藤原頼長 貴族政治立て直しのため“暴走”したが、度外れた勉強家

藤原頼長 貴族政治立て直しのため“暴走”したが、度外れた勉強家

 藤原頼長(ふじわらのよりなが)は平安時代後期の政治家で、藤原北家の嫡流、摂関家という名門再興を志すとともに、貴族政治の立て直しを図った人物だ。ただ、その思いが強すぎて、その施政は呪い・裏切り・陰謀など手段を選ばず“暴走”してしまったきらいがある。そのため、恐怖の左大臣、「悪左府(あくさふ)」と称された。反面、1136年(保延2年)、17歳で内大臣、1149年(久安5年)、30歳で左大臣となった頼長は、いわば“斜陽名家”の貴公子であって、決してカネや人脈だけで出世したわけではない。彼は日本一の大学生といわれたほどの勉強家だったのだ。

 藤原頼長は、父・藤原忠実、母・土佐守藤原盛実の娘の子として生まれた。幼名は菖蒲若(あやわか)。頼長は父忠実に愛され、父の強力な後押しで、兄の関白・忠通をさし措いて、藤原氏長者・内覧として執政の座に就いた。だが、鳥羽法皇の信頼を失って失脚。そこで、頼長は鳥羽法皇により譲位させられていた崇徳上皇に接近、政権奪取を図って後白河天皇、兄・忠通と対立したが、「保元の乱」で敗死した。生没年は1120(保安元)~1156年(保元元年)。

 頼長が執政として返り咲くための、最初で最後の決戦の場が「保元の乱」だった。ここで彼はメンツ、あるいはタテマエにこだわり、勝機をみすみす逃してしまったのだ。『保元物語』によると、頼長は崇徳上皇を擁し、後白河天皇に対して兵を挙げたのだが、源為朝(みなもとのためとも)の夜襲の建議を退けてしまった。そして、後白河天皇、兄・忠通方から逆に夜襲を受け、上皇方を敗戦に導いてしまったのだ。王統の争いに、夜襲などという卑怯な手は使えないとの判断からだった。絶対に勝つ、そのためにはどのような作戦も取る-といった必死な姿勢はなかったのだ。

 「保元の乱」(1156年)の構図を記すと、後白河天皇と崇徳上皇の対立で、関白・藤原忠通(ただみち)と左大臣・頼長の争いがこれにからんでいた。天皇方に馳せ参じた武士は、平清盛や源義朝(頼朝の父)など800。対する上皇方は平忠正や源為義など、500にも満たない。そこで急遽、為義は九州・大宰府にいた息子の為朝を呼び寄せた。忠通と頼長は兄弟、忠正と清盛は叔父甥、為義と義朝は親子だ。

 この戦の大本の原因は、白河法皇が養女の藤原璋子(しょうし)を孫の鳥羽天皇の中宮とした、1118年(元永元年)にまでさかのぼる。このとき璋子は白河法皇の子を身籠っていた。生まれたのが顕仁(あきひと)親王だ。鳥羽天皇にとって名目上は長男にあたるが、実質的には祖父の子だから叔父にあたる。そのため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子(おじご)」と呼んで憎悪した。

 しかも、白河法皇は1123年(保安4年)には、21歳の鳥羽天皇を廃し、わずか5歳の顕仁親王を即位させ崇徳天皇とした。このため、鳥羽上皇の憎悪は深まり、1141年(永治元年)に崇徳天皇を廃し、寵姫、美福門院得子との間に生まれた体仁(なりひと)親王を近衛天皇とした。

 近衛天皇が1155年(久寿2年)17歳という若さで崩御すると、崇徳上皇は自分が再び皇位に就くか、わが子の即位を望んだが、鳥羽法皇はその希望を踏みにじり、自分の第四子、雅仁(まさひと)親王を皇位に就けた。後白河天皇だ。そのため、崇徳上皇は後白河天皇を激しく憎んでいた。病床の鳥羽法皇の生死いかんで、即、戦になりかねない状況にあった。

 そして開戦。いったんは敗色濃厚となった天皇方が、頼長が退けた夜襲を決断、これが勝敗を分けた。乱後の処理は陰惨を極めた。首謀者の頼長は、合戦の最中に首を射抜かれ、奈良まで落ち延びて死んだ。兄・忠通と対立し、最後は父・忠実にも見放された、寂しい生涯だった。崇徳上皇は捕えられ、讃岐に幽閉された。上皇方についた武士の大半は斬られた。しかも、清盛には平氏を、義朝には源氏を斬らせるというむごい仕打ちだった。

 ところで、慈円がその著書『愚管抄』で頼長を「日本第一の大学生(だいがくしょう)」と評したほど、頼長は古今稀な、博学な政治家だったが、人に厳しく、行動にもバランスを欠いていた。頼長が残した日記『台記(たいき)』は、異色の日記だ。この『台記』には本来、絶対に秘すべきことが堂々と、あるいは露骨に語られている。彼の召使の国貞(くにさだ)を殺した下部(しもべ)が殺されたことが記され、その注で実は私が家来に命じて殺したのだ-と告白しているのだ。関白・忠実の最愛の次男の左大臣の仕業なら、罰せられるようなことはない-とタカをくくっていたのか。

また、この日記には同性愛、男色の記述が多い。それは当時の貴族として、とりわけ不倫なことではなかったのだが、鳥羽上皇、後白河天皇、頼長の父、忠実、兄・忠通、忠雅と頼長とが男色愛好者だったという。それだけに、当時の人間関係を考えるには、この男色関係を的確に把握する必要があろう。

 こうした異常な性癖の一方で、頼長は度外れた勉強家で、牛車の中にすら『太平御覧(たいへいぎょらん)』など厖大な巻数の書籍を持ち込み、禁中への行き帰りに、揺れる車内で読書三昧に耽ったといわれる。旅にまで本を離さず、抜き書きや校合に夜を徹することもしばしばあったという。1136年(保延2年)、17歳で内大臣に任ぜられて以来、筆を起こし1155年(久寿2年)までかけ、既述した、12巻にわたる『台記』を著している。これは禁中の諸儀式、故実、摂関家の一員である頼長自身の、公私にわたる進退や動静を詳述した漢文体の日記だ。今日なお、これが根本史料の一つとして、平安朝史の研究に役立っている。

 そんな頼長だけに、蔵書は夥しい数になったため1145年(久安元年)、自ら設計して立派な書庫をつくった。彼の威勢、財力からみれば、別に驚くことでもなかったろうが、防火対策はもちろん防湿・通風にも配慮された設備が施されていたという。

(参考資料)安部龍太郎「血の日本史」、梅原 猛「百人一語」、杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

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