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後鳥羽上皇 朝廷権力の回復図るが、「承久の乱」で敗れ隠岐へ配流に

後鳥羽上皇 朝廷権力の回復図るが、「承久の乱」で敗れ隠岐へ配流に

 後鳥羽上皇は、後白河上皇とともに、歴代天皇の中でも際立って強烈な個性の持ち主だった。そして、後鳥羽上皇は「承久(じょうきゅう)の乱」で、鎌倉幕府と京都方との勢力争いにおいて、自ら乱の中心人物として修羅のちまたをくぐった帝王だった。ただ、後白河、後鳥羽の両上皇を比較すると、狡猾さの点で、後白河院が数段上だった。後白河院は機略を用いて、したたかに遂に動乱の時代を生き抜いたが、対照的に後鳥羽院はあえなく敗退、悲劇の結末を迎えることになった。1221年(承久3年)、隠岐に遷幸となり、遂にこの島で崩御した。後鳥羽上皇の生没年は1180(治承4)~1239年(延応元年)。

 鎌倉幕府が開設され、本格的な武家政治がスターとした時代、後鳥羽院の運命は、いわば「文」の支配から「武」の支配に転じていく大きな時代の転換を、一身に象徴していたともいえる。また、後鳥羽院はいうまでもなく『新古今和歌集』の成立に最大の役割を果たした帝王歌人だった。このほか、管弦、蹴鞠、囲碁、有職故実などの王侯のたしなみに精進し、武芸においても相撲、水泳、競馬(くらべうま)、弓術、狩猟に秀で、自ら刀剣を鍛えることさえした。後鳥羽院はまさに日本史上、文化的に大きな業績を残した帝王だったのだ。

 鎌倉幕府が成立した後も、京都の後鳥羽上皇は、新しい親衛隊「西面の武士」を設置したり、幕府寄りの公家・九条兼実らを排斥したりして、武家からの政権奪回に腐心、画策していた。源頼朝の死後、二代頼家、三代実朝で源氏の正統が途絶え、北条氏が台頭すると、後鳥羽院は好機が訪れたと判断し、1221年、執権・北条義時追討の院宣を発した。「承久の乱」の始まりだった。

 しかし、幕府側の結束は固く、院宣が出されてからわずか1カ月で乱は鎮圧され、後鳥羽院の計画はあえなく失敗に終わった。上皇側は院宣さえ発すれば大勢が決まると思って過信していたのだ。とくに上皇が期待した武将の三浦義村は起たず、執権体制への不満よりも武家政治の大義を守るために、御家人たちは結束したのだ。幕府は後鳥羽、土御門、順徳の3上皇を各地へ配流、関係した公家を処罰した。西国に多かった上皇方の所領は没収され、功績のあった御家人たちに分け与えられた。京都朝廷方の惨敗だった。

 後鳥羽上皇は高倉天皇の第四皇子。諱は尊成(たかなり)。母は七条院。平家とともに西海の壇ノ浦に沈んだ兄・安徳天皇の後を受け4歳で即位した。実権は祖父の後白河法皇に握られたままだったが、法皇が崩御(1192年)し、廷臣の土御門通親と謀って“親鎌倉幕府派”の九条兼実を退けると、1198年(建久9年)、第一皇子の土御門天皇に譲位して、院政を始めた。前述した通り、多芸多才の人だったが、時代の流れは読み誤った。

 「人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふ故に物思ふ身は」

 これは『後撰和歌集』および『小倉百人一首』に収められている、「承久の乱」の9年前に詠まれた歌だ。歌意は、人よ、そなたのことがある時はいとしく、あるときは恨めしい。というのも、ただびとならば恋ゆえの物思いにふけっていれば済むものを、なまじ帝王の位に上ったばかりに、世間を相手の、およそ味気ない物思いをしなければならないからだ。

 帝王たるもの、私には個人に恋するが、公には世間、時世を相手に恋をしなければならない。当然その世は武家社会、表向き鎌倉幕府の源家を立てつつ、実際は北条執権家の支配する時世を意味する。過ぎ去ろうとしている、事実は過ぎ去ってしまった王朝時代の主である帝王にとっては、およそ心に染まぬ味気ない恋であり、物思いとならざるを得ないその意味では、この歌は9年後の「承久の乱」、その結果の隠岐配流を予見しているような歌といえる。

 「われこそは新島守(にひじまもり)よ沖の海の 荒き波風こころして吹け」

 この歌は配流の地で詠んだものだ。隠岐は、伯耆から舟で渡ること十余里の孤島だ。上皇にとって日本海の荒波に浮かぶその島が、これから終の棲み家となる。以後、18年間、崩御し遺骨になって帰京するまで島を出ることはなかったが、気性の激しい上皇は、配流の島の新島守-新しい主人だから、隠岐の海の波も風も、そのことをよく心得よ、と強気に詠んで島に入ったのだ。だが、

 「身の憂さを嘆くあまりの夕暮に 問ふも悲しき磯の松風」

と詠まざるを得なかった。配流の地の夕暮れは殊更に寂しさが募る。時代の流れから武家政治は歴史の必然だった。それを個人の力で強引に転換しようと謀ったところに、上皇の悲劇の根源があったのだ。

 御製は『後鳥羽院御集』、歌論には『後鳥羽院御口伝』がある。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、大岡 信「古今集・新古今集」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

古人大兄皇子「乙巳の変」発生で皇位に就けず、最後は異母弟に殺害される

古人大兄皇子「乙巳の変」発生で皇位に就けず、最後は異母弟に殺害される

 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は蘇我系の血を受けた舒明天皇の第一皇子で、もう少し早く生まれていたら、皇位に就いていてもおかしくない人物だった。ところが、彼が生きた時代が、一時、天皇家を凌ぐ権勢を誇った蘇我本宗家が勢いを失った末期、そして滅亡時期と重なったために、悲劇的な最期を遂げることになった。蘇我本宗家という、頼みとする後ろ楯を失い、最後は出家、隠退しても“魔”の手から逃れることはできず、彼は不幸にも異母弟・中大兄皇子が差し向けた刺客に殺害されたのだ。

 古人大兄皇子の生年は不詳、615年(推古23年)(?)ごろともいわれる。没年は645年(大化元年)。母は蘇我氏の娘、蘇我法提郎女(ほていのいらつめ)。娘に天智天皇の皇后となった倭姫王がいる。古人皇子・古人大市皇子、吉野太子とも称された。

 皇極天皇の後継天皇に、大臣の蘇我入鹿(いるか)は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を擁立しようと考えた。そのため、入鹿は有力な皇位継承資格者だった山背大兄王の存在が邪魔になった。そこで643年、入鹿は斑鳩宮を襲い、山背大兄王とその一族を滅ぼした。これによって、聖徳太子一族の血脈は絶えた。山背大兄王の死によって、古人大兄皇子のライバルはいなくなり、蘇我本宗家に何事もなければ、すんなり古人大兄皇子が皇位に就くはずだった。ところが、対抗勢力の大胆な蘇我本宗家討滅計画が秘密裏に進められていた

 645年、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行われた。このとき、古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。いわゆる「乙巳(いっし)の変」だ。ショッキングな事件を目のあたりにした古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り、「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」と言ったとの記録がある。入鹿が殺害されたとの知らせを受けて、入鹿の父、蝦夷(えみし)も抗戦は利なしと判断。蝦夷は自邸を焼いて、自殺。こうして栄華を誇った蘇我本宗家は滅亡した。その結果、古人大兄皇子は、強力な後ろ楯を失ってしまった。

 「乙巳の変」後、古人大兄皇子には次から次に、巧妙な“魔”の手が襲い掛かる。皇極天皇の後を受けて皇位に就くことを勧められたのだ。だが、これを“罠”と見た古人大兄皇子は、それを断り、出家して吉野へ隠退した。これで危機を脱出したかにみえたが、追撃の手が緩められることはなかった。吉備笠垂が、古人大兄皇子が蘇我田口堀川などと改新政権の転覆を企てている-と密告したのだ。これを受けて645年、中大兄皇子は古人大兄皇子に追っ手を差し向けた。詮議のため捕らえるだけではなかった。皇子は中大兄皇子が差し向けた刺客により殺害された。

 この後、中大兄皇子は有間皇子(孝徳天皇の皇子)、そして改新政権の右大臣、蘇我倉山田石川麻呂らを、相次いで“謀叛”のかどで殺害あるいは自決に追い込んでいる。いずれも、きちんとした詮議もせずに、後顧の憂いを失くすために、死に追いやっているのだ。吉備笠垂の密告も謎だ。果たして本当に改新政権転覆の企てがあったのかどうか、不明だ。強引に嫌疑をでっち上げて、ターゲットの人物を罪人に仕立て上げたとみることができるのだ。

(参考資料)黒岩重吾「落日の王子 蘇我入鹿」、遠山美都雄「中大兄皇子」、関裕二「大化の改新の謎」

 

押坂彦人大兄皇子 蘇我系王族の隆盛期に対立候補として皇位を争い敗れる

押坂彦人大兄皇子 蘇我系王族の隆盛期に対立候補として皇位を争い敗れる

 押坂彦人大兄皇子(おしさかの ひこひとの おおえのみこ)は、第三十代・敏達(びたつ)天皇の後の皇位継承の最有力者だった。候補者の中では年長で、敏達天皇の皇后・広姫(息長真手王=おきながのまてのみこ=の娘)を母とし、身分も高いことで妥当な人選のはずだった。ところが、実際に天皇になったのは堅塩媛(きたしひめ、蘇我稲目の娘)の産んだ皇子、後の用明天皇(第三十一代)だ。それまでは皇位継承者の母は皇族の一員であることが条件だった。にもかかわらず、このときは豪族の娘を母に持つ皇子が天皇に即位したのだ。まさに前例のないことだった。ここから、押坂彦人大兄皇子の悲劇が始まった。

 押坂彦人大兄皇子は生没年とも不詳だ。舒明天皇(第三十四代)の父で、皇極・斉明天皇(第三十五代・第三十七代)および孝徳天皇(第三十六代)の祖父にあたる人物だ。蘇我氏の血をひかない敏達王統の最有力者で、忍坂部・丸子部などの独立した財政基盤を持ち、王都を離れて水派宮(みまたのみや)に住んでいた。水派宮は大和国広瀬郡城戸郷(現在の奈良県広陵町)にあったと思われる。

 母・広姫が実家の息長氏の経営する忍坂宮(現在の桜井市)に住み、彦人大兄皇子も幼少年期をここで送った関係から同宮に奉仕する服属集団、忍坂部(刑部)を相続したとみられる。この忍坂部や丸子部といった彦人大兄皇子伝来の私領は、息子の田村皇子(のちの舒明天皇)、さらに孫の中大兄皇子(のちの天智天皇)らへ引き継がれ、同系一族の強固な財政基盤を形成した。彦人大兄皇子は用明天皇の崩御(587年)後、皇位継承者として候補に挙がったが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。ただ、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたことは間違いない。

 皇位継承の最有力者、押坂彦人大兄皇子を退けて、用明天皇が皇位に就いたのは有力氏族・蘇我馬子(大臣)の強力なバックアップがあったからだ。当時の蘇我氏には慣例を無視して、周囲に異を唱えさせない、無理を押し通すだけの権勢があったのだ。そのことが、押坂彦人大兄皇子にとっては不運であり、悲劇だった。というのは、彼は大臣・蘇我馬子、大連・物部守屋の権力争いに巻き込まれ、用明天皇死後、この両者の間で繰り広げられた戦争で、敗れた物部守屋側に引き込まれ、不本意にもその手駒に使われてしまったのだ。そして、この混乱の最中、蘇我馬子の指令で暗殺されたとする説もある。

 『日本書紀』によると、彦人皇子伝来の私領は代々、引き継がれ、大化の改新後に国家に返納されと考えられる。ただ、彦人大兄皇子伝来の私領が、後世の舒明天皇即位から大化の改新の実現を可能にした財政的裏づけとなったことは間違いない。押坂彦人大兄皇子は、天智・天武両天皇の祖父にあたるので、のちに「皇祖大兄」と呼ばれた。

(参考資料)神一行・編「飛鳥時代の謎」、黒岩重吾「磐舟の光芒 物部守屋と蘇我馬子」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

以仁王 平家追討の「令旨」を全国の源氏に発し、平家崩壊の端緒つくる

以仁王 平家追討の「令旨」を全国の源氏に発し、平家崩壊の端緒つくる

 以仁王(もちひとおう)は、皇位継承の有力候補だったが、後見していた母方の伯父の失脚、そして父・後白河法皇とも疎遠だったことが大きく響き、異母弟・憲仁親王(後の高倉天皇)にその座を奪われた。しかし、周知の通り、平家追討の「以仁王の令旨(りょうじ)」を全国の源氏に発し、平家打倒へ向け武装蜂起を促した。計画が事前に露見し、準備不足もあって、最初に挙兵した以仁王、源頼政らは結局敗れ去った。が、これを機に平家打倒の烽火(のろし)は各地に広がり、平家崩壊の端緒となった。以仁王の生没年は1151(仁平元)~1180年(治承4年)。

 以仁王は後白河天皇の第三皇子。母親は閑院家・藤原季成の娘、成子。邸宅が三条高倉にあったことから高倉宮と称された。同母妹に歌人として名高い式子内親王がいる。祖父・季成は藤原北家の枝流で、御堂関白道長の叔父・公季を祖とする閑院家の分家、三条氏を称する一族だ。摂関家とは勢威を比べようもないが、王朝末期には後宮を独占する実力があった。ところが、平家の権勢が増していく中で、後白河院の寵愛は建春門院・平滋子に移り、高倉三位局は女御に昇れず、後白河院との間の子女たちもおのずと冷遇されていったのだ。以仁王が後白河院の皇子でありながら、親王宣下(しんのうせんげ)も受けられなかった原因もそこにあった。

 以仁王は幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となったが、1162年(応保2年)、12歳のとき最雲が亡くなり、還俗。1165年(永万元年)15歳のとき、人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。その後、八条院暲子内親王の猶子となった。彼は幼少時から英才の誉れが高く、学問や詩歌、とくに書や笛に秀でていた。以仁王は本来、皇位継承においても有力候補のはずだった。ところが、異母弟・憲仁親王の生母・平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止された。とくに1166年(仁安元年)、彼の後見役だった母方の伯父、藤原公光が突如、権中納言・左衛門督を解任され、失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅した。

 1179年(治承3年)、平氏のクーデターにより、後白河法皇が幽閉される事態となった。以仁王も長年知行してきた常興寺領を没収された(治承3年の政変)。こうした状況を睨み合わせ、平氏の専横も極まったとみて、以仁王に平家打倒を説いたのが、当時齢77歳の老武将、源頼政だった。頼政は「保元の乱」(1156年)で後白河天皇方につき、「平治の乱」(1159年)では清盛方につき、源氏一門が敗北した後も、源氏でただ一人、宮廷社会を生き抜いた、したたかな人物だ。

  以仁王は1180年(治承4年)、遂に平家討伐を決意した。彼は源頼政の勧めに従って、平家追討の「令旨」を各地の源氏に発した。そして、平家打倒の挙兵、武装蜂起を促したのだ。後白河院の皇子でありながら、冷遇され日の当たらない人生を余儀なくされた以仁王だが、こうして「以仁王の令旨」は時代を変える、そして歴史にその名を刻み込む、大きな決断となった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

伊予親王 濡れ衣で叛逆の首謀者に仕立てられ、無念の死を遂げた皇子

伊予親王 濡れ衣で叛逆の首謀者に仕立てられ、無念の死を遂げた皇子

 伊予親王は、第五十代・桓武天皇の第3皇子で、父の寵愛を受け式部卿、中務卿などの要職を歴任し、政治家としての素養も持っていた。ところが、皇位継承を巡る貴族との抗争に巻き込まれ、謀略にはめられ、叛逆の首謀者に仕立てられてしまった。そのため、伊予親王は幽閉先で飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、悲劇的な最期を遂げた。

 伊予親王の生年は不詳、没年は807年(大同2年)。母は藤原南家、藤原是公(これきみ)の娘、吉子。伊予親王は792年(延暦11年)元服し、四品(しほん)となり、次いで三品、式部卿(しきぶきょう)、中務卿(なかつかさきょう)などの要職を歴任した。政治家としての素養を持ち、管弦もよくし、父・桓武天皇の寵愛を受け、804年(延暦23年)には近江国(現在の滋賀県)蒲生郡の荒田53町を与えられた。806年(大同元年)、中務卿兼大宰帥に任ぜられている。

 ところが、翌807年(大同2年)伊予親王はいきなり、謀反を企てた首謀者として、母・吉子とともに大和国の川原寺(かわらでら、奈良県高市郡明日香村)に幽閉された。後世、「伊予親王の変」とも称されるこの事件は、背景に皇位継承を巡る貴族との抗争があり、実は後に分かったことだが、伊予親王が陰湿な謀略にはめられたものだった。母・吉子の兄・藤原雄友(南家)は大納言として、右大臣・藤原内麻呂(北家)に次ぐ台閣No.2の地位あり、政治的にも有力な地位にあった。そんなとき、伊予親王は異母兄・平城(へいぜい)天皇の側近だった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に謀反をそそのかされた経緯を、平城天皇に報告した。

 そこで、朝廷は藤原宗成を尋問したところ、宗成は伊予親王こそ首謀者だと自白したのだ。そのため、母・吉子と子・伊予親王は逮捕された。二人は身の潔白を主張したが、聞き入れられず川原寺(弘福寺)に幽閉された。絶望した母・子は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、悲劇的な最期を遂げた。伊予親王には3人の王子女があったが、同親王が自害した後、いずれも遠流となった。また、この事件を仕掛けた貴族たちも当然、重い処罰を受けた。藤原宗成は流罪となり、伊予親王の伯父、大納言・藤原雄友も連座して伊予国に流された。このほか、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡(南家)が解任された。

 こうして無念の死を遂げたこの母子は怨霊となった。当時は恨みを抱いて亡くなった人物の御霊は、怨霊になると堅く信じられていた。このため、二人を死に追い込んだ平城天皇は、この怨霊に悩まされ続け、怨霊から逃れるため遂に同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に皇位を譲るまでに追い込まれた。

 819年(弘仁10年)、伊予親王の無実が判明すると、遠流となっていた3人の王子女は嵯峨天皇により、平安京に呼び戻された。そして、没収されていた同親王の資産も王子女に返還された。863年(貞観5年)に催された神泉苑での御霊会(ごりょうえ)では、この母・子ともに祀られた。怨霊を鎮め、怨霊から逃れるには、そうするしか術がなかったのだ。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④ 平安京」、永井路子「王朝序曲」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

安徳天皇 平家とともに壇ノ浦で二位尼・時子に抱かれて入水した幼帝

安徳天皇 平家とともに壇ノ浦で二位尼・時子に抱かれて入水した幼帝

 安徳天皇は、高倉天皇を父、平清盛の娘で中宮の徳子(建礼門院)を母として生まれた。安徳天皇は平氏の政治的台頭の、いわば切り札だった。しかし、あまりにも幼い身で即位させられ、そして総帥・清盛の死を機に、不運にも坂を転げ落ちるような平氏の退潮期が重なった。その結果、悲しいことに幼帝の最期は、平清盛の妻、二位尼・時子(ときこ)に抱かれて入水、壇ノ浦の藻くずと消えた。在位5年、わずか8年の生涯だった。安徳天皇の生没年は1178(治承2)~1185年(寿永4年)。

 安徳天皇は、高倉天皇の第一皇子。諱は言仁(ときひと)。生後まもなく親王宣下を受け、立太子した。1180年(治承4年)、父、高倉天皇の譲位を受け即位した。1179年(治承3年)11月以降、後白河院は幽閉され、院政は停止されていたから、即位は清盛の意向を具体化したものにほかならない。父・高倉天皇11歳、母中宮・徳子17歳が結婚し、5年後に安徳天皇が生まれたとき、清盛は太政大臣を辞して入道だった。清盛入道にとってはこの男の子(孫)をなるべく早く帝位に就け、自分は外戚として後見する。それが理想の形だった。それによって、平家全盛の時代が当分続くはずだった。

 ところが、将来そのキーマンになるはずだった安徳天皇にとって、不運な点が二つ起こってしまった。一つは父・高倉上皇が21歳の若さで亡くなったことだ。そして、もう一つ、その父の死からわずか一カ月後、祖父・清盛が病死してしまったことだ。父・高倉上皇は実父の後白河法皇と、舅の清盛との仲がうまくいかず、後白河、清盛ともタフな人物だっただけに、二人に挟まれてノイローゼ気味だったといわれる。それでも、健在なら息子のために精神的な面でのサポートはできたはずだ。

 安徳天皇にとって、何より不運だったのは想定外の清盛の早い死だった。「清盛死す」の報に、源氏勢力は即、平氏打倒の好機到来と捉え、その動きが加速した。木曽義仲の挙兵、源頼朝の伊豆における挙兵。そして、やがて源義経・範頼の鎌倉軍が京へ攻め上ってくる状況が迫り、平家は都を落ちて西へ-。

 こうなると、どうしても考えたくなるのが、清盛が健在なら歴史はどう動いたかということだ。あと5年生きていたら、平氏のこんなに早い都落ちはなかったろう。源氏勢力にとって、また朝廷内部においても平氏の権勢の時代に嫌気がさしていても、大っぴらに平家を批判あるいは非難することはできなかった。それほどに総帥・清盛の存在は大きかったのだ。

 ある日、予想以上に早く清盛が亡くなり、そんな重しが取れたとき、平氏には清盛に代わる、統率力のある後継者がいなかったというわけだ。そして、何より不幸だったのは、平氏は武家でありながら官人たちはじめ、いずれも貴族化し、戦いに望む気概に欠けていた。それにしても、平氏は三種の神器を持ち、いくらよちよち歩きとはいえ、安徳天皇という日本の象徴を擁し、雅な衣装を身にまとった女性たちをはじめ、各ファミリーまでを含む混成軍を率いていくわけだから、これは大変な大移動だったと思われる。こんな布陣で、戦士の軍団と戦おうというのは、やはり無理がある。

 安徳天皇が、例えばあと五歳ぐらい年かさで13歳の、自分の意志をはっきりいえる立場にあったら、彼はどのような言葉を発しただろうか。あるいは京の祖父・後白河院を動かし、源氏勢力に対する牽制、そして平氏の名誉ある撤退へ導くような動き方を模索したのだろうか。成人といえないまでも、分別のつく年齢に達していれば、死に赴いて何か言葉が残っていても不思議ではないが、幼少の安徳天皇の場合、その種の史料は全くない。壇ノ浦の戦いでもういよいよ平家がダメだというときに、二位尼・平時子に抱かれた幼い安徳天皇が海に飛び込む直前、「どこへゆくの?」と聞く。そんな言葉が語り継がれているだけだ。これに対し、時子は「海の底にも都があり、ババがお伴するから行きましょう」と答え、真っ先に飛び込み、安徳天皇ともども浮かんでこなかったという。“不運の幼帝”というほかない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、永井路子「波のかたみに」、杉本苑子「平家物語を歩く」

 

 

 

 

 

 

 

立石一真:繚乱期のエレクトロニクス産業の先陣 オムロンの創業者

立石一真 繚乱期のエレクトロニクス産業の先陣切ったオムロンの創業者

 立石一真(たていしかずま)は、現在のオムロンの前身「立石電機製作所」の創業者だ。彼は戦後間もなく米国のオートメーション工場の成功を聞き、一貫してこのオートメーション=自動制御に取り組んだ。その結果、各種関連システムの開発・商業化に成功し、産業史に名を残した。独自のベンチャー哲学を実践、繚乱(りょうらん)期のエレクトロニクス産業の先陣を切った。立石一真の生没年は1900(明治33)~1991年(平成3年)。

 立石一真は、熊本市新町で伊万里焼盃を製造販売する立石熊助、エイの長男として生まれた。立石家は祖父・孫一が佐賀県伊万里の地で焼き物を習得し、熊本に移り住み、「盃屋」を店開きした。祖父は伊万里焼の職人で絵付けがうまく、熊本へ移住して、絵付きの盃製造でかなりの財を成した。父はその祖父の家業を継いだが、商才に欠けるところがあり、家運は傾いていった。加えて、一真が7歳のとき父が亡くなり、立石家の家計は極貧といっていいくらいの水準に落ち込んだ。そのため、一真は新聞配達などをして母親の家計を助けた。この間、弟が亡くなっている。一真の人生の、とくに50歳までの人生で、身内の死者が多く出ていることが一つの特徴だ。

 こうした境遇にありながら、不思議なことに一真は熊本中学、熊本高等工業学校(現在の熊本大学工学部)に新設された電気科に進学しているのだ。極貧の家計の中でどうしてここまで進学できたのか、よく分からない。とにかく一真の前半生は苦難の連続だった。1921年(大正10年)高校を卒業、兵庫県庁に就職した。土木課の技師だったが、1年有余で退職し、京都市の配電盤メーカー、井上電機に就職。この会社で後の制御機器事業のリレーへつながっていく継電器の開発で頭角を現した。継電器は電流や電圧が一定の量に達すると、自動的に電流の通過を止める装置だ。しかし、不景気で希望退職を余儀なくされ、日用品の行商で一家を養った。

 1933年(昭和8年)、一真は大阪市都島区で「立石電機製作所」を創業した。ただ、継電器事業が軌道に乗り始めた途端に大阪の工場が戦災で全壊。京都に本拠を移して再出発した。転機になったのは50歳を過ぎたころ、京阪神地区の経営者の集まりで専門家からオートメーションの話を聞いたときだ。米国には無人で原材料を完成品に仕上げていく工場があるという。「これだ!」と一真はひらめいた。オートメーション分野は本業の継電器技術が生かせる。折しも企業の生産性向上意欲は高まっていた。将来性は十分とみて、販売体制を整えたうえで1955年(昭和30年)、リレー、スイッチなどの関連制御機器を本格的に売り出した。その後は自動券売機、高速道路の交通管制システム、販売時点情報管理(POS)システムなどに手を広げていった。こうして会社の基盤が固まった。

 立石一真は孝雄(長男)、信雄(二男)、義雄(三男)と子供に恵まれた。彼らが証言している父・一真は「とにかく本や新聞をよく読み、驚くほどの勉強家で、無類の新しもの好き」だった。会社の基盤が固まった後は、制御機器分野への半導体利用を思い立ち、手始めにIC(集積回路)、LSI(大規模集積回路)を使った電卓事業に参入した。1959年(昭和34年)、本社があった京都市・御室(おむろ)にちなんで「オムロン」の商標を定め、「八ケタ(電卓)はオムロン」と評判になった。

 1979年(昭和54年)孝雄に社長を譲った。「わがベンチャー経営」「永遠なれベンチャー精神」などの著書に象徴されるように、一真は常に新ビジネスを模索し躍動感ある企業を理想とした。

(参考資料)日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 立石一真」

与謝野鉄幹:雑誌『明星』で浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人

与謝野鉄幹 雑誌『明星』で浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人

 与謝野鉄幹は雑誌『明星』を創刊し、浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人であり、詩人だ。自然主義興隆後は声望が凋落したが、才能豊かな人物だった。鉄幹の生没年は1873(明治16)~1935年(昭和10年)。

 与謝野鉄幹は京都府岡崎(現在の京都市左京区)に与謝野礼厳(れいごん)の四男として生まれた。本名は寛、鉄幹は号。与謝野晶子の夫。生家の寺の没落に伴い、寛は少年時代から他家の養子となり、大阪、岡山、徳山と転住し、世の辛酸をなめた。しかし、一時代の頂点を極め、自然主義興隆後、歌人としての声望は凋落したものの、鉄幹は40代半ば以降、慶應義塾大学教授、文化学院学監を務めた。寛の父・礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶。父は庄屋の細見家の次男として生まれたが、京都府与謝野郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初めから「与謝野」と名乗るようになったという。正しい姓は與謝野。母は初枝、京都の商家の出だ。

 1863年(明治16年)、与謝野寛は大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、1891年まで安藤姓を名乗った。1889年(明治22年)、西本願寺で得度を受けた後、山口県徳山町の兄照幢の寺に赴き、その経営になる徳山女学校の教員となり、同寺の布教機関紙『山口県積善会雑誌』を編集。そして翌1890年(明治23年)鉄幹の号を初めて用いた。さらに1891年養家を離れて、与謝野姓に復した。寛は山口県徳山市(現在の周南市)の徳山女学校で国語の教師として4年間勤務したが、女子生徒、浅田信子との間に問題を起こし、退職。このとき女の子が生まれたが。その子は間もなく死亡。次いで別の女子生徒、林滝野と同棲して一子、萃(あつむ)をもうけた。

 1893年(明治26年)、寛は上京し、落合直文の門に入った。20歳のときのことだ。同年、浅香社結成に参加。「二六新報」に入社。1894年(明治27年)、同紙に短歌論『亡国の音』を連載、発表。旧派の短歌を痛烈に批判し、注目された。1896年(明治29年)、出版社、明治書院の編集長となった。そのかたわら跡見女学校で教鞭をとった。同年7月歌集『東西南北』、翌1897年(明治30年)歌集『天地玄黄(てんちげんこう)』を世に出し、その質実剛健な作風は「ますらおぶり」と呼ばれた。

 1899年(明治32年)寛は東京新誌社を創立。同年秋、最初の夫人、浅田信子と離別し、二度目の夫人、林滝野と同棲した。1900年(明治33年)、『明星』を創刊。北原白秋、吉井勇、石川啄木らを見い出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。1901年(明治34年)鳳晶(与謝野晶子)と結婚。短歌革新とともに、詩歌による浪漫主義運動展開の中心となり、多くの俊才がここに集まった。以後、『明星』の主宰者として後進の指導にあたるとともに、詩歌集・歌論集を出版した。歌は雄壮で男性的だった。1911年、渡欧しパリに滞在。1913年(大正2年)パリから帰国。1919年(大正8年)~1932年(昭和7年)、慶応大学教授を務め、国文学および国文学史を講義した。また、1921年(大正10年)、西村伊作らと文化学院を創設している。

 鉄幹の最後の主宰誌『冬柏(とうはく)』(1934年10月号)に掲載された「四万(しま)の秋」より一句紹介する。

 「渓(たに)の水汝も若しよき事の 外にあるごと山出でて行く」

 これは四万温泉に旅した折、そこで見た四万川渓流を歌ったものだ。秋の歌だが、新春にふさわしい風趣もある。渓流の清冽な若々しさを讃えつつも、若さの持つ、定めない憧れ心を揶揄してみせることも忘れない。鉄幹自身そういう若さを最もよく知り、生きた人だった。軽やかだが思いは深い。半年後の1935年3月に彼は亡くなっている。

 最後に、鉄幹のよく知られた代表作『人を恋ふる歌』の一節を記しておく。

 「妻をめとらば才たけて 顔(みめ)うるはしくなさけあり 友をえらばは書を読みて 六分の侠気四分の熱」

(参考資料)渡辺淳一「君も雛罌栗(こくりこ) われも雛罌栗(こくりこ) 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」

与謝蕪村 多芸で芭蕉,一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人

与謝蕪村 多芸で芭蕉,一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人

 与謝蕪村は江戸時代中期の俳人・画家で、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸時代俳諧の巨匠の一人であり、中興の祖といわれる。画壇・俳壇両方で名を成した、類稀なるアーティストであり、絵画的浪漫的作風で俳人として一派を成した。絵画は池大雅(いけのたいが)とともに文人画で並び称された。また、俳句と絵でこっけい味を楽しむ「俳画」の創始者でもある。蕪村の生没年は1716(享保元)~1783年(天明2年)。

 与謝蕪村は摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら、現在の大阪市都島区毛馬町)で生まれた。姓は谷口あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。俳号は他に夜半亭(二世)・落日庵・四明・宰鳥など。画号は春星、謝寅など。「蕪村」とは中国の詩人、陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。

 蕪村は20歳のころ江戸に下り、早野巴人(はじん、号は夜半亭宋阿=やはんてい そうあ)に師事し、俳諧を学んだ。1742年(寛保2年)27歳のとき、師が没したあと下総国結城(現在の茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおかがんとう)のもとに寄寓。松尾芭蕉に憧れて、奥の細道の足跡を巡り、東北地方を周遊した。その際の手記を1744年(寛保4年)、雁宕の娘婿で下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際、編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。

 その後、蕪村は丹後、讃岐などを歴遊し、42歳のころ京都に居を構えた。このころ与謝を名乗るようになった。45歳ころに結婚し、一人娘くのをもうけた。島原角屋で句を教えるなど以後、京都で過ごした。1770年(明和7年)には夜半亭二世に推戴されている。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で68歳の生涯を閉じた。最近の調査で死因は心筋梗塞だったとされている。

 蕪村は松尾芭蕉を尊敬してやまなかった。芭蕉が没して22年後に生まれ、俳人であり画家でもあった彼は、幾通りもの芭蕉像を描いた。いずれも微笑を浮かべた温容だ。早野巴人に俳諧を学んだが、書も絵も独学だった蕪村は芭蕉が心を込めたところを一生懸命に描いた。彼自身の体に芭蕉の精神を入れ、自分の心として描いたのだ。その結果、後世に知られる蕪村の俳画は、芭蕉と心を一つにすることで大成したといえる。

 ただ、生涯師につかず、独自に画風を開いていった蕪村は、60歳を超えて才能を開花させた、遅咲きあるいは、晩成型の俳人・画家だっただけに、経済的にはほとんど恵まれなかった。そのため、ほぼ生涯を通して貧乏と縁が切れなかった。この点は、彼が創始した俳画作品にもよく表れている。蕪村の並々ならぬ芭蕉敬慕の思いは、奥の細道図だけで少なくとも10点は描いたことから知れる。絵の修業時代、奥の細道を追体験する遍歴の旅をしているほどだ。蕪村の俳画において絵と俳句は混然と溶け合った。いわば絵で俳諧する世界だ。その頂点にあるのが蕪村の「奥の細道図屏風」や「奥の細道画巻」だ。

 芸術と人間は一体だと考えた蕪村は生来、去俗の人だったという。「もの云えば唇寒し秋の風」と詠んだ芭蕉こそが心の師だったのだ。俗な言葉を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる。それが大切だ。これが蕪村の精神だった。蕪村は独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語の『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物だ。蕪村に影響された俳人は数多いが、とくに正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことはよく知られ、『俳人蕪村』がある。

 蕪村のよく知られた句には

 「春の海 ひねもすのたりのたり哉」

 「菜の花や 月は東に日は西に」

 「月天心 貧しき町を通りけり」

などがある。

 また、俳画の句に「学問は 尻からぬける ほたるかな」「花すすき ひと夜はなびけ むさし坊」などがある。いずれもこっけい味にあふれた作品だ。

 辞世は

 「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」

 蕪村の主な著作は『新花摘』『蕪村句集』『蕪村七部集』『玉藻集』『夜半楽』などがある。 

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」、NHK「天才画家の肖像・与謝蕪村」

野口英世 黄熱病研究などで知られる細菌学者で、自身も感染し死亡

野口英世 黄熱病研究などで知られる細菌学者で、自身も感染し死亡

 野口英世は黄熱病や梅毒などの研究で、現代の日本人によく知られている、戦前の日本の細菌学者だ。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して亡くなった。2004年から発行されている日本銀行券の千円札の肖像になっている。野口英世の生没年は1876(明治9)~1928年(昭和3年)。

 野口英世は、福島県耶麻郡三ツ和村三城潟(現在の猪苗代湖)で、貧農の野口佐代助・シカ夫妻の長男として生まれた。名前は清作と名付けられたが、22歳のとき英世に改名した。野口清作は1歳のとき、彼の運命を決めることになった事故(?)に遭う。囲炉裏に落ち、左手を大火傷(やけど)したのだ。幸い命に別状はなかったが、左手に大きな障害が残ってしまった。7歳のとき三ツ和小学校に入学した。この年、母から左手の障害から家業の農作業が難しく、将来は学問の力で身を立てるよう諭された。

 母の言葉を守って勉強に精出した結果、清作は13歳のとき、猪苗代高等小学校の教頭だった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学した。そして、清作にとって幸運にもハンディキャップ克服への道が開かれる。清作が15歳のときのことだ。左手の障害を嘆く彼の作文が、小林をはじめとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師、渡辺鼎(かなえ)のもとで左手の手術を受けることができたのだ。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになった。この手術がきっかけで、彼は医師を目指すことを決めたのだ。

 猪苗代尋常高等小学校卒業後、会津若松の渡部鼎の医院の書生となり、4年間医学と外国語を習得。1896年(明治29年)上京、医術開業前期試験に合格。ただちに歯科医、血脇守之助の紹介で、高山歯科学院の用務員となり1897年、済生学舎に入り5カ月後、医術開業後期試験に合格した。翌年、大日本私立衛生会、伝染病研究所(所長は北里柴三郎)助手に採用され、細菌学の道に入った。1899年、アメリカの細菌学者、フレクスナーが来日。その通訳を務めたことを機に渡米を決意した。

 その後、横浜港権疫官補、続いて中国の牛荘(営口)でのペスト防疫に従事した。1900年(明治33年)、血脇の援助を得て渡米し、ペンシルベニア大学のフレクスナーを訪ね、彼の厚意で助手となり、またヘビ毒研究の大家、ミッチェルを紹介された。野口はヘビ毒の研究を始め、1902年フレクスナーと連名で第一号の論文を発表した。1903年デンマーク・コペンハーゲンの国立血清研究所でアレニウスとマドセンに血清学を学び、翌年アメリカに戻り、フレクスナーが初代所長を務める新設のロックフェラー研究所に入所した。1911年(明治44年)、梅毒病原スピロヘータの純培養に成功。世界的にその名を知られ、京都帝国大学から医学博士を得た。この年、アメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚した。

 1914年(大正3年)、東京大学より理学博士の学位を授与された。ロックフェラー医学研究所正員に昇進した。野口は何度かノーベル医学賞候補になっているが、この年最初の候補となった。1918年(大正7年)、ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣された。その後、南米ペルーやアフリカのセネガルなどを訪れ、10年間にわたり黄熱病や風土病研究に携わり、遂にその黄熱病に倒れたのだ。

 野口自身、黄熱病に感染したと認識していなかったのだが、1928年(昭和3年)イギリス領ガーナのアクラのリッジ病院で、51年の生涯を閉じた。遺体はアメリカ・ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。

(参考資料)小泉 丹「野口英世 改稿」、渡辺淳一「遠き落日」

明治天皇 一世一元と定めた近代立憲国家の指導者だが、人物評価は輻輳

明治天皇 一世一元と定めた近代立憲国家の指導者だが、人物評価は輻輳

 明治天皇は薩長両藩による討幕運動が風雲急を告げる中、俄に崩御した父、孝明天皇より皇位を継承、王政復古により新政府を樹立。1868年、明治と改元して、天皇の代替わりに合わせて元号を変更する「一世一元」と定め、京都から東京へ遷都。大日本帝国憲法や教育勅語・軍人勅諭などを発布して、近代立憲国家の指導者として活躍、その功績から戦前には「明治大帝」とも呼ばれた。ただ天皇として、前例のない時代を生き抜いた人物だけに、人間として彼の意思がどこまで貫けたか?とくに大日本帝国憲法下における「統帥権」の問題とからみ、その人物評価は輻輳するところで、極めて難しい。明治天皇の生没年は1852(嘉永5)~1912年(大正元年)。

 明治天皇は第123代天皇(在位1867~1912年)。名は睦仁(むつひと。幼名は祐宮(さちのみや)。孝明天皇の第二皇子。母は権大納言、中山忠能(ただやす)の娘、中山慶子(よしこ)。幼少時を祖父、忠能のもとで過ごした後、1856年(安政3年)内裏へ移った。睦仁親王は父、孝明天皇ともども多難な時代と遭遇し、政治の渦中に巻き込まれた。嘉永、安政年間(1848~1860)には黒船の来航をはじめとして欧米列強による開国要求が相次ぎ、幕府の権威が失墜。朝廷が政治の中心に組み込まれると、天皇も国難に直面せざるを得なくなった。

 「八月十八日の政変」(1863年)、「禁門の変」(1864年)を経て、事態は薩長両藩による討幕運動へと発展する中、孝明天皇は俄に崩御。1867年(慶応3年)睦仁親王が満14歳で践祚の儀が行われ、即位した。1868年(明治元年)、五箇条の御誓文に基づき、太政官の権力集中、三権分立主義、官吏公選などを規定した政体書によって、新しい政治制度を確立するなど新政府の基本方針を表明した。また、明治と改元して「一世一元」の制を定めた。

 明治天皇は若年で即位したため、明治維新は側近の岩倉具視らの主導で推進されたが、公武合体論者の孝明天皇から明治天皇への即位は、それまでの朝廷の政治的風土を一変するのに十分で、それ以後、急速に討幕・王政復古の路線へと突き進んだ。端的には、1868年1月からの「戊辰戦争」で旧幕府勢力を打倒、その環境が整ったわけだ。1871年(明治4年)6月、明治天皇は廃藩置県を断行して中央集権体制を固めていった。と同時に宮中改革も実施され、天皇の生活環境も大きく変わっていった。学問所では元田永孚(ながざね)や加藤弘之が侍講として漢学や洋学を進講した。また侍従となった山岡鉄舟や村田新八によって、武術などの訓練を受けた。これにより、ややひ弱だった若年の天皇が、次第に文武両道に長じた柔和な青年君主に成長していった。

 話は相前後するが、明治初年以降、天皇は全国各地を巡幸することも増え、国内民衆に広く接して、新しい日本の君主としての存在を印象付けた。加えて、外国の使節や賓客と会見することも多く、明治12年に来日した前アメリカ大統領グラントとの会議では、近代国家建設のための多くの助言を得ている。1889年(明治22年)、大日本帝国憲法を発布。帝国議会開設後は政党勢力と藩閥政府との対立の調停者的機能を、また日清・日露戦争では大本営で戦争指導の重要な役割を果たすなど、近代日本の指導者として活躍。その功績から戦前には明治大帝とも呼ばれた。

 明治維新後を展望した坂本龍馬の語録がある。龍馬はその中で、「本当なら、幕府が倒れた後の日本人の精神的な拠り所はキリスト教がいいのだが、これは日本に馴染まない。では、代わりにいったい何を持ってくるか、天皇以外にない」といっている。明治政府の首脳陣はこの考えを実行した。つまり、天皇を「生きた神様」として、日本国民の上に君臨させようとしたのだ。ある意味で、当時の首脳部にすれば、やむを得なかったことかもしれない。ただ、その天皇がいままでのように、御所の奥に隠れ住み、いわゆる“雲の上の存在”として、そのままいたのでは、国民にとってありがたみが薄い。もっと民衆の前に現れる存在としての、世界に類例のない帝王学が明治天皇に望まれたことは確かだ。そのための行き過ぎもあった。

 明治天皇は幕末から明治維新、そして明治という前例のない時代を生き抜いた。しかし、人間として明治天皇の意思がどこまで貫けたかは極めて難しい問題だ。日清・日露戦争など心ならずも、そういう決定をしなければならないことも多々あったに違いない。ただ、かといって明治天皇の生涯をみていると、すべて周囲の言いなりになったわけではない。あるときには頑固なまでに自分の意思を貫いた。総合的な人物評価は難しい。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉森久英「明治天皇」、童門冬二「明治天皇の生涯」、豊田穣「西郷従道」、司馬遼太郎「この国のかたち 四」

本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物

本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物

 本田技研(ホンダ)の創業者・本田宗一郎は、エンジンの猛烈な改良・開発熱にとりつかれながら、権威や常識を覆した自由競争の時代に、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物だ。生没年は1906(明治39)~1991年(平成3年)。

 本田宗一郎は静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で、父・本田儀平、母・みかとの間に長男として生まれた。父は農機具などをつくる村の鍛冶屋だった。もともと農家に生まれたが、手先が器用なことから、15歳のとき袋井の鍛冶屋へ奉公に出、20歳のとき村へ帰って独立した。日露戦争では応召して満州へ行き、復員。27歳のとき、近くの農家の娘で7つ年下のみかと結婚、初めてもうけた子が、宗一郎だった。「宗一郎」と名付けたのは祖父だった。

 本田は1913年、光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)に入学。1922年、二俣町立二俣尋常高等小学校を卒業。東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」に入社。同社に6年間勤務し1928年、のれん分けの形でアート商会浜松支店を開業した。1935年、僧学校教員の磯部さちと結婚。1937年、自動車修理工場の業容は順調に拡大、1939年「東海精機重工業株式会社」(現在の東海精機株式会社)の社長に就任。1945年、三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入った。

 1946年、本田は浜松市に本田技術研究所を設立、所長に就任した。39歳のときのことだ。そして1948年、本田技研工業株式会社を浜松市に設立。同社代表取締役に就任。資本金100万円。従業員20人でのスタート、二輪車の研究を始めた。1949年は、本田にとってターニングポイントとなった年だった。この年、後に本田技研(ホンダ)の副社長となる藤沢武夫を、東京の知人に経理を任せられる人物として紹介されたのだ。藤沢は本田より4歳年下で、技術には弱いが、販売や経理には極めて明るかった。そこで、本田は以後、藤沢に経営の一切を任せ、研究・開発に没頭。この役割分担により、職人肌の技術者、本田はカネや販売の苦しみを味わうことなく、才能を存分に発揮し、本来の仕事に没入できたのだ。

 二代目社長の河島喜好は、藤沢さんと出会わず、あのまま本田さんだけでやっていたら、本田技研は10年ももたなかったのではないか-と語っている。また、藤沢と出会わなかったら、本田は浜松の中小企業のオヤジで終わっていたのではないかともいわれている。それほどに、藤沢は稀代の経営の天才ともいわれる手腕を発揮、本田の生涯の分身ともいえる存在だった。こうして二人は本田技研(ホンダ)を世界的な大企業に育て上げたのだ。1973年、本田は本田技研工業社長を退任、藤沢とともに取締役最高顧問に就任した。1989年、日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たした。 

(参考資料)城山三郎「燃えるだけ燃えよ 本田宗一郎との100時間」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 本田宗一郎」、清水一行「器に非ず」

豊田喜一郎 「純国産」技術で自動車産業の礎築き「TOYOTA」創業

豊田喜一郎 「純国産」技術で自動車産業の礎築き「TOYOTA」創業

 2010年、トヨタ自動車は販売台数で、長期にわたり繁栄を謳歌してきた巨大なアメリカの象徴、ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き世界一となった。豊田喜一郎は20世紀の、いや21世紀に入ってもさらに飛躍を続ける、日本を代表する企業、トヨタ自動車の創業者だ。欧米に50年遅れて出発した日本の「純国産」自動車産業。技術も産業基盤もおぼつかない当時の状況を認識しながら、豊田喜一郎は戦前戦後の激動期、日本の自動車産業の礎を築いていった。米国フォード、GMの日本進出を横目で見ながら、喜一郎に迷いはなかったのか。今日の世界企業「TOYOTA」の姿が果たして想像できたのか。豊田喜一郎の生没年は1894(明治27)~1952年(昭和27年)。

 1933年(昭和8年)喜一郎は豊田自動織機製作所に自動車部を設立した。1923年(大正12年)の関東大震災以降、急成長した日本の自動車市場に米国のフォード、GMが相次いで進出してきていたころのことだ。そんな中、大財閥も二の足を踏んだ純国産乗用車生産の難事業。技術の蓄積が段違いのこれら米国の巨人に、彼は純国産車で挑むことを表明したのだ。そして、長期にわたる欧米視察で、自動車産業の隆盛をつぶさに見て回った。その結果、自動織機ではどこにも負けないという自負に加え、自動車産業を興すには製鉄、ガラス、ゴムなどの産業基盤の充実が不可欠という技術者の冷静な判断もあった。

 喜一郎は自動織機の開発にあたっても最終的に仕上げた。そして英国のプラット社にG型自動織機のライセンスを与え、見返りに10万ポンドを得ている。それを元手に自動車エンジンの試作に必要な鋳造や鍛造という金属加工の基礎の基礎から、経験と知識を積み上げていった。だが、自動車事業の産業基盤を整備・充実するには莫大な資金が必要だ。恐らく当時、豊田グループを切り盛りしていた豊田自動織機社長で義兄の豊田利三郎の了解のもと、準備段階から相当な資金が出ていたのだろう。だからこそ、高価なプレス機械、最新の鋳造装置などに惜しげもなく資金を投じることができた。また、二高、東大を通じての人脈が自動車事業を支えた。自動車はその国の科学技術の総合力が試される産業なのだ。

 喜一郎の持論は「技術はカネでは買えない」だ。個別の技術で優れたモノは海外から導入してもいいが、大きな技術の体系、産業のシステムは、自前で組み上げないと、決して定着しないという哲学だ。技術者・研究者を育て、関連の産業の振興も視野に入れてこそ、日本に自動車産業が根付くと考えていたのだ。1938年(昭和13年)、愛知県西加茂郡挙母(ころも)町(現在の豊田市)に、自動車専用工場が完成した。喜一郎はこのころから、必要なモノが必要な時に供給されるしくみについて「ジャスト・インタイム」という言い回しを盛んに使うようになったとされる。世界に冠たるトヨタの看板方式の哲学的な原初だ。

 独学で発明の才を磨いた父・豊田佐吉と異なり、喜一郎は旧制二高(現在の東北大)から東京帝国大の機械工学科を卒業した、当時日本屈指の機械技術者だった。豊田式自動織機発明者として教科書にも登場する喜一郎の父佐吉は一人一業を説いて、喜一郎に自動車づくりの道を歩ませた。そして喜一郎は、長男の章一郎(トヨタ自動車社長・会長)に、住宅産業への進出を勧めたといわれる。

(参考資料)日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 豊田喜一郎」、城山三郎「燃えるだけ燃えよ 本田宗一郎との100時間」

尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄

尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄だった

 『金色夜叉』で広く知られる尾崎紅葉は明治時代半ば、若くして文豪と仰がれた。その彼に作家とは別の顔がある。文学作品ほどには知られていないが、俳人としての顔だ。実は、彼は俳人としても一家を成す作者だった。ただ、井原西鶴崇拝の彼は、初期俳諧談林調の影響が尾を引き、同世代の正岡子規の革新性には欠けていた。しかし彼には、清新な作風の句も少なからずあり、明治俳壇の一方の雄だった。紅葉の生没年は1868(慶応3)~1903年(明治36年)。

 尾崎紅葉は江戸・芝中門前町(現在の東京都港区浜松町)で生まれた。本名は徳太郎。号は「縁山(えんざん)」「半可通人(はんかつうじん)」「十千万堂(とちまんどう)」などがある。帝国大学国文科卒中退。父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。

 徳太郎は1872年(明治5年)、4歳で母と死別し、母方の祖父母、荒木舜庵・せんのもとで育てられた。寺子屋・梅泉堂(現在の港区立御成門小学校)を経て府中学校(現在の日比谷高校)に進学。一期生で同級に幸田露伴、ほかに沢柳政太郎、狩野亨吉らがいた。だが、事情はよく分からないが、彼は中退した。その後、徳太郎は岡千仭の綏猷(かんゆう)堂で漢学、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。そして1883年(明治16年)東大予備門に入学。1885年(明治18年)、紅葉は山田美妙らと硯友社を設立し、「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、これが出世作となった。1890年(明治23年)、彼は学制改革により呼称が変わった帝国大学国文科を中退した。

 ただ、彼はこの前年末に大学在学中ながら読売新聞社に入社していた。これにより以後、紅葉の作品の重要な発表の舞台は読売新聞となった。『伽羅枕』(1890年)、『多情多恨』(1896年)などが同紙に掲載され、読者の間で高い人気を得た。その結果、幸田露伴と並称され、明治時代の文壇で重きを成した。このため、この時期は「紅露時代」とよばれた。紅葉は1897年(明治30年)から読売新聞に『金色夜叉』を連載開始し人気を博したが、病没で未完のままに終わった。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。

 冒頭にも述べた通り、紅葉には小説家ほどには知られていないが、俳人としての顔もあった。彼は、門下の小説家たちに句作りを指導し、句会を催す時には実に真剣に精進したという。俳句を作るときの観察力の訓練や、凝縮した表現法が、小説を作るうえでも大いに役立つと考えたかららしい。1895年(明治28年)、「秋声会」という俳句の会を結成し、指導したほど、俳句に熱心だった。秋声会のメンバーには泉鏡花(きょうか)、広津柳浪(りゅうろう)、川上眉山(びざん)その他小説の門弟たちがいた。

 最後に紅葉の句を紹介しておく。

 「春寒(しゅんかん)や日闌(た)けて美女の嗽(くちすす)ぐ」

 これは、彼の句の特徴の一つとされる艶麗な情緒の句だ。恐らく遊里の情景を歌ったものだろう。春は浅く、風はまだ肌寒い。早起きを怠った美女が、日もたけて起き出して嗽いでいる。

 もう一句、春の作品を紹介する。

 「鶯(うぐいす)の脛(すね)の寒さよ竹の中」

 庭先の竹の林にきている鶯。枝から枝へ飛び移る姿はいかにも春のものだが、その足がなんともきゃしゃで、寒そうだ-というものだ。普段なら気にもとめない鳥の「脛の寒さ」にふと気付いた風情の句で、春とはいえ、寒さが身にしみる日の一情景とみられる。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」

塙 保己一:数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を 盲目の国学者

塙 保己一 数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を編纂した盲目の国学者

 塙保己一(はなわほきいち)は、盲目ながら実に40年もの刻苦(こっく)研鑽の末、古典籍の集大成『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』を編纂した江戸時代後期の国学者だ。彼は、盲目のために人が音読したものを暗記して学問を進めたのだが、実に数万冊の古文献を頭に記憶した驚異の人物だった。その学識の高さは幕府にも知られ、総検校(そうけんぎょう)となり、「和学講談所」に用いられた。

 塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)の農家の長男として生まれた。父・荻野宇兵衛、母・きよ。幼名は寅之助、失明後に辰之助と改めた。また一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗った。雨富検校に入門してからは千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一と改名した。塙は師の雨富須賀一検校の本姓を用いたもの。弟・卯右衛門。塙保己一の生没年は1746(延享3)~1821年(文政4年)。子に幕末の国学者、塙次郎がいる。次郎は保己一の四男で、本名は忠宝(ただとみ)。次郎は通称。『続群書類従』『武家名目抄』『史料』などの編纂に携わった。次郎は1863年(文久2年)、伊藤博文、山尾庸三の2人に暗殺された。

 塙保己一こと荻野寅之助は、7歳のとき肝の病がもとで失明した。あるとき修験者に生まれ年と名前を変えることを勧められ、年を2つ引き、名を辰之助と変えた。だが、視力が戻ることはなかった。荻野辰之助は1760年(宝暦10年)、15歳のとき江戸へ出て盲人として修行。17歳で盲人の職業団体、当道座の雨富須賀一検校に入門し、名を千弥と改め、按摩、鍼、音曲などの修行を始めた。しかし、生来不器用で、いずれも上達しなかった。また、座頭金の取り立てがどうしてもできず、自殺しようとした。その直前で助けられた千弥は検校に学問への思いを告げたところ、3年間経っても見込みが立たなければ国許へ帰すという条件付きで認められた。

 保己一の学才に気付いた雨富検校は、彼に様々な学問を学ばせた。国学・和歌を荻原宗固(百花庵宗固)に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮にそれぞれまなんだ。書物を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。1769年(明和6年)には晩年の賀茂真淵に入門、わずか半年だったが『六国史』を学んだ。1775年(安永4年)、衆分からこう当に進み、塙姓に改め、名も保己一と改めた。

 塙保己一は1779年(安永8年)、彼にとっては生涯をかけたライフワークとなる『群書類従』の出版を決意した。1783年(天明3年)、保己一は遂に検校となった。1784年(天明4年)、和歌を日野資枝(すけき)に学んだ。1785年(天明5年)には水戸・彰考館に招かれて『大日本史』の校正にも参画し、幕府からも学問的力量を認められた。そこで保己一は1793年(寛政5年)、幕府に土地拝借を願い出て、「和学講談所」を開設、会読を始めた。ここを拠点として記録や手紙に至るまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』だ。また歴史史料の編纂にも力を入れていて、『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折あったものの、東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。

 1819年(文政2年)、保己一のライフワークとなっていた『群書類従』が完成した。保己一は74歳になっていた。出版を決意し、その作業に着手したのが1779年(安永8年)、34歳だったから、実に40年の歳月が経過していた。この時点で併行して進められていた『続 群書類従』は、自らの手で完成させられなかったが、彼がこの事業を推進したからこそ、わが国の貴重な古書籍が散逸から免れ、人々に利用されてきた意義は大きい。

 保己一はまた、既述の通り様々な師に学んだ和歌でも優れた資質を発揮した。

 「鴨のゐる みぎはのあしは 霜枯(しもが)れて 己(おの)が羽音ぞ 独り寒けき」

  保己一の和歌は新古今調で、華麗鮮明な影像に富み、とても盲目の人の作品とは思えない。

 盲人学者・塙保己一の名は海外にも知られているようで、「奇跡の人」ヘレン・ケラーは幼少時から「塙保己一を手本にしなさい」と両親から教育されたという。1937年(昭和12年)に来日した際も、彼女は保己一の記念館(生家)を訪れている。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」

湯川秀樹 日本人を勇気付けた日本人初のノーベル賞受賞者

湯川秀樹 日本人を勇気付けた日本人初のノーベル賞受賞者

 湯川秀樹は周知の通り戦後、1949年(昭和24年)中間子理論で、日本人で初めてノーベル賞を受賞、日本人を勇気付けた理論物理学者だ。

 湯川秀樹は東京府東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)で生まれたが、幼少時、父・小川琢治の京都帝国大学教授就任に伴い、一家で京都府京都市へ移住。1919年、京都府立京都第一中学校(現在の洛北高校)に入学。中学時代の湯川はあまり目立たない存在で、渾名は「権兵衛」。物心ついてからほとんど口を利かず、湯川は面倒なことはすべて「言わん」の一言で済ませていたため「イワンちゃん」とも呼ばれていた。第一中学の同期には学者の子供が多く、同じくノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎は一中で1年上、三高、京大では同期だった。1929年、京都帝国大学理学部物理学科卒業。1932年、湯川玄洋の次女、湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となった。

 1934年、湯川は中間子理論構想を発表した。まだ27歳のときのことだ。そして1935年「素粒子の相互作用について」を発表。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を理論的に予言した。この理論は1947年、イギリスの物理学者によって中間子が発見され、湯川理論の正しさが証明されることになった。すでに日中戦争中だっただけに、日本人学者は海外からはなかなか評価されなかったが、湯川はソルベー会議に招かれ、以後、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つようになった。1949年、中間子理論により湯川はノーベル物理学賞を受賞。敗戦、GHQの占領下にあって自身を失っていた日本国民に大きな影響を与えた。

 湯川の功績は、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞したことだけではない。①アインシュタインらと平和運動に積極的に取り組んだこと②京都大学に「基礎物理学研究所」を設立、世界の研究者や、大学の枠を超えて若き研究者が集まり、思う存分意見を闘わせることができる国内・外研究者の“交流の場”をつくったこと③世界の物理学界に大きな刺激を与え続ける物理学の英文の論文雑誌「プログレス」を創刊したこと-などをその主要な功績に挙げることができる。

 湯川は、アインシュタインらが世界の著名科学者に呼びかけ、世界各国の指導者に核兵器廃棄を勧告した平和宣言「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した11名(全員がノーベル賞受賞者)に名を連ねている。基礎物理学研究所は、湯川がノーベル物理学賞受賞を記念して設置された国内外の研究者の“交流の要(かなめ)”となった。1953年に第1回国際理論物理会議が開かれた。初回の会議参加者の中に、後にノーベル賞受賞者となる物理学者の名がある。同研究所は現在、理論物理、基礎物理、天体核物理まで広範囲に網羅、既成概念に捉われない広い視野で運営することを目指した湯川の精神が反映されている。

 「プログレス」は月刊。昭和21年の創刊時、湯川が資金の工面など発行に奔走。現在、800部が世界44カ国の研究機関に送付されている。プログレス創刊号に朝永振一郎の論文が掲載され、これが1965年(昭和40年)、朝永が日本人2人目のノーベル物理学賞の受賞対象論文となった。また、08年、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英、小林誠の対象論文もプログレスで発表されている。

(参考資料)梅原 猛・桑原武夫・末川 博「現代の対話」、梅棹忠夫「人間にとって科学とは何か」、上田正昭「日本文化の創造 日本人とは何か」、湯川秀樹編「学問の世界 対談集」、「人間の発見 湯川秀樹対談集」、梅原 猛「百人一語」

東郷平八郎 日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官

東郷平八郎 日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官

 東郷平八郎は周知の通り、日露戦争・日本海海戦で連合艦隊司令長官として、当時世界で屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を、一方的に破って世界の注目を集め、「アドミラルトーゴー」として、その名を広く知られることになった。当時、日本の同盟国だったイギリスのジャーナリストらは、東郷を自国の国民的英雄・ネルソン提督になぞらえ、「東洋のネルソン」と称えた。

 東郷は、わが国の近代史を形づくるうえで、大きな影響を及ぼした人物だ。しかし軍人であり、その最大の活躍場面が海戦だったため、戦後の特異な風潮のもとに、歴史の表面から覆い隠され、教科書からも抹消された。彼自身が古武士的な、地道で控えめな性格であり、生涯の大部分を懸けて身を置いた海軍が、政治的には表舞台へは出にくい社会だった。そのため、87年という長い一生にもかかわらず、日清・日露の戦争中を除いては劇的要素に乏しく、いわば平々凡々に終始した。裏返せば、彼は日清・日露の戦争で鮮やかに輝くためだけに、遣わされた人物だったのかも知れない。

 東郷平八郎は薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場(下鍛冶屋町方限、現在の鹿児島県立鹿児島中央高校付近)に薩摩藩士・東郷吉左衛門実友と、堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれた。幼名は仲五郎(なかごろう)。平八郎の生没年は1847(弘化4)~1934年(昭和9年)。

 鹿児島の加治屋町は、山口・萩と並んで多くの明治維新の元勲を輩出した町として有名だ。いまも西郷隆盛・従道兄弟はじめ、大久保利通、大山巖、山本権兵衛らとともに、この東郷平八郎の生誕の地の碑を見ることができる。平八郎は8歳のころから、道ひとつ隔てた大山家(大山巖)の前を通って、大山家のすぐ近くにある西郷家に習字を習いに行くのが日課だった。吉之介(隆盛)は流罪に処され家にはいなかったが、その弟の吉次郎が、平八郎を可愛がり、書道を教えるかたわら、四書五経の素読もさせた。平八郎は、剣術は薬丸半左衛門に弟子入りして示現流の稽古一本に打ち込んだが、武士としての教養は川久保清一の塾で漢学を修めた。また、彼はむっつりしていて言葉数は多くはないが、なにかひらめくものがあると、ぱっと意外なことをいう才気煥発の面も持ち合わせていた。14歳のとき元服して平八郎実良と名乗った。1867年(慶応3年)、分家して一家を興した。

 平八郎は西郷吉次郎の口から、兄の吉之介、そして神戸海軍操練所塾頭上がりの坂本龍馬らの考え方、そして彼らの動きを含め、激しく変わりつつある幕末の社会情勢を聞かされた。彼は龍馬や中岡慎太郎のように天下国家のために動き回る人たちをうらやましく思った。そして早く薩摩を離れ、国事のために身を捧げたいと思った。平八郎は薩摩藩士として薩英戦争(1863年)に従軍し、戊辰戦争(1868~69年)では新潟、函館に転戦して戦った。薩英戦争に敗れ大損害を受けた薩摩藩は、直ちに海軍の整備に着手。翌年の元治元年に、今までの蒸気方を改めて開成所を開き、海軍砲術、海軍操練、海軍兵法、航海術を学科の中に加えた。薩摩藩は慶応2年、開成所を陸軍方と海軍方に分ける通達書を発布した。平八郎は家老の小松帯刀が海軍掛を務める海軍方に進んだ。

 平八郎は明治維新後の新海軍で1871年(明治4年)~1878年(明治11年)までイギリスに留学。その後、海軍少佐(1879年)となり、「浪速」艦長として日清戦争に出役、中将(1898年)となった。そして1903年、連合艦隊司令長官になり、参謀に秋山真之を得て、日露戦争において当時、世界屈指といわれたロシアのバルチック艦隊を撃滅、日本を圧倒的勝利に導いたことは周知の通りだ。官位および位階は従一位、元帥・海軍大将。

 ところで、東郷が連合艦隊司令長官に決定するにあたって、こんな逸話がある。連合艦隊という名前は、日露戦争開始とともにつけられた名前で、平時は常備艦隊と言っていた。常備艦隊の司令長官が、戦時は連合艦隊の司令長官になる。当時の常備艦隊の司令長官は、日高壮之丞だった。当時の海軍大臣・山本権兵衛(ごんのひょうえ)が何もしなければ、そのまま日高が連合艦隊司令長官になるはずだったし、日高自身もそう思っていた。

 ところが、山本権兵衛は親友であり、勇将としても名声があった日高の首を切り、当時、舞鶴にいた東郷を持ってきた。東郷は当時、それほど有能な人物とは思われていなかった。それだけに、意外な人事だった。日高は怒った。そして、海軍大臣の部屋に飛び込んできた。そこで、山本は日高に説明した。「お前は非常に賢い人間だが、非常に癖があり、人間に対する好みも激しい。そして戦術にも偏ったことを好む傾向がある。そういう人間は総大将にはなれないんだ」と。

 その点、「東郷にはそういうところがない。それに東郷はおとなしい男で、上の、大本営の命令を聞く男だ。お前を連合艦隊の司令長官にしたら、大本営とけんかになって、お前は聞かないだろう。そうすると、戦争ができなくなる」。日高は返す言葉がなく、黙って退出していったという。山本権兵衛の沈着冷静な見識眼が東郷起用につながり、「アドミラルトーゴー」を生んだのだ。

(参考資料)真木洋三「東郷平八郎」、吉村昭「海の史劇」、豊田穣「西郷従道」、司馬遼太郎「薩摩人の日露戦争」、三好徹「日本宰相伝② 運命の児」、邦光史郎「物語 海の日本史」

定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

 定朝(じょうちょう)は、平安時代後期に活躍した京仏師のトップに君臨した巨人で、分業による寄木(よせぎ)造りを推進、仏像の制作技術に革命を起こした人物だ。こうした功績と、藤原摂関家の氏長者(うじのちょうじゃ)・藤原道長の庇護を受けたこともあって、仏師として初めて、僧侶の位だった法橋(ほっきょう)、法眼(ほうげん)という僧綱位(そうごうい)を受け、仏師が造仏を通じて仏教興隆に貢献したという評価を受けた。このほか、定朝はそれまで寺院に所属し造仏を行ってきた立場から、独立した仏所を設けて弟子たちを擁し、限られた時間でも多くの造仏を行うというシステムをつくり上げた。

 定朝は仏師僧・康尚(こうしょう)の子。生年不明、没年は1057年(天喜5年)。文献上は多くの事績が伝えられ、各地には定朝作と伝えられる仏像が残っている。が、現存する確実な遺作は平等院鳳凰堂本尊の木造阿弥陀如来坐像(国宝)のみといわれている。ただ、「定朝洋式」が日本人の志向に合致し、その後の仏像彫刻に決定的な影響を及ぼしたことは間違いない。平安時代後期、京仏師は貴族の庇護の下で仏像制作に携わり、仏像修理が主な仕事だった奈良仏師および、後に生まれるその奈良仏師の巨人、運慶の境遇と比較すると、仏像制作の仕事には恵まれていた。

 定朝の特筆すべき功績の一つとして、まず挙げておかなければいけないのが、仏像の寄木造りの技法だ。10世紀までの仏像彫刻に多くみられた一本の木を素材とする一木造りから、定朝はそれまでなかった、数本の木を組み合わせて造る寄木造りの手法を生み出したのだ。この方法だと、分業で複数の仏師が同時に分担したパートの制作にかかれるわけで、大型サイズの仏像を含め、制作期間を大幅に短縮することが可能となった。定朝の主宰する工房は極めて大規模だった。それを裏付けるのが次の例だ。史料によると、1026年(万寿3年)8月から10月にかけて行われた、後一条天皇の皇后(中宮)威子(いし、天皇の外祖父・藤原道長の三女)の御安産祈祷のために造られた27体の等身仏は、125人もの仏師を動員して造られたことが判明している。

 1052年(永承7年)、関白・藤原頼通が父・道長から譲り受けた別荘「宇治殿(うじでん)」を寺に改め、開創したのが平等院だ。平等院鳳凰堂の本尊、定朝の最高傑作といわれる阿弥陀如来坐像について少し記しておこう。穏やかな顔に、たっぷりした頬の膨らみ、瞑想する半眼の目、豊かな胸元、そして結跏趺坐(かっかふざ)して上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)を結ぶ。背後には金色の光背、頭上にも、まばゆい金色の方・円二重の天蓋が覆い、周りには浄土の空に楽(がく)を奏でて飛翔する菩薩が舞う。

 皇円が著した史書「扶桑略記(ふそうりゃっき)」によると、阿弥陀如来坐像が鳳凰堂(阿弥陀堂)に安置されたのは1053年(天喜1年)2月19日。阿弥陀如来坐像は午前2時、京の仏所(工房)を出発、正午近くに宇治に到着。遷座式は天台宗寺門派園城寺(三井寺)の長吏明尊(ちょうりみょうそん)を導師に営まれた。周りを多くの僧たちが念仏を唱えながら行道(ぎょうどう)。散華(さんげ)のなかに楽人が舞い、妙なる雅楽が奏でられた。こうして、極楽浄土がここに舞い降りたのだ。

 阿弥陀如来坐像の安置される阿弥陀堂が鳳凰堂の名で呼ばれるようになったのは、江戸時代の初期といわれる。建物が鳳凰の姿を思わせ、また中堂の屋根に一対の鳳凰が飾られることに由来するという。この一対の鳳凰、北像と南像で大きさは異なるが、2像とも総高は1m足らず。これも定朝の意匠といわれる。

(参考資料)「日本史探訪/藤原氏と王朝の夢」、「古寺を巡る⑬ 平等院」

鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

 サントリーの創業者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)はブドウ酒の輸入販売から始め、日本人の口に合う甘味ワインの製造・販売に成功、国産ウイスキーづくりに挑んだ。そして苦難を乗り越えて、国産の洋酒を日本に広く根付かせた人物だ。社風をうまく表現した、部下への指示は「やってみなはれ」。自らもチャレンジ精神こそ企業活力の源泉であることを体現してみせた。鳥井信治郎の生没年は1879(明治12)~1962年(昭和37年)。

 鳥井信治郎は大阪市東区(現在の大阪市中央区)釣鐘(つりがね)町で両替商、父・忠兵衛、母・こまの二男として生まれた。忠兵衛40歳、母・こま29歳のときの子だ。10歳年長の兄・喜蔵(長男)、6歳上の姉・ゑん(長女)、3歳上のせつ(二女)の兄姉があり、彼はその末っ子だった。父は早く歿しており、彼は80歳まで生き周囲の人に豊かな愛情を注いだ母親に育てられた。

 信治郎は1887年(明治20年)、大阪市東区(現在の大阪市中央区)島町の北大江小学校へ入学。小学校を卒業した彼は、北区梅田出入橋の大阪商業学校へ入り、そこに1~2年在学した後、1892年(明治25年)、数え年14歳で親の家を出て、道修(どしょう)町の薬種問屋、小西儀助商店に丁稚奉公に出た。薬種問屋は旧幕時代までは、草根木皮の漢方薬だけ商っていたが、明治になると洋薬を多く輸入し、ブドウ酒、ブランデー、ウイスキーなどの洋酒も扱っていた。

 信治郎はこの店に数年いるうちに、時代の先端をいく新感覚を身につけるとともに、洋酒の知識を深めることができた。後年、彼が日本におけるウイスキー醸造業の開拓者となる素地は、この店でつくられたのだ。小西儀助商店で3~4年働いた後、彼は博労(ばくろう)町の絵具、染料問屋の小西勘之助商店へ移った。この店でも3年、合わせて7年ほどの徒弟時代を終えて、西区靭中通2丁目で1899年(明治32年)、鳥井商店を開業し、ブドウ酒の製造販売を始めた。数え年21歳のときのことだ。この年、父・忠兵衛が亡くなった。

 信治郎は、1906年(明治39年)には鳥井商店を寿屋洋酒店に店名を変更した。翌年には「赤玉ポートワイン」を発売した。1923年(大正12年)にはわが国初の美人ヌードポスターを発表、大きな反響を呼んだ。翌年には大阪府・島本町に山崎にウイスキー工場をつくった。木津川、桂川、宇治川の三つが合流し、霧が発生しやすい点が、スコッチウイスキーのふるさとに似ていた。竹林の下から良質の水も湧き出ていた。1926年(大正15年)には喫煙家用歯磨き「スモカ」を発売した。

 寿屋が初めてビール事業に進出したのは1928年(昭和3年)のことだ。横浜市鶴見区で売りに出ていたビール工場を101万円で買収。新市場に打って出たのだ。当時のビール業界は4社の寡占。価格も大瓶1本33銭と決まっていた。寿屋はそこに1本29銭でなぐり込みをかけ、さらに25銭まで値下げした。こんな大阪商人の思い切った安値攻勢に手を焼いた麒麟麦酒は、寿屋が他社の空き瓶にビールを詰め、自社の「オラガビール」のラベルを貼って出荷している点に着目し、商標侵害だと提訴した。麒麟は「ビール瓶を井戸水で冷やす際にラベルがはがれ、元の商標が表に出る」と主張。寿屋は敗北した。

 寿屋のビール工場は1カ所だけ。自社瓶しか使えないと、空き瓶の回収に膨大な手間とコストがかかる。負けず嫌いの信治郎は、ガラス研削用のグラインダーを20台導入した。他者の空き瓶から商標部分を削り取るためで、彼の執念の強さを感じることができる。そこまで手をかけたビール工場も1934年(昭和9年)、売却せざるを得なくなった。2年前には好調だった喫煙家用歯磨き事業を売却していたが、同時並行で進めていたウイスキー事業が難航し、資金繰りが逼迫してきたからだ。普通の経営者なら、追い詰められたとき、現金収入のあるビール事業や歯磨き事業を残し、メドが立たないウイスキー事業を整理していたはずだ。だが、そうしなかった信治郎のこだわりが、サントリーの歴史を運命付けたのだ。

 話は前後するが、信治郎がウイスキー事業への進出を決めた1920年代前半、信治郎は全役員の反対に遭った。そのころ英国以外でウイスキーをつくる計画は、荒唐無稽と思われていた。仕込みから商品化まで何年もかかるうえ、きちんとした製品になる保証はないからだ。「赤玉ポートワイン」の販売で得た利益をつぎ込みたいという信治郎に対し、将来ものになるかどうか分からない仕事に全資本をかけることはできない-と反対の合唱だった。ところが、信治郎は反対の声を聞けば聞くほど、事業家意欲を燃やし、「誰もできない事業だから、やる価値がある」と意思を貫き通したのだ。これがサントリーに流れ続けるベンチャー精神の源泉となった。

 創業者・信治郎は“やってみなはれ”を信条としていた。そして、その後継者・佐治敬三は“やらせてみなはれ”を信条とした。「やらせてみなければ人は育たない」。それはいわば、男の向こう傷は仕方がないということで、積極的に飛び出せば何かトラブルが起こる。しかし、何もしないで自滅するよりはいいじゃないかということでもあった。彼はさらに、経営の知恵はつまずき、考え、学び、迷うことの繰り返しの中から生まれてくる。明日の道は、今日の失敗と挑戦が創り出すものだと説いている。信治郎に始まるサントリーの社業の歴史には、こうしたチャレンジ精神が色濃く息づいている。

(参考資料)杉森久英「美酒一代 鳥井信治郎伝」、邦光史郎「やってみなはれ 芳醇な樽」、佐高 信「逃げない経営者たち 日本のエクセレントリーダー30人」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 鳥井信治郎」

 

嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

 「薬子の変」を経て、朝廷が安定を回復した、嵯峨天皇・上皇の御世、嵯峨が大御所として文字通り王権を統べていた時代、弘仁、天長、承和にわたる30年間は政局も安定し、平安文化が花開いた時期だ。空海(弘法大師)、小野篁(たかむら)ら多くの人材が輩出し、律令制を整備するため『弘仁格(きゃく)』『弘仁式』が編纂され、勅撰の漢詩集『凌雲集(りょううんしゅう)』や『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』が編まれ、唐風文化が隆盛となった。能筆家の嵯峨天皇が、空海、橘逸勢(はやなり)とともに「三筆」と称されたことは周知の通りだ。嵯峨天皇の生没年は786(延暦5)~842年(承和9年)。

 嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子。諱を神野(賀美能、かみの)といい、母は父・桓武の皇后、藤原乙牟漏(おとむろ)。806年(大同元年)5月、兄・平城(へいぜい)天皇の皇太子となり、809年(大同4年)病気の兄から譲位され、即位した。皇后には橘嘉智子(かちこ)を立て、交野(たかの)女王と大原全子(おおはらのまたこ)を妃に迎えた。橘嘉智子との間には正良(まさら)親王(後の仁明天皇)、正子(せいし)内親王(淳和天皇の皇后)をもうけ、交野女王との間には有智子(うちこ)内親王、大原全子との間には源融(とおる)が生まれた。

 病気のために譲位したはずの平城上皇が、譲位後にわかに健康を取り戻したか、側近の藤原薬子や兄・仲成らとともに、政権奪回を目指して容喙(ようかい)するようになった。そこで嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)や藤原冬嗣を蔵人頭に任じてこれに対抗した。810年(弘仁元年)、平城上皇方が平城遷都の命を出したことから、征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂らを派遣して上皇方を制圧した。これにより、上皇は出家、薬子は自害、仲成は射殺され、皇太子・高岳親王も廃されたため、嵯峨天皇の朝廷は安定を回復した。

 嵯峨天皇は、性格的に兄の平城上皇とは違い、穏やかでゆったりした人物だった。彼は決して親政の姿勢を崩さなかったが、政治を多く公卿グループに委ねるという方針をとっていた。そして、父・桓武とは大いに異なり、14年間の執政に飽き飽きして、何とか王座を離れようとしていた。823年(弘仁14年)4月、嵯峨は冷然院(れいぜんいん)という離宮に移り、右大臣・藤原冬嗣に退位を伝えた。冬嗣は即座に反対した。しかし、嵯峨は皇太弟に皇位を譲った。即位したのが淳和天皇だ。

 嵯峨上皇が冷然院で自適の生活を始めたのは38歳のときだ。嵯峨はこれから19年間、文字通り大御所として、弟の淳和の時代、嫡子の仁明の治世の前半を見守ることになる。嵯峨上皇の大家父長制のもとに、王権の継承はすこぶる平穏に行われた。嵯峨も父・桓武に劣らず女色を好み、多数の妻を擁し、50人くらいの子女をもうけた。そして、身分の高くない母の子女には源(みなもと)姓を与えて臣籍にうつした。仁明朝に至って、彼らの多くは政界に進出し、中でも源常(ときわ)は、左大臣・藤原緒嗣(おつぐ)の没した年の翌844年(承和11年)にその地位を襲い、その兄・信(まこと)は中納言だった。他に参議に列していた者もいた。嵯峨源氏は、藤原氏の諸流に対抗する一大勢力だった。

 嵯峨上皇は、その血族で王権を固めたばかりでなく、藤原氏との連携あるいは結託も疎かにしなかった。とくに彼は冬嗣との関係を深め、娘・源潔姫(きよひめ)を冬嗣の次子・良房に与えている。天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことだった。こうして冬嗣・良房の藤原北家の流れは、この大家父長制のごく近くに、政治的には極めて有利な位置を占めたわけだ。その結果、仁明朝の848年(嘉祥1年)には、源常(37歳)は左大臣、藤原良房(45歳)は右大臣、そして源信(39歳)は大納言と、嵯峨源氏と藤原北家が朝廷の政権中枢を張り合った時期も出現した。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉本苑子「檀林皇后私譜」、司馬遼太郎「空海の風景」

大石内蔵助 日頃は凡庸だったが、危機に真価を発揮した忠臣蔵のリーダー

大石内蔵助 日頃は凡庸だったが、危機に真価を発揮した忠臣蔵のリーダー

 大石内蔵助(くらのすけ)は播州赤穂藩の筆頭家老で、周知の通り、江戸・元禄時代、赤穂浪士四十七士を束ねて、吉良邸へ討ち入り、上野介の首級を上げ、主君・浅野内匠頭長矩の無念を晴らした、いわゆる「忠臣蔵」の見事な統率力あるリーダーであり、智将だ。赤穂四十七士と称されるが、1700年(元禄13年)3月、江戸城松之廊下の変事の急報が赤穂藩にもたらされたとき、復仇を誓った同志は122人もいた。その過半が脱落した末の一挙だ。お家断絶に伴い、禄を離れ、生活に困窮した同志を扶助し、急進派の暴発を抑えながら、とにかく五十名近くを率いて大事に臨み、成し遂げた。それは並大抵のことではなかったろう。

 大石内蔵助は大石良昭の長男として生まれた。幼名は松之丞、諱は良雄。渾名は昼行燈。内蔵助の生没年は1659(万治2)~1703年(元禄16年)。そもそも大石家は、平将門を討った藤原秀郷の子孫と伝えられ、その一族が近江国栗太郡大石庄の下司職になったので、その地名をとって大石を名乗るようになったのだという。また、主君浅野家と大石家とは深い婚姻・養子の関係で繋がっている。そのため、大石家は浅野家唯一の譜代家老(代々家老となる家柄)であり、出自の良さも合わせて赤穂藩において特別な地位を占めていたのだ。

 大石内蔵助良雄は1673年(延宝元年)、父・良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽の養子となった。また、この年に元服して喜内(きない)と称するようになった。1677年(延宝5年)、良雄が19歳のとき祖父・良欽が死去し、その遺領1500石と「内蔵助」の通称を受け継いだ。また、赤穂藩の家老見習いになり、大叔父の良重の後見を受けた。1679年(延宝7年)、21歳のとき正式に筆頭家老となった。1683年(天和3年)、良雄の後見をしていた良重も世を去り、いよいよ独立しなければならなくなった。

 それにしても20代半ばまで、そして平時における内蔵助は家格の割に凡庸で、「昼行燈(ひるあんどん)」と渾名されていたことは有名だ。秀でた部分がみえなかった。したがって、藩政は老練で財務に長けた家老・大野知房が牛耳っていたと思われる。筆頭家老とは名ばかりだった。そんな内蔵助に自覚を促し、精神的に自立させたのはやはり身を固め家庭を持ったことだった。1686年(貞享4年)、豊岡藩・京極家筆頭家老、石束毎公の娘、りく(18歳)と結婚。1688年(元禄元年)長男・松之丞(後の主税良金=ちからよしかね)、1690年(元禄3年)長女・くう、1691年(元禄4年)には次男・吉之進(吉千代とも)が生まれている。そして、内蔵助は1693年(元禄6年)京都の伊藤仁斎に入門して儒学を学んだという。

 皮肉なことに、内蔵助が紛れもなく世間の耳目を集めたのは、赤穂藩取り潰し後の藩札引き替えなどの残務整理と城明け渡しの際にみせた手際の良さだった。要するに、ふだんは茫洋として、才子ぶったところをみせることは全くなく、危機に際して真価を発揮するタイプの人物だったのだ。

 大石内蔵助が1702年(元禄15年)、江戸に入り、討ち入り決行の20日前に在京の旧知の僧に宛てた書状に、次の歌がある。

 「とふ人とかたること葉のなかりせば 身は武蔵野の露と答へん」

 深みと重みがあり、冷徹な分析能力、洞察力、そして慎重かつ豪胆な行動で事を成した内蔵助の人物像にふさわしい歌だ。

 内蔵助の辞世として一般的に伝えられているものは、上記の決行20日前に詠んだものとは明らかに違う。次の歌がそれだ。

 「あな楽し思ひは霽(は)るる身は捨つる 浮き世の月に翳(かげ)る雲なし」

 赤穂浪士や忠臣蔵に関する近年の評伝や文学作品には、内蔵助の軽妙さや、洒脱な側面に光を当てて描くものが多い。そんな内蔵助の人物イメージに、この辞世は合致している。だが、本来の内蔵助の心情に照らして熟慮すれば、やはり上記の歌が符合する。

(参考資料)井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代 江戸転換期の群像」

大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

 大原孫三郎は、倉敷を拠点に倉敷紡績、倉敷銀行、倉敷電灯(後の中国電力)など数々の事業を育て上げた人物だ。その一方で、学術、美術など様々な社会事業に先鞭をつけ、一貫してその財を人に投じた。それは生きた金となって、今日なお社会に大原美術館をはじめ2つの大企業(倉敷紡績、クラレ)、7つの研究所(大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、大原農業研究所など)、倉敷中央病院が残され、いまも社会に貢献している。大原孫三郎の生没年は1880(明治13)~1943年(昭和18年)。

 倉敷という街は、大原孫三郎がいなければごく普通の地方の中都市に終わっただろう。一例を挙げると、孫三郎が画家・児島虎次郎に命じて印象派の名画を買い集め、大原美術館をつくった。倉敷の持つその文化性のお陰で、この街は空襲を免れているのだ。また、こんな逸話がある。明治40年、岡山に師団が設けられ倉敷にも連隊が置かれることになった。日露戦争直後、軍国主義のみなぎる時代、街を挙げて快哉を叫ぶはずだ。連隊を置けばカネが落ち、消費が活発になる。いまならGDP換算いくらくらいと、そのあたりの研究所が試算するだろう。経済的にみてこんなおいしい話を、当時まだ30歳に満たぬ孫三郎が先頭に立って反対したのだ。理由は「風紀が乱れる」ということだった。倉敷紡績は若い女子工員を大勢雇用している。若い男と女が集まれば…というわけだ。いずれにしても、倉敷は軍都を免れ、空襲にも遭わず廃墟とならずに済んだ。

 大原孫三郎は、岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は文久年間、村の庄屋を務め、明治中ごろで所有田畑約800町歩の大地主となった豪家だった。二人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。1902年(明治35年)、21歳で父・孝四郎の経営する倉敷紡績に入った孫三郎が、真っ先に手を着けたのは1000人を超す女子工員の労働環境改善だった。1888年(明治21年)の工場開設以来、少女らは12時間交代の徹夜労働を強いられていた。2階建ての大部屋に閉じ込められ、万年床で寝起きする毎日。伝染病の集団感染も起きた。

 孫三郎は、こうした劣悪な環境で睡魔と闘いながら働く従業員の幸福を保証してこそ、事業の繁栄があると考えた。そこで、幹部の反対を押し切り、敷地を購入し平屋の「家族式寄宿舎」を建設した。後にJR倉敷駅の北側に新しく、孫三郎自身が設計した、2棟が向かい合って中庭を持つ「分散式寄宿舎」のある万寿工場をつくっている。孫三郎はまた「飯場(はんば)制度」も廃止した。請負業者が炊事一切、日用品の販売を仕切り、工員の口入れ手数料などでピンハネ商売などが行われていたからだ。こうした工場内で隠然とした力を持つ業者を締め出したのだ。外出や面会を見張る守衛もやめた。細井和喜蔵の『女工哀史』が出版される10年も前の改革だった。

 孫三郎の生家は倉敷一の大地主。何不自由なく育った。が、生来の癇(かん)性と病弱で学校に馴染めず、いじめに遭って、不登校を決め込んだこともあった。東京に遊学するが、勉強に身が入らない。富豪の息子に悪友が群がった。高利貸から借りた金で吉原通いの生活。こうして放蕩息子の借財は利息も合わせて1万5000円に上ったという。今なら億単位の金額だ。

 こうした破天荒で度外れた放蕩生活が実家に知れ、父に1901年(明治34年)在学中の東京専門学校(後の早稲田大学)を中退のうえ、倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。しかし、孫三郎はこの謹慎を機に生まれ変わり、この後、既述した様々な近代的かつ先進的な事業経営に乗り出していくのだ。

(参考資料)城山三郎「わしの眼は10年先が見える 大原孫三郎の生涯」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 大原孫三郎」

秋山好古 日露戦争で世界最強のコサック騎兵団を破る快挙を成し遂げる

秋山好古 日露戦争で世界最強のコサック騎兵団を破る快挙を成し遂げる

 秋山好古(あきやまよしふる)は明治維新後、軍隊の近代化推進の一環として騎兵隊の養成を担い、徹底的な研究と努力で、当時世界最弱と笑われていた日本陸軍騎兵隊を鍛え上げた。その結果、日露戦争最後の陸の決戦、奉天会戦で当時、世界最強を誇ったロシア・コサック騎兵団を破る快挙を成し遂げた、「日本騎兵隊の父」といわれる人物だ。

 秋山好古は伊予国松山城下(現在の愛媛県松山市歩行町)で、松山藩士・秋山久敬を父に、母・貞との三男として生まれた。好古の名前の由来は論語の一節、「信而好古」から。幼名は信三郎。陸軍大将、従二位を叙任された。戦前、圧倒的に不利とみられていた日露戦争(1904~1905年)の日本海海戦で、連合艦隊の作戦参謀として「丁字戦法」を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之(海軍中将)は10歳年下の実弟(五男)。好古の生没年は1859(安政6)~1930年(昭和5年)。

 秋山家は伊予の豪族・河野氏の出で、好古の七代前の秋山久信が伊予松山・久松家に仕えた。足軽よりも一階級上の位で、家禄10石ほどの下級武士(徒士=かち=身分)だった。好古は松山藩では正岡子規の叔父にあたる加藤恒忠と並ぶ秀才だった。好古は藩校・明教館に入学し、家計を支えつつ学んだ。17歳で単身大阪に出て、年齢を偽り、師範学校の試験を受け合格した。卒業後、教員となり、名古屋にあった県立師範学校(現在の愛知教育大学)の付属小学校に勤めることになった好古は、この学校に誘ってくれた松山藩の先輩、和久正辰より「月謝だけでなく生活費がただで、小遣いまでくれる学校がある」と勧められ、身を任せるまま陸軍士官学校に入校した。そして、陸軍大学校へと進み、1887年(明治20年)から3年間、フランスに留学し、ここで騎兵戦術を習得した。乗馬学校校長・騎兵監などを歴任し、騎兵科の確立に尽力した。

 日清戦争では騎兵第一大隊長(第二軍、第一師団)として出征、金州、旅順を攻略。北上しながら転戦を重ねた。北清事変では第五師団の兵站監として出征、乱の平定後に清国駐屯軍司令官として勤務した。日露戦争では騎兵第一旅団長(第二軍)として出征、緒戦から偵察、側面援護と力戦し、ロシアのコサック騎兵の突撃を阻止した。とくに沙河会戦後の黒溝台の会戦では、全軍の最左翼・黒溝台方面約30kmを固めた秋山支隊にロシア第二軍主力が全力を挙げ反撃を加えるが、10万のロシア軍を相手にわずか8000人で死守するという鉄壁さをみせた。「日露戦争の最大の危機」といわれた同会戦を勝利に導いた戦功は大きい。

 1913年(大正2年)、第十三師団長、1915年近衛師団長。1916年朝鮮駐箚(ちゅうさつ)軍司令官。1920年教育総監を務めたが、晩年は軍を離れ、郷里松山の北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)校長に就任した。

(参考資料)司馬遼太郎「坂の上の雲」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」、生出 寿「智将 秋山真之」、吉村 昭「海の史劇」

渋川春海 日本人最初の暦「貞享暦」をつくった日本初の国産暦の生みの親

渋川春海 日本人最初の暦「貞享暦」をつくった日本初の国産暦の生みの親

 渋川春海は江戸時代前期の天文歴学者で、囲碁博士であり、神道家だ。江戸幕府の初代天文方を務め、1684年(貞享元年)「貞享暦(じょうきょうれき)」を作成、これが後の太陰暦の基となった。その意味で、彼はいわば日本初の国産暦の生みの親だ。渋川春海の生没年は1639(寛永16)~1715年(宝永5年)。

 渋川春海は、江戸幕府碁方の安井家、一世・安井算哲の長子として京都・四条室町で生まれた。幼名は六蔵、のち父の名を継ぎ算哲と称した。諱は都翁(つつち)、字は春海、順正(のぶまさ)、通称は助左衛門、号は新藘(しんろ)。姓は安井から保井、さらに出身地にちなんで渋川と改姓した。1652年(慶安5年)父の死に伴って、二世・安井算哲となったが、当時まだ13歳だったため、碁方の安井家は一世・算哲の養子、算知に引き継がれており、彼は保井姓を名乗ることになった。

 保井算哲は幼少時から学芸百般に才能を発揮し、碁を算知に学んで、江戸においては池田昌意から数学と暦法、京都では山崎闇斎に垂加神道、岡野井玄貞に天文学と暦法、土御門泰福に暦法と陰陽道をそれぞれ学んだ。これにより、彼は21歳のころには学者として諸国に知れ渡る存在となって、徳川光圀、保科正之、柳沢吉保の寵遇を受けたという。1659年(万治2年)、碁方の算知の力に預かったとみられるが、彼は20歳で御城碁に初出仕して本因坊道悦に黒番四目勝ち。その結果その後、25年間碁士を務めることになった。そして、その後、彼は人生の転機を迎える。その経緯はこうだ。

 それは霊元天皇が土御門泰福に改暦を命じたことに始まる。土御門泰福は既述の通り、算哲(春海)が暦法と陰陽道を学んだ師だ。そこから、様々な事情や経緯はあったが、結論としては1684年(貞享元年)、算哲の手になる日本人最初の暦「貞享暦」が採用されたのだ。このことが、算哲のその後の運命を大きく転換させた。「貞享暦」の採用により、算哲は碁方から天文方に移り、新規召し抱え250石の禄を受け、渋川春海を名乗った。その後、渋川家は天文方として代々続き、碁方としての安井家は算知の系統で栄えていった。

 ところで、当時の日本の暦事情はどうだったのか。江戸時代の暦は月を中心とし、1年を12カ月か13カ月とした「太陰太陽暦」だった。この暦では新月の日が月初の1日(ついたち)にあたる。そこで、日食は必ず1日に起こらなければならず、それに失敗すると、時の幕府の権威が失くなってしまうというわけだ。そのため、戦乱の時代から世の中が落ち着くと、暦に関心が持たれるようになる。当時、平安時代から使用されていた「宣明暦」による日食の予報は外れることがおおかったようだ。

 そこで、当時盛んだった和算の視点から暦の検討が行われるようになった。1673年、春海は「授持暦」で改暦を行うことを上奏したが、運悪く1675年の日食は授時暦では当たらず、宣明暦では当たったのだ。このため、改暦は却下された。だが、春海は自ら太陽高度や星の位置を測り、前回の日食の予報の失敗の原因が、中国と日本の経度の差にあること突き止めた。そして、独自の方法で授時暦に改良を加えた「大和暦」をつくり、1683年に再び上奏した。しかし、これも採用されず、衆議は明の「大統暦」の採用となった。

 春海の改暦運動は行き詰まった。だが、まだ道は残されていた。彼は囲碁方として幕府に仕えていたため、そのお勤めの中で会津の保科正之、水戸光圀など有力者と知り合っていたのだ。この強力な人脈が春海に味方した。保科正之や水戸光圀らは春海の改暦運動を後押し、明の大統暦と大和暦の優劣を天測で競うことになったのだ。結局ここで大和暦の優秀さが証明され、1684年(貞享元年)、大和暦(=「貞享暦」)が採用されることに決定、1685年(貞享2年)から施行されたというわけだ。

(参考資料)冲方 丁(うぶかた とう)「天地明察」

宮部鼎蔵 吉田松陰に影響を与えた肥後勤王党の中心人物で反幕活動に挺身

宮部鼎蔵 吉田松陰に影響を与えた肥後勤王党の中心人物で反幕活動に挺身

 宮部鼎蔵は尊皇攘夷派の肥後熊本藩士で、山鹿流軍学師範を務めた英才だった。兵学、儒学のほか国学に造詣が深く、思想面で長州藩士、吉田松陰に影響を与えた人物だ。嘉永年間にはその松陰と東北地方の事情調査を敢行している。松陰の刑死後も、松陰を通じて知り合った久坂玄瑞ら長州藩の志士たちと交わり、肥後勤王党の中心人物として反幕府活動に挺身した。1864年(元治元年)京都三条の池田屋で長州、土佐、肥後などの各藩同士と密議しているところを新選組に襲われ、彼は重傷を負い、自刃して果てた。宮部鼎蔵の生没年は1820(文政3)~1864年(元治元年)。

 宮部鼎蔵は肥後国益城郡田代村(現在の熊本県上益城郡御船町上野)で宮部春吾の長男として生まれた。諱は増実、号は田城。鼎三とも記される。養父は叔父、宮部丈左衛門。実弟に春蔵がいる。実家は代々医者の家庭。鼎蔵は山鹿流軍学を学び、1850年(嘉永3年)30歳で肥後藩の兵学師範に任じられた。翌年、藩命で江戸へ赴いた際、長州藩の吉田松陰と出会い、意気投合。親交を深め房総や東北諸藩を遊歴。諸国の志士たちと交遊した。また、林桜園に師事し国学などを学んだ。

 1858年(安政5年)「安政の大獄」で松陰が刑死した後、松陰を通じて知り合った久坂玄瑞、高杉晋作ら長州藩の志士たちと交わり、尊皇攘夷派に傾倒していく。1861年(文久元年)、鼎蔵は肥後勤王党に参加した。このころには全国の勤皇派志士の間では名前が知られる存在になっていた。1862年(文久2年)には清河八郎も鼎蔵を訪ね、肥後にきている。

 1863年8月18日、禁裏九門の一つ堺町御門の警護にあたっていた長州藩が、突然その任を解かれた。長州藩過激派が尊皇攘夷派公家と内通し、倒幕を目論んでいたことが露見したからだ。長州藩の解任は、公武合体派の薩摩藩が京都守護職にあった会津藩と通じ、尊攘派を京都から一掃しようと起こしたクーデター(八月十八日の政変)だった。

 この日、勤王党親兵として京に上っていた、全国の32藩・3000の兵士が宮部鼎蔵の指揮下にあった。鼎蔵は尊攘派の公家の代表、三条実美に「(孝明天皇の)御前に出で、今日の参内停止の理由を、お問い糾し下さりますよう」と、出馬を促した。だが、実美は「万策尽きた今、兵を引き連れての参内は相手に口実を与えるだけ」といって動かなかった。こうして鼎蔵の巻き返し策は、陽の目を見ることなく終わり、三条、三条西、東久世、四条、壬生、錦小路、沢の尊攘派公家7人が朝廷を追われ、京都を追放され、長州へと逃れた(七卿落ち)。

 翌19日、鼎蔵は七卿の側を守って長州兵の一団と伏見へ向けて発ったが、その途中、彼は一団から離れ、京・兵庫・徳島、そして鳥取などへ、諸方を説いて、また周旋を頼むため、この日を境に慌しく走り回る日々が始まった。鼎蔵は長州藩の桂小五郎より17歳、久坂玄瑞より20歳、土佐の中岡慎太郎より12歳それぞれ年上だった。尊攘派の志士の中で、40歳を越した分別盛りの人間といえば、この宮部鼎蔵だった。しかも勤王党総督「三条実美公」のもとで、彼は親兵総監に任じられ、諸藩に名を知られた軍学者でもあった。七卿も長州藩も鼎蔵に依存するところが多かった。

 1864年(元治元年)、鼎蔵は京に入り、いつものように枡屋喜右衛門方に泊っていた。枡屋は、四条河原町を上って一筋目を東に入った場所だ。6月5日の朝、情報の要、枡屋が突然、新選組に襲われ、主人の喜右衛門が連行された。鼎蔵は幸い4日の夜は他宿したため、無事だった。枡屋の主人が連行されたとの知らせは、うまく虎口を逃れた店の者たちによって諸方の志士たちに知らされた。そして、鼎蔵は同夜八時に三条池田屋に集まるように連絡を受けた。街は祇園祭の宵宮で、囃子の音が鳴り響いていた、四条通の人波はあふれて、三条のあたりまで浴衣がけで男女が行き交っていた。その人波を縫うようにして、鼎蔵は池田屋にやってきた。同士が全部揃ったのは八時半を少し回ったころだ。

 長州は吉田稔麿、杉山松助、広岡浪秀、佐伯靱彦、土佐は野老山吉五郎、石川潤次郎、北添佶麿、望月義澄、播州は大高忠兵衛、同又次郎、そして聖護院の西川耕蔵といった面々だった。桂小五郎もやがて顔をみせることになっていた。実は時間通りにやってきた桂は、別の用事を済ませて戻ると言伝して出て行ったのだ。集まった面々は、枡屋のことですっかり興奮していた。鼎蔵は、ここは兵学者として冷静な対応を説いておかなければと考え、食事の膳に着いたときだった。階下で大声がした。聞き耳を立てた北添が梯子団を降りていくと、鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、胴丸を着けた大勢の男たちが、抜き身を下げて立っていたのだ。新選組だった。彼らの会合は、新選組に嗅ぎ付けられていたのだ。もう手遅れだった。逃げ場はなかった。

 「諸君、脇差でよい、室内の立ち廻りには、太刀は必要でない。体ごとぶつかるのだ。そして逃げろ、逃げられるだけ逃げるんだぞ」鼎蔵は大声をあげて指令した。だが、多勢に無勢、その鼎蔵は重傷を負い、絶体絶命の危機だった。そこで彼は、新選組に捕縛されることを恥辱として、自刃して果てた。あっけない死だった。宮部鼎蔵は洛中の尊攘派志士たちの重鎮として活躍していただけに、彼の死は全国の尊攘派志士たちに大きな影響を与えた。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、森友幸照「吉田松陰 男の自己変革」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」

橘諸兄 聖武天皇を補佐し、生前に正一位に叙された初代橘氏長者

橘諸兄 聖武天皇を補佐し、生前に正一位に叙された初代橘氏長者

 橘諸兄(たちばなのもろえ)は元皇族で、聖武天皇の御世、国政を担当した奈良時代の政治家で、生前に正一位に叙された、数少ない人物の一人だ。諸兄は、後に朝廷内の実力者、藤原不比等の後妻となった県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)を母に持ち、三千代が最初、皇族の美努王(みぬおう)に嫁した際、もうけた二男一女のうちの一人だ。当時、葛城王(葛木王とも、かつらぎのおおきみ)といった。

 母・三千代は、やがて大宰帥・美努王との生活が破綻し、文武天皇の時代、不比等の妻となり、安宿媛(光明子)を産んだのだ。早世した息子、文武天皇の後を受けた母・元明女帝は、後宮に長く仕えた重鎮の三千代を深く信頼し、即位の大嘗祭の宴で盃に橘を浮かべて、その労をねぎらい橘の氏称を賜与(しよ)したのだ。これを機に橘氏が登場することになった。736年(天平8年)、弟の佐為王とともに母・橘三千代の姓、橘宿禰を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗った。諸兄が初代橘氏長者だ。諸兄の生没年は684(天武天皇13)~757年(天平勝宝9年)。

 橘諸兄の大出世は、まさに“棚からぼた餅”式の幸運に恵まれたものだった。737年(天平9年)、権勢を誇った藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)をはじめ朝廷の高官らが、当時大流行した疫病(天然痘)で相次いで亡くなったのだ。その結果、出仕できる公卿は従三位・左大弁だった橘諸兄と、同じく従三位・大蔵卿の鈴鹿王のみとなった。そこで朝廷では急遽、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王を知太政官事(ちだじょうかんじ)に任命して応急的な体制を整えた。不測の、やむを得ない事態だったとはいえ、諸兄にとっては大抜擢人事を受けた形となった。

 翌年、諸兄は遂に正三位・右大臣に任命され一躍、朝廷の中心的存在となった。これ以降、国政は諸兄が担当し、聖武天皇を補佐することになった。そして743年(天平15年)、諸兄は、従一位・左大臣となり、749年(天平勝宝元年)、正一位に叙された。生前に正一位に叙された人物は日本史上、わずか6人しかいないが、諸兄はその栄誉に浴したわけだ。

 ただ諸兄にとって、官位は頂点まで昇り詰め、朝政の要となったものの、政権運営は決してスムーズに運べる状況にはなかった。天平勝宝年間(749~757年)は二重権力の時代だった。一つは聖武太上天皇を上に戴く橘諸兄を中心とする「太政官」の権力であり、もう一つは光明皇太后を上に戴く、藤原仲麻呂を中心とする「紫微中台(しびちゅうだい)」の権力だ。この二つの権力の接合点、あるいは調和点として孝謙女帝が存在していた。本来、公式的には太政官権力が国家を代表するはずなのだが、実際は「紫微中台」の権力が強かった。

 だが、756年(天平勝宝8年)、権力の一方に大きな変化が起こった。重い病の床に就いていた聖武太上天皇が亡くなり、支えを失った橘諸兄は左大臣の位を去ったのだ。そして757年(天平勝宝9年)、諸兄は疫病であっけなく亡くなってしまった。その結果、権力が一元化され、藤原仲麻呂の勝利が目前に迫ったとき、これまでの「聖武帝=橘諸兄」ラインにつながる皇親、宮臣たちが乾坤一擲(けんこんいってき)の賭けに出た。それが諸兄の長男、奈良麻呂が起こした「橘奈良麻呂の変」だった。

 しかし、実はこの「橘奈良麻呂の変」(757年)の実態がよく分かっていない。橘奈良麻呂は、病気の聖武天皇の後は、黄文(きぶみ)王父子を中心に多治比(たじひ)氏と小野氏が政治を補佐し、大伴・佐伯両氏の武力でその政権を守らせるという計画だったという。この際、奈良麻呂が一番頼りとしていたのは大伴・佐伯両氏の武力だ。大伴古麻呂はすでに奈良麻呂の味方で、万全を期すべく佐伯全成(さえきのまたなり)を味方につけるため奈良麻呂は再三にわたって、誘いをかけている。実際、確かに陰謀はあった。が、本当にクーデターの実行計画はあったのか?

 いずれにしても、この計画は未遂に終わり、失敗。嫌疑をかけられた者たちへの凄惨を極めた、拷問を含めた取り調べにより、黄文王、道祖(ふなど)王、それに大伴古麻呂、多治比犢養(うしかい)、小野東人(おののあずまひと)、鴨角足(かものつのたり)らは拷問を受け死んだ。黄文王の兄、安宿王も妻子とともに佐渡配流、佐伯大成(おおなり)、大伴古慈斐(こしび)は各々任国の信濃、土佐に配流、多治比国人は伊豆配流、佐伯全成は自殺した。

 この事件によって古代豪族、大伴・佐伯両氏は致命的打撃を受けた。要するに、この橘奈良麻呂の変は、クーデターの嫌疑を理由に反藤原仲麻呂派を一掃しようとしたものだった。もっと突き詰めていえば、反仲麻呂派を一掃するために、奈良麻呂らに謀(はかりごと)をめぐらせる時間を与え、泳がせていたのではないか-とみることもできる。しかし、勝利に酔っている時間はわずかだ。この報いは10年も経たないうちにやってくる。764年(天平宝字8年)、「藤原仲麻呂の乱」がそれで、権勢を誇り、「恵美押勝(えみのおしかつ)」とも呼ばれた藤原仲麻呂は琵琶湖畔で一族とともに自害して果てている。

(参考資料)梅原 猛「海人(あま)と天皇 日本とは何か」、笠原英彦「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」、神一行編「飛鳥時代の謎」、杉本苑子「穢土荘厳(えどしょうごん)」、杉本苑子「檀林皇后私譜」

吉田忠雄 世界で知名度の高い「YKKファスナー」の創業者

吉田忠雄 世界で知名度の高い「YKKファスナー」の創業者

 「メイド・イン・ジャパン」から、いまや世界各国の進出先でしっかり根を下す日本製品がある。『YKKファスナー』だ。世界で愛用される数多い日本製品の中でも、すそ野の広さでは断然で、このYKKの知名度が驚くほど高いのではないだろうか。原料から工作機械まで自前調達する徹底した一貫生産主義で、世界シェア50%強というガリバー企業を育て上げた吉田忠雄(よしだただお)は、そのYKKの創業者だ。吉田忠雄の生没年は1908(明治41)~1993年(平成5年)。

 吉田忠雄は富山県下新川郡下中島村住吉(現在の魚津市住吉)で生まれた。1923年、魚津尋常小学校卒業。経済的事情で進学を諦め、地元で働きながら通信教育で学んだ。1928年(昭和3年)、20歳のとき上京。古谷商店の社員を経て、1934年(昭和9年)にYKKの前身、サンエス商会を設立し、ファスナーの生産・販売を始めた。これは上京以来、勤めていた、同郷人が経営していた古谷商店が倒産し、店が扱っていたファスナー事業を引き受けたものだった。以後、YKKを世界的な企業に育て上げていった。

とはいえ、YKK発展の足跡をたどると、吉田が常にこだわり譲らなかった部分といくつかの節目がみえてくる。吉田はときに大風呂敷とも取れる発言をすることがあった。彼は日立精機にいきなりまとめて百台の機械を発注したのだ。そして、ノウハウを学び取るや、自前の機械工場を作ってしまう。だから、吉田にとっては決して単なる大風呂敷などではなく、実践の裏づけが必ずあったのだ。また、原材料の紡績や染色、溶解、伸銅の工場と順次、自前調達の分野を広げていった。

 自分で努力しても、原材料が悪ければ優れた製品には仕上がらない-。吉田がこだわった、原料から製品までの独特の一貫生産方式は、物事をトコトン突き詰めていく生来の性格の産物だった。アルミ合金生産から生まれた住宅、ビル向けサッシがヒットし、工作機械でも日本の有力企業に成長した。

 ファスナー事業の一つの転機となったのが、1954年(昭和29年)の欧米初視察だった。この旅が吉田に大飛躍のきっかけを与えた。本で読んだ米国の自動車会社の自動化ラインを目の当たりにし、夢いっぱい膨らませて帰国した。彼は身の丈以上の巨額の設備投資で自動化・省力化ラインを整備。ここからファスナーの材料革命といわれた高品質素材のアルミニウム合金「56S」やコンシールファスナー(表面から見えないファスナー)など画期的製品が誕生した。用途はアパレルからバッグ類、スポーツ用品に広がり、国内シェアも90%を超えた。

 吉田には成果を、需要家と関連産業、そして自社に三分配するという経営哲学があった。これは少年時代、伝記を読んで感銘を受けた“鉄鋼王”カーネギーの「他人の利益をはからなければ、自らも栄えない」という考え方にサジェッションを得たものだった。この経営哲学は、1959年(昭和34年)のインドを手始めに急ピッチで推し進められた海外進出でも見事に貫かれた。その結果、2010年(平成22年)現在、世界71カ国114社(国内22社・海外92社)のグループ会社を擁する、YKKグループに発展している。そして、どこでも一貫生産方式の基本は変わらない。

(参考資料)日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 吉田忠雄」

吉田兼好 出家、隠棲後、二条派の歌人としての活動が顕著に

吉田兼好 出家、隠棲後、二条派の歌人としての活動が顕著に

 随筆『徒然草』で知られる吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した歌人・随筆家だ。後宇多上皇には北面の武士として仕え、厚遇を得たが、上皇の崩御後、30歳で出家した。生没年は不詳。生年は1283年(弘安6年)ごろ、没年は1352年(天和元年/正平7年)以後。

 吉田兼好の本姓は卜部(うらべ)氏という。神祇を司(つかさど)る家系で、中臣氏の流れである9世紀半ばの卜部平麻呂を祖とする下級貴族だ。卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれた。兼好は吉田家の系統だったことから江戸時代以降、吉田兼好と通称されるようになったもの。したがって、当時の文書には「卜部兼好(うらべかねよし)」と自書している。出家したことから、兼好法師とも呼ばれた。

 父の兼顕は治部少輔で、内大臣・堀川具守(とももり)の家司を務めていた。そのため、兼好は20歳前後に、具守の娘・基子(西華門院)が国母となった第九十四代・後二条天皇の蔵人として官歴を始めている。ところが、彼は1308年(徳治3年)の後二条天皇崩御が契機となったのか、争いを避ける意味もあったのか、1313年(正和2年)までには出家し、洛北・修学院、さらには比叡山の横川(よかわ)に隠棲の身となったのだ。兼好の出家、隠棲時の生活ぶりについては詳しくは分からない。仏道修行に励むかたわら、和歌に精進した様子などが自著には記されているのだが…。鎌倉には少なくとも2度訪問・滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で、後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。

 室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。また、晩年は当時の足利幕府の執事・高師直に接近したとされ、『太平記』にその恋文を代筆したとの記述がある。皮肉にも兼好は出家、隠棲後、当時隆盛を誇っていた二条派の歌人として、その活動が顕著になった。後二条天皇の皇子で、後醍醐天皇の皇太子となった邦良(くによし)親王の歌会への出詠も多く、頓阿(とんあ)などとともに、二条為世門の四天王といわれたこともあった。その和歌は『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』『風雅和歌集』に計18首が収められている。

「夕なぎは波こそ見えねはるばると 沖のかもめの立居のみして」

 これは1318年(文保2年)ごろ、関東へ下向した折の作だ。横浜市の金沢文庫には兼好自身の墨跡が現存しているが、この用向きは鎌倉幕府の何事かを内偵することだったという説がある。出家の身でありながら、なにやら生臭いことにも関わっていたのかとの思いもする。いずれにしても、これは相模湾と思われる海を見て詠んだものだ。夕なぎに静かな、平らかな広がりを見せる海、沖合い遥かに、鴎のみが水面に浮かび、また飛び立つさまが悠揚せまらぬ調べで描かれている。灼熱の日差しも、思い起こす記憶にとどまるだけになった晩夏に特有の、ある種のもの憂さ、そしてもの悲しさを感じさせて、現代にも通じる秀逸な叙景だ。

 「さわらびのもゆる山辺をきて見れば 消えし煙の跡ぞかなしき」

 これは1316年(正和5年)に没した旧主・堀川具守を弔った岩倉の山荘を再訪した際、詠んだものだ。芽を出した早蕨を見るにつけても、亡き人が偲ばれる様子を、その早蕨とともに旧知の女官・延政門院一条に贈ったもの。掛詞、縁語を駆使した技巧がうかがえる。

 「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

 有名なこの序文で始まる『徒然草』は、鴨長明の『方丈記』、清少納言の『枕草子』と並んで三大随筆の一つとして、いまも多くの人々に読まれている文学だ。243段に分かれ、自然・人生の様々な事象を豊富な学識をもって自由に記したものだ。文体も記事文、叙事文、説明文、議論文と多様で、古来名文として定評がある。全体に懐古趣味・無常観が流れている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、梅原 猛「百人一語」

 

岩瀬忠震 諸外国との条約交渉を担当した開明派官僚だが、一橋派支持し挫折

岩瀬忠震 諸外国との条約交渉を担当した開明派官僚だが、一橋派支持し挫折

 岩瀬忠震(いわせただなり)は、江戸時代後期の幕臣で、開明派の官僚の第一人者と目された人物だ。旗本の三男に生まれたこともあり、生涯部屋住みの身で、一時は大名格に昇ったこともあった。だが、十三代将軍家定の後継争いで、敗れた一橋派を支持していたため大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、左遷され、出世の道を断たれ、さらに蟄居を命じられた。岩瀬忠震は、旗本の設楽貞丈(しだらさだとも)の三男として生まれた。名は修理(しゅり)、通称は篤三郎。字は百里。母は、大学頭・林羅山を祖とする名門、林述斎の娘、純。従兄弟に堀利煕がいる。後に岩瀬忠正の養子となった。岩瀬忠震の生没年は1818(文政元)~1861年(文久元年)。

 岩瀬忠震は幕府の学問所、昌平こうに入門。後に徽典館の学頭として甲府に赴いた。任期を終え、江戸に戻り昌平こうの教授となった。やがて、黒船の来航(1853年)により、日本は幕末という混乱の時代を迎えた。そうした時代状況の中、幕閣で岩瀬の優れた才覚を見い出したのが、時の老中首座・阿部正弘だった。阿部によって、岩瀬は歴史の表舞台に駆け上った。岩瀬は1853年(嘉永6年)、部屋住みの身で徒頭(かちがしら)となり、1855年(安政2年)には従五位下伊賀守に叙任され、部屋住みの身で大名格に昇ることになった。また目付に任じられ、海防掛となり、軍艦操練所や洋学所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。

 岩瀬はその後も外国奉行にまで出世し、ロシアのプチャーチンと交渉して日露和親条約締結に臨んだほか、当時の日本にとって重要だった日米修好通商条約(1858年締結)に下田奉行・井上清直(いのうえきよなお)とともに全権に任じられるなど、次々と重要な条約交渉を担当、開国に積極的な開明的な外交官だった。1858年(安政5年)、条約の勅許奏請のため、岩瀬は勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)らとともに、老中堀田正睦の上洛に副役として随行している。しかし、朝廷の理解は得られず、勅許を得ないまま江戸に下った。しかし、当時、諸外国との条約交渉は待ったなしの情勢となっていた。

 万難を排して1858年(安政5年)、条約調印にこぎつけたのは、岩瀬をはじめとする優れた幕府外交官の尽力によるものだった。中でも岩瀬はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国すべての条約調印にただ一人参加した。岩瀬が外交官として活躍した時期はわずか5年だが、日本にとって最も大切な5年だった。岩瀬はまた、ホンネとタテマエを使い分けるような人物でもなかった。幕府は条約で決められた神奈川宿に代えて、対岸の横浜村に開港場を設けることとした。だが、岩瀬は条約の文言を重視して、締結した条約の内容通り、神奈川開港を主張したのだ。

 岩瀬には出世欲などなかったのかも知れないが、客観的にみると彼の立身とからみ、大きな障害となったのが、将軍後継問題に対する彼の態度だった。この“踏み絵”が岩瀬にとって、大きな読み違いとなり、人生の挫折に追い込まれる事態となった。紀州・慶福(よしとみ、後の十四代将軍家茂)を支持する紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派の徳川十三代将軍家定の後継争いで、岩瀬は一橋派の中心人物として行動したのだ。そのため大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、作事奉行に左遷された。一橋派を支持した代償はとてつもなく大きかったというわけだ。そして、1859年(安政6年)には免職・蟄居を命じられた。その後は江戸向島で、花鳥風月を友として、詩作に勤しみ、部屋住みのまま44年の生涯を終えたという。

(参考資料)松岡英夫「岩瀬忠震-日本を開国させた外交官」、奈良本辰也「歴史に学ぶ ペリーの来航、橋本左内の統一国家思想」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、吉村 昭「落日の宴 勘定奉行 川路聖謨」、津本 陽「開国」、童門冬二「最初の幕臣外交官 川路聖謨」

関孝和 江戸の数学を世界レベルにした天才数学者、和算の開祖

関孝和 江戸の数学を世界レベルにした天才数学者、和算の開祖

 関孝和は、江戸時代前期、中国の数学に依存していた日本の数学を、日本固有のものに高め世界レベルにした天才数学者であり、和算の開祖だ。とくに宋・金・元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的改良を加えた。1674年(延宝2年)、彼は『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術=てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等教育として発展するための基礎をつくった。孝和が、行列式や終結式の概念を世界で最も早い時期に提案したことはよく知られている。1681年ごろには暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、正131072角形を使って小数第11位まで算出した。点竄術は、記号法の改良と理論の前進の双方を含み、後に和算で高度な数学を展開するための基礎を提供することになった。

 関孝和(=内山新助)の生年は1640年(寛永17年)ごろ、没年は1708年(宝永5年)。孝和は父・内山永明の次男。通称は新助、字は子豹、号は自由亭。父の内山永明は徳川忠長(徳川三代将軍・家光の弟、駿河大納言)に仕え、主家断絶のため、上野国藤岡(現在の藤岡市)に移住し、1639年(寛永16年)、江戸城の天主番(150石)となった。孝和の生地は藤岡もしくは江戸・小石川で、のち関五郎左衛門の養子となった。

 関孝和は甲府藩の徳川綱重および綱豊(後の六代将軍家宣)に仕え、勘定吟味役として会計や検地の仕事に携わった。1704年(宝永元年)、綱豊は五代将軍綱吉の養子となり江戸城に入った。これに伴い、孝和も幕府直属の武士となり、御納戸組頭250俵10人扶持、のち300俵となった。

 孝和の主な業績を列挙すると、次の通りだ。

1        .代数式の表し方とその計算法

2        .数学係数方程式のホーナーの解法の完成

3        .方程式の判別式と正負の解の存在条件

4        .ニュートンの近似解法

5        .極大・極小論の端緒、行列式の発見

6        .近似分数

7        .不定方程式の解法

8        .招差法の一般化

9        .ベルヌーイ数の発見

10   .正多角形に関する関係式

11   .円に関する計算

12   .ニュートンの補間法

13   .パップス・ギュルダンの方法

14   .捕外法

15   .円錐曲線論の端緒、数学遊戯の研究

 関孝和の偉業は集まった多くの弟子によって「関流」和算として継承・発展させられた。中でも真の後継者と呼ばれるのにふさわしいのが建部賢弘だ。年少の頃から兄・賢明とともに数学を学び始めた賢弘は若くして関の門を叩き、たちまちその才能を開花させた。彼の業績はスイスの数学者オイラーに先駆けて円周率πを求める公式を発見したり、円理を発展させて円周率を41ケタまで求めるなど、師の孝和と同様、世界的なものだった。

 弟子には恵まれた孝和も家族の縁には恵まれなかった。孝和の家族に関する資料はほとんど残されていない。だが、過去帳などから分かる範囲では、遅くに結婚し、40代で二人の娘をもうけたが、不幸にも長女は幼少期に、次女は10代半ばで亡くなっている。そこで跡継ぎとして、関家が養子として迎えたのが弟・永行の息子・新七郎だった。しかし、これが関家にとって命取りとなった。新七郎が関家に全く似つかわしくない、怠け者で不出来だったため、彼の不行跡で関家は途絶えてしまったのだ。そして、孝和に関する資料も没収され、散逸してしまった。

(参考資料)平山諦「関孝和 その業績と伝記」、朝日日本歴史人物事典

間部詮房 家宣・家継の二代にわたり側用人として幕政の采配振るう

間部詮房 家宣・家継の二代にわたり側用人として幕政の采配振るう

 間部詮房(まなべあきふさ)は徳川六代将軍家宣の治政下、顧問格として起用された儒学者・新井白石とともに、家宣の善政「正徳の治」を推進、将軍の側用人として実務を執行した人物だ。普通なら間部詮房は後世にもっと功績を残す存在となっていたかも知れない。しかし、彼が仕えた家宣が将軍に就任したときは、すでに49歳。しかも家宣は学究肌で虚弱だったから、将軍在任期間は限られていた。家宣は在職わずか4年で病床に臥す身となったのだ。

 間部は後継の第七代将軍家継の側用人としても幕政の采配を振るった。ただ、周知の通り、満三年9カ月、数え年5歳という年齢で誕生した徳川七代目の幼将軍家継も健康には恵まれず、将軍在任はわずか3年に過ぎなかった。家宣・家継二代合わせてもわずか7年だった。その結果、間部の評価は意外に低い。

 間部詮房は、温厚でありながら、決断力もあった。が、真の理解者は家宣だけだった。家宣の死後、詮房が大奥へ頻繁に出入りし、とりわけ月光院と面談することが多かったことから、二人の間に男女関係があるのではないか-とのスキャンダルが大きな話題となった。月光院は亡くなった家宣の側室、お喜世の方のことで、七代将軍家継の生母だ。したがって、本来、将軍の側用人として幼い将軍の健康や教育・しつけなどについて相談することが多くても何ら不思議ではないのだが、なぜかスキャンダルの風評が飛び交ったのだ。そのことも彼の人物評価に響いている部分があるのかも知れない。

 ただ、研究者によっては、月光院と間部詮房の“情事”スキャンダルは、公然の秘密だったとする指摘もある。吉宗の将軍登場の直後、京都では、次のような落首があらわれた。

「いわけなき鶴の子よりも色深き 若紫の後家ぞ得ならぬ」

「おぼろ月に手をとりかはし吹上の 御庭の花の宴もつきたり」

 その情事は京都にも聞こえており、新将軍ができたから、もうダメだぞという意味だ。

 間部詮房は、徳川綱重(徳川三代将軍家光の三男)が藩主時代の甲府藩士・西田喜兵衛清貞の長男として生まれた。通称は右京、宮内。間部宮内は猿楽師(現在の能役者)喜多七大夫の弟子だったが、1684年(貞享元年)、甲府藩主・徳川綱豊(綱重の子、後の徳川六代将軍家宣)に仕え、綱豊の寵愛を受け、やがて小姓に用いられた。これより前、苗字を「間鍋」に改称していたが、綱豊の命により「間部」と改めたという。甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに間部詮房の名がみられる。上野国高崎藩主、越後国村上藩の間部家初代藩主。生没年は1666(寛文6)~1720年(享保5年)。

 1704年(宝永元年)、五代将軍・徳川綱吉の養子となった徳川綱豊の江戸城西の丸入城に伴い、甲府徳川家臣団は幕臣に編入され、間部詮房は従五位下越前守に叙任し、側衆になり1500石加増された。その後も順次加増を受け、1706年(宝永3年)には若年寄格として相模国内で1万石の大名となった。

 1709年(宝永6年)家宣(綱豊から改名)が六代将軍に就任すると、詮房は老中格側用人に昇り、侍従に任ぜられ、3万石に加増された。さらに、1710年(宝永7年)には上野国高崎城主として5万石に遇せられた。異例のスピード出世だった。そして、詮房は六代将軍家宣、儒学者・新井白石とのトロイカ体制で、門閥の譜代大名や、将軍に対して強い影響力を持つ大奥などの勢力を巧みに捌き、「正徳の治」を断行した。

 だが、詮房は側用人としてトロイカ体制で改革を推進したことで、幕閣の徳川譜代大名との間に溝が生まれ、半ば浮き上がった存在になってしまった。そして、それは家宣が健在の間はまだ問題は表面化しなかったが、家宣が亡くなり、七代幼将軍・家継も早世して、吉宗が八代将軍に就くと、一気に噴出。詮房は新井白石とともにあっけなく失脚した。後ろ楯となっていた家宣がいなくなっては、立脚基盤が弱い詮房にとっては成す術はなかった。ただ、詮房は老中職を罷免されたとはいえ、大名としての地位を剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地・高崎から地方の越後国村上藩に左遷されたにとどまった。石高も形のうえでは5万石のまま変わらなかった。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、徳永真一郎「徳川吉宗」、杉本苑子「絵島疑獄」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

鴨長明 俗世間のせせこましさ・煩わしさの愚さを悟り隠遁した優れた歌人

鴨長明 俗世間のせせこましさ・煩わしさの愚さを悟り隠遁した優れた歌人

 「ゆく河の流れは絶えずして…」で始まる『方丈記』の作者として知られる鴨長明(かものちょうめい)は、管弦の道にも達した、平安時代末期から鎌倉時代前期の優れた歌人、随筆家だった。その歌才を愛(め)でた後鳥羽上皇によって、和歌所寄人(わかどころよりゅうど)に抜擢された。だが、彼は貴族の端くれとはいえ、地下(じげ)の者だったため、宮中の歌会でも他の寄人と同席できず、悲哀を味わわされた。

 鴨長明は、京都・加茂御祖(みおや)神社(通称・下鴨神社)の禰宜(ねぎ=神官)、鴨長継の次男として生まれた。菊太夫と称した。法号は蓮胤(れんいん)。歌を俊恵(しゅんえ)に学んだ。長明の生没年は1155(久壽2)~1216年(建保4年)。長明を隠遁者に追い込むきっかけになったのが、彼が望んだ、父の職だった鴨神社の河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の補欠を、一族の中から非難があがって断念せざるを得なかったことだ。その結果、彼は神職としての出世の道を閉ざされたのだ。

 後に後鳥羽上皇が鴨の一つの氏社を官社に昇格させて、彼を禰宜に据えようとしたが、彼は感謝しつつも後鳥羽院の厚意を固く辞した。長明はこの事件を機に、人間社会のせせこましさや、生計のための栄達などに心煩わす愚を悟り、大原の里の日野に逃れ棲むことになった。ただ、長明が現実の人間社会に不満で、拗ねたわけではない。貴族社会の終焉に伴う武士階級の台頭という歴史的な変革期に生まれ合わせた多感な一人の男が、無常観という一つの確固たる視座を持って物事を観察し出した結果だ。

 「石川やせみの小河清ければ 月もながれを尋ねてぞすむ」

 この歌は『新古今和歌集』に収められている、神社や神に対する祈願などの、神事に関したことを詠んだ神祇歌(じんぎか)だ。歌意は、石の多い賀茂川よ、あまりの水の清らかさに神のみか月までも、川の流れをたずねて住むのだ-。澄んだ場所に住む尊い神を細心に歌に取り入れ、凛とした清流を描写している。

 長明は20歳余りで父を失い、自撰家集『鴨長明集』をまとめ、33歳のときに『千載集』に一首採られる歌人となった。その後、長明の歌才を愛でた後鳥羽院によって和歌所寄人に抜擢されたが、地下歌人の彼は、宮中の歌会でも他の寄人と同席できなかった。拭い難い屈辱感を味わわされた。

 長明の最もよく知られた著作『方丈記』は1212年(建暦2年)、60歳の彼が、蓮胤という法名で山城国(現在の京都市)日野山の奥に結んでいた方丈の庵で書いたものだ。これは、和漢混淆(こんこう)文による文芸の祖といわれ、日本三大随筆(『枕草子』『徒然草』『方丈記』)の一つとして名高い。ここで長明こと蓮胤は、これまでの貴族社会から鎌倉幕府を頂点とする武家政治の時代へ移る、劇的な社会の変転を、隠遁者ならではの冷静な眼で眺めていたのだ。主な著作に随筆『方丈記』ほか、説法集『発心集(ほっしんしゅう)』、歌論書『無名抄』、『鴨長明集』などがある。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、梅原 猛「百人一語」

梶原景時 頼朝の信頼厚く重用された実力者が、あっけなく失脚、一族滅亡

梶原景時 頼朝の信頼厚く重用された実力者が、あっけなく失脚、一族滅亡

 梶原景時は1180年(治承4年)、伊豆国で挙兵(「石橋山の戦い」)し、敗れた源頼朝を救ったことから、鎌倉幕府開設後、頼朝の信任厚く重用された。しかし、他の御家人たちから怖れられたそんな実力者、景時も頼朝の死後、1200年(正治2年)鎌倉幕府内で起こった政争、「梶原景時の変」により幕府から追放された。そして、1180~1185年繰り広げられた「治承・寿永の乱」(源平合戦)で活躍した嫡男・景季らを含め、鎌倉幕府の有力御家人、梶原一族は実にあっけなく失脚、滅ぼされた。

 梶原景時は、相模国(現在の神奈川県)の豪族・鎌倉氏の流れで、父・梶原景清(かげきよ)、母・横山孝兼(たかかね)との間に生まれた。通称は平三(へいぞう)。景時の生没年は1140(保延6)?~1200年(正治2年)。頼朝に重用され、侍所所司(准長官あるいは次官)、厩(うまや)別当を務めている。侍所は防衛省と検察庁を合わせたような、軍事政権の幕府の中枢を占める役所だ。景時の本拠は現在の鎌倉市の西部、梶原山の一帯で、いわば鎌倉の地元勢だ。だが、出自は一介の大庭氏の支族で、小領主に過ぎなかった。

 景時が頼朝に重用されるようになった経緯は冒頭に述べた通りだ。もう少し詳しく紹介すると、石橋山の合戦当時、景時は従兄の大庭景親に従って頼朝を攻める側にあった。だが、密かに頼朝に心を寄せ、山中に逃げ込んだ頼朝の居場所を知りながら、わざと見逃したという。景時は、鎌倉幕府の初代・征夷大将軍の頼朝にとって、気働きのある重宝な男だったとみえて、以後、鎌倉における難事の取締役-いわば庶務部長といった役を器用にこなした。恐ろしいほど頼朝の心を見抜く術も心得ていて、頼朝の意向を汲んで上総広常を双六のもつれに事寄せて、殺してしまった。ドロを被ることをいとわなかった。

 広常は、鎌倉幕府の有力御家人の中でも、配下の将兵で最大級の勢力を揃えていたため、力を恃(たの)んで、ともすれば頼朝を蔑(ないがし)ろにする傾きがあった。しかし、幕府の内部がまだ固まっていないそのころ、正面切って広常追討を打ち出せば、混乱が起こるのは必定だ。それを表立てずに、巧みに処理した景時の侍所所司としての腕は、見事なものだった。また、そういう男にポストを与えた頼朝の人事の冴えもあった。

 有力御家人の諸勢力の微妙なバランスのうえに成り立っていた源家将軍・鎌倉幕府の創始者=鎌倉殿・頼朝は、滅多に本心を見せず、誰かに動かされてという形を取りたがる。非難を受ける恐れのあるときは、とくにそうだ。だが、景時はそれを知りつつ、進んで頼朝の意向を代弁する役を引き受けた。それによって、頼朝の東国の王者としての位置が強まるのなら、ためらうことはなかった。それがひいては、武家社会を推し進めるのだという信念がますます景時を傲岸にした。彼が執拗に九郎判官義経の追討を主張したのもこのためだ。

 侍所所司の景時は、御家人を動員したり、その功徳を調査する。いわば軍事・警察の責任者だったが、これをあまり徹底的にやりすぎて憎まれた。後世、彼を讒言者だというのは感情的な評価で、真実は彼があまり規則を厳正に実行し過ぎたために、比企能員ら有力御家人にも反感を買い、失脚したのだ。

 東国武士団には欠けていた、教養があり、和歌を好む実務型官僚の景時の存在は、幕府内の有力御家人の中では異色で、頼朝はその点きちんと評価し重用したのだが、ある意味でその最大の庇護者だった頼朝が亡くなると、景時は孤立していった。66人もの御家人が署名した、景時に対する弾劾状が如実のその実態を物語っている。景時を憎む者、過去に何かのことで彼に恨みを持つものがいかに多かったかが分かる。弾劾状を提出された二代・頼家が、これを景時に示したとき、彼は一言の弁解もせずに鎌倉を去り、相模一宮の本拠に引き籠もってしまったのだ。これが「梶原景時の変」と呼ばれる事変の伏線となった

 1199年(正治元年)事態は動き出した。そして、景時はその翌1200年(正治2年)の正月、手勢を率いて上洛しようとした。だが、結局、駿河の清見が関の近くにきたところで土地の御家人たちに討たれて、一族とともにあっけない最期を遂げた。路上には景時以下、嫡子・景季(39歳)、景茂(34歳)、さらに景国、景宗、景則、景連ら一族33名の首が架けられた。頼朝の死から1年後のことだった。そして、このことが結果的に二代将軍・頼家の時代をより短命にしたといえる。なぜなら、景時の妻は頼家の乳母の一人だったから、景時は頼家の乳母夫だったのだ。したがって、景時は本来、頼家にとって信頼に値する存在だったはずなのだ。だが頼家はこのことに気付かず、あるいはほとんど意識せず、景時を追い込んで、自らの存立基盤を弱めてしまったのではないか。

(参考資料)永井路子「炎環」、永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「梶原景時があっけなく失脚した理由」、永井路子「北条政子」

会津八一 奈良の古美術研究をライフワークとした歌人・書家・美術史家

会津八一 奈良の古美術研究をライフワークとした歌人・書家・美術史家

 会津八一は明治時代後半~昭和時代前半の歌人・書家・美術史家だ。万葉風を近代化した独自の歌風を確立した人物だ。妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られた。故郷、新潟の高校の教員時代は多くの俳句、俳論を残したほか、早稲田大学講師時代には美術史研究のためにしばしば奈良へ旅行し、まとめた仏教美術史研究『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(1933年)で学位を受けている。生涯、妻帯することはなかった。八一の生没年は1881(明治14)~1956年(昭和31年)。

 会津八一は新潟市に生まれた。雅号は秋艸道人(しゅうぞうどうじん)、渾斎(こんさい)。中学生のころから『万葉集』や良寛の歌に親しみ、俳句・短歌を始めた。新潟県尋常中学校(現在の新潟県立新潟高等学校)を経て、東京専門学校(現在の早稲田大学の前身)に入学し、坪内逍遥や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講し、1906年、早稲田大学英文科を卒業した。卒業後は新潟に戻り、私立有恒(ゆうこう)学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)の教員となり、多くの俳句・俳論を残した。

 1908年、八一は28歳のとき初めて奈良を旅行。以後、生涯にわたり大和一円の仏教をはじめとする古美術研究をライフワークとした。1910年、坪内逍遥の招聘により上京、早稲田中学校の教員となった。1925年には早稲田高等学院教授となり、翌年には早稲田大学文学部講師を兼任。美術史関連の講義を担当、研究のためにしばしば奈良へ赴いた。この成果となったのが仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(1933年)で、この論文で彼は学位を受けた。1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に、彼は主任教授に就任した。まさに彼にふさわしいポストだった。

 八一にとって、奈良は特別な場所だった。もし彼が奈良へ旅行することがなければ、歌人・八一も、書家・八一も、まして美術史家・八一も誕生しなかったのではないか。八一に奈良の魅力を吹き込んだのは、井原西鶴の再評価に力を尽くした淡島寒月(あわしまかんげつ)だ。二人の出会いは八一が24歳のとき。ただ、八一はその2年後、故郷新潟の私立有恒学舎に英語教師として赴任。奈良とのつながりは遠のいたかにみえた。しかし、八一には相思相愛の恋人がいた。その恋人を東京に残したままの、辛い赴任だった。彼は寂しさを紛らすため、奈良への憧れを歌に託し、消え入りそうな恋の炎を必死に燃やし続けた。

 「青丹(あおに)よし奈良をめぐりて君としも 古き仏を見むよしもがも」

 こんな切なる思いにもかかわらず、結局この恋は実ることがなく、彼は生涯独身を貫いた。八一が初めての奈良への旅で訪れたのが東大寺、新薬師寺、春日若宮、法華寺などで、20首の和歌を詠んでいる。奈良で詠んだ八一の歌には、どこか祈りにも似た響がある。それを彼の若き日の傷心と結び付けるのは、あまりにも凡俗だが、彼が奈良の寺院で出会った御仏の中にその面影を見ていたことは否定し難いようだ。奈良を愛した八一が、奈良で詠んだ歌を紹介しておく。

 「ならさか の いし の ほとけ の おとがひに こさめ ながるる はる は き に けり」

  奈良市の北、般若寺(はんにゃじ)を経て木津へ出る坂が奈良坂。その上り口の右の路傍に、「夕日地蔵」と土地の人が呼ぶ石仏が立っている。この歌はその石仏を詠んだもの。春のはじめ、石仏のおとがい(下あご)に小雨がしとしとと降りかかっている。冷たい雨ながら、その細かい雨足はもう春の到来を告げている-という意だ。

 八一は、北の京都に比して奈良を南京と呼び、有名な歌集『南京新唱』をはじめとして、奈良を讃嘆する歌を数多く遺した。そのため、奈良一帯だけでも彼の書による歌碑は各地にあって愛されている。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」、植田重雄「会津八一 短歌とその生涯」、「古寺を巡る⑭ 唐招提寺」

賀茂真淵 古典の研究に没頭し、田安宗武に仕えて国学の師を務めた国学者

賀茂真淵 古典の研究に没頭し、田安宗武に仕えて国学の師を務めた国学者

 賀茂真淵は江戸時代中期の国学者・歌人で、荷田春満(かだのあずままろ)、本居宣長、平田篤胤(ひらたあつたね)とともに、国学の四大人(しうし)の一人として知られる。荷田春満に学び、万葉集を中心として古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭した。また、徳川御三卿の筆頭、田安家当主、田安宗武に仕えて国学の師を務めた。

 賀茂真淵は遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市東伊庭1丁目)で、賀茂明神神職、岡部政信の三男として生まれた。岡部家は京都の賀茂神社の末流とされる。通称は庄助、三四(そうし)。屋号は県居(あがたい)。真淵は出生地の敷智郡にちなんだ雅号で淵満とも称した。真淵の生没年は1697(元禄10)~1769年(明和6年)。真淵は1707年(宝永4年)、江戸の国学者・荷田春満(かだのあずままろ)の弟子であり、春満の姪、真崎を妻とし浜松で私塾を開いていた杉浦国顕に師事した。1723年(享保8年)、結婚するが、翌年妻を亡くし、1725年(享保10年)には浜松宿本陣、梅谷家に入塾した。37歳のとき、家を捨てて京都に移り、荷田春満を師として学んだ。1736年(元文元年)、春満が死去すると浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎えると1738年(元文3年)には江戸に移り、私塾を開き国学を教えた。

 江戸で私塾を主宰するようになって、真淵の生活はようやく落ち着いたものになった。そして、徳川家に連なる名門に出入りすることになった。1746年(延享3年)、真淵50歳のときのことだ。徳川御三卿の筆頭、田安家の和学御用掛となって、当主・田安宗武に仕えることになったのだ。いま一つ、真淵にとってきちんと記しておかなければいけないのが、本居宣長との接点だ。本居宣長に、国学を研究するうえで決定的な影響を与えたのは、実はこの賀茂真淵なのだ。1763年(宝暦13年)、真淵が松阪にやってきた。そして日野町の旅籠、新上屋というところに泊った。これを知った宣長はいても立ってもいられず、新上屋に駆け付け真淵と会った。そして、教えを請うた。その年の暮れ、宣長は真淵の門に入った。

 しかし、宣長が実際に師の真淵と会って言葉を交わしたのは、このときだけだ。それから真淵が死ぬまでの6年間、宣長は手紙によって教えを請うた。真淵もまた、丁寧に手紙で応えた。文通による師弟のつながりが、ずっと続いたのだ。直接、顔を付き合わせた形での師弟関係ではなかった本居宣長をはじめ、門人には荒木田久老、加藤枝直、加藤千蔭、村田春海らがいる。

 真淵の主な著書に『万葉考』『歌意考』『祝詞考』『冠辞考』『国歌八論臆説』『語意考』『国意考』『古今集打聴』『源氏物語新釈』などがある。真淵は国学者だったが、歌人としても優れていた。次の句は『賀茂翁家集』に収められている歌だ。

 「枯れにける草はなかなか安げなり 残る小笹の霜さやぐころ」

 小笹はまだ枯れきらず、霜を被ったまま冬の寒風に吹き晒されて、どこか不安げにざわめいている。そんな光景をみると、すでに枯れ果てて地べたにくたりと横たわっている草は、かえって安らかにみえる。

(参考資料)童門冬二「私塾の研究」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」、三枝康高「賀茂真淵」

加納夏雄 明治の新貨幣の原画制作を担当した明治金工界の巨匠

加納夏雄 明治の新貨幣の原画制作を担当した明治金工界の巨匠

 加納夏雄は、幕末・明治期の彫金家で、明治金工界の巨匠だ。明治政府の新貨幣製作にあたり、「大阪造幣寮」(現在の独立行政法人 造幣局=大阪市北区)に出仕して、その原型制作に従事した人物だ。加納が制作した原型は精巧で当時、貨幣製作に携わった多くのお雇い外国人をも驚嘆させ、英国に原型制作を依頼する必要がないレベルといわせた。その結果、明治期、新貨幣の原型制作は加納夏雄一門だけがその業務を担うことになった。

 加納夏雄は、米穀商・伏見屋治助(じすけ)の子として、京都柳馬場御池通りで生まれた。幼名は治三郎。夏雄の生没年は1828(文政11)~1898年(明治31年)。伏見屋の治三郎は1834年(天保5年)、7歳のとき刀剣商・加納治助の養子となり、まず奥村庄八に彫金技術の手ほどきを受けた。さらに1840年(天保11年)、大月派の金工師・池田孝寿(たかとし)門下となり、装剣金具の制作技術を学び、寿朗(としあき)と改名した。寿朗は1846年(弘化3年)、独立して京都で開業し、夏雄を名乗った。19歳のときのことだ。このころ、絵を円山派の中島来章に、漢学を谷森種松にそれぞれ学び、彼の後年の制作活動の基になった。

 1854年(安政元年)、27歳となった夏雄は江戸へ移り、明治の初めまで刀装具の制作にあたった。1869年(明治2年)には宮内省より明治天皇の御刀金具の彫刻を命ぜられる栄誉に浴した。夏雄の優れた刀装具制作技術が認められた結果だった。明治新政府の新貨条例は、夏雄にとって大きな飛躍となる格好の機会を提供してくれることになった。「一円銀貨」は、1871年(明治4年)の新貨条例により対外貿易専用銀貨として発行された、日本を代表する近代銀貨だった。1914年(大正3年)まで製造され、主に台湾や中国で流通した。

 夏雄はこの一円銀貨の原型制作を担当したのだ。一円銀貨が製造された当時は、明治維新後まもなくのことで、造幣技術が確立されていなかったため、当初、政府は英国に範を求めた。だが、加納夏雄が持参した原図の龍図がすばらしく絶賛され、日本で製造されることになったのだ。これにより、夏雄は1871年(明治4年)から1877年(明治10年)まで大阪造幣寮に出仕し、一門で新貨幣の原型制作に従事した。一円銀貨の原型制作の輝かしい事績の一方で、夏雄にとって厳しい側面も出てきた。1876年(明治9年)の「廃刀令」により、夏雄は主力を占めていた刀装具制作を断念せざるを得なくなったのだ。そこで、東京に戻ってからは、花瓶、置物、たばこ盆などの生活用具の制作に携わることになった。

  ただ、夏雄は明治期有数の彫金家で、金工界の巨匠として知られる存在だっただけに、関連組織・団体から声がかかることは少なくなかった。1881年(明治14年)、第2回内国勧業博覧会の審査官となり、1894年(明治27年)には東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授になるとともに、第1回帝室技芸員になった。

(参考資料)造幣博物館資料、朝日日本歴史人物事典、尾崎 護「経綸のとき」

加藤清正 秀吉の遠戚として将来を期待され、生涯忠義を尽くした武闘派

加藤清正 秀吉の遠戚として将来を期待され、生涯忠義を尽くした武闘派

 加藤清正は羽柴秀吉の小姓からスタートし、秀吉の出世とともに家臣として各地を転戦して武功を挙げ、秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ケ原の戦い後、肥後熊本藩の初代藩主となった。加藤清正の生没年は1562(永禄5)~1611年(慶長16年)。

 加藤清正は尾張国の鍛冶屋、加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。幼名は夜叉若、元服後、虎之助清正と名乗った。父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が秀吉の生母、大政所の従姉妹(あるいは遠縁)だったことから、近江長浜城主となったばかりの秀吉の小姓として出仕し、1876年(天正4年)に170石を与えられた。

 清正は大男だった。鯨尺四尺三寸に仕立てた着物の裾が、膝下の三里から少し下のところまでしかなく脇差が備前兼光で三尺五寸あったというから、どう考えても身長六尺三、四寸はあったに違いない。彼の乗馬、帝釈栗毛は丈・六尺三寸あったという。普通の馬は五尺だ。彼は常にこれに乗って、江戸市中を往来した。清正はまた長いあごひげを伸ばしていたので、いやがうえにも長身に見えたに違いない。さらに、彼の長烏帽子(ながえぼし)の冑(かぶと)だ。六尺三、四寸もある男が、長いあごひげを生やし、あの長い冑を被っているとあっては、ものすごく丈高く、ものすごく堂々たる威容があったと思われる。もともと甲冑は、敵の攻撃から自分の身を保護するだけのものでなく、敵を威嚇する目的も持っているものだから、清正もそのへんの効果を考えて、あんな冑をこしらえたものだろう。

 ところで、清正は秀吉の遠戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。1582年(天正10年)本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の合戦に参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取る武功を挙げ、秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石の所領を与えられた。1585年(天正13年)、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下主計頭に叙任。1586年(天正14年)からは秀吉の九州征伐に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5000石を与えられ熊本城を居城とした。

 肥後において清正は優れた治績を残している。清正というと土木・治水事業をまず想像するが、彼は田麦を特産品化し、南蛮貿易の決済に充てるなど、治水事業同様、商業政策でも優れた手腕を発揮した。1589年(天正17年)、小西行長領の天草で一揆が起こると、小西行長の説得を無視して出兵を強行、これを瞬く間に鎮圧している。風貌にふさわしい、“武闘派”の片鱗をみせた。

 「関ケ原の戦い」の後、西軍に味方した小西行長が没落し、徳川家の家臣となった加藤清正が肥後一国52万石の熊本城主となった。しかし、清正の子、忠広のとき、徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長の失脚事件に連座し、1632年(寛永9年)加藤家は領地を没収され、忠広は出羽庄内(現在の山形県櫛引町)に流罪となった。そして、細川忠利が豊前小倉39万9000石から加増され入封したのだ。以後、熊本藩は細川家による治世が続くことになった。

(参考資料)海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」、童門冬二「人間の器量」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」中嶋繁雄「大名の日本地図」

横井小楠 坂本龍馬に「船中八策」の原案となる国是を説いた思想家

横井小楠 坂本龍馬に「船中八策」の原案となる国是を説いた思想家

 横井小楠(よこいしょうなん)は肥後熊本藩士だったが、地元熊本では受け入れられず、請われて越前福井藩主・松平春嶽の顧問となって、同藩の藩政改革に尽くしたほか、幕末、幕府の政事総裁職を務めた松平春嶽の要望に応えて、大胆な幕政改革に努めた儒学者で、思想家だ。その思想は坂本龍馬や、三岡八郎(後の由利公正)らに大きな影響を与え、幕末から明治維新にかけての大きな指針となった。小楠の生没年は1809(文化6)~1869年(明治2年)。

 横井小楠は、肥後国熊本内坪井(現在の熊本市坪井)で熊本藩士・横井時直の次男として生まれた。諱は「時存(ときあり・ときひろ)」で、正式な名乗りは「平時存(たいらのときあり)」。通称は「平四郎」。号は「小楠」「沼山(しょうざん)」。横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発するという。北条高時の遺児、北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住み、時行4世孫にあたる横江時利の子が「横井」姓に改めたのが始まりといわれる。

 勝海舟は『氷川清話』で「今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ」と述べている。勝にそれほどの印象を与えた小楠だが、当時保守的な考え方が強かった地元では、全く用いられず、嫌われる存在だった。

そこに至る経緯をみると、小楠は肥後熊本藩の藩校「時習館」に学び、居寮長に抜擢されたり、江戸留学も命じられた秀才だった。1839年(天保10年)江戸遊学を命じられた際は、佐藤一斎、藤田東湖らと交流を持つなど、中央でもその名は知られていた。したがって、青年期までの小楠は、地元でもそれなりの評価はあったのだ

 小楠が地元では受け入れられなかったのは、彼が徹底した実学派で、「社会に役立たない学問は学問ではない」と豪語。藩校で教える学問(朱子学)の悪口をいい、自分の学問系列を「実学党」と称して私塾を開いていたからだ。1843年(天保14年)、肥後熊本藩の藩政改革のために、「時務策」を書いたことが藩への批判と取られたことも大きく響いた。いま一つは、彼が酒好きで、酔うと大言壮語して、からむ、しつこく議論するなど酒癖がよくなかったからだ。

 「藩の経営について」を演題に、各藩へ講演旅行に回っていた実学派の小楠を、真に理解し評価したのが、越前福井藩の藩主の片腕だった橋本左内と、三岡八郎だった。左内から松平春嶽に「小楠先生用いるべし」と進言され、八郎が小楠に会う使者に立った。八郎はたちまち小楠と意気投合し、その旨、春嶽に報告。そこで、春嶽は1852年(嘉永5年)政治顧問として小楠を招き、懸案の藩政改革にあたった。小楠は藩校・明道館の校長にも任ぜられている。

 小楠は越前福井藩では家老よりも上席のポストをもらって、藩士たちに学問を教えた。藩富のための殖産興業を奨励した。この殖産興業を実際面で担当したのが三岡八郎だった。小楠は「藩を富ませることは、まず民を富ませることである。それが王道政治である」と主張した。彼は「地球上にも有道と無道の国がある。有道の国とは王道政治を行っている国のことだ。無道の国とは覇道政治を行っている国のことだ」と説いている。そして、王道政治とは民に対して仁と徳をもって臨むことであり、覇道政治とは民に対して権謀術数をもって臨むことである-と定義した。1862年(文久2年)松平春嶽が幕府政事総裁職を務めることになり、小楠は春嶽の要望に応え、春嶽の助言者として幕政改革に関わった。

 1864年(元治元年)、坂本龍馬が熊本の小楠を訪ねているが、このとき小楠は後に龍馬がまとめた「船中八策」の原案となる「国是七カ条」を説いている。

それは、次の7点だ。

・大将軍上洛して、烈世の無礼を謝せ

(将軍は自ら京へ行って、天皇に過去の無礼を謝る)

・諸侯の参勤を止め、述職とせよ(参勤交代制度の廃止)

・諸侯の室家を帰せ(大名の妻子を国許に帰す)

・外様譜代に限らず、賢を選んで政官となせ

 (優れた考えの人を幕府の役人に選ぶ)

・大いに言路を開き、天下公共の政をなせ

 (多くの人の意見を出し合い、公の政治を行う)

・海軍を興し、兵威を強くせよ(海軍をつくり、軍の力を強くする)

・相対貿易を止め、官の交易となせ(貿易は幕府が統括する)

 これらは200年余にわたる幕府体制の根幹を揺るがす、大胆な改革であるとともに、植民地化を迫る欧米諸国からの日本防衛問題までをも含むものだった。

 小楠は私塾「四時軒(しじけん)」を開き、多くの門弟を輩出した。また、坂本龍馬や井上毅など明治維新の立役者や明治新政府の中枢を占めた人材の多くが、ここを訪問している。

 1868年(明治元年)、小楠は「徴士」として明治政府に迎えられ、やがて参与、制度局判事となった。ここで小楠に進歩的な論策を発揮する機会が到来したのだ。だが、排外攘夷派の動きは明治政府の成立後も絶えなかった。とくに西洋主義者と見られていた小楠に対して、耶蘇を尊奉するとか、共和論を主張するとかの流言が伝えられ「生かしておいては国家の前途を危うくする」とみて、再び刺客が狙い出した。1869年(明治2年)、御所へ参内した帰途、寺町通り丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)刺客数人(十津川郷士)に暗殺された。この当時、小楠は腸を病み臥床がちで、衰弱した60歳の病体には対抗する術はなかった。

 横井小楠横死が上聞に達すると、朝廷からの侍臣が遣わされ、翌日には旧藩主へ祭祀料として金300両が下賜された。小楠は朝廷でも長老として推重されており、後年、正三位が追贈された。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、尾崎 護「経綸のとき」、童門冬二「人間の器量」、童門冬二「小説 横井小楠」、童門冬二「江戸商人の経済学」、中嶋繁雄「大名の日本地図」、白石一郎「江戸人物伝」

 

 

 

 

 

円仁 慈覚大師の諡号贈られるが、世俗の権力争いに加担した風評も

円仁 慈覚大師の諡号贈られるが、世俗の権力争いに加担した風評も

 円仁は平安時代初期の僧で、最後の第十七次・遣唐僧として唐に渡り、日本の天台宗を大成させた人物だ。また、彼は最初に朝廷から「慈覚大師」の「大師号」を授けられた高僧だ。ただ、こうした輝かしい事績の一方で、円仁には後の摂関家の権力者、藤原良房に結びつき、奉仕した僧-との指摘もある。円仁の生没年は794(延暦13)864年(貞観6年)。

 「大師号」がどれくらい稀少で品格の高さを表したものなのか、慈覚大師円仁の後に「大師号」を受けた高僧として「伝教大師」(最澄、彼の場合、円仁と同時期に授けられたとの説もある)、「弘法大師」(空海)などが有名だが、空海が授けられたのは、円仁の45年後のことだ。「大師号」は勝手に付けたり、名乗れるものではなく、帝よりいただくもの。それだけに、最初に大師号を授けられる栄誉に浴した円仁は、その偉大さを示している。

 円仁は、下野国都賀郡の現在の岩舟町下津原で生まれた。俗姓・壬生。9歳から6年間、広智菩薩のもと、現在の岩舟町小野寺にある大慈寺で修行し、15歳で比叡山に登り最澄の弟子となった。比叡山での修行の後、当時の日本有数の僧となった円仁は、42歳のとき遣唐使一行に短期留学の高僧として加えられた。43歳になった836年(承和3年)、円仁らの遣唐使船は博多港を出発したが、暴風に遭い大破し中止となった。838年(承和5年)、円仁45歳のとき3度目の挑戦で、ようやく唐に到着した。それから9年半の苦難の旅が始まった。

 円仁の入唐の目的は、天台宗の発祥の地、天台山へ行くことだったが、旅行許可証が発行されず、天台山へは行けなかった。そこで、彼は五台山と長安へ行き、主として天台と密教を学んだ。天台宗の教勢を拡大するには、加持祈祷を行う密教を本家・中国で学ぶことが必要だと考えた師・最澄の悲願の達成だった。この入唐からこの後、847年(承和14年)日本に帰国するまでの9年半にわたる唐滞在の記録が『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』だ。

 『入唐求法巡礼行記』は玄奘の『大唐西域記』、マルコポーロの『東方見聞録』とともに三大旅行記の一つとされ、唐の国や仏教中心地の様子がうかがえる古代史の第一級の史料だ。しかも、これは日本人が書いた旅行記だ。玄奘やマルコポーロが口述して他の者にまとめさせたのに対し、『入唐求法巡礼行記』は円仁自ら書き残したものだ。この記録を読む限り、円仁は実に熱心に仏法を求める、忍耐強い人物だったことが分かる。彼の観察は冷静で的確だ。

 ただ、帰国後の円仁の行動には、高僧にあるまじき、不可解とも取れる部分がある。円仁は弟子の安恵(あんね)とともに当時の権力者、藤原良房に結びつき、加持祈祷により第一皇子・惟喬(これたか)親王を皇太子に立てようとする文徳天皇の意思を挫き、良房の娘・明子(あきらけいこ)の産んだ惟仁(これひと)親王、後の清和天皇を擁立しようとする陰謀に加担したらしいのだ。

 円仁の死後2年、866年(貞観8年)、空海らをさし措いて、冒頭に述べた「慈覚大師」の諡号(しごう)が贈られたのも、こうした功績への見返りだったとも取れるのだ。とすれば、彼は権力者に奉仕した僧になってしまうのだ。円仁が有名になったのは、米国の元駐日大使のライシャワーが、『入唐求法巡礼行記』を英訳し、世界の人々に広く紹介したことによる。晩年、第三世天台座主に就いている。

(参考資料)梅原 猛「百人一語」、北山茂夫「日本の歴史④平安京」、佐伯有清「円仁」

永井尚志 諸外国との通商交渉を担当し、旗本から異例の若年寄に栄進

永井尚志 諸外国との通商交渉を担当し、旗本から異例の若年寄に栄進

 永井尚志(ながいなおむね・ながいなおゆき)は江戸時代後期、三河奥殿藩主の晩年の子として生まれたため、家督はすでに養子に譲られていたことから、藩主にはなれず、旗本の養子に出された。しかし、幕臣として立身し、様々な要職を務め、旗本から異例の若年寄に栄進した人物だ。戊辰戦争では幕府軍が敗れることを予測していながら、潔く最後まで幕府に忠誠を尽して戦った忠臣として高く評価されている。生没年は1816(文化13)~1891年(明治24年)。

 永井尚志は三河国奥殿藩第五代藩主・松平主水正(もんどのしょう)乗尹の子として国許で生まれた。名は岩之丞、法号は介堂。後に玄蕃頭(げんばのかみ)を称した。父の晩年に生まれたため、家督はすでに養子の松平乗羨が相続していたことから、藩主の座に就くことはできなかった。江戸藩邸で養育されたが、1840年(安政元年)25歳のとき浜町に本邸を持つ2000石の旗本、永井能登守尚徳の養子となった。幕臣・永井尚志の誕生であり、新たな人生のスタートだった。

 永井は1847年(弘化4年)小姓組番士を皮切りに、御徒士頭を経て、1853年(嘉永6年)、目付として幕府から登用された。永井48歳のときのことだ。1854年(安政元年)には長崎伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍。1858年(安政5年)、それまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震(いわせただなり)とともに、外国奉行に任じられた。そして、ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約に調印した。その功績で軍艦奉行に転進した。

 順調に出世街道を歩んだ永井だったが、ここで挫折を味わうことになる。徳川十三代将軍家定の後継争いで、永井は一橋慶喜(後の十五代将軍)を推す一橋派を支持したため、「安政の大獄」(1859年)の嵐の中、時の大老・井伊直弼の反感を買い、奉行職を罷免され、失脚したのだ。しかし、井伊直弼が「桜田門外の変」(1860年)で暗殺されると、幸運にも再び道が開かれる。永井は1862年(文久2年)、京都町奉行として復帰し、活躍の舞台を与えられる。1864年(元治元年)、禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。その結果、1867年(慶応3年)には旗本からは異例の若年寄まで出世した。

 大政奉還から戊辰戦争、そして明治維新に至る激動の時代は、幕臣・永井にとっては、“負け組”を覚悟しながらも、輝ける最後の時期でもあった。鳥羽・伏見の戦いの後には、十五代将軍慶喜に従って、大坂から軍艦で江戸へ逃げ戻り、その後の戊辰戦争では榎本武揚とともに蝦夷へ戦いの舞台を移している。彼は箱館奉行となり新政府軍と戦ったのだ。箱館・五稜郭での戦いに敗れて榎本らとともに自決しようとしたが、周囲に止められて、不本意ながら降伏した。明治維新後、1872年(明治5年)、新政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、1875年(明治8年)に元老院権大書記官に任じられた。

 永井は忠臣として評価されているのだが、政治的な立場からみると、決して開明派の人物ではなかったとの指摘がある。それは、第一次長州征伐の事態収拾でのことだ。そこで永井は後から交渉に関わったにもかかわらず、長州藩主・毛利敬親を捕縛しさらし者にすることを主張。交渉をまとめた征討総督の尾張藩・徳川慶勝らの面目を潰し、参謀の西郷隆盛に批判、論破されているのだ。こうした点を考え合わせると、彼は旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱し切れなかった守旧派の人物とみることもできる。 

(参考資料)司馬遼太郎「最後の将軍」、童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」

叡尊 奈良・西大寺を復興、「興正菩薩」の尊号贈られた名僧

叡尊 奈良・西大寺を復興、「興正菩薩」の尊号贈られた名僧

 叡尊は真言律宗の僧で、奈良・西大寺を復興した僧として知られる。真言の呪法ダラニで「文永の役」(「元寇」)で蒙古の襲来を退けるという祈祷を行い、その呪法が効いたのか、大風が吹き元軍は壊滅、その名声を高めた。また、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼はじめ、その補佐役だった権力者・金沢実時、将軍・宗尊(むねたか)親王、さらには亀山上皇、後嵯峨上皇、後深草上皇らもこの叡尊に帰依していたといわれる名僧だ。入滅10年後「興正菩薩」の尊号が贈られた。叡尊の生没年は1201(建仁元)~1290年(正応3年)。

 叡尊は、大和国添上郡箕田里(現在の大和郡山市白土)で生まれた。字は思円(しえん)。父は源義仲の後裔、興福寺の学侶の慶玄(きょうげん)。7歳で生母を失い、京都醍醐寺近くの巫女に養われたが、11歳でこの養母も亡くなった。そこで、その妹に引き取られ、育てられた。叡尊は1217年(建保5年)、17歳で醍醐寺の阿闍梨叡賢に師事して出家。1224年(元仁元年)高野山に入り、真言密教を学んだ。1235年(嘉禎元年)、35歳のとき、当時荒廃していた西大寺に入寺。戒律の復興を志して、西大寺宝塔院持斎僧となり『四分律行事鈔』を学んだ。

 様々な史料によると、西大寺は11世紀前半までに「四王堂」倒壊、金堂四天王像は野ざらしの状態で、1118年(元永元年)、食堂と塔一基を残し、西大寺諸堂は大破して、修復も行われず、礎石だけの状態となった。こうした荒れ寺、西大寺に叡尊は入り、再建しつつ、根拠地としたのだ。1236年(嘉禎2年)、覚盛(かくじょう)、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒。地頭の侵奪により、西大寺が荒廃したため、叡尊は海龍王寺に移った。

 1238年(歴仁元年)、叡尊は持戒のあり方をめぐり、海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻った。そして西大寺の復興に努め、結界・布薩した。1240年(仁治元年)、叡尊は西大寺に入寺した忍性(にんしょう)の文殊菩薩信仰に大きな影響を受けた。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)を行い、近傍の非人に斎戒を授けた。1242年(仁治3年)、奈良の獄屋の囚人たちに斎戒沐浴させた。1247年(寛元5、宝治元年)、仏師・善円に念持仏・愛染明王坐像をつくらせ、1249年(建長元年)、仏師・善慶に京都・清涼寺釈迦如来像の模刻をつくらせ、西大寺四王堂に安置した。

 1258年(正嘉2年)、叡尊は絵師・尭尊に金剛界曼荼羅、1260年(文応元年)、胎蔵界曼荼羅をそれぞれ描かせた。1262年(建長2年)、前年来の北条実時からの懇請に応え関東へ下向。北条実時・時頼に拝謁し、授戒した。1279年(弘安2年)には亀山上皇以下公卿らに授戒と、『梵網経古迹記』の講義を行った。この結果、叡尊は鎌倉・北条執権家および京都・朝廷にも広く支持される存在となったのだ。1285年(弘安8年)には、院宣により四天王寺別当に就任した。叡尊は1285年までの50年間、民衆3万8000人に菩薩戒を集団的に授けたほか、彼は生涯に700余の寺院を創建・修復したといわれる。1286年(弘安9年)、叡尊は自ら「真言律宗」という真言宗のうちで「戒律」を重んずる宗派を興した。当時、世は乱れ、まさに「末法思想」が時代を覆っていた。この末法思想を前提に法然は「念仏」を唱え、日蓮は「題目」を主張した。叡尊もまた末世の自覚ゆえに真言を選んだ。

 しかし、彼は当時の真言のあり方に批判を持った。彼は真言にも「戒律」が必要だと考えたのだ。そして、空海の「仏道は戒なくしてなんぞ到らんや」「もしことさらに犯すものは仏弟子にあらず。(中略)わが弟子にあらず」という言葉をもって、空海の思想を継ごうとしたのだ。彼は、この空海の言葉を中心に据え、「戒」を重視する真言宗を唱えたのだ。それが「真言律宗」だ。叡尊は、この「戒」の思想をどこから得たのか。恐らく鑑真の影響を受けたものとみられる。彼の「戒律」の強調は、あまりに現世的になり、厳しい求道精神を失っていた当時の仏教への真正面からの批判であり、それはまた民衆の歓迎するところだった。

 1290年(正応3年)西大寺で病を発し入滅。10年後の1300年(正安2年)伏見上皇の院宣により、「行基菩薩」の先例にならって、「興正菩薩」の尊号が贈られた。

(参考資料)梅原 猛「海人(あま)と天皇」

井深 大 「世界のソニー」を創業したモノづくりの天才

井深 大 「世界のソニー」を創業したモノづくりの天才

 トランジスタからウォークマンまで、ソニーが世界に送り出した新製品の多くは、技術だけでは説明しきれない、人を惹き付ける“何か”を持つ。井深大(いぶかまさる)は、時代の予兆を製品化して見せた天衣無縫の技術者であり、盛田昭夫と手を携えてソニーを創業、戦後日本を代表する世界企業に育て上げた、モノづくりの天才だった。井深大の生没年は1908(明治41)~1997年(平成9年)。井深大は、栃木県・日光町の清滝にある古河鉱業・日光銅精錬所の社宅で生まれた。父・井深甫(はじめ)は東京高等工業(現在の東京工業大学)卒業の気鋭の技術者だったが、井深がわずか2歳のとき病死した。その後、東京、愛知、神戸と小学校を変わり、母・さわの再婚先で難関の神戸一中に進んだ。井深はこのころから無線に凝っていたようだ。

 早稲田第一高等学院の理科から1930年(昭和5年)、早稲田大学理工学部の電気工学科に進学。発電など花形の重電部門ではなく、当時まだ遅れていた無線などの弱電を専攻した。利害より好き嫌いを優先させるところが井深らしさだ。その成果が光電話の実験や、音声と連動して変化するネオンなど「ケルセル」の開発だった。走るネオンとして特許も取ったケルセルは、就職後にパリ万博で優秀発明賞を受賞。天才発明家として、井深の名前は広まっていった。

 井深は最初、東宝映画の撮影所PCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所、昭和5年創立)に就職(1933年)、次に日本光音工業に移り、軍国主義の影が濃くなった1940年には学友と日本測定器という会社を興した。磁気計測を応用した潜水艦の探査装置、秘話通信の新方式などの開発に及んだ。終戦後、1946年に20数人で旗揚げした東京通信工業(東通工)の設立趣意書で、代表取締役専務の井深は「技術者の技能を発揮できる理想工場の建設」や「不当なるもうけ主義を廃し、いたずらに規模の拡大を追わず、大企業ゆえに踏み込めない技術分野をゆく」とその企業理念を謳っている。これが技術のソニーの原点だ。

 1950年、東通工は記念すべき商品の開発に成功している。国産第一号のテープレコーダーG-1だ。この年、社長に就任した井深は、技術陣にその携帯化を持ちかけ、翌年には街頭録音で有名な携帯録音機M-1、通称「デンスケ」が登場した。テープレコーダーで営業の基盤を固めた東通工は、トランジスタへと挑戦する。1953年、ウエスタンエレクトリック社と特許契約を結び、1955年にはトランジスタラジオTR55を発売した。この1955年からラテン語の音(SONUS)と英語の坊や(SONNY)を組み合わせた「SONY」マークが、東通工製品に記されるようになった。トランジスタラジオは売れに売れた。船では間に合わず、飛行機のチャーター便でも輸出した。1958年、社名も「ソニー」に改め、翌年には世界初のトランジスタテレビを完成させた。次々に繰り出される新製品は“ソニー神話”と呼ばれた。

 ソニーが文字通り技術で世界に躍り出たのが、1968年のトリニトロンカラーテレビの開発だ。三人の卓越した技術者が、単一の電子銃から三本の電子ビームを走らせる方式を完成させたのだ。これにキリスト教の「父と子と精霊」の三位一体を表すトリニティを被せて、井深は「トリニトロン」と名付けた。明るく鮮明な画面が、世界に歓声を持って迎えられた。さらに井深はビデオ方式の苦い経験すら、八ミリビデオからデジタル、ハンディカムへの発展の契機にした。1979年に売り出したウォークマンも、70代の井深と還暦近い盛田の発想で生まれたという。

 井深は、技術は使われ、製品は慕われてこそ意味を持つといい、創造性の根源は幼児からの教育だと主張し続けた。だから、彼の膨大な著作の95%は幼児教育関連だ。アカデミックな論文などではない。

(参考資料)中川靖造「創造の人生 井深 大」、佐高 信「逃げない経営者たち 日本のエクセレントリーダー30人」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 井深 大」

伊東玄朴 貧農生まれながら幕府奥医師まで登り詰め、蘭方の地位を確立

伊東玄朴 貧農生まれながら幕府奥医師まで登り詰め、蘭方の地位を確立

 伊東玄朴は、長崎の鳴滝塾でシーボルトからオランダ医学を学び、徳川第十三代将軍家定が脚気で重体に陥ったとき、戸塚静海とともに蘭方医として初めて幕府奥医師に登用され、官医界における蘭方の地位を確立した人物だ。「シーボルト事件」(1828年)では、幕府天文方兼御書物奉行・高橋作左衛門からの日本地図を、長崎のシーボルトに届け、罪科に問われるはずだった。だが幸運にも、玄朴は奇跡的に連座を免れた

 伊東玄朴は肥前国神埼郡仁比山村(にいやまむら、現在の佐賀県神埼市)で生まれた。生家は貧農で、名は勘造といった。彼が肥前藩から正式に伊東玄朴と名乗ることを許されるのは30歳ごろのことだが、ここでは玄朴で統一する。玄朴の生没年は1800(寛政11)~1871年(明治4年)。彼は読書を好み、隣村の小淵に住む漢方医・古川左庵のもとに下男として住み込んだ。生家に留まれば、田畑を耕し種をまいても、辛うじて飢えをしのぐ程度の収穫しかない。恵まれた頭脳をもって生まれた彼は、農耕以外に立身の道を求めようとし、医家を志したのだ。

 玄朴は左庵の家の雑役をしながら、薬箱を提げて往診する左庵につき従って4年間を過ごした。その間に、彼は少しずつ治療の方法を見習っていった。左庵も熱心な彼に目をかけ、薬の調合などもさせるようになった。玄朴が19歳のとき父・重助が死去し、彼は家に帰ったが、家はいぜんとして貧しく借財もあった。農業では借金も支払えないと判断し、大胆にも彼は漢方医の看板を掲げた。生家には母と病弱の弟がいた。このままでは飢え死にを待つばかりだと、彼は必死だった。薬の調合は習ったが、治療の方法はほとんど知らなかった。だが、彼は病人を丁寧に扱った。夜遅くでも起こされれば、喜んで出かけ、泊り込みで病人を見守ることも多かった。

 そんな玄朴の態度が素朴な農家の人々に好感を与え、徐々に患家が増えていった。4年の歳月が流れ、彼は休みなく働き、徹底した節約もしたので、かなりの金銭を蓄えることができた。彼は借財を払い、さらに田畑を買い求めて弟に与えた。そして、23歳になっていた彼は、一人前の医家になるためには勉学しなければと考え、郷里を去って佐賀に赴き、蓮池町に住む町医・島本龍嘯を訪れた。島本はオランダ医学に興味を持っていたので、玄朴に長崎へ出てオランダ医学を修めるように勧めた。

 蓄財もない玄朴は長崎で、寺男として寺に住み込み、オランダ通詞・猪俣伝次右衛門にオランダ語を習うことになった。猪俣の門には、全国から由緒ある各藩の医家やその子弟が集まり、例外なく恵まれた遊学生活を送っていた。対照的に、玄朴の生活は貧しく悲惨なものだった。だが、彼は寸暇を割いて勉学に励み、同門の者たちとの交際も一切断った。

 1823年(文政6年)、長崎にきたシーボルトを中心に洋学の研究が盛んになっていた。シーボルトの開いた鳴滝塾には多くの日本人学徒が集まってきていた。玄朴は猪俣につき従って鳴滝塾に通い、シーボルトの講義を末席で聴講した。1826年(文政9年)、シーボルトはオランダ商館長に随行して長崎・出島を出発、将軍の拝謁を得るため江戸へ向かった。それを追うように師・猪俣伝次右衛門も妻、息子、娘を従えて江戸へ出発し、玄朴も同行した。この道中、思いもかけない不幸が起こった。駿州・沼津の宿場で師の猪俣が病を発症し亡くなってしまったのだ。玄朴は悲嘆にくれる妻子とともに、浅草の天文台役宅に入った。

 江戸での玄朴は師の息子、猪俣源三郎がオランダ語の教授を務める手助けをしていた。が、1827年(文政10年)、故郷へ帰ることになった。その際、源三郎から天文方の高橋作左衛門に依頼された日本地図を、長崎のシーボルトへ渡すよう命じられたのだ。1828年(文政11年)、浅草の天文台下に住む高橋作左衛門の捕縛によって「シーボルト事件」は公になった。縛につくものが相次ぎ、源三郎も捕吏に引っ立てられ玄朴に対する追及も始められた。ただ、幕府からシーボルト事件に関係があると疑われることを怖れる肥前藩の留守居役の好判断も加わって、貧農の出の玄朴はこのとき奉行所の手前、藩士・伊東仁兵衛の次男・玄朴として、奉行所の取り調べに対応したのだ。そして、奉行所の詮議には、自分はただの使いで、シーボルトに渡した包みについては一切知らぬ-との申し開きを必死で貫き通し、連座を免れた。

 玄朴にとって悪夢のようなシーボルト事件は、この事件で大半のオランダ通詞が処分を受けたことで、結果的には幸運を運んできた。オランダ語を幾分でも知っている玄朴の存在が貴重なものとなったのだ。そして、その年、友人から金5両を借り受けて江戸本所当場町で医業を開いた。さらに、自分の地位を高めるためにも、主がシーボルト事件で捕縛され生活に困窮していた、著名な通詞、猪俣源三郎の妹、照を妻として迎え入れた。

 その後、猪俣源三郎の獄中死、玄朴の実家が火災に遭うなど不幸が続いた。が、たまたまあたり一帯に流行したジフテリアの際、患家を走り回って熱心に治療にあたった彼の懇切な治療態度が人の口にのぼるようになり、訪れる病人の数が増えてきた。そこで、医家らしい伊東玄朴という名前を使うようになった。そして、肥前藩邸にもしきりに出入りし運動した結果、一代限りだが士分に取り立てられ、正式に藩士・伊東仁兵衛の次男、玄朴として名乗ることを許されたのだ。

 このことは彼にとって大きな喜びだったが、彼の富と栄達に対する野望は果てしなかった。彼の最終の望みは、幕府の医家の地位を得ることと、それに伴う富だった。そのため、彼は大医家としての外観を備える必要があると考え、天保4年、高名な大工に依頼して診察所、調薬所、待合所、医学・蘭学の門弟の寄宿室等を合わせた豪壮な大邸宅を建てた。彼の思いは見事に当たった。象光堂と称した玄朴の太医院は物見高い江戸の町人たちの話題になり、患者が殺到した。彼の富は急速に増し、その年彼の得た収入は、金1000両を越えると噂された。門下生の数も百名近くに達した。

 こうして玄朴は太医家としての地位を着々と築き上げ、江戸屈指のオランダ医家と称されるようになった。1843年(天保14年)、肥前藩主・鍋島直正の御匙医に召され、さらに弘化4年には御側医に取り立てられた。また、玄朴は蘭医・大槻玄沢らとともにオランダ医学の優秀性を立証しようと努め、折からの天然痘予防策としての種痘術の大きな効果で、当時幕府で重用されていた漢方医学に大きな打撃を与えることに成功した。

 そんな玄朴が1858年(安政5年)、幕府から召し出された。第十三代将軍・徳川家定の病が篤く、漢方の奥医師たちが手をつけかねているので、江戸随一のオランダ医学の臨床家の玄朴に治療を申し付けることに決定したというのだ。玄朴にとって願ってもない幸運が訪れた。玄朴は協力してくれる医師として蘭医・戸塚静海を推し、治療に従事した。玄朴、静海はその瞬間から奥医師となったのだ。玄朴らは懸命に治療に当たったが、その甲斐なく家定は逝去した。その年、玄朴は法橋から法眼に進み、奥医師として勢威を振るうようになった。そして、1861年(文久元年)、オランダ医家として初めて奥医師最高の地位である法印の座にも就いた。遂に彼の年来の望みは達せられたのだ。

(参考資料)吉村 昭「日本医家伝」、吉村 昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村 昭「長英逃亡」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安藤信正 井伊直弼亡き後の幕政を掌握,公武合体へ和宮降嫁をまとめた人物

安藤信正 井伊直弼亡き後の幕政を掌握,公武合体へ和宮降嫁をまとめた人物

 安藤信正は、寺社奉行・若年寄を経て老中に就任し、1860年(万延元年)、大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺されるや、老中・久世広周(くぜひろちか)とともに幕政を掌握、最高権力者に昇りつめた。そして、公武合体の実を挙げるべく、1862年(文久2年)、孝明天皇の皇妹和宮親子(かずのみやちかこ)内親王と徳川十四代将軍家茂との婚儀を取りまとめた人物だ。だが、信正は1862年(文久2年)、江戸城坂下門外で水戸浪士に襲撃され、井伊直弼に続く幕府要人の襲撃事件で、さらに幕威の低下を招く要因となった。幸い彼は負傷で済んだが、非難を受け、その後老中を免ぜられ、隠居した。意外に知られていないことだが、戊辰戦争では、若い藩主に代わり藩を主導、奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦い敗れた。晩節を汚したかに見えたが、明治維新後、永蟄居処分が解かれた。

 安藤信正は陸奥国磐城平(いわきたいら)藩の第四代藩主・安藤信由の嫡男として、江戸藩邸で生まれた。幼名は欽之進、のち欽之介。元服時は信睦(のぶゆき)、老中在職中に信行、さらに信正へ改名している。別名は鶴翁、欽斎、晩翠。磐城平藩5万石の第五代藩主となり、安藤家第十代当主。生没年は1820(文政2)~1871年(明治4年)。信正は1847年(弘化4年)、父の死により家督を継いだ。1858年(安政5年)、大老・井伊直弼の下で若年寄となった。そして1860年(安政7年)、老中となった。大老・井伊直弼が断行した「安政の大獄」など強硬路線を否定し、直弼が桜田門外で暗殺された後は、老中久世広周と幕政を掌握した。

 信正は、歌舞伎役者のような優男にみえる外見とは裏腹に、果断さと緻密さを併せ持ち、直弼亡き後の難局を公武合体策で乗り切ろうと、難渋した和宮降嫁を取りまとめた。幕末、配下に幕臣として勘定奉行などの要職を務め、新政府軍との抗戦派の急先鋒だった小栗上野介忠順(ただまさ)を登用したのも、この信正の意志で、小栗とも厚い信頼関係にあった。1862年(文久2年)坂下門外で水戸浪士に襲撃され負傷。非難を受け、また女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれて、老中を罷免された。その後、隠居、謹慎を命じられ、5万石の所領のうち2万石を減封された。跡を長男、信民が継いだが、1863年(文久3年)死去したため、甥の信勇を次の藩主に選んだ。

 1868年(慶応4年)、明治政府が立ち上がると、信正は若年の信勇に代わって本領での藩政を指揮した。戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦ったが敗れ、居城の磐城平城は落城した。信正も降伏、謹慎を余儀なくされた。1869年(明治2年)永蟄居の処分が解かれた。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、吉村 昭「桜田門外の変」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

安藤昌益 身分・階級差別を否定し、徹底した平等思想を提唱した人物

安藤昌益 身分・階級差別を否定し、徹底した平等思想を提唱した人物

 安藤昌益(あんどうしょうえき)は、江戸時代中期の医師で独創的な思想家だ。農業を根本としたすべての人間が平等な社会を築くことを主張、徹底した平等思想を唱えたことで知られる人物だ。また身分・階級差別を否定して、すべての者が労働、「直耕」に携わるべきだと主張、これらの思想は後に「農本共産主義」と評された。「直耕」とは鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという意だ。「士農工商」の厳然とした身分制社会だった江戸時代に、農家に生まれながら、これほど徹底した平等思想を唱えた人物がいたこと自体が驚きだ。

 安藤昌益は秋田大館二井田村(現在の秋田県大館市)の農家に生まれた。号は確龍堂良中(かくりゅうどうりょうちゅう)。安藤家の村の肝煎(きもいり=名主)の当主としての名は孫左衛門。代々、当主はこの孫左衛門を名乗った。昌益の生没年は1703(天禄16)~1762年(宝暦12年)。昌益は、当主を継ぐ長男ではなく、また利発だったことから、元服前後に上洛し、仏門に入った(寺は不明)。しかし、仏教の教えと現状に疑問を持ち、そのまま仏門に身を置くことはできなかった。そこで、どういう伝手かは不明だが、医師の味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は後世、方別派に属する医師だ。昌益はここで医師としての修行をした。そして、仔細は詳らかではないが、八戸で開業する以前に結婚し、子ももうけたとみられている。こうして昌益は陸奥国八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し、開業医となった。

 八戸では講演会や討論会などを行い、八戸藩の行事に医師として参加している様子がうかがわれる。1744年(延享元年)の八戸藩の日記には、櫛引八幡宮で行われた「流鏑馬」の射手を昌益が治療したことが記録されている。また、昌益は同年、八戸の天聖寺で講演会、1757年(宝暦8年)にも同寺で討論会を開いたとの記録がある。その後、大館へ帰郷したとみられる。1756年(宝暦6年)、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐ者がいなくなった。このため1758年(宝暦8年)ごろ、昌益は二井田村に一人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れ継がせたが、昌益自身も村に残り、医師として村人の治療にあたった。八戸ではすでに息子が周伯と名乗って、医師として独り立ちしていたからだ。思想家・安藤昌益の名は、出羽国に限らず周辺および関西にも知られていたとみられる。1759年(宝暦10年)前後に、八戸の、昌益の思想の根幹を成す「真営道」(詳細は後述)の弟子たちが一門の全国集会を開催し、昌益も参加している。参加者は松前はじめ、京都、大坂などからも集まり総勢14名。

 ところで、昌益の思想を最もよく表現しているのが、彼の著書『自然真営道(しぜんしんえいどう)』(全101巻)だ。これは、八戸藩主の側医を務めた弟子の神山仙確が昌益の死後、遺稿をまとめた哲学的、政治的論文だ。この内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じるものとされているが、無政府主義(アナーキズム)の思想にも関連性があるという、間口の広さが見受けられる。また、昌益はこの著作の中で、日本の権力が封建体制を維持し、民衆を搾取するために儒教を利用してきたと見なし、孔子と儒教を徹底的に批判した。この著作の発見者、狩野亨吉に「狂人の書」と言わせ、ロシアのレーニンをもうならせたという。

(参考資料)野口武彦「日本の名著⑲安藤昌益」、安永寿延「安藤昌益」

鮎川義介 日本で初めて自動車の量産に取り組んだ先覚者で日産の創業者

鮎川義介 日本で初めて自動車の量産に取り組んだ先覚者で日産の創業者

 鮎川義介(あいかわよしすけ、本名・あゆかわよしすけ)は、昭和初期、大陸での軍事輸送という国策上、国産車が必要になってきた際、陸軍から話を持ちかけられた三井、三菱の財閥が二の足を踏む中、自動車の国産化に名乗りを上げた人物だ。つまり、鮎川は現在の日産自動車のそもそもの創業者、日本で初めて自動車の量産に取り組んだ先覚者だった。鮎川義介の生没年は1880(明治13)~1967年(昭和42年)。義介は1928年(昭和3年)、義弟、久原房之助(くはらふさのすけ)氏が率いて経営不振に陥った久原鉱業を継承し、同社を日本産業と改称。以後、多数の企業の吸収合併を繰り返し、日産コンツェルンを築き上げた。48歳のときのことだ。同コンツェルンには日立製作所、日本鉱業、日産自動車、日本油脂、日本冷蔵、日産化学、日本炭鉱、日産火災、日産生命などが含まれる。

 1933年(昭和8年)、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)より「ダットサン」の製造権を無償で譲り受け、ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立した。53歳のときのことだ。翌年、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称した。1937年(昭和12年)、中国・満州開発を企図する陸軍や、岸信介(当時、満州国政府産業部次長)らの勧めに応じ、日産コンツェルンの本社・本部機能を果たしていた日本産業を満州に移して、満州重工業開発株式会社に改組、義介は総裁に就任した。しかし、経営方針をめぐって陸軍と対立し、1942年同社総裁を辞任した。

 帰国後は東条英機内閣顧問となった。戦後、A級戦犯容疑により拘置された。釈放後、義介は、1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)まで参議院議員を務めた。何事もなければ議員生活はまだ続いていたろう。実は1959年、義介は参議院選挙に立候補し当選した。しかし、同時に当選した次男・鮎川金次郎に選挙違反容疑がかけられ、道義上の責任を取って議員を辞職したのだ。1957年(昭和32年)日本中小企業政治連盟を結成し、総裁を務めた。

 鮎川義介は、山口県氷川郡大内村で元長州藩士・鮎川弥八と母ナカの間に長男として生まれた。明治の元老、井上馨の長姉の孫にあたる。姉スミをはじめ5人の姉妹と1人の弟がいた。父の弥八は、旧江戸幕府時代、長州藩士毛利侯に仕えて190石を支給される中士クラスの武士だった。ところが、明治維新という時代の波に乗り損ねたばかりか、柄にもなく軍人を志した。が、身体虚弱のため挫折、郷里へUターンした。いったん県吏になったが、そこも不満のうちに辞職し、創刊間もない防長新聞社へ入って、校正係兼会計係として勤務する身となった。

 律儀で漢籍に詳しい父親だったが、その半面、社交性に乏しく、片意地でうだつの上がらない不平家でもあった。典型的な貧乏人の子だくさん、うだつのあがらない父親だっただけに、鮎川家は貧しかった。それも尋常な貧しさではなかった。一汁一菜どころか、塩辛い漬物だけで麦の混じった飯をかき込むという食事だった。家は貧しいが、祖母の常子は明治政府の高官、井上馨の姉だった。その井上が、義介の後見役を引き受けてくれたため、彼はその後ひけ目を感じることなく上級学校に進むことができたのだ。そして、この祖母が義介を認め、励まし続けた。それが、義介のやる気の基になった。当時一流の教師が教鞭をとっていた山口高等学校(現在の山口大学の前身)に入学した義介は学費の援助も受けられた。

 三井銀行の顧問格で、一度野に下った井上馨は、先収社(せんしゅうしゃ)という貿易事業を営んだ経験を踏まえ、実業と工業がこれからの日本を発展させるための鍵になると考え、義介に技師=エンジニアの道を勧めた。そして、義介は井上のアドバイス通り東京帝国大学工学部機械科に入学。衣食住のすべてを井上に委ね、エンジニアの道を目指した。卒業寸前、血を吐き一頓挫はあったが、24歳で卒業した鮎川義介は、保護者の井上馨の勧めで三井へ入ることになった。が、面接から戻った義介は三井への入社辞退を申し出た。

 義介は井上に、いずれは実業家となって、世に立ちたいと思いますが、まず産業とは何か、工場とはどんな所かを知るために、一職工となって工業の基本から学びたい-とその理由を話し、彼が目星をつけた芝浦製作所(現在の東芝)を井上に紹介してもらった。東大卒の学歴を隠して、見習い工として就職した。日給48銭の見習仕上工は、朝早くから夕方まで、一日中立ち通しで働かされた。約2年間の実地学習の仕上げとして、義介は有志を募って東京中の工場見学に精を出した。同志が脱落していく中、彼は80近い工場を回り、日本で成功している企業はすべて欧米の模倣によるものということが分かった。そこで、義介はその西欧の状況を体験すべく渡米。約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働いた。

 米国から帰国後、1911年(明治42年)、井上の支援を受けて福岡県北九州市戸畑区に戸畑鋳物株式会社(現在の日立金属)を創立。29歳のときのことだ。これが実業家・鮎川義介のスタートだった。マレブル(黒芯可鍛鋳鉄)継手を製造した。1921年(大正10年)、当時としては珍しい電気炉による可鍛鋳鉄製造開始。1922年(大正11年)、大阪に株式会社木津川製作所(桑名)を設立(現在の日立金属、三重県桑名工場の前身)。1924年(大正13年)、農業用・工業用・船舶用石油発動機(現在のディーゼルエンジン)製造販売開始した。

 2005年(平成17年)、鮎川弥一(義介の長男)の長男・鮎川純太氏(義介の孫)がタレント、杉田かおると結婚(その後、離婚)し話題となった。

(参考資料)邦光史郎「剛腕の経営学 鮎川義介」

阿部忠秋 家光・家綱時代 松平信綱と対極にあった実務・実力派老中

阿部忠秋 家光・家綱時代 松平信綱と対極にあった実務・実力派老中

 阿部忠秋は、徳川三代将軍家光の小姓を務め、そのまま老中に出世した人物だ。彼は、当時の失業・浪人問題や、社会治安対策に相当思い切ったことをやった、徳川幕府の安定期に出てきた新しいタイプの閣僚だった。三代家光、四代家綱の2代にわたって老中を務めた。同じく老中の阿部重次は従兄にあたる。忠秋の生没年は1602(慶長7)~1675年(延宝3年)。 阿部忠秋は父・阿部忠吉(阿部正勝の次男)、母・大須賀康高の娘の次男として生まれた。名ははじめ正秋、1626年(寛永3年)に徳川二代将軍秀忠の諱を一字拝領し、忠秋と名乗った。長兄の夭折により、家督を相続した。息子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、従兄の阿部正澄(重次の兄)の子で、甥の阿部正令(まさよし、後に正能と字を改める)を養子として迎えた。

 忠秋は1651年(慶安4年)、由比正雪や丸橋忠弥らが起こした「慶安事件」後の処理では、浪人の江戸追放策に反対して就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。その見識と手腕は明治時代の歴史家、竹腰与三郎の『二千五百年史』で「政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」と高く評価されている。家光の側近の中で、性格が対照的だったのが松平信綱と、この阿部忠秋だ。信綱は“知恵伊豆”といわれ、頭が鋭く、口も達者で、動きもきびきびして、処世術もかなりうまいというタイプだった。これに対し、忠秋は“石仏の忠秋さま”といわれるくらい、ほとんど口も利かない、動きもゆっくりし、とくに処世術にかけては全くだめだった。

 信綱と忠秋、二人の性格を表すのにぴったりなこんな話がある。家光は猟が好きだった。よく鳥や獣を捕まえた。そして、獲物をみんなで食べるのが楽しみだった。ある日、鎌倉河岸の堀にカモがたくさん群れていた。これを見た家光は家臣たちに「カモを捕まえろ」といった。だが、銃がないので、まごまごしていると、家光は「石で打て!」といった。ところが、道はよく清掃されていて石もない。困った家臣たちは、そばにいた忠秋と信綱を見た。が、忠秋はぶすっとしたまま知らん顔をしていた。信綱は突然、道路わきの一軒の魚屋を指差し、「あの店先にハマグリがある。あれを石の代わりにしろ」と叫んだ。家臣たちは走り出し、魚屋から手に手にハマグリを掴んで堀に投げ始めた、魚屋の主人は呆気に取られて、見守っていた。カモがたくさん捕れ、家光も家臣もワイワイ言いながら行ってしまった。忠秋だけが残った。信綱が振り返って聞いた。「阿部殿、どうされた?」と。忠秋は、何でもない、と首を振った。全員が立ち去ると、忠秋は魚屋に行った。そして、店主に「すまなかったな、ハマグリの代金を払う。いくらだ?」といった。

 店主は驚いて、「とんでもない!将軍様のお役に立っただけで光栄でございます!代金は要りません」と手を振った。忠秋は「そうはいかない。お前たちの商売ものを石の代わりにしたのだ。払わせてくれ」といって、きちんと金を払った。そして、このことは城に戻っても、一切誰にも言わなかった。城に戻ると、カモ汁で大宴会だった。酔った家光が小姓の一人に、「お前、櫓から飛んでみろ」といった。小姓は真っ青になった。高い櫓から飛び降りれば死んでしまう。助けを求めるように回りを見回した。が、みんな目を合わせるのを避けた。「早く飛び降りろ!」家光はいら立つ。このとき忠秋がふいと立ち上がった。そして、廊下に出ると納戸から傘を一本出してきた。そして、小姓に突き出した。「おい、これをさして飛び降りろ」といった。座はどっと笑い出し、家光も苦笑した。そして「もうよい」と手を振った。

 が、これは家光にとっては痛烈な戒めだった。忠秋は庶民の食べるハマグリを石の代わりに使って、その代金も払わずにさっさと帰ってしまう驕り高ぶった家光の神経に、一撃を加えたのだ。まして、部下の命を座興の一つにするなどとは、とんでもないことだ、と忠秋は腹の中で怒っていたのだ。忠秋と信綱の性格を表すこんなエピソードもある。家光が、ある寺の僧を越前(福井県)の寺に転勤させようとしたことがあった。この命令を伝える役に二人が命ぜられた。信綱は理路整然と家光の命令を伝えた。しかし、僧はじっと考え込み、やがて「お話はよく分かりましたが、なぜ私が?」と聞き返した。信綱はむっとし「あなた以外いないからです」と応じた。

僧は「そんなことはありません。ほかにも適任者はたくさんおります」「いないからこそ、あなたにお願いしているのです」「ご辞退します」「上意ですぞ!」「いかなるお咎めを受けても、この転勤だけはお受けできません」僧も強情だ。信綱の眼は怒りに燃えた。が、こういう疑問にきちんと答えなければ、納得は得られない。まして、信綱のように権柄(けんぺい)ずくで押し付ければ、よけい反発する。空気は険悪になった。

 このとき、忠秋が「ご坊」と僧を見た。「はい」「あなたは先程、いかなるお咎めを受けてもと申されましな?」「申しました。どんな罰を加えられようとも、お受けできません」「よろしい」忠秋はニコリと笑った。そして「あなたは将軍様の命に背いたので、罰を科します。罰として越前の寺へ転勤を命じます」「えっ?」と驚いたのは僧よりも信綱の方だった。呆れて忠秋を見た。忠秋はまたいつもの石仏の顔に戻っていた。僧は苦笑した。そして、こう言った。「これは、知恵伊豆さまよりも阿部さまの方が一枚上ですな」僧は円満に越前に転勤して行った。

 簡単に忠秋の出世の足跡をたどると、1624年(寛永元年)、父の遺領6000石を継ぎ、1626年(寛永3年)加増され、1万石の大名となった。そして1635年(寛永12年)下野壬生藩2万5000石に転封され、老中となった。1639年(寛永16年)、武蔵忍藩5万石、1647年(正保4年)6万石、1663年(寛文3年)8万石となった。1666年(寛文6年)、老中を退任、1671年(寛文11年)隠居した。

(参考資料)童門冬二「人間の器量」、徳永真一郎「三代将軍家光」、綱淵謙錠「徳川家臣団」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

ジョン万次郎 漂流してアメリカに渡り教育を受け、幕府通訳を務めた英才

ジョン万次郎 漂流してアメリカに渡り教育を受け、幕府通訳を務めた英才

 ジョン万次郎が、アメリカ東部フェアヘブンの町に上陸したのは、1843年(天保14年)春だった。当時、16歳になったばかりの四国土佐出身の漂流漁民・万次郎のことを、町の人々はジョン・マンと呼んで親しんだ。幕末、彼の乗り組んだ小さな漁船が嵐に遭わなかったら、この少年の名は恐らく歴史に記録されることはなかったに違いない。ジョン万次郎(中浜万次郎)の生没年は1827(文政10)~1898年(明治31年)。

 ジョン万次郎は1827年(文政10年)足摺岬に近い土佐国幡多郡中浜に生まれた。生家は代々の漁師だったが、万次郎が9歳のころ父を失ったため、彼は付近の漁師に雇われては、鰹釣りの手伝いなどをして家計を助けていた。高知城下に近い高岡郡宇佐浦の漁師、筆之丞の持ち船に乗り組んで、筆之丞、五右衛門、寅右衛門、重助の4人の仲間とともに土佐湾を出漁したのは、万次郎14歳の1841年(天保12年)正月だった。この日を境に、万次郎は10年にわたる数奇な漂流生活に巻き込まれるのだ。

 出漁3日目、嵐に巻き込まれた万次郎たちの漁船は、黒潮に乗って東へ東へと流され、やがて無人島に漂着した。伊豆南方の孤島、鳥島だ。5人の漂流民は島の洞穴で雨露をしのぎ、アホウドリを食べて命をつなぐこと40日余り、たまたま沖を通りかかったアメリカの捕鯨船に救助されたのだ。

万次郎は、その船長ホイット・フィールドの故郷、フェアへイブンで徹底的にアメリカ的な教育を受けた。万次郎にはもともと語学の才能があったようで、彼はたちまち英語をマスター、現地で高等学校まで行った。彼の旺盛な知識欲とその学力の高まりには、アメリカ人たちも驚いたほど。

彼はアメリカの政治、経済はじめ様々な制度を見聞し学び、いまでは23歳の青年になり、捕鯨船の一等航海士として押しも押されもしない船乗りになっていた。だが、彼にはどうしても諦めきれない思いがあった。日本への帰国だ。アメリカの進んだ制度や仕組みをどうしても日本に伝えたいと考えたのだ。そして1851年(嘉永4年)、ペリー来航の2年前、彼は帰国した。

鎖国下の幕末だったが、幸運にも彼は幕府に通訳として採用された。それは幸運が重なった結果だった。まず最初に上陸したのが、開明派の島津斉彬が藩主だった薩摩だったことだ。また、その当時の幕府の老中首座が、斉彬と仲のよかった阿部正弘だったことだ。そのため、彼は見聞したことは精細に説明を求められることはあっても、罪に問われることはなかったのだ。

大黒屋光太夫の例をはじめ、江戸時代、漁師が嵐に遭い遭難、漂流して外国に漂着した事例は何件かあるが、鎖国令のもとで、帰国が許されても軟禁状態に置かれたり、日本の社会にうまく溶け込めずに、半ば隔離された状態で後の生涯を送るケースも少なくない。だが、彼の場合は数少ない成功例といってもいいのではないか。

 米フェアへイブンで、万次郎は「何でもみてやろう」という旺盛な精神を持っていた。だからアメリカのいろいろな制度に注目した。とくに彼の関心を惹いたのは政治だ。政府の要人は全市民の選挙によって選ばれる、任期は4年だ。どんな身分の者でも大統領になれる。日本のような身分制度はない。

議会があって、これが市民の代表として市民のニーズを掲げ、互いに議論する。経済は資本主義で行われている。海外事情に飢えていた幕末の日本にとって、万次郎は大きな話題となったろう。島津斉彬や阿部正弘に会った際、彼はこうしたアメリカの様々な仕組みや制度を余すところなく語ったに違いない。

 島津斉彬からジョン万次郎のことを聞かされて、老中阿部は「ぜひ、その万次郎の話を聞きたい」といった。当時、これまで国際語だったオランダ語は、その座を滑り落ち、英語に変わっていた。しかし、日本には英語が読めたり話せたりする人間はほとんどいなかった。そこで、阿部は万次郎を幕府の通訳に使えないかと考えたのだ。万次郎は幕府に召し出され、新しく設けられた蕃所調所(ばんしょしらべしょ)に通訳として採用された。

 老中阿部は、万次郎を土佐藩に預けた。だが、土佐藩は万次郎の始末に困り、当時海外のことに強い関心を持っているといわれていた高知の画家、河田小龍(かわだしょうりゅう)に預けた。知識欲が旺盛な河田は、毎日飽きずに万次郎の話を聞いた。河田は万次郎から聞き取りした内容を著作にまとめ、画家だけに挿絵をいれて、藩に提出している。そして、この河田小龍のところによく遊びにくるのが坂本龍馬だった。この小龍が後年、龍馬が「亀山社中」(のち「海援隊」)を始めるヒントを与えたといわれる。

 ジョン万次郎は、非常に適応力に富んだ人物だった。帰国直後、彼は日本語を忘れていた。また元来、日本語の読み書きはできなかった。ところが、彼は当時の日本の多くの知識人に取り囲まれるわけで、帰国当初はコミュニケーションにも苦労したことだろう。しかし、彼は短期間に適応し、知識の力で階段を駆け登るようにステータス(地位)が上がっていく。それで最後は開成学校(後の東京大学)の教職に就いている。生来の図抜けた適応力が、土佐の雇われ漁師を、異例の大学教授にまで押し上げる原動力となったのだ。

(参考資料)安岡章太郎「日本史探訪⑱海を渡った日本人」、童門冬二「江戸商人の経済学」、津本 陽「椿と花水木」

細川勝元 名門出身の若き陰謀家で、室町・幕政に影響力を及ぼし続ける

細川勝元 名門出身の若き陰謀家で、室町・幕政に影響力を及ぼし続ける

 細川勝元は13歳で家督を継承、16歳で管領職に就任、以後3度にわたり、通算23年間も管領職を歴任し、室町幕府の幕政に影響力を及ぼし続けた人物だ。また、彼は京の地を焦土と化した、不毛の戦役、「応仁の乱」の東軍の総大将だったことは周知の通りだ。細川勝元は、三管領の一つ、細川氏嫡流の父・細川持之の嫡男として生まれた。幼名は聡明丸。通称は六郎。正室は山名宗全の娘、春林寺殿。勝元の生没年は1430(永享2)~1473年(文明5年)。

 細川氏は初代、義秀が三河国額田郡細川郷(現在の岡崎市)に居住したところから、地名を氏とした。足利尊氏に従って軍功があり、とくに六代・頼春は尊氏の側近となり、阿波、備後の守護に任命された、以後、細川氏は阿波、讃岐、摂津、丹波など畿内周辺と四国7~8カ国の守護職となり、惣領家は室町幕府の三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)の筆頭となった。

 勝元は1442年(嘉吉2年)、父が死去したため13歳で家督を継承した。このとき室町幕府の第七代将軍・足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護職となった。1445年(文安2年)、畠山持国に代わって16歳で管領職に就任すると、以後3度にわたって通算23年間も管領職を歴任した。勝元が管領職にあったのは1445年(文安2年)から1449年(宝徳元年)、1452年(享徳元年)から1464年(寛正5年)、1468(応仁2年)から死去する1473年(文明5年)までだ。

 勝元は当初、山名宗全(持豊)の女婿となることで、宗全と結んで政敵・畠山持国を退けるなど、宗全との協調によって細川氏の勢力維持を図り、幕政の実権を掌握した。しかし、「嘉吉の乱」(1441年)で没落した赤松氏の再興運動が起こると、勝元はこれを支援したため、赤松氏と敵対関係にある宗全とも対立するようになった。また、勝元は畠山政長と畠山義就による畠山氏の家督争いには政長派を、斯波義廉と斯波義敏の家督争いには義敏派を支持するなど、宗全とことごとく対立。さらには足利義視と足利義尚の、八代将軍・足利義政の後継争いにおいて、勝元は義視を支持。山名宗全は義尚とその母・日野富子に与したため、両派の対立は一層激化した。

 これらは、すべて名門出身の若き陰謀家・細川勝元が、山名宗全の勢力拡大を抑えるため、実は意識的に取った戦略だった。そして、この対立が、やがて有力守護大名を巻き込み、「応仁の乱」を引き起こしたことは周知の通りだ。いずれにしても、1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の11年間にわたる「応仁の乱」により、京の都は廃墟と化した。義理の父親で、26歳年上の山名宗全に対しては、徹底して陰謀家あるいは策謀家の顔をみせた勝元だが、禅宗に帰依し、京都に龍安寺、丹波国に龍興寺を建立している。また、和歌・絵画などを嗜む文化人でもあった。医術を研究して医書『霊蘭集』を著すなど多才だったという。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」、童門冬二「日本史に刻まれた最期の言葉」

千葉周作 北辰一刀流の創始者で 水戸藩の剣術師範を務める

千葉周作 北辰一刀流の創始者で 水戸藩の剣術師範を務める

 千葉周作は江戸時代、先祖伝来の「北辰無想流」を発展させた「北辰一刀流」の創始者で、千葉道場の総師範だ。その道場、玄武館は幕末三大道場の一つとして知られ、この北辰一刀流門下から多数の幕末の著名人を輩出した。千葉周作の姓は平氏。名字は千葉、通称は周作、諱は成政。生没年は1793年(寛政5)~1856年(安政2年)。出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の2つの説がある。先祖をたどると、桓武平氏・良文の流れで、坂東八平氏の名門の一つ千葉氏で、千葉常胤にたどりつく。

 周作は7、8歳のころから父について家伝の北辰流を習い、その偉才ぶりを発揮した。15歳のとき、一家は江戸を目指して出郷。水戸道中松戸宿(現在の千葉県松戸市)に落ち着き、父は浦山寿貞(じゅてい)と号して馬医に、周作・定吉兄弟は中西派一刀流の浅利又七郎義信のもとに入門した。やがて非凡の才を認められて、江戸の宗家、中西忠兵衛子正(つぐまさ)に学び、寺田宗有(むねあり)、白井亨(とおる)、高柳又四郎らの指導を受けて、修行3年で免許皆伝を許された。

 1820年(文政3年)、周作は27歳のとき北関東から東海地方への廻国(かいこく)修行を試み、各流各派の長短得失を知り、伝統的な一刀流兵法を改組する必要性を痛感した。そこで、周作は1822年(文政5年)、北辰・一刀流を合わせ、さらに創意を加えて「北辰一刀流」を標榜し、日本橋品川町に道場を開き、玄武館と称した(後に神田於玉ヶ池に移転した)。この玄武館は、初代・斎藤弥九郎が1826年(文政9年)九段下の俎橋付近に開設した練兵館(神道無念流)、桃井春蔵が京橋河岸に開設した士学館(鏡新明智流)とともに、幕末江戸三大道場と呼ばれた。これらの三大道場にはそれぞれ特徴があって、練兵館は「力の斎藤」、士学館は「位の桃井」、そして玄武館は「技の千葉」と称された。

ところで、周作の弟、定吉は京橋桶町に道場を持って、「桶町千葉」と称された。北辰一刀流門下から坂本龍馬、山岡鉄太郎(後の鉄舟)、清河八郎(浪士組幹部)、さらに新選組幹部の藤堂平助、山南敬助、伊東甲子太郎らを輩出している。また、練兵館からは桂小五郎(後の木戸孝允)、高杉晋作ら長州藩士を中心とした面々、士学館からは武市半平太、岡田以蔵らが出ている。

 北辰一刀流は精神論に偏らず、合理的な剣術だったため人気を得た。それまでの剣術は、習得までの段階が8段階で、費用も時間も多くかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は主に竹刀を使用し、段階を3段階と簡素化したことが大きな特徴だ。坂本龍馬は安政年間、この江戸・千葉定吉道場で剣術修行した。1856年(安政3年)8月から1858年(安政5年)9月まで籍を置いた。そして、千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法、一巻」を授かっている。

 1835年(天保3年)、周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。また、弟の定吉は鳥取藩の剣術師範となっている。

(参考資料)司馬遼太郎「北斗の人」、津本陽「千葉周作」、宮地佐一郎「龍馬百話」