41 壬生忠見

壬生忠見
※壬生忠岑の子。

恋すてふ我が名はまだき立ちにけり
       ひと知れずこそ思ひそめしか

【歌の背景】忍ぶ恋の歌。恋するものは、恋の思いを人には知られたくないものだ。密かにあの人を思い染めていたのに、もう私が恋をしているという噂がぱっと広がってしまった-と嘆いている。天皇臨席の歌合で平兼盛の「忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」と競った秀歌。

【歌 意】あの人を恋しているという私の噂は、もう世間に広がってしまった。まだ思う相手の人も気付かぬほど思い染めたばかりの、密かな恋だったのに。

【作者のプロフィル】壬生忠岑の子。幼名多々といい、後に忠美と改め、また忠見と改めた。醍醐天皇の時、蔵人所に召され、また御厨子所に出仕えし、天徳2年(958)摂津大目に任じられた。「古今集」撰者の一人。

私説 小倉百人一首 No.42 清原元輔

清原元輔
※清少納言の父。

契りきなかたみに袖をしぼりつつ
       末の松山浪越さじとは

【歌の背景】元輔がある人に代わって詠んだもの。その人の愛していた女が、心変わりしたので、その女のところへ、昔と変わらぬ愛を誓い合った時のことを言ってやる歌となっている。

【歌 意】あなたと私は固く約束したね。お互いに愛しく思う涙に濡れた袖を絞っては、あの行く末まで待ち続けるという名の末の松山を、波が越すことはありえないように、決して二人の愛はいつまでも変わらないと。

【作者のプロフィル】清原深養父の孫。清少納言の父。醍醐天皇の延喜8年(908)生まれ。天慶5年に河内権掾になり、それ以後、昇進を重ね、天元3年に従五位上になり、寛和2年肥後守になった。代々和歌をもってなった家柄で、「後撰集」を撰進した。永祚2年(990)6月、83歳で没。

私説 小倉百人一首 No.43 中納言敦忠

中納言敦忠
※藤原時平の子。

あひみての後の心にくらぶれば
       むかしはものを思はざりけり

【歌の背景】後朝(きぬぎぬ=夜をともにした男女が翌朝別れること、またその朝のこと)の歌。叶えられた恋によってさらに募る思いの深さを巧みに訴えている。

【歌 意】恋い焦がれて、やっと逢って契りを結んだというのに、別れを惜しんで帰ってきたばかりのこの切ない気持ちはどうしたというのでしょう。今のこの気持ちに比べると、まだ逢わずに恋い慕っていたのは、とても恋のもの思いとはいえないようなものでした。

【作者のプロフィル】藤原時平の子。母は筑前守在原棟梁のむすめ。延喜17年に12歳で昇殿、延長6年従五位上、左兵衛佐になり、昇進して天慶5年権中納言、従三位となった。和歌だけでなく管弦にも優れ、源博雅三位と並び称された。天慶6年(943)3月、38歳で没。

私説 小倉百人一首 No.44 中納言朝忠

中納言朝忠
※藤原朝忠、藤原定方の二男。

逢ふことの絶えてしなくばなかなかに
       人をも身をも恨みざらまし

【歌の背景】恋しく思う相手に逢うばっかりに、かえってつらくなる恋の悩みに、嘆きもだえる気持ちを歌ったもの。

【歌 意】恋しいあの人と逢うということが全くなかったなら、こんなに相手の冷たさを恨んだり、つれなくされる自分の身を嘆くようなこともないのに、たまに逢うばっかりに相手の冷たさを恨みたくなり、自分もつらいことだ。

【作者のプロフィル】三条右大臣藤原定方の五男。母は中納言山蔭のむすめ。延喜9年(909)に生まれた。天暦6年に参議、応和3年に従三位中納言に任ぜられ、土御門中納言と呼ばれた。和漢の書を広く読み、笙の笛にもたくみだった。晩年は中風となり、康保3年(966)57歳で没。

私説 小倉百人一首 No.45 謙徳公

謙徳公
※一条摂政藤原伊尹(これただ)のおくり名。

あはれともいふべき人はおもほえで
         身のいたづらになりぬべきかな

【歌の背景】恋人だった女が、冷たくなり、ついに逢ってくれなくなった。その傷心の気持ちを歌ったもの。百人一首には男の不実をなじり恨む女の歌は多いが、男がこれほど気弱に恋の悲しみを歌っているのは珍しい。

【歌 意】私を「かわいそうに」と悲しんでくれる人があるとは思われないので、私はこの遂げられぬ恋の悩みのために、きっと虚しく死んでしまうことだろうなあ。

【作者のプロフィル】謙徳公は右大臣藤原師輔の長男、一条摂政藤原伊尹のおくり名。母は武蔵守藤原経邦のむすめ。才知があり容貌も美しく、和歌が上手だったので、村上天皇の天慶5年に和歌所の別当となった。天禄元年右大臣となり、同年太政大臣正二位に進んだ。翌3年(972)、49歳で没

私説 小倉百人一首 No.46 曾根好忠

曾根好忠

由良の門を渡る舟人梶を絶え
       ゆくへも知らぬ恋のみちかな

【歌の背景】これからの行き着く先もわからぬ恋路にさまよっている自分の心。そんな心境を、梶の緒が切れて海上を漂う舟に託して歌ったもの。

【歌 意】あの波荒い由良の海峡を漕ぎ渡る舟人が、その舟の梶の緒が切れて波のまにまに漂っていくように、行く先もわからない恋のみちだ。

【作者のプロフィル】生没年とも不詳。10世紀後半、村上天皇から一条天皇ころまでの人と思われる。官位は六位、丹後掾だったことから、貴族たちから曾丹後掾、曾丹後、さらに曾丹とだんだんつづめて呼ばれたので、彼はそのうち「そた」と呼ばれるようになりはしないかと嘆いたという。歌風は題材・用語も自由・清新で豊富だった。ただ、自尊心ばかり強くて奇行も多かったので異端視されていた。

私説 小倉百人一首 No.47 恵慶法師

恵慶法師

八重むぐらしげれる宿の寂しきに
       人こそ見えね秋は来にけり

【歌の背景】かつて風流人、左大臣源融が住んでいた河原院。そこが後に荒廃した。そんな河原院に人々が集まって、荒れた宿に秋が来たという趣向で各自歌を詠んだ時の作品。

【歌 意】雑草が生い茂っている家は、すっかり荒れ果て限りなく寂しい。こんな寂しいところへは人こそ訪れてこないが、それでも秋だけはやってきたことだ。

【作者のプロフィル】出自も生没年も不明。花山天皇の寛和(985~986)ごろの人。貴顕・権門に出入りし、平兼盛、源重之らと交友があったらしい。歌人としても一流で、正統的な作風。

私説 小倉百人一首 No.48 源重之

源重之

風をいたみ岩うつ浪のおのれのみ
       くだけてものを思ふころかな

【歌の背景】激しい片思いの嘆きを詠んだもの。上二句「風をいたみ岩うつ浪の」は次の「おのれのみくだけてものを思ふ」の序。

【歌 意】風が烈しくて岩にぶつかる波が砕け散るように、恋しい人を思って私だけがあれこれ心を砕いてもの思いするこのごろだ。

【作者のプロフィル】清和天皇の皇子貞元親王の孫。父は侍従兼信。おじの参議兼忠の養子となり、康保4年に左近衛権将監となり、累進して貞元元年相模権守となり、藤原実方について陸奥に下った。長保2年(1000)任地で没

私説 小倉百人一首 No.49 大中臣能宣朝臣

大中臣能宣朝臣

御垣守衛士の焚く火の夜は燃え
       昼は消えつつものをこそ思へ

【歌の背景】昼夜を問わず心を焦がす恋心を、衛士の焚く火にことよせて詠んだもの。上二句「御垣守衛士の焚く火」は次の「夜は燃え昼は消えつつ」の序。

【歌 意】内裏の御門を守る衛士の焚く篝火が夜は燃え、昼は消えているように、私はあなたを恋する心に夜は燃え上がり、昼は打ち沈んで消え入るようになって、夜も昼も恋し続けています。

【作者のプロフィル】大中臣氏は元来、藤原氏。神祇を司った。能宣は神祇大副頼基の子。天禄年間に神祇大副に任じられた。坂上望城・源順・紀時文・清原基輔と「後撰集」を撰した。「梨壺の五人」の一人。子の輔親、むすめの伊勢大輔も歌人として有名。正暦2年(991)71歳で没。

私説 小倉百人一首 No.50 藤原義孝

藤原義孝

君がため惜しからざりし命さへ
       長くもがなと思ひけるかな

【歌の背景】朝になって女と別れて帰ってから、女に贈った後朝(きぬぎぬ)の歌。当時は男が女の家に通って一夜を過ごし帰った後、とくに初夜の後には後朝の歌を贈るのが、習慣であり礼儀だった。

【歌 意】今まであなたに逢えるものならこの命を捨てても悔いはないとまで思い込んでいましたが、あなたへの思いを遂げた今はあなたに逢うためにできる限り長く生きたいと思います。

【作者のプロフィル】謙徳公一条摂政伊尹の三男。醍醐天皇皇子代明親王のむすめ、恵子女王の間に生まれた。少年時代から詩才に優れ、なかなかの美男であったうえに、品行方正で信心も深かった。年若くして近衛少将に進んだが、22歳の天延2年(974)天然痘にかかり急死。兄の挙周は朝、義孝は同じ日の夕方に死んだという。子の行成は能書家として有名。

私説 小倉百人一首 No.51 藤原実方朝臣

藤原実方朝臣

かくとだにえやはいぶきのさしもぐさ
       さしも知らじな燃ゆる思ひを

【歌の背景】古来「伊吹山のさしもぐさ」を「恋の思い」に例えて歌にしたものは多く、この歌もその一つ。

【歌 意】私があなたにこんなにも恋い焦がれているとだけでも、打ち明けることができればいいのに、どうして言えましょう(言えません)。だから伊吹山のさしも草の艾(もぐさ)火のように熱く燃える私のこの思いを、あなたはご存知ないでしょうね。  
【作者のプロフィル】貞信公左大臣忠平の曾孫、侍従定時の子。母は左大臣源雅信のむすめ。叔父済時の養子となり、一条天皇に仕え、左近衛中将にまでなった。才気ある歌人として知られたが、宮中で藤原行成と争って粗暴な振る舞いがあり、天皇の怒りに触れて陸奥守におとされた。任地でも乱暴がもとで、長徳4年(998)40歳前後で神罰に当たって落馬して死んだという。

私説 小倉百人一首 No.52 藤原道信朝臣

藤原道信朝臣

明けぬれば暮るるものとは知りながら
       なほ恨めしき朝ぼらけかな

【歌の背景】後朝(きぬぎぬ)の別れが生んだ恋の歌。夜になればまた逢いに来ればいい。それは分かっていても、やはり別れの朝はつらい。そのつらさを詠んだもの。

【歌 意】夜が明けてしまえば、やがてまた日が暮れて夜になる。するとまたあなたに逢える。そういうことは十分分かっているのに、あなたと別れて帰らねばならない夜明けは恨めしいのです。

【作者のプロフィル】右大臣師輔の孫。法住寺太政大臣為光の三男。母は謙徳公一条摂政伊尹のむすめ。藤原兼家の養子となり、従四位上左近中将に至り将来を嘱望されたが、正暦5年(994)23歳という若さで死んだ。

私説 小倉百人一首 No.53 右大将道綱母

右大将道綱母
※「蜻蛉日記」の著者。

なげきつつひとりぬる夜の明くる間は
       いかに久しきものとかは知る

【歌の背景】夫の摂政、藤原兼家が夜、彼女の家に来たとき門を開けるのが遅かったので、そのまま夫は帰ってしまい、いつも通っていると思われる他の女性のところへ行ってしまった。その翌朝、夫のもとへこの歌を送ったという。
 当時の結婚形態は一夫多妻であった。兼家にも多くの女性、愛人がいた。したがって、作者も夫の来訪を夜ごと待たなければならなかった。この歌には浮気な夫に対する恨みごとが見事に歌い込まれている。

【歌意】あなたがおいでにならないのを嘆きながら、自分一人で寝る夜の明け方までの時間は、どんなに長く感じられることか。それをあなたはご存知なのでしょうか。おそらくご存知ないのでしょう。

【作者のプロフィル】この作者の名は不明。藤原倫寧(ともやす)のむすめで、摂政藤原兼家の妻となり右大将道綱を生んだ。わが国日記文学の代表的作品「蜻蛉日記」の筆者であり、美人で賢い女性だった。
 「蜻蛉日記」は21年間の回想記録で、多情な夫に真実の愛を求めて苦しみ、やがて一子道綱への、母としての愛情に生きる道を見出していく王朝女性の苦難が詳しく描かれている。
 「更級日記」の作者、藤原孝標(たかすえ)のむすめは姪にあたる。

私説 小倉百人一首 No.54 儀同三司母(ぎどうさんじのはは)

儀同三司母(ぎどうさんじのはは)
※藤原道隆の妻。

忘れじの行末まではかたければ
       今日をかぎりの命ともがな

【歌の背景】後に関白となった藤原道隆との恋のよろこびが、やっと始まったばかりの頃の歌。一夫多妻の平安朝の女性は、恋愛においては男の来訪をただひたすら待つ弱い立場にあった。だから男性にいったん身を任せたら相手に捨てられまいと日夜心を砕いた。それが、ストレートに恋の“よろこび”を歌わずに、恋の“悲しみ”を歌い込むという、烈しくも痛ましい心情を吐露したものになったと思われる。

【歌意】(あなたは私に対して)「いつまでもあなたを忘れまい」とおっしゃる。でも、あなたはその誓いの言葉を、将来いつまでも忘れないでいてくれるかどうか分からないので、こうして愛されている今日が私の命の最後の日でありたいものです。

【作者のプロフィル】彼女は従二位高階成忠のむすめで、藤原道隆の妻、貴子のこと。「儀同三司」とは「儀」(格式)は三司に同じの意味。「三司」は三公ともいい、太政大臣、左右大臣を示した。子、伊周(これちか)が準大臣だったため、儀同三司の母とは伊周の母の意。
  「大鏡」によると、高内侍(こうのないし)とも呼ばれ、気性のしっかりした聡明な女性で、漢詩文の教養も深かったらしい。

私説 小倉百人一首 No.55 大納言公任

大納言公任
※藤原公任

滝の音は絶えて久しくなりぬれど
       名こそ流れてなほ聞こえけれ

【歌の背景】藤原公任が時の権力者、藤原道長の伴をして嵯峨遊山した折の歌。公任は平安中期の歌壇を支配し、その才能、力量が高く評価されたといわれているが、この歌の内容は平凡。

【歌 意】嵯峨上皇が営まれた嵯峨離宮の、かつては豊かな水量を落としとどろかせた大覚寺の滝はもう涸れてしまったが、その名声は幻の滝音となって今もなお世に鳴り響いている。ならばその名滝を称えるこの歌も名声を得て、後世に伝わってほしいものだ。

【作者のプロフィル】関白太政大臣頼忠の長男。四条大納言と呼ばれた。漢詩・和歌・音楽に優れ、能書家。多彩な人で、とくにその歌論書が有名。「新撰髄脳」、「和歌九品」、「北山抄」などがある。「和漢朗詠集」の撰者でもあった。貫之・定家とともに、「中古の三歌人」とまでいわれ、当時の歌壇の指導者であった。長久2年(1041)76歳で没。

私説 小倉百人一首 No.56 和泉式部

和泉式部
※越前守大江雅致(まさむね)のむすめ。和泉守橘道貞の妻。「和泉式部日記」の著者。

あらざらむこの世の外の思ひ出に
       いまひとたびの逢うこともがな

【歌の背景】これは彼女が病中に恋人に送った歌である。大病を患って自分の命に不安を感じ、その心細さから、恋人にいま一度逢いたい。そして、それをあの世での思い出にしたい-と詠んだもの。

【歌意】(大病を患って)私は死ぬかもしれませんが、せめてあの世へ行ってからの思い出になるように、もう一度あなたにお逢いしたいのです。

【作者のプロフィル】和泉式部は生没年とも不詳。越前守大江雅致(まさむね)のむすめ。19歳ぐらいで18歳年上の和泉守橘道貞と結婚し、まもなく小式部を生んでいる。
   「和泉式部日記」が物語るように、夫や子供がありながら少女の頃から憧れていた冷泉天皇の第三、第四皇子の弾正宮為尊親王、帥宮敦道親王との烈しい恋愛に身をやつしたこの時期が、彼女の人生のピークであったといえるかもしれない。しかし、当時の都の人々の噂となった身分違いの恋は、両親王のそれぞれ26歳と27歳という若過ぎる死で、無情にも終止符が打たれた。
   後年、彼女が亡き宮への想いからようやく立ち直った頃、藤原道長に召されて一条天皇の中宮彰子に仕え、20歳も年上の丹後守藤原保昌と再婚し、丹後に下ったという。これにより、この情熱的な歌風で知られた多情多感な才女は、いわば“表舞台”から去り、これ以後の消息は不明である。

私説 小倉百人一首 No.57 紫式部

紫式部
※藤原為時のむすめ。藤原宣孝の妻。「源氏物語」の著者。

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に
       雲がくれにし夜半の月かな

【歌の背景】彼女は何年ぶりかで幼なじみの友だちに会った。久しぶりでと喜んだのも束の間、友だちは早々に帰ってしまった。あたかも七月十日頃の月が出ていたが、その月が夜半に姿を隠すように、味気なく、すげない巡り会いであった。この飽き足らぬ気持ちを歌ったもの。ただ、この幼なじみの友だちは女性といわれており、恋歌ではない。

【歌意】あなたと久しぶりに巡り会って、あなただったか、いやそうじゃなかったかと見分けもつかぬ間に、雲に隠れた夜半の月のように、慌しくあなたは帰ってしまいましたね。

【作者のプロフィル】周知の通り、「源氏物語」の著者。藤原為時のむすめ。藤原宣孝の妻となり、大弐三位を生んだ。夫の死別後、一条天皇の中宮彰子に仕え、その時の記録が「紫式部日記」となった。また、「源氏物語」は夫の死後、寡婦生活のつれづれの間にできたと思われる。彼女の24~25歳頃のことである。没年は不明。
  彼女の歌のうまさ、おもしろさは才気に基づく技量にあり、和泉式部や赤染衛門のような情熱派ではない。

私説 小倉百人一首 No.58 大弐三位

大弐三位
※紫式部のむすめ。

有馬山ゐなのささ原風吹けば
       いでそよ人を忘れやはする

【歌の背景】作者のもとに通っていた男が、彼女に対して(自分のことを棚にあげて)「あなたの心が頼りない」といった。そこで、彼女はこの歌で「頼りにならないのはあなたの方です」と反論した。自分から遠ざかりそうな男の不実を、皮肉で言い返したのだが、女心の心細さや寂しさをよく表している。

【歌意】有馬山や猪名の笹原に風が吹くと、そよそよと音をたてる。その“そよ”ではないが、さあそれですよ。私はあなたのことを忘れなどするものですか。あなたこそ私によそよそしいではありませんか。

【作者のプロフィル】紫式部のむすめ。父は藤原宣孝。名は賢子。正三位太宰大弐高階成章の妻となったので、こう呼ばれた。後冷泉天皇の乳母として仕え、従三位になる。「源氏物語」の「宇治十帖」はこの人の作ともいわれる。

私説 小倉百人一首 No.59 赤染衛門

赤染衛門
※「栄華物語」の作者と伝えられる。右衛門尉時用(ときもち)のむすめ。

やすらはで寝なましものを小夜更けて
       傾くまでの月を見しかな

【歌の背景】後に関白になった藤原道隆が少将の頃、作者の姉(あるいは妹)のもとに通っていた。ある夜、きっとやって来るといいながら約束を破った。そこで翌早朝、衛門が姉(あるいは妹)に代わって、その心情をこの歌に詠んだもの。
 姉妹の代わりに恋の歌を詠んでやるというのは、現代の私たちからみると奇異な感じがする。ただ、薄情な男に対する恋の恨みはなかなか巧みに表現されている。

【歌意】こんなこと(約束を破られる)なら、ためらわずに寝てしまえばよかったのに、あなたのおいでを寝ないで待っているうちに、夜が更けて西の山に沈もうとする月を見てしまいました。

【作者のプロフィル】赤染衛門は右衛門尉時用(ときもち)のむすめといわれる。作者の名前の由来でもある。母が平兼盛と離別し、時用の妻となって生まれた。藤原道長の妻倫子や、そのむすめの上東門院彰子に仕えた。後に学者、大江匡衡の妻となった才媛。彼女は同時代の女流歌人、和泉式部と覇を競う存在だった。
  また、「栄華物語」の作者とも伝えられている。

私説 小倉百人一首 No.60 小式部内侍

小式部内侍
※和泉式部のむすめ。

大江山いく野の道の遠ければ
      まだふみも見ず天の橋立

【歌の背景】小式部内侍の母、和泉式部が夫の藤原保昌と丹後へ下った後の留守中、歌合せの会があった。中納言藤原定頼は作者に冗談めかして(歌の上手な)母上がいないと代作もしてもらえないでしょうという意味を込めて「歌はどうします。丹後へ人をやりましたか、使いはきませんか。心細いことですね」と言った。すると、彼女は彼を引き留めて、即座に詠んだのがこの歌。母親譲りの才気にあふれた歌である。

【歌意】母の行っている丹後へは、大江山やいく野を越えてはるばる行かねばなりません。その道が遠いので、私は丹後の天の橋立へはまだ行ってもいません。そして、母からの手紙ももちろん見ておりません。

【作者のプロフィル】和泉守橘道貞と和泉式部とのむすめ。和泉式部は彼女を連れ子にして、後に藤原保昌に嫁した。式部の子なので「小式部」、また内侍所(賢所)の掌侍だったので「内侍」といった。一条天皇の中宮、上東門院彰子に仕え、才媛としてその名を知られた。二条関白藤原教通の愛人だったこともある。幼いときから歌才に恵まれていたが、人は母親に代作してもらっていると噂した。この歌もそうした噂を踏まえて詠まれたものの一つだ。

私説 小倉百人一首 No.61 伊勢大輔

伊勢大輔
※伊勢の祭主、大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)のむすめ。

いにしえの奈良の都の八重桜
       けふ九重ににほひぬるかな

【歌の背景】旧都奈良(平城京)の八重桜を天皇に献上した人があったとき、その花を題にして即詠を促された天皇に応じて詠んだ歌。藤原道長が促したともいわれる。彼女は大中臣輔親のむすめだから歌もうまいだろうと、人々も期待したのだ。「いにしえ」と「けふ」を奈良と平安との二都に対比させ、「八重」と「九重」を対置するなどの技巧と、即興的な歌としてのおもしろさがある。

【歌意】その昔の奈良の都に咲いた八重桜が、きょうはこの平安京の宮中で美しく咲き誇っていることです。

【作者のプロフィル】作者は伊勢の祭主、大中臣輔親のむすめ。父の官名によって伊勢大輔という。上東門院彰子に仕え、歌詠みとして名を知られた。紫式部、和泉式部、清少納言、赤染衛門、小式部内侍らとともに才を競った。後に筑前守高階成順(なりよし)の妻となった。

私説 小倉百人一首 No.62 清少納言

清少納言
※清原元輔のむすめ。「枕草子」の作者。

夜をこめて鳥のそらねははかるとも
       よに逢坂の関はゆるさじ

【歌の背景】藤原行成とのやり取りを歌に詠んだもの。行成がある晩、清少納言のところへ来て物語などしていたが、宮中の御物忌に参内するので帰っていった。翌早朝「ゆうべはもっといたかったのに、鶏の声に催促されてお別れしました」と手紙をよこしてきた。これは事実に反するので、彼女は「夜更けに鳴く鶏とは、函谷関のにせ鶏のことですか?」と返事をすると、折り返し行成からは「それはあなたに逢いたいという逢坂の関のことです」と言ってきたので、この歌を詠んだ。行成に負けまいと、凄まじい対抗心を感じさせる清少納言の教養と才知が露骨に出た歌。

【歌意】まだ夜が明けきらぬうちに、関所の門を開かせようとして鶏の鳴きまねをし、函谷関の関守騙すことはできても、決して逢坂の関は騙されて開門するようなことはありませんよ。いい加減なことを言うあなたに会うことなどはありません。

【作者のプロフィル】清少納言は官名。本名は不明。清原深養父の孫、元輔のむすめ。一条天皇の中宮定子に仕え、中宮一家とその宮廷生活を終えたらしい。歌才より散文に優れた作品を残した。「枕草子」はとくに有名

私説 小倉百人一首 No.63 左京大夫道雅

左京大夫道雅
※藤原伊周(これちか)の子。

今はただ思ひ絶えなむとばかりを
       人づてならでいふよしもがな

【歌の背景】通雅は、伊勢の斎宮を勤めて都へお帰りになった三条天皇の皇女(常子内親王)と相思の仲になった。密かに通っていたのが天皇の耳に入り、番をする女を斎宮につけられたので、この歌を贈って悲恋を嘆いた。天皇の怒りに触れて諦めねばならない恋だが、今一度最後に逢ってせめてその諦めの気持ちを恋人に告げたいという、切々とした恋の心情が感じられる。

【歌 意】私があなたのもとに通っていることが人の知るところとなり、今はもうあなたとの仲を諦めるよりほかしかたがなくなりましたが、その心を人を仲介してではなく、直接あなたに告げる方法がほしいものです。

【作者のプロフィル】藤原伊周の子。三条天皇の長和5年(1016)に従三位左近衛中将。その後、後一条天皇の万寿3年(1026)左京権大夫におとされる。後冷泉天皇の天喜2年(1054)に63歳で没。歌人としては有名ではなかったが、斎宮との相聞歌(恋愛歌)には傑作が多い。

私説 小倉百人一首 No.64 権中納言定頼

権中納言定頼
※四条大納言藤原公任の子。

朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに
       あらはれわたる瀬々の網代木

【歌の背景】冬の宇治川での実景を歌ったもの。夜、川に立ち込めた霧、それが夜明けとともに川面を浮動し、薄れていく。そしてその絶え間から、あちこちと姿をみせてくる網代木。そんな素直な叙景歌。

【歌 意】冬の夜明け、宇治川に立ち込めている川霧が途切れ途切れに切れて、その切れ間からあちらこちらの瀬の網代木が次第にくっきりと見えてくる。(なんとゆかしい宇治川の眺めだ。)

【作者のプロフィル】四条大納言藤原公任の子。一条天皇の寛弘年中に侍従右近衛少将、次いで後一条天皇の長元2年(1029)に権中納言、さらに正二位兵部卿を兼ねた。寛徳2年(1045)に52歳で没。父公任とは作風は違うが、和歌はうまい。能書家でもあった。

私説 小倉百人一首 No.65 相 模

相 模
※源頼光のむすめと伝えられている。

恨みわびほさぬ袖だにあるものを
       恋に朽ちなむ名こそをしけれ

【歌の背景】永承6年(1051)の内裏歌合せの折、大江公資と別れた後、一条天皇の皇女、脩子内親王家に仕えていた時代に浮き名が知られた藤原定頼、源資通らとの奔放な恋を回顧して詠んだもの。

【歌意】男(恋人)の無情を恨めしく思い、涙で濡れて乾かぬ袖は朽ちてしまいそうです。そのうえ、この恋のために世間からとやかく言われて浮き名を立て、私の名まで朽ち果ててしまうのは本当に残念なことです。

【作者のプロフィル】大江山の鬼退治で名を馳せた源頼光のむすめとも養女ともいわれ、母は慶滋保章のむすめ。初めは後朱雀天皇の皇女、祐子内親王に仕えて乙侍従といわれたが、相模守大江公資の妻となったので、以後、相模と呼ばれた。生没年不詳だが、1020年代から1050年代にかけて優れた恋歌を多く残し、情熱的で妖艶な歌風で知られた

私説 小倉百人一首 No.66 前大僧正行尊

前大僧正行尊
※三条院の曾孫。

もろともにあはれと思へ山桜
       花よりほかに知る人もなし

【歌の背景】修業する山伏は春秋2回、大和(奈良県)吉野郡十津川近くの大峰山に登った。これは春のもので、里では散り終えた桜が、人跡絶えた深山に咲き誇っている。思いがけずその山桜を目にして、懐かしさのあまり詠んだものとみられる。山にこもって修業にひたすら没頭するものの孤独な思いが、山桜を見て、はからずもほとばしりでたと思われる。

【歌 意】山桜よ、お互いに懐かしく思い合おうではないか。人里離れたこんな山奥ではお前以外に心の通じ合う人もいないのだから。

【作者のプロフィル】前大僧正行尊は三条院の曾孫。参議源基平の子である。後冷泉天皇の天喜3年(1055)に生まれた。12歳で出家。近江・大津の三井寺(園城寺)の平等院の僧正。鳥羽天皇の保安4年(1123)に延暦寺(比叡山)の座主になり、天治2年(1125)大僧正となる。さらに朝廷の護持僧になり尊崇された。保延元年(1135)81歳で没。

私説 小倉百人一首 No.67 周防内侍

周防内侍
※周防守平継仲のむすめ。

春の夜の夢ばかりなる手枕に
       かひなく立たむ名こそ惜しけれ

【歌の背景】当時の宮廷人の趣味的・遊蕩的雰囲気がよく表現された歌。早春の月夜、徹夜で女房たちがしゃべり合う。そんなとき周防内侍が「枕がほしいなあ」という。すると、通りすがりの大納言忠家が「これを貸しましょう」と腕を御簾(みす)の下から出す。その戯れに対して詠んだ歌。

【歌意】心浮き立つ短い春の夜、夢を見るぐらいのほんの短い時間、座興を真に受けて、あなたの腕を借りて枕にしてしまって、つまらない噂を立てられては残念です。

【作者のプロフィル】周防守平継仲のむすめ。ここからその呼び名が出た。本名は仲子。後冷泉・後三条・白河・堀河の4代(在位1095~1107年)の天皇の後宮に出仕した女官。後に大和守義忠の妻になったという。

私説 小倉百人一首 No.68 三条院

三条院
※冷泉天皇の第二皇子。

心にもあらでうき世に長らへば
       恋しかるべき夜半の月かな

【歌の背景】三条天皇が眼病のために退位しようとご決心されたころの歌。ご退位の決意は病気だけではなく、藤原氏の専横が露骨になってきた時期だけに、権力の煩わしさから自由になりたいと思われたとも考えられる。こんな美しい月も、この目が見えなくなっては眺めることもできない。そんな心境を詠まれたもの。

【歌 意】つらいこの世にこれ以上生きながらえたくもないが、もし不本意にも生き続けるようなことがあるなら、今宵不自由な目で眺めた夜半の月を恋しく思い出すことだろう。

【作者のプロフィル】三条院は冷泉天皇の第二皇子。いみ名は居貞。母は藤原兼家のむすめ超子。寛弘8年(1011)36歳で一条天皇のあとに即位。在位五年で長和5年病弱のため譲位。翌年寛仁2年(1017)出家。失意のうちに崩御。在位中二度も皇居が炎上し、目が悪くて遂には失明するなど、幸福な生涯ではなかった

私説 小倉百人一首 No.69 能因法師

能因法師
※橘永 (たちばなのながやす)。橘諸兄の子孫。

あらし吹く三室の山のもみぢばは
       竜田の川の錦なりけり

【歌の背景】三室の山(奈良県高市郡飛鳥村にある山)のもみぢが散り落ちても、地形上、竜田川に流れることはない。実景描写ではない。ただ当時の歌の趣向として、三室山と竜田川という二つのもみぢの名所が歌いこまれていれば
よかったので、作者はそれを心得てその二つをうまく“料理”したもの。

【歌 意】嵐が吹き荒れる三室の山のもみぢ葉は、竜田川へ落ちてその流れを錦のように美しく見せて流れていく。

【作者のプロフィル】能因法師は橘諸兄の子孫、遠江守忠望の子。兄、長門守橘元やすの養子になった。俗名は永_。はじめ朝廷に仕えたが、出家して融因、やがて能因と改めた。摂津の古曾部に住んでいたので古曾部の入道ともいわれている。歌が好きで当時、歌名の高かった藤原長能に師事して和歌に精進した。歌道で師弟の関係ができた最初ともいわれる。永承6年(1051)ころまで存命。

私説 小倉百人一首 No.70 良暹法師

良暹法師

さびしさに宿を立ち出でてながむれば
       いづこもおなじ秋の夕暮れ

【歌の背景】秋の寂寥感を歌ったもので、秋の夕暮れを巧みに歌いつくした、次の三夕(さんせき)の歌の先駆けをなすと評価されている秀歌。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ   
                       西行法師
見わたせば花ももみぢなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ   
                       藤原定家
寂しさはその色しもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ    
                       寂蓮法師 
 
【歌 意】ひとりで庵に閉じこもっていて寂しさのあまり気がふさぐので、外に出てあちこち眺めると、さすがに秋の夕暮れだ。どこも同じように寂しい。

【作者のプロフィル】父祖や生涯はよく分からない。父は祇園の別当で、母は藤原実方の家の女童という説もある。京都・大原の里に住んでいたようだ。平安後期、後冷泉期ころの歌僧。

私説 小倉百人一首 No.71 大納言経信

大納言経信
※右大臣源重信の孫。

夕されば門田の稲葉おとづれて
       芦の丸屋に秋風ぞ吹く

【歌の背景】都の西郊、源師賢の住んでいた梅津(京都市右京区)の村里の秋の情緒を詠んだもの。秋イコール無常という情緒ではなく、夕暮れに稲の葉をさやさやと鳴らす秋風、芦葺き小屋などがさわやかな情緒で迫ってくる。

【歌 意】ここは都を遠く離れた訪れる人もない村里だが、夕方になると門前の田の稲の葉をさやさやと鳴らして、芦葺きの小屋に秋風が吹いてくる。

【作者のプロフィル】右大臣源重信の孫で、権中納言道方の子。三河守、参議大納言から太宰権帥になり、堀川天皇の承徳元年(1097)九州の大宰府で死んだ。82歳。後一条から堀河天皇まで六代の帝に仕えている。博学多才で、正保3年10月の白河天皇の大堰川(洛西)行幸の時の、いわゆる「三船の才人」であり、和歌・詩文・管弦の船のどれにも乗れる資格があった。蹴鞠の名手ともいわれた。

私説 小倉百人一首 No.72 祐子内親王家紀伊

祐子内親王家紀伊

音に聞く高師の浜のあだ浪は
       かけじや袖の濡れもこそすれ

【歌の背景】中納言俊忠が「浦風によって、波が打ち寄るように、恋の思いを打ち明けたい」という意味を込めて歌ったのに、紀伊が「ごめんです」と歌い返したもの。恋歌の歌合のことだから、実際の恋の駆け引きではない。恋歌をやり取りする宮中での遊びにふさわしい、技巧に走った歌。

【歌 意】世間で評判の高い高師の浜の、むなしく打ち寄せる波のように、移り気で真実のないあなたの誘い言葉に、思いをかけるのはやめておきましょう。そんな方に恋をすれば、後で捨てられ悲しみの涙で袖を濡らすようなことになるでしょうから。

【作者のプロフィル】祐子内親王家に仕える紀伊という女。内親王は後朱雀天皇の第一皇女。紀伊は平経方のむすめ。紀伊守重経の妹だったので、兄の官名でこの呼び名がある。「一宮の紀伊」「中宮の紀伊」ともいわれた。当時、歌人として令名があったらしく、歌合にも名が連なっている。

私説 小倉百人一首 No.73 権中納言匡房

権中納言匡房
※大江匡房。匡衡の曾孫。

高砂の尾上の桜咲きにけり
        外山の霞立たずもあらなむ

【歌の背景】内大臣、藤原師道の邸宅で酒盛りをして、晩春、季節の名残を惜しんで、遠く山の桜を見るという主題で詠んだ歌。

【歌 意】あの奥山の高い峰にも桜が咲いている。近景の里近い山にどうか霞が立たないでほしい。今日は遠景の美しい桜の花を眺めたいのだから。

【作者のプロフィル】大江匡房は匡衡の曾孫、信濃守成衡の子。権中納言、太宰権帥を経て大蔵卿となり、鳥羽天皇の天永2年(1111)71歳で死亡。子供のときから才智に優れ、神童といわれていた。4歳で書を学び、8歳で史伝に通じ、11歳で詩歌に長じたという。和歌はむしろ余技で、漢学の方では中国人をも驚かしたというエピソードもあるほど。

私説 小倉百人一首 No.74 源俊頼朝臣

源俊頼朝臣

うかりける人を初瀬の山おろし
       はげしかれとは祈らぬものを

【歌の背景】祈っても思う人に逢えない恋を歌っている。逢うというのは、逢って恋が叶えられるということを意味する。恋の成就を初瀬山の長谷寺の観音に祈ったのに、女の気持ちが自分になびくどころか、かえって冷たさを増してしまった。これは一体どうしたことかと観音に恨みを訴えている、やや難解な歌。

【歌 意】長谷寺の観音よ、私につれなく逢ってくれようともしない人が、さらにつれなさを増すようなことは祈っていないのに、初瀬の山おろしのように、つれなさがひどくなるのです。

【作者のプロフィル】大納言源経信の第三子。堀河・鳥羽・崇徳の三帝に仕えた。右近衛少将から右京大夫になった。官位は低かったが、歌壇の実力者で歌合の判者になり、白川法王の命をうけて崇徳天皇の大治2年(1127)に「金葉集」を選んだ。父の遺志を継ぎ、歌道に革新をもたらし、歌材や表現時に用語の上で清新の気を吹き込んだ。このため伝統派の藤原基俊と争った。

私説 小倉百人一首 No.75 藤原基俊

藤原基俊

契りおきしさせもが露を命にて
       あはれ今年の秋もいぬめり

【歌の背景】基俊の子の光覚が、毎年10月に興福寺で行われる維摩経を講ずる会の講師になりたいと願っていたのに幾度も選に漏れた。太政大臣藤原忠通に恨みごとを言うと、忠通は清水観音の歌と伝えられる「ただ頼めしめぢが原のさしも草われ世の中にあらむかぎりは(新古今集)」から引用して「しめぢが原だ。おれのいる限りは安心しろ」といった。ところが、また今年の選にも漏れた。そこで父、基俊がもぐさの産地である「しめぢが原」にかけて、「させもが露」と歌いこみ、違約をそれとなく忠通に訴えたもの。

【歌 意】あれほど堅くお約束してくださったお言葉を命とも頼み、待っておりましたのに、そのお約束は今年も叶えていただけず、秋も過ぎてしまうようです。

【作者のプロフィル】右大臣藤原俊家の子。御堂関白藤原道長の曾孫で名門だが、官位は低く従五位上左衛門佐に終わっている。出家して覚舜といい、近衛天皇の康治元年(1142)83歳で没。歌才・学才があり、源俊頼と歌の上で競った。伝統派の旗頭だったが、狭量で傲慢なところがあって、人望がなかったようだ。

私説 小倉百人一首 No.76 法性寺入道前関白太政大臣

法性寺入道前関白太政大臣
※藤原忠通

わたの原漕ぎ出でてみればひさかたの          
       雲居にまがふ沖つ白波

【歌の背景】崇徳上皇の天皇在位時代、保延元年(1135)4月に行われた内裏歌合の席で「海上望遠」という題が出て、それに応えて詠んだもの。ただ、この背景には後の保元の乱に至る、天皇家と摂関家を二分した複雑な政争がある。
この争いは鳥羽(そしてその子後白河)-藤原忠通(この歌の作者本人)ラインが勝者となり、崇徳-藤原頼長(作者の弟)ラインが敗者となる。頼長は流れ矢に当たって死に、崇徳院は讃岐に配流となった。

【歌 意】大海原に船を漕ぎ出してはるか遠くを眺めると、空の雲と見分けが付かないくらいに、(怪しげな)沖の白波が立っている。(油断されるな)。

【作者のプロフィル】藤原忠通。関白忠実の子。左大臣頼長の兄。鳥羽・崇徳・近衛・後白河の4代に仕え、摂政・太政大臣を2度ずつ務めた。保元・平治の乱の渦中にあって、政治的手腕を示した。久安6年(1150)摂政を改めて関白となり、応保2年(1162)66歳で出家、法性寺に入って円観と号したが、長寛2年(1164)68歳で没。

私説 小倉百人一首 No.77 崇徳院

崇徳院

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
       われても末にあはむとぞ思ふ

【歌の背景】独特の表現で、線が太い、激しい恋の歌。前向きな意志があふれた、恋の心情がよく表現されている。

【歌 意】瀬が速いので、岩にせき止められて滝川の水流は一時は左右に分かれるが、また流れは合流するものだ。それと同じように世間に妨げられて、私は恋しい人と別れ別れになっているが、将来は必ずその人に逢おうと思う。

【作者のプロフィル】崇徳天皇。鳥羽天皇の御子。顕仁。元永2年(1119)生まれる。5歳で即位。関白忠通が摂政となる。18年後、父鳥羽法皇の意志で、3歳の近衛天皇に譲位し、鳥羽法皇と区別して「新院」と呼ばれた。さらに法王の死後、御子重仁親王をさしおいて、後白河天皇が即位したので不満やるかたなかった。崇徳上皇は、兄忠通を敵視する左大臣頼長と計って兵を挙げようとし、かえって天皇、忠通側に襲われて敗北、讃岐に流された。これが保元の乱だ。配所で8年、悲憤の日を送られ、長寛2年(1164)46歳で崩御。